第1章:日常
玄関の扉を開けた瞬間、陽翔は予想通りの声を耳にした。
「おはよう、陽翔ちゃ~ん♡ 今日も遅刻せずに起きられてえらいわね~!」
声の主は柊志乃。190センチの長身にスラリとした体型、切れ長の目、形の良い鼻――どこを取っても完璧な顔立ちだ。朝の柔らかな日差しを浴びるその姿は、まるで雑誌の表紙を飾るモデルのようで、ひときわ目を引く。
ただ、その見た目に反して口を開けばおネエというギャップがありすぎる。しかもこの男は陽翔の幼なじみであり、何でもできる万能人間。おまけにいつも弟扱いしてくる、少々迷惑な存在だ。
「お前な…また迎えに来たのかよ」
陽翔は半ば呆れながら、志乃の整った顔を睨みつける。だが、その反応をまるで楽しむかのように、志乃は満面の笑みを浮かべてみせた。
「当たり前じゃない。お姉ちゃんが弟を迎えに来るのは常識でしょ~」
「俺は弟じゃない!同い年だ!」
陽翔が反論する間もなく、志乃はさっと陽翔のカバンを取り上げた。その動きは自然すぎて、抗議する隙すら与えない。
「ちょっ、返せよ!」
「荷物はお姉ちゃんが持つべきでしょ。ほら、行くわよ。」
志乃は軽々とカバンを肩にかけると、すたすたと歩き出す。その背中は堂々としていて、余裕の塊だった。
仕方なく陽翔はその後を追いかける。志乃の背中を見上げるたび、自分との違いを感じずにはいられない。
子供の頃から、志乃は何でもできる人だった。
幼稚園の頃、陽翔が遊び場で他の子に押されて泣いていると、志乃がその子を追い払ってくれたことがあった。小学校では運動会のリレーで転んで落ち込む陽翔に、「次は勝てる」と練習に付き合ってくれたこともある。
いつも助けてもらってきた。優しくて頼れる人――だけど。
(ずっと守られるだけなんて、嫌だ)
心の中でそう呟くと、自然と唇を噛んでいた。陽翔は志乃の背中をじっと睨む。
「なあ、なんで毎回そうやってさ…カバン取るんだよ。俺だって自分で持てるのに!」
陽翔が声を張り上げると、志乃が振り返った。その動きにさえ余裕が感じられるのが癪に障る。
「ん~?だって、私が持ったほうが早いでしょ?」
「俺が遅いって言いたいのかよ!」
「そうとも言うわね~」
志乃はさらりと笑うと、また前を向いて歩き出す。陽翔は何も言えなくなり、ただその背中を追い続けるしかなかった。
「ねえ、陽翔ちゃん」
突然、志乃が足を止めた。
「…なんだよ」
陽翔は不機嫌そうに振り返るが、志乃の視線が自分の胸元に注がれているのに気づいた。
「シャツのボタン、掛け違えてるわよ」
「は?」
志乃は軽く息をつくと、すっと手を伸ばした。
「お、おい、何して――さ、触るな」
「動かないの。ほら、お姉ちゃんが直してあげるから」
器用にボタンを外し直す志乃の指は、細くてきれいだった。女子みたいに華奢なのに、どこか洗練されていて、無駄がない。陽翔はされるがまま硬直するしかない。
「完成。これで完璧よ」
志乃が手を引っ込め、満足げな表情を浮かべる。その顔がいつにも増して余裕たっぷりで、陽翔は一気に顔が熱くなるのを感じた。
「だから触るなって言ったろ!」
「感謝しなさいな。お姉ちゃんの愛よ~」
「もういいだろ!早く行くぞ!」
陽翔は恥ずかしさを隠すように、志乃を追い越して歩き出した。
そんな陽翔の後ろから、志乃の笑い声が追いかけてくる。
「あらあら、お姉ちゃんを置いて行くの~?」
それがまた癪に障るのだが、結局陽翔は言い返せないまま、志乃と並んで学校へと向かった。
朝の空気が冷たいのに、陽翔の耳の先だけは妙に熱かった。
教室に足を踏み入れると、朝のざわつきが耳に飛び込んできた。
クラスメイトたちがあちこちで集まり、楽しそうに話をしている。志乃と陽翔が教室に入ると、すぐ近くからこんな声が聞こえてきた。
「昨日の『名探偵ストレイ』見た?あれマジでヤバかったんだけど!」
「見た見た!てか、最後の伏線すごすぎたよな!」
「それってさ、アイツが犯人だったやつだろ?途中で気づいた?」
「全然気づかなくてさ、めっちゃ驚いたわ!」
少し離れた別のグループでは、音楽の話題が出ているようだ。
「ミスティーの新曲聴いた?もうマジでヤバすぎなんだけど!」
「聴いた!MV見た?衣装も良すぎてもう死んだわ!」
「あの白いやつだろ?あれ、やばいよな~」
朝の空気に溶け込むような会話が続く中、陽翔は「こんなに元気に話すことがよくあるよな」と感心しながら、自分の席に向かう。だがその背後には、当然のように志乃がぴったりとついてきていた。
「なあ、教室に入ったんだから、もう離れろよ」
陽翔が振り返ると、志乃は飄々とした顔で肩をすくめた。
「いいじゃない、陽翔ちゃんのことが気になって仕方ないのよ~」
「気にしなくていいから!」
陽翔の抗議を聞いた近くのクラスメイトたちが、クスクスと笑う。
その時、山田と何人かの生徒が話をしている声が耳に入った。
「てか、聞いた?レッドドラゴンのリーダー、変わったらしいよ」
「マジ?誰が新しいリーダーになったんだよ」
「知らねえけど、めっちゃヤバい奴らしいぞ」
「まじか、あのグループ最強だろ?」
会話の内容は流れるように続いていたが、陽翔は「へえ、不良グループか」と思いながら聞き流した。特に関心を持つわけでもなく、ただ日常の一つとして耳を過ぎていく。
「怖い話ね」
すぐ隣で志乃が小さく呟く。陽翔はそれに返事をせず、ただ席に着いた。
午前の授業が始まると、教室は一転して静かになった。
先生の話が淡々と続き、陽翔はノートにペンを走らせながら、ふと窓の外に目を向ける。風に揺れる木の葉の音が、かすかに耳に届く。
別の席に座る志乃はというと、つまらなそうに視線を彷徨わせていた。
ちらりと陽翔の背中を見ては、小さな声で笑う。
「ふふ、陽翔ちゃん、今日も可愛いわね~」
授業中の静けさの中で、それは聞こえないほどの小さな独り言だった。
午後の授業が終わり、夕焼け色に染まった空の下、陽翔と志乃は並んで通学路を歩いていた。
「ほら、陽翔ちゃん。早く帰りましょう」
志乃が軽い声で言うと、陽翔は疲れた表情で顔をしかめる。
「帰りくらい一人にしてくれよ」
「ダメよ。お姉ちゃんが弟を見送るのは当然でしょ」
「だから弟じゃないって!」
陽翔が声を荒げても、志乃はまったく悪びれる様子もなく笑っている。
二人が進む道の途中には、小さな公園があった。遊具はあるものの、平日の夕方にはほとんど人の姿は見えない。立ち寄る子供もいなければ、散歩中の人の姿もなく、どこか静まり返った雰囲気を漂わせている。
「ここ、やっぱり人いないよな」
公園を横目で見ながら陽翔が呟くと、志乃はちらりと目を向けるだけで何も言わなかった。二人の足音だけが小道に響いている。
公園を抜けようとしたその時、前方に制服姿の男性が見えた。自転車を押しながら歩いているのは田中警察官だ。近所の交番に勤務していて、この辺りをパトロールしている姿をよく見かける。
「あ、田中さん!」
志乃が手を振ると、田中が気づいて顔を上げた。
「おや、志乃君に陽翔君。今日も仲良く帰ってるな」
田中は自転車を止めて、二人の方に歩み寄ってきた。
「仲良く、だなんて……。私は弟を見守ってるだけですけどね~」
志乃が軽く冗談を交えると、陽翔がすかさず声を張り上げた。
「だから弟じゃないってば!」
そのやり取りを聞いた田中は、困ったように笑いながらも、どこか楽しそうだ。
「それにしても田中さん、今日もパトロールですか?」
「まあな。この辺は普段平和だから楽なもんだよ」
田中は自転車のハンドルに手をかけながら、ちらりと公園を見やった。
「とはいえ、最近ちょっと不良グループがうろついてるって話もあったから、気にはしてるけどな」
「え、不良グループ?」
陽翔が眉をひそめると、田中は「心配いらないさ」と軽く手を振った。
「昔からいるような連中だけど、大したことはないよ。夜にたむろしてることがあるくらいだ。普通にしてれば関わることもない」
「そうなんですね」
志乃がそう答えると、田中はニコリと笑った。
「志乃君がいるなら、陽翔君も安心だな。君みたいな頼れるお姉ちゃんがいれば、何があっても大丈夫だろう」
「お姉ちゃんじゃない!」
陽翔がまたしても声を荒げると、田中は「すまんすまん」と笑いながら頭を下げた。
