放課後になると、一番に隣の教室を訪れる。
「依澄くん帰ろー」
まだほとんどの生徒が教室から出ていない、空気のこもった空間に向かって呼びかけると、新しい風が吹いたときのように自然とわたしに視線が集まるのが分かった。
呼ばれた本人というと、大して気にした素振りもなく「ん、今行く」と言ってリュックに手を伸ばした。周りの目に慣れた人の立ち振る舞いだ。
「いつもこっちに来てもらってごめんね、寧々子」
「ううん、気にしないで! 依澄くんの教室の方が階段近いもん」
そう笑いかけると、全く関係のない男子が吐息を漏らした。それを無視して依澄くんと手を繋いで教室を後にする。
「あっ見て。依澄くんと寧々子ちゃん! 手繋いでるの可愛い~」
「ほんっと絵になるよね!?」
「寧々子ちゃんちっちゃくて赤ちゃんみたい♡」
「依澄くんのビジュ爆発しててやばい」
廊下を歩くだけでそんな声があちこちから聞こえてくる。ちらりと斜め上のに目線を上げると、端正な横顔が視界に映った。陽光に照らされ、サラサラとした茶髪がわずかに透けて見える。相変わらず顔だけはいいな、と感嘆したところでまた前を向き、歩を進めた。
わたしたちは付き合っている。
これはこの学校の人なら誰もが知っている事実だ。
文武両道で昨年の文化祭のミスターコンを2位と大差をつけて優勝した依澄くんと、ふわふわとした小動物のように可愛いと入学時から話題になっていたわたし。
色々あって付き合うことになったと友達に報告したら「うわん、わたしたちの寧々子が依澄くんに盗られた〜」「純粋な寧々子に変なことしたら依澄殴る」などと言いつつもお似合いだと祝福してくれた。わたしに嫉妬する人たちを牽制したのも彼女たちだ。
イケメンの彼氏とわたしの味方をしてくれる友達をもつわたしは、本当に環境に恵まれていると思う。
でもわたしには、口が避けても言えない秘密がある。
それを知っているのは今隣にいる、依澄くんだけ。
◇
「ねーーーー見て見て見ていずみん! 昨日のしぃ君の配信なんだけどヤバくない!? この声と表情天才すぎる! ほんっっっとイケメン!!!」
「そのいずみんって呼び方やめてって言わなかったっけ?」
いずみんはタブレットにデカデカと映し出したしぃ君のスクリーンショットを見ても見事なまでのスルーを決め込み、わたしに対して突っ込みを入れた。
「えーいいじゃん、いずみんで。ってかもっとしぃ君の話ちゃんと聞いてよ!?」
「はいはい。聞いてる。聞いてます。今日その話題5回目でもう耳タコですー」
そうわたしを去なすいずみんをよそ目に、昨日のYouTube配信のアーカイブを再生した。途端、わたしを魅了する美声が鼓膜を揺らす。
わたしがこんなにも愛してやまない「しぃ君」こと皇シオンくんは今をときめく人気VTuberだ。金髪碧眼という王子様のような容姿だけじゃなく、どんなリスナーにも紳士的な態度を崩さないかっこいいところや何でも完璧にこなしそうに見えてリズムゲームが下手という可愛いところを併せ持つ。
そんな彼を推してかれこれ3年。高校の受験勉強に疲れていたときにたまたまTikTokで流れてきた切り抜き動画をきっかけに彼を好きになり、今日まで熱烈に応援している。彼が活動を始めたのも3年前。
――つまりそう!わたしは彼の古参オタクなのだ!
彼の配信をリアタイするのはもちろんのこと、アーカイブの再生やXでの布教にも心血を注いでいた。
でも、こんなこと、友達には言えない。
わたしの友達はいわゆる一軍女子で、話題の中心はドラマ俳優かKーPOPアイドルか新作のコスメ。正直どれもあまり興味はないが、きょとんとしていたら「その顔可愛いー!」とわたしを愛でる時間が始まるので困ってはいない。ただ一つを除いて。
それは――。
「純粋無垢!? 守ってあげなきゃ!? え、誰のこと!?!?」
「またいつもの発作か」
彼女達が語るわたしと本当のわたしの乖離ぶりに耐えきれなくなって、定期的にこうして爆発すること。
すっかり慣れたいずみんは動じず、一瞥すらしてくれない。さっきから同じ課題問題とにらめっこしたままだ。仮にも彼女が自室にいてキャーキャー言っているのに関心すらないのか。まぁ別にいいけど。
こんな感じでいずみんの前でだけ素を出しているのには訳がある。
遡ること2ヶ月前。学校からかけ離れたアニメイトでわたしがしぃ君のグッズを買い占めてウッキウキで帰ってきたとき。
「あれ、河原さん?」と背後からいずみんに話しかけられたのだ。
聞こえなかったフリをしてその場を去りたかったが、なんせ彼は学校の人気者。変に噂を広められたら困るので、渋い顔をしながら振り返った。
「何か用?」
キッと睨みをきかせて詰め寄る。
「お願いだから今日わたしに会ったって誰にも言わないで」
そう凄むと、いずみんは少し考える素振りを見せ、ややあってこう言ったのだ。
「じゃあ、俺と付き合ってくれない?」と。
あのときの無駄に爽やかな笑みは今も脳裏に焦げついてなかなか剥がれない。
こうして付き合うことになったわけだが、せめてもの救いはいずみんがわたしに恋愛感情を抱いていないことだ。そのため周りの目を誤魔化すために手を繋ぐ以上のことはしてこない。その代わり――。
「寧々子。何この問題。習ってないんだけど」
「それ前のテスト範囲でやったよ」
「え」
「ほら、そこはいきなり公式に当てはめるんじゃなくて、先に式を変形するの」
「……なるほど?」
放課後は勉強を教えている。
端的に言う。いずみんは頭が悪い。
さすがに「会釈」を「かいしゃく」と読んだときは引いた。
それでも文武両道なイケメンから残念イケメンに降格しないようにテストの順位で1桁台をキープしているのだ。彼曰く顔がいいだけで勉強も運動もできると勝手に決めつけられるのにはうんざりしているがそれよりも周りに馬鹿とバレて幻滅される方が癪に障るとのこと。
