きみにとっての“誰か”になりたい


 気づけば、翌週の火曜日になった。
 明日から試験が始まるせいか、教室内が少し張り詰めた空気になっているのを感じる。

 今日までの約1週間のあいだ、青衣くんは学校に来なかった。それは彼から直接聞いていたから分かっていたことだったけれど、やっぱり寂しかった。

 夜は、日曜日以外は浜辺でお喋りして、さらに青衣くんとは仲が深まったと勝手に思っている。もはや習慣と化していて、彼と話すことが当たり前になっていた。

 相変わらず学校も家も息苦しいけれど、青衣くんと話すだけで、心がうんと軽くなる。塾でも、彼と会えると考えるとワクワクして、逆に集中できる日が続いていた。

 今日は来るかなあ、と彼が教室に現れることを期待を胸に待つ。昨日の夜、『曲だいたい作れたから明日もしかしたら行けるかも』と言っていたから、扉のほうばかり見てしまう。
 でもその日、結局彼は朝から学校に来ることなく、沈んだ気持ちになる。そうしているうちに昼休みになった。

「あー明日からテストかあ。だるいなあ」

 3人で机をくっつけてお弁当を食べていると、莉奈がはあっとため息をついた。

「それな。早くテスト終わらないかな」
「うん、まだ始まってないよ? 美蕾」
「だってさー、花梨。今日も帰ったら勉強しないといけないって考えたら辛いじゃん」
「んーわかるよ。精神的に参っちゃうよね」
「そうなんだよ……、嫌だなあ」

 美蕾が本当に嫌そうに言うから、苦笑いしてうなずいた。
 試験期間は確かにしんどい。結果を出さないとお母さんにまた小言を言われるから、どうしても成績は下げられない。
 今朝も『期待してるからね』と家を出る前に声をかけられ、かなりの圧を感じた。

 期待に応えるために、頑張らなきゃ。そう思うのに、そう思えば思うほど、どんどん逃げ出したくなるのはどうしてだろう。

「赤点取ったら、りんりんに前みたいに勉強教えてもらおうかな……」

 頭を抱えながら、莉奈が言う。
 勉強が苦手な彼女は、中間考査のときも悲惨な結果だったらしく、私に泣きついて来た。

 勉強を教えるのは苦じゃないし、中学のときから頼まれることは慣れていたから、彼女の言葉に小さくうなずいた。

「もちろん。そのときは一緒に頑張ろうね」
「はー……りんりんってなんでそんなに優しいの? ありがとう、女神様!」
「こら、莉奈。花梨に甘えてないで、ちゃんと自分で今日も勉強するんだよ?」
「うう……っ、わかってるよおお」

 3人で話していると、こうやって自然に笑みが浮かぶことも多い。莉奈と美蕾はどちらもサバサバしているから、関わりやすいのだ。

「でも試験が終わったら体育祭が待ってる!」
「わ、ほんとだ。しかも体育祭が終われば夏休みだね」
「うわーっ、最高! 早くテスト終われええ」

 私自身、行事ごとは性格上あまり盛り上がるタイプではない。それでもやっぱり、もっとこのふたりと仲良くなって、“3人グループ”でいることの違和感を拭えるようになるかも、という願いに近い期待はある。
 そんなことを心の中で考えながら、莉奈たちと他愛もない話に花を咲かせているときだった。

 突然、ガラッと教室の扉が開いた。

 その瞬間に、扉付近に立っているその人に教室中の視線が集中した。私が思わず声を漏らしそうになったとき、手塚くんが「え、青衣じゃんっ!!」と駆け寄って行き、当の本人は涼しい顔をして教室に入ってきた。

「寝坊したわ」

 ふわっとあくびをしながら、手塚くんにそう言う青衣くん。そのお顔は少し疲労が滲んでいるように見えたけれど、今日も今日とてカッコよすぎて直視できなかった。

「寝坊ってお前、もう昼休みだぞ?! どんだけ寝てるんだよ!」
「あーなんか、アラーム掛けるの忘れてたんよな」
「適当かよっ」

 手塚くんはそんなツッコミを素早く入れながらも、青衣くんが登校してきたことが嬉しいのが丸わかりで、ハイテンションで彼に話しかけに行く。

 すごく明るくて、そこにいるだけで教室の雰囲気が良くなるような男の子。それが手塚くんだ。

 そんな彼を引き連れながら、青衣くんはそのまま気だるげに自分の席まで歩いて行く。
 私たちの席を通る間際、ふと視線をこちらに向けた彼と、パッと目が合った。

 夜の浜辺で会うのと学校で会うのとは全然違くて、動揺してお箸を落としてしまいそうになる。
 なんとか平静を装っていたら、そんな私の様子に気づくわけでもなく、青衣くんは小さく舌を出した。

『遅くなった』

 そう彼の表情が物語っているのを感じて、心臓がぎゅっと締め付けられる感覚に陥る。

 ……待ってたのに、遅いよ。
 そう言いたい気持ちをぐっと堪え、私は青衣くんに対して少しだけ肩をすくめた。

 それを見てふっと微笑んだ彼は、手塚くんと一緒に自分の席に向かった。

「なあー、俺寂しかったよ! 最近ずっと青衣がいなくて!」
「その言葉なんで手塚が言うん。なんでお前なんや」
「え、待って青衣ちょっと半ギレ?! 俺なんか変なこと言った?」
「知らん。寝る」
「うぉーい! さっきまで寝てたんじゃないのかよっ」

 そうしているうちに、机に突っ伏して寝る体勢に入った青衣くん。そんな彼を悲しそうに見つめる手塚くんとの、漫才のような掛け合いにくすりと微笑んだ。

 先ほどのアイコンタクトは誰にも気づかれていない。そんなふたりの秘密が嬉しくて、しばらくにやにやが止まらなかった。

「青衣くん、学校来てくれたね。それだけで午後の授業頑張れそう……」

 途端に元気になる美蕾に、莉奈が「単純か」とツッコんだ。ふたりのやりとりに少し罪悪感を抱きながらも、にこにこと笑みを浮かべた。

 青衣くんと、毎晩一緒にで浜辺で話しているだなんて、……ふたりには言えない。特に【am】のファンである美蕾には、どう思われるかわからない。嫌われるかもと思うと、臆病な私は口火を切ることが出来ない。そんな自分が嫌いだし、変えたいと思う。だけど、そう簡単な問題じゃないことは自分でも重々承知している。

「あっそういえば、美蕾。昨日のドラマ観た?!」
「観た観た! 泣けたよねえ、最終回気になる」
「いやそれな? ヒロインの女優さんも可愛くて最後だよね!」
「ほんとそれ。花梨も観ればいいのに!」

 ふたりにしか分からない話題だからと、黙々とお弁当を食べながら静かに口を噤んでいると、突然美蕾に話を振られてびっくりする。

 テレビは正直、見続けるとお母さんが怒るから、最近は避けていた。ドラマの話になると、ふたりに全くついていけなくなるのは悲しいけれど、こればかりはどうしようもない。
 お母さんが厳しいとは言いづらくて、脳内で言葉を選んで口を開いた。

「あっ、いや私は……。テレビはあんまり観なくて」
「まあ、だよね。りんりんは真面目だもん」
「ほんっと、尊敬。うちらとは違うよね」
「そんなこと、……ないよ」

 私だって、ふたりと何も変わらないのに。そうやって一歩線引きされるのは辛い。でも、きっと、線引きしているのは私のほうなのだ。言いたいことを堪え、愛想笑いばかりしている私のほうが、自ら彼女たちから線を引いている。

『うちらとは違う』

 その“うちら”が、私以外のふたりを指しているということも、いまの私はしんどいと思った。

「りんりんみたいに真面目なら、あたしも明日からのテスト撃沈しないのになあ」
「莉奈、しっかり撃沈する気満々じゃん。そんなんだと、本当にそうなるよ」

 去年から同じクラスのふたりは、会話のテンポが早くて、ときどき置いて行かれてしまう。
 そういうときは、ニコニコしながらうなずくのが吉だということはもう学んでいる。

「美蕾もそう言いながらやばいでしょ? あたしと同じくらい」
「いーや、実はちゃんと毎日勉強してますよ。私は莉奈とは違うんだからね?」
「うわーっ、美蕾のうらぎり者だ! 3人のうちあたしだけが赤点確定か……」
「今日帰ってから勉強したら変わるかもだから、やってみるだけやってみなよ」
「無理無理。だってスマホがあたしのこと大好きだから、勉強に浮気できないもん」
「何言ってんの。花梨を見習いなって」

 私はふたりに真面目だと思われているし、それを否定しようとも思わない。確かに毎日塾で勉強しているけれど、それはお母さんに小言を言われることや、親がいないときに静かな家で孤独を感じたくないことが理由だなんて、口には出せないのだ。

 私だって、莉奈や美蕾が羨ましい。

 ふたりのご両親は優しくて、テレビを一緒に見る日常がある。子どもが勉強熱心で真面目だということより、もっと大事なものが、ふたりの家庭にはある気がする。
 家庭のことを友だちに話すことは避けている。だって、聞いてもらったところで別に何も変わらないから。ふたりならきっと、気まずそうな表情で顔を見合わせるだろうという想像だってある。

 きっと、私の気持ちは誰にもわかってもらえない。
 それでいい。何も、求めてなんかない。

「あ、次移動教室じゃん! 早く準備しないと」

 美蕾がそう慌てたように言い、我に帰る。確か、次の授業は化学の実験だ。急いでお弁当を食べ、机を離す。
 必要な教材を持ち、3人で当たり前のように廊下を並んで歩く。

 だけど前から人が通るのに、3人で広がって歩くと通路のじゃまになっていると感じると、すぐに私は彼女たちの一歩後ろに下がった。その私の行動に気付かず、ふたりはきゃっきゃと楽しそうに話をしている。後ろからぼーっと莉奈と美蕾を眺めていたら、彼女たちと私とのあいだに果てしなく高くて厚い壁が立ちはだかっているように見えた。

 3人で行動しているのだから、勝手に私が遠慮するべきじゃないんだとわかっている。だけど、心のどこかで、ふたりの輪に頑張って入るのはしんどいなと思うのだ。

 ……頑張ることを、すべてやめてしまいたい。
 そんな衝動に駆られ、瞼の奥が熱くなった。

 ……いますぐ、青衣くんと喋りたいよ。優しい声で、私を包んでほしい。早く、夜にならないかな。

 そんなことを俯きながら考えていると、幾分離れて歩いていた莉奈が声をかけてきた。

「あれりんりん、考え事? 置いてくよー?」

 前を向くと、ふたりは不思議そうに私を待っていた。その様子で、私の存在をきちんと認識していたことに、なぜか急に安心した。ふたりにいつか、私の存在ごと忘れられて居場所がなくなることを、無意識に想像していたのかもしれない。

