「田中いる?」
 「どっちの?」
 「ダメな方」
 「はいはい。俺ですね」

 最早名前を呼ばれなくなって何年になるだろう。一応真白という可愛らしい名前があるのに呼んでくれるのは家族と吉宗だけだ。
 扉の方まで来てやると友人の吹石はぱんと手を合わせた。

 「英語の教科書貸してくんね?」
 「おまえに貸すと落書きされるから嫌だ」
 「お願い〜今日十五日だから当てられるんだよ」

 友人の嘘泣きにはぁと溜息をこぼした。吹石は隣のクラスだが、三年間同じサッカー部で切磋琢磨した仲だ。
 部活を引退し、受験という人生の節目を目前にしてようやくやる気を出したダメな奴でもある。
 それでも見捨てられないのは吹石の裏表のない性格に何度も救われたことがあるからだ。
 でもすぐに貸すとつけあがる。だから限界まで耐えようとじっと睨みつけることにした。

 「なぁ、いいだろ」

 吹石は猫のように甘えた声を出しながら肩を組んできた。「あの二人ホモじゃん」と女子から揶揄われると「羨ましいだろ」と吹石はにんまりだ。

 「……いでっ!」

 突然吹石が視界から消えて、肩がふわりと軽くなる。頭頂部を押さえて蹲った吹石はきっと眦を吊り上げた。

「いってぇな、エース!」
「距離感バグりすぎだ」

 もう一人の田中――吉宗は切れ長の目をさらに鋭くさせた。

 「これくらい普通だろ、普通」
 「おまえの常識に真白を巻き込むな。気持ち悪い」

 吉宗はふんと鼻を鳴らすと吹石は両頬を膨らませた。同じサッカー部で気心知れているから吉宗は吹石に容赦がない。

 「吹石、大丈夫か?」
 「おまえだけが俺の癒やしだよ」

 吹石は懲りずに抱きつこうと腕を伸ばしてきたが、吉宗に襟元を掴まれてぽいっと廊下に追い出されていた。
 一九〇センチある吉宗は学校内で一番背が高く、サッカーで鍛え抜かれてきたのでガタイもいい。力では誰も吉宗には敵わないのだ。

 「俺の教科書貸してやる」
 「最初からそうしてくれればよかったのに」

 吹石は吉宗から教科書を受け取るとさっさと隣の教室に戻って行った。吹石がいなくなると途端に教室が静かになる。

 「吉宗、寝てたんじゃなかったの」
 「真白の声で起きた」

 眠そうに目を擦った吉宗は小さな欠伸をこぼし、目元に薄っすらと涙の粒が溜まる。まだその顔は幼さが残っていて懐かしさが込み上げてきた。
 吉宗と出会ってから十年以上経つ。
 マンションの部屋が隣同士。お互いの苗字が「田中」。同い年。
 まるで神様に決められたかのように共通点があり、仲良くなるのは自然なことだった。
 幼稚園から高校までずっと一緒で、喧嘩したり仲直りしたりを繰り返して一番の親友とも言える。

 「夜まで起きてたよな? 勉強?」
 「いや……ゲームしてた」
 「余裕だな」
 「指定校決まったからね」

 吉宗は十一月に入ってすぐ指定校で大学が決まった。サッカー部のエースストライカーに加え、学年で一、二を争うレベルで頭がいい。
 成績優秀。頭脳明晰。文武両道。
 あらゆる賛美の言葉は全部吉宗のために作られたかのようにぴったりと当てはまる。