わたしと出会う前は学校の人が誰も知らないような個人塾のおじいちゃんに教えてもらっていたらしい。だが年齢を理由に塾を畳むことになってしまい、どうしたものかと困っていたところでちょうどわたしの弱みを握った、と。わたしも一応成績は良い方だし、付き合ったと言っても不自然ではないポジションにいるので、頻繁に会う口実としてわたしの秘密を守る代わりに付き合ってと提案してきたのだ。
なんでそこは頭が回るんだろうか。本当に不思議でならない。あとなんで今まで「会釈」のことがバレなかったのかも謎だ。
「『依澄くんって頭良くていいよね』? はぁぁぁ!? 俺は正真正銘の馬鹿だよ馬鹿!!!! 面がいいからってなんでも出来ると思うなよ馬鹿が!!!!!!」
「自覚できてて偉いね、いずみん」
わたしが発作と似てるなぁと思いながらペットを可愛がるのと同じ要領でいずみんの頭を撫でると、ムスッとした顔で見上げてきた。まるで子どもの相手をしているようだ。可愛げがある。
最初はどうなることかと思っていたが、今はわたしの部屋に入れても問題ないと思えるぐらいに信用している。
あとぶっちゃけ毎回勉強を教えるためにカラオケとかカフェに行くお金があったらしぃ君に貢ぎたいのが本音。地元の図書館って選択肢もあったが、規模が小さく、勉強スペースは受験生や新聞の読む高齢者に占領されているので無理だった。
そんなこともあったなと思い返しながら頭を撫で続けていると、不意に目が合った。
いずみんは悔しそうに眉間に皺を寄せながらも、耳まで真っ赤にして大人しくしている。
やっぱり顔だけは一級品だよね、と頬を緩めつつ、勉強を再開するために手を離した。
◇
「ねーねー、そういえば寧々子って依澄くんとどこまでいったの?」
食堂で昼食を摂っているとき、友達の1人がそう切り出した。
その質問の意図はすぐに分かったけれど、あえてはぐらかす。
「んーとね、夏に他県に行ったのが一番遠出かなぁ」
おどけて言うと「あはは、寧々子純粋でかわちぃ〜」と緩い声が上がった。ひとしきり笑ったところで他の子が口を開く。「てかさ」
「そんな質問寧々子にしないでよ! 寧々子は純粋なんだから!」
「そうだよ。寧々子はあたし達みたいに穢れてない天使ちゃんじゃん!」
「ねー、寧々子?」
「え、と。なんのこと?」
眉を八の字にして上目遣いで彼女たちを見やる。彼女たちはわたしのこの表情に弱い。予想通り小さい子の成長を見守るように生暖かい目を向けてきた。
「そうだよね分かんないよね〜」
「ねねね、依澄くんとはもうチューはした?」
「んー、内緒♡」
――してるわけないじゃん。わたしたち、本当の意味で付き合ってるわけじゃないもん。
そんなこと知る由もない彼女たちは深読みして天を仰ぎ、「これ絶対してんじゃん〜」「依澄この野郎ぉ」「あたしも彼氏欲し〜〜」などと口々に言う。
そして最後には決まった言葉が紡がれる。
「いい、寧々子? いくら依澄くんに頼まれても絶対絶対ぜーーーったい密室に行っちゃダメだからね!!」
――またそれ?
「分かってるよ」
「もぉ〜、意味わかってないでしょ」
「いいんだよ寧々子は。純粋無垢なままで」
「寧々子はあたし達がしっかり守んないとね!」
「えへへ、みんなありがと」
開花を彷彿とさせるような笑みを浮かべると、隣に座っていた子にギュッと抱きつかれた。甘い香水の匂いが鼻腔をくすぐる。
正直、何度も繰り返されるこの「寧々子純粋弄り」は面倒臭いなと思っている。わたしが会話に入ることとわざとらしく話題を変えることがよくあるし、「寧々子は聞いちゃダメ!」ってわざと離れてヒソヒソ話されることもある。まるで子どもが「ままにはないしょ!」って言いながら丸分かりの悪戯を仕掛けているみたいだ。小さい子がする分には可愛げがあるが、それを高校生がするとなると酷く幼稚に見える。
別に彼女たちと下世話な話をしたいわけじゃない。でも彼女たちが「寧々子は純粋だから」って言う度に除け者にされているようで悲しくなるのは、わたしの我儘だろうか。
普段彼女たちに甘えているくせに。純粋キャラのおかげで依澄くんとのことを深堀されずにラッキーとか思ってるくせに。
言えないモヤモヤが心に溜まっていく。
もしわたしがちゃんとそういう意味だって分かってるよって言ったらどうなるんだろう。──きっとガッカリするんだろうな。中学2年生のとき試しに仄めかしてみたらいやらしいものを見るような目で見てきたから。自分たちは平気で口にするくせに、わたしに対しては過剰反応する、あの態度。もう二度と見たくない。
「寧々子」
「っえ、依澄くん?」
不意に声をかけられて驚いて振り返ると、わたしのすぐ後ろに依澄くんが立っていた。
食堂に来るなんて珍しい。普段は教室で食べてるって言ってたのに。
依澄くんは柔和な笑みを浮かべたままわたしの顔を覗き込んだ。
「ちょっと、いい?」
「う、うん」
手を引かれ、食堂の外へと向かっていく。
「いってらっしゃ〜い」
「5限までには寧々子返せよ依澄!」
後ろからは彼女たちからの冷やかしが聞こえた。
◇
依澄くんがわたしを連れてきたのは本来なら立ち入り禁止の屋上だった。ちょっと前に施錠が緩んでいることに彼が気づき、こっそり使わせてもらっているそうだ。
わたしがここに来るのは2回目。多分前と同じ用だと思いながら疑問を投げかける。
「数学で当てられそうになのにまた予習し忘れてたの?」
「いや違うけど」
「えっ、じゃあ何?」
訝しげに問うと、いずみんは気まずそうに目を逸らした。
「何となく、寧々子の顔暗い気がして」
「……よく気づいたね」
まさか気づかれるなんて思ってなかった。
目を丸くするわたしを瞳に移しながら、いずみんが得意げに笑う。
「そりゃいつもあれだけ推し語りされてたら気づくって」
「! 確かに!」
あははっ、と笑いが漏れると、いずみんもつられて笑い声を上げた。学校でよく目にする「依澄くん」の控えめなものとは違い、口を大きく開けて気持ちよさそうに笑っている。
この学校でわたしだけが知る、いずみんの姿。
今に始まったことじゃないのに、優越感を抱くのは何故だろうか。
――もしかして、いずみんがわたしのモヤモヤに気づいてくれたから?
