翌日。私は夏目くんをこっそり観察することにした。
真面目に授業を受ける夏目くんの横顔は怖いくらいに整っていて、無機質に見えるのかもしれない。形のいい奥二重は目尻がほんの少しつり上がっていて、これもまた冷たい印象を与える。
一番問題なのは、薄い唇。常にきゅっと固く結ばれていて、口角は下がっている。口端を緩めるだけでも少しは変化がありそうだ。
夏目くんはいつも一人でいる。もちろんお昼休みも。
私の席は窓際で中庭に面していて、中庭のベンチで夏目くんが一人でパンを食べているのが見えた。
この席になってから、夏目くんがお昼休みに一人でそこにいることに気づいた。
〝窓際の席になったから〟気づいた。と思っていた。でももしかすると〝私の隣の席になったから〟かもしれない。
昼休みは自然と私の席に集まって、夏目くんの席が空いているから彩羽がそこに座る。
私と隣の席になるまでの夏目くんはどこでお昼を食べていたんだろう。
「月子、どうしたの?」
彩羽に聞かれて慌てて、窓から視線を外す。
「えーなになに?」
実結は箸を置いてにやりとすると、窓の外に視線を向ける。
「もしかして夏目のこと見てた?」
「違う違う、ちょっとぼーっとしてただけ」
「昨日私がお似合いって言ったから、意識したかと思った」
「月子は実結みたいに単純じゃないから」
すべてを食べ終えた二人は、窓辺に移動して下を眺める。初夏の日差しが二人の髪を照らす。
「夏目って遠くから見てると王子だよね」
「それね。他の男子と違って大人っぽいし」
「でも一言もしゃべんないことがわかると無理だな」
「遠くから見てるとクールだけど」
不愛想で冷たくても、そこがかっこよくも見える。……女は愛嬌っていう言葉と対極。男はクールがモテるとか、女は愛想がいい方がモテるとか、くだらない。
だけど結局、ニコニコして理想の女を演じていれば、それが一番楽なんだから、ほんとうにばかばかしい。人間の感情って。
冷めた思いが蓄積されたお昼の時間が終わり、夏目くんが席に戻ってきた。
「席借りてた、ありがと」
夏目くんに向けて、にこりと微笑んでみる。彼から笑みが返ってくることはなく顔をそらして席についた。
だけどメッセージを読んだからわかる。彼の考えていることが、行動の意味が。
夏目くんは顔をそらすときに、ほんの少し、頭を動かした。あれはきっと会釈なんだ。前髪がさらりと揺れる程度の本当にわずかな動きだったけれど。
それが夏目くんなりの精一杯。
☽
帰宅して、配信アプリのメッセージボックスを開く。
夏目くんのメッセージを三回読み直してから、返事を送ることに決めた。
【メッセージありがとうございます。ムーンです。お悩み、拝読しました。
占い配信の性質上、具体的なお悩みを占い、その悩みに添った結果を提案しています。夏目さまのお悩みは、長期的なものだと見受けられました。占い配信でお答えはできないのですが、お力になりたく……。
夏目さまがよろしければ、メッセージでやり取りできませんか?
(それとこういったアプリで、本名は危険かもしれません。変更された方がよいかと思います)】
夏目くんからの返事は三十分後に返ってきた。
【ありがとうございます!! いいんですか、嬉しいです!! ぜひよろしくお願いします!!
名前についてもご指摘ありがとうございます!! すぐに変更します!!
こういうのってあだな、とかですよね? あだななんてつけてもらったことないんですが、みなさんどういう名前をつけるんでしょうか!?
すみません早速相談してしまいましたが!! よろしくお願いします!!】
「あははっ」
びっくりマークの多さに、勝手に口から笑いがこぼれる。
心の中ではおしゃべりというのは本当らしい。
彼が誰かと話すところなんて見たことがないから、夏目くんの一生分の言葉を受け取ったみたいだ。
【喜んでもらえたなら、私も嬉しいです。
今後の運勢を占うので、生年月日を教えていただいてもいいでしょうか。あだなは名前をもじるのが一般的だと思います】
【ありがとうございます!!