 悪いことを考えると、負のループに陥る。だから、無理やり口角を上げてでも、自分を奮い立たせるべきだ。

「……ごめん! ぼーっとしてた」
「もー、りんりんってば、ときどき不思議ちゃん発動するよね」
「うんうん。何考えてるかわからないとき、結構ある」
「そ、そうかな……」

 心の扉を開けていないことを責められているように感じるけれど、美蕾の表情からはそういう気持ちは込められていないことがわかる。

 感情を表に出すことは難しい。何を言われるかわからなくて怖いから。友だちにそんな気を遣うべきじゃないことも理解している。

「青衣って移動教室とかするんだ! 新鮮だな!」
「当たり前やろ。俺やって普通の高校生やねん」
「高校生に見えねえくらい大人びてるけどな!」

 3人で廊下を歩いていると、青衣くんと手塚くんが私たちを追い越した。
 青衣くんの背中を見たら、ふっと心が軽くなる。彼の声を聞くだけで、幸せな気分になる。

 この不思議な現象は学校だと余計に強くなるらしく、いつもはモノクロの学校という場所が、途端に彩りある場所のように思えた。

 ……やっぱり、青衣くんはすごいなあ。

 私のヒーローみたいだ。辛いとき、悩んだとき、そこにいてくれるだけで元気になれるんだもの。
 さきほどまでの消極的な考えは綺麗に流れて、自然と笑みが浮かぶ。

 ……ありがとう、青衣くん。

 手塚くんとボケツッコミを繰り返している彼に向けて心の中でそう呟き、軽い足取りで実験室へと入った。





 その日の夜。
 試験前夜ということもあって、不安なところを見直していたら、いつもより30分ほど塾を出るのが遅くなった。

 急いで浜辺に向かうも、既に、いつもはふたりで帰る時間帯だ。

 もしかしたら青衣くん帰っちゃったかな……。
 早足で砂浜を歩き、街灯の近くへとたどり着く。そこには私の不安を消し去るように、ヘッドホンを付けて海を眺めている青衣くんがいた。

「青衣くん、来たよ」

 嬉しくてそう呼びかけるも、ベッドホンのせいか、彼に声が届かない。
 それが悔しくて、青衣くんのところまで小走りで向かい、彼の顔を覗き込んだ。

 それに目を見張って反応した彼は、私だと認識すると、ふっと表情を和らげて口を開いた。

「花梨か。脅かさんでや」
「だって、声かけても気付いてくれなかったから」
「あーそれはごめんやん」

 全然思ってもなさそうな棒読みに、思わずぷっと吹き出した。

「なんで笑うん」
「え、だってさっきの青衣くんの『ごめん』、全然心こもってなかったもん」
「うわ、花梨ひどいわー。俺の誠心誠意込めた謝罪をそんなふうに言うなんて」
「うそばっかり」

 ふたりでそんなことを言いながら笑い合う。そんな時間が楽しくて仕方ない。

「今夜は来やんのかと思った」

 彼がそう口にする。私の目を見て不思議そうに首を傾げる青衣くんに、慌てて返答する。

「明日からテストだから。勉強してたら、遅くなっちゃって」
「あーなるほどな」

 そう短く言葉を区切った青衣くんは、ふっと私から目を逸らして言い放った。

「危ないから、あんまり夜遅くにひとりで町歩くんやめてな」
「え、慣れてるから大丈夫だよ。それに家近いし」

 きょとんとする私に、青衣くんは焦ったように言葉を重ねる。

「あほ、そういう問題ちゃうねん」
「ど、どういう問題?」
「……花梨は女の子やねんから夜道は危険! やから心配させんでって話!」
「えっ、あ……はい、わかりま、した」

 怒ったような口調で彼に畳み掛けられてびっくりしたけれど、かけられた言葉はすごく優しくてドキッとしてしまう。
 照れたようにツンとそっぽを向いているのも青衣くんらしくなくて、だんだんと頬が熱くなる。

 ……青衣くん、心配してくれてるんだ。
 それがすごくすごく嬉しくて、胸がぽっと温かくなる。

「小さい町やとしても、危ないもんは危ないねんで? わかってるか、花梨」

 その口調は、幼い子を叱る親のようだ。だけど表情には心配が滲み出ていて、その優しさと温かさが伝染する。

「わかってるよ……! でも、どうしても青衣くんと話したかったから」
「もー……またそういうこと言うやろ」

 困ったように微笑む青衣くんは、海風のせいで揺れる髪を鬱陶しそうにかき上げる。街灯に照らされた彼は美しくて、思わず息を呑んだ。
 その美しさに魅了されていると、ふとある疑問が浮かび、ちらりと彼を見る。

「ねえ、もしここで私と毎晩話してるって誰かに知られたら、青衣くんの活動に影響出たりしない……?」

 言葉にすると、余計に不安が湧いて出る。
 青衣くんはいまをときめく有名人で、現代の、特に若い人たちには絶大な人気を誇っている。そんな人が、ふたりで毎晩異性と話していると知られれば、彼の音楽活動に悪影響が出るのもうなずける。

 だけど当の彼自身は、なんでもなさそうに首を振って否定をした。

「それはない。俺は事務所に入らず個人で活動しているだけやし、メディアにも出てないから、普通に一般人なんや」
「でも、いつかテレビとかに出るようになったら、問題になるかもだよ?」
「俺はアイドルやないし、問題にはならんって。何があっても花梨には迷惑かけへんから安心して」
「……そっかあ」

 いまとなりにいる彼が、テレビの音楽番組に出演していることを想像する。迷惑かけない、というフレーズが彼を遠い存在に感じさせて、少し悲しい。それに、曲はもちろん良いのに、加えて顔立ちが整っているから、テレビなんかに出たらたちまち話題になるだろう。

 そんなに有名になったときも、私と変わらず話してくれるのだろうか。
 いつかそのままどこかへ消えてしまいそうな彼だからこそ、そんな不安に駆られた。

 ちらりと青衣くんを垣間見る。しかし彼も私のほうをじっと見ていたらしく、バチッと音が鳴りそうなほど目があった。
 しばらくそのままでいると、先に視線を逸らした彼は、おもむろに口を開いた。

「俺は俺の音楽を、世界中の人たちに聴いてもらいたいわけじゃないねん」
「えっと……それはつまり、どういうこと?」
「メディアの露出とかは、たぶんしやんってこと」

 青衣くんは、いまどこを見ているのだろう。隣にいるはずなのに、すごくその存在が遠く感じる。

 その横顔が孤独を映していて、ただそばにいたい衝動に駆られる。私なんかが、彼に何かしてあげられるとは到底思えない。だけど、ただすぐ近くにいて話を聞くことは出来ると思った。

「……所詮音楽に囚われてるんよな、俺は」

 今日の青衣くんは、難しい表情をすることが多い。言葉の真意を問いたくても、詮索できない空気を纏っているから仕方ない。
 青衣くんが話したいときに、話してくれたら良いと思う。彼を孤独にしている何かから、楽にしてあげたいと思う。

 傲慢かもしれないけれど、私が彼に救われている部分がとても多いから、そう考えることは許してほしい。

「ねえ青衣くん。明日、学校来る?」

 沈黙を破るように私がそう尋ねると、彼はもちろんと言うふうに首を縦に振った。

「当たり前や。前も言うたけど、結構単位危ないんよな」
「お願いだから……留年はしないでね?」
「あ、花梨俺のことバカにしてるやろ。残念やけど花梨の後輩には絶対ならんからな」

 その言葉に、『花梨センパイ』と超絶嫌そうに呟く青衣くんを想像する。現実味があまりないけれど、なんだか笑えてくる。それに気づいた彼は、拗ねたように唇を尖らせた。

「良くない想像してるやろ」
「うふふ、……うん。後輩になった青衣くんも悪くないかもなって思ってた」
「うわー、花梨ひどいって。でも、ほんまにそうならへんように明日からなるべく毎日学校行くわ」

 曲作りもひと段落ついたし、と付け足す彼の言葉に、思わず自分の表情が明るくなったのを自覚した。

「ほんとに?」

 1トーン上がった私の声に気付いたのか、青衣くんが可笑しそうに口を開く。

「花梨って、俺のこと大好きやな」
「なっ……! そういうのじゃないし!」
「へえ、やっぱ素直じゃないなあ」

 くすくすと目を細めて笑う青衣くん。今日も透き通るような甘い声で、私を柔らかく包み込んでくれる。

「でも、青衣くんが来てくれたら……学校がいつもよりずっと、意味のあるものに思えるんだ」
「えー、そんなん言われたら毎日登校してまうって」
「あ、無理はしないでね。青衣くんは青衣くんが来たいときに学校に来てほしいから」
「それは、花梨もやで」

 えっ、と口を半開きにさせて固まる私に、青衣くんは再度言う。

「花梨も、行こうって思ったとき学校に行けばいいねん。心殺して、自分の気持ち知らんふりして行ったらあかんで」

 その声はいつもより一段と優しくて、冷え切った心がゆっくりと解凍していくように思えた。

「どうしても頑張られへんときは、頑張らんでいいねん。無理に心と身体に鞭打って、もう何も出来ひんくらいだめになった人見てきたから、花梨にはそうなってほしくない」
「うん、……ありがとう。だけど大丈夫だよ、私は。……ぜんぜん他の人より頑張ってるわけじゃないし、限界ってほど辛いわけじゃないから」

 そういえば、【am】の新曲『日常シンドローム』にこんなフレーズがあったのを思い出す。

  “ 誰かより、がんばっているわけじゃない
   毎日が辛いわけでもない
   それなのになぜかすごく泣きたい日がある”

 本当にその通りだなと感じた。別に私は、特別頑張っているわけじゃないのだ。世の中のたくさんの人たちの悩みをかき集めたら、きっと私の悩みなんてすごくすごくちっぽけだ。

 そう考えたから無意識にさっきのようなことを口にしたけれど、その私の言葉に、青衣くんは困ったように微笑んだ。

「他の人から見たら、自分の悩みなんかちっぽけやと思うかも知らん。たぶん、みんなそう思って生きてる。でも、自分にとっては、花梨にとっては、そう簡単に片付けられるもんちゃうやろ」

 青衣くんはどうして、いつも私に寄り添ってくれるのだろう。
 当たり前のように学校に行くべきだなんて言わずに、私の好きなようにしろと言う。他と比べず、バカにせず、私の言葉を聞こうとしてくれる。

 ただそれだけなのに、それだけのことがすごくすごく嬉しくて、瞼の裏が熱くなった。

 ……泣いたらきっと、青衣くんが困っちゃう。
 そう思ってなんとかぐっと、涙を堪えた。

「大丈夫やで、花梨。学校休んだって、自分の本音ぶつけたって、世界は進んでいく」

 青衣くんは、何気なく話しているのかもしれない。それくらい、彼の横顔は柔らかかった。ぽろっと涙をこぼす私をちらりと見て、青衣くんは少し乱雑に、自分の服の袖で私の目元を拭ってくれる。

