おい、どうしたんだよ。今日のお前変じゃない?」
引きずられるように彩人の部屋まで帰って来てから、ようやく解放された。
「別に。どうもしてない」
「いやいや、どうもしてないならなんで犬井にあんなに突っかかったんだよ」
こちらを見ようとしない悠介の背中に話しかける。シャツの下の肩甲骨が浮き上がり、窓から射す西日で背中に影が出来て見えた。
「文化祭」
「え?」
文化祭がどうした。
「俺が誘ってぜんぜんのってこないのに、犬井の誘いにはほいほいのってさ。おまけに学園物が読みたいって言われてまんざらでもなさそうだった。前はあんなに嫌がってたくせに」
「なんだそんなことか」
「そんなことじゃない」
悠介がゆっくり振り返る。
悠介の顔は夕陽に染まり、その瞳の奥にもゆらりとオレンジ色が映り込んでいた。
「俺が読んで感想伝えてもあんまり嬉しそうじゃないのに、今日犬井にはあんなに嬉しそうな顔してた」
小さい頃によく見た心細そうな表情をしていた。悠介を一人残して彩人が外に遊びに行く時の。
「でも、拗ねなくても。そりゃあ、いつも読んでくれる悠介には感謝しているけれど、やっぱり小説を褒められたり好きだって言われると嬉しいだろ」
「俺以外の人に好きって言われて嬉しいんだ」
「どこに突っかかってるんだよ。意味分かんね」
「彩人の浮気者」
「はあ? 浮気どころかむしろ本命すらいないんだけど」
「もういい。彩人には俺の気持ちなんか分かんない」
悠介はそう吐き捨てると、制服のまま彩人のベッドにもぐりこんだ。布団がこんもりと山を作る。これも小さい頃からの悠介のくせだ。喧嘩すると必ず布団のなかに籠城するのだ。
「ああ、全然分からないよ」
なんで未だにこんなに彩人に執着しているのか、とか。なんで未だに悠介の中で彩人がゆるぎなく一番なのか、とか。
「もう好きにしろ。気が済むまでそこで山になってろよ」
「……風林火山」
「あほ」
ため息をつく。制服からふわもこパジャマに着替えて机に向かうと、小説の設計図である手書きのプロットを修正するために万年筆とノートをを取り出した。文豪に憧れて「まずは形から入ろう!」と中学生の時に買ったのが原稿用紙とこの万年筆だった。しかし、令和の時代に手書き原稿を書くわけもなく、使用場面はかなり限定的である。
大学ノートにペン先を滑らせると、線が掠れた。ちっと舌打ちをする。
万年筆はインクを瓶から吸い上げて補充する必要があるが、不器用な彩人は一度も上手く出来たためしがない。手をインクまみれにするか盛大に服に染みを作る彩人を見かねた悠介がいつもインクの補充をしてくれるのだが。
「あのさ、悠介。インクが――」
「やだ。犬井にやってもらえばいいじゃん」
振り返り、ため息をつく。悠介はまだ動かざること山のごとく布団から頭と手だけ亀のように出してスマホを扱っている。どうやらもうちょっと拗ねていたいみたいだ。仕方なく万年筆を置いてやや強引に布団を捲ると、隣に体をぎゅうぎゅうと押し込んだ。
「狭い」
「ちょっと詰めろよ。俺のベッドなんだから」
悠介は彩人に背を向けたまま、ベッドの端に体を寄せた。
顔は見えない。ただ、点と点で触れる背中越しに息遣いと体温が伝わって来る。それだけじゃなくて、スマホに集中しているのはフリだけで、実は彩人の気配に神経を集中させていることも、仲直り(というほど揉めたわけでもないけれど)をする機会を伺っていることも。
「ほら。ふわふわだぞ。『ふわもこ兎』お前も好きなんだろ」
「……別に」
「ふうん。でも、これ本当に柔らかくて暖かいぞ。兎の毛皮を剥いで被ってるみたいだ」
返事はない。こういう時に折れて歩よるのはいつも彩人のほうだ。普段は温厚で彩人否定することなどない悠介だが、一度へそを曲げると意外と面倒くさい。