なんとなく、それが理由な気がした。
ふと胸に手を当てれば、さっきまで溜まっていく一方だったモヤモヤが霧散していた。
「……いずみん」
「ん?」
「ありがと。わたしをここに連れてきてくれて」
わたしがお礼を言うと、いずみんは照れ臭そうに首に手を当てた。その様子が可愛くて、また笑みがこぼれた。
学校では「文武両道で完璧イケメンな依澄くん」と「純粋無垢で天然なわたし」、2人きりでは「勉強ができないいずみん」と「しぃ君オタクなわたし」として過ごしていく。
これからもこんな平和な日々が続くだろうと思っていた。
でもある日、全てが瓦解してしまった。
◇
その事実を知ったとき、視界から色が奪われた。全てのものが色褪せて見える。ご飯も味がしないどころか、上手く飲み込めない。
――生きている心地がしない。
そんな状態でも、わたしは学校に行かなければならない。親に欠席理由を上手く説明できないから。
重たい足取りで校門をくぐったときには、息が切れていた。道が急にキツくなったんじゃない。呼吸が浅くなってるんだ。
教室に足を踏み入れた途端、血相を変えた彼女たちに囲まれた。
「寧々子大丈夫!? 顔真っ青だよ!?」
「――――え?」
手鏡を見せられて、ようやく自身の状態を自覚した。異様に白い頬、ファンデーションでも隠しきれない隈、乾いて生気のない瞳。せっかくのわたしの顔が台無しだ。
彼女たちに促されるまま保健室に行き、一限休んでも回復しなかったのでそのまま早退することとなった。
家に帰っても両親は仕事に行っているので独りぼっちだ。何をする気にもなれず、ベッドに倒れ込む。
――あぁ、脳みそが震える感覚がする。
じっとしているはずなのに無理に動かされている感覚。目線が上手く定まらず、瞳を閉じた。わたしという生命体が、泥のように溶けていく……────。
どれくらいそうしていただろうか。
ピンポーンという呑気な音で意識が浮上した。
のっそりとインターフォンモニターの所まで行くと、そこにはいずみんが映っていた。
「……はい」
「寧々子? 早退したって聞いたけど大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
家に迎え入れたいずみんはわたしの姿を見て僅かに目を見開いたあと、深刻な顔つきに変わった。わたしのことを心配しているのだろう。
麦茶を入れたグラスをテーブルに置いた音を最後に、沈黙が場を支配した。
いずみんはどうしてわたしが早退したのか訊きかねているようで、口を開いたり閉じたりしている。きっと、どう訊いたらわたしが傷つかないのか考えているんだ。そんないずみんを見て少しだけ落ち着いてきた。
だから、気づいたときにはポツリと零していた。
「しぃ君、既婚者だったの」
「――――え」
いずみんが言葉を失った。それに構う余裕はなく、衝動的に続ける。
「相手の子、元々しぃ君ファンなんだって。裏で繋がって、それでそのままって感じで……」
昨日、暴露系YouTuberのYouTube配信でそれらが暴かれた。
わたしはそれを、Xのタイムラインで知った。手が震えて、とてもアーカイブなんて見れなかった。
自分を抱きしめるように蹲る。
「……スパチャしたらね、大好きって言ってくれたの」
また一滴零す。
しぃ君の「大好き」なんて営業のための言葉でしかないと分かってた。でも、それでもよかった。しぃ君はみんな同じように扱ってくれるから。画面の上ではだれもが平等。その空間が居心地良くて、好きだった。だから愚かな勘違いをしていた。
「顔を知られてないから、本当のわたしを見てくれてる気になったの」
しぃ君の前ではわたしはただのオタクの1人だった。純粋無垢な天使ちゃんの面影なんて微塵もなかった。
「でも、今までの全部、思い上がりだった」
認めたら急に惨めになって、涙が込み上げてきた。耐えきれなくなって、今まで一人で抱え込んでいた重荷が徐々に崩れ落ち始める。
「わたし、中学のとき浮いてたんだ。顔がいいから調子乗ってるって陰口言われたり、可愛子ぶってる、純粋ぶってる、あれはもうぶりっ子じゃなくてぶりぶりっ子だって馬鹿にされた」
きっかけは中学3年生のときに、友達の彼氏が私に告白してきたことだった。友達に悪いしそもそもわたしはその男子のことが好きでも嫌いでもなかったので当然断ったが、そいつは振られた腹いせかわたしが誘惑されたと周りに言いふらし始めたのだ。そんなことをしてもどうせ誰も信じないだろうと高を括っていた。
だが、周りはそいつの思い通りに動いた。
まずは友達から最低だと罵られた。次にその友達の友達からも「顔がいいからって調子乗ってんじゃねーよ」と怒鳴られた。そんな派手なことが起きたものだからわたしの悪い噂はあっという間に広がった。そうして女子から白目で見られ完全に孤立するかと思った。むしろそうなってくれた方が楽だった。それにもかかわらず男子たちは落ち込んだわたしを慰められるチャンスだと群がってきたのだ。当然またわたしが男子を誘惑したと口々に言われた。きっと元々みんなわたしに不満を持ってたんだと思う。入学時から先輩やら同級生やらの視線を集めるわたしのそばで劣等感を募らせ、それがこんな形で爆発したのだ。悪いことしたなら何してもいいよね、という免罪符とともに。
「高校に行ってもそのままだったらどうしようって不安で不安でどうしようもなかった」
一つ一つ傷をなぞるように口にしていたら止まらなくなった。あのとき溜め込んだ負の感情が今になって雪崩のように押し寄せてくる。
