ヒカリサザンカ


 ふと、彼があなたの肩をぽんぽん叩く。カサカサの唇が動いて、あなたに話しかけている。それなのに声は聞こえない。あなたはため息を吐き、やれやれと肩を落とす。

(君の声も聞こえないなんて、お手上げじゃないの)

 あなたは思わず眉間に皺を寄せてしまう。悪い癖だ。せっかくのキレイなお顔が台無し。「きっとまた、怒ってると勘違いされちゃうんだろうな」と頭の片隅で理解しているのに、理性のブレーキはすっかりお釈迦で冷静になれない。

 不幸中の幸いといえば、声が出ないことだろう。何か一言発してしまったが最後、堰を切ったように不満の嵐を巻き起こしてしまうに違いなかった。

 お互いの鼻が当たりそうな距離まで詰め寄られ、彼はびっくりした顔であなたを見つめる。それから優しく微笑(わら)い、あなたの眉間に手を伸ばし――意外と長くて男らしい指――皺の跡が残らないように、ゆっくりほぐすように撫でてくれるの。

 予想外の展開。あなたは驚きのあまり石みたいに固まる。だけど同時に、それは彼らしい行為にも感じられて。

(なんだか、大変なことになってきちゃったかも)

 あなたが粗暴な立ち振る舞いをすると、相手はいつも決まって困った顔をした。温和な両親は「もっと女の子らしくしなきゃね」と苦笑いを浮かべるし、イケメンでバスケ部キャプテンの彼氏も露骨にがっかりした顔で(たしな)めてくる。だから正直なところ、この性格がコンプレックスでもあった。

 それなのに彼だけは、あなたの内面も理解したうえで、すべてを受け入れてくれようとしている。

 まさか。

 だって。

 そんなこと、ちょっとあり得ない。今まで考えたこともなくて、こんな時どうすればいいのか分からない。

 ただ、自分の心のなかで彼を受け入れる準備が完成しかけていることは、なんとなく分かる。

 動揺。葛藤。躊躇。(もしかしら、あたしは最低な人かもしれないな……)それでも全てのしがらみを取っ払い、あなたはこのまま彼の背中にもたれてしまいたかった。

 痩せてひょろひょろの頼りない身体は、きっと生まれたての羊雲みたいに温かくて、どんなに辛くて嫌な出来事があっても癒やしてくれる。そしてそのまま、虹の向こうにある誰も知らない世界に、あたしを連れて行ってくれる。

(さすがに求めすぎかな。だけど、そんな願望の《《ひと欠片》》を夢見るだけで、あたしは自信がついて、自分が好きになって、もう無敵になれそう。だから……)

「――――――――――――」

 彼がまた言葉をかけてくれている。やっぱり、声は聞こえない。聞こえなくても不都合はなかった。眼鏡の奥でまぶしそうに細まる垂れ目を見れば、彼が何を伝えようとしているのか、不思議と分かるような気がしたから。

 あなたは小さく頷いて、彼を見つめ返す。人は言葉で伝えられないとき、瞳で会話することができるんだね。

 これだけの感情と情景が、等身大のあなたを包んでくれる彼という存在が、すべて妄想の産物なんてオチ、あなたは信じられない。信じたくない。

(そんなこと、あっていいわけがない……!)