ありがたく悠介の家でから揚げを御馳走になったあと、明かりのついていない自分の家に帰る。別に複雑な家庭事情があるわけでもなく、父は単身赴任中で看護師の母も変則的な勤務で家を空けることが多いだけだ。偶然にも年が同じで一人っ子同士だった彩人と悠介は、専業主婦だった悠介の母にまとめて兄弟のように育てられた。
 悠介もさも当たり前のようにくっついてきて、愛用のノートパソコンで原稿の推敲をしている彩人の背後でベッドに寝転がってスマホを扱っている。まさに、勝手知ったるなんとやらだ。
 悠介がアンダーラインを引いてくれた原稿を見て頭を抱える。
「これ全部読めんってホントかよ? 何かの間違いじゃない? 俺全部普通に読めるけど」
巫山戯(ふざけ)る、爾来(じらい)厖大(ぼうだい)……etc.原稿はいたるところにピンク色が引かれていて、まるで試験前のテキストのようだ。
「俺も読めるよ?」
「お前だけ読めても意味ないんだよ……! どうするんだよ、雷撃文庫の公募の締め切りまで時間ないのに」
「俺が読んで面白いってだけじゃだめなの?」
「駄目だ。俺はNFファンタジー大賞を最年少で受賞して華々しくデビューした月波はるかみたいに、現役高校生作家を目指したいんだよ」
「その人のやつ、そんなに面白いかなあ。俺は彩人の書いたやつのほうが面白いと思うけど」
「お前に褒められてもぜんぜん嬉しくない」
 椅子の音をがたんと立てて立ち上がり、ノートパソコンをぱたんと閉じると、悠介の横に勢いよく寝っ転がった。スプリングがぎしりと沈む。
「全肯定すぎて、嘘くさい」
「なんで? 俺は本気で好きなのに」
 はっとして隣を見ると、うつぶせでスマホを扱っていた悠介もこちらを見ていて、至近距離で視線がばちりと交わった。
「ずっと好きだって言ってるのに、信じてくれないの? 俺の好きなだけじゃ満足出来ない?」
 小説のことなのに、別のことに聞こえてくるのはきっと気のせいだ。慌てて寝返りを打って悠介から視線を逸らす。制服のワイシャツで覆われた背中には感度のいいセンサーが埋め込まれているかのようにすぐそこにある熱源を感知して、脳内でけたたましくアラームが鳴る。   
 くそ、なんでだ。こいつはただの幼馴染み、百歩譲って出来の悪い弟(同じ年だけど)だ。
こんなふうに意識してしまうなんてどうかしている。そうだ、きっと原稿で疲れているだけだ。うん、きっとそうだ。
 小さく頷くと、スプリングがぎしりと沈んだ。続いてうしろでのそりと動く気配。体の上に影が落ちて思わず身構えるが、すぐに影は通り過ぎてもう一度スプリングが軋んだ音を立てる。
「人の上跨ぐなよ」
「ごめんごめん。渡すものがあったんだ」
 悠介はいつも自由で飄々としていて、小さい頃から一緒にいる彩人にも、時々何を考えているのか分からない時がある。もっとも、何も考えていないだけかもしれないけれども。
「お待たせ。はい、これちょっと早めの誕生日プレゼント」
「早すぎない? 俺の誕生日一か月先だけど」
 あっという間に戻ってきた悠介から紙袋を押し付けられるように渡される。中から出てきたのは、毛足の長いふわふわの白い部屋着だ。紙袋のロゴを見て目をみはる。高級路線の部屋着を展開しているブランドだ。主に女子に人気の。
 なぜファッションに疎い彩人が女性物の部屋着のことを知っているのかと言うと――。
「これ、もしかして、月波の『ふわもこ部屋着で引きこもっていたら、獣人の国に転生して兎神としてあがめられて困っています』に出てきた、デザートピケの部屋着……!」
「そうだよ。コミカライズ記念にコラボした限定品なんだって。執筆用に着心地の良い部屋着が欲しいって言ってたよね。穴の開いたジャージじゃ気分でないって」
「ああ、でもオンライン限定品ですぐに売り切れて……、うわ、すごく柔らかくて着心地がいい!」