「でも、でもね、しぃ君に会って、わたしは救われてたの」
忘れもしない、全部が嫌になって受験勉強に身が入らなくなったあの日。
ベッドに寝そべりながらなんとなくTikTokを眺めていたときのこと。ふと、とあるVTuberのYouTube配信の切り抜き動画が流れてきた。それまではVTuberというものに関心がなかったが、彼の声の聞き心地が良くてそのまま耳をすませてみた。
果たして彼はこう言った。
──辛くなったらいつでもここにおいでね。俺はずっとここにいるから。
周りの目を恐れて雁字搦めにされていたわたしにとって、しぃ君の優しい言葉は一筋の光だった。
それと同時に、昔から推してたら、いつかこの人の一番になれるんじゃないかって期待した。そんなことあるわけないのに。
「結局……、結局さ、わたしのこと一番好きになってくれる人なんか、いないのかも」
友達はわたしを『純粋無垢な天使』という枠に当てはめて接してくるし、しぃ君にも奥さんがいた。親だってほとんど家にいない。
結局、誰もわたしが好きじゃない。
「それはちょっと心外なんだけど」
「っえ」
自暴自棄なことを言うわたしを咎めるようにいずみんが言った。
顔を上げると、いずみんが真っ直ぐわたしを見ていた。そして不満そうに眉を顰める。
「俺の存在なかったことにしてない?」
――いずみんの存在……?
「……どういうこと? いずみんは別に、わたしのこと好きなわけじゃないじゃん」
勉強を教えてもらうためにわたしのところに来てるだけ。わたしの話を聞いてくれるのも、お互いの弱みを握っているからだ。
わたしの隠した本心すら見透かしたような目で、いずみんが告げる。
「好きだよ」
その言葉は、疑いようがないほど澄んでいた。
「寧々子が、好き」
初めてもらった、混じり気のない好意だった。
だから余計困惑した。
「……な、んで」
やっとの思いで問うと、いずみんは逡巡した後口を開いた。
「最初は……まぁ、顔が好みだったらちょっどいいやって軽い気持ちで声を掛けたんだけど、形だけでも付き合うようになって、なんかさ、活き活きした寧々子を見て、学校の天使キャラよりそっちの方がいいなって思ったというか、気づいたときには皇シオンに嫉妬してたというか」
「嫉妬」と復唱する。いずみんはこくんと頷いてから続ける。
「だからあんま聞きたくなくてテキトーに流してたし、俺のことも同じぐらい考えろよって思った時点で、だいぶ好きだった」
「………そっ……か」
いずみんの気持ちは嬉しいと思った。でもそれと同じぐらい申しわけなさが込み上げてきて、目を逸らしてしまった。
わたしにはいずみんの誠意に応えれるだけの想いがない。
「寧々子が俺をそういう目で見てないのは知ってる」
「……うん」
「だから寧々子は気にせず好きなように振舞っていい。ただ――」
そこで言葉を切り、わたしの隣に座った。控えめに手を重ねる。
「辛いとき、俺を頼って欲しい」
「……わたし、今、しぃ君がいなくなって辛いの。しぃ君は心の支えだったから」
「知ってる」
握る手に力が加わった。それでも痛くないのは、いずみんがわたしを慮ってくれてるからだ。
「だから今いずみんに頼ったら、いずみんの気持ちを利用するみたいになるよ?」
「好きなだけすれば?」
「しぃ君にしてもらってたのと同じぐらい好きって言ってって強請るかもよ?」
「いいよ。無料でいくらでも言ってあげる」
何を言っても受け入れてくれるいずみんに安堵感を覚えて、強ばっていた身体から力が抜け落ちた。
「……何それ。いずみん都合良すぎるよ」
天を仰ぐと、いずみんが得意げに言った。
「少なくともその間だけは、寧々子が俺のこと考えてくれんじゃん」
あぁ、なんでいずみんはこんなところだけ――こんなにも頭が回るの。
わたしはずっといずみんの気持ちに気づけていなかった。でも思い返してみればわたしが頭を撫でたら赤くなってたし、すぐにわたしの異変に気づいてその場から連れ出してくれていた。
わたしがきっと今まで気づかっただけで、いずみんの好きを受け取っていたのだと思う。本当にしぃ君しかまともに見えてなかったのだと実感させられる。
恐る恐る視線を向けると、ふわっと目を細められた。その眼差しはどこか大人な雰囲気も醸し出していて。
いいな、って漠然と思ったの。
まるで新しい光を見つけたみたいだ。
これがどういう意味をもつのかまだ分からない。
だからこれからゆっくりと知っていきたいと思った。
〈了〉
「依澄くん帰ろー」
まだほとんどの生徒が教室から出ていない、空気のこもった空間に向かって呼びかけると、新しい風が吹いたときのように自然とわたしに視線が集まるのが分かった。
呼ばれた本人というと、大して気にした素振りもなく「ん、今行く」と言ってリュックに手を伸ばした。周りの目に慣れた人の立ち振る舞いだ。
「いつもこっちに来てもらってごめんね、寧々子」
「ううん、気にしないで! 依澄くんの教室の方が階段近いもん」
そう笑いかけると、全く関係のない男子が吐息を漏らした。それを無視して依澄くんと手を繋いで教室を後にする。
「あっ見て。依澄くんと寧々子ちゃん! 手繋いでるの可愛い~」
「ほんっと絵になるよね!?」
「寧々子ちゃんちっちゃくて赤ちゃんみたい♡」
「依澄くんのビジュ爆発しててやばい」
廊下を歩くだけでそんな声があちこちから聞こえてくる。ちらりと斜め上のに目線を上げると、端正な横顔が視界に映った。陽光に照らされ、サラサラとした茶髪がわずかに透けて見える。相変わらず顔だけはいいな、と感嘆したところでまた前を向き、歩を進めた。