「俺を見てみ? 単位危ないわ本音言いまくるわしてるけど、こうやって日常を送れてるねんからさ」

 冗談めかして言う青衣くんに、ふっと笑ってしまう。
 青衣くんみたいに、自由に生きてみたいと思う。それが実現できるのは、何年先かわからない。私が、私自身を変える決意を固めないと、前に進めないのだ。

 それでも、いままで靄がかかっていた未来が幾分か明るく思えたのは、紛れもなくとなりにいる彼のおかげだと思う。

「青衣くんは……すごいね」

 彼がこういう考えを持つようになるまで、どれほどの過程があったのかは計り知れない。
 彼の過去を聞くには、私はまだ未熟だ。もし私がもう少し自分を大切にできるときが来たら、彼のとなりで彼の言葉に耳を傾けたいと思う。

「ぜんぜん。俺はいつだって、逃げてばっかりや」

 悲しそうに微笑む彼は、海をじっと眺めた。私から見えている彼は、どこまでも強くてカッコいい。自由で、自分の翼で飛び立っている気がする。それなのに、逃げてばかりだと自嘲する彼は、何を想っているのだろうか。

「そんなこと、ないよ……」
 私の小さな呟きは、冷たい風にさらわれて海の底へと沈んでいった。
 


 家の玄関を開けると、電気が点いていた。

 下を見ると靴が揃えてあり、母親の気配を感じて少し気を張り詰める。
 お父さんはまだ帰ってきていないらしい。話し声がいっさい聞こえない。

 ただいま、と言うためにおそるおそる廊下を歩く。

「試験前日なのに、どこほっつき回ってたの?」

 リビングに入ると、お母さんは厳しい表情をしながら硬い声で尋ねてきた。今日はいつもより帰りが遅くなったから、きっと怒っている。

 ぴりぴりと家中の空気が張り詰め、さきほど青衣くんのおかげで溶けかけていた心がまた徐々に冷えて行く。

「塾で勉強してたら……遅くなっちゃって」

 小さく答えると、お母さんは途端に声を荒げた。

「嘘言わないでよ! 最近お母さんの帰りが遅いときも、家にいないらしいじゃないっ! 塾の閉校時間はとっくに過ぎてるでしょ?!」

 2日ほど前、その日も変わらず青衣くんと話していて夜遅くに帰ると、お父さんがお母さんより先に帰宅していたときがあった。
 私が帰ったときに、お父さんは普通に接してくれたけれど、あとでお母さんに『花梨の帰りが遅い』というように告げ口したに違いない。それでいま、お母さんは私が、試験を気にせず遊んでいると思って怒っているのだ。

 お父さんは、いつもそうだ。私に直接注意せずに、お母さんに全部言うのだ。そういうところが、いつだって嫌いだ。

 お母さんはお母さんで、全然私の話を聞いてくれない。だからいつも、反論できずに怒られ続けるのだ。
 ……違う、勉強はちゃんとしてる。ただ、青衣くんとの時間は、私にとって何よりも大切なの。

 そんなことを訴えたって、お母さんには絶対に響かない。頭ごなしに叱られ、ぐっと言葉に詰まって、こんなときだって何も言い返せない自分に苛立つ。

 私が黙っているのをいいことに、お母さんは怒りをヒートアップさせる。

「お母さんだって仕事やら家事やらで忙しいんだから、これ以上面倒ごと増やさないでよ!」

 ぐっと唇を噛み締める。
 ……わかってる。お母さんがどれほど忙しいかも、そのせいで最近すごく苛々していることも。子どもの私が想像する以上に大変なのだろう。

 だけど、こんなふうに私のことを“面倒ごと”と言ってしまうお母さんが少し怖かった。どうしたらいいのか、本当にわからない。

「ごめん、なさい……」

 俯いて小さく謝った。掠れた声だったけれど届いていたらしく、お母さんは長いため息を吐いてから口を開いた。

「花梨は真面目で良い子でしょう? お母さん、わかってるから期待してるの」
「……うん」
「お願いだから、良い子でいてね」

 “良い子”って、何? お母さんの思う“良い子”は、黙って勉強して、怒られても反論しなくて、真面目な子どものこと?

 不完全な感情が黒く渦巻いていく。私はどこまでも、この人の人形なのだろうか。彼女は私の奥にある本質を、まったく見ようとしないのに。
 でも、“良い子”でいるのは慣れてしまった。そうあることが、お母さんの求める像なのだと中学生になった頃から理解していたのだ。

 私を怒っていたお母さんの顔は、よく見たらかなり疲弊の色が滲んでいた。仕事が忙しくて、夜ごはんを作っている暇などないことは、私だって幼くないのだからわかる。

 ……あの浜辺で、家族3人で遊んでいた頃が懐かしい。

 あれほどキラキラした純粋な日々は、年を重ねるごとに遠くなっている気がする。

「ごめんなさい。私、頑張るから」

 きっと私は何も変われていない。
 青衣くんと話すようになって、少し強くなった気がしていたのに、全然だめだ。

 いつまでもお母さんのしがらみから逃れられない。本当の気持ちを伝えるのには、すごくすごく勇気がいることだということを改めて実感した。

「……頼んだわよ」

 そう言い残すと、お母さんはお風呂に向かう。リビングにひとり残された私は、テーブルの上にラップにかけられているお皿を見つけた。

 それは私とお父さんの夜ごはんだった。
 帰って急いで作ったのだろう。簡易的な生姜焼きだったけれど、最近お母さんの手作り料理を食べていなかったから嬉しかった。

 こうやって同じ家にいるのにバラバラで食事するようになったのは、私が塾に通いだし、さらにお父さんとお母さんの仕事が忙しくなった数年前からだ。

 冷え切った夜ご飯を電子レンジで温め、取り出して「いただきます」と手を合わせた。
 お母さんの味はずっと変わらなくて、泣きそうになる。

 もっと本音で言い合える親子関係でい続けられると信じて疑っていたかったのに……どうしてこうなるんだろう。

 私は明日からも、“良い子”でいなければならない。

 そう考えると終わりのない日常に吐き気がして、お箸を動かす手を止めた。

「……私、変われるのかな」

 小さく呟いた声は静かなリビングの宙を舞い、誰にも届くことなく消えていった。
 


 試験が無事終わり、日常が駆け巡るように戻ってきた。

 少しずつ夏へと近づいていき、カッターシャツの季節へと移り変わっている。登校中は歩いているだけで軽く汗ばむようになり、夏の訪れを感じていたある日のこと。

 試験期間は宣言どおり登校していた青衣くんだったけれど、試験が終わった後も、2日に一回というペースで学校に来るようになった。

 その日も彼は朝から眠そうに登校してきていて、手塚くんに絡まれてうざったそうにしながらも教室に馴染んでいた。

「あ〜、体育やだなあ」

 次の授業は体育のため、体操服に着替えて、莉奈と美蕾といっしょに体育館へと向かう。
 ふたりとも運動は苦手らしく、体育の授業はいつもだるそうだ。私はそこまで嫌というわけではないので、莉奈の嘆きに曖昧にうなずいておく。

「夏は本当に運動したくないんだよねえ……。うちの学校、まだ水泳の授業ないのが救いだよ……」

 莉奈がぐったりしていると、美蕾が「汗かくの嫌だよね」と同調する。ふたりとも美意識が高いから、先ほども更衣室で日焼け止めを塗りたくっていたのを思い出した。
 私ももう少し女子力高ければなあ……。
 そこでふとあることを思いついて、ふたりに問いかける。

「でも体育祭前だから、ガッツリ運動!っていうよりは、種目決めとかになるんじゃない?」
「あーそっか! もうあと1ヶ月切ってるもんね」
「ほんとだ。でも運動苦手民からすれば、体育祭は応援だけで充分だって言いたいよ」

 美蕾の言葉に苦笑いをする。確かにうちの学校の体育祭は、学年競技に加えて、個人競技をなにかひとつ必ず出場しないといけないという規則がある。

 ちなみに私たち2年生の学年種目は台風の目だ。美蕾によると、台風の目は複数で同時に走るからまだマシで、3年学年種目の全員リレーはひとりひとり走るたびに注目を浴びるから本当に嫌らしい。

 莉奈と美蕾は走るのが苦手、という面でも共通点がある。そのたびに結託していて、得意ではないけれど苦手でもなくて同調できない私は、少し居心地がわるかったりする。

「種目決めで1時間経たないかなあ……」
「莉奈ってば、それはないよ。まず種目決めの前にラジオ体操と補強運動が待ってるんだからさ」
「うわ、美蕾、現実見せないでよ。あたしはいま逃避してるんだから」
「逃避したってすぐそこに現実が迫ってるって……」
「ふたりとも、ほら元気出して。予鈴なる前に早く行かなきゃ」

 憂鬱そうなふたりの肩を叩きながら歩き、急いで体育館に入る。
 今日は男女混合で授業があるから、クラスの男子もたくさん集まっていた。

「青衣〜! 馬跳びしようぜ! ほら!」
「嫌や。ガキみたいなことしやんねん、俺は。手塚ひとりで跳んどき」
「は?! そんなイタいこと俺ひとりにさせる気なのか、青衣は!」
「手塚なら大丈夫や」
「なにがだよ?!」

 ふたりの声も聞こえてきて、バレないようにくすりと笑う。手塚くんの明るいテンションと青衣くんの低めのテンションがミスマッチで面白いのだ。

 ふととなりを見ると、美蕾がじっと青衣くんを見つめていた。その瞳からは愛が溢れ出ていて、私はそっと彼女から視線を逸らした。

「もー手塚って、ほんとに青衣くんのこと好きだよね! 転校当初はどうなることかと思ったけど、手塚が天然だから今があると思うわあ」

 しみじみと莉奈がふたりを見ながら、そう口にした。青衣くんが転入してきた当初の、あの手塚くんに怒った事件はしっかり、教室にいたみんなの記憶に刻まれているらしい。

 莉奈が言うように、手塚くんはかなり天然だと思う。側から見れば、青衣くんは最初の頃は目に見えてわかるほど手塚くんを拒絶していた。ギターを勝手に触ってしまったのも、彼からすれば悪気があったわけではないと青衣くんが理解するまでに、ふたりの関係はギクシャクしていたはずなのだ。

 それが今のようになったのは、絶対的に手塚くんがめげずに青衣くんに話しかけ、彼が学校に来ればしつこいくらいに追いかける……といった、本当に青衣くんが大好きなんだなあと他人でも感じる行動を続けていたからだと思う。

 青衣くん自身も、最近学校にいても口角が上がっていることが多くなったと思う。
 そのおかげか、先日クラスメイトの女の子たちが「最近の青衣くん雰囲気丸くなったよね」と言っていたのを耳にした。

