「おはよう」
小さいけれど、はっきりとした澄んだ声。
その主が夏目くんだと気づいて、実結と彩羽は目を丸くさせて顔を見合わせた。
夏目くんは机の上にリュックを置いて、目を合わせないまま私たちの返事を待たず教室から出て行ってしまった。
「え? 今、おはようって言った?」
「言った……」
二人は幽霊でも見るかのような目で夏目くんが出て行った方を見ている。
夏目くん、勇気を出したんだ。ムーンのアドバイスを参考に挨拶をしてくれた。変わろうとしている夏目くんに頬が緩む。
すぐに出て行ってしまったけれど間違いなく頑張っている……!
二人はというといまだに呆けた顔をしている。なにかフォローしないと。
「授業以外で夏目の声、初めて聞いたかも!」
「今私らにおはよって言ったんだよね」
「声良……」
私がフォローするまでもなく二人は好意的に受け取ってくれたみたいだ。ほっと胸をなでおろしたところにストロベリーからメッセージが届いた。
【クラスメイトに挨拶ができました!! いつもの子だけじゃなくて他の人にも!!】
すぐに報告してくれる夏目くんはやっぱりかわいい。
☽
夏目くんはクラスメイトに挨拶が出来るようになった。
あの日をきっかけに目が合ったクラスメイトに「おはよう」「ばいばい」を続けている。向こうが挨拶を返す前にその場から去ることもまだまだ多いし、挨拶以外の会話はできていない。
【挨拶しかできないんです】
【それでも進歩でしょう。出来ることから始めるのがよいです】
【そうですよね! 隣の席の子も誰にでも挨拶をするんです! 彼女みたいにはなれないと思うんですけど、それでも俺もまずはそこから】
挨拶は小さな一歩に見えて、効果は大きかった。
常に怒っていそうで怖いという理由で近づけなかった子が、自分から挨拶をしてくれる。悪役が優しくなると好きになってしまうアレだ。私の挨拶ログインボーナスが好感度+1だとすると、夏目くんは好感度+100。
「最近夏目ちょっといいよね」
今日も挨拶と共にリュックだけ置いて立ち去った夏目くんを見送って実結が言う。
「怖くなければ普通にかっこいい」
「普通っていうか、あの美形はなかなかいない」
「でもなんで急に?」
「彼女できたとか?」
「ね、月子はどう思う?」
二人の視線が私に向けられる。
「んーどうだろ。そんな変わってるかな?」
「えー月子きびしい」
自分でも予想外の言葉が出てきた。私はムーンとして、夏目くんの会話練習相手として、彼の好感度アップに協力しないといけないのに。
「まあ挨拶の後は話続かないけどね」
「怒ってないなら眼福」
二人の話はまだ続いている。……夏目くんの良さは顔じゃないのに。席を譲ろうとすぐ立ち去ってくれるような優しいところが、夏目くんの良さなのに。
夏目くんの優しさは、まだ私しか知らない。
スマホがポケットで震えて、ストロベリーからメッセージが届いていた。
【最近順調です! まだうまく会話までいってないんですけど、クラスメイトに声をかけられることも多くなりました!ムーンさんのおかげです! 友達を増やしたいと思います!】
【それはよかったです。少し疲れていないですか? あまり焦りすぎも禁物ですよ】
じわりとなにかが喉を締める。
きっと焦っているのは、私だ。
【大丈夫です! 今少し勇気があるんですよ! 隣の席の子と話したおかげかもしれません】
【まずはその子で練習してからでもいいんじゃないですか?】
夏目くんが欲しい答えはこれじゃない。かけるべき言葉はわかっている。もっと背中を押さないといけないのに。
【いえ優しい彼女に甘えて負担をかけるのも申し訳ないので! 迷惑をかけないためにもがんばります!】
チャイムが鳴って夏目くんが席に戻ってくる。
「夏目くん、席座ってくれていいからね。私たちどくから」
「……全然大丈夫。朝散歩するの好きだから」
「散歩してるんだ?」
夏目くんが頷いたところで先生が入ってきて会話は中断された。
夏目くんと会話ができるのは、まだ私だけ。きっと夏目くんと話をしたら、みんな彼の良さに気づいてしまう。
一週間前までは全世界に夏目くんの面白さが広まれと思っていたのに。
☽
放課後、私はまた夏目くんのホームにいた。
我ながらワンパターンだけど、彼と話すとなると教室では話せなかった。夏目くんも周りの目を気にするだろうしというのは建前で、私が教室では話したくなかった。
「夏目くん」
「……春野さん」
声を掛けると夏目くんが振り返る。
「今日は本当に用事があって」
とりつくろった言葉と同時に電車到着のアナウンスが流れる。前みたいにホームで話せたらいいな、と思っていたけど早速タイムオーバーだ!