 「真白もそろそろ勉強しないとやばいんじゃないか?」
 「いや、俺は専門行くから」
 「は?」

 吉宗の眉間に小山が作られる。ただでさえ冷たい印象を与える切れ長の瞳は磨かれた刀のように鋭さを増した。

 「俺、上京すんだ」
 「……訊いてないんだけど」
 「だって言ってないし」

 しれっと言うとあからさまに吉宗の機嫌が悪くなる。でもこれは想定内だ。

 「いい加減、おまえと離れたいんだよ」

 そう言うと吉宗の顔色が青白くなっていく。心の中ではざまぁとせせら笑った。





 人見知りで何事も慎重な吉宗と違い、真白は好奇心旺盛で興味があるものに飛びつく性格だった。
 最初はワールドカップの熱気に当てられサッカーを始めた。ドリブルやシュート練に吉宗を付き合わせると「すごい!」と目を輝かせてくれた。
 そして吉宗もサッカーを始めるとメキメキと頭角をあらわし、すぐにチームのエースとなった。
 今度は真白が吉宗をすごいと褒める番になった。
 兄二人がそろばん教室に通っているから無理やり付き合わされたそろばんも吉宗は「計算が速い」と褒めてくれた。
 でも吉宗も教室に通うようになると誰よりも早く一級を取得して、先生から賞状をもらい、天才児として地域新聞に載った。
 やはり今度も真白がすごいと言った。
 水泳も英語も野球も興味があるものに飛び込んだあとに必ず吉宗もついてきて、そして真白よりも優秀な成績を残していく。
 最初はただすごいと思っていた吉宗の存在を疎ましく思うようになったのは小学校高学年のときだ。

 『ダメな方の田中!』

 クラスメイトにそう呼ばれるようになったとき、やはりみんなも同じように思っていたのだと知った。
 なんでもかんでも一緒な吉宗とはいつも比較される。そしていつも真白の方が劣っていた。
 それでもサッカーだけは辞めたくなかった。例え天才ストライカーに成長した吉宗と比べられても、それだけは譲れない。 
 中学、高校の六年間夢中になってボールを追いかけて走った。走って、走って、走ってーーぷつりと途切れた。
 最後の大会でハットトリックを二試合連続で決めた吉宗がその年のMVPに選ばれたのを見て、広すぎる才能の差を思い知った。

 (どんなに頑張っても吉宗には勝てない)

 雨の日でも雪の日でもボールを蹴り、グラウンドを走り回った。解説動画を繰り返し見て、技を磨いた。
 その真白の努力を嘲笑うかのように吉宗は十歩も百歩も先に行く。
 部活を引退してサッカーも辞めた。
 泣きながらシューズやボールを段ボールにしまいながら決意した。
 吉宗と一緒にいるから比べられる。ならもう吉宗のいないところに行くしか自分を認めてもらえない。
 地元の大学に進学するという吉宗に話を合わせるふりをして、都内の専門学校へ行く計画を水面下で進めた。
 親にすら言っていない計画を吉宗が知る術は当然ない。

 「あんな顔、初めて見たな」

 ベッドに寝転び天井を見上げながら思い出すのは吉宗の驚いた顔だ。いつも冷静でクールな吉宗は感情を表に出さない。
 吉宗と離れたい。その一心だったが、吉宗の気持ちまで考えたことがなかった。
 少し罪悪感がある。吉宗の立場で考えてみれば寝耳に水だっただろう。突然手のひらを返されて平手打ちをされたのだ。自分だったら怒り狂って暴れ回っていたかもしれない。
 でも心のどこかではすっきりしている。吉宗は小さい頃からなんでも真似したがり、高校も偏差値を大幅に下げて真白と同じところに進学したくらいだ。
 コインの裏表のような気持ちがくるくると回り続けている。離れられて嬉しい。傷つけてしまって申し訳ない。
 どっちに倒れることなく回っている。
 とんと部屋の壁がノックされた。壁一枚を隔てた向こうは吉宗の部屋だ。
 ノック一回の合図は「来い」、二回は「了解」と決まっている。
 真白は二回ノックをして吉宗の家へと向かった。

 「お邪魔しまーす」

 吉宗の家の中は暗かった。まだ両親は仕事から帰ってきていないのだろう。吉宗の部屋の明かりがドアの隙間からわずかに漏れている。

 「なにか用?」

 ノックもしないでドアを開けると吉宗はベッドの上で蹲っていた。長い手足を窮屈そうに縮こませ、ちらりとこちらを見上げている。
 まるで冬眠を邪魔された熊のように殺気立っているように感じた。