 夜は変わらずふたりで静かに浜辺で話しているけれど、学校にいる彼とは少し違うから新鮮だ。いろんな彼を知れてちょっぴり嬉しい。

「よかったよね、本当に。青衣くん、あんなに良い歌詞を書くんだもん、すごく優しい人なんだってわかるから」
「もーっ美蕾、青衣くんのことになったら嬉しそうに語るんだから! 可愛いなあ」
「莉奈、やめてよ。そんなことないってば」

 照れくさそうに微笑む美蕾を見て、ちりっと小さく胸が痛む。
 その痛みは隠しつつ、私もにっこりと微笑んだ。
 それと同時に予鈴が鳴り、慌てて整列し、そうしているうちに授業が始まった。
 準備運動も終わり、息が上がったところで先生が「座れー」と呼びかけた。

 背の順の列で、となりの美蕾としんどいねなんて言いながら冷たい床に座る。みんなが座ったことを確認した先生は、私たちに向かって大きな声で言った。

「薄々勘づいてる奴もいるだろうが、今から体育祭の種目決めをしてもらう」

 途端にザワザワと騒がしくなり、となりで体育座りをしている美蕾も、私を困ったように見つめてきた。

「やっぱり花梨の予想、的中したね」
「うん、何出ようかなあ……」
「私はなんにも出場したくないよ……」

 ため息を吐く美蕾に苦笑しつつ、先生の話に耳を傾ける。

「注意点は、個人競技はひとり1つ以上必ず出ること! それさえ守ってくれたら後はなんとかなるから、今から20分で決めてくれ〜」

 先生の合図で、とりあえずぞろぞろと女子と男子で分かれて、話し合いを始める。
 クラス委員長の子が取り仕切ってくれて、玉入れや50メートル走などはスムーズに決まっていく。ちなみに美蕾たちは、玉入れを死守できたらしい。喜んでハイタッチをしていた。

 玉入れ、借り物競争、50メートル走、100メートル走など、比較的軽い種目は埋まっていき、リレーや長距離走が残っていく。こうして見ていると、うちのクラスの女子は運動が苦手な子が多いのかも知れないと思った。

 私はこれといって出たいものがなかったため、足の速い子たちの迷惑にならないようリレー以外の何かに入れたらいいなと思っていたために、まだ手を挙げていない。どうしようかな……と迷いながらも、どんどん話は進んでいく。

「あとは200メートル走と、スウェーデンリレーと、女子リレーと、クラス対抗リレーが残ってるけど、どうする?」

 うちのクラスの女子は他クラスより2人少ないため、何人かは複数の種目を出場しなければならない。今残っているのは、バレー部と陸上部の子に加え、ジャンケンに負けて残ってしまった2人だった。

 私は帰宅部で体力がないため、なるべくひと種目だけがいいなと思いつつ、おそるおそる口を開いた。

「私は200メートル走がいいな……」

 その私の言葉に、ジャンケンに負けた子たちが慌てたように顔を上げた。その表情は絶望感が滲み出ていて、嫌な予感が湧いてくる。
 その予想は的中し、彼女たちは懇願するように私にパンっと両手を合わせてきた。

「お願いっ! 200メートル走は譲ってほしい!」
「えっ」

 困った、と眉を下げるも、ふたりの意志は固いらしく、ずいっと身を乗り出してくる。

「確か芹名さんって私より足速かったよね……?!」
「で、でも0.1秒とかの差だったと思うけど……」
「それでも速いものは速いよ! お願い、どうしてもリレーは嫌なの……!」

 私だってリレーは正直やりたくない。運動部で足が速い人たちに囲まれて走るなんて辛いし、放課後にバトンパスの練習なんかもある。その気持ちはみんな同じだ。

 でも、目の前のふたりは何度もジャンケンに負けているせいか、本当に泣きそうな顔をしていて、こちらも首を縦に振らざるを得なくなってくる。

「芹名さん! お願い!」
「2枠譲ってください……!」

 私だって気持ちは同じだったけれど、これ以上話を続けても私が折れるしかないと判断して、なんとか「わかった」と声を振り絞ってうなずいた。

 その途端、ぱっと表情を明るくした彼女たちを見たら、これで良かったんだと思える気がした。

「ありがとう! 芹名さん」
「芹名さんって本当に優しいよね……っ、助かった。ありがとう!」
「……いやいや、そんなことないよ。ぜんぜん大丈夫だよ」

 にっこりとふたりに笑みを向ける。彼女たちはもう一度お礼を言ったあと、嬉しそうに去っていった。

 ……また、“良い子”になってしまったなあ。
 別に偽善者になっているわけじゃないのだ。私が何か意見を押し通して、それで嫌な思いをする人がいるなら、私の意見なんか変えてもいいと思っているだけ。そこまで意志が強いわけじゃないから。

 いいの、私はこれで。
 そう自分に言い聞かせ、クラス委員長に向き直った。

「今残ってるのは、芹名さんと、バレー部坂木(さかき)さんと、陸上部山波(やまなみ)さんね。3人でリレーどうするか決めてくれる?」

 3人で顔を見合わせてうなずき、検討した結果、私は女子リレーに出ることになった。それだけでも少し憂鬱だったけれど、でもまだ他の種目にも枠が余っていて、次はその枠に誰が出るかという論争に入った。

 ちなみに空いているのは、スウェーデンリレー1枠と、クラス対抗リレー2枠。
 とびきり足の速い陸上部の山波さんは、部活動対抗リレーも出なければならないため、種目の順番的にクラス対抗リレーを出ることが出来ず、もとに決めていた女子リレーに加えてスウェーデンリレーも走ってくれることになった。

 坂木さんも率先して、クラス対抗リレーも走ってくれることになった。
 残るはクラス対抗リレーのもうひと枠。

 正直、私たち3人とクラス委員長以外の女子たちは、もうこれ以上巻き込まれまいと知らんふりを決め込んでいる。どうせ誰かが行ってくれる、という暗黙の空気を感じて、息が詰まった。

 こういうとき、皆んなが私に行けと思っているように感じるのは、きっと自意識過剰だ。私が手を挙げれば丸く収まるのだと思うと、挙げざるを得なくなる。
 学年種目と慣れない女子リレーに加え、クラス対抗リレーなんかに出れば、きっと体力なんて持たない。それに、そんなに速くない私が出ても、クラスのみんなに迷惑がかかるだろう。

 だけど、最後に残った3人がやってくれる……という空気が流れ始め、誰かが口火を切った。

「……芹名さんなら、走れそうじゃない?」
「うん、わかる。だって運動部じゃないけど、わたしたちより速いし?」

 その声を聞いて、思わずびくっとする。どうやら矛先は私に向いているらしい。

「ねえ、芹名さんやってみる気ない? みんなもそう言ってるしさ」

 クラス委員長までも、そう私に言い出した。彼女の表情は疲弊していて、さっさと決めて終わらせたいという感情が面に溢れ出ている。それを見たら、嫌だなんて言えるわけがなかった。

 しょうがない、……そう思い、無理やり笑顔を作ってうなずいた。

「わかった、やってみるね。もしかしたら皆んなに迷惑かけちゃうかもだけど……努力するよ」
「さすが芹名さん……っ!」
「ありがとう、芹名さんならやってくれると思ってた」

 口々にお礼を言われ、笑顔が引き攣っていくのを自覚する。
 ……大丈夫、私が頑張れば良いだけの話だ。

 それなのに、ちらりと青衣くんの存在が頭にちらついた。
 ……やっぱり私は、変われない。嫌だ、私もやりたくない、そんな少しの言葉さえ出せないのだ。

 自分の不甲斐なさに悲しくなり、「芹名さんさすが!」と無邪気に盛り上がる女子に隠れて、なるべく男子のほうは視界に入れないようにした。

 ……きっといま、青衣くんの顔を見たら、泣いちゃう気がしたから。
 ぎゅっと唇を噛んで、『私は大丈夫』と呪文を唱える。しばらくそうしているうちに落ち着き、莉奈たちが寄ってきた。

「りんりんってば、さすがだねえ」
「ほんとに。花梨が出てくれて助かったもん」
「……ううん。本当にそんなことないって」

 莉奈と美蕾も、正直ほっとした表情が隠しきれていないように思う。あの場で私が首を縦に振らなければ、みんなで平等にジャンケンで決めていたと考えられるから。

 でもそんなことを言ったって仕方ない。
 私が、ちゃんとやるって決めたんだから。やると決めたなら、やり遂げないと意味がない。

 ……朝か放課後にでも、ランニングしなきゃな。

 私が遅いせいでクラスがビリになったら、悔やんでも悔やみきれない。絶対に迷惑かけたくないため、努力するしかないのだ。

「女子決まったよ〜」

 クラス委員長の子が、男子の輪に入っていったのが見えた。男子たちはとっくに決まっていたらしく、興味深そうに女子のエントリーシートを眺めている。
 クラス対抗リレーということは、男女混合だ。きっと女子から誰が出るのか、興味津々なのだろう。

 ……ああ、憂鬱だ。そんなに速くもないのに、なんでこんなこと。
 ネガティブになりそうな思考を慌てて消して、考えることをやめようと、無意識に笑顔を作った。

「よし、決まったみたいだな。じゃあ集まれ〜」

 先生の合図で、だるそうにみんな集まっていく。整列して座り、そうして先生の話を少し聞いてから、学年種目の練習に入った。

 私は正直、体育祭当日のことに頭を抱えていたせいで、莉奈と美蕾と話しているときも練習しているときも上の空だった。
 ふたりは私の様子に気づいていなかったから良かったけれど、頑張って笑顔を見せるのはしんどかった。

 ふと体育館を見渡すと、身振りも声も大きい手塚くんと、うざったそうな青衣くんが目に入る。ふたりは今も仲良くコントのような会話をしているようで、離れていてもぜんぶ聞こえてくる。

「青衣! バトンパスの練習しようぜ!」
「俺は手塚にバトン渡さへんし、逆もせーへんのに何の意味があるんや」
「うわ辛辣っ! ただの練習だって〜」
「ふーん、そうなんや」
「もっと辛辣! クラス対抗リレー、俺と青衣のあいだって芹名さんだったよな? 呼んでこようかな!」
「わざわざ呼ばんでいいねん」

 突然手塚くんから私の名前が出てきたから、反射的にびくっとしてしまう。

 どうやら手塚くんと青衣くんも、クラス対抗リレーに出るらしい。ふたりとも見た目から運動神経が良さそうだから不思議ではないけれど、余計に憂鬱になってきた。

 ……青衣くんに、遅いって思われたら嫌だな。本番で、バトンパス失敗したらどうしよう。

 そのことが頭の大半を占めていて、台風の目の練習の最中もまったく集中できなかった。そのせいか何度か転びかけて、莉奈たちにも他の子にも心配されてしまった。

 ……こんなんじゃ、だめだ。
 しっかりしないといけないのに。

 そう思うたびに頭がぐらぐらしてきて、心が壊れていく音がする。それが聞こえるのは私だけで、それがまた辛くなった。

 そんな私を、青衣くんがじっと見ていたのなんて知らずに、その日の体育の授業は終わった。



「花梨、無理してるやろ」

 その日の夜。
 夜の浜辺で、青衣くんはそう私に言った。

 私が来た瞬間、迷うそぶりなく尋ねてくるところは青衣くんらしい。彼の表情がいつになく柔らかいことに少し安堵した。

「……ぜんぜん、無理なんかしてないよ」

 そう答えながら、三角座りをした膝の上に顎を乗せる。視界いっぱいに広がる夜の海は、いつ見ても美しく儚い。緩く揺れる波が、私の存在ごと流してくれてもいいのにと思う。そんな仄暗い気持ちは、青衣くんにはお見通しなのだろう。

