恥ずかしさで視線を落とすと、小さく笑う声が聞こえ、倉田響はそっと顔を上げた。
窓からの月明かりだけが照らす男子寮の一室のベッドに座り込んだまま、目の前に同じように向かい合って座る千葉琉成の顔を見つめると、少し悪戯めいた笑みを浮かべていた。
「……何? す、するならひと思いに……」
「なにそれ。ただのキスだろ?」
こちらに近づく琉成の唇がゆっくりと重なる寸前で響は両目をぎゅっと閉じる。静かな部屋に、内側から響く自身の鼓動と衣擦れの音を聞いて、響は自分の肩を抱き寄せようとする手を掴んで止めた。
「ん……琉成、なが、い!」
唇を合わせるだけのキスだが、異様に長いそれに我慢出来ずに響が琉成の胸を押すと、琉成が抵抗なく離れる。けれどその顔はとても不満そうだ。
「……そんな長くないだろ。だいたい、響が舌入れさせてくれな……」
「う、うるさい! そんなことできるか!」
響は自身の頬が赤くなっていることを感じながら叫ぶ。すると、琉成がその長い人差し指を、すっ、と響の唇に当てる。
「夜の寮内は静かに、だよ。生徒会長サマ」
琉成が口の端を引き上げこちらを見つめる。響は怪訝な表情のまま、それを見つめ、更に心拍数を上げた。
こんなことになったきっかけは、この春響が、生徒会長になったことだった。生徒会長には寮の一人部屋が用意される。ただし、初めの一カ月は風紀委員のブラックリストの一番上に名前のある生徒と二人で過ごし、模範生として監視・指導をするのが通例だった。そこで同室になったのが琉成だ。
琉成はアシメの茶髪に、両耳で四つのピアス、制服のネクタイはダサいから捨てたといい、学校指定ではないシャツを着ていて、お世辞にも真面目な生徒とは言えない。去年は風紀委員をしていた響とも何度も校門で会っていて、響はすぐに他人の顔色を伺って思うように行動できない自分と比べて、琉成の姿はとてもカッコよく見えていた。
それでも、そんな気持ちを抱いていたとしても自分からは近づけない。響が考えられる、琉成と近づく方法――それが自分が生徒会長になり、ブラックリストのトップにいる琉成と同室になることだった。
まさかずっと憧れていた人と成り行きでもキスをする関係になるとは思ってなかったんだ――本人を目の前にしてそんなことも言えず、響は琉成を恨めしく見つめた。
「ていうかさ、響、キスはいいのにベロチューはだめって意味分かんないんだけど」
響に拒まれ小さくため息を吐いて響の傍を離れた琉成は机の引き出しから煙草を取り出した。窓辺に寄り少しだけ窓を開けると、火をつけて紫煙をくゆらせる。
「琉成、煙草はだめ」
響はそれを見て、琉成に近づく。その指から煙草を取ると琉成が持っていた携帯灰皿に煙草を投げ入れた。それを見て琉成が一瞬不機嫌な顔をしたが、やがて小さなため息を吐く。
「夜遊びもダメ、煙草も酒もダメって、じゃあ何を楽しみにすりゃいいんだよ」
「煙草も酒も二十歳からだろう。夜遊びは……その為の、キ、キスだろ?」
琉成と同室になって数日、寮を抜け出して遊びに行こうとした琉成を止めるために響が言った言葉が『遊びなら僕が相手するから』という言葉だった。
琉成にとって夜遊びに出掛けるのは、きっと女の子と会うためだと分かっていた。響だって子供ではない。ただ、相手をすると言っても女の子にはなれないのでその時は、夜中に部屋で映画を観るとかお菓子を食べるとかゲームをするとか、そんなことで気を惹こうと考えていた。自分が生徒会長としてできることなんて、その程度だ。
けれど『唇なら性別なんて関係ないだろ』と琉成がしてきたのがキスだった。
確かに琉成に憧れは抱いていた。けれどキスをしても少しも嫌ではないことにその時は戸惑ったのだが、それと同時にそういうことをして欲しいと思うくらいに琉成に心を傾けているのだとはっきりと分かってしまったのだ。
だけどこの感情は気づかれてはいけない。きっと外でも女の子にモテるだろう琉成が響の気持ちに気づいたら、気味悪がられる未来しか見えない。
キスどころか、会ってもくれないだろう。
それだけは嫌だな、とその整った横顔を見ていると琉成が、そうだったね、とこちらに近づく。
「わかりました、生徒会長サマ」
言葉だけでまるで分っていない琉成が挨拶のように響にキスをする。苦い味のそれに眉をしかめると、琉成は笑った。
「初めてキスした時もそんな顔したな、響。オレのこと蔑むみたいな目……たまんない」
「ドMだね」
響が言い返すと、その頬にキスをして、かもね、と琉成が笑う。それからふらりと窓辺を離れ、自分のベッドへと転がった。きっとこのまま寝るのだろう。響は小さくため息をついてから自分もベッドに座り込んだ。すると琉成が、こっち、と小さく呼ぶ。
「こっち来て」
「……やだ」
「何もしないってば」
琉成の言葉に少し迷ってから向かいのベッドへと移る。潜り込むと、すぐに琉成の腕が廻り、あっという間に抱きしめられてしまった。響の鼓動が飛び跳ね、そのままいつもより速いスピードで波打つ。
「響は今晩、オレの抱き枕だから」
そんなことを言って、響が遠慮して自分のベッドに帰らないようにしているのだろう。琉成のそんなところが可愛いと思う。学校では少し尖った印象の彼が、こうして自分といる時は柔らかくなる、そんなギャップにも響は惹かれている。
憧れはいつしか恋へと変わり、日々確信していくたびに気持ちは積み重なっていくようだった。
「会長、ホントに大丈夫ですか? アイツと同室って……先生に言えばもう解放してもらえると思いますよ」
翌日の放課後、生徒会室で響が六月に行われる体育祭について企画書をまとめていると、頭上からそんな言葉が降ってきた。
響が顔を上げると、そこには書記の浅井が不満そうな顔で立っていた。