夏目くんは私の意図など知るわけもなく自然に電車の乗り口に立ち、用事と言ってしまった手前、私も電車に乗り込むしかない。
車内は人がほとんどおらず、私たちは隣に座る。
「春野さんはどこまで?」
夏目くんの疑問に唇が固まる。路線図をちらりと見上げるけど、この路線は利用することがあまりなくパッと思いつかない。
「あー夏目くんの中学に行こうと思って」
「俺の?」
「ほら、塔になってる図書館見てみたくて」
なんとかひねり出した答えはどう考えても不自然だったけど、夏目くんは納得したように頷いた。
私はスマホを出して図書館を調べる。思い付きで言ったけど場所がわからない。検索すると市の建物として外部利用も可能らしい。ちょっとした観光スポットにもなっているみたいだ。私の思いつきは的外れではなかったらしい。夏目くんを追いかけるストーカーにはならなくて済んだ。
「場所わかる?」
一安心している私を夏目くんが覗き込んだ。そのまま目があって顔の近さに落ち着いた心臓がまた音を立てる。
「うん、大体」
「……よかったら、案内するよ」
「いいの?」
「……こないだのお礼」
「ありがとう!」
ホームで少し話せたらいいな、と思っていただけなのに、放課後も一緒に過ごせることになるなんて。
今日ずっと燻っていた焦りが溶けていく。
夏目くんの視線を受けて、自分の顔がにやけていることに気づく。
「あ、もうこの駅だよね⁉」
夏目くんの駅はたった二駅だ。
ゆるんだ顔を見られてしまった恥ずかしさで顔を背けて窓の外を向いた。
☽
初めてこの駅で降り立った。この街はいわゆる山側で坂がたくさんあり少しレトロな雰囲気の街並みだ。
「中学は歩いて五分くらい」
「塔に合う雰囲気の街だね」
「……うん、この街が好き。……あ、春野さんの町と比べてってわけじゃなくて、海の近くもいいけどこっちもいいって意味で……」
夏目くんの付け足した弁明にくすりと笑ってしまう。こういう事を常に考えていたら確かに会話の迷子になってしまいそうだ。
「大丈夫、わかってるよ。私もそれぞれいいと思う」
「坂、きつくない?」
「ちょっとね。でも新鮮」
「そこがこの町のデメリット」
「うちは潮風でちょっと髪の毛がキシキシするのがデメリット。でもそれ含めてもあの町が好き」
「俺も。坂多いの実は好き。街全体の雰囲気に合ってる気がして」
夏目くんの顔は少し柔らかく見える。好きなものの話をしているからか、心を少し許してくれるのか、どちらなんだろう。会話のテンポもそこまで遅くない。
「あれが中学」
「おー、中学自体おしゃれだね?」
図書館の塔をシンボルとして校舎もレンガ建てで作られている。門もアーチ状になっていて立派で厳かな雰囲気だ。
「同じ公立なのにすごい差を感じる」
無機質なグレーの校舎を思い出して笑う。
「ここらへんの街全体をちょっとした観光地にしようとしたらしいよ。まだ学校自体も二十年くらい。そのわりにたいして観光地にはならなかった。それでも県内の人が暇つぶしに来るスポットにはなってる。このあたりカフェも多いから」
「ふふ」
「……なにかおかしかった?」
「ううん、話してくれるのが嬉しいと思って」
おしゃべりなのは本当なんだな。文字だけじゃなくて実際に受けると嬉しい。夏目くんの耳が赤くなる。表情にはでないけど夏目くんの耳は結構すぐに赤くなる。こんな夏目くんの癖は私しか知らない。
アーチをくぐるとすぐに庭園があった。私の学校の花壇とはまったく違う。きちんと手入れされた花壇が校舎に向かって整然と並んでいる。
「すごい。本当に観光スポットだ」