 「……俺といるのそんなに嫌だった?」
 「まぁはっきり言えばそうだな」

 あからさまに傷ついた顔をする吉宗に良心が痛んだ。仲違いをしたいわけじゃない。ちゃんと言葉を選ぼうと頭をフル回転させる。

 「昔から吉宗と比べられること多いだろ。いつもダメな方の田中って言われるのがうんざりなんだよ」

 自分では平気だと思っているあだ名でも少しずつ心は削られていく。一つ一つは小さくても長い年月をかけて、大きくなっていた。

 「でも真白いつも平気そうにしてたじゃん」
 「そりゃ場の空気壊したくないし、笑うしかないだろ」
 「……そうだけど」

 良好な友人関係を築くためには空気の読み合いが肝だ。その場にあった笑い方やおどけ方、時には嘘を吐いて盛り上げなければならない。
 そういうことにすべて疲れた。

 「もう嫌なんだよ。ダメな田中って言われたくない。吉宗といる限り、俺はずっとダメなままだ」
 「真白はダメなんかじゃない」
 「……そりゃおまえはなんでもできるから俺の苦労なんてわからねぇよ」

 勉強もスポーツも吉宗より先に始めてもすぐに追い抜かれる。それを見て周りは笑う。ダメな方だと言われて、自分もどこかで仕方がないと諦めていた。
 でもこのままただ腐っていくのは嫌なのだ。新しい環境で違う生き方をしてみたい。
 きちんと「真白」と呼ばれたいのだ。

 「だから俺と離れたいってわけ?」
 「簡単に言えばそうだな」
 「嫌だ!」

 立ち上がった吉宗に腕を取られて壁に追い詰められた。上背のある吉宗に覆われると迫力がある。
 いつもはなにを考えているのかわからない無表情が切羽詰まっていた。

 「……俺から離れようとすんなよ」
 「どこにいっても俺たちは友だちだろ」

 背中をぽんと叩いてあげるが吉宗の表情はどんどん曇っていく。黒い瞳が洞穴のように光をなくしていき、喉奥が鳴った。

 「俺がどうして真白と同じことするかわかる?」
 「……俺と競いたいから?」
 「そばにいたいからだよ」

 壁をついていた吉宗の手に肩を掴まれる。驚くほど強い力で骨がぎしぎしと軋んだ。

 「俺の隣で俺のことをすごいって言って欲しい。褒めて欲しい。それだけのために俺は頑張ってきたんだよ」
 「なんだそれ」

 たったそれだけのことでいままで自分のことをけちょんけちょんにしてきたのか。呆れてしまう。

 「最初はすごいって思ってたよ。でも最近は辛い」

 どうしたって比較対象にされてしまう。
 同じ苗字。
 同じ部活。
 同じクラス。
 同じ性別。
 これを比べるなと言うのが無理な話で、だから吉宗と離れないといつまで経っても真白の立場は変わらない。

 「いい加減、俺離れしろよ。もうガキの頃とは違うだろ」

 吉宗は中学に入った頃からタケノコみたいに背が伸びて女子に一気にモテるようになった。頭もよく運動神経抜群となれば少女漫画のヒーローさながらのモテ街道を歩いている。
 それを横目で見ながら「ダメな方」と言われ続けてきた真白の気持ちなんてきっと吉宗にはわからないだろう。

 「俺は真白だけいればいい」
 「俺はもうおまえの隣は嫌なんだよ!」

 押しのけようとしたが吉宗の力の方が強く、壁に押しつけられた。反動で頭ががつんと当たり、一瞬視界が歪む。

 「いってぇな……っ!」

 顔を上げるといまにでも泣きそうな吉宗と目が合う。吐息が頰を掠め、柔らかい感触が唇に触れた。
 瞬きする暇さえなくぼんやりと吉宗の顔を見た。

 「……いま、なにした?」
 「キス」
 「最っ悪! ファーストキスだったのに!」

 初めてのキスは好きな人とすると決めていた。夜景の見えるきれいな場所で、とシチュエーションまで考えていた。
 それなのに、これじゃあんまりだ。
 じわりと涙が滲んできて乱暴に唇を拭った。皮が裂けたのか鉄の味がする。それでも構わずに何度も擦った。

