試験が無事終わり、日常が駆け巡るように戻ってきた。
少しずつ夏へと近づいていき、カッターシャツの季節へと移り変わっている。登校中は歩いているだけで軽く汗ばむようになり、夏の訪れを感じていたある日のこと。
試験期間は宣言どおり登校していた青衣くんだったけれど、試験が終わった後も、2日に一回というペースで学校に来るようになった。
その日も彼は朝から眠そうに登校してきていて、手塚くんに絡まれてうざったそうにしながらも教室に馴染んでいた。
「あ〜、体育やだなあ」
次の授業は体育のため、体操服に着替えて、莉奈と美蕾といっしょに体育館へと向かう。
ふたりとも運動は苦手らしく、体育の授業はいつもだるそうだ。私はそこまで嫌というわけではないので、莉奈の嘆きに曖昧にうなずいておく。
「夏は本当に運動したくないんだよねえ……。うちの学校、まだ水泳の授業ないのが救いだよ……」
莉奈がぐったりしていると、美蕾が「汗かくの嫌だよね」と同調する。ふたりとも美意識が高いから、先ほども更衣室で日焼け止めを塗りたくっていたのを思い出した。
私ももう少し女子力高ければなあ……。
そこでふとあることを思いついて、ふたりに問いかける。
「でも体育祭前だから、ガッツリ運動!っていうよりは、種目決めとかになるんじゃない?」
「あーそっか! もうあと1ヶ月切ってるもんね」
「ほんとだ。でも運動苦手民からすれば、体育祭は応援だけで充分だって言いたいよ」
美蕾の言葉に苦笑いをする。確かにうちの学校の体育祭は、学年競技に加えて、個人競技をなにかひとつ必ず出場しないといけないという規則がある。
ちなみに私たち2年生の学年種目は台風の目だ。美蕾によると、台風の目は複数で同時に走るからまだマシで、3年学年種目の全員リレーはひとりひとり走るたびに注目を浴びるから本当に嫌らしい。
莉奈と美蕾は走るのが苦手、という面でも共通点がある。そのたびに結託していて、得意ではないけれど苦手でもなくて同調できない私は、少し居心地がわるかったりする。
「種目決めで1時間経たないかなあ……」
「莉奈ってば、それはないよ。まず種目決めの前にラジオ体操と補強運動が待ってるんだからさ」
「うわ、美蕾、現実見せないでよ。あたしはいま逃避してるんだから」
「逃避したってすぐそこに現実が迫ってるって……」
「ふたりとも、ほら元気出して。予鈴なる前に早く行かなきゃ」
憂鬱そうなふたりの肩を叩きながら歩き、急いで体育館に入る。
今日は男女混合で授業があるから、クラスの男子もたくさん集まっていた。
「青衣〜! 馬跳びしようぜ! ほら!」
「嫌や。ガキみたいなことしやんねん、俺は。手塚ひとりで跳んどき」
「は?! そんなイタいこと俺ひとりにさせる気なのか、青衣は!」
「手塚なら大丈夫や」
「なにがだよ?!」
ふたりの声も聞こえてきて、バレないようにくすりと笑う。手塚くんの明るいテンションと青衣くんの低めのテンションがミスマッチで面白いのだ。
ふととなりを見ると、美蕾がじっと青衣くんを見つめていた。その瞳からは愛が溢れ出ていて、私はそっと彼女から視線を逸らした。
「もー手塚って、ほんとに青衣くんのこと好きだよね! 転校当初はどうなることかと思ったけど、手塚が天然だから今があると思うわあ」
しみじみと莉奈がふたりを見ながら、そう口にした。青衣くんが転入してきた当初の、あの手塚くんに怒った事件はしっかり、教室にいたみんなの記憶に刻まれているらしい。
莉奈が言うように、手塚くんはかなり天然だと思う。側から見れば、青衣くんは最初の頃は目に見えてわかるほど手塚くんを拒絶していた。ギターを勝手に触ってしまったのも、彼からすれば悪気があったわけではないと青衣くんが理解するまでに、ふたりの関係はギクシャクしていたはずなのだ。