確かに琉成には悪い噂がいくつもある。服装だけではなく、他校の生徒と揉めたとか、夜の繁華街で女の子と路上でキスしていたとか、タトゥーの入った男性たちとクラブに入っていった、だとか、とにかく一般的な高校二年生に比べたらやんちゃなイメージになっている。
比較的真面目な生徒が集まる生徒会のメンバーがそんな彼と関わることに心配する気持ちも分からないではなかった。
「まあでもあと二週間だし。大丈夫だよ」
「会長は優しすぎます!」
浅井の言葉に、そんなことないよ、と響が微笑む。あと二週間しか琉成といられないのだなと思うと、本当はとても寂しいのだが、ここでは頑張ってポーカーフェイスを気取ってみる。そんな響に、でもさ、と声を掛けたのは副会長の湯沢だった。
「毎日倉田と登校してるお陰で、千葉の遅刻は二週間ゼロだし、制服もちゃんと着てるしピアスもなくなったよな」
制服のシャツは、似合うよ、と煽てたら着るようになってくれた。ネクタイも、響が結んでやればしていくようになった。ピアスも目立たない樹脂ピアスをプレゼントしたら、それを付けて行くようになった。琉成は本当に自分がしたいようにしているだけで、それが校則と合わないだけのことなのだ。話し合えば妥協点を見つけてそこに落ち着いてくれる。自分が琉成を変えている、その事実が今はとても嬉しかった。
「りゅ……千葉くんは悪い子じゃないよ」
「でも会長、ホントにホントに大丈夫ですか? 千葉に……その、無理やり、とかないですか?」
浅井が言葉を濁しながら、それでも真剣に聞く。響はそれに笑った。
「僕が千葉に何を無理やりされるの? 無理やりしてるのは、こっちなのに」
「え? か、会長が?」
「うん。朝、無理やり起こして、無理やり着替えさせて、無理やり学校に引っ張って。放課後も無理やり宿題やらせて、夜も外出もさせないし……ね、僕の方が無理やりだろ?」
そう答えると、浅井の顔が真っ赤になり、後ろで湯沢がそれを見て吹き出すように笑った。
「浅井、倉田にそんな遠回しに聞いても分かんないって。自分で推し活されてることにも気づいてないんだから。それにこの様子じゃ心配ないよ」
「だって湯沢先輩、推しを見守る身としては心配なんですよ。前は湯沢先輩、寮でも会長といてくれてちょっと安心だったのに」
「今は千葉が一緒にいてくれるからな」
「それですよ、千葉って友達いないし、毎晩女の子と遊び歩いてるって噂だし、心配じゃないですか」
湯沢と浅井の会話をニコニコと聞きながら、響は心の中で苦笑いをした。自分が偶像化されていることも、毎日気持ち悪いくらいたくさんの視線が自分に向いていることも知っている。男子校ゆえに、自分のような小柄で女性寄りの顔をしている者は異質なのだろう。そうやってじっと遠くから見つめてる奴らは、きっと妄想の中で自分を裸にしてやりたいようにしているのだろうと思うと正直気持ち悪いとしか思えなかった。
ただ、そういう奴らが自分を生徒会長に押し上げ、琉成と暮らすチャンスをくれたのだから、そこは感謝しなくてはいけない。だからこそ、自分は何も知らない清らかなみんなの生徒会長を演じている。男の後輩に恋をしている、なんて絶対に知られてはいけない秘密だ。
「まあ、ほら、僕は大丈夫だし。それより、仕事進めないと。そっちが大丈夫じゃないよ」
響が二人に声を掛けると、そうだった、と浅井があわただしく席に戻る。それを見ていた湯沢がため息を吐いた。
「でも倉田、もし嫌だと思ってるんなら期間短くしていいと思うよ。浅井じゃないけど、何かあってからじゃ遅いし」
言いながら湯沢が響の髪を撫でる。響はそれに、うん、とだけ曖昧に頷いて答えた。
響としては、何かあって欲しい。琉成の噂が本当なら、触れるだけのキスで満足するはずないのだ。相手が女の子ではなく響だから、それ以上は萎えてしまうのかもしれないと思うと、少し悲しい。けれどどう頑張っても響は女の子にはなれない。
せめてあと二週間、琉成と同じ部屋で同じ時間を過ごすことを許されるなら、その期限までは今のまま過ごしていたい。響はそう思っていた。
生徒会の仕事を済ませ、そのまま寮に戻ってきたが、時間は既に七時を過ぎていた。風呂や夕飯の時間は細かく決められてはいないのでこれからでも十分間に合うのだが、それでも少し遅くなってしまった。
「ただいま、琉成」
部屋のドアを開けると、自身のベッドに寝転んでスマホを見ている琉成がいた。響の言葉を受け、琉成がこちらを振り返る。
「遅いよ、響。何してたんだよ」
「生徒会の仕事が少し手間取って……琉成はさすがにもうご飯食べたよね?」
制服の上着とベストを脱ぎ、ネクタイを解きながら聞いていた響の背中に、突然ふわりと体温が貼りつく。驚いて振り返ると、琉成が背後から響を抱きしめていた。
「りゅ、琉成……?」
「まだ」
「え?」
「だから、飯も風呂もまだ……毎日響と飯と風呂は一緒にするって約束しただろ」
背中にぴたりと顔をつけているので、その声はくぐもって聞こえる。それでも少し不機嫌なことは分かったので、響は、ごめん、と謝った。
琉成が待ってくれていたことに、喜びを感じる。同室になったからといって、なにもかも一緒に行動しなきゃいけないわけじゃないし、むしろ食事や風呂は別に行く人たちが多いのに、琉成は一緒がいいと思ってくれているのだ。
「……可愛い」
思わず漏れてしまった本音に、響が慌てて自身の口を手のひらで塞いだ。琉成は可愛いなんて言われて喜ぶようなキャラじゃない。
どうしよう、どうごまかせばいいだろう、と響が考えていると耳元で、響、とささやかれて響がびくりと肩を震わせる。
少しだけ振り返ると、琉成が少しだけ目を眇めてこちらを見ていた。やっぱり可愛いなんて言われて怒っているのだろう。響が琉成から視線を外し、ごめん、と小さく呟く。
「ホントだよ、食堂閉まっちゃうよ」
琉成は響をその腕から解放すると、今度は響の手を握った。驚いて響が顔を上げる。
「オレもう限界だから、このまま行こう」