わたしたちは付き合っている。
これはこの学校の人なら誰もが知っている事実だ。
文武両道で昨年の文化祭のミスターコンを2位と大差をつけて優勝した依澄くんと、ふわふわとした小動物のように可愛いと入学時から話題になっていたわたし。
色々あって付き合うことになったと友達に報告したら「うわん、わたしたちの寧々子が依澄くんに盗られた〜」「純粋な寧々子に変なことしたら依澄殴る」などと言いつつもお似合いだと祝福してくれた。わたしに嫉妬する人たちを牽制したのも彼女たちだ。
イケメンの彼氏とわたしの味方をしてくれる友達をもつわたしは、本当に環境に恵まれていると思う。
でもわたしには、口が避けても言えない秘密がある。
それを知っているのは今隣にいる、依澄くんだけ。
◇
「ねーーーー見て見て見ていずみん! 昨日のしぃ君の配信なんだけどヤバくない!? この声と表情天才すぎる! ほんっっっとイケメン!!!」
「そのいずみんって呼び方やめてって言わなかったっけ?」
いずみんはタブレットにデカデカと映し出したしぃ君のスクリーンショットを見ても見事なまでのスルーを決め込み、わたしに対して突っ込みを入れた。
「えーいいじゃん、いずみんで。ってかもっとしぃ君の話ちゃんと聞いてよ!?」
「はいはい。聞いてる。聞いてます。今日その話題5回目でもう耳タコですー」
そうわたしを去なすいずみんをよそ目に、昨日のYouTube配信のアーカイブを再生した。途端、わたしを魅了する美声が鼓膜を揺らす。
わたしがこんなにも愛してやまない「しぃ君」こと皇シオンくんは今をときめく人気VTuberだ。金髪碧眼という王子様のような容姿だけじゃなく、どんなリスナーにも紳士的な態度を崩さないかっこいいところや何でも完璧にこなしそうに見えてリズムゲームが下手という可愛いところを併せ持つ。
そんな彼を推してかれこれ3年。高校の受験勉強に疲れていたときにたまたまTikTokで流れてきた切り抜き動画をきっかけに彼を好きになり、今日まで熱烈に応援している。彼が活動を始めたのも3年前。
――つまりそう!わたしは彼の古参オタクなのだ!
彼の配信をリアタイするのはもちろんのこと、アーカイブの再生やXでの布教にも心血を注いでいた。
でも、こんなこと、友達には言えない。
わたしの友達はいわゆる一軍女子で、話題の中心はドラマ俳優かKーPOPアイドルか新作のコスメ。正直どれもあまり興味はないが、きょとんとしていたら「その顔可愛いー!」とわたしを愛でる時間が始まるので困ってはいない。ただ一つを除いて。
それは――。
「純粋無垢!? 守ってあげなきゃ!? え、誰のこと!?!?」
「またいつもの発作か」
彼女達が語るわたしと本当のわたしの乖離ぶりに耐えきれなくなって、定期的にこうして爆発すること。
すっかり慣れたいずみんは動じず、一瞥すらしてくれない。さっきから同じ課題問題とにらめっこしたままだ。仮にも彼女が自室にいてキャーキャー言っているのに関心すらないのか。まぁ別にいいけど。
こんな感じでいずみんの前でだけ素を出しているのには訳がある。
遡ること2ヶ月前。学校からかけ離れたアニメイトでわたしがしぃ君のグッズを買い占めてウッキウキで帰ってきたとき。
「あれ、河原さん?」と背後からいずみんに話しかけられたのだ。
聞こえなかったフリをしてその場を去りたかったが、なんせ彼は学校の人気者。変に噂を広められたら困るので、渋い顔をしながら振り返った。
「何か用?」
キッと睨みをきかせて詰め寄る。
「お願いだから今日わたしに会ったって誰にも言わないで」
そう凄むと、いずみんは少し考える素振りを見せ、ややあってこう言ったのだ。
「じゃあ、俺と付き合ってくれない?」と。
あのときの無駄に爽やかな笑みは今も脳裏に焦げついてなかなか剥がれない。
こうして付き合うことになったわけだが、せめてもの救いはいずみんがわたしに恋愛感情を抱いていないことだ。そのため周りの目を誤魔化すために手を繋ぐ以上のことはしてこない。その代わり――。
「寧々子。何この問題。習ってないんだけど」
「それ前のテスト範囲でやったよ」
「え」
「ほら、そこはいきなり公式に当てはめるんじゃなくて、先に式を変形するの」
「……なるほど?」
放課後は勉強を教えている。
端的に言う。いずみんは頭が悪い。
さすがに「会釈」を「かいしゃく」と読んだときは引いた。
それでも文武両道なイケメンから残念イケメンに降格しないようにテストの順位で1桁台をキープしているのだ。彼曰く顔がいいだけで勉強も運動もできると勝手に決めつけられるのにはうんざりしているがそれよりも周りに馬鹿とバレて幻滅される方が癪に障るとのこと。
わたしと出会う前は学校の人が誰も知らないような個人塾のおじいちゃんに教えてもらっていたらしい。だが年齢を理由に塾を畳むことになってしまい、どうしたものかと困っていたところでちょうどわたしの弱みを握った、と。わたしも一応成績は良い方だし、付き合ったと言っても不自然ではないポジションにいるので、頻繁に会う口実としてわたしの秘密を守る代わりに付き合ってと提案してきたのだ。
なんでそこは頭が回るんだろうか。本当に不思議でならない。あとなんで今まで「会釈」のことがバレなかったのかも謎だ。
「『依澄くんって頭良くていいよね』? はぁぁぁ!? 俺は正真正銘の馬鹿だよ馬鹿!!!! 面がいいからってなんでも出来ると思うなよ馬鹿が!!!!!!」