公園を抜け、静かな住宅街に差し掛かると、家々の窓からこぼれる明かりが通りを照らしていた。陽翔はふと口を開く。
「ほんと、あの田中さん、いっつも人をからかうよな」
「それが田中さんの魅力でしょ~」
志乃が軽く笑いながらそう答える。
「まあ、悪い人じゃないけどさ」
陽翔がぼそりと呟くと、志乃は横目で陽翔を見て小さく笑った。
「そういうとこ、素直で可愛いわよね」
「どこがだよ!」
陽翔が慌てて顔を背けると、志乃はくすくすと笑いながら、また歩き出した。
二人の影が長く伸びて、夕闇に溶け込んでいく。
第2章:陽翔の葛藤と悠馬のアプローチ
「じゃあ、今日から新しいクラスメイトを紹介するぞ」
担任の声が響くと、ざわざわとしていた教室が一瞬で静かになった。誰もが興味津々といった様子で前を向き、陽翔もそれにつられて視線を上げる。
教室の扉が開き、刈り上げたサイドヘアが目を引く男が現れた。
無造作に袖をまくり上げたシャツ、緩く垂れたネクタイ。
その姿は、まるで不良ドラマの主人公のようだった。
「自己紹介を頼む」
担任の声が静まり返った教室に響く。
「遠藤悠馬。よろしく」
悠馬は一歩前に出ると、担任を一瞥することなく教室を見渡した。
がっちりした肩幅、堂々とした動き――その存在感に、生徒たちは圧倒されていた。
「…うわ…」
誰かが息を飲む音が聞こえる。
悠馬は表情を変えることなく、その場に静かに立っていた。
クラスメイトたちは目を合わせてヒソヒソと囁き合いながらも、悠馬から目を離せない様子だった。
「じゃあ、席は一番後ろだな」
担任が適当に指差した席に悠馬が向かうと、道を空けるように周囲の生徒たちがそっと体を避ける。彼が歩くだけで教室の空気が変わる――そんな錯覚すら覚えた。
(なんだよ、あいつ…)
陽翔は少し居心地の悪さを感じながら、悠馬をじっと見ていた。
最初のホームルームが終わり、教室が休み時間になると、悠馬はすぐに動き出した。
「なあ、ちょっと聞きたいんだけどさ」
声をかけられたのは、前の席に座っていた男子生徒だった。悠馬は自ら立ち上がると、自然な口調で会話を始める。
「ここって、昼飯どこで食べてるやつが多いんだ?」
「あ、ああ、教室とか学食、売店かな…」
緊張した様子で答える男子生徒に、悠馬はふっと笑った。
「へえ、どっちもありか。学食はメニューとか多いのか?」
「うん、結構種類あるよ」
「それいいな。行ってみるか」
悠馬はさらりとした態度で次々と質問を投げかけ、それに答える生徒たちも次第に緊張を解いていった。話しかけられた生徒が笑顔を見せ始めると、周囲にいた生徒たちも自然とその輪に加わっていく。
陽翔は自分の席からその光景をぼんやりと眺めていた。
(…すげえな)
彼は確かに目立つ。見た目のインパクトが強いし、最初は誰もが戸惑うような威圧感があった。それなのに、悠馬は自分から話しかけ、あっという間に周りの空気を和らげてしまった。
(なんだろう…この感じ)
陽翔は胸の奥に、何とも言えないざわつきを覚えた。
それが何なのか、自分でもはっきりとは分からない。ただ、悠馬がクラスの中心に溶け込んでいく様子を見ていると、どこか居心地の悪い気持ちになるのだった。昼休みになり、教室のざわつきがさらに増した頃、悠馬が次に声をかけたのは志乃だった。
「おい、君、背高いな。何センチあるんだ?」
突然の言葉に、志乃がちらりと悠馬を見て薄く微笑む。
「私?190センチよ。あなたも背が高いのね」
「そうだな。俺は185くらいか」
「じゃあ、もう少し伸ばせば私に追いつけるわね」
志乃の余裕たっぷりの笑顔に、悠馬は少し驚いたような表情を見せたが、すぐに口元を歪めて笑った。
「面白い奴だな、お前」
「あなたも、ね」
志乃はいつも通り余裕のある態度を見せていた。陽翔にとって、志乃がクラスの男子たちと話すのは日常的な光景だ。だが、悠馬と話す志乃の姿を目にしたときだけは、胸の奥がざわついた。
「陽翔ちゃん、何よその顔?」
ふと気づくと、志乃がこちらを見て笑っていた。悠馬との会話を終えた後、陽翔の反応を楽しむように振り返ってきたのだ。
「べ、別に」
陽翔が慌てて目をそらすと、志乃は肩をすくめながらまた微笑む。
「ふーん。まあ、気にしないでいいわよ~」
志乃の余裕のある態度に対し、陽翔は言いようのない悔しさを感じながら俯いた。
昼休み、陽翔はいつもの席で弁当の包みを広げていた。志乃は教室を出て行ったまま戻ってきていないが、どうやら購買部に飲み物を買いに行ったらしい。
(もう少し早く戻ってこいよ…)
陽翔は自分の弁当をつつきながら、教室の扉をちらりと見た。そのとき、軽やかな足音とともに志乃が教室に戻ってきた。
「はい、陽翔ちゃ」
志乃が手にしていたのは二本のペットボトル。お茶とスポーツドリンクの二種類で、陽翔の方に軽く放り投げるように渡してきた。
「お、おい、ちゃんと渡せよ!」
陽翔が受け取り損ねそうになるのを見て、志乃は軽く笑う
「そんなことで落とすなんて、弟失格よ~」
「だから弟じゃないって言ってるだろ!」
陽翔が反論している間に、志乃は自分の席に腰掛けた。飲み物を鞄の上に置きながら、窓の外をちらりと眺める。
その時だった。
「なあ、志乃」
悠馬の声が教室のざわめきを突き抜けるように響いた。
悠馬は教室の隅で購買部で買ったパンを片手に持ちながら、堂々と志乃の席に近づいてきた。クラス中の視線がその動きを追っているのが分かる。
「なんですか、悠馬君」
志乃がゆったりとした声で答えると、悠馬はパンをテーブルに置いて腕を組む。
「一緒に飯食おうぜ」
その一言に、教室が一瞬静まり返る。悠馬の誘いはあまりにもストレートで、クラスメイトたちは思わず息を飲んだようだった。
「一緒に?」
志乃は笑みを浮かべたまま首を傾げる。その手にはまだペットボトルが握られていた。
「でも、もう私は陽翔ちゃんと食べる予定があるのよね」
「そうなのか」
悠馬は軽く視線を陽翔に向けた。その一瞥には特に感情が込められていないように見えたが、陽翔は思わず身を縮めた。
「じゃあさ」
悠馬はそのまま構わず話を続けた。
「次の放課後、どっか付き合えよ」
教室全体が再び緊張に包まれる。
「放課後?」
志乃はその言葉を繰り返しながら、悠馬をじっと見つめる。
「それって、デートのお誘いかしら?」
冗談めかしたその言葉に、周囲の数人が小さく笑う声を漏らした。だが、悠馬は一切笑わず、まっすぐ志乃を見据えている。
「そう思ってくれてもいいぜ」
悠馬の言葉は驚くほどストレートだった。志乃はほんの少しだけ目を細めると、再び口元に笑みを浮かべた。
「そうね…」
彼女は悠馬の顔をじっと見つめ、数秒考えるそぶりを見せた。
「また考えておくわ」
「了解」
悠馬はそれ以上何も言わず、満足そうに笑うと踵を返した。
そのやり取りを見ながら、陽翔は弁当の箸を持ったまま固まっていた。
(なんだよ、それ…)
志乃に近づこうとする悠馬の堂々とした態度。それに対して余裕たっぷりに対応する志乃。そして、悠馬の言葉を否定せずに受け流すその仕草――すべてが胸に刺さるように感じた。
「陽翔ちゃん、そんなにじっと見てどうしたの?」
いつの間にか視線に気づいていた志乃が、こちらを振り返って笑っていた。
「べ、別に」
陽翔が慌てて顔をそらすと、志乃は軽く肩をすくめて再び悠馬の方へ目を向けた。
放課後、悠馬が再び志乃に声をかけているのを陽翔は耳にした。
「結局、今日付き合ってくれるのか?」
「まあ、悪い話じゃないわね。でも――」
「でも?」
「陽翔ちゃんもいるのよね」
志乃の視線が陽翔に向けられる。驚いた陽翔は、思わずその場で立ち止まった。
「俺?」
「そうよ。ほら、弟を一人で帰らせるなんてお姉ちゃん失格でしょ?」
志乃は冗談めかして言い、陽翔の方へと歩き出す。その姿を見て、悠馬は少しだけ口元を歪めた。
「…まあ、いいさ」
悠馬はそれ以上何も言わず、手にした鞄を肩にかけて去っていった。その背中を見送りながら、陽翔は志乃の方を向く。
「なんだよ、急に…」
「別に?」
志乃は笑いながらそう言うと、軽い足取りで陽翔の横を歩き始めた。
陽翔は胸の中で何かがざわつくのを感じながらも、その理由が分からなかった。ただ、悠馬の存在が志乃との距離感を少しずつ変えていくような、そんな気がしてならなかった。