いつもの笑顔に戻った琉成が響の手を引き、歩き出す。
「え、ちょっ、僕まだ着替え……」
「いいよ、後で。オレが飢えて死んでもいいの? 生徒会長」
琉成が響の手を引いたまま部屋を出る。響はそれに引かれるまま琉成の後を歩いた。
「そりゃ、困るけど、着替えくらいしたかった」
四月の寮内は昼間は暖かいけれど、夜は少し冷える。シャツ一枚では、肌が粟立つ程度には肌寒かった。
響の言葉を聞いて、琉成が立ち止まる。響の手を離すと今度は自身のスウェットパーカーを脱ぎ、響の肩に掛けた。
「それ貸すよ。響には少し大きいみたいだけど」
「りゅ……千葉くんだって大きめに着てるじゃないか」
「オレのはオシャレなの。てか、ちゃんと着ろよ」
琉成がパーカーの裾を引っ張り、そのままファスナーを全て閉める。その途端、琉成の香りが届いて、響は赤くなりながらパーカーの袖に腕を通した。
琉成とキスをする時、感じる香りだと思ったらなんだかとてもドキドキしてしまったのだ。
「あ、りがと……」
「ん。てか、オレも悪い。やっぱりちゃんと着替えさせればよかった」
「うん、そう言ったよな? 僕」
「じゃなくて。シャツの下、何も着てないとか、思わなかった」
琉成が視線を落とし歩き出す。それに付いていきながら響は琉成の横顔をちらりと盗み見ると、ほんのり赤くなっていた。
「え、ベスト着るから下着シャツは着ないよ」
「オレ、元々ベスト着ないから知らねえよ」
言えよ、と不機嫌に視線を逸らすが、響と歩調を合わせて隣を歩く琉成に、響が微笑む。
「部屋に戻るまで、これ借りるよ」
響が琉成を見上げると、どうぞ、とぶっきらぼうな返事が来て、響はまた、小さく笑った。
食堂は少し時間が遅いせいか、生徒の数は少なかった。それでも無人ではないので、こちらに視線が集まるのを感じてしまう。響にとってこれは日常なので最近は気にならなくなってきたが、琉成にとってはあまり居心地のいいものではないのだろう。怪訝な表情になるのは毎日のことだった。
「会長、これからご飯ですか?」
食堂にいた生徒がこちらに近づき、声を掛ける。響は表情を笑顔に変えて頷く。
「生徒会の仕事が長引いてね」
「お疲れ様です……てか、珍しい物着てますね」
目の前の生徒が響の着ているパーカーに視線を向ける。確かに響は緩めの服を着ていない。
「これ、千葉くんのものなんだ」
響が答えると、その生徒が眉を寄せる。
「え、無理やり着せられてるんですか?」
「いや、違うよ、少し肌寒いって言ったら貸してくれて……」
「だったら、僕のカーディガン貸すので、それは脱いでください」
生徒が自身が着ていたカーディガンを脱ぎ始める。響はそれに慌てて、大丈夫だよ、と声を掛けるが、カーディガンを脱いだ彼は、それを響に差し出した。
「そのパーカー似合ってないので、こっち着てください。洗濯とかいらないです、明日の夜にでも返してくれたらいいですから」
言いながら、生徒の手はパーカーのファスナーに伸びていた。せっかく琉成が貸してくれたのだから脱ぎたくないと思い、少し後ずさると、不意に目の前に広い背中が現れた。
「響に触るな」
響の前に立ちはだかってくれたのは琉成だった。対峙した生徒が少したじろぐ。この高校の生徒なら琉成の噂も聞き及んでいるはずなので、やはりこうして対峙すると少し怖いと思うのだろう。確かに今の琉成はいつもよりもずっと低い声ではあった。少し怒っているのかもしれない。
「な、なんだよ、お前は関係ないだろ」
「いい加減にしろよ。無理に脱がせるとか、セクハラだろ」
「な……そんなつもりねえよ! だいたいな、お前が会長に付きまとってることの方が、セクハラなんじゃねえの? てか、ストーカーかよ。お前みたいなヤツが会長の傍に居るってことが腹立つんだよ。飯だけならまだしも、風呂まで一緒で……会長の隣は、湯沢だから許されてたんだよ、お前じゃねえんだよ」
一度はひるんだ生徒だが、目を吊り上げて今度は琉成の胸倉を掴む。咄嗟に琉成がそれを腕で払うと、生徒は呆気なく床に転がってしまった。
「おい! 今殴っただろ! 誰か寮監呼んでくれ!」
床に座り込んだ生徒が大声で叫ぶ。響はその言葉に、待って、と琉成の後ろから飛び出した。
「今のは千葉くん悪くないよ。先に手を出したのは君の方に見えた」
響は今見たことを素直に告げた。すると、生徒は悲しそうな表情でこちらを見上げる。
「会長は、善良な生徒と、ブラックリストに載る素行の悪い生徒、どっちを信じるんですか? こっちは手を出してません」
信じるも何も、響は一番近くで見ていたのだ。先に琉成の胸倉を掴んだのはあちらだった。琉成はそれを振り払っただけだ。もしかしたら、わざと自分から床に転がったのかもしれない。
「でも、僕は……」
「はいはーい、そこまでー。とりあえず誰も怪我ないな」
響が反論しようとしたその時、誰かが呼んだのだろう寮監の教師が食堂に現れた。床に座ったままの生徒に手を貸し立ち上がらせると、今度はこちらを振り返る。
「とりあえず『千葉が他の生徒にケンカふっかけてる』って連絡が来たから、千葉に来てもらおうか」
教師は小さくため息を吐いて、琉成を見やる。琉成は何も言わずそれに頷いた。
「せ、先生、千葉くんは何もしてないです」
それに教師が来るのが早すぎる。きっと琉成をよく思っていない他の生徒が先に教師を呼びに行ったのだろう。ここには琉成にとって敵しかいないのかと思うと、響の胸はひどく痛む。琉成は何も悪いことはしていない。
響が教師を見上げると、教師は少し眉を下げ小さく頷いた。
「……まずは話を聞かなきゃな。倉田は食事まだなんだろう? 千葉にも後できちんと食べさせるから、倉田は先に食べてしまいなさい」
教師は響にそれだけ言うと、千葉、と琉成を呼んで食堂を出ていった。琉成もそれに大人しくついていく。響はぐっと唇を噛み締めるだけで、それを止められない自分に歯がゆさを感じていた。