 私の返答に、青衣くんはぐっと顔を近づけてくる。目の前に彼の端正なお顔が現れて、ドキッと胸が高鳴る。

 もう……、心臓に悪いよ。
 ときどき距離感がおかしくなる青衣くんに心を乱されていると、彼はさっきより声のトーンを下げて言う。

「俺に隠し事なんか百年早いで。花梨が自ら、リレーふたつなんか選ばんやろ」
「……うっ、選ぶかもしれないじゃん」
「いーや、そんなはずない。現に、台風の目の練習のとき、元気なかったやん」

 その言葉に、ちらりと彼を見た。青衣くんの瞳は少し心配の色が滲んでいて、その優しさに甘えそうになる。

 なんで、……気づいてくれるんだろう。

 あの場にいたクラスの女の子たちは、みんな気づいてくれなかったのに。どうして、あの場にいなかった青衣くんが、私のことをわかってくれるんだろう。

 柔らかい方言が、ゆっくりと心をじわじわと温めてくれる。青衣くんの声は、人を落ち着かせる魔法があると思う。

「……私、元気なかった?」

 いつもどおり笑顔でいたはずなのに。真意を悟られないよう、必死で取り繕ったのに。
 信じられない思いでそう聞くと、彼はなんでもなさそうに口を開いた。

「元気なかったどころか、顔色もわるかった。話しかけようか迷ったくらいやで」
「うそ、……みんなにもそう思われてたらどうしよう」

 あの数分の決め事で悩んでいるだなんて、他の子が知ったらどう思うかわからない。引き受けたくせにしんどくなってるなんて、可哀想な子だと思われるかもしれない。
 思考が嫌な方向へ進み、どんどん気分がわるくなる。ここには青衣くんしかいないのに、誰かに見られているような感覚になり、負のループに陥った。

 そんな私の様子を勘づいたのか、青衣くんはぽんっと私の頭に手を乗せた。
 その温もりに驚くけれど、徐々に安心が勝っていく。

「俺は花梨をよー見てるから気づいただけや。他の奴らが気づくほどやない」

 私のことをよく見てる、と恥ずかしげもなくさらりと言いのけた青衣くん。勝手にこちらが照れてしまうほど直球な物言いは、私にはないものだから、いつものことながら尊敬する。

 私も、彼のようにズバッと言えたら、状況が違ったかもしれない。ないものねだりだけれど、やっぱり青衣くんは私のヒーローなのだ。

「俺の前では素直でおること。これ原則って言うたはずやで」
「青衣くんは……優しいね」
「そー? 花梨のほうが何百倍も優しいけどな」
「そういうところだよ……」

 急かさずに、ただとなりにいて、話したいときに耳を傾けてくれる存在。いままで彼のような人はいなかったから、新鮮で、かつ幸せだ。
 うまく言葉で言い表せない部分でも、青衣くんならわかってくれるという自信が湧くほど、彼と心の距離が縮まっているような気がする。

 言葉を発しない時間も愛おしい。夜がこんなに続いてほしいと思ったのは、彼と出会ってからだ。

 青衣くんには、嘘なんてつけない。彼の雰囲気は、嘘を許さないと言われているように思えるから。
 でもやっぱり弱音なんて吐けなくて、吐くべきじゃなくて、自分を奮い立たせる言葉を操る。

「……体力ないけど、みんなに迷惑かけないように頑張るんだ。大丈夫、なんとかなるから」

 青衣くんの前だと自然に笑顔になる。おかげで今の表情は、不自然ではなかったと思う。
 それなのに、彼は真剣な顔で言うのだ。

「それは、花梨のほんまの気持ちなん?」
「うん、……そうだよ?」

 あまのじゃくな私に、青衣くんは諦めずにさらに言葉を紡いでいく。

「たまには、叫ぶくらい自分の気持ち放り出してもいいんやで。いくらでも聞くから」

 優しい言葉だ。気を抜くと涙が落ちそうになる。
 私は大丈夫。そう思っているけれど、私が感じている以上に、限界なのかもしれない。

 本音を言うのは怖い。
 お母さんにも、友達にも、ほかのみんなにも。心の内を明かさずに、常に“良い子”でいるよう心がけていたら、何も本音で話せない人間になってしまった。

 変わりたい、だからこそ。
 変わってもいいと言ってくれる彼には、その第一歩を始める勇気を出したいと思った。

「不安、なんだ。……すごく」

 小さく話し出す私に、青衣くんは耳を傾けてくれる。何か返答するわけでもなく、ただそばにいてくれる安堵に、言葉が淀みなく溢れ出る。

「小学生のときから、先生にはいつも『芹名さんは真面目だね』って褒められて。必ず班長とか、そういうリーダーみたいなのは……任されてたの」

 その頃は、重荷に感じたことはなかった。だけど、期待されていることはわかっていたから、失敗しないように大人に気を遣っていたのは事実だった。

「中1の頃だったかな。友達から、委員会の集まりに出るのを代わってほしいって頼まれたことがあって。本当に用事があったみたいだったから、1日だけならいいかな……と思って引き受けたの」
「……そしたら、押し付けられた?」

 先回りして尋ねてくる花宵くんに、なんでもお見通しなんだなと思いつつ、こくりとうなずいた。

「その日から、事あるごとに頼んできて。いつのまにか……すっかりその委員は私、みたいになってたの。私がしっかり断らなかったのが悪いんだけどね」
「花梨、自分を責める癖やめや。俺が同じクラスやったら、そいつにボロクソに言うてやったのに」

 悔しそうに言う青衣くんが可笑しくて、ふっと笑ってしまう。ほんとに、彼が当時同じクラスにいてくれたら違うかっただろうなと思いを馳せる。

「リーダーを任されて引き受けたり、役目を代わったりしたら、必ず『ありがとう!』ってすごく感謝されるの。……それが自分の価値なんだ、って無意識に思ったら、いつのまにか断れなくなってて」

 私がやらないとダメなんだ。やらないと、私じゃない。うまくいかなかったら、落胆されてしまう。そうしたら、私なんか用無しになるかもしれない。

 そうぐるぐる考えるようになると、いつも気分がわるくなった。胃がキリキリ痛むし、足が重くなった。
 そんな自分が、いまも昔も、弱くて嫌いだったのだ。

「頼られるのは……嫌じゃないの。でも断ったら、私の価値がなくなる気がする。……勝手な考えなんだけどね」

 自分でも、自意識過剰なことはわかってる。それでも、やっぱりこの考えにずっと囚われて、変われないでいる。
 そんな私の言葉に、青衣くんは困ったように眉を下げて、視線を絡めた。

「それが、花梨の良いところなんちゃうん」

 優しく、説くように彼は言う。

「俺やったら、はじめ頼まれた時点で断る。自分に得のないことやりたくないやん?」

 冗談めかして肩をすくめる青衣くん。きっと彼は本当に困っている人には手を差し伸べるけれど、そこのさじ加減はきちんとしているのだろう。

「でも花梨はちゃうやろ。押し付けられて最悪って思わずに、素直に引き受けて、しかも中途半端やなくてちゃんとやり遂げる。そんなん誰もが出来る話じゃない。ちなみに俺は出来ひん」

 青衣くんの語り口が面白くて小さく笑うと、彼は柔和な表情を見せてくれる。

「でも、これは言うとくと。花梨が頼みを断ったからって、花梨の価値が失われることは絶対ない。長所は必ずしも、その人の価値やない」
「……うん」
「大丈夫。花梨の言葉を聞いてくれる人はちゃんとおる」

 まだ私の頭に乗せたままだった左手で、彼はゆっくりと撫でてくれた。
 青衣くんに頭を撫でられると、すごくすごく安心する。そのくせ心臓が掴まれたかのように、ドキドキと鼓動がうるさくなる。

 私の言葉をこんなに聞いてくれるのは、青衣くんしかいないと思う。そんな彼が、こうやって受け止めてくれるから、すごくすごく心が満たされる。

「私も……、自分の思ってること、吐き出してもいいのかな」

 臆病な私は、自分の本音を言ったときに拒絶されたり空気が悪くなったりするのが怖いだけ。

 青衣くんは、こんなにも私に変わってもいいと伝えてくれる。背中を押してくれる彼のためにも、少しずつでも声を出せたらいいなと思った。

「いいに決まってるやん。誰かを傷つける言葉は言うべきじゃないけど、そうじゃないならいくらでも言えばいい」
「でも、受け入れられなかったら……って、そう思うと怖いの」
「みんなに受け入れてもらわんでもいいねん。少なくても、わかってくれる人がいたらそれで充分やと思わん?」
「……うん、思う。たったひとりだとしても……、充分だよ」
「せやろ。ちなみに俺は花梨の言葉はぜんぶ受け止めるから、ひとりは確実におるで」
「そっか……、私、ひとりじゃないんだ」

 いっぱいいっぱいに、心が満たされて仕方がない。
 青衣くんの声は綺麗で優しい。彼のおかげで、私は彼に出会う前よりも、ぐっと背筋が伸びた気がする。

 ひとりじゃない、孤独じゃないということは、人を強くする。頼れる人がただひとりいるだけで、私は生きていいんだと思えるのだ。

 いつのまにか私の中で、青衣くんはいなくてはならない存在になっていた。夜、浜辺で過ごす時間がなによりも大切な時間で、欠かせない日課なのだ。

「ひとりって、怖いよな」

 突然、青衣くんの声が儚くて消えそうになる。横顔を見つめると、彼は海よりずっとずっと遠くを眺めていた。

「俺も、花梨に救われてる。家なんか帰ったら、孤独で死にそうになるから」
「……お母さんは、家にいないの?」

 あまり首を突っ込むべきじゃないと思ってはいたけれど、彼の寂しそうな横顔を見たら、そんな考えは吹っ飛んだ。彼は私に聞いてほしいんだ、そう感じたから、控えめにそう尋ねた。