陽翔は唇を噛みながら、小さなため息をついて志乃の隣を歩き続けた。
放課後、校門へと続く道を歩く二人。夕焼けの光が長い影をアスファルトに映し出している。
「それにしても、悠馬君って積極的よね~」
志乃がふっと笑いながら言った。
「…何の話だよ」
陽翔は横目で志乃を見ながら素っ気なく答える。
「さっきの昼休みの話。『次の放課後どっか付き合えよ』だなんて、すごくない?そんなこと言える人、なかなかいないわよ~」
志乃の声はどこか楽しげで、軽い冗談を交えているように聞こえる。しかし、その言葉は陽翔の胸にじわりと刺さった。
「ふーん。別にどうでもいいけど」
陽翔は足元の石をつま先で蹴りながら、わざと冷めた声を出した。
「ほんとにどうでもいいのかしら?」
志乃がちらりと陽翔の顔を覗き込む。その余裕たっぷりの表情に、陽翔は思わず目をそらした。
「どうでもいいって言ってんだろ!」
語尾が少し強くなったのは、自分でも誤魔化しきれない動揺のせいだった。
「でもさ、陽翔ちゃん」
志乃が少し歩みを止め、振り返るように陽翔を見た。
「悠馬君って、結構素敵だと思わない?」
「は?」
突然の言葉に、陽翔は目を見開いた。
「だって、がっちりした男らしい体型にワイルドな顔立ち、それにちょっとミステリアスなところが女心をくすぐるわよね」
「お前は男だろ!」
陽翔が思わず突っ込むと、志乃はくすくすと笑いながら肩をすくめた。
「そうだったわ。でも、それでもああいうタイプの人ってやっぱり魅力的だと思わない?」
「…知らねえよ、そんなの」
陽翔は拳を握りしめながら答えた。けれど、志乃の言葉がぐるぐると頭の中を巡っている。
(なんだよ、それ…)
胸の奥がざわざわして、息苦しいような気持ちが広がる。志乃の視線が悠馬に向いている――ただそれだけのことで、なぜこんなに動揺するのか、自分でもわからなかった。
「陽翔ちゃんも、少しは見習ったら?」
さらに追い打ちをかけるように、志乃は続けた。
「何をだよ」
「例えば、もっと堂々とするとか?小さくまとまっちゃダメよ~」
「小さくまとまるとか…関係ないだろ!」
陽翔が思わず声を荒げると、志乃はくすくすと笑った。
「ごめんなさいね~。でも、陽翔ちゃんってからかうと可愛いのよね」
「可愛くねえから!」
必死に言い返す陽翔だったが、その言葉に力はなかった。
しばらく沈黙が続いた。二人の足音だけが静かな通学路に響く。志乃は小さくため息をつきながら、ふと空を見上げた。
「ま、悠馬君がどうとかは置いといて…」
「…?」
「私、陽翔ちゃんが一番好きよ」
突然の言葉に、陽翔は足を止めた。
「…何だよ、それ」
「何って?」
志乃は振り返り、またいつものように微笑んでみせた。
「いや、だから…」
陽翔は言葉を詰まらせながら、視線を逸らした。
「ま、冗談か本気かは、陽翔ちゃんの想像に任せるわ」
志乃は軽い足取りで歩き出す。その背中を見つめながら、陽翔は拳を握りしめた。
(なんなんだよ…本当に)
夕焼けに染まる影が長く伸びていく中、陽翔は志乃の後を追いながら、胸のざわつきと戦い続けていた。
朝、陽翔がドアを開けると、いつもの光景が広がっていた。家の前で志乃が彼を待っている。毎日のように繰り返される日常――そのはずだった。だが、今日は違っていた。志乃の隣に、悠馬が立っていたのだ。
「おはよう、陽翔ちゃん!」
志乃が明るい声で手を振る。その隣で悠馬が微かに笑みを浮かべている。
「驚いちゃった!私が家を出たら、たまたま悠馬君が歩いてたのよ。聞けば、この近所に越してきたみたい!」
志乃が楽しそうに話す一方で、陽翔は思わず眉をひそめた。
「…何でお前がここにいるんだよ」
「言っただろ?近くに越してきたんだって」
悠馬は軽く肩をすくめるだけで、どこか挑発的な目を陽翔に向けた。
「こんな偶然あるのね~」
志乃が屈託のない笑顔を見せるのを横目に、陽翔は朝から心がざわざわするのを感じていた。
登校中も、いつもと違う空気が陽翔を苛立たせた。志乃が悠馬と並んで歩き、楽しげに話をしている。それがどうにも気に食わない。
「私ね、ここら辺は詳しいのよ。困ったことがあったら何でも聞いてね!」
「おう、頼りにしてる」
悠馬の返事に、志乃が嬉しそうに笑う。
「俺、先行く」
陽翔は短く言い放つと、カバンをぎゅっと握りしめ、その場から駆け出した。
「陽翔ちゃん?」
志乃が首をかしげる。
「どうしたのかしら?」
「いいじゃねえか。姉ちゃん離れさせてやれよ」
悠馬が志乃の肩に軽く腕を回す。志乃はその軽口に思わず笑ってしまったが、すぐに口元を押さえた。
陽翔は振り返ることなく、ただ前を向いて走り続けた。背後から聞こえる楽しそうな声が、耳に焼き付いて離れなかった。
その日の体育の授業は柔道だった。男子たちが汗を流しながら投げ技や受け身の練習をする中、ひと際注目を集めていたのは志乃だった。彼の190センチの長身は、高校の男子生徒にとっても脅威である。柔道着に身を包んだ志乃は、誰もが一度は憧れるほどの絵になる姿だった。
「じゃあ、次は遠藤と柊!」
先生の指示で、志乃と悠馬が対戦することになった。
(また志乃が圧勝するんだろうな…)
陽翔は無気力にその光景を眺めていた。これまでの対戦では、志乃が高身長を活かしてほとんどの男子を投げ飛ばしてきた。悠馬だって、結局は――。
だが、陽翔の予想は裏切られた。
「よっ――!」
悠馬が低い姿勢から素早く動き、志乃の懐に飛び込むと、あっという間に足をかけて倒した。
「うそ…」
周囲の男子たちから驚きの声が漏れる。床に押さえ込まれた志乃が苦笑しながらもがいているが、悠馬の力強い押さえ込みからは逃げられそうにない。
(なんで、志乃が…)
陽翔は、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
さらに視界に飛び込んできたのは、二人の顔の距離だ。寝技をかけた悠馬の顔が、志乃の顔にぐっと近づいている。まるで、次の瞬間にキスでもするのではないか――そんな風に見えるほどだった。
「……おい」
思わず小さくつぶやいた陽翔だったが、その声が届くことはなかった。
志乃の息遣いがどこか荒く感じられるのも、陽翔の胸をざわつかせる。
(もういいよ…。先生、早く止めろよ)
「よし、そこまで!」
先生の声が響き渡り、ようやく試合が終了する。悠馬が体を起こすと、志乃も立ち上がりながら、わずかに肩で息をしていた。
「へえ、やるじゃない」
志乃が微笑みながら言うと、悠馬は余裕の表情で肩をすくめた。
「まあな」
一瞬だが、志乃と悠馬が、なんとなくお互いを見つめ合うような仕草をしたように陽翔の目には映った。その瞬間は、陽翔にはそれが永遠のように思えた。
(なんだよ、それ…)
まるで言葉ではない何かで結ばれているような、そんな不思議な空気が二人の間に流れている――陽翔にはそう見えた。
(さっきから何なんだ、このもやもやする気持ちは…)
胸の奥が締め付けられるような痛みに変わっていく。
志乃がふと視線を外し、軽く柔道着の肩を整えながら立ち去った。その後ろ姿を悠馬が目で追っているようにも見える。
陽翔は手に握ったタオルを強く握りしめると、無言のまま視線を逸らした。
第3章:陽翔の覚醒と志乃の距離感
昼休み、いつものように志乃と一緒に昼食を食べようとしていた陽翔だったが、志乃に「ちょっと用事があるの」と言われ、一人で食べることになった。
(どこ行ったんだよ…)
窓の外をぼんやり眺めながら、陽翔は落ち着かない気持ちを抱えていた。志乃がいないだけで、こんなに居心地が悪くなるとは思っていなかった。
そんな時、教室のドアがガラリと開いた。入ってきたのはクラスメイトの高橋真由だった。志乃とはよく話しているのを見かけるが、陽翔にはあまり関わりのない子だ。
「ちょっと、陽翔君来て。志乃君が…」
息を切らしながら話す彼女に、陽翔は驚いて立ち上がった。
「志乃がどうしたんだよ!」
「転んで足をひねったみたいなの。私じゃ運べないから……とにかく来て!」
陽翔は慌てて真由の後を追い、廊下を駆け抜けた。
校舎裏の小道に着くと、志乃が足を押さえながら座り込んでいた。