「やっぱり怖いですね、千葉って。反社と繋がってるって噂もホントなのかも。会長、あんな奴と同室で大丈夫なんですか? 嫌な事とかされてませんか?」
立ち上がる時は痛そうに顔をしかめていたのに今は何もなかったように、先ほどの生徒が響の傍に寄る。そのまま手を取られそうになり、響は咄嗟に歩き出した。
「先生に言われた通り、僕は夕飯にするから。怪我がなくてよかったよ」
一生懸命に笑顔を作り、響が生徒から離れる。
彼は同情を引こうとして、寮監が来るまで立ち上がらなかったのだろう。本当は琉成の腕だってそんなに当たっていないはずで、自分から飛んだに違いない。ただ琉成が気に入らないというだけでこんなことをするのなら、響はもう二度と彼と話すつもりはなかった。
「……琉成は僕を守ってくれたのに……」
あの生徒がパーカーを脱がせようとしたから、琉成がかばっただけだ。それだけなのに、連れていかれるのは琉成だけだなんて、やっぱり間違っている。
夕飯を食べ終えたら寮監のところへ琉成を迎えに行こうと決め、響はパーカーの胸の部分をぎゅっと握りこんだ。
夕飯を終えた響はまた何かトラブルになったら困ると思い、一度部屋に戻り着替えることにした。琉成の匂いに包まれているのが幸せだったので、ちょっと惜しいなと思いつつも、響は鏡の前でパーカーを脱ぐ。薄いシャツ姿になったところで、琉成が慌ててこれを着せてくれた理由が分かり、響は顔を赤くしてその場にへたり込んだ。
「白いシャツって結構透けるんだな……」
男だから考えたこともなかったし、あまり人前で着替えることもしなかったので、胸が透けることなんて気づかなかった。これまで気づいた人もいるのかもしれないが、それを響に伝えるような人はいなかったということなのだろう。
やっぱり琉成は優しいのだと改めて思う。
あの時だって響をかばっただけなのだ。琉成に悪いところなどひとつもない。
やっぱり自分が弁明に行かなければ、と思い、響は急いで自分の服に着替え、パーカーを抱えて部屋を出た。
寮監室は、響の部屋の真上に位置している。寮監をしているのは比較的話のわかる若い数学教師だから、響が事情を話せば何のお咎めもなく解放されるだろう。
だいたい、琉成は何もしていないのだ。連れていかれる方がおかしい。
なんだったらあっちの生徒に指導してもらおうなんて考えながら、響は寮監室の前で立ち止まった。ドアをノックしようとしたが、中から声が聞こえ、響がその手を止める。
「倉田に預けて落ち着いてきたと思ったのに。今度は生徒同士でトラブルか」
教師の呆れた声がこちらまで聞こえる。
寮の壁もドアも正直薄くて、隣の部屋の生活音や会話はほぼ筒抜けだと思っていい。だからこそ寮内に三部屋しかない、リネン室の奥にある端の一人部屋は、『寮監』『生徒会長』『成績最優秀者』の三人しか使えないのだ。ちなみに今年は、響が生徒会長と成績最優秀の二つを取ってしまったので、次席の湯沢がその部屋を獲得している。
なので、廊下が静かだと、ドア越しには声が聞こえてしまうのは特別な部屋でも仕方ないことだった。
「オレは掴まれたから振り払っただけ。あいつがうるさいから、ちゃんと学校も行ってるし。まあ、別に同居期間延長でもいいけど」
琉成の明るい声が聞こえる。どうやらそこまでひどく怒られているわけではないようだ。その事実に響がほっとする。
「延長はないな。千葉がこれだけ落ち着いたから、倉田にもう一人預かってもらおうって教師の中で話が出てるんだ」
その言葉に琉成の驚く声が聞こえたが、響も驚いていた。ブラックリストの一番上の生徒一人だけでいいのではなかったのか。
そんなに次々と預けられてしまっては一人部屋の意味がない。それ以上に、琉成と離れてしまうことが寂しかった。
響はドアの前で大きく深呼吸をしてから、握ったままだった右手をドアに打ち当てた。
「先生、倉田です。さっきのトラブルについてお話したくて……」
ドアの前で話すと、やがてドアが開き、教師が顔を出した。その後ろには琉成もいる。
「あれは、ケンカじゃなくて倉田をかばったんだって聞いた。倉田がここへ来るってことは間違いないんだな」
教師がこちらをまっすぐに見つめる。響はそれに大きく頷いた。
「あっちが、僕の着ているものを無理に脱がそうとしたから、千葉くんはそれを止めてくれただけです」
響がさっきあったことを正直に話すと、教師の表情が訝し気に歪んだ。
「脱がそうとした?」
「ええ、上着ですけど」
「いや、上着とかそういう問題じゃない。許可もなく服を脱がそうするのは一歩間違えれば犯罪だぞ」
教師は、指導はあっちだったか、と大きくため息を吐いた。それから後ろを振り返る。
「千葉、戻っていいぞ。先生は相手の生徒を捕まえてくる」
教師はポケットから部屋の鍵を取り出しドアを大きく開けて廊下へと出た。その後に琉成が続いて部屋を出て、教師が部屋に鍵をかける。ここで解放ということなのだろう。
「じゃあ、僕たちはここで。千葉くん、行こうか」
響が笑んで琉成を見上げる。けれど琉成の表情は少し厳ついものになっていた。まとう空気もなんだか少し鋭い。
さっきのトラブルの疑いは晴れたのだから、もっと喜んでいると思っていたのに、予想とは違う雰囲気で、正直響は戸惑っていた。
「食堂、一緒に行くよ。今日は白身フライだったよ」
美味しかったよ、と笑って歩き出すと琉成は、来なくていい、と先を歩いた。響がそれを追う。
「来なくていいって……その後、風呂も一緒に行くだろう?」
「もういいって。あんたと居ると、さっきみたいなことになるから、ほっといて」
琉成が大きなため息を吐いて響に鋭い目を向ける。こんな目を向けられたのは初めてで、響は驚いて立ち止まってしまった。その間に琉成の背中はどんどん遠くなる。
「へ、部屋! 部屋で待ってるから!」