「お前が何に腹を立てているのか知らないけどさ」
毛布に向かって呟く。
「俺は小説家になって色んな人に自分の作品を読んでもらいたいって思ってる。出来れば月波はるかみたいに高校生のうちに商業デビューしたい」
窓の外では夕焼けの上に乗っかった夜がどんどん広がっていき、部屋の中も少しずつ薄暗くなる。
「でも俺が小説を書き始めたのは、悠介の影響だよ、間違いなく」
もぞりと背中で山が動く。
「悠介がいなかったら、今俺は小説書いてない」
目を輝かせて彩人が教えた本を読んでいた悠介。もっと喜ばせたい、楽しませたい。ためしに自分で話を作って聞かせてみると、続きを聞きたいとせがまれた。
それが、彩人の小説の原点だ。これから先幸運にもデビュー出来たとしても、どんなにたくさんの人に読まれるようになったとしても、彩人が作る物語は全てがその始まりの一文字は悠介のための物語だ。
「だから、お前が俺の中で特別」
ああもう何言ってるんだ。こんなこっぱずかしいこと。でも、そうでもしないと悠介の機嫌が直りそうにないし。
「でも、俺より月波はるかのほうが好きじゃん」
悠介がぽつりと呟く。
「太宰はいいよ、生きてる俺の勝ちだから」
「お、おう」
「でも月波はワンチャン会う可能性もあるでしょ? それに犬もこれからずっと付きまとってきそうな気がする。なんてったって犬だし」
犬井のことだ。ていうかナチュラルに犬扱いすんな。
「なんか、むかつく。俺以外の奴を彩人がちやほやしてるの」
「無茶言うなよ」
「ちやほやされて喜んでいる彩人を見るのも嫌だ」
呆れてため息をつく。もちろんそれは悠介に伝わって、触れる背中が強張るのが分かった。
「悠介はどうしたいんだよ。俺の夢応援してくれてるんじゃなかったのか」
「応援してるよ。応援しないわけないじゃん。でも、皆の彩人になるのも嫌だ」
「なんだよそれ。思春期か」
もうそれには返事は無かった。
昔は犬っころのように遠慮なくくっついてひっつきもっつき眠っていった。それが一つ年を取るごとに少しずつ離れて今は点だけで触れている。いつかもっと離れて、同じベッドに入ることもなくなるのかもしれない。振り向いても見えないほどの距離まで離れてしまうのかもしれない。
高校を卒業するまで、あと一年ちょっと。進学にしろ就職にしろ、今みたいに過ごすことはなくなるだろう。
部屋の中にも夜が忍び込んできて、スマホの明かりだけがうっすらとあたりを照らす頃。スプリングがわずかに浮いて、悠介がこちらを振りかえる気配がした。
人間の生き物としての本能かもしくはその血に流れる農耕民族の習性か、暗くなると自然と眠気がやってくる。
「もう寝た……?」
返事はしなかった。実際、もう意識は暗闇に蕩けて半分夢の中だ。
「ふふ、柔らかい」
背中に触れる気配がした。そして、かちゃりと眼鏡を外す音。眠気と背中に触れる温もりにに勝てず彩人の意識は霧が視界に立ち込めるこように急に遠のいていく。
次に目を覚ました時には、まだ青味のグラデーションが強かったはずの夜の色が、すっかり漆黒の闇に変わっていた。ふと横見ると、毛布のふくらみはぺしゃんとつぶれて、いるはずの彩人はいなくなっていた。
寝る時にはついてなかったデスクのスタンドライトがついているのは、寝ぼけた彩人がンベッドから転げ落ちることを心配してのことだろう。
ベッドから降りてふらふらと近づくと、年筆が目に入った。持ち上げると、スケルトンのボディーの中で充填されたインクが揺れる。
「なんだ、インク入れてくれたんだ……」
長い指が万年筆を丁寧に扱いインクを吸い上げる様を想像すると、変な時間に寝てしまったせいでぼんやりしていた頭が急に冴えた。
ノートの上に滑らせる。ブルーブラックのラインがノートの上を滑り、スタンドの明かりできらりと光ったあと一瞬で紙に滲んだ。