占いって初めてです!! 200X年 6月18日 男です!
名前ですね、ありがとうございます! 変更しました!】
ハンドルネームが【夏目一悟】から【ストロベリー】に変わっていた。
一悟だから、苺。苺でストロベリー……。
「ふふ」
笑みが自然と唇から漏れる。
夏目くんはイメージ通りの人じゃない。彼が怖いと恐れられているのはもったいない。私がいつもやっていることを実践すれば、きっと彼も普通に人に好かれるようになる。
気合を入れて、考えなくては。
【まずは簡単なことから始めてみるのがいいでしょう。ストロベリーさんのこれから一週間の運勢をストーンに聞いてみたところ、朝になにかヒントがありそうです。
たとえばクラスメイトに朝の挨拶を始めることはどうですか?】
【確かに! それはいいかもしれませんね! 一週間挨拶から始めてみます!】
私はその日夢を見た。むすりとした表情の夏目くんが、苺に囲まれているファンシーな夢を。
夏目くんは、けっこうかわいいかもしれない。
☽
「おはよう」
黒いリュックを置いた夏目くんに明るい声であいさつをする。
昨日ムーンとして助言したからでなく、毎朝夏目くんに朝の挨拶をしているし、クラスメイトやすれ違う顔見知り、先生にも誰にでも発動するものだ。
〝感じがいい人〟になるのは、こういう積み重ねが大事なのである。
いい印象を与えて損はないし、挨拶をしただけで好感度+1になるなら、した方がいい。ログインボーナスみたいなもの。
夏目くんは基本無視。目が合わないことも多い。こういう態度の人は夏目くんだけじゃないし、気にしていない。だけど今日の夏目くんはちらりと目を合わせて、それから唇をほんのすこし動かした。そしてすぐに席に座る。
ちょうど先生が入ってきて、朝のHRが始まった。
ストロベリーからメッセージが届いた。
【おはようはうまく言えませんでした。口が固まって、何も言えなかったです。
せっかく向こうから声をかけてくれたのに、無視する形になってしまったので、嫌な気持ちにさせたかもしれません】
ビックリマークがひとつもないことから、彼が落ち込んでいることがわかる。
私は先生に気づかれないよう、机の中でスマホをタップする。
【変わろうと思った自分を褒めてあげましょう。お相手も気にしていないとストーンが言っているから大丈夫ですよ】
【ありがとうございます。いつも声をかけてくれる優しい人なのに、僕は何も返せないんです。
挨拶こそ、ハードルが高いかもしれません】
【普通に話すより挨拶の方が、難しいということですか? 挨拶でなにか嫌なことがあったんですか……?】
【いえ、そういうわけではないんです。
でも会話ってタイムオーバーがありますよね。挨拶の時間制限ってほんの五秒ほどじゃないですか。五秒過ぎたら、無視されたって思われますよね。だから僕にとっては難しいんです。
僕が返事をどう返そうか迷っているうちに、終わってしまうんです】
なるほど。夏目くんはどういう言葉を出力するか悩みすぎてしまうタイプなのか。それを時間制限と例えるのはユニークだ。
たしかに挨拶は瞬発力が試されるのかもしれない。だけど「おはよう」と言われたら「おはよう」と返すだけのこと。
私にとってはテンプレートな台詞でそこに感情も意図も何もなかった。
夏目くんは挨拶をする私を優しいと思ってくれていた。
でも私の挨拶なんて何の優しさも込められてない。人に良く思われたいだけの台詞。
なんて挨拶しようか考えているうちに五秒が終わってしまう夏目くんのほうがよっぽど誠実で優しいのに。
親指が固まって、私はメッセージの返信ができなかった。
☽
梅雨が明けた六月の後半は、もう夏といってもいい。
むわっとしたエレベーターに乗りこみ、首筋に垂れる汗をミニタオルで抑える。
この箱が一階ずつ上昇するたびに、カウントダウンの音が聞こえる。自分の家までのろのろと歩き、扉の前に立つときはガチャを引く気分。
息を飲み込んで、扉を開く。
「ただいま」
どちらに転んでもいいように、控えめな声を出した。奥から物音は聞こえない。私はそろりそろりと廊下を進むと、リビングのすりガラスの奥をうかがう。テレビの音も聞こえるし、かすかに煮物のような匂いもする。これならリビングに入っても大丈夫そう。