「自覚できてて偉いね、いずみん」
わたしが発作と似てるなぁと思いながらペットを可愛がるのと同じ要領でいずみんの頭を撫でると、ムスッとした顔で見上げてきた。まるで子どもの相手をしているようだ。可愛げがある。
最初はどうなることかと思っていたが、今はわたしの部屋に入れても問題ないと思えるぐらいに信用している。
あとぶっちゃけ毎回勉強を教えるためにカラオケとかカフェに行くお金があったらしぃ君に貢ぎたいのが本音。地元の図書館って選択肢もあったが、規模が小さく、勉強スペースは受験生や新聞の読む高齢者に占領されているので無理だった。
そんなこともあったなと思い返しながら頭を撫で続けていると、不意に目が合った。
いずみんは悔しそうに眉間に皺を寄せながらも、耳まで真っ赤にして大人しくしている。
やっぱり顔だけは一級品だよね、と頬を緩めつつ、勉強を再開するために手を離した。
◇
「ねーねー、そういえば寧々子って依澄くんとどこまでいったの?」
食堂で昼食を摂っているとき、友達の1人がそう切り出した。
その質問の意図はすぐに分かったけれど、あえてはぐらかす。
「んーとね、夏に他県に行ったのが一番遠出かなぁ」
おどけて言うと「あはは、寧々子純粋でかわちぃ〜」と緩い声が上がった。ひとしきり笑ったところで他の子が口を開く。「てかさ」
「そんな質問寧々子にしないでよ! 寧々子は純粋なんだから!」
「そうだよ。寧々子はあたし達みたいに穢れてない天使ちゃんじゃん!」
「ねー、寧々子?」
「え、と。なんのこと?」
眉を八の字にして上目遣いで彼女たちを見やる。彼女たちはわたしのこの表情に弱い。予想通り小さい子の成長を見守るように生暖かい目を向けてきた。
「そうだよね分かんないよね〜」
「ねねね、依澄くんとはもうチューはした?」
「んー、内緒♡」
――してるわけないじゃん。わたしたち、本当の意味で付き合ってるわけじゃないもん。
そんなこと知る由もない彼女たちは深読みして天を仰ぎ、「これ絶対してんじゃん〜」「依澄この野郎ぉ」「あたしも彼氏欲し〜〜」などと口々に言う。
そして最後には決まった言葉が紡がれる。
「いい、寧々子? いくら依澄くんに頼まれても絶対絶対ぜーーーったい密室に行っちゃダメだからね!!」
――またそれ?
「分かってるよ」
「もぉ〜、意味わかってないでしょ」
「いいんだよ寧々子は。純粋無垢なままで」
「寧々子はあたし達がしっかり守んないとね!」
「えへへ、みんなありがと」
開花を彷彿とさせるような笑みを浮かべると、隣に座っていた子にギュッと抱きつかれた。甘い香水の匂いが鼻腔をくすぐる。
正直、何度も繰り返されるこの「寧々子純粋弄り」は面倒臭いなと思っている。わたしが会話に入ることとわざとらしく話題を変えることがよくあるし、「寧々子は聞いちゃダメ!」ってわざと離れてヒソヒソ話されることもある。まるで子どもが「ままにはないしょ!」って言いながら丸分かりの悪戯を仕掛けているみたいだ。小さい子がする分には可愛げがあるが、それを高校生がするとなると酷く幼稚に見える。
別に彼女たちと下世話な話をしたいわけじゃない。でも彼女たちが「寧々子は純粋だから」って言う度に除け者にされているようで悲しくなるのは、わたしの我儘だろうか。
普段彼女たちに甘えているくせに。純粋キャラのおかげで依澄くんとのことを深堀されずにラッキーとか思ってるくせに。
言えないモヤモヤが心に溜まっていく。
もしわたしがちゃんとそういう意味だって分かってるよって言ったらどうなるんだろう。──きっとガッカリするんだろうな。中学2年生のとき試しに仄めかしてみたらいやらしいものを見るような目で見てきたから。自分たちは平気で口にするくせに、わたしに対しては過剰反応する、あの態度。もう二度と見たくない。
「寧々子」
「っえ、依澄くん?」
不意に声をかけられて驚いて振り返ると、わたしのすぐ後ろに依澄くんが立っていた。
食堂に来るなんて珍しい。普段は教室で食べてるって言ってたのに。
依澄くんは柔和な笑みを浮かべたままわたしの顔を覗き込んだ。
「ちょっと、いい?」
「う、うん」
手を引かれ、食堂の外へと向かっていく。
「いってらっしゃ〜い」
「5限までには寧々子返せよ依澄!」
後ろからは彼女たちからの冷やかしが聞こえた。
◇
依澄くんがわたしを連れてきたのは本来なら立ち入り禁止の屋上だった。ちょっと前に施錠が緩んでいることに彼が気づき、こっそり使わせてもらっているそうだ。
わたしがここに来るのは2回目。多分前と同じ用だと思いながら疑問を投げかける。
「数学で当てられそうになのにまた予習し忘れてたの?」
「いや違うけど」
「えっ、じゃあ何?」
訝しげに問うと、いずみんは気まずそうに目を逸らした。
「何となく、寧々子の顔暗い気がして」
「……よく気づいたね」
まさか気づかれるなんて思ってなかった。
目を丸くするわたしを瞳に移しながら、いずみんが得意げに笑う。
「そりゃいつもあれだけ推し語りされてたら気づくって」
「! 確かに!」
あははっ、と笑いが漏れると、いずみんもつられて笑い声を上げた。学校でよく目にする「依澄くん」の控えめなものとは違い、口を大きく開けて気持ちよさそうに笑っている。
この学校でわたしだけが知る、いずみんの姿。
今に始まったことじゃないのに、優越感を抱くのは何故だろうか。
――もしかして、いずみんがわたしのモヤモヤに気づいてくれたから?