引きずられるように彩人の部屋まで帰って来てから、ようやく解放された。
「別に。どうもしてない」
「いやいや、どうもしてないならなんで犬井にあんなに突っかかったんだよ」
こちらを見ようとしない悠介の背中に話しかける。シャツの下の肩甲骨が浮き上がり、窓から射す西日で背中に影が出来て見えた。
「文化祭」
「え?」
文化祭がどうした。
「俺が誘ってぜんぜんのってこないのに、犬井の誘いにはほいほいのってさ。おまけに学園物が読みたいって言われてまんざらでもなさそうだった。前はあんなに嫌がってたくせに」
「なんだそんなことか」
「そんなことじゃない」
悠介がゆっくり振り返る。
悠介の顔は夕陽に染まり、その瞳の奥にもゆらりとオレンジ色が映り込んでいた。
「俺が読んで感想伝えてもあんまり嬉しそうじゃないのに、今日犬井にはあんなに嬉しそうな顔してた」
小さい頃によく見た心細そうな表情をしていた。悠介を一人残して彩人が外に遊びに行く時の。
「でも、拗ねなくても。そりゃあ、いつも読んでくれる悠介には感謝しているけれど、やっぱり小説を褒められたり好きだって言われると嬉しいだろ」
「俺以外の人に好きって言われて嬉しいんだ」
「どこに突っかかってるんだよ。意味分かんね」
「彩人の浮気者」
「はあ? 浮気どころかむしろ本命すらいないんだけど」
「もういい。彩人には俺の気持ちなんか分かんない」
悠介はそう吐き捨てると、制服のまま彩人のベッドにもぐりこんだ。布団がこんもりと山を作る。これも小さい頃からの悠介のくせだ。喧嘩すると必ず布団のなかに籠城するのだ。
「ああ、全然分からないよ」
なんで未だにこんなに彩人に執着しているのか、とか。なんで未だに悠介の中で彩人がゆるぎなく一番なのか、とか。
「もう好きにしろ。気が済むまでそこで山になってろよ」
「……風林火山」
「あほ」
ため息をつく。制服からふわもこパジャマに着替えて机に向かうと、小説の設計図である手書きのプロットを修正するために万年筆とノートをを取り出した。文豪に憧れて「まずは形から入ろう!」と中学生の時に買ったのが原稿用紙とこの万年筆だった。しかし、令和の時代に手書き原稿を書くわけもなく、使用場面はかなり限定的である。
大学ノートにペン先を滑らせると、線が掠れた。ちっと舌打ちをする。
万年筆はインクを瓶から吸い上げて補充する必要があるが、不器用な彩人は一度も上手く出来たためしがない。手をインクまみれにするか盛大に服に染みを作る彩人を見かねた悠介がいつもインクの補充をしてくれるのだが。
「あのさ、悠介。インクが――」
「やだ。犬井にやってもらえばいいじゃん」
振り返り、ため息をつく。悠介はまだ動かざること山のごとく布団から頭と手だけ亀のように出してスマホを扱っている。どうやらもうちょっと拗ねていたいみたいだ。仕方なく万年筆を置いてやや強引に布団を捲ると、隣に体をぎゅうぎゅうと押し込んだ。
「狭い」
「ちょっと詰めろよ。俺のベッドなんだから」
悠介は彩人に背を向けたまま、ベッドの端に体を寄せた。
顔は見えない。ただ、点と点で触れる背中越しに息遣いと体温が伝わって来る。それだけじゃなくて、スマホに集中しているのはフリだけで、実は彩人の気配に神経を集中させていることも、仲直り(というほど揉めたわけでもないけれど)をする機会を伺っていることも。
「ほら。ふわふわだぞ。『ふわもこ兎』お前も好きなんだろ」
「……別に」
「ふうん。でも、これ本当に柔らかくて暖かいぞ。兎の毛皮を剥いで被ってるみたいだ」
返事はない。こういう時に折れて歩よるのはいつも彩人のほうだ。普段は温厚で彩人否定することなどない悠介だが、一度へそを曲げると意外と面倒くさい。
「お前が何に腹を立てているのか知らないけどさ」