「ただいま」
二度目の声を出すと「おかえり」と返事が返ってきた。けだるげだけど湿りのない声。今日はSRのママだ。
リビングに入ると、ママはソファに寝転んでワイドショーを眺めていた。
ソファに深々と沈み込み、スナック菓子を小脇にかかえて、瞳も濁っていない。口元も緩んでテレビを楽しむ余裕もある。具合が悪いわけではなく、ただリラックスしているだけ。
「いい匂いする。なんだろ、煮物かな。作ってくれたんだね、ありがとう」
台所に顔を向けて軽やかな声を出す。
「なに、嫌味」
ソファから尖った声が聞こえてくる。
「えー? そのまんまだよ、いい匂いしたからお腹すいちゃっただけ」
「どうせまずいよ」
「そんなことないよ、ありがとう」
それ以上の返答はなくて、すんでのところでママに埋められている爆弾を回避した。SRじゃなくて、Rくらいの機嫌とみた。
「夕飯、十九時にしようと思うけどどう?」
「いいよ」
「じゃあ宿題してくるね」
一応、正解の会話だった。ノルマを達成した私はさっさとリビングを出て、自室に向かった。
「ふう」
部屋に入って制服と共に緊張も脱ぎ捨て、ストロベリーからのメッセージを再度読みこむ。
「会話の時間制限か……」
脳で考えるよりも先に言葉が飛び出るママと夏目くんを足して二で割れたらいいのに。
【ストロベリーさんの運勢を占ってみました。
ストーンの動きを見ると、今日声をかけてくれた優しい方と相性がいいかもしれません】
明日、夏目くんと話してみよう。たっぷり何分も考えてくれた言葉を受けてみたくなったんだ。
☽
翌日の夏目くんは、チャイムが鳴る一分前に登校した。
「おはよう」
負担にならないように軽く声をかけると、リュックを肩からおろす手が止まる。大丈夫。時間制限は五秒じゃないよ。チャイムはあと一分で鳴ってしまうけど。
「……ょ」
リュックを下ろしながらこちらを見ずに。だけど確かに「おはよう」の「よ」が聞こえた。夏目くんは精一杯の挨拶を終えたと言わんばかりに、慌てて席について黒板の方を向く。
「うん、おはよう。夏目くん」
ちゃんと聞こえましたよ、というアピールのためにもう一度挨拶すると、夏目くんは顔を上げた。いつも憂鬱そうに伏せられている瞳が私ときちんと目が合った。
「…………」
そのまま気恥ずかしそうに夏目くんは席にきちんと座り直す。
さらりとした黒髪の中に見える耳が赤くなっていることに、私は大きな満足を得た。
【ムーンさん、挨拶返せました!!!】
一言のメッセージが届いていて、復活したビックリマークに頬が緩む。
夏目くんのなかで、挨拶は成功したみたい。
☽
その日夏目くんが日直で少しだけ帰りが遅くなることを知っていた。
だから「忘れ物をしちゃったから先に帰っていて」と実結と彩羽に言って教室に戻ってきた。
教室を覗き込むと、予想通り夏目くんしかいなかった。教室の窓の鍵をしめて確認している夏目くんがいる。
「あ、夏目くん。まだいたんだ」
私が教室に入ると、夏目くんは私の方をぎろっと見た。睨んでいるように見えるけど、彼がそういう人じゃないことを知っている。きっと目でも悪いんだろう。
私は小走りで自分の席に向かうと「これ」と机の引き出しからスマホを取り出した。怪しいものではないんです、忘れ物をしたんです、というアピールは功を奏し、夏目くんの身体からまとう警戒が少し溶けた。
私の席は窓際にあるわけで、自然と私たちの距離は近い。
「夏目くんは、日直だっけ?」
「…………」
夏目くんは私から目をそらして窓の外を見た。
切れ長の瞳は冷たく拒絶しているようにも見えるが、ただ思案しているだけにも見える。もちろん後者だ。たっぷり一分待ったあとに
「……そう、日直」
と声が聞こえた。授業で当てられたときくらいしか、彼の声を聞いたことがない。中性的な見た目に反して、声は低く、だけど澄んでいた。
「そっかあ、お疲れ様! 私たち隣の席だけどしゃべるの初めてかも」
私は自分の机に腰かけた。夏目くんの返事を何分でも待つつもりだ。