「志乃!」
陽翔は急いで駆け寄り、その顔を覗き込んだ。
「ごめんね、陽翔ちゃん。ちょっと転んじゃったみたいで…」
志乃はいつものように微笑んでいるが、足首は腫れ始めていて明らかに痛そうだった。
「大丈夫かよ?歩ける?」
陽翔がしゃがみ込むと、志乃は苦笑しながら首を振った。
「少し歩くのは難しいかもね。でも、どうにかなるわよ」
「俺、肩貸すよ!」
陽翔はすぐに手を伸ばそうとした。だが、その瞬間――
「俺が運ぶ」
低くはっきりした声が陽翔の背後から聞こえた。振り返ると、悠馬が悠然と現れた。
悠馬は迷うことなく、志乃の片腕を自分の首に回させると、もう片方の腕を膝の下に差し込み、一気に持ち上げた。
志乃の細身の体が悠馬の腕の中で軽く揺れる。
「えっ?」
志乃は驚いた表情を浮かべたが、すぐに「ありがとう」と少し照れくさそうに笑った。
「お前、意外と重いな」
「まあ、失礼しちゃうわね。レディーに向かって」
志乃はふふっと笑った。
悠馬はふと鼻を動かし、志乃の髪に顔を近づけた。
「いい匂いだな。シャンプーか?」
「わかる?ちょっと高いの使ってるの。お気に入りよ」
「俺も同じの買うかな」
「ダメよ。その短い髪には石鹸で十分よ」
二人の楽しそうなやり取りを聞きながら、陽翔は後ろをついて歩くしかなかった。
(ふざけんな…)
手が拳を握り締める音だけが聞こえた。
保健室に到着すると、悠馬は慎重に志乃をベッドに横たえた。
「ほら、ちゃんと横になってろよ」
悠馬の声はいつになく低く、優しい響きを帯びていた。
志乃は軽く息を吐きながら枕に頭を預ける。
「ありがとう。ずいぶん手際がいいのね」
「まあ、な」
悠馬は志乃の足元に視線を落とした。
「痛むか?」
そう言いながら、悠馬はゆっくりと志乃の足首のあたりに目を留めた。
「ちょっとね。でも、大丈夫よ」
志乃がそう言うと、悠馬は慎重な手つきで志乃の足に触れようとしたが、一瞬ためらう。
しかし、次の瞬間、悠馬は迷いを捨て、ゆっくりと志乃の足首を優しく撫でた。
「……!」
志乃は思わず体を少しこわばらせたが、その動きはすぐに和らいだ。悠馬の手の動きは思った以上に穏やかで、触れられる感覚がじんわりと広がっていく。
「大丈夫か?」
その問いかけに、志乃は少し赤くなった顔を隠すように目をそらした。
「…うん。大丈夫よ」
悠馬はそんな志乃の様子を見て、口元にわずかに笑みを浮かべた。
「そりゃよかった」
その言葉と共に、悠馬は志乃の足から手を離し、視線を上に戻した。
陽翔はその様子を後ろから黙って見つめていた。
優しく足に触れ、志乃の反応を引き出す悠馬――その一つ一つの行動が、陽翔の胸に突き刺さる。
(ふざけんな…)
手が拳を握り締め、歯を食いしばる音が静かな保健室に響くように感じられた。
悠馬はゆっくりと立ち上がり、ベッドから離れようとする。
その時、ふと振り返りながら言った。
「またなんかあったら俺に頼れよ」
「ありがとう。そうするわ」
志乃は穏やかな笑みを浮かべた。
悠馬は満足そうに頷くと、保健室を出ようとする。
陽翔とすれ違いざま――
悠馬が顔をわずかに傾け、陽翔の耳元に低い声で囁いた。
「お前に志乃は守れねえよ」
陽翔の肩がびくりと震える。
「弟ちゃんは、俺とお姉ちゃんの恋路を応援してな」
悠馬が陽翔の耳元で囁き、挑発するような笑みを浮かべて去っていった。
保健室には静寂が訪れ、陽翔はその場に立ち尽くしたまま拳を強く握りしめていた。
(…俺、何してんだよ…)
悠馬の言葉が耳の奥にこびりついたまま、心の中で何度も反芻する。
「陽翔ちゃん?」
志乃が軽く首をかしげながら声をかけた。
「え、あ、何?」
陽翔は慌てて我に返り、志乃に向き直った。
「どうしたの?ぼーっとして」
「…別に、なんでもない」
陽翔は視線を逸らしながら椅子を引き寄せ、ベッドの横に腰掛けた。
志乃はそんな陽翔をじっと見つめ、ふっと笑みをこぼした。
陽翔はふと、悠馬が志乃の足を優しく撫でていた光景を思い出した。
(俺だって……やってみれば……)
不意にその考えが頭をよぎり、陽翔は小さく息を吸った。
「ちょっと……足、見せて」
「え?」
志乃が不思議そうに陽翔を見たが、陽翔は顔を赤らめながら手を伸ばした。
「…さっき悠馬がやってたみたいに、俺だって……その、楽にしてやれるかもって……」
「ふふ、陽翔ちゃんが?」
志乃は笑いをこらえるように口元を押さえたが、陽翔の真剣な表情に気づき、静かに足を差し出した。
陽翔は慎重に手を伸ばし、志乃の足首に触れた。
だが――
(どうすんだよ、これ…悠馬みたいにうまく撫でられねぇし…)
陽翔はぎこちなく手を動かし始めたが、力加減がうまくいかず、少し強めに押してしまった。
「いっ……!」
志乃が小さく声を上げて顔をしかめた。
「ご、ごめん!?」
陽翔は慌てて手を引っ込める。
「もう、陽翔ちゃんったら…」
志乃は苦笑しながら、足首をさすり直した。
「……俺、やっぱ向いてないよな…」
陽翔は俯きながら、がっくりと肩を落とした。
「そんなことないわよ。気持ちは嬉しいわ」
志乃はふわりと微笑みながら、陽翔の手を軽く叩いた。
その優しい仕草が、陽翔の胸をぎゅっと締め付ける。
「でもね、私はちゃんとわかってるわよ」
志乃がぽつりと呟いた。その言葉に陽翔は反応し、ゆっくりと志乃に目を向ける。
「何が……?」
「陽翔ちゃんは、いつだって私のことを気にかけてくれてるわよね」
志乃は穏やかな瞳で陽翔を見つめていた。
「ありがとう、いつも」
その優しい言葉に、陽翔の胸がぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
(それだけじゃ…ダメなんだよ…)
陽翔は言葉にできない気持ちを押し込めるように、拳を膝の上でぎゅっと握った。
「もう少し休んだら行くから、陽翔ちゃんも教室に戻っていいわよ。」
「…俺、ここにいるよ」
陽翔のその言葉に、志乃は少し驚いたように目を丸くしたが、すぐにふわりと微笑んだ。
「ふふ、ありがと」
陽翔は志乃の横顔を見つめながら、自分の中でくすぶっている気持ちに向き合おうとしていた。
(俺……やっぱり志乃が……)
心の中で、その答えを認めかけた瞬間――
保健室の窓から差し込む柔らかな光が、志乃の微笑みを優しく照らしていた。
放課後、志乃は誰もいない教室で陽翔を待っていた。
窓から差し込む夕日が、机と床をゆっくりと赤く染めていく。
(まったく……また待たされちゃって。何してるのかしら、陽翔ちゃん)
志乃は窓の外を見ながら軽くため息をついた。
すると――
「よっ、志乃」
突然の声に志乃は驚いて振り返った。
「悠馬君?」
悠馬が教室の入り口から歩み寄ってくる。
「足はもういいのか?」
「おかげさまで。もう完全に完治したわ」
そういって志乃はズボンの裾を少し上げ、足を見せた。
「そうか。ところで、こんなところで一人かよ?俺と少し付き合えよ。どっか行こうぜ」
悠馬はそう言うと、窓際の机に腰を下ろした。
「どこかって?」
志乃が問い返すと、悠馬はふっと笑みを浮かべた。
「お前と一緒ならどこでもいいぜ。買い物したり、ゲーセン行ったり……ホテルでもな」
「……あら、うれしいお誘いね」
志乃は軽く目を細めながら言った。
「でも、陽翔ちゃんを待ってるのよ」
さらりと答えた志乃に、悠馬はわずかに目を細めた。
「…へぇ、あいつかよ」
悠馬は椅子から立ち上がり、ゆっくりと志乃に近づいた。
「お前、あいつにばっか構ってんのな」
「どういう意味?」
志乃は軽く眉をひそめたが、悠馬はさらに距離を詰める。
「お前さ、あんな頼りねぇ奴、ずっと待ってて楽しいか?」
「どういう意味?」と志乃は再び尋ねた。
「お前、あいつにいつも振り回されてんじゃん」
悠馬が小さく鼻を鳴らして笑うと、志乃は不機嫌そうに眉をひそめた。
「そんなことないわよ。陽翔ちゃんはちゃんと頑張ってるんだから」
悠馬は言葉を返さず、立ち上がり、志乃に近づいていった。
その頃――
陽翔は委員会の仕事を終え、廊下を急いで歩いていた。
(また志乃を待たせちまった…またくどくど文句言われるぞ。さっさと行かねぇと)
廊下の角を曲がり、志乃がいる教室が見えたその時――
(誰かいる?)