毛布に向かって呟く。
「俺は小説家になって色んな人に自分の作品を読んでもらいたいって思ってる。出来れば月波はるかみたいに高校生のうちに商業デビューしたい」
窓の外では夕焼けの上に乗っかった夜がどんどん広がっていき、部屋の中も少しずつ薄暗くなる。
「でも俺が小説を書き始めたのは、悠介の影響だよ、間違いなく」
もぞりと背中で山が動く。
「悠介がいなかったら、今俺は小説書いてない」
目を輝かせて彩人が教えた本を読んでいた悠介。もっと喜ばせたい、楽しませたい。ためしに自分で話を作って聞かせてみると、続きを聞きたいとせがまれた。
それが、彩人の小説の原点だ。これから先幸運にもデビュー出来たとしても、どんなにたくさんの人に読まれるようになったとしても、彩人が作る物語は全てがその始まりの一文字は悠介のための物語だ。
「だから、お前が俺の中で特別」
ああもう何言ってるんだ。こんなこっぱずかしいこと。でも、そうでもしないと悠介の機嫌が直りそうにないし。
「でも、俺より月波はるかのほうが好きじゃん」
悠介がぽつりと呟く。
「太宰はいいよ、生きてる俺の勝ちだから」
「お、おう」
「でも月波はワンチャン会う可能性もあるでしょ? それに犬もこれからずっと付きまとってきそうな気がする。なんてったって犬だし」
犬井のことだ。ていうかナチュラルに犬扱いすんな。
「なんか、むかつく。俺以外の奴を彩人がちやほやしてるの」
「無茶言うなよ」
「ちやほやされて喜んでいる彩人を見るのも嫌だ」
呆れてため息をつく。もちろんそれは悠介に伝わって、触れる背中が強張るのが分かった。
「悠介はどうしたいんだよ。俺の夢応援してくれてるんじゃなかったのか」
「応援してるよ。応援しないわけないじゃん。でも、皆の彩人になるのも嫌だ」
「なんだよそれ。思春期か」
もうそれには返事は無かった。
昔は犬っころのように遠慮なくくっついてひっつきもっつき眠っていった。それが一つ年を取るごとに少しずつ離れて今は点だけで触れている。いつかもっと離れて、同じベッドに入ることもなくなるのかもしれない。振り向いても見えないほどの距離まで離れてしまうのかもしれない。
高校を卒業するまで、あと一年ちょっと。進学にしろ就職にしろ、今みたいに過ごすことはなくなるだろう。
部屋の中にも夜が忍び込んできて、スマホの明かりだけがうっすらとあたりを照らす頃。スプリングがわずかに浮いて、悠介がこちらを振りかえる気配がした。
人間の生き物としての本能かもしくはその血に流れる農耕民族の習性か、暗くなると自然と眠気がやってくる。
「もう寝た……?」
返事はしなかった。実際、もう意識は暗闇に蕩けて半分夢の中だ。
「ふふ、柔らかい」
背中に触れる気配がした。そして、かちゃりと眼鏡を外す音。眠気と背中に触れる温もりにに勝てず彩人の意識は霧が視界に立ち込めるこように急に遠のいていく。
次に目を覚ました時には、まだ青味のグラデーションが強かったはずの夜の色が、すっかり漆黒の闇に変わっていた。ふと横見ると、毛布のふくらみはぺしゃんとつぶれて、いるはずの彩人はいなくなっていた。
寝る時にはついてなかったデスクのスタンドライトがついているのは、寝ぼけた彩人がンベッドから転げ落ちることを心配してのことだろう。
ベッドから降りてふらふらと近づくと、年筆が目に入った。持ち上げると、スケルトンのボディーの中で充填されたインクが揺れる。
「なんだ、インク入れてくれたんだ……」
長い指が万年筆を丁寧に扱いインクを吸い上げる様を想像すると、変な時間に寝てしまったせいでぼんやりしていた頭が急に冴えた。
ノートの上に滑らせる。ブルーブラックのラインがノートの上を滑り、スタンドの明かりできらりと光ったあと一瞬で紙に滲んだ。