響が琉成のパーカーをぎゅっと握りしめてその背中に叫ぶ。琉成はそれになんの反応も示さず、響の前から立ち去って行った。
「さっきみたいなことになる、か……」
部屋に戻った響は琉成に言われた言葉を思い出しながら、自身の部屋のベッドに腰かけた。響といると、迷惑を掛けられるということだろうか。確かにさっきのトラブルも、琉成一人ではなかったことだ。響が絡まれて、それを助けただけなのに、教師から説教されるなんて、とばっちりもいいところだろう。
もしかしたら、響が知らないだけで他にも自分絡みで何か嫌な思いをしていたかもしれない。
さっき、この部屋を出た時は、とても楽しかったのに、一瞬で全てが変わってしまったように感じる。
琉成が出ていかないようにたくさん努力したつもりだった。琉成もそれに応えるように少しずつ変わって、この生活に慣れてくれたと思っていた。実際、教師に『延長してもいい』と言っていたのだ。
「……わけがわかんない……」
琉成は響といたいのか、いたくないのか。それだけでも聞きたい。
響はそう思い、ベッドから立ち上がった。待っていたら、いつか琉成は部屋に戻ってくるだろうが、気持ちが不安定すぎて動いていないと叫び出してしまいそうで、響は琉成のパーカーを掴み取って、そのまま部屋を出た。
さすがにまだ食事中だろうと思い、食堂へと向かったが、そこには琉成はいなかった。既に食べ終えたのか、そもそも食事に行かなかったのかもしれない。響はなんだか不安で食堂を出ると、寮内を歩き出した。
他の生徒の部屋にいるとは考えにくいので、響はまず生徒が自由に使えるホールへと向かった。ここには飲み物の自販機やソファとテーブルが置いてあり、テレビもあるのでサッカーや野球の試合をみんなで観たりする。けれど、そこを見渡しても琉成の姿はなかった。
ここでもなかったか、ときびすを返した響の耳に「雨だ」という声が届き、響は窓の外へと視線を向けた。
急に強い雨が降り出して、窓を打ち付けている。それを見てから、響は自分が握りしめている琉成のパーカーを見やった。確か琉成は薄手の長袖Tシャツ一枚だったと思う。雨が降ると気温が落ちるので、寒い思いをしているかもしれない。響はホールから少し小走りに廊下へと出た。そこでふと、足を止める。
「琉成……」
玄関へと向かうその後ろ姿を見つけた響は、外へと出ていこうとする琉成に向かい、再び走り出した。
「琉成!」
玄関を出て、既に閉まっている胸ほどの高さの門扉に琉成が足をかけたところで、響が追いつき、その名を叫ぶ。琉成がこちらを振り返った。その表情は眉を寄せ、不機嫌に歪んでいた。
「もう門限過ぎてる。外出はだめだよ」
雨の中、琉成に近づくと一瞬で響の髪も肩も濡れてしまった。当然琉成もずぶ濡れで、髪から雫が滴っている。
「……響には関係ない」
琉成は低い声でそれだけ言うと、響が持っていたパーカーを掴み取った。それを広げ響の肩に掛ける。
「見逃してよ、生徒会長! オレは二週間程度じゃ更生なんてしないんだよ!」
琉成はあっという間に門扉を越え、敷地の外へと出てしまった。響が門扉を掴み、琉成、ともう一度呼んで手を伸ばした。シャツの端を掴んで強引に引き寄せる。
「なっ、ひび……」
驚いた琉成がこちらを振り返ったその時、響は思い切り背伸びして、琉成にキスをした。ごつん、という音と額の痛みも同時にしたが、今の響にそんなことに構う余裕はなかった。
今琉成を繋ぎ止める何かが自分の中にあるとしたら、キスくらいしか思いつかなかったのだ。
「いった……響、キス下手くそだな」
琉成が自身の額を撫でながら小さく笑う。それから響の額を撫で、そこにキスをした。
「響はすぐ風呂入ってあったかくして寝てよ。朝には帰るから、点呼よろしくー!」
琉成が明るい笑顔でこちらに手を振り、そのまま駆け出す。響がもう一度その名を呼ぶが、琉成の背中は振り返らなかった。
響には止められなかった。
唇の感触は性別関係ないからと始めたキスだけれど、結局琉成の欲は満たせていなかったのだろう。やっぱり女の子とのキスの方がいいに決まっている。
分かっているのに響の視界が緩み、自然と涙が零れ落ちていく。
響はしばらくその場に佇んで、自分の涙が止まるのをひたすら待っていた。
コンコン、と乾いた咳をすると、生徒会室にいた湯沢と浅井が執務机の前で作業をしている響に視線を向ける。響がそれに気づき、二人の顔を交互に見て、何? とできるだけ穏やかに聞いた。
「朝から咳してるな、と思って。声も掠れてるし」
昨日、長く雨に当たってしまったせいか、あの後部屋に戻ってそのまま何も考えられずに寝てしまったせいか、朝起きると酷い頭痛と喉の痛みが響を襲っていた。
今朝寮監室でシャワーを借りて体を温め、痛み止めも貰って飲んだのだが、放課後まではその効き目ももたないのだろう。今はすごく体がだるく、咳も頻繁に出てしまっていた。
「ごめん、うるさいよな」
「違います! 心配してるんです。体調悪いんじゃないかって」
響が苦く笑うと、浅井が少し拗ねたような顔でこちらを見やった。それから言葉を繋ぐ。
「昨日、寮の門のところで、雨に濡れてる会長見たって聞きました。その前、千葉と少し揉めてたみたいって。あいつが、無断外出しようするのを止めてたんじゃないですか? それで、雨に濡れて風邪でもひいたんじゃ……」
寮の門扉の部分は部屋からは見えないが、廊下の窓からは見える。たまたま歩いていた生徒が見かけたのかもしれない。キスも見られていたのではと思って少し緊張したが、浅井が騒いでいないところを見ると、それは見られていなかったのか、あの下手なキスはキスには見えなかったのかもしれない。
「確かに少し調子は悪いけど、それと千葉くんは関係ないよ」
「ホントですか? あいつ、今日学校サボってて。寮にも戻ってないらしいじゃないですか」