「この庭園の管理は当番でまわってくるからめんどくさい。夏は暑いし冬は寒いし」
「生徒の努力の賜物だ」
「それで、ほらこれが」
庭園を抜けて校舎の隣に並び立っているのが図書館の塔だ。門越しにしか見えなかった塔は近づいてみると迫力がある。洋風の煉瓦建てで、はめ込まれたアンティークの窓も、色あせた煉瓦も雰囲気がある。
「写真よりもずっと素敵」
適当に口から出た目的地だったけれど来れてよかった。夏目くんと話さなければ思い出さなかった場所だ。
「地元民の愛されスポット」
「絶対そうなるよね。岡山先生が熱弁するのもわかるな」
「そんな風に語ってくれてたの嬉しい。あんまりそういうこと語るタイプに見えなかったから……あ」
夏目くんの声が翳り、彼を見上げると塔の扉を睨んでいる。
「どうしたの?」
「水曜日は休館日だった。休みだ」
「あはは、本当だ」
「ごめん」
「なんで夏目くんが謝るの? 私が調べてなかっただけだし。また次の楽しみが出来たよ」
いつものように相手が求める言葉をすらすらと吐く。
だけどこれは本当の気持ちでもあった。また夏目くんとここに来る口実ができた。そんなことを思ってしまう。
「……時間あるなら、カフェでも行かない? さっきも言ったけどこのあたり街並みの雰囲気に合わせてオシャレなカフェが多いんだ」
「行く!」
私たちは中学を抜けて軽く散歩をした。どのカフェに入ろうか、どんなお菓子が好きか、ゆったりとした会話を伴いながら。小さなアンティーク雑貨の店を覗くと、図書館の塔のフィギュアもあった。観光地化しようとした名残りらしい。夏目くんがそれを見て図書館にまつわる話をたっぷり五分語ってくれたから、手のひらサイズの千五百円の塔がどうしても欲しくなった。おばあちゃん店員にこんなの売れるのは数ヶ月ぶりだよと笑われた。
「今日はありがとう」
駅まで送ってくれた夏目くんにお礼を言う。空が薄紫に変わっていて、夏目くんの顔に影が落ちる。表情はこころなしか柔らかく見えて、私の心も緩んでしまう。
「こちらこそありがとう」
「紹介してくれた街、好きになったよ」
「……ありがとう」
耳が染まるのは夕焼けのせいか。嬉しく思ってくれているのか、どちらにしてもくすぐったい気持ちだ。
「次は図書館の中入りたいな」
「……良かったらまた案内するよ。今日紹介できなかったカフェもあるんだ。チーズケーキ好きなんだよね? タルトが有名な店があるんだ。タウン誌に乗るくらいで。今の時期だとなんだろう、そろそろシャインマスカットが――ってごめん。しゃべりすぎた」
「ふふ、教えてくれるの嬉しいよ」
「うん、それじゃ」
明日も学校で会えるのに。あと三分で電車が行ってしまうのに。足を動かすのがむずかしい。やるべきことと身体が一致しない。
「……春野さん?」
「ご、ごめん、ぼうっとしちゃった! じゃあ明日学校で!」
「うん、ばいばい」
夏目くんの視界から私が完全に消えるまで、落ち着かなくて足を早く動かす。
心臓が早いのは早歩きしてるから。きっとそうだ。
小さいけれど、はっきりとした澄んだ声。
その主が夏目くんだと気づいて、実結と彩羽は目を丸くさせて顔を見合わせた。
夏目くんは机の上にリュックを置いて、目を合わせないまま私たちの返事を待たず教室から出て行ってしまった。
「え? 今、おはようって言った?」
「言った……」
二人は幽霊でも見るかのような目で夏目くんが出て行った方を見ている。
夏目くん、勇気を出したんだ。ムーンのアドバイスを参考に挨拶をしてくれた。変わろうとしている夏目くんに頬が緩む。
すぐに出て行ってしまったけれど間違いなく頑張っている……!