 その場でぽいぽいと制服のシャツとスラックスを脱ぎ捨てる。うわ、本当に兎みたいだ。耳付きのフードを被ったりポケットに手を入れたり出したりして、部屋着の着心地を存分に堪能したところで、彩人ははたと我に返る。
「これ、確か結構高いよな……⁈」
「あー、んー、まあ」
「お前、そんな金どこにあんの?」
 彩人も悠介もごくごく普通の高校生だ。年に一度お年玉をもらう他は限られた小遣いの範囲でやりくりをしている。どこに高級部屋着を買うお金があったのだろう。
じっと見つめると、悠介は目をそらしてその長い指で頬をこすった。小さい頃から変わらない、隠しごとがある時の癖だ。そんなことにすぐに気付いてしまうぐらい、ずっと一緒に過ごしている。
「いや、ちょっと。実はバイトしてて」
「いや、朝も帰りも俺と一緒に学校行ってるよな。いつバイトする時間あるんだよ」
「時間は作るものなんだよ?」
「ふーん」
 ジト目で睨み続けると、悠介はへらりと笑ってごまかした。
「まあ、いいけど」
 追及は諦めて悠介の横にもう一度寝っ転がると、横でほっと溜息をつくのが分かった。
「ありがと。確かに着心地いい」
「そっか。良かった。彩人好きかなーと思ったんだよね」
「それにしても、お前よく知ってたな。デザートピケなんて。それに『ふわもこ兎神』のコミカライズとかコラボとか」
 悠介はもっぱら家では中学時代の丈の足りなくなったジャージを着ていて、彩人以上にファッションに疎いのは間違いない。
再び疑念に目を向けると、
「それは彩人が好きだからだよ」
 目線が交わる。色素が薄めの瞳に写りこむ彩人の驚いた表情も分かるほどの至近距離で。
「彩人が好きなことは俺も知っておきたい。好きになりたい。嫌いなことも、全部知っておきたい」
「あーはいはい。悠介は俺が本当に大好きだな」
 茶化すように言って、また悠介に背を向ける。
 物心つく頃から一緒にいる彩人のことを、悠介はひよこが親鳥を追い掛けるのとほとんど同じように本能で無条件に慕っている。
「ねえ、今日泊ってもいい?」
「どうせダメって言っても、泊っていくじゃん」
「うん、そうだよ」
「素直に肯定するな。こら勝手に触るな」
「兎が隣で寝てるみたい。俺までふわふわして気持ちいいな」
「俺は兎じゃない。おい、寝るなら風呂入ってから寝ろよ」
「彩人は?」
「まだ原稿やる」」
「じゃあ俺も起きてる。あ、眠気覚ましに紅茶淹れてこようか? はちみつ紅茶、好きだよね」
「いや、いい」
 眠気覚ましが必要そうなのは彩人じゃなくて悠介のほうだろう。やがて規則正しい寝息が聞こえ始め、振り返ると小さい頃と変わらない無邪気な寝顔が毛布から覗いていた。左手にはスマホを持ったままで、思わずくすりと笑ってしまった。ずれた眼鏡をそっと外してやる。
 今でこそ彩人より体格の良い悠介だが、小さい頃は喘息持ち体が弱く、小柄でやせっぽちな子供だった。その頃から読書が好きだった彩人は、学校も休みがちで外で遊ぶこともあまり出来ない悠介のために自分の好きな本を読んで聞かせ、いつしか自分でも話を作るようになった。
 高校生になった今も、その頃と同じようにずっと悠介は彩人を慕ってくる。
まるでひな鳥の刷り込みと一緒だ。初めて外の世界を教えた彩人を無条件に慕ってくる。   
そしてそれは彩人も一緒だ。はじめて作った落ちも山も意味もない話を、何度もせがむ悠介のきらきらした目。
それが忘れられなくて、彩人は今も小説を書き続け公募に挑戦している。
「待ってろ。絶対デビューしてやる」
 今も昔もキラキラした瞳で彩人のつむぐ話を待ってくれる人のために。そしてまだ見ぬ誰かの瞳をキラキラ輝かせるために。
 ろうそくを灯したかのように背中をじんわりと温める熱に後ろ髪ひかれつつも、なけなしのやる気を振り絞ってベッドから抜け出す。
頬をぱんと一つ叩いて気合を入れると、パソコンを開いて原稿に向かった。