 青衣くんはちらりと私に視線を寄越したあと、また前を向いて目を細めた。

「母親は、家におらん」

 なんでいないのかなんて、聞けなかった。お母さんのことは、この前気づいたけれど、彼にとってナイーブなところだとわかっていたから。

「……うん、そっか」

 小さくうなずくと、青衣くんは一定のトーンで話を続ける。

「やから、俺はギター弾いて歌うねん。そうしたら寂しくないやろ?」

 真夜中、家の中でひとりでギター片手に歌っている青衣くんを思い浮かべた。いまにも消えそうで、美しく儚い、夜の海のようだと思った。

 青衣くんは、きっと私より複雑な環境に置かれている。本当はずっと、悩んで悩んで生きている。学校にあまり来ないのも、そこのところが関係しているのだと感じた。
 微笑む青衣くんが、無理しているように見えた。心が痛い、寂しいと全身で叫んでいるように見えた。そこで、はっと気づく。

 ……ああ、私って、いつもこんなふうに笑ってたんだ。
 いまの青衣くんは、触れたらシャボン玉のようにあっけなく消えてしまいそうだった。

 よく彼に『無理して笑うな』と言われるからこそ、その言葉をやっといま理解した。

「青衣くん、……無理しないで」

 思わずそう漏らすと、彼はびっくりしたように私を見た。

「ねえ青衣くん、私にいつも言うでしょ? 『俺の前では素直になれ』って」

 彼は、困ったように微笑んでこくりとうなずいた。それを確認して、再度口を開く。

「青衣くんも、私の前では素直でいてほしいな……。寂しいなら、……寂しいって言っていいよ。私、受け止めるから」

 いつも青衣くんには助けてもらってるから。優しさに包んでもらっているから。
 彼が苦しいときは、私が優しさを与えたい。それくらい、私にだってきっと出来る。

 なんとか振り絞った私の言葉に、しばらく黙っていた青衣くんは、ゆっくりと笑顔を崩して私を見た。

「花梨って……やっぱり、ええなあ」
「……え?」

 きょとんとする私に、彼は首を横に振る。

「なんもない。……じゃあ、ちょっと肩貸して」

 そう言ったと思ったら、そっと青衣くんは私の肩に頭を乗せてきた。ふわりと彼の柔らかい髪が首筋に当たり、少しくすぐったい。
 この期に及んでドキドキとうるさい鼓動が聞こえませんように、と願いつつ、彼を受け入れた。

「俺、……音楽から離れたいのに無理やねん。どうしても、勝手に曲が浮かんでくるから、やめられへんくて。俺が音楽続けてるせいで、たぶん……母親を苦しめてる」
「……うん」

 肩にのしかかる青衣くんの重さが、彼がここにいる証明のように思える。
 彼は、いつも自分のことを断片的にしか教えてくれない。それを無理に聞こうとしないけれど、いつか話してくれたら嬉しいと思う。

 いまはただ、私が出来ることは相槌を打つだけだ。

「花梨がとなりにいてくれる夜は、誰もおらん家に帰っても、不思議と寂しくないねん」
「うん……私もだよ」

 両親が仕事で帰りが遅い日は、しんと静まり返った冷たい家でひとりで夕食を食べるのがすごく寂しい。だけど、お母さんが帰っていたらそれはそれで、小言を言われるから嫌だ。ひとりが寂しいくせに、そんなことを思うなんて矛盾してる。はっきりしない自分は、いつだって嫌いだ。

「俺も、ずっと立ち止まってばかりや」

 青衣くんは、いったい何を抱えてるのだろう。
 ひとりで抱えきれないほどの重さに、きっと途方に暮れるはずだ。
 私をいつも励ましてくれる彼の弱さを垣間見た気がして、彼に寄り添うようにそっと近づいた。

 私の温もりが、ちょっとでも届いたらいいと思いながら。

 青衣くんは右手を海に翳す。そのあと、力無く腕を下ろした。その仕草が何を意味しているのかは、わからない。

 ふたりで見上げた夜空は曇っていて、その日はまったく星が見えなかった。
 
「芹名さんって、運動神経いいんだねえ」

 とある日の放課後。
 体育祭が近づいてきて、クラス対抗リレーのメンバーで集まってバトンパスの練習をするために、グラウンドへ向かっていたときだった。

 私に声をかけてきたのは手塚くん。自然ととなりを歩き、さらにペースを合わせてくれるところを見ると、かなり気を遣える人だと考えられる。

「え……っ、と」

 まさか彼が私に話しかけてくれるなんて思いもしなかったから、しばらく驚きが勝って言葉が出なかった。
 人見知りが発動して口をぱくぱくさせる私に対して、手塚くんが焦ったように付け足した。

「いや、急にごめん! なんか話しかけたくなっただけなんだけど」
「あ、こちらこそごめんなさい……! びっくりして、言葉が出なかったの」

 硬直から解けてそう言うと、手塚くんは安心したように表情を崩した。

「なんだ、嫌われてるのかと焦ったじゃんか!」
「まさか……っ、そんなわけないよ」
「はは、それは良かったわ!」

 彼の声は少し大きいけれど、嫌な気分にはならない不思議なトーンだ。
 無邪気に笑う手塚くんに、最初の質問に答えるべく再度口を開く。

「運動神経は、そこまでよくないよ。だから……、みんなに迷惑かけないように頑張る」

 わたしがそう言えば、手塚くんは目を丸くして驚いた様子を見せた。彼の表情は、コロコロ変わって飽きがこない。

「えー迷惑なんか、いくらでもかけてくれていいのに! でも確かに、芹名さんおとなしいイメージあるわ」
「うん。だからといっては何だけど、本音はあまり……目立ちたくないんだ」
「わかるよー、芹名さん絶対優しいじゃん。リレーなんか運動部以外はやりたがらないから、走ってくれるんじゃねえの?」
「いや……最終は自分がやるって決めたんだし、そんなんじゃないよ」

 手塚くんは思ったよりも洞察力がある。私の状況をばっちり言い当ててくるから、少し驚いた。
 でも彼に弱音を吐くのは違う気がして、やんわりと否定した。すると手塚くんは、独り言のように呟く。

「うーん、そっか。うちのクラスの女子、ちょっとキツいところあるからなあ」

 彼の言葉の返答に困ってしまう。なんて答えようかと思考を巡らせていると、突然誰かが彼の頭をペシッと叩いた。

「わっ、痛え! 青衣、なにすんだよお!」
「そんな痛くないはずや、手加減した」
「そもそもなんで俺叩かれたわけ?!」

 そう手塚くんと言い合いをしながら私のとなりに立った青衣くんと目が合い、不可抗力でドキッとする。
 学校でこんなに近くにいるのは初めてだから、どんな反応したら良いのかわからなくて困惑する。

 そんな私の様子に気づくこともなく、手塚くんは青衣くんに向かって唇を尖らせた。

「俺は芹名さんと話してたのに! 邪魔するなよ、青衣!」
「あほ。わざと邪魔しに来たんやし」
「……は?!」

 平然とした表情をしている青衣くんに、ぽかんとした顔をする手塚くん。対照的なふたりが少し面白くて、なんだか元気が出る。

 仲良しだなあ……とほのぼのと眺めていると、青衣くんは私に話しかけてきた。

「いつもおるふたりは? 帰ったん?」

 いつもいるふたり……、莉奈と美蕾のことだろう。彼女たちはリレーのメンバーではないため、もちろん数分前に肩を並べて帰っていった。
 彼の問いにこくりとうなずくと、「そーなんや」と愛想のない返事をくれる。少し機嫌がわるいのかもしれない。

 どうしようかと考えている最中に、手塚くんが私と青衣くんを交互に見つめて、驚いたように声を上げた。

「え、なに、ふたり話したことあんの?!」
「声でけえ」

 青衣くんが顔をしかめるも、手塚くんの驚愕はおさまらないらしい。

「いや、え?! てか青衣が女の子と喋ってるところ初めて見たわ!」
「そーやなあ」
「俺、芹名さんのことちょっと狙ってたのに! 青衣のせいで台無しじゃん!」
「本人に言うてもーてるで」

 ため息をつく青衣くん。私はふたりがコントのような掛け合いを眺めているだけだったのに、手塚くんが『狙ってる』だなんてありえないことを言うから、当然私の心情は穏やかではない。

 ふたりを驚きながら見つめるけれど、彼らはわたしの様子などお構いなしだ。

「まあ、俺と花梨はそんなんやないけど」

 一線を引くように、はっきりとそう口にした青衣くん。『恋愛はしない』と言っていた過去も相まって、少しだけ悲しかった。
 彼の考えは、やっぱり変わることがないのかな……。
 複雑な思いを抱えていると、手塚くんはその空気を察することなく、興奮したように青衣くんの背中をバシバシと叩いた。

「あの青衣が女の子を名前呼びだと……!? え、本気でどういう関係?」

 混乱で目を白黒させる手塚くんに、慌てて誤解を解くことに努める。
 このままじゃ、青衣くんに迷惑がかかってしまう。

「えっと……、なんだろ、青衣くんとはお友だち……みたいな?」

 ……友だち、なのだろうか。私と青衣くんは。
 しっくり来ない関係性に頭を捻る。自分でもどう説明したらいいのかわからなくなり困惑していると、見兼ねたように青衣くんが口を開いた。

「まあ少なくとも、手塚が思ってるような関係性ではないわ」
「いや、……うん。そうだとしても納得いかねえなあ……」

 手塚くんは変わらず気になるそぶりを見せるも、私たち自身もこの関係性に名前をつけるのは難しくて、曖昧に微笑むことしか出来なかった。

 もどかしい。そう思ったけれど、だからといってどうにも出来ない。
 それに青衣くんが私との関係を誤解されたくないのは、当然のようにわかってしまった。
 本当に私のことなど恋愛対象には入っていないんだろう。そう考えたら、胸がちくりと痛んだ。

 そうこうしているうちに3人でグラウンドに到着し、そこにはすでに残りの3人のメンバーが固まっていた。
 女子は、私とバレー部の坂木さんのふたりしかおらず、残りの4人は全員男の子だ。

 青衣くんと、手塚くんと、三木くんと、荒井くん。花宵くん以外は運動部で、すごく速そうなクラスメイトが集まっていて萎縮してしまう。

 私が縮こまっていることに気づいたのか、近くにいた坂木さんが笑顔を見せてくれた。

「女子は私たちふたりだけだけど、頑張ろうね」

 その言葉にじーんと心が温まる。不安だった気持ちが少し和らいで、私も同じく笑みを返した。

「もちろん……! ちゃんと練習して、上位取れたらいいなあ」
「男の子たちがめちゃめちゃ速そうだから、私たちがミスしても、なんとかなりそうだけどね」

 冗談めかして言う坂本さんに笑ってうなずいた。気さくな彼女が同じメンバーで良かった……と心から安堵する。
 どうやら男の子4人も打ち解けているらしく、じゃれあっていた。

「よっし、そろそろ練習はじめようぜ!」

 しっかり者の荒井くんの声かけで、6人で走る順番に縦に並ぶ。

 ちなみに順番は、すでに決めてある。三木くん、荒井くん、坂木さん、手塚くん、私、青衣くんの順番だ。
 アンカーは青衣くんだ。彼は運動部の人たちよりも群を抜いて速いらしく、断る隙もなく任命されていた。
 リレーも、半強制的に選ばれたとこの前言っていた。男の子は50メートル走のタイム順で割り当てられるようで、彼が『省エネがよかったのに』と嘆いていたのは記憶に新しい。