 「……そんなに俺とするの嫌?」
 「だって好きな人とするって決めてたのに」
 「俺じゃだめなの?」
 「は?」

 意味がわからない。俺じゃだめ? だめに決まってるだろ。

 再び顔が近づいてきた。咄嗟に瞼をぎゅっと閉じてしまい、これじゃ了承しているようなものじゃないかと慌てたがもう遅い。
 でも予想とは違い、額がこつんと触れ合っただけだった。恐る恐る目を開けると近すぎて吉宗の顔が滲んでいる。
 見慣れているはずの顔なのにまるで知らない人みたいな顔をしていた。

 「真白のことが好き」

 飾り気のないストレートな言葉が胸の中心に刺さる。まるで爪楊枝で林檎を刺すような正確で無駄がない。

 「俺、男なんだけど」
 「知ってる」
 「おまえ、女の子からいっぱい告白されてるじゃん」
 「でも真白しか好きじゃない」

 駄々っ子みたいな甘えた言い方を図体がデカい男がするとアンバランスで目眩を起こしそうだ。
 これだけ熱烈な告白を生まれてから一度も受けたことがない。というか告白なんてされたことがなかった。
 だから吉宗の言葉の意味をうまく咀嚼できない。

 「上京するのやめて俺のそばにいてよ」

 ふっと足元の床がなくなり、奈落の底に落とされたような気分だった。
 真白が吉宗の隣に居続ける限り、吉宗は賞賛を浴びられる。
 もちろん単体でも吉宗のすごいが、比較対象がある方が目に見えてわかりやすい。
 だから真白にそばにいて欲しいのだ。
 好きだとか言っているけどそんなの友人としてだけで、恋愛的な意味合いではない。

 (じゃあこのキスもただのからかいってこと?)

 そう思うとむしゃくしゃしてきた。
 真白の進学先に口を出してきた挙げ句にファーストキスを奪われた。
 これでもかっていう最悪な事態が立て続けに起こされて「はい、そうします」とどうして言えると思っているのだろうか。

 「絶対進路は変えない!」

 吉宗の肩を押しやって、ようやく逃げ出せた。自分の部屋に入ってもイライラは落ち着かない。
 むしろ壁一枚隔てた向こう側に吉宗の気配を探ろうと意識が働いてしまう。
 壁にそっと耳を当てたが衣擦れの音すらしない。寝てしまったのだろうか。それともリビングに移動したのだろうか。
 あれこれと吉宗のことを考えて、莫迦らしいと頭を振った。





 一人で登校していると昇降口で吹石が目を丸くさせていた。

 「エース様はどうした?」
 「しらん」

 乱暴に上履きを床に放って靴をしまっていると吹石はくすぐったそうに笑った。

 「また喧嘩したのか? どうせおまえが悪いんだから謝っておけ」
 「なんで俺が悪いって決めつけるんだよ」

 ギロリと睨みつけるが今度は腹を抱えて笑い出した。なにがそんなに面白いんだとイライラが募る。

 「昔からそうじゃん。部室の鍵を閉め忘れたとか借りたノートを汚したとかでおまえらしょっちゅう喧嘩してる」
 「……今回はそういうんじゃねぇよ」

 キスをされた唇の柔らかさを思い出し、慌てて拭った。傷はかさぶたにもならず、翌朝にはすっかり治っていた。
 感触もなくなってしまえばいいのに。あのキスも嫌な告白も、跡形もなく消し去っていればいままで通り普通の友だちでいられた。
 まさかキスなんてされると思わなかった。吉宗がそこまでして自分を引き留めようと必死だったことに腹が立つ。
 それほど下に見られていたということだろうか。

