あれは本当に、苦い思い出だ。 私にとっては、二度と経験したくない思い出だ。
だから、墓場まで持っていくことにした。
あれは20代前半の時だった。
「え、マッチングアプリ?」
「そうそう。私も登録するから、一緒に登録しない?」
「え、いいよ。マッチングアプリなんて興味ないし、めんどくさいし」
「そんなこと言わずに、登録してみない? ほら、新しい恋見つかるかもしれないじゃん」
「ええ……」
しかし友達に誘われて、半ば強引に友達と同じマッチングアプリに登録をした。
当時私は高校の時から付き合っていた彼との遠距離恋愛が原因で、彼と別れたばかりだった。
登録するか迷ったが、無料ということもあり登録することにした。
「このマッチングアプリ今人気だから、きっといい人に出会えると思うよ」
「そうかな……」
「いいじゃん、マッチングアプリで婚活しようよ、婚活」
「婚活って……気が早いって」
婚活ね……。本当にそうだといいけど……。まあ、期待はしないでおこう。
しかし登録してから数日で、何人かの人とマッチングした。 そのうちの一人とお互いに気になりメッセージでのやり取りを始めた。
その人は当時私よりも一回り年上の方だったこともあり、話し方や言葉の使い方が上手で、かなり好印象を持てた。
当時の彼は30代後半だけど、東京のとある所で整体師をしている方で、整体院を開業している人だった。
名前は向田(むこうだ)篤宏(あつひろ)さん。向田さんと実際に会うことになった私は、とあるカフェで向田さんと待ち合わせをすることになった。
当時の私はとても緊張していたけど、初めて実際に会った時の向田さんは、写真よりも筋肉質でカッコイイ人だった。
緊張している私に向田さんは「朝ごはん食べたかな? まだなら、一緒に食べない?」と聞いたくれたり、「店内寒くない? 大丈夫?」と気を遣ってくれたりと、やはり紳士的な人だった。
そんな向田さんに私は、少しずつ心を開くことが出来た。 好きな食べ物、趣味、好きな音楽、休日の過ごし方など、向田さんからたくさん質問をしてくれたおかげで、話しやすくなったと感じてさらに好印象になった。
カフェを出る時も向田さんがお会計をしてくれて、優しい向田さんは「いいよいいよ。お財布しまって」と言ってくれて、本当に素敵な人だな、と思った。
こんなに好印象な人なら、マッチングしてみて本当に良かったかも……と思った。
この人と付き合うことも、考えてみてもいいかもって思えた。
食事を終えた後、自分の職場を案内したいからと私を職場の整体施術院に連れて行ってくれた。
個人で経営しているそうで、住宅街の路地にポツンとあるような整体施術院だけど、立派な職場で私の身体の歪みとかも見てくれると言ってくれたので、見てもらうことにした。
私の身体の歪みについて詳しく教えたくれたことで、さらに向田さんの印象は上がった。
お茶を出してくれて、整体師を目指したきっかけとかも話してくれて、私も話が弾んだ。
帰り際に、向田さんから「良ければ、結婚を前提にお付き合いしてほしい」と告白されて、戸惑いはあった。
私自身、本当に私で大丈夫なのか不安になって「私は12個も下ですけど、大丈夫ですか? 向田さんより子供だから、釣り合わないかもしれないですけど……」と言ったけれど、向田さんは「むしろ……俺こそ12個も上だけど、大丈夫なのかい?」と聞かれた。
だけど私は、もし将来のことを本当に真剣に考えるなら、こういう人がいいと思えたのも事実だったので「私は、向田さんとならしっかり将来のことを考えていける気がします」と答えていた。
こうして私は、向田さんと結婚を前提に付き合うことを決めた。
でも向田さんに出会えことは奇跡だと思えていたのに、それも束の間だった。
* * *
「はあ、今日もダメか……」
向田さんとの交際が始まってから二週間が経った頃から、毎日連絡をくれていた向田さんと急に連絡が取れなくなってしまった。
「既読、付いてない……」
電話も繋がらず、LINEを送っても既読がつかなくなった。
私は向田さんのことが、とても心配になっていた。でも連絡が繋がらないので声を聞くことも出来ずにいた。
どこで何をしているのか、どうして連絡が付かないなのか、何か事件にでも巻き込まれてしまったのではないか、そんなことを考えていた。
心配になり向田さんの職場へ向かったけど……。
「え、休業……?」
そこで私は、向田さんが経営する整体院が休業していたことを知った。
どういうことなのか状況がわからず、気になりながらも帰宅したが、翌日のニュースで向田さんのことが流れてきたのだ。
「……え?」
向田さん……? 今ニュースを読んでいるキャスターさんは確かに、向田さんの名前を言った。
いや、でも……向田という名字は何人もいるしそう珍しい苗字ではない。
きっと同姓同名だ。 そうだよ、同姓同名だ。
でもニュースで流れている内容は、向田さんと名前だけではなく、年齢や職業まで一致していた。
「ウソ……だよね?」
目を疑いながらそのニュースを見ていると、向田さんは特殊詐欺に関わっていたようで、特殊詐欺容疑で警察に逮捕されていた。
「え……特殊、詐欺……?」
いやいや、待って。理解が出来ない……。特殊詐欺って、なに?
え、向田さんが……詐欺をしてたの?
しかしニュースを見ると、特殊詐欺の内容が内容で、現実味がない。
一緒にマッチングアプリを登録した友達の亜佐美(あさみ)にも、このことは言えずに黙っていた。
そもそも言える訳もないので、黙っておくしかないのだけど……。
マッチングアプリで出会った人は何人かいるけど、私にとって向田さんは本当に素敵な人だった。
この人なら、信じてみてもいいかもって思ったのにな……。
ニュースによると、向田さんはマッチングアプリで知り合った女性に結婚をほのめかし、実際に指輪を渡して現実味を持たせて信用させてから、整体院の経営が苦しいからお金を貸してほしいと、女性たちからお金を巻き上げていたらしい。
後日のニュースで実際に見せてもらったあの整体院は実はウソで、整体師というものウソだったことが発覚した。
あれは女性を騙すためだけに作った偽の整体院で、経歴も職業も全部ウソだった。
私が向田さんと連絡が取れなかった理由はたった一つだけだ。 私から巻き上げられるほどのお金がないとわかったから、私をターゲットから外しただけ。……ただそれだけだった。
あのニュースの後、私も警察から事情を色々と聞かれたが、向田さんからお金を取られることは一切なかった。
私を詐欺のターゲットにしていたのだとわかって悔しかったけど、それ以上に向田さんを信じてしまった私が情けなくて悲しくなった。
親にも男を見る目がないと言われてしまい、とにかく落ち込んでしまった。
幸い、お金を取られなかったことは不幸中の幸いだと母親には言われたけど、まさにその通りだと思えたのが救いだ。
何よりも、私以外の女性が向田さんのターゲットになりお金を巻き上げられていたことがショックだった。
向田さんがいい人だとすっかり信じきってしまった私は、本当に男を見る目がない。
確かに今思えば、付き合って数日した頃に貯金の話や推し活をしているかなどの話をされた時に、疑問に思うべきだった。
なぜそんなことを聞くのか、と疑問を持つべきであった。
まさかマッチングアプリで出会って結婚の約束をしていた人が、特殊詐欺に加担して逮捕されていたなんて……こんな話は友達にも情けなくて出来る訳がない。
そもそも、こんな話は私にとって思い出したくもない出来事なので、これから死ぬまで墓場まで持っていくことにした。
それから数年後に、私は別のマッチングアプリで知り合った人と数年交際し、そのまま結婚した。
【完結】