 バトンパスは、チームの勝敗がかかってくる。陸上部の三木くんにパスのコツを教えてもらいながら、軽く走って渡す練習が始まった。

「助走はもうちょい速めでいいかも。俺ら男子とじゃ、歩幅が違うからさ」
「たしかに……。本当に頼りになる、ありがとう手塚くん」
「うへ、どういたしたして。なんか芹名さんって癒されるわ」

 い、癒されるなんて初めて言われた……!
 突然の言葉にあたふたする私に、青衣くんが冷たい視線を手塚くんに送る。

「鼻の下伸ばしてんちゃうぞ、手塚」
「うわっ、青衣こわっ! 芹名さんは俺に話しかけられるの嫌じゃないよな?!」
「え、うん、もちろんだよ?」
「おっしゃ! これわんちゃん望みあるんじゃね!」
「ないわ、あほ手塚」
「やっぱ今日の青衣、俺に当たり強いって?!」

 3人でてんやわんやとしていると、荒井くんの声が飛んできた。

「おまえらー! 喋ってないで練習!」
「……荒井、まじ先生みたいだな」

 手塚くんが嘆くから、はーいと返事をしつつも、笑いを堪えながら定位置に戻る。それからある程度練習すると、チームワークが良くなっていっているように感じた。

 みんな優しくて、すごく居心地がいい。はっきりとした物言いをする人たちが多いおかげか、私も自分の意見を少しは口に出せるようになっていた。
 そんな私の変化に、青衣くんはきっと気づいている。私が発言したときは、私がわかるように相槌を打ってくれるし、優しい瞳を向けてくれるから。

「よし、時間も時間だし、これくらいで終わろうぜ!」

 改善点を見つけて良くしていきながら進めていたら、どうやらもう下校時刻に近づいていたらしい。荒井くんが声をかけてくれ、私たちはお互いを労わりながら更衣室に戻った。

 私と坂木さんが着替え終わって外に出ると、男の子たちは待ってくれていたらしく、手塚くんが「ふたりとも一緒に帰ろうぜ!」と言ってくれた。

『一緒に帰ろう』

 その何気ない言葉がすごくすごく嬉しくて、坂木さんと目を見合わせて微笑んだ。そうして6人みんなで固まって帰路についた。
 たった1時間ほど話してパスの練習しただけの仲なのにも関わらず、すごく息がしやすかった。坂木さんも同じことを思っていたらしく、「なんかいつメンみたいになってない?」と笑っていた。

「当日まで大変だけど、頑張ろうぜ! 俺らならテッペン取れるわ!」

 手塚くんがいつもの調子で人差し指を天高々に突き上げると、青衣くんと冷静なツッコミが入る。

「そんなこと言ってる本人の手塚が、当日コケそうやけどな」
「んなわけねえし!」

 抗議している青衣くんの努力は虚しく、三木くんと荒井くんも同調し出す。

「うわー、ありそう。手塚けっこう抜けてるし」
「まあ、ビリはビリでおもろそうだけどな。手塚、しっかりな」
「なんで俺が転ぶ前提になってんだよー!」

 泣きそうな手塚くんは、縋り付くように私たちのほうを向いて言う。

「なあ、芹名さんと坂木さんはこいつらみたいな寂しいこと言わねえよな?! な?!」

 坂木さんと顔を見合わせ、そのあと同時に彼を見る。
「手塚くん……ケガしたら手当てするからね」
「私も、消毒持参するね」
「女子陣もかよーっ!」

 叫んでいる手塚くんが可笑しくて、坂木さんと目を合わせて吹き出した。

「絶対一位取ろうね」
「うん、頑張ろう」

 ふたりでそう言い合い、エネルギーが湧いてくる。
 このメンバーなら大丈夫。そう感じて、ますます個人練習もしないとと喝を入れる。

 みんなの笑顔が見たい。何かを頼まれて始めたことに対して心の底からそう思ったのは初めてだった。
 その自分の小さな変化が嬉しくて、思わず頬がゆるむ。

 前を歩く青衣くんの色素の薄い髪が揺れている。思わず手を伸ばしたくなる衝動を抑えながら、夜が待ち遠しくなった。

 
 その日の夜は、青衣くんが浜辺にいなかった。

 こんなことはいままでなかったから驚いたし残念だったけれど、彼にも彼の事情があるに決まっているから、肩を落としつつ家に帰った。

 玄関のドアを開ける。すると、そこには厳しい顔をしたお母さんが、腕を組んで待っていた。

 途端にサッと背筋が凍る。怒られることは確実で、反射的に身構えてしまう。

「この前塾で受けた模試の結果、お母さんのメールにも届いたわよ」

 その言葉に思わずビクッとする。
 数週間前に受けた模試の結果は、わたしには少し前に返却されていた。だけれど正直伸び悩んでいて、前回よりも偏差値が下がっていたのを見て落胆したのだ。

 また、お母さんに怒られる……。
 そう思ったら憂鬱で隠し通していたけれど、とうとうバレたらしい。

 きっと塾長がお母さんに送ったのだろう。こうなることならば早く見せておけばよかったと思った。

 青衣くんと浜辺で話せなかった今日に限って、小言を聞かなければいけないなんて。

 憂鬱すぎる。これは1時間コースだ……とぼーっと考えていると、お母さんは静かな家で声を荒げた。

「花梨。成績、下がってたわよね? どうして?」

 怒りがピークに達しているお母さんに、肩を縮こまらせる。
 ……頑張っても、努力しても、成績が伸びないことだってあるのに。

 どうしてなんて聞かれても、わたしだって聞きたい。本当に頑張ってるのに、どうして怒られないといけないの……?

 お母さんは、わかってない。
 わたしのこと、……何にも見ていない。

「ごめん……なさい」

 口からついて出た謝罪を述べ、また口を閉ざす。そんなわたしの様子に苛立ったお母さんは、矢継ぎ早に言葉を投げかけてくる。

「どうして自分が成績下がったのかもわからないの? そんなので大学受かるなんて思ってるの?! 最近の花梨は、ぼーっとしてること多いわよ!」

 お母さんは、わたしに話す隙を与えてくれない。何かを話そうと口を開けば、一拍早かったお母さんがぺらぺらと話してしまう。
 ……わたしは、受験をしたいわけじゃないんだよ。こんな勉強ばかりの日々、もう沢山だ。

 そんな心の声など、誰にも聴いてもらえない。

「塾の帰りも最近遅いじゃない! 誰かと喋っていて遅いんでしょ?! さっさと帰ってきて勉強しなさいよ!」
「……っ、」

 どうしてわたしは、何も言えないんだろう。
 こうだ、と決めつけてくるお母さんの言いなりだ。
 学校でも勉強、塾でも勉強、疲れて帰ってきてからも勉強……?

 考えるだけで吐き気がする。ありえない。
 本当にお母さんはわたしのこと娘だと思ってるの……?
 ぎゅっと肩にかけたスクバの紐を握りしめる。
 ずっと立っているとめまいがしてきて、しんどくなってきた。

 もう、……解放されたい。
 無言でそう思っていたら、お母さんは大きなため息をついてリビングへ去って行く。

「次帰るの遅かったら、門限決めるからね」
「……っ、え」

 青衣くんと、夜話せなくなる。そんなの、絶対嫌だ。
 そう思ったら、飲み込んでいた言葉がつっかえて出た。
 その途端、お母さんが振り返って冷たい視線を向けてくる。その瞳に萎縮するけれど、どうしても怯めなかった。

「なに? 文句あるの? やっぱり帰るの遅い理由は、誰かと喋ってるからじゃないの」
「ちがうの、……っ勉強はもっと頑張るから、だから……」

 ……青衣くんと話す時間だけは奪わないで。
 そう叫びたいのに、叫べない。
 ぐっと言葉を押し殺したわたしに、お母さんは「甘ったれてるわね」と突き放す。

 冷えた心は、解凍されない。痛い、苦しいともがきながら、ゆっくりとわたしは深い溝に落ちてゆく。

「学生の本業は勉強なのよ」

 そう言い残して、お母さんは今度こそリビングへ入っていった。
 やっぱり言い返せなかった自分がどこまでも弱くて嫌いになる。

 消えてしまいたい衝動に駆られながら、ままならない動作でローファーを脱いだ。
 自分の家に入っているのに、寒くて狭い小屋に入っている気分に陥る。

 ……辛いよ、青衣くん。
 会いたいと切実に願いながら、その日は長い長い夜を過ごした。

 
 

 そうして時は過ぎ、気づけば体育祭3日前になっていた。

 青衣くんは学校は相変わらずだけれど、浜辺にも3日に1回のペースでしか来なくなった。
 いままで毎日来ていたから不思議で、あまり来ない理由を聞きたかったけれど、会ったときはいつも通りの青衣くんだったからそれはやめた。

 わたしもわたしで、お父さんとお母さんの帰宅が遅い日しか長く話せなくなり、かなり孤独感を募らせていた。

「あーれ、芹名さん。どうした?」

 その言葉にハッとする。
 そうだ、いまは体育の時間だった。

 思わずぼーっとしていたせいで、わたしにバトンをパスしようとしていたであろう手塚くんが、不思議そうに顔を覗き込んできた。

「あ、ごめんなさい……っ、ぼーっとしてた」
「いや、全然大丈夫だけど。芹名さんが上の空だなんてめずらしいなあ」

 手塚くんはそう首を傾げている。
 わたしも自分で驚いていた。こんなに周りが見えなくなるくらい考え事をしてしまうのは、いままであまりなかったから。

「もしかして、原因は青衣?」
「……っ、え」
「あれ、ちがう? 今日、青衣来てないから気にしてんのかと思ったんだけど」

 あっけからんと言う手塚くんに、目を見開く。
 ……そうか、わたし青衣くんがいなくて寂しかったんだ。
 自分でも気づいていなかったけれど、彼がいないと本調子が出ないのは事実だった。

 青衣くんは最近、儚げな雰囲気が濃くなっている気がする。本当にいつか消えてしまいそうな気がして怖い。
 そんなことあるわけないってわかってるけれど、青衣くんがいない世界は、いまのわたしの中には考えられないイレギュラーだ。

 それほど彼が大きな存在になっていることに妙に納得しつつ、手塚くんを遠慮がちに見上げる。 

「……そんなのじゃ、ないよ」

 でも、手塚くんを相手に素直に頷くことは出来なくて、苦笑いを浮かべる。

「えー? ほんとかよー」

 疑わしげにからかってくる手塚くんに微笑みながらもバトンを受け取る。
 だけどわたしのバトンをパスする相手はいないので、練習も中途半端に終わってしまった。

「あーあ。本番3日前だっていうのに、なんで青衣は来ないんだよ!」

 リレーのメンバーでグラウンドの隅に集まって小休憩を挟んでいると、そう手塚くんが天を仰いだ。

 ……ほんとに青衣くん、いまなにしているんだろう。
 曲作ってるのかなあ……と呑気に考えてみるけれど、なんだか的外れな気がする。
 手塚くんの不貞腐れた様子に、わたしが何かを言う前に荒井くんが苦笑した。