 「専門を都内に決めたんだよ。それを吉宗に昨日初めて言った」
 「うわっ、それはおまえが悪いな」
 「なんでだよ」
 「エース様は地元って決めて、おまえも話合わせてたじゃん。エース様なら国立大だって余裕だったろうに。おまえに合わせてだろ?」
 「知らねぇ」

 吉宗の進路がどうして自分に関わりがあるのか。小学校から一緒だとはいえ、まさか就職先まで同じにできるはずはない。
 どこまで自分を卑下したいのか。ますます吉宗への怒りが募る。

 「真白くん、上京するの?」

 女子特有の甲高い声にどきりと心臓が跳ねる。同じように外靴をしまっている女子がこちらを向いていた。
 計算されつくしたような睫毛の角度とピンクのアイシャドウが彼女の可愛らしさを際立てている。
 確かクラスメイトだ。渡、だっただろうか。
 女子とはほとんど会話をしないので一気に緊張感が高まってしまい、痒くもない首を触った。

 「そうだけど」
 「私もなんだ! 専門? それとも大学?」
 「……美容師の専門」
 「私はネイリスト! 結構似てるね」
 「そうだな」

 それからどこの専門に決めた? 住む場所は? と訊かれ、渋谷の、二番目の兄貴のとこに住むと機械的に答えると渡は花が咲くように笑った。

 「よかったら一緒に説明会行かない?」

 詳しく聞くと今週の土曜日に美容系の専門学校の説明会があり、友だちと行く予定だったがインフルエンザで行けなくなってしまったらしい。説明会は予約制で人気なところだと言う。
 スマホでさらっと調べると美容室への就職先も豊富で、いくつもの賞を取った講師がたくさんいるところだった。 

 「へぇ〜いいな」
 「じゃあ決まり。連絡先交換しよ」
 「いいよ」

 多少強引なところもあるが、渡の屈託のない笑顔で中和される。女の子は少しわがままなくらいが可愛げがあるのかもしれない。
 友だち欄に渡の名前が増えるとなぜか胸に暗い影が落ちた。無意識にかさついた唇に触れるとじくりと痛む。

 「……はよ」

 低い声にびくりと肩が跳ねた。振り返らなくても吉宗だとわかる。

 「吉宗くん、おはよう」
 「……っす」

 吉宗は渡に適当に会釈して、じろりと真白を見下ろした。約束しているわけではないが、いつも一緒に登下校をしている。なにも言わずに先に言ったから怒っているのだろう。

 (でもあんなことされて普通にできるかよ)

 触ってもいないのにまた唇が痛む気がして、べろりと舐めた。

 「じゃあ土曜日ね」

 渡はスキップするかの勢いで階段を駆け上っていく。その後ろ姿をぼんやり見ていると吹石に肘で突かれた。

 「いいねぇ〜渡とデート」
 「説明会行くだけだし」
 「でも渡って結構人気あんだぜ? 女の子っぽいってさ。やるじゃん」
 「向こうはその気ないって」

 吉宗の存在を背中に感じながら必死で否定した。別に渡とどうこうなりたいわけではない。
 ただ吉宗と離れて「田中真白」という人間を認めてもらいたいだけなのだ。
 それがどうして女のために上京するような絵面になってしまったのだろう。
 藻掻けば藻掻くほど絡まってしまう蜘蛛の糸のように真白の首を絞めていく。

 「デートってなに?」
 「吉宗には関係ないだろ。行こう、吹石」
 「え、おい!?」

 吹石の腕を掴んでさっさと階段をのぼる。どうせ教室で顔を付き合わせるのに、いまは吉宗のことを視界に入れたくなかった。





 慣れない都会に驚き、慣れない人混みに揉まれ、慣れない話を聞いて帰路に着くとどっと疲れがのしかかった。
 電車に座るや否や、すぐに溜息を吐くと隣に座った渡はくすぐったそうに笑った。