普段から誰にでもにこやかに声をかけるタイプの人間だと思われているはずなので、彼に声をかけることもおかしくはない。それに夏目くんがムーンのことを信じているなら、会話をしてくれるかもしれない。
「春野さん」
名前を呼ばれて少し驚く。目を伏せていて、怒っているように聞こえる声。
「ん? どうかした?」
「……俺と友達になってくれませんか」
たっぷり五十秒待ってから、夏目くんは想定していなかった言葉を発した。けっこう飛躍した。
「とも、だち」
目を瞬かせたと同時に、夏目くんの顔色が青くなる。
しまった、拒絶したと思われた⁉私は慌てて机から飛び降りて、夏目くんに三歩近づいた。
握手ができるくらいの距離で夏目くんはかすかに目を開いた。
「ご、ごめんね! 嬉しくて固まっちゃった! 私も夏目くんと仲良くしたかったんだ! 私でよければよろしく!」
返答がないから私は慌てて付け足した。
「私けっこう気軽に話しかけちゃうけど、いいかな?」
三十秒後に夏目くんは小さく頷いた。
「やった、よろしくね」
握手はしなかったけど、私の言葉に夏目くんはちょっとだけ泣きそうな顔をした。
私はその顔を見たら、喉がぎゅっと締まってしまって、演技でもなんでもなく、ムーンなんて関係なく。
夏目一悟くんのことを知りたいと思った。
真面目に授業を受ける夏目くんの横顔は怖いくらいに整っていて、無機質に見えるのかもしれない。形のいい奥二重は目尻がほんの少しつり上がっていて、これもまた冷たい印象を与える。
一番問題なのは、薄い唇。常にきゅっと固く結ばれていて、口角は下がっている。口端を緩めるだけでも少しは変化がありそうだ。
夏目くんはいつも一人でいる。もちろんお昼休みも。
私の席は窓際で中庭に面していて、中庭のベンチで夏目くんが一人でパンを食べているのが見えた。
この席になってから、夏目くんがお昼休みに一人でそこにいることに気づいた。
〝窓際の席になったから〟気づいた。と思っていた。でももしかすると〝私の隣の席になったから〟かもしれない。
昼休みは自然と私の席に集まって、夏目くんの席が空いているから彩羽がそこに座る。
私と隣の席になるまでの夏目くんはどこでお昼を食べていたんだろう。
「月子、どうしたの?」
彩羽に聞かれて慌てて、窓から視線を外す。
「えーなになに?」
実結は箸を置いてにやりとすると、窓の外に視線を向ける。
「もしかして夏目のこと見てた?」
「違う違う、ちょっとぼーっとしてただけ」
「昨日私がお似合いって言ったから、意識したかと思った」
「月子は実結みたいに単純じゃないから」
すべてを食べ終えた二人は、窓辺に移動して下を眺める。初夏の日差しが二人の髪を照らす。
「夏目って遠くから見てると王子だよね」
「それね。他の男子と違って大人っぽいし」
「でも一言もしゃべんないことがわかると無理だな」
「遠くから見てるとクールだけど」
不愛想で冷たくても、そこがかっこよくも見える。……女は愛嬌っていう言葉と対極。男はクールがモテるとか、女は愛想がいい方がモテるとか、くだらない。
だけど結局、ニコニコして理想の女を演じていれば、それが一番楽なんだから、ほんとうにばかばかしい。人間の感情って。
冷めた思いが蓄積されたお昼の時間が終わり、夏目くんが席に戻ってきた。
「席借りてた、ありがと」
夏目くんに向けて、にこりと微笑んでみる。彼から笑みが返ってくることはなく顔をそらして席についた。
だけどメッセージを読んだからわかる。彼の考えていることが、行動の意味が。
夏目くんは顔をそらすときに、ほんの少し、頭を動かした。あれはきっと会釈なんだ。前髪がさらりと揺れる程度の本当にわずかな動きだったけれど。
それが夏目くんなりの精一杯。
☽
帰宅して、配信アプリのメッセージボックスを開く。
夏目くんのメッセージを三回読み直してから、返事を送ることに決めた。
【メッセージありがとうございます。ムーンです。お悩み、拝読しました。
占い配信の性質上、具体的なお悩みを占い、その悩みに添った結果を提案しています。夏目さまのお悩みは、長期的なものだと見受けられました。占い配信でお答えはできないのですが、お力になりたく……。
夏目さまがよろしければ、メッセージでやり取りできませんか?