二人はというといまだに呆けた顔をしている。なにかフォローしないと。
「授業以外で夏目の声、初めて聞いたかも!」
「今私らにおはよって言ったんだよね」
「声良……」
私がフォローするまでもなく二人は好意的に受け取ってくれたみたいだ。ほっと胸をなでおろしたところにストロベリーからメッセージが届いた。
【クラスメイトに挨拶ができました!! いつもの子だけじゃなくて他の人にも!!】
すぐに報告してくれる夏目くんはやっぱりかわいい。
☽
夏目くんはクラスメイトに挨拶が出来るようになった。
あの日をきっかけに目が合ったクラスメイトに「おはよう」「ばいばい」を続けている。向こうが挨拶を返す前にその場から去ることもまだまだ多いし、挨拶以外の会話はできていない。
【挨拶しかできないんです】
【それでも進歩でしょう。出来ることから始めるのがよいです】
【そうですよね! 隣の席の子も誰にでも挨拶をするんです! 彼女みたいにはなれないと思うんですけど、それでも俺もまずはそこから】
挨拶は小さな一歩に見えて、効果は大きかった。
常に怒っていそうで怖いという理由で近づけなかった子が、自分から挨拶をしてくれる。悪役が優しくなると好きになってしまうアレだ。私の挨拶ログインボーナスが好感度+1だとすると、夏目くんは好感度+100。
「最近夏目ちょっといいよね」
今日も挨拶と共にリュックだけ置いて立ち去った夏目くんを見送って実結が言う。
「怖くなければ普通にかっこいい」
「普通っていうか、あの美形はなかなかいない」
「でもなんで急に?」
「彼女できたとか?」
「ね、月子はどう思う?」
二人の視線が私に向けられる。
「んーどうだろ。そんな変わってるかな?」
「えー月子きびしい」
自分でも予想外の言葉が出てきた。私はムーンとして、夏目くんの会話練習相手として、彼の好感度アップに協力しないといけないのに。
「まあ挨拶の後は話続かないけどね」
「怒ってないなら眼福」
二人の話はまだ続いている。……夏目くんの良さは顔じゃないのに。席を譲ろうとすぐ立ち去ってくれるような優しいところが、夏目くんの良さなのに。
夏目くんの優しさは、まだ私しか知らない。
スマホがポケットで震えて、ストロベリーからメッセージが届いていた。
【最近順調です! まだうまく会話までいってないんですけど、クラスメイトに声をかけられることも多くなりました!ムーンさんのおかげです! 友達を増やしたいと思います!】
【それはよかったです。少し疲れていないですか? あまり焦りすぎも禁物ですよ】
じわりとなにかが喉を締める。
きっと焦っているのは、私だ。
【大丈夫です! 今少し勇気があるんですよ! 隣の席の子と話したおかげかもしれません】
【まずはその子で練習してからでもいいんじゃないですか?】
夏目くんが欲しい答えはこれじゃない。かけるべき言葉はわかっている。もっと背中を押さないといけないのに。
【いえ優しい彼女に甘えて負担をかけるのも申し訳ないので! 迷惑をかけないためにもがんばります!】
チャイムが鳴って夏目くんが席に戻ってくる。
「夏目くん、席座ってくれていいからね。私たちどくから」
「……全然大丈夫。朝散歩するの好きだから」
「散歩してるんだ?」
夏目くんが頷いたところで先生が入ってきて会話は中断された。
夏目くんと会話ができるのは、まだ私だけ。きっと夏目くんと話をしたら、みんな彼の良さに気づいてしまう。
一週間前までは全世界に夏目くんの面白さが広まれと思っていたのに。
☽
放課後、私はまた夏目くんのホームにいた。
我ながらワンパターンだけど、彼と話すとなると教室では話せなかった。夏目くんも周りの目を気にするだろうしというのは建前で、私が教室では話したくなかった。
「夏目くん」
「……春野さん」
声を掛けると夏目くんが振り返る。
「今日は本当に用事があって」
とりつくろった言葉と同時に電車到着のアナウンスが流れる。前みたいにホームで話せたらいいな、と思っていたけど早速タイムオーバーだ!