「まさか青衣に限ってバトンミスとかないだろうけど、このままだと上手くいくか心配だなあ」
「それな?! 俺寂しいんだけど、青衣〜!」

 ひとりで青衣くんに向けて愛のメッセージを叫ぶ手塚くん。
 その様子に坂木さんも、控えめに笑っている。

 相変わらずだなあ……と眺めていると、いままでずっと黙っていた三木くんが困ったように呟いた。

「でもさ、青衣……当日ちゃんと来るのか?」

 その言葉に、その場にいた全員が何も言えなくなってしまった。
 正直、みんな言葉に出さずとも懸念していたのだろう。不安そうな表情を、隠しきれていない。

 最近学校に顔を出す頻度が減ったから、そう考えるのは仕方のないことだと思う。
 でも、途端に気まずくなる空間に耐えられなくなったのか、それから青衣くんが学校に来ないことへの言及が始まった。

「……もしリレーの練習放ったらかしで曲作りしてたら、俺……ちょっと嫌かも」

 三木くんは陸上部だから、走ることへの情熱は誰よりも多いし、努力を惜しまない。
 だからこそそう思うのだと考えると納得する。確かに、青衣くんは団体行動が苦手で、かなり自由度が高いから。

 三木くんの言葉に、荒井くんも遠慮がちに同調する。

「せっかく1位目指して頑張ってるのに、サボりだったら結構ショックだよな」

 なるべく青衣くんへの批判にならないよう、努めているのだろう。三木くんも荒井くんも、言葉をオブラートに包んでいる。
 静かに聞いていた坂木さんも、少し悲しそうに眉を下げた。

「わたしたちと……、熱量が違うのかな」

 ズンと沈んだ雰囲気が充満し、何か言わなきゃと焦ってしまう。
 このままじゃ、彼が誤解されてしまう。

 ……違うと言わなきゃ。青衣くんはそんな人じゃないって言わないと。
 わかってるのに、なぜか言葉が出てこない。

 自分の思っていることを言おうとすると、喉が詰まって声が出せない。

「もし青衣が来なかったら……俺ら、どうすんの?」

 手塚くんがそう問うと、リレーメンバーはしんと静まり返った。
 メンバーが欠けてしまえば、どうしようもない。もしかしたら、棄権になるかもしれない。

 でも、わたしの知っている青衣くんは、棄権になるくらいなら元からリレーに出ないと言っていたはずだ。
 だから、当日もちゃんと来る。
 そう思いながらも事の成り行きを見守る。

「青衣、俺らがこんなに頑張ってるの知ってんのかな……」
「知ってたとしても、……来ないと意味ねえよなあ」
「これで棄権とかになったら、この時間が無駄になるじゃん」

 各々そう不満を言い、良くない雰囲気に向かっていた。
 ……だめだ、このままじゃ。
 声が出ない自分の喉が恨めしい。青衣くんが、誤解されたままでいいわけないのに、こんなときでさえ自分の心を放つのが怖い。

「……俺、青衣のこと信じて良いのかな」

 だけど、手塚くんのその言葉を聞いたとき、気づけば震えながらも言葉を発していた。

「……青衣くんは、きっと来るよ」

 そのわたしの声に、皆んながハッと顔を上げた。
 ……言ってしまった。きっと空気の読めない発言だった。皆んなの反応がすごく怖い。何言ってるんだって思われるかもしれない。

 でもそんなことなど至極どうでも良い気がした。
 青衣くんは、わたしに勇気をくれたから。この勇気は、彼のおかげだから。

「青衣くんは……、必死に練習しているわたしたちを知ってるよ。絶対に裏切ったりなんかしない。皆んなも……本当はそう思ってるはずだよね」

 止まらない。こんなに自分の感情を誰かにぶつけたのは、いつぶりだろう。

「だから、……だから、青衣くんが休んでいるときは、わたしたちが青衣くんの分も頑張らなきゃいけないと思う」

 ひと息にそう言うと、心の奥に溜まっていたわだかまりが消えていくような気分に陥った。
 彼が見ている世界に近づけた気がして、少しだけ嬉しかった。

 ……言えた、ちゃんと言えたよ。青衣くん。
 おそるおそるリレーメンバーの皆んなの表情を確認すると、全員呆気に取られた顔をしていた。

 ……あ、やっぱりわたし間違えた……?

 途端に怖くなったけれど、すぐにパッと表情を崩した手塚くんのおかげでその怖さは解消されていった。

「やべー……芹名さん、かっけえな!」
「……っ、え」

 かっこいい……? どこが?
 びっくりしてフリーズするわたしの背中を、坂木さんは微笑みながらぽんっと叩いた。

「……うん、芹名さんの言うとおりだよね。わたしたち、同じメンバーなのに彼のこと信じられてなかった」
「俺も青衣のこと、疑っちゃった。でも、俺らが知ってる青衣はそんな奴じゃないよな!」

 坂木さんと手塚くんがすっきりしたような表情でそう言ってくれる。

 ……間違って、なかった。
 ふたりの笑顔にそう安堵していると、荒井くんと三木くんも、眉を下げて口を開いた。

「確かに俺らの頼れるアンカーだもんな。絶対当日も1位取ってくるはずだったわ」
「青衣なら、余裕で1位取りそうだよな。……芹名さん、改めて気づかせてくれてありがとう」
「そんな……、わたしは何もしてないよ」

 三木くんがそう頭を下げ、感謝を伝えてくれる。
 わたしのひと言でこんなに事が変わるなんて知らなかった。

 何より、ずっとモヤモヤして我慢していた自分が少しでも変われた気がして嬉しかった。
 いままで我慢して黙っていた自分を、いまのわたしが追い越したのかもしれない。

「じゃ、練習しよっか!」

 坂木さんが笑顔でそうパチっと手を叩く。
 その声に反応して、皆んな頷いて立ち上がった。

 肩にのしかかっていた重いものが、するりと落ちていった気がした。ほんの少しの勇気が、わたしの肩の荷を軽くした。

「青衣に褒められるくらい華麗なバトンパス目指そうぜ!」
「手塚、それは結構難易度高いぞ」
「青衣くんクールだもんね……。でも、頑張ろう!」
「そうだ!1位は俺らだ!」

 高まっていく熱気の中、手塚くんが走り出す。
 いま、ここにいない人のことを肯定的に話す。それほど優しい会話はなくて、ふわりと胸が温まった。

「りんりんー! がんばれー!!」
「花梨ファイト!」

 練習していると、グラウンドの中央から莉奈と美蕾の声が聞こえた。
 ぴょんぴょんと飛んで大きな声を出しているふたりは、相変わらず仲良さげにくっついている。

 その姿を見て、いつもなら少しの疎外感に苛まれる。でも今日は、素直に応援してくれていることが嬉しくて、ふたりの近さは気にならなかった。

 ほかにも居場所を作るということは、大事なのかもしれない。
 ひとつの見方に囚われて、悪い部分ばかりに視線が向いてしまうから。

 わたしには、青衣くんの左隣と、リレーメンバーとの絆が出来た。そのおかげか心の余裕が生まれて、いままでよりちょっぴり優しい自分になれた気がした。

「ありがとう! ふたりとも」

 めずらしく大きな声で返したわたしに、美蕾たちが少し驚いたように目を見開く。けれどすぐに、嬉しそうに頷いてくれた。

 青衣くんの纏う空気が恋しい。
 彼のおかげで、世界が美しくなった。優しくなれた。

 それを青衣くんに伝えたかったのに、その日の夜も彼は浜辺に姿を現さなかった。
 
 ────体育祭当日。

 朝、青衣くんは来なかった。
 午前中にあった学年種目も、彼は参加できずに終わってしまったけれど、『あいつまた寝坊かー? 仕方ねえ奴だな!』と手塚くんが明るく冗談を飛ばしてくれたおかげでクラスに嫌な空気は流れずに済んだ。

「青衣くん……今日も来ないのかな」

 昼休憩に入り、グラウンドの片隅で3人でお弁当を食べていると、美蕾が残念そうに呟いた。
 私も同じように心が沈んでいたから、その言葉で彼が近くにいないことをより実感する。

 青衣くんは、みんなで頑張って練習したリレーを無断で休むような人じゃないともちろんわかっている。だからこそ、心配なのだ。彼に何かあったんじゃないかって。

「美蕾ったら、今日一段と可愛くして来てるもんね! 体育祭マジック乗ろうとしてたんでしょ〜?」
「もう、そんなんじゃないけど……せっかくの行事に来ないのは寂しいよね」
「確かにねえ。でも、寂しがってる場合じゃないよ? これから我らがりんりんが大活躍するんだから!」
「うっ、莉奈……それはプレッシャーだってば」
「だって午後一発めから女子リレーでしょ? いっぱい応援するからね」

 莉奈はパンを頬張り、もぐもぐさせながらグッと親指を立てた。その緩さに思わず笑みが溢れて、私は青衣くんがいなくても大丈夫だと胸を撫で下ろした。

「でも花梨、無理したらだめだよ。リレーに手挙げなかった私が言うことじゃないかもだけど」
「ありがとう、美蕾。でも練習頑張ったから、ちゃんとクラスに貢献できるように走るつもり」
「もー……本当、良い子すぎるよ。花梨は」

 “良い子”。そう言われても、今日はあまり悪い気分はしない。
 それはたぶん、今回は無理して頑張ったわけじゃないから。坂木さんや手塚くんたちリレーメンバーと過ごした時間は、思いのほか楽しかったから。

 ずっと鬱々としていた自分が、こんなふうに変われると思っていなかった。

 客観的に見たら小さな小さな変化なのかもしれないけれど、私にとっては大きな変化なのだ。それを自分で認めてあげないで、誰が認めてくれるのだろう。私は私を認めてあげたいと思えるようになっている。

「あっ、女子リレーの人は集合ってアナウンス鳴ったよ。りんりん行っといで!」
「うわ〜〜……うん、頑張るね」

 緊張で身体が硬い。こんなときに、そばに青衣くんがいてくれたら、どれほどほっとするだろう。

「ファイト! 声枯れるくらい応援するからね」
「うんうん。でも無理しないように、全力でね」

 ふたりが手を振って送り出してくれる。その優しさを、ちゃんと受け止められる。
 勇気づけられたおかげか、少し緊張が解けた気がした。

 ……大丈夫。練習したから、私はきっと、大丈夫。
 ふうっと息を吐いて、招集場所へと向かう。
 グラウンドを横切りながらさりげなく青衣くんを探したけれど、やっぱり色素の薄い髪は見つけられなかった。