確かに琉成は朝になっても部屋に戻ってこなかった。朝には戻ると言っていたのに戻らないから、寮監の教師にも相談したのだが、『先生たちで対処する』と言われてしまい、そのままになっている。
「何か、事故に巻き込まれてないといいけど……」
「単純にオールで遊んで、どこかで寝過ごしてるんじゃないですか? 女とっかえひっかえだって噂だし」
浅井は本当に琉成が嫌いらしい。棘のある言葉を吐いて、湯沢に、言い過ぎ、と窘められていた。けれど、浅井の言うことが本当なら、胸は痛いけれど、安心はできる。そうなると琉成は今一人ではないし、事故や事件に巻き込まれているわけではないということになるからだ。
「会長は優しいから、そうやって千葉のことまで考えて心配して……会長の貴重な時間を奪ってるって考えないんですかね。てか、もう同室とか限界じゃないですか?」
浅井が少し怒ったような口調でこちらに問う。響は、それにどう答えればいいか分からず、眉を下げた。
「……倉田は、あいつがいない方が楽ではあるんじゃないか? 一人部屋は快適だし」
湯沢の言葉を受け、響が、そうだね、と口を開く。
「一人に比べてしまったらね。でも、千葉くんは本当は優しいし、結構寂しがり屋で可愛いところもあるんだよ。昨日も僕と食事に行きたくて待ってたみたいだし」
ちょっと犬っぽいよね、と響が笑うと、浅井が眉を下げ、まずい、と口を開いた。
「会長が毒されてる……騙されてますよ、それ。実際、昨日だって暴行事件起こしてるじゃないですか。今日だって堂々とサボってるし。やっぱりそんな人と会長が同室なんて心配です」
「毒されてるなんて……ホントに千葉くんはみんなが思うような子じゃないんだよ。そりゃ見た目は少しやんちゃだけど……」
響の言葉を聞いた浅井は、こちらにますます険しい顔を向けた。
「どうしてそんなに千葉をかばうんですか? こうやって、いつも一緒に仕事してるぼくじゃなくて、千葉の肩を持つとか……ぼくはそういう会長見たくないです。会長は、みんなの会長でしょう? 千葉のものじゃない」
浅井はそれだけまくしたてると、席を立って生徒会室を後にした。廊下を駆けていく足音が遠のき、響は小さくため息を吐いた。
琉成の肩を持ったつもりはない。ただ本当に優しくて本当はとてもいい子なのだと伝えたかっただけだ。けれどそれは浅井には上手く伝わらなかったらしい。
そんな響の様子を見ていた湯沢が、放っておけよ、と笑った。
「気にすることないよ。浅井は、倉田を崇拝レベルで慕ってるから、千葉のことが受け入れられないだけだ。倉田は倉田の思うままにいていいと思うよ。だって、倉田はアイドルでもなんでもない、ただのDKなんだから」
アオハル謳歌していいんだよ、と響を見やる。響はそれに笑顔で頷いた。どうやら湯沢には色々バレているようだ。
「あのさ、もしかして湯沢が寮で突然僕と行動しなくなったのって……」
「んー……千葉がいるからもういいかなって。倉田は、その方が嬉しいんじゃないかなと思ったんだ」
湯沢の言葉を聞いて、やっぱり自分の気持ちは湯沢にはバレてしまっているのだと悟る。
「なんか、気を遣わせてしまって……でも、もう少し頑張りたいんだ、僕」
「うん、いいんじゃない? アオハルだね」
響の言葉に笑顔で頷いた湯沢だったが、今度は表情を少し訝し気に変えて、ところで、と言葉を繋いだ。
「さっきより顔色悪くなってるけど、大丈夫か? こっちは一人で進められるし、寮戻った方がいいんじゃないか?」
言われてみると、少し体が熱いし、どこかふわふわするようだった。きっと熱が上がっているのだろう。ここは湯沢の言う通り帰った方が良さそうだ。
「じゃあ、先に上がるよ」
ごめん、と言いながら響が立ち上がる。その瞬間ぐらりと視界が揺れて足から力が抜け、立っていられなくなってしまった。
「おい、倉田!」
湯沢の声に、大丈夫、と思いながらも声には出来ないまま、響は暗い闇に吸い込まれるように意識を手放した。
「お、やっと目が覚めたか? 倉田」
ぼんやりとした視界に映るのは寮の天井だった。響が声のした方へと視線を向けるとこちらを見下ろしている教師がいた。
「先生……僕……」
「昨日の放課後、生徒会室で倒れたのは覚えてるか?」
「はい、なんとなく……」
最後に湯沢の声がして、そこから先は覚えてないが、きっとそれが倒れたということなのだろう。
「湯沢から連絡受けて、校医に診てもらったら軽い風邪だってことだったから部屋で休ませた。とはいえ、倉田は一人部屋だからな、先生が付き添ってたんだよ」
感謝しろよ、と教師が大きな欠伸をする。それを見ていた響がゆっくりと体を起こした。
ベッドの傍に椅子を寄せ座っていた教師が少し立ち上がり、響の背中を支えてくれる。それから再び椅子に座り直した。
「ありがとうございました……あの、ところで千葉くんは……」
「昨日の遅くに戻ってきて、今日は授業に出てるぞ」
教師の言葉に、響が大きく息を吐く。事故や事件に巻き込まれたわけではなかった。ちゃんと戻ってきてくれたんだと思うと、それだけで良かったと思える。
「千葉が心配だったか?」
「はい……同室になってからは夜遊びに出ることなかったのに急に出掛けて、『更生なんてしない』とまで言われて……」
響がため息を零すと教師が、それは、と眉を下げた。
「先生が悪いかもしれない。千葉の場合、根から悪い奴ではなかったから、きっかけ次第で優秀な生徒になると思ってた。実際、倉田と過ごすうちに少しずつ変わっていったし……その途中で『落ち着いてきた』なんて言ってしまったから、元に戻ろうとしたんだと思う。千葉は多分、何か不満があって不良みたいなことをやってるんじゃなくて、みんなと一緒が嫌っていうタイプだと思うんだ。落ち着いてきたっていうのは、つまり、みんなと一緒になってきたってことだから、それが嫌で一昨日は飛び出したんだろう」