(それとこういったアプリで、本名は危険かもしれません。変更された方がよいかと思います)】
夏目くんからの返事は三十分後に返ってきた。
【ありがとうございます!! いいんですか、嬉しいです!! ぜひよろしくお願いします!!
名前についてもご指摘ありがとうございます!! すぐに変更します!!
こういうのってあだな、とかですよね? あだななんてつけてもらったことないんですが、みなさんどういう名前をつけるんでしょうか!?
すみません早速相談してしまいましたが!! よろしくお願いします!!】
「あははっ」
びっくりマークの多さに、勝手に口から笑いがこぼれる。
心の中ではおしゃべりというのは本当らしい。
彼が誰かと話すところなんて見たことがないから、夏目くんの一生分の言葉を受け取ったみたいだ。
【喜んでもらえたなら、私も嬉しいです。
今後の運勢を占うので、生年月日を教えていただいてもいいでしょうか。あだなは名前をもじるのが一般的だと思います】
【ありがとうございます!!
占いって初めてです!! 200X年 6月18日 男です!
名前ですね、ありがとうございます! 変更しました!】
ハンドルネームが【夏目一悟】から【ストロベリー】に変わっていた。
一悟だから、苺。苺でストロベリー……。
「ふふ」
笑みが自然と唇から漏れる。
夏目くんはイメージ通りの人じゃない。彼が怖いと恐れられているのはもったいない。私がいつもやっていることを実践すれば、きっと彼も普通に人に好かれるようになる。
気合を入れて、考えなくては。
【まずは簡単なことから始めてみるのがいいでしょう。ストロベリーさんのこれから一週間の運勢をストーンに聞いてみたところ、朝になにかヒントがありそうです。
たとえばクラスメイトに朝の挨拶を始めることはどうですか?】
【確かに! それはいいかもしれませんね! 一週間挨拶から始めてみます!】
私はその日夢を見た。むすりとした表情の夏目くんが、苺に囲まれているファンシーな夢を。
夏目くんは、けっこうかわいいかもしれない。
☽
「おはよう」
黒いリュックを置いた夏目くんに明るい声であいさつをする。
昨日ムーンとして助言したからでなく、毎朝夏目くんに朝の挨拶をしているし、クラスメイトやすれ違う顔見知り、先生にも誰にでも発動するものだ。
〝感じがいい人〟になるのは、こういう積み重ねが大事なのである。
いい印象を与えて損はないし、挨拶をしただけで好感度+1になるなら、した方がいい。ログインボーナスみたいなもの。
夏目くんは基本無視。目が合わないことも多い。こういう態度の人は夏目くんだけじゃないし、気にしていない。だけど今日の夏目くんはちらりと目を合わせて、それから唇をほんのすこし動かした。そしてすぐに席に座る。
ちょうど先生が入ってきて、朝のHRが始まった。
ストロベリーからメッセージが届いた。
【おはようはうまく言えませんでした。口が固まって、何も言えなかったです。
せっかく向こうから声をかけてくれたのに、無視する形になってしまったので、嫌な気持ちにさせたかもしれません】
ビックリマークがひとつもないことから、彼が落ち込んでいることがわかる。
私は先生に気づかれないよう、机の中でスマホをタップする。
【変わろうと思った自分を褒めてあげましょう。お相手も気にしていないとストーンが言っているから大丈夫ですよ】
【ありがとうございます。いつも声をかけてくれる優しい人なのに、僕は何も返せないんです。
挨拶こそ、ハードルが高いかもしれません】