陽翔はふと足を止めた。
教室から、聞き慣れた悠馬の声が微かに聞こえてくる。
(悠馬…またかよ…)
胸の奥がじわりとざわつく。
気になった陽翔は、静かにドアの陰から中を覗き込んだ。
「志乃、お前ってさ――」
悠馬は志乃の目の前まで近づき、手を伸ばして軽く顎を持ち上げた。
「もっと、俺を見ろよ」
志乃は一瞬、動揺したように目を見開いた。
「な、何言ってるのよ」
「お前って、誰にでも優しすぎんだよ」
悠馬の指先が、志乃の肌をなぞるように動く。
「だから……俺、イライラすんだよな」
悠馬は低く囁きながら、ゆっくりと顔を近づけていった。
「ちょ、ちょっと悠馬君……!」
志乃は慌てて後ろに下がろうとするが、悠馬は軽く手首を掴み、逃がさない。
「逃げんなよ……。俺は本気なんだからさ」
悠馬の目には、執着とも言える熱が宿っていた。
「お前、俺だけのもんになれよ」
志乃は一瞬息を飲んだ。だが――
「……強引ね」
志乃は視線をそらしつつも、微笑んで応じた。
「でも……そんな強引な男性は嫌いじゃないわ。ま、私は簡単には口説けないけど」
悠馬は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに笑みを浮かべた。
「ふっ……さすがだな。お前って、ほんと面白い」
陰で様子を見ていた陽翔は、拳を握りしめていた。
(悠馬……何してんだよ……志乃に……!)
悠馬が志乃に触れる――それだけで、胸の奥に怒りが煮えたぎるようだった。
(このままじゃ…本当に志乃を奪われる…)
陽翔の視界には、悠馬の挑発的な笑みと、志乃が動揺しながらも笑みを返す姿が映っていた。
(ダメだ…こんなの、見てられねぇ…!)
次の瞬間――
陽翔は勢いよくドアを開け放った。
バンッ!と音が響き、静かな教室に反響する。
「!」
悠馬と志乃が同時に振り返る。
「陽翔ちゃん?」
志乃が驚いた表情で声をかける。
しかし、陽翔は何も言わずに志乃の元へ歩み寄ると、その手をぐっと握りしめた。
「帰ろう!」
短く言い放つと、陽翔は志乃を連れて教室を出ていく。
「え、ちょ、陽翔ちゃん……?」
志乃は戸惑いながらも、陽翔の真剣な表情に押され、手を引かれるまま歩き出した。
悠馬はその場に残され、黙って二人の背中を見送っていた。
教室から出た後、陽翔は志乃の手をしっかり握り、早足で廊下を歩いていた。
その背中を見つめながら、志乃がふと微笑む。
「ふふっ、陽翔ちゃん……急にどうしたの?」
「別に…ただ、待たせちまったから…」
「本当に?なんだか、さっきの陽翔ちゃん……ちょっとカッコよかったかも」
志乃の言葉に、陽翔は足を止めて振り返った。
「……うるせぇよ」
そう言いながら、陽翔は少し顔を赤らめている。
志乃はその顔を見て、さらに優しく微笑んだ。
「かわいい反応ね、陽翔ちゃんって」
「お前な……!」
陽翔は呆れたように小さくため息をつき、再び歩き出した。
すると――
志乃はそっと陽翔の腕に自分の腕を絡めた。
「ちょっ……おい、離せよ!」
陽翔は照れたように顔を赤くしながら、慌てて志乃の腕を振りほどこうとする。
「いいじゃない。たまにはこうしても」
志乃は楽しそうに笑いながら、腕を組んだまま歩き続けた。
陽翔はそれ以上何も言えず、顔を背けたまま足を動かす。
その二人を、悠馬は背後から立ち止まって見ていた。
無言のまま、鋭い視線を送る。
(……おもしれぇじゃねぇか)
低く呟くと、悠馬はゆっくりと笑みを浮かべ、静かにその場を去っていった。
だが、陽翔と志乃は、その視線に気づくことはなかった――。
3. 陽翔の気持ちを後押しする出来事
後日の昼休み。
教室のあちこちから弁当の包みを開く音や、友達同士の楽しそうな会話が聞こえてくる。
陽翔は窓際の自分の席で、机に弁当を広げていた。
志乃は「飲み物買ってくるわね」と言って少し前に教室を出ている。
不意に声をかけられ、陽翔はハッとして振り返った。
「ねぇ、陽翔君」
「……真由?」
高橋真由が明るい笑顔を浮かべながら、陽翔の席の前に立っていた。
「何、ボーッとしてんの?志乃君は?」
「飲み物買いに行った」
陽翔は弁当の箸を動かしながら、そっけなく答えた。
「ふぅん…そっか」
真由は陽翔の隣の席に腰を下ろすと、じっと陽翔を見つめた。
「ねぇ、志乃君ってさ、最近悠馬君とよく一緒にいるよね?結構仲良さそうに見えるけど」
その言葉に、陽翔は一瞬表情を強張らせた。
「……別に、どうでもいいだろ。あいつが誰と一緒だろうがさ」
陽翔はそっけなく答えながら視線を逸らす。
真由はその様子を見て、口元に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「へぇ~、どうでもいいんだ?本当に?」
「本当にだよ」
陽翔は少し強めに言い返したが、心の中では胸がざわついていた。
(…仲良さそう、か…)
志乃と悠馬が一緒にいる姿を思い出すと、再びもやもやとした感情がこみ上げてくる。
「もしかしてさ、陽翔君って――」
真由はからかうような口調で続けた。
「志乃君のこと、好きなんじゃない?」
「はぁっ!?」
陽翔は思わず大声を上げ、周りの生徒たちが驚いてこちらを振り向いた。
慌てて口を押さえ、小声で言い直す。
「な、何言ってんだよ……そんなわけねぇだろ!」
「え~?だって、今すごい反応してたよ?」
真由は楽しそうに笑う。
「お前な…」
陽翔は頭を抱え込むようにしてうつむいた。
(俺が、志乃のことを……好き……?)
真由の言葉が、頭の中をぐるぐると回る。
否定しようとする気持ちとは裏腹に、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
(……俺、本当に……志乃が……?)
真由は陽翔の反応を見て、「からかいすぎたかな?」と少し心配そうに彼を見つめた。
「ま、冗談だったけどさ。でも――」
真由は立ち上がり、陽翔に向かって笑顔を向けた。
「もし本気だったら、早く気づいた方がいいかもよ?悠馬君、かなり攻めてるみたいだしね」
その言葉を残し、真由は他の友達のもとへと歩いていった。
陽翔は真由が去った後、ぼんやりと窓の外を見つめていた。
しかし、そのもやもやとした気持ちは夜まで消えなかった――。
その日の夜。
陽翔はベッドの上に座り、昔のアルバムを手に取った。
ページをめくると、そこには幼い頃の自分と志乃の写真が並んでいる。
運動会、夏祭り、クリスマス……どの思い出にも、志乃が隣にいた。
(……ずっと、当たり前だと思ってた)
陽翔は静かに息を吐いた。
一緒にいるのが当たり前、ずっと隣にいるものだと疑ったこともなかった。
だが、悠馬が現れたことで――その「当たり前」が揺らぎ始めている。
(……俺、志乃が好きなんだな……)
心の中でようやくその言葉を認めた瞬間、胸が熱くなる。
(隣にいてほしいんだ。他の男に……なんかやるもんか)
陽翔は力強くアルバムを閉じた。
いつもの臆病な自分ではなく、志乃を守り抜く自分にならなければいけない――そう強く決意する夜だった。
第4章:陽翔の不器用な執着攻め
陽翔は玄関のドアを開けた。
志乃がいつものように立っている――そしてその隣には、悠馬の姿もあった。
「おはよう、陽翔ちゃん。」志乃が手を振りながら微笑む。
悠馬は軽く手を挙げたが――
陽翔は無視して、無言で志乃の手を掴んだ。
「えっ、ちょっと陽翔ちゃん!?」
志乃が驚く間もなく、陽翔は足早に歩き出した。
悠馬の視線を背中に感じながらも、振り返らずにどんどん先を急いだ。
「ねぇ、陽翔ちゃん、どうしたの?急ぎすぎじゃない?」
志乃が少し息を切らせながら問いかけてくる。
「……宿題忘れたんだよ。手伝ってくれ。」
陽翔は苦し紛れに嘘をついた。
「宿題?」
志乃は少し首をかしげたが、すぐに「しょうがないわね」と微笑んだ。
「いいわよ。でもそんなに慌てなくても…」
「いや、急がねぇと!」
陽翔はさらに歩みを速め、ほぼ競歩の勢いで進んでいく。
(俺、なんだよ…わけわかんねぇ嘘ついて、志乃を引っ張り回して…)
しかし――志乃を悠馬から引き離したい気持ちは、抑えられなかった。
学校に到着し、教室の席に着くと、陽翔は大きく息を吐いた。
(はぁ……疲れた……)
息を整えていると――
「はい、じゃあノート出して」
志乃がいつの間にか陽翔の机に腰掛けて、笑顔を向けていた。
「……え?」
陽翔はきょとんとした表情を浮かべる。
「ほら、宿題!忘れたんでしょ?」
志乃が言うと、陽翔はハッとして慌てた。
「あ、ああ……いや……」
カバンからノートを取り出すと、ちゃんと宿題はやってあった。
「……やってあった……」
陽翔は申し訳なさそうにうつむいた。
「ご、ごめん……」
「もう、しっかりしてよね」