それが今のようになったのは、絶対的に手塚くんがめげずに青衣くんに話しかけ、彼が学校に来ればしつこいくらいに追いかける……といった、本当に青衣くんが大好きなんだなあと他人でも感じる行動を続けていたからだと思う。
青衣くん自身も、最近学校にいても口角が上がっていることが多くなったと思う。
そのおかげか、先日クラスメイトの女の子たちが「最近の青衣くん雰囲気丸くなったよね」と言っていたのを耳にした。
夜は変わらずふたりで静かに浜辺で話しているけれど、学校にいる彼とは少し違うから新鮮だ。いろんな彼を知れてちょっぴり嬉しい。
「よかったよね、本当に。青衣くん、あんなに良い歌詞を書くんだもん、すごく優しい人なんだってわかるから」
「もーっ美蕾、青衣くんのことになったら嬉しそうに語るんだから! 可愛いなあ」
「莉奈、やめてよ。そんなことないってば」
照れくさそうに微笑む美蕾を見て、ちりっと小さく胸が痛む。
その痛みは隠しつつ、私もにっこりと微笑んだ。
それと同時に予鈴が鳴り、慌てて整列し、そうしているうちに授業が始まった。
準備運動も終わり、息が上がったところで先生が「座れー」と呼びかけた。
背の順の列で、となりの美蕾としんどいねなんて言いながら冷たい床に座る。みんなが座ったことを確認した先生は、私たちに向かって大きな声で言った。
「薄々勘づいてる奴もいるだろうが、今から体育祭の種目決めをしてもらう」
途端にザワザワと騒がしくなり、となりで体育座りをしている美蕾も、私を困ったように見つめてきた。
「やっぱり花梨の予想、的中したね」
「うん、何出ようかなあ……」
「私はなんにも出場したくないよ……」
ため息を吐く美蕾に苦笑しつつ、先生の話に耳を傾ける。
「注意点は、個人競技はひとり1つ以上必ず出ること! それさえ守ってくれたら後はなんとかなるから、今から20分で決めてくれ〜」
先生の合図で、とりあえずぞろぞろと女子と男子で分かれて、話し合いを始める。
クラス委員長の子が取り仕切ってくれて、玉入れや50メートル走などはスムーズに決まっていく。ちなみに美蕾たちは、玉入れを死守できたらしい。喜んでハイタッチをしていた。
玉入れ、借り物競争、50メートル走、100メートル走など、比較的軽い種目は埋まっていき、リレーや長距離走が残っていく。こうして見ていると、うちのクラスの女子は運動が苦手な子が多いのかも知れないと思った。
私はこれといって出たいものがなかったため、足の速い子たちの迷惑にならないようリレー以外の何かに入れたらいいなと思っていたために、まだ手を挙げていない。どうしようかな……と迷いながらも、どんどん話は進んでいく。
「あとは200メートル走と、スウェーデンリレーと、女子リレーと、クラス対抗リレーが残ってるけど、どうする?」
うちのクラスの女子は他クラスより2人少ないため、何人かは複数の種目を出場しなければならない。今残っているのは、バレー部と陸上部の子に加え、ジャンケンに負けて残ってしまった2人だった。
私は帰宅部で体力がないため、なるべくひと種目だけがいいなと思いつつ、おそるおそる口を開いた。
「私は200メートル走がいいな……」
その私の言葉に、ジャンケンに負けた子たちが慌てたように顔を上げた。その表情は絶望感が滲み出ていて、嫌な予感が湧いてくる。
その予想は的中し、彼女たちは懇願するように私にパンっと両手を合わせてきた。
「お願いっ! 200メートル走は譲ってほしい!」
「えっ」
困った、と眉を下げるも、ふたりの意志は固いらしく、ずいっと身を乗り出してくる。
「確か芹名さんって私より足速かったよね……?!」