 「さすがに疲れたよね」
 「いろんな話いっぺんに聞かされて頭が混乱してる」
 「わかる」

 授業内容や取れる資格、講師の紹介や教材にかかる費用まで細かく教えてくれた。それに比例するように渡された資料は手に食い込むほど重い。
 流れる車窓の景色を眺め、ふと吉宗が浮かんだ。あれからまともに話をしておらず、避け続けている。
 家の前に待ち伏せされても素通りし、声をかけられても無視をしている。
 なにを話せばいいのかわからない。以前はどんな風な会話をしていたのか思い出せなかった。

 「最近、吉宗くんと話してないよね。喧嘩でもしてるの?」
 「……俺の進路に口出ししてきてさ。ちょっと揉めてる」

 さらっと口をついたことに驚いた。こんなこと話すつもりなんてなかったのに。
 渡は同じクラスというだけで親しかったわけでもない。自分と吉宗を囲う枠から外れているから話せたのだろう。
 渡は一瞬驚いたように目を大きく広げたが、すぐに目尻を下げた。

 「わかるよ。私もネイリストなんてちゃんと働けるのって親と揉めたもん」
 「それで結局どうしたの?」
 「どうもしてない。結局親の話を聞かないで勝手に進めてる」

 まるでいたずらに成功したかのような子どもっぽい笑顔に可愛いなと素直に思えた。
 そういえば女子と二人で出かけること自体始めてだ。
 渡は背も低く、甘くていい匂いがする。肩の細さや柔らかな肌の質感がいかにも女子らしい。
 いつも隣にいた吉宗と無意識に比べてしまい、あまりの違いに違和感がむくむくと芽生える。
 パズルのピースを無理やりはめたけどそのまま進めてしまったような後味の悪さだ。後戻りはできるけどしたくない。もうここまで進めてしまったなら無理やりにでも終わらせてしまいたいような焦りがある。

 「でも口を出すってことは真白くんのこと心配してるんだよ」
 「そうかな」
 「どうでもよかったら放っておくでしょ。きっと真白くんのことを大事に思ってる」
 「そう見える?」
 「うん」

 第三者の意見がすんなりと心に沁みる。
 最寄りの駅に着くと空はどんよりと暗くなっていた。さすがに女の子を一人で帰らせるのは忍びなく、途中まで送ってあげることにした。
 学校のことや将来のことなど取り留めなく話しているとなんでこんなこと話しているのだろうとふと足を止めたくなる。
 無理やり進めたパズルを一回全部壊してしまいたい。

 「あ、一番星」

 渡が空をさすと小さな星が瞬いていた。雲もなく、他の星たちもまだのぼっていない。たった一人の舞台のように堂々としている。

 「一番星に小指の先を合わせて願い事をすると叶うんだよ」
 「胡散臭いな」
 「いいじゃん。そういうのに縋りたいこともあるんだよ」

 渡は細くて長い小指を出して一番星に狙いを定めた。そのまま目を瞑ってしまった。

 「私ね、真白くんのことが好きなんだ。付き合って欲しい」

 街灯のわずかな明かりでも渡の頬が真っ赤なのがわかる。潤んだ目も艶やかな髪も雪のようにきれいな肌も男なら誰でも一度は触れたいと思うだろう。
 けれど頭に最初に浮かんだのは吉宗のことだ。
 しばらく無言でいると糸がぷつりと切れるように空気が弛緩した。

 「いきなりごめんね。真白くんと話せるのが嬉しくて先走っちゃった」
 「いや、あの……ごめん。俺は付き合うとかできない」
 「やっぱりこのおまじない効かないね」

 渡の向日葵のような笑顔が眩しい。
 小さくなっていく背中を見送り、真白は自分の小指を一番星にかざした。





 マンションのエントランスに置いてあるソファに大柄な体躯を窮屈そうに丸めている吉宗の姿があった。黒いパーカーのフードを被っているせいで表情は見えない。
 ただじっとしている姿は石像のように動かず、住人たちは足早に家へと走っていった。
 はあと溜息を吐いて近づいた。