志乃は軽くため息をつくと、陽翔のうつむいた顔を両手で持ち上げた。
「悠馬君、置いてきちゃったわ。あとで謝っておいてね」
志乃の優しい笑顔が、目の前に広がる。
その瞬間、陽翔の胸が大きく跳ねた。
(やっぱり……志乃が好きだ)
陽翔は心の中で改めてそう強く感じた。
だが、それを言葉にすることはできず、ただ志乃の顔から視線を逸らした。
「ふふっ、陽翔ちゃんって、今日は何だか可愛いわね」
「なっ……! 可愛いって言うな!」
「だって、ほら――」
志乃は指で陽翔の頬を軽くつついた。
陽翔は顔を赤くして手で払いのけるが、さらに焦ってしまう。
志乃はそんな陽翔を楽しむように笑うと、立ち上がった。
「じゃ、また授業のあとでね」
そう言い残し、志乃は自分の席に去っていった。
陽翔はその背中をぼんやりと見つめていた――。
一方、その頃――
悠馬は学校に向かいながら、小さく舌打ちをした。
(ガキが…チョロチョロしやがって…)
志乃と陽翔が去っていく様子が脳裏に浮かぶ。
イラつきながらも、その感情を抑えるように深く息を吐いた。
昼休み――。
陽翔は自分の弁当を広げていたが、どうにも落ち着かない。
(……どうやって志乃に何かしてやればいいんだよ……)
考え込んでいると、志乃が教室に戻ってきた。
手には二本のドリンク。
「お待たせ、陽翔ちゃん!」
志乃は軽やかに微笑みながら、陽翔の机にドリンクを置いた。
「どうしたの?また考え事?」
「あ、いや……別に」
陽翔は顔を逸らしながら返事をするが、ふと立ち上がり、勢いよく口を開いた。
「なぁ、志乃! 今日は俺がドリンク買ってくるよ!」
「……え?」志乃は目を瞬かせた。
「だから、ドリンク! 今日は俺が――」
「もうあるじゃない」
志乃は机の上に置かれたドリンクを軽く指差す。
「……あ、そっか……」
陽翔は気まずそうに席に戻る。
(くそっ……タイミング悪ぃ……)
気を取り直そうと、陽翔は自分の弁当の中身を見た。
「なぁ、志乃。から揚げいるか?」
陽翔は弁当箱から一つ、箸でつまみ上げて見せる。
「え、いいの?」
「ああ。ほら、たまにはこういうのも――」
「でも、私ダイエット中なのよね」
志乃は苦笑いしながら首を振った。
「……そっか」
再び沈黙が落ちる。陽翔は内心で悔しさを感じていた。
(なんなんだよ……うまくいかねぇ……)
そんな陽翔の心中を知ってか知らずか、志乃は楽しそうに笑っていた。
「もう、陽翔ちゃんったら。今日はどうしたの?やけに優しいわね」
「……そ、そんなことねぇよ!」
陽翔は顔を赤くして慌てて否定する。
昼休みが終わる頃――。
陽翔はふと教室の入り口に悠馬が立っているのに気づいた。
悠馬はじっとこちらを見つめていたが、ゆっくりと近づいてくる。
「よう、陽翔。楽しそうじゃねぇか」
「……普通だろ」
陽翔は表情を引き締めて返す。
悠馬はふっと笑い、志乃をちらりと見た後、陽翔に視線を戻した。
「仲良くやれよな、お姉ちゃんと」
悠馬は挑発的に言い残すと、教室を出て行った。
陽翔はその言葉に思わず拳を握りしめるが、何も言い返せなかった。
(……絶対に渡さねぇからな、志乃は)
放課後の教室。
掃除当番の日だった。
陽翔、志乃、悠馬の三人が黙々と掃除を進めていたが、志乃は教室の隅にある机を持ち上げて運ぼうとしていた。
「重いわね……」
志乃は少し顔をしかめながら机を動かしていた。
その様子を見て、悠馬が近づいてきた。
「おいおい、志乃。そんなの無理して持たなくてもいいだろ」
悠馬は軽く笑いながら、志乃の手から机を奪うようにして持ち上げようとする。
「俺が運ぶぜ。貸してみろ」
だが――
「いや、俺がやる!」
陽翔がすかさず声を上げた。悠馬の言葉に苛立ちを感じていた陽翔は、志乃の方に一歩踏み込むと机を受け取ろうとした。
「志乃、貸して」
志乃は一瞬きょとんとしたが、「じゃあ、お願いね」と微笑みながら机を陽翔に託した。
陽翔は気合を入れて机を持ち上げた……が――
「うわっ!?」
机の片側が急に重くなり、バランスを崩してしまう。
片手を取られた陽翔はそのまま後ろによろけ、机を落としそうになった。
「大丈夫、陽翔ちゃん?」
志乃が慌てて声をかける。
陽翔は辛うじて机を支えながら、顔をしかめた。
「な、なんだよこれ……めちゃくちゃ重い……!」
その時、志乃が机の横を指差した。
「ごめんなさい、言うの忘れてたわ。佐野君のカバンがかかってるのよ」
陽翔は机の横に目をやると、確かにカバンがぶら下がっていた。
そのカバンの中身が、妙にずっしりとしている。
「佐野君、筋トレ好きでね。あのカバンの中にいつもダンベル入れてるのよ」
「な……ダンベル!? おいおい、そんなのカバンに入れんなよ……」
陽翔は苦笑しながら机を持ち直そうとしたが、まだうまくバランスが取れない。
悠馬が腕を組んだまま、軽く吹き出した。
「ははっ、無理すんなよ、陽翔。俺なら軽々持てるぜ?」
その言葉に、陽翔はカッとなった。
「……別に大丈夫だっての!」
もう一度力を込めて机を持ち上げるが、どうにもぎこちない。
すると、志乃がそっと陽翔の腕に触れた。
「ありがとう、陽翔ちゃん。でも無理しないでね。私が少し手伝うわ」
志乃は笑顔を浮かべながら陽翔の隣に立ち、机を一緒に持ち上げる。
(……くそ、もっとカッコよく決めたかったのに……)
陽翔は内心で悔しさをかみ締めたが、志乃の微笑みを見てほんの少しだけ気持ちが和らいだ。
「よし、これで大丈夫ね。陽翔ちゃん、ありがと」
志乃のその言葉に、陽翔の胸が少しだけ温かくなる。
しかし、悠馬の視線がチラリと横から感じられた。
「ほらよ、終わったら次の掃除しとけよ」
悠馬は冷やかすように言い残し、軽く肩をすくめて窓拭きに戻っていった。
(くそ……いつか絶対にアイツを見返してやるからな……!)
陽翔はそう心の中で誓い、志乃と一緒に机を運び始めた――。
掃除が終わり、三人は教室を出て下駄箱へと向かっていた。
夕暮れの光が校舎の窓から差し込む中、陽翔は横目で悠馬を警戒していた。
(こいつ……また志乃に近づこうとするんじゃねぇか?)
そんな不安を抱えながら、陽翔はいつも通り声をかけた。
「志乃、帰るか」
「うん」
志乃がうなずき、靴を履き替えようとした瞬間――悠馬が軽く笑いながら近づいてきた。
「おい、志乃。一緒に帰ろうぜ。せっかくだから、途中で何か食っていかねぇか?」
悠馬がさらりと言うと、陽翔の眉がぴくりと動いた。
(またコイツ……!)
陽翔はすぐさま前に出て、志乃の隣に立った。
「いや、志乃は俺と帰るから!」
悠馬と志乃は一瞬、驚いたように陽翔を見た。
志乃が口を開こうとした瞬間、陽翔は手を伸ばして彼女の手を取った。
「ほら、さっさと帰ろう!」
「えっ!? 陽翔ちゃん、急に手を――!」
志乃は戸惑いながらも、陽翔に引っ張られる形で歩き出した。
悠馬はその様子を見て、口元に薄い笑みを浮かべた。
「へぇ……大胆じゃねぇか、陽翔」
「う、うるせぇ!」
陽翔は振り返らず、早足で進んでいく。
しかし、志乃がその歩調についていけず、息を切らしてしまった。
「ちょっと待って……陽翔ちゃん……!」
「あ、悪い…」
陽翔は急に立ち止まり、志乃を気遣うように振り返った。
志乃は肩で息をしながら、微笑んで言った。
「そんなに急がなくてもいいのよ」
(また……俺、空回りしてんじゃねぇか……)
陽翔は悔しそうに眉をひそめたが、志乃は彼の手を優しく握り返した。
「ありがとう、陽翔ちゃん。でも、もう少しゆっくり歩きましょう?」
「……あ、ああ」
陽翔は少し照れたようにうなずき、歩調を緩めた。
その二人の背中を、悠馬は静かに見つめていた。
(陽翔の奴……さすがに必死すぎだろ)
悠馬は小さく舌打ちをすると、軽く肩をすくめて歩き出した
静まり返る柔道室に、畳を踏む音だけが響いていた。
今日は柔道の実戦練習――そして、陽翔の対戦相手は悠馬だ。
「陽翔ちゃん、頑張って!」
志乃が畳の外から声援を送る。
その声に、陽翔は少し顔を赤くしながらも力強くうなずいた。
「おう、見てろよ……!」
悠馬はその様子を不快そうに見ていた。
(……調子乗ってんじゃねぇよ、陽翔)
悠馬は柔道着の襟を軽く整え、構えに入った。
「よし、二人とも準備はいいな?」
体育教師の声に、陽翔と悠馬は無言でうなずいた。
「始め!」
合図と同時に、二人が動き出す。
陽翔は一気に距離を詰め、悠馬の懐に飛び込んだ。
「せぇいっ……!」
だが――
「甘ぇよ」
悠馬は素早く陽翔の動きを見切り、軽くいなして受け流した。
陽翔がバランスを崩したその瞬間、悠馬はすばやく動いた。
右肩に陽翔の腕を引っ掛け、体を反転させる――。
陽翔の体は宙に放り投げられ、勢いよく畳に叩きつけられた。
ドンッ――!