【普通に話すより挨拶の方が、難しいということですか? 挨拶でなにか嫌なことがあったんですか……?】
【いえ、そういうわけではないんです。
でも会話ってタイムオーバーがありますよね。挨拶の時間制限ってほんの五秒ほどじゃないですか。五秒過ぎたら、無視されたって思われますよね。だから僕にとっては難しいんです。
僕が返事をどう返そうか迷っているうちに、終わってしまうんです】
なるほど。夏目くんはどういう言葉を出力するか悩みすぎてしまうタイプなのか。それを時間制限と例えるのはユニークだ。
たしかに挨拶は瞬発力が試されるのかもしれない。だけど「おはよう」と言われたら「おはよう」と返すだけのこと。
私にとってはテンプレートな台詞でそこに感情も意図も何もなかった。
夏目くんは挨拶をする私を優しいと思ってくれていた。
でも私の挨拶なんて何の優しさも込められてない。人に良く思われたいだけの台詞。
なんて挨拶しようか考えているうちに五秒が終わってしまう夏目くんのほうがよっぽど誠実で優しいのに。
親指が固まって、私はメッセージの返信ができなかった。
☽
梅雨が明けた六月の後半は、もう夏といってもいい。
むわっとしたエレベーターに乗りこみ、首筋に垂れる汗をミニタオルで抑える。
この箱が一階ずつ上昇するたびに、カウントダウンの音が聞こえる。自分の家までのろのろと歩き、扉の前に立つときはガチャを引く気分。
息を飲み込んで、扉を開く。
「ただいま」
どちらに転んでもいいように、控えめな声を出した。奥から物音は聞こえない。私はそろりそろりと廊下を進むと、リビングのすりガラスの奥をうかがう。テレビの音も聞こえるし、かすかに煮物のような匂いもする。これならリビングに入っても大丈夫そう。
「ただいま」
二度目の声を出すと「おかえり」と返事が返ってきた。けだるげだけど湿りのない声。今日はSRのママだ。
リビングに入ると、ママはソファに寝転んでワイドショーを眺めていた。
ソファに深々と沈み込み、スナック菓子を小脇にかかえて、瞳も濁っていない。口元も緩んでテレビを楽しむ余裕もある。具合が悪いわけではなく、ただリラックスしているだけ。
「いい匂いする。なんだろ、煮物かな。作ってくれたんだね、ありがとう」
台所に顔を向けて軽やかな声を出す。
「なに、嫌味」
ソファから尖った声が聞こえてくる。
「えー? そのまんまだよ、いい匂いしたからお腹すいちゃっただけ」
「どうせまずいよ」
「そんなことないよ、ありがとう」
それ以上の返答はなくて、すんでのところでママに埋められている爆弾を回避した。SRじゃなくて、Rくらいの機嫌とみた。
「夕飯、十九時にしようと思うけどどう?」
「いいよ」
「じゃあ宿題してくるね」
一応、正解の会話だった。ノルマを達成した私はさっさとリビングを出て、自室に向かった。
「ふう」
部屋に入って制服と共に緊張も脱ぎ捨て、ストロベリーからのメッセージを再度読みこむ。
「会話の時間制限か……」
脳で考えるよりも先に言葉が飛び出るママと夏目くんを足して二で割れたらいいのに。
【ストロベリーさんの運勢を占ってみました。
ストーンの動きを見ると、今日声をかけてくれた優しい方と相性がいいかもしれません】
明日、夏目くんと話してみよう。たっぷり何分も考えてくれた言葉を受けてみたくなったんだ。
☽
翌日の夏目くんは、チャイムが鳴る一分前に登校した。
「おはよう」
負担にならないように軽く声をかけると、リュックを肩からおろす手が止まる。大丈夫。時間制限は五秒じゃないよ。チャイムはあと一分で鳴ってしまうけど。