「で、でも0.1秒とかの差だったと思うけど……」
「それでも速いものは速いよ! お願い、どうしてもリレーは嫌なの……!」
私だってリレーは正直やりたくない。運動部で足が速い人たちに囲まれて走るなんて辛いし、放課後にバトンパスの練習なんかもある。その気持ちはみんな同じだ。
でも、目の前のふたりは何度もジャンケンに負けているせいか、本当に泣きそうな顔をしていて、こちらも首を縦に振らざるを得なくなってくる。
「芹名さん! お願い!」
「2枠譲ってください……!」
私だって気持ちは同じだったけれど、これ以上話を続けても私が折れるしかないと判断して、なんとか「わかった」と声を振り絞ってうなずいた。
その途端、ぱっと表情を明るくした彼女たちを見たら、これで良かったんだと思える気がした。
「ありがとう! 芹名さん」
「芹名さんって本当に優しいよね……っ、助かった。ありがとう!」
「……いやいや、そんなことないよ。ぜんぜん大丈夫だよ」
にっこりとふたりに笑みを向ける。彼女たちはもう一度お礼を言ったあと、嬉しそうに去っていった。
……また、“良い子”になってしまったなあ。
別に偽善者になっているわけじゃないのだ。私が何か意見を押し通して、それで嫌な思いをする人がいるなら、私の意見なんか変えてもいいと思っているだけ。そこまで意志が強いわけじゃないから。
いいの、私はこれで。
そう自分に言い聞かせ、クラス委員長に向き直った。
「今残ってるのは、芹名さんと、バレー部坂木さんと、陸上部山波さんね。3人でリレーどうするか決めてくれる?」
3人で顔を見合わせてうなずき、検討した結果、私は女子リレーに出ることになった。それだけでも少し憂鬱だったけれど、でもまだ他の種目にも枠が余っていて、次はその枠に誰が出るかという論争に入った。
ちなみに空いているのは、スウェーデンリレー1枠と、クラス対抗リレー2枠。
とびきり足の速い陸上部の山波さんは、部活動対抗リレーも出なければならないため、種目の順番的にクラス対抗リレーを出ることが出来ず、もとに決めていた女子リレーに加えてスウェーデンリレーも走ってくれることになった。
坂木さんも率先して、クラス対抗リレーも走ってくれることになった。
残るはクラス対抗リレーのもうひと枠。
正直、私たち3人とクラス委員長以外の女子たちは、もうこれ以上巻き込まれまいと知らんふりを決め込んでいる。どうせ誰かが行ってくれる、という暗黙の空気を感じて、息が詰まった。
こういうとき、皆んなが私に行けと思っているように感じるのは、きっと自意識過剰だ。私が手を挙げれば丸く収まるのだと思うと、挙げざるを得なくなる。
学年種目と慣れない女子リレーに加え、クラス対抗リレーなんかに出れば、きっと体力なんて持たない。それに、そんなに速くない私が出ても、クラスのみんなに迷惑がかかるだろう。
だけど、最後に残った3人がやってくれる……という空気が流れ始め、誰かが口火を切った。
「……芹名さんなら、走れそうじゃない?」
「うん、わかる。だって運動部じゃないけど、わたしたちより速いし?」
その声を聞いて、思わずびくっとする。どうやら矛先は私に向いているらしい。
「ねえ、芹名さんやってみる気ない? みんなもそう言ってるしさ」
クラス委員長までも、そう私に言い出した。彼女の表情は疲弊していて、さっさと決めて終わらせたいという感情が面に溢れ出ている。それを見たら、嫌だなんて言えるわけがなかった。
しょうがない、……そう思い、無理やり笑顔を作ってうなずいた。
「わかった、やってみるね。もしかしたら皆んなに迷惑かけちゃうかもだけど……努力するよ」
「さすが芹名さん……っ!」