迷惑かけたな、と教師が響の頭を撫でる。響はそれに緩く首を振った。
「……僕にもきっと責任はあります。あの、だから千葉くんとの同居はもう少し延長で、それで他の誰かをここに入れることはしないで欲しいんです」
まだ琉成と居たい。他の誰かとこんな生活をするなんて出来ない。言うなら今しかないと思った。けれど教師は、それがなあ、と渋い顔をする。
「他の生徒の進言と、倉田の体調も考えて、今朝千葉は湯沢の部屋に引っ越してもらったんだ。それと別の生徒って話だが……教師同士の冗談だ。せっかく勝ち取った一人部屋なのにそんなことさせるわけないだろう? 千葉だって、倉田が嫌だと言えば拒否できたんだ」
そこまで学校も理不尽じゃないよ、と教師に言われ、響は向かい側のベッドへと視線を向けた。確かにそこはキレイに片付いている。机にも何も置かれていなかった。
「そう、だったんですか……」
響が呟くと、校舎からチャイムの音が響いてきた。ちょうど昼を知らせる音だ。
「昼休みだな。食堂から昼食貰ってきてやるよ。それ食べたらもう少し寝るといい」
待ってろ、と教師が立ち上がり部屋を出ていく。
教師が居なくなると、視界が開けて本当に琉成がこの部屋から出ていったのだと分かった。本当に筆記具一つ、残っていない。
「僕じゃだめだったのかな……」
やっぱり女の子じゃなきゃ満たせないのだろうか。好きだと伝えたわけではないけれど、こんな気持ちだって琉成には迷惑なのかもしれない。それとも、響が琉成に向けるこの気持ちに気づいて、琉成は距離を取ったのか――なんにせよ、もうここに琉成が帰ってこないという現実が寂しくて、響の視界はしだいに涙で歪んでいった。
響が大きくため息を吐く。それと同時に部屋のドアがノックされ、響は慌てて目元を拭ってからそれに答えた。すると、すぐにドアが開いてどたどたとした足音が部屋に入ってくる。
「会長ぉ、お加減どうですか? 熱まだありますか? 何か食べました?」
飛び込んできたのは浅井で、その後ろに湯沢の姿もある。
「ああ、わざわざありがとう。大丈夫だよ」
「全然大丈夫って顔してないですよ!」
ベッドの傍に座り込んだ浅井が心配そうに響の顔を覗き込む。湯沢は響の机の前に収めていた椅子を引き出し、それにどさりと腰掛けた。
「酷い病気とかじゃなくてよかったよ」
「ん……昨日はありがと、湯沢。ああ、そういえば体育祭の企画書、進んだ? 来週までに提出するつもりなんだけど」
「大丈夫、とりあえず倉田は元気になることだけ考えろ」
「そうですよ。もうここに千葉もいないんですし」
湯沢の言葉に続いて浅井が嬉しそうに微笑む。いつもなら、そうだね、と穏やかに返していたのだが、この時は少し眉をしかめてしまった。
「どうして……知ってるの?」
教師の話では今朝移動したということだ。まだ昼なのに、授業に出ていた浅井がこんなに早く知っているのはおかしい。
「それは、ぼくが先生にお願いしたからですよ。千葉の世話、早めに切り上げられないかって。これから行事目白押しだし、会長の負担減らしたかったし」
「浅井が?」
「だって、どう考えてもずっと一緒はずるい……じゃなくて、大変じゃないですか。会長だって迷惑してるんだし。こんなすぐ移動してくれると思わなかったですけど、ぼく、お手柄だと思いません?」
言いながら浅井は向かい側のきれいなベッドを見やる。もう、琉成とここで過ごすことはできない証のようで見ていて辛く、響は視線を手元に落とした。それから無理やり笑顔を作り、顔を上げる。
「教えてくれてありがとう、浅井。湯沢もわざわざ来てくれてありがとう」
「ん。とりあえず思ったより元気そうで安心したよ。学校戻って飯にするよ、浅井」
湯沢は頷いて立ち上がると浅井の襟を掴んだ。
「え、まだもう少し会長と居たいですぅ」
「ダメですぅ。大好きな会長にお前が負担かけてどうするんだよ。倉田、なんか用あったらスマホ鳴らせな。あと、千葉のことは心配するな、悪いようにはしないから」
浅井をずるりと引きずった湯沢に響は頷いて、ありがとう、と答えた。湯沢と、それに引きずられた浅井が部屋を出て、響は大きくため息をついた。
「浅井の奴……なんてことしてくれたんだよ……!」
にこにこといつもの生徒会長の顔で、ありがとう、なんて言ったが、心の中では、お前のせいか、と詰め寄りたくて堪らなかった。
そういえば教師が『他の生徒の進言』とも言っていたような気がする。それが浅井だったようだ。迷惑だなんて、誰も言ってない。もしそれが琉成に伝わったのだとしたら――そう思うと、響は居てもたってもいられなかった。
「琉成に会わなきゃ……」
響はふらつく体を起こして立ち上がった。けれど歩くことはできなくて、そこでへたり込んでしまう。
でもきっと、自分がもう琉成の世話をしない、迷惑だった、と第三者から聞かされた琉成の辛さはこんなものじゃなかったはずだ。もし、琉成が自分と同じように二人の生活が楽しいと感じてくれていたのなら、自分と同じように気持ちを傾けてくれていたのなら、もしも琉成が、自分に捨てられたと感じてしまったのなら――
「琉成……」
動かない体に苛立ち、視界がじわりと滲んだ、その時だった。ノックもなく開いたドアに驚いて響が顔を上げる。
「響……」
そう自分を呼ぶのは今会いたいと思っていた琉成だった。その手にはトレイがあったが、ベッドから落ちている響を見て驚いたのか、咄嗟にそれを机に置くと、響の傍に駆け寄った。
「りゅ……せ……」
その顔を見た途端、瞳にたまっていた涙が溢れ、落ちていく。そんな響に近づいた琉成が優しく響を抱き上げた。
「じっとしてて。まだ、辛いんだろ」
ゆっくりとベッドへと響の体を降ろした琉成は開けたままだったドアを閉め、ベッドの傍へと座り込んだ。
「……さっき先生に会って、昨日倒れてまだ寝込んでるって聞いて……オレのせい、だよね。あんな、雨の中放置したから」