夏目くんは私の意図など知るわけもなく自然に電車の乗り口に立ち、用事と言ってしまった手前、私も電車に乗り込むしかない。
車内は人がほとんどおらず、私たちは隣に座る。
「春野さんはどこまで?」
夏目くんの疑問に唇が固まる。路線図をちらりと見上げるけど、この路線は利用することがあまりなくパッと思いつかない。
「あー夏目くんの中学に行こうと思って」
「俺の?」
「ほら、塔になってる図書館見てみたくて」
なんとかひねり出した答えはどう考えても不自然だったけど、夏目くんは納得したように頷いた。
私はスマホを出して図書館を調べる。思い付きで言ったけど場所がわからない。検索すると市の建物として外部利用も可能らしい。ちょっとした観光スポットにもなっているみたいだ。私の思いつきは的外れではなかったらしい。夏目くんを追いかけるストーカーにはならなくて済んだ。
「場所わかる?」
一安心している私を夏目くんが覗き込んだ。そのまま目があって顔の近さに落ち着いた心臓がまた音を立てる。
「うん、大体」
「……よかったら、案内するよ」
「いいの?」
「……こないだのお礼」
「ありがとう!」
ホームで少し話せたらいいな、と思っていただけなのに、放課後も一緒に過ごせることになるなんて。
今日ずっと燻っていた焦りが溶けていく。
夏目くんの視線を受けて、自分の顔がにやけていることに気づく。
「あ、もうこの駅だよね⁉」
夏目くんの駅はたった二駅だ。
ゆるんだ顔を見られてしまった恥ずかしさで顔を背けて窓の外を向いた。
☽
初めてこの駅で降り立った。この街はいわゆる山側で坂がたくさんあり少しレトロな雰囲気の街並みだ。
「中学は歩いて五分くらい」
「塔に合う雰囲気の街だね」
「……うん、この街が好き。……あ、春野さんの町と比べてってわけじゃなくて、海の近くもいいけどこっちもいいって意味で……」
夏目くんの付け足した弁明にくすりと笑ってしまう。こういう事を常に考えていたら確かに会話の迷子になってしまいそうだ。
「大丈夫、わかってるよ。私もそれぞれいいと思う」
「坂、きつくない?」
「ちょっとね。でも新鮮」
「そこがこの町のデメリット」
「うちは潮風でちょっと髪の毛がキシキシするのがデメリット。でもそれ含めてもあの町が好き」
「俺も。坂多いの実は好き。街全体の雰囲気に合ってる気がして」
夏目くんの顔は少し柔らかく見える。好きなものの話をしているからか、心を少し許してくれるのか、どちらなんだろう。会話のテンポもそこまで遅くない。
「あれが中学」
「おー、中学自体おしゃれだね?」
図書館の塔をシンボルとして校舎もレンガ建てで作られている。門もアーチ状になっていて立派で厳かな雰囲気だ。
「同じ公立なのにすごい差を感じる」
無機質なグレーの校舎を思い出して笑う。
「ここらへんの街全体をちょっとした観光地にしようとしたらしいよ。まだ学校自体も二十年くらい。そのわりにたいして観光地にはならなかった。それでも県内の人が暇つぶしに来るスポットにはなってる。このあたりカフェも多いから」
「ふふ」
「……なにかおかしかった?」
「ううん、話してくれるのが嬉しいと思って」
おしゃべりなのは本当なんだな。文字だけじゃなくて実際に受けると嬉しい。夏目くんの耳が赤くなる。表情にはでないけど夏目くんの耳は結構すぐに赤くなる。こんな夏目くんの癖は私しか知らない。