「ありがとう、芹名さんならやってくれると思ってた」
口々にお礼を言われ、笑顔が引き攣っていくのを自覚する。
……大丈夫、私が頑張れば良いだけの話だ。
それなのに、ちらりと青衣くんの存在が頭にちらついた。
……やっぱり私は、変われない。嫌だ、私もやりたくない、そんな少しの言葉さえ出せないのだ。
自分の不甲斐なさに悲しくなり、「芹名さんさすが!」と無邪気に盛り上がる女子に隠れて、なるべく男子のほうは視界に入れないようにした。
……きっといま、青衣くんの顔を見たら、泣いちゃう気がしたから。
ぎゅっと唇を噛んで、『私は大丈夫』と呪文を唱える。しばらくそうしているうちに落ち着き、莉奈たちが寄ってきた。
「りんりんってば、さすがだねえ」
「ほんとに。花梨が出てくれて助かったもん」
「……ううん。本当にそんなことないって」
莉奈と美蕾も、正直ほっとした表情が隠しきれていないように思う。あの場で私が首を縦に振らなければ、みんなで平等にジャンケンで決めていたと考えられるから。
でもそんなことを言ったって仕方ない。
私が、ちゃんとやるって決めたんだから。やると決めたなら、やり遂げないと意味がない。
……朝か放課後にでも、ランニングしなきゃな。
私が遅いせいでクラスがビリになったら、悔やんでも悔やみきれない。絶対に迷惑かけたくないため、努力するしかないのだ。
「女子決まったよ〜」
クラス委員長の子が、男子の輪に入っていったのが見えた。男子たちはとっくに決まっていたらしく、興味深そうに女子のエントリーシートを眺めている。
クラス対抗リレーということは、男女混合だ。きっと女子から誰が出るのか、興味津々なのだろう。
……ああ、憂鬱だ。そんなに速くもないのに、なんでこんなこと。
ネガティブになりそうな思考を慌てて消して、考えることをやめようと、無意識に笑顔を作った。
「よし、決まったみたいだな。じゃあ集まれ〜」
先生の合図で、だるそうにみんな集まっていく。整列して座り、そうして先生の話を少し聞いてから、学年種目の練習に入った。
私は正直、体育祭当日のことに頭を抱えていたせいで、莉奈と美蕾と話しているときも練習しているときも上の空だった。
ふたりは私の様子に気づいていなかったから良かったけれど、頑張って笑顔を見せるのはしんどかった。
ふと体育館を見渡すと、身振りも声も大きい手塚くんと、うざったそうな青衣くんが目に入る。ふたりは今も仲良くコントのような会話をしているようで、離れていてもぜんぶ聞こえてくる。
「青衣! バトンパスの練習しようぜ!」
「俺は手塚にバトン渡さへんし、逆もせーへんのに何の意味があるんや」
「うわ辛辣っ! ただの練習だって〜」
「ふーん、そうなんや」
「もっと辛辣! クラス対抗リレー、俺と青衣のあいだって芹名さんだったよな? 呼んでこようかな!」
「わざわざ呼ばんでいいねん」
突然手塚くんから私の名前が出てきたから、反射的にびくっとしてしまう。
どうやら手塚くんと青衣くんも、クラス対抗リレーに出るらしい。ふたりとも見た目から運動神経が良さそうだから不思議ではないけれど、余計に憂鬱になってきた。
……青衣くんに、遅いって思われたら嫌だな。本番で、バトンパス失敗したらどうしよう。
そのことが頭の大半を占めていて、台風の目の練習の最中もまったく集中できなかった。そのせいか何度か転びかけて、莉奈たちにも他の子にも心配されてしまった。
……こんなんじゃ、だめだ。
しっかりしないといけないのに。
そう思うたびに頭がぐらぐらしてきて、心が壊れていく音がする。それが聞こえるのは私だけで、それがまた辛くなった。
そんな私を、青衣くんがじっと見ていたのなんて知らずに、その日の体育の授業は終わった。