「……ょ」
リュックを下ろしながらこちらを見ずに。だけど確かに「おはよう」の「よ」が聞こえた。夏目くんは精一杯の挨拶を終えたと言わんばかりに、慌てて席について黒板の方を向く。
「うん、おはよう。夏目くん」
ちゃんと聞こえましたよ、というアピールのためにもう一度挨拶すると、夏目くんは顔を上げた。いつも憂鬱そうに伏せられている瞳が私ときちんと目が合った。
「…………」
そのまま気恥ずかしそうに夏目くんは席にきちんと座り直す。
さらりとした黒髪の中に見える耳が赤くなっていることに、私は大きな満足を得た。
【ムーンさん、挨拶返せました!!!】
一言のメッセージが届いていて、復活したビックリマークに頬が緩む。
夏目くんのなかで、挨拶は成功したみたい。
☽
その日夏目くんが日直で少しだけ帰りが遅くなることを知っていた。
だから「忘れ物をしちゃったから先に帰っていて」と実結と彩羽に言って教室に戻ってきた。
教室を覗き込むと、予想通り夏目くんしかいなかった。教室の窓の鍵をしめて確認している夏目くんがいる。
「あ、夏目くん。まだいたんだ」
私が教室に入ると、夏目くんは私の方をぎろっと見た。睨んでいるように見えるけど、彼がそういう人じゃないことを知っている。きっと目でも悪いんだろう。
私は小走りで自分の席に向かうと「これ」と机の引き出しからスマホを取り出した。怪しいものではないんです、忘れ物をしたんです、というアピールは功を奏し、夏目くんの身体からまとう警戒が少し溶けた。
私の席は窓際にあるわけで、自然と私たちの距離は近い。
「夏目くんは、日直だっけ?」
「…………」
夏目くんは私から目をそらして窓の外を見た。
切れ長の瞳は冷たく拒絶しているようにも見えるが、ただ思案しているだけにも見える。もちろん後者だ。たっぷり一分待ったあとに
「……そう、日直」
と声が聞こえた。授業で当てられたときくらいしか、彼の声を聞いたことがない。中性的な見た目に反して、声は低く、だけど澄んでいた。
「そっかあ、お疲れ様! 私たち隣の席だけどしゃべるの初めてかも」
私は自分の机に腰かけた。夏目くんの返事を何分でも待つつもりだ。
普段から誰にでもにこやかに声をかけるタイプの人間だと思われているはずなので、彼に声をかけることもおかしくはない。それに夏目くんがムーンのことを信じているなら、会話をしてくれるかもしれない。
「春野さん」
名前を呼ばれて少し驚く。目を伏せていて、怒っているように聞こえる声。
「ん? どうかした?」
「……俺と友達になってくれませんか」
たっぷり五十秒待ってから、夏目くんは想定していなかった言葉を発した。けっこう飛躍した。
「とも、だち」
目を瞬かせたと同時に、夏目くんの顔色が青くなる。
しまった、拒絶したと思われた⁉私は慌てて机から飛び降りて、夏目くんに三歩近づいた。
握手ができるくらいの距離で夏目くんはかすかに目を開いた。
「ご、ごめんね! 嬉しくて固まっちゃった! 私も夏目くんと仲良くしたかったんだ! 私でよければよろしく!」
返答がないから私は慌てて付け足した。
「私けっこう気軽に話しかけちゃうけど、いいかな?」
三十秒後に夏目くんは小さく頷いた。
「やった、よろしくね」
握手はしなかったけど、私の言葉に夏目くんはちょっとだけ泣きそうな顔をした。
私はその顔を見たら、喉がぎゅっと締まってしまって、演技でもなんでもなく、ムーンなんて関係なく。
夏目一悟くんのことを知りたいと思った。