なんとなく、それが理由な気がした。
ふと胸に手を当てれば、さっきまで溜まっていく一方だったモヤモヤが霧散していた。
「……いずみん」
「ん?」
「ありがと。わたしをここに連れてきてくれて」
わたしがお礼を言うと、いずみんは照れ臭そうに首に手を当てた。その様子が可愛くて、また笑みがこぼれた。
学校では「文武両道で完璧イケメンな依澄くん」と「純粋無垢で天然なわたし」、2人きりでは「勉強ができないいずみん」と「しぃ君オタクなわたし」として過ごしていく。
これからもこんな平和な日々が続くだろうと思っていた。
でもある日、全てが瓦解してしまった。
◇
その事実を知ったとき、視界から色が奪われた。全てのものが色褪せて見える。ご飯も味がしないどころか、上手く飲み込めない。
――生きている心地がしない。
そんな状態でも、わたしは学校に行かなければならない。親に欠席理由を上手く説明できないから。
重たい足取りで校門をくぐったときには、息が切れていた。道が急にキツくなったんじゃない。呼吸が浅くなってるんだ。
教室に足を踏み入れた途端、血相を変えた彼女たちに囲まれた。
「寧々子大丈夫!? 顔真っ青だよ!?」
「――――え?」
手鏡を見せられて、ようやく自身の状態を自覚した。異様に白い頬、ファンデーションでも隠しきれない隈、乾いて生気のない瞳。せっかくのわたしの顔が台無しだ。
彼女たちに促されるまま保健室に行き、一限休んでも回復しなかったのでそのまま早退することとなった。
家に帰っても両親は仕事に行っているので独りぼっちだ。何をする気にもなれず、ベッドに倒れ込む。
――あぁ、脳みそが震える感覚がする。
じっとしているはずなのに無理に動かされている感覚。目線が上手く定まらず、瞳を閉じた。わたしという生命体が、泥のように溶けていく……────。
どれくらいそうしていただろうか。
ピンポーンという呑気な音で意識が浮上した。
のっそりとインターフォンモニターの所まで行くと、そこにはいずみんが映っていた。
「……はい」
「寧々子? 早退したって聞いたけど大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
家に迎え入れたいずみんはわたしの姿を見て僅かに目を見開いたあと、深刻な顔つきに変わった。わたしのことを心配しているのだろう。
麦茶を入れたグラスをテーブルに置いた音を最後に、沈黙が場を支配した。
いずみんはどうしてわたしが早退したのか訊きかねているようで、口を開いたり閉じたりしている。きっと、どう訊いたらわたしが傷つかないのか考えているんだ。そんないずみんを見て少しだけ落ち着いてきた。
だから、気づいたときにはポツリと零していた。
「しぃ君、既婚者だったの」
「――――え」
いずみんが言葉を失った。それに構う余裕はなく、衝動的に続ける。
「相手の子、元々しぃ君ファンなんだって。裏で繋がって、それでそのままって感じで……」
昨日、暴露系YouTuberのYouTube配信でそれらが暴かれた。
わたしはそれを、Xのタイムラインで知った。手が震えて、とてもアーカイブなんて見れなかった。
自分を抱きしめるように蹲る。
「……スパチャしたらね、大好きって言ってくれたの」
また一滴零す。
しぃ君の「大好き」なんて営業のための言葉でしかないと分かってた。でも、それでもよかった。しぃ君はみんな同じように扱ってくれるから。画面の上ではだれもが平等。その空間が居心地良くて、好きだった。だから愚かな勘違いをしていた。
「顔を知られてないから、本当のわたしを見てくれてる気になったの」
しぃ君の前ではわたしはただのオタクの1人だった。純粋無垢な天使ちゃんの面影なんて微塵もなかった。
「でも、今までの全部、思い上がりだった」
認めたら急に惨めになって、涙が込み上げてきた。耐えきれなくなって、今まで一人で抱え込んでいた重荷が徐々に崩れ落ち始める。
「わたし、中学のとき浮いてたんだ。顔がいいから調子乗ってるって陰口言われたり、可愛子ぶってる、純粋ぶってる、あれはもうぶりっ子じゃなくてぶりぶりっ子だって馬鹿にされた」
きっかけは中学3年生のときに、友達の彼氏が私に告白してきたことだった。友達に悪いしそもそもわたしはその男子のことが好きでも嫌いでもなかったので当然断ったが、そいつは振られた腹いせかわたしが誘惑されたと周りに言いふらし始めたのだ。そんなことをしてもどうせ誰も信じないだろうと高を括っていた。
だが、周りはそいつの思い通りに動いた。
まずは友達から最低だと罵られた。次にその友達の友達からも「顔がいいからって調子乗ってんじゃねーよ」と怒鳴られた。そんな派手なことが起きたものだからわたしの悪い噂はあっという間に広がった。そうして女子から白目で見られ完全に孤立するかと思った。むしろそうなってくれた方が楽だった。それにもかかわらず男子たちは落ち込んだわたしを慰められるチャンスだと群がってきたのだ。当然またわたしが男子を誘惑したと口々に言われた。きっと元々みんなわたしに不満を持ってたんだと思う。入学時から先輩やら同級生やらの視線を集めるわたしのそばで劣等感を募らせ、それがこんな形で爆発したのだ。悪いことしたなら何してもいいよね、という免罪符とともに。