「違うよ。僕のせいだ」
「違わない。オレ、一昨日は考えがまとまらなくて、また寮を抜け出したら今のままで居られるんじゃないか、とか思って……でも、そんなことしたら響が怒られるんだし、オレのこと負担に思うの、当然で……ごめん、響」
頭を下げる琉成に手を伸ばし、その髪を一筋掬う。顔を上げた琉成に響は微笑んだ。
「僕は怒られてないよ。負担にも思ってないし、迷惑でもない。もしかして、僕が迷惑してるって聞いたから、この部屋を出た?」
琉成が響の言葉に頷く。
「……響の傍に居たら、響が巻き込まれるから」
琉成の言葉に、響が首を傾げる。琉成は、一昨日の、と静かに口を開いた。
「オレの服を着ていなかったらあんなふうに絡まれることはなかった。オレが中途半端だから、オレの次にまた誰かをここで生活させるなんて話まで出て……オレがただ響と一緒にいたいと思ったせいで、響のプライベートも奪ってるって気づいて」
ごめん、と再び琉成が頭を下げてからこちらを見やる。眉が下がったその顔は見たことのないくらい寂しそうなものだった。
「そういうことか……別に、僕は平気だよ。だって……僕は琉成が好きだから、一緒にいて迷惑だなんて、一度も思ったことない」
「……え?」
響の一言に、琉成が見たことない顔で驚く。響はその顔がおかしくて、少し笑ってから、もう一度、好き、と告げた。
「僕ね、ずっと琉成に憧れてた。自分を貫く琉成がカッコよかったんだ。僕はどうしても人の顔色見てやりたいことも諦めちゃうから。だから、君と近づきたくて僕は生徒会長なんかになったんだよ、琉成」
じっと琉成の目を見つめ、響がそう言うと、琉成は視線を泳がせた。その時は、自分の思い込みだったかな、と胸に不安がよぎったけれど、次の瞬間、琉成の目がまっすぐこちらを見た時、響は確信した。そして、予想通りの言葉が、琉成の唇から零れる。
「オレも響が好き……ホントは、オレ、ここで響と過ごしたい」
膝立ちになった琉成が響を見下ろす。その泣きそうな顔に、響は頷いて答えた。
「許される限り一緒に居よう、琉成」
腕を伸ばし、琉成の茶色の髪を優しく撫でる。すると琉成はそのままベッドに上がり、響を抱き寄せてキスをした。
「煙草の味しない」
「響が嫌がるから、辞めようと思って」
「いい傾向だね」
響が微笑むと、琉成が少し拗ねた顔をする。
「もう、ホント、その余裕嫌い」
「余裕なんかないよ。だって……僕は男だから、琉成が外で会う女の子のようなことはしてあげられないし……」
柔らかな胸も琉成を包み込んであげられる器官も持っていない。だったらそれをカバー出来る何かをかき集めるしかない。
「……響、勘違いしてるようだから言うけど、オレ、夜出かけても女のとことか行ってないよ。色々噂はあるみたいだけど、この近くに大学生の従兄が住んでて、全部嫌になった時にそこに逃げ込んでるだけ」
「え……? じゃあ、あの、キスとか、は?」
女の子の代わりと思ってしていたキスだ。夜出掛けた先で女の子と会っているわけではないのだとしたら、どうしてあんな要求をされたのか分からない。響が首を傾げると、琉成がベッドの上で正座をした。それからまっすぐに響を見つめる。
「……響としたいから、した」
「……え?」
響が聞き返すと、琉成が眉を下げゆっくりと口を開く。
「響……ひとつ、懺悔してもいい?」
「懺悔?」
「オレ、響が言うなら別に髪黒くしてもいいと思ってるんだよね。ピアスも別にこんなに要らないかなって思ってるし、制服も学校と寮の往復なら普通に着てもいいかなって思ってる」
「……え?」
驚いて琉成の顔を見やると、その顔は申し訳なさそうに歪んで、そのままふいと視線を泳がせた。
「オレ、知ってたんだよね……生徒会長が直に素行監視するってヤツ。響が生徒会長になるって知って、これは響を独り占めするチャンスだって……普通に近づいても、響の目には留まらないと思ったし」
「チャンスって……だから、去年の秋くらいから遅刻が増えたの? たしか、ネクタイしなくなったのもその頃だよな。夜、寮を抜け出してるって報告貰ったのも」
「だって、ブラリのトップに上がらなきゃ一緒に暮らせないし。かといって停学はまずいし。絶妙に違反するのって難しかった」
「……なんでそんなこと……自分の進路とか犠牲にするかもとか、考えなかった?」
ため息を混ぜながら響が聞くと琉成は、だって、と唇を尖らせた。
「他の誰かが、ここで暮らすことになるなんて絶対嫌だった。将来なんかより響が欲しかった」
「琉成、そんなこと考えてたんだ……あのね、琉成、僕は琉成だから受け入れたんだよ。素行監視は通例ってだけで、自分の力で勝ち取った一人部屋なんだから、拒否権はあるんだって」
「そうなんだ……」
琉成がほっと息を吐く。
自分と近づきたくてある意味努力をしていたと分かると、なんだか可愛く思える。時折見えていた真面目さだけれど、やっぱり本来の琉成は真面目で一生懸命な性格なのだろう。
「だから心配しなくてもいい。それに、琉成以外は嫌だって先生には伝えてる」
響が琉成の髪を撫でると、琉成はぎゅっと響を抱きしめた。
「明日からは逆にオレが響を素行監視するから。二十四時間、毎日! 卒業まで……いや、卒業しても!」
「何それ」
くすくすと笑うと、ホントに、と拗ねた顔を向けた。
「響は知らないと思うけど、めちゃくちゃ色んなヤツから狙われてるんだからな。全校生徒って言ってもいい!」
「へえ、知らなかったな」
響はそう、うそぶいた。響が既にそんなこと知っているなんて思っていない隣の可愛い恋人は、真面目な顔で、しっかりしろよ、と説教をする。
「明日からは琉成が見ててくれるんだろ?」
「ああ、任せとけ!」
得意げな顔で頷く琉成に笑顔を向けた響は心の中で、ごめんね、と懺悔する。
――今度は僕が君の毎日を独り占めするチャンス、だよね。