「ぐっ……!」
「一本!」
体育教師の声が響いた。
試合終了の合図が出される。
陽翔は衝撃に顔をゆがめ、歯を食いしばったまま痛みに耐える。
その上から、悠馬が小声で冷たく言い放った。
「ほらよ、これが現実だ――お前、ガチで志乃を狙ってんだろ? だが、お前じゃ志乃とは不釣り合いだ。強い男じゃないとな」
その挑発に、陽翔の拳が震える。
(……ふざけんな……そんなこと、言わせてたまるか……!)
悠馬は立ち上がり、無表情で一礼した。
陽翔も痛む体を起こし、悔しさをかみ締めながら悠馬に向かって頭を下げた。
壁際の自分の席に戻ると、陽翔は静かに座り込んだ。
(くそっ……また悠馬にやられた……)
その隣に志乃がそっと座り、心配そうに声をかけてきた。
「陽翔ちゃん、大丈夫?すごく痛そうだったけど……」
「……全然だよ。悠馬に一本取られちまった」
陽翔はうなだれたまま答える。
志乃は軽くため息をつき、肩をポンと叩いた。
「でも、私ちゃんと見てたよ。陽翔ちゃん、すごく頑張ってた」
その言葉に、陽翔は少し驚いて顔を上げた。
「志乃……」
「大事なのは強さじゃないわ。陽翔ちゃんが一生懸命だったってこと。それが一番大事よ」
志乃は優しく微笑んだ。
陽翔はその笑顔に少しだけ心が救われた気がして、小さくうなずいた。
(……でも、次は……次こそ絶対勝ってみせる……)
柔道の授業が終わり、放課後の時間になった。
陽翔は着替えを済ませ、志乃と一緒に昇降口へと向かっていた。
陽翔はうつむいたまま、志乃に言われた言葉を頭の中で何度も繰り返していた。
(……大事なのは一生懸命なこと……か。でも……俺はもっと――)
「おい、陽翔」
不意に背後から声をかけられ、陽翔はハッと顔を上げた。
悠馬が余裕たっぷりの表情でこちらに歩み寄ってくる。
「何だよ…」
陽翔は眉をひそめて悠馬をにらみつけたが、悠馬は気にも留めない様子で言葉を続けた。
「さっきの試合、惜しかったなぁ。まぁ、俺には全然敵わなかったけどな」
「……うるせぇ」
陽翔は悔しそうに顔をそむけたが、悠馬はにやりと笑いながらさらに近づいてきた。
「お前、ガチで志乃を狙ってるってことは、今日の試合でよーく分かったぜ。
でもさ――あんな情けない試合しといて、まだ俺に勝てると思ってんのか?」
悠馬の言葉が、陽翔の胸を鋭くえぐる。
(……こいつ、本当にムカつく……)
しかし、次の瞬間――
「もう、やめてよ悠馬君」
志乃が間に入ってきた。
「陽翔ちゃんをからかうのはやめてって言ってるでしょ?」
志乃は少し真剣な表情を浮かべていた。
その言葉に、悠馬は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにふっと笑った。
「お前、ほんとにコイツに甘いよな、志乃」
悠馬は肩をすくめると、陽翔をじっと見つめた。
「ま、いいぜ。今日はここまでにしといてやるよ」
しかし――悠馬の目が一瞬鋭く光り、真剣な声で告げた。
「でも、これは覚えておけ。俺は必ずお前を俺のものにする」
その目は冗談など一切なく、真剣そのものだった。
陽翔はその言葉に一瞬凍りついたが、悠馬はそれ以上何も言わずに背を向けて歩き出した。
悠馬が去っていくのを確認した陽翔は、志乃にそっと視線を向けた。
「志乃……ありがとう」
「ふふっ、どういたしまして」
志乃は少し照れくさそうに微笑んだ。
陽翔はその笑顔に胸が少し温かくなるのを感じた。
しかし――
(でも……悠馬の奴……また邪魔してくるに決まってる)
陽翔は拳を握りしめながら、心の中で静かに決意した。
(次は絶対に負けねぇ……!)
第5章:クライマックス
放課後、志乃と陽翔は夕暮れの道を歩いていた。
穏やかな夕焼けに照らされながら、二人はいつものように談笑していた。
「陽翔ちゃん、今日もお疲れ様。あの委員会、大変だったんじゃない?」
「まあな……やること多すぎて、ほんとヘトヘトだよ」
陽翔は肩を回しながらため息をついた。
志乃は少し笑って、その様子を見つめる。
「無理しすぎないでね?」
「分かってるよ……」
そんな何気ない会話を交わしながら、公園の入り口へ差し掛かった。
しかし――
「おい、そこのお二人さん」
突然、低く威圧的な声が響いた。
陽翔と志乃が足を止めると、公園の奥から数人の男たちがゆっくりと近づいてきた。
男たちは不敵な笑みを浮かべながら、二人を囲むように立ち位置を変えていく。
陽翔は咄嗟に志乃を背後に庇い、相手を睨んだ。
「……何だよ、お前ら?」
男たちはすぐには答えず、じりじりと二人に迫る。
すると、一人の男が鼻を鳴らして嘲笑うように言った。
「ふん、このガキが陽翔か…」
陽翔は怪訝な顔をした。
(なんでこいつらが、俺の名前を知ってるんだ……?)
志乃も不安そうに陽翔を見つめた。
その時、男たちを制するように静かな声が響いた。
「手を出すな。俺が話す」
群れの中央から悠馬が現れた。
悠馬はポケットに手を突っ込み、無言で二人を見下ろしている。
「悠馬君……!」
志乃が驚きの声を上げると、悠馬は軽く肩をすくめて歩み寄った。
「こいつら、俺の仲間だよ」
「仲間…?」
陽翔はその言葉を反芻し、さらに警戒を強めた。
その時、悠馬の隣に立った手下がにやりと笑いながら口を開いた。
「この方はな――2代目レッドドラゴンのリーダー、黒瀬 悠馬さんだ。
おい、ガキども、口の利き方に気をつけろよ」
陽翔はその言葉に目を見開いた。
(……こいつがリーダーだって……!?)
志乃も信じられない表情で悠馬を見つめている。
悠馬は二人の反応に満足そうに微笑むと、志乃に向かって一歩近づいた。
「さて――志乃。少し話をしようぜ」
悠馬がもう一歩前に出ると、空気が張り詰めた。
陽翔は無意識に志乃の手を強く握り返し、悠馬を睨みつけた。
(……ふざけんな……。何を企んでやがる……?)