アーチをくぐるとすぐに庭園があった。私の学校の花壇とはまったく違う。きちんと手入れされた花壇が校舎に向かって整然と並んでいる。
「すごい。本当に観光スポットだ」
「この庭園の管理は当番でまわってくるからめんどくさい。夏は暑いし冬は寒いし」
「生徒の努力の賜物だ」
「それで、ほらこれが」
庭園を抜けて校舎の隣に並び立っているのが図書館の塔だ。門越しにしか見えなかった塔は近づいてみると迫力がある。洋風の煉瓦建てで、はめ込まれたアンティークの窓も、色あせた煉瓦も雰囲気がある。
「写真よりもずっと素敵」
適当に口から出た目的地だったけれど来れてよかった。夏目くんと話さなければ思い出さなかった場所だ。
「地元民の愛されスポット」
「絶対そうなるよね。岡山先生が熱弁するのもわかるな」
「そんな風に語ってくれてたの嬉しい。あんまりそういうこと語るタイプに見えなかったから……あ」
夏目くんの声が翳り、彼を見上げると塔の扉を睨んでいる。
「どうしたの?」
「水曜日は休館日だった。休みだ」
「あはは、本当だ」
「ごめん」
「なんで夏目くんが謝るの? 私が調べてなかっただけだし。また次の楽しみが出来たよ」
いつものように相手が求める言葉をすらすらと吐く。
だけどこれは本当の気持ちでもあった。また夏目くんとここに来る口実ができた。そんなことを思ってしまう。
「……時間あるなら、カフェでも行かない? さっきも言ったけどこのあたり街並みの雰囲気に合わせてオシャレなカフェが多いんだ」
「行く!」
私たちは中学を抜けて軽く散歩をした。どのカフェに入ろうか、どんなお菓子が好きか、ゆったりとした会話を伴いながら。小さなアンティーク雑貨の店を覗くと、図書館の塔のフィギュアもあった。観光地化しようとした名残りらしい。夏目くんがそれを見て図書館にまつわる話をたっぷり五分語ってくれたから、手のひらサイズの千五百円の塔がどうしても欲しくなった。おばあちゃん店員にこんなの売れるのは数ヶ月ぶりだよと笑われた。
「今日はありがとう」
駅まで送ってくれた夏目くんにお礼を言う。空が薄紫に変わっていて、夏目くんの顔に影が落ちる。表情はこころなしか柔らかく見えて、私の心も緩んでしまう。
「こちらこそありがとう」
「紹介してくれた街、好きになったよ」
「……ありがとう」
耳が染まるのは夕焼けのせいか。嬉しく思ってくれているのか、どちらにしてもくすぐったい気持ちだ。
「次は図書館の中入りたいな」
「……良かったらまた案内するよ。今日紹介できなかったカフェもあるんだ。チーズケーキ好きなんだよね? タルトが有名な店があるんだ。タウン誌に乗るくらいで。今の時期だとなんだろう、そろそろシャインマスカットが――ってごめん。しゃべりすぎた」
「ふふ、教えてくれるの嬉しいよ」
「うん、それじゃ」
明日も学校で会えるのに。あと三分で電車が行ってしまうのに。足を動かすのがむずかしい。やるべきことと身体が一致しない。
「……春野さん?」
「ご、ごめん、ぼうっとしちゃった! じゃあ明日学校で!」
「うん、ばいばい」
夏目くんの視界から私が完全に消えるまで、落ち着かなくて足を早く動かす。
心臓が早いのは早歩きしてるから。きっとそうだ。