 「おまえ、こんなところにいたら近所迷惑だぞ」
 「デート楽しかった?」
 「だから専門の説明会に行っただけだっつうの」

 どかりと反対側に座る。こんなに近くても吉宗の顔が見えない。
 フードを指でつまんで顔を覗くと切れ長の目元がうっすらと赤く腫れていた。頬には涙が乾いた白い痕が残っていてぎょっとした。

 「泣いてたの?」

 ふっと笑うと丸まった身体がダンゴムシのようにぐりぐりと当てられた。
 勉強も運動もなんでもできる吉宗が泣いている姿なんて見たことがない。なんだかいいものを見たような気がして笑いが込み上げてきてしまう。口元を押さえても我慢できず、息を漏らすとじろりと睨まれた。

 「吉宗が泣いてるのなんて初めて見た」
 「……真白に嫌われたからもう生きていけない」
 「別に嫌ってねぇよ」
 「勝手にキスしたから?」
 「それ以前の問題」

 キスはきっかけだったに過ぎない。ずっと前から計画していたことだったのだと説明したが、吉宗の表情は浮かないままだ。

 「どうして俺なわけ?」

 吉宗は少女漫画のヒーロー並みに女子にモテる。むしろモテ過ぎてて引くくらいだ。
 上履きやペンを取られたり、着替えているところ盗撮されることもある。酷いときは家にまで押しかけてきてキスをしてくれと迫ってきた女もいた。
 そのせいで女子が苦手になり、癒しを求めるように手短にいる真白を好きだと勘違いしているのではないか。
 吉宗より劣っている真白を見下して、好きだと取り違えて心の均衡を保っているように映る。

 「好きになるのに理由っているのか?」
 「そりゃあるんじゃない。顔がタイプだとか趣味が合うとか」
 「じゃあ俺のタイプは真白だ」

 泣きはらした黒い瞳は潤んでいて子どものときのような純粋さがあった。裏も表もない正面からの吉宗の気持ちがすっと向けられる。
 吉宗の黒い瞳に重なるように小指を翳した。あのときなにも願えなかった。でもいまなら願えるような気がする。
 吉宗と比べられるのが嫌だった。勉強も運動も大好きなサッカーでさえ、吉宗にはなに一つ敵わなかった。
 その反発心から一人で行動したけれど、心にぽっかりと穴が開いたまま空気が抜けていくような時間だった。
 憧れの東京へ行っても、女の子に告白されても心が躍らない。
 風の吹かない湖畔のように波一つ立たない穏やか過ぎて味気ない時間だった。
 いつだって真白を動かしてくれるのは吉宗だけ。
 それは負けたくないという気持ちだったが、裏を返せば吉宗と釣り合う男になりたかったのだ。
 かざした小指に吉宗が唇を落とした。まるで祈るようなその仕草に胸がきゅうと苦しくなる。

 「俺は吉宗にずっと莫迦にされてるんだと思ってた」
 「そんなことするわけないだろ」
 「うん。いまやっとわかったよ」

 なにかを新しく始めるとき未知の体験にわくわくもしたが、不安もあった。でも振り返ると必ず吉宗がいてくれる。だから安心して走っていけたんだといまになって気づく。

 「吉宗って懲りないんだな」
 「俺は一途に愛する男だからね」
 「これから苦労しそうだな」
 「それってーー」

 立ち上がって吉宗の腕を引っ張った。ずっと同じ姿勢をしていたせいで足が痺れているのかその場にへなへなと座り込んでしまった。

 「足、痺れた」
 「だっせぇな」

 ふっと笑って吉宗の頬にキスをした。少ししょっぱい味がする。

 「……真白」
 「地元でも美容系の専門探すの手伝えよ」
 「もちろん」

 手を繋ぐとやっとピースが揃ったような安心感がした。
 離れないように強く握ると同じ分だけ握り返してくれる。
 その強さが心の隙間を埋めてくれた。