「高校に行ってもそのままだったらどうしようって不安で不安でどうしようもなかった」
一つ一つ傷をなぞるように口にしていたら止まらなくなった。あのとき溜め込んだ負の感情が今になって雪崩のように押し寄せてくる。
「でも、でもね、しぃ君に会って、わたしは救われてたの」
忘れもしない、全部が嫌になって受験勉強に身が入らなくなったあの日。
ベッドに寝そべりながらなんとなくTikTokを眺めていたときのこと。ふと、とあるVTuberのYouTube配信の切り抜き動画が流れてきた。それまではVTuberというものに関心がなかったが、彼の声の聞き心地が良くてそのまま耳をすませてみた。
果たして彼はこう言った。
──辛くなったらいつでもここにおいでね。俺はずっとここにいるから。
周りの目を恐れて雁字搦めにされていたわたしにとって、しぃ君の優しい言葉は一筋の光だった。
それと同時に、昔から推してたら、いつかこの人の一番になれるんじゃないかって期待した。そんなことあるわけないのに。
「結局……、結局さ、わたしのこと一番好きになってくれる人なんか、いないのかも」
友達はわたしを『純粋無垢な天使』という枠に当てはめて接してくるし、しぃ君にも奥さんがいた。親だってほとんど家にいない。
結局、誰もわたしが好きじゃない。
「それはちょっと心外なんだけど」
「っえ」
自暴自棄なことを言うわたしを咎めるようにいずみんが言った。
顔を上げると、いずみんが真っ直ぐわたしを見ていた。そして不満そうに眉を顰める。
「俺の存在なかったことにしてない?」
――いずみんの存在……?
「……どういうこと? いずみんは別に、わたしのこと好きなわけじゃないじゃん」
勉強を教えてもらうためにわたしのところに来てるだけ。わたしの話を聞いてくれるのも、お互いの弱みを握っているからだ。
わたしの隠した本心すら見透かしたような目で、いずみんが告げる。
「好きだよ」
その言葉は、疑いようがないほど澄んでいた。
「寧々子が、好き」
初めてもらった、混じり気のない好意だった。
だから余計困惑した。
「……な、んで」
やっとの思いで問うと、いずみんは逡巡した後口を開いた。
「最初は……まぁ、顔が好みだったらちょっどいいやって軽い気持ちで声を掛けたんだけど、形だけでも付き合うようになって、なんかさ、活き活きした寧々子を見て、学校の天使キャラよりそっちの方がいいなって思ったというか、気づいたときには皇シオンに嫉妬してたというか」
「嫉妬」と復唱する。いずみんはこくんと頷いてから続ける。
「だからあんま聞きたくなくてテキトーに流してたし、俺のことも同じぐらい考えろよって思った時点で、だいぶ好きだった」
「………そっ……か」
いずみんの気持ちは嬉しいと思った。でもそれと同じぐらい申しわけなさが込み上げてきて、目を逸らしてしまった。
わたしにはいずみんの誠意に応えれるだけの想いがない。
「寧々子が俺をそういう目で見てないのは知ってる」
「……うん」
「だから寧々子は気にせず好きなように振舞っていい。ただ――」
そこで言葉を切り、わたしの隣に座った。控えめに手を重ねる。
「辛いとき、俺を頼って欲しい」
「……わたし、今、しぃ君がいなくなって辛いの。しぃ君は心の支えだったから」
「知ってる」
握る手に力が加わった。それでも痛くないのは、いずみんがわたしを慮ってくれてるからだ。
「だから今いずみんに頼ったら、いずみんの気持ちを利用するみたいになるよ?」
「好きなだけすれば?」
「しぃ君にしてもらってたのと同じぐらい好きって言ってって強請るかもよ?」
「いいよ。無料でいくらでも言ってあげる」
何を言っても受け入れてくれるいずみんに安堵感を覚えて、強ばっていた身体から力が抜け落ちた。
「……何それ。いずみん都合良すぎるよ」
天を仰ぐと、いずみんが得意げに言った。
「少なくともその間だけは、寧々子が俺のこと考えてくれんじゃん」
あぁ、なんでいずみんはこんなところだけ――こんなにも頭が回るの。
わたしはずっといずみんの気持ちに気づけていなかった。でも思い返してみればわたしが頭を撫でたら赤くなってたし、すぐにわたしの異変に気づいてその場から連れ出してくれていた。
わたしがきっと今まで気づかっただけで、いずみんの好きを受け取っていたのだと思う。本当にしぃ君しかまともに見えてなかったのだと実感させられる。
恐る恐る視線を向けると、ふわっと目を細められた。その眼差しはどこか大人な雰囲気も醸し出していて。
いいな、って漠然と思ったの。
まるで新しい光を見つけたみたいだ。
これがどういう意味をもつのかまだ分からない。
だからこれからゆっくりと知っていきたいと思った。
〈了〉