悠馬は余裕たっぷりの笑みを浮かべながら、志乃に一歩近づいた。
「志乃、俺と来い。いい加減、飯くらい一緒にしようぜ?」
志乃は眉をわずかに上げ、皮肉めいた笑みを浮かべながら返した。
「……あら、私と食事したいなら、こんな汚い格好のお仲間じゃなく、高級車に乗ってタキシードを着たナイスなお兄さんたちと迎えにきたら?」
その言葉に、不良たちが「なにぃ?」と怒りの声を上げるが、悠馬は気にせず軽く笑った。
「相変わらずお前は面白いな」
その笑みが消えると、悠馬は真剣な目つきになり、静かに言葉を続けた。
「俺は本気だぜ。お前を愛してる。お前には俺が似合ってる。陽翔なんかより、ずっとな」
志乃は言葉を返せず、無意識に陽翔の手を強く握った。
その手はわずかに震えている。
陽翔は志乃を守るために身を乗り出し、悠馬を睨みつけた。
「ふざけんな! 志乃はお前なんかについて行かねぇ!」
悠馬の目が鋭く光り、静かな声が低く響いた。
「……陽翔、いい加減わからせてやるしかないな」
その瞬間、不良たちがじりじりと二人を囲み始めた。
陽翔は志乃の手をしっかりと握り、走り出した。
「志乃、行くぞ!」
二人は公園内の奥へと逃げようとするが、不良たちが素早く動き、すぐに包囲を完成させる。
志乃と陽翔は引き離され、陽翔は複数の不良たちに囲まれてしまった。
「おい、こいつ動くなよ!」
陽翔が抵抗しようとするが、すぐに腕を掴まれ、頬に鋭い拳が飛んできた。
ゴッ――
「ぐっ……!」
陽翔は地面に叩きつけられるが、歯を食いしばってすぐに立ち上がった。
しかし、別の不良が蹴りを入れ、再び陽翔は倒れ込む。
悠馬は冷たい視線を陽翔に向け、ゆっくりと歩み寄った。
「これが現実だ……俺の邪魔ばかりしやがって。もう少し体にわからせてやるよ」
悠馬が言葉に合わせて、陽翔に強烈な拳を見舞う。
志乃は不良たちに腕をがっちりと掴まれ、必死に叫んだ。
「やめて!!」
しかし不良たちは陽翔を次々に殴り、蹴りつける。
それでも陽翔は何度も立ち上がり、倒れてもまた立ち上がる。
(陽翔ちゃん……)
志乃の胸に、陽翔が幼い頃から自分を守り続けてくれた記憶が浮かび上がった。
(……そうだ、あの時も……)
志乃の脳裏に、昔の出来事がはっきりとよみがえっていく――。
志乃の目の前で、陽翔が血だらけになりながらも必死に立ち上がろうとしていた。
何度倒されても、諦めずに立ち上がるその姿――
その光景が、幼い頃の記憶を鮮やかによみがえらせた。
(……そう……あの時も……陽翔ちゃんは……)
その日は、学校からの帰り道だった。
志乃は住宅街の細い路地を歩いていると、不意に一人の男に声をかけられた。
「なあ、ちょっとこっちに来いよ。面白い話をしてやるからさ……」
男は帽子にサングラスをかけた、太った中年男だった。
油ぎった顔に不気味な笑みを浮かべ、ゆっくりと志乃に近づいてきた。
「……何なんですか……」
志乃が怯えた声で問いかけると、男は突然腕を掴もうとする。
「いいから、ついてこいよ」
「や、やめてください!」
志乃はとっさに後ろへ下がろうとするが、男の手はすばやく志乃の腕を捕まえた。
逃げようとしても力が強く、身動きが取れない。
(……誰か、助けて……!)
「おい、やめろ!!」
突然、怒鳴り声が響いた。
振り返ると、幼い陽翔が木の棒を握りしめ、必死の形相でこちらに駆け寄ってきた。
「こいつに手を出すな!今すぐ離れろ!」
陽翔は男の前に立ちふさがり、棒を構えて睨みつけた。
男は驚いたように眉を上げたが、すぐに不快そうに唇を歪めた。
「なんだガキ……邪魔すんじゃねぇ!」
陽翔は全身を震わせながらも、目を逸らさずに木の棒を突き出した。
「今すぐ離れろ!……大声出すぞ!!」
その言葉に、男は一瞬ためらう。
周囲を気にするようにキョロキョロと周囲を見渡すと、舌打ちをして志乃の腕を放した。
「……チッ、つまんねぇ……」
そう吐き捨てて、男は不機嫌そうにその場を去っていった。
志乃はその場にへたり込む。肩で息をしながら、陽翔を見上げた。
「……陽翔ちゃん……」
「大丈夫か? 志乃……」
陽翔も少し震えながら、志乃の肩にそっと手を置いた。
その優しさに、志乃の胸が暖かくなった。
(あの時から……私の王子様は……陽翔ちゃんだけ……)
志乃の胸に湧き上がった強い感情が、自然と声となってあふれ出た。
「やめろって言ってるでしょ!!」
志乃の叫び声が静寂を切り裂いた。
不良たちが一瞬動きを止め、悠馬も志乃を振り返る。
陽翔は倒れたまま、再び体を支えながら立ち上がろうとしていた。
志乃は涙をこらえながら、その背中をじっと見つめた。
(もう……これ以上、陽翔ちゃんを傷つけないで……!)
「お前ら、何してる!」
遠くから威圧的な声が響いた。
自転車で公園の中へと走り込んでくるのは、田中警察官だった。
「チッ……」
悠馬は舌打ちしながら、不良たちを振り返る。
「……ったく、タイミング悪ぃな。おい、逃げるぞ!」
手下たちは慌てて志乃と陽翔を取り囲んでいた体勢を解き、一斉に走り出した。
志乃は腕を掴まれていた不良から解放され、すぐに倒れている陽翔へ駆け寄る。
しかし、悠馬はその場を離れず、二人を見つめていた。
志乃が陽翔の肩を支え、必死に名前を呼ぶ。
「陽翔ちゃん……大丈夫……?」
その様子を黙って見ていた悠馬が、ゆっくりと近づいてきた。
そして、志乃と目を合わせ、静かに言った。
「俺は真剣なんだ。お前が好きだ、志乃……一緒に行こう」
志乃はその言葉を聞きながら、そっと陽翔の手を握った。
傷だらけの陽翔が、かすかに志乃を見上げる。
「私は陽翔ちゃんがいいの。あんたの何万倍もね」
志乃の言葉は、力強くはっきりとしていた。
悠馬は一瞬、目を見開いた。
彼の表情に悲しみが滲む。
「……そうか……」
何か言おうとして口を開いたが、言葉にならずに飲み込んだ。
そして、何も言わずに振り返り、不良仲間たちを追うように走り去っていく。
しばらくして、田中警官が自転車を停め、息を整えながら駆け寄ってきた。
「陽翔君、志乃君……大丈夫か?」
志乃は陽翔の肩を支えたまま、田中に顔を向けた。
「田中さん……ありがとうございます。でも、陽翔ちゃんが……」
田中は陽翔の血に染まった顔を見て、険しい表情になる。
「ひどいな……すぐに救急車を呼ぼう。」
陽翔はそれを聞いて、かすかに首を振った。
「……平気だよ……田中さん……」
それでも田中は、すぐに無線で連絡を取る準備を始めた。
志乃はもう一度、陽翔の手をしっかりと握りしめた。
第6章:未来への一歩
翌朝――。
玄関を開けると、陽翔は顔に大きな絆創膏を貼りながら外へ出た。
「……志乃、おはよう」
いつものように玄関前で待っていた志乃が、柔らかな笑みを浮かべる。
「おはよう、陽翔ちゃん」
二人は自然と並んで歩き始めた。
途中、志乃が心配そうに陽翔の顔を見ながら問いかける。
「傷……痛くない?」
陽翔は首を軽く振り、照れ隠しのように笑った。
「大丈夫だよ。それより志乃は? 昨日、ケガしてないか?」
「私はケガしてないわよ。平気よ」
二人は少し安心したように目を合わせ、穏やかな空気が流れる。
やがて学校へ到着し、教室に入ると――
陽翔の顔に貼られた絆創膏に気づいた同級生たちが、次々と声をかけてきた。
「陽翔、どうしたんだよ!?」
「志乃と痴話喧嘩でもしたか? あはは!」
心配する声とおちょくる声が入り混じる中、陽翔は困ったように笑いながら席に向かう。
その途中、悠馬の席が目に入るが、彼の姿はまだなかった。
(悠馬……来てないのか……?)
陽翔が自分の席に座り、志乃もカバンを置いてから陽翔の隣にやってくる。
すると――
「ねえねえ、聞いた?」
真由が駆け寄ってきて、興奮気味に声を低くする。
「悠馬君、今朝急に退学したんだって!」
その言葉に、陽翔も志乃も目を見開いた。
「退学……?」
真由は頷きながら続けた。
「親の都合で、またどこかに引っ越すみたいよ」
陽翔はその言葉を聞いて、ゆっくりと息を吐いた。
(……そうか……)
志乃も、少しだけ息をつきながら言った。
「そう……なんだ……」
二人は顔を見合わせ、ほっとしたように微笑んだ。
昨日の危機的な状況から解放されたことを、心から実感していた。
放課後――。
志乃と陽翔は、いつもの通学路を並んで歩いていた。
「悠馬君、引っ越したんだね」
志乃が何気なく呟くと、陽翔は軽く肩をすくめながら返した。
「名残惜しいか? 猛アタックされてたじゃんか」
その言葉に、志乃はわざと真剣な顔をして考えるふりをした。
「そうね……顔も良かったし、体格も良かったし……ちょっと残念かも?」
「えっ!?」
陽翔が驚いた顔をすると、志乃はふっといたずらっぽく笑いながら答えた。
「嘘よ。陽翔ちゃんのが、す・き・よ♡」
「ふざけるなよ!」
陽翔は顔を赤くして照れながら言い返したが、それ以上は何も言わずに歩き続けた。
二人が公園に差し掛かったとき――陽翔が立ち止まる。
「どうしたの?」
志乃が怪訝そうに振り返り、陽翔を見つめた。
陽翔は一呼吸し、真剣な目で志乃を見つめ返す。
「……俺、志乃が好きだ! 愛してる! この先もずっとずっと、俺の隣にいてくれ!」
陽翔は頭を下げ、手を差し出した。
志乃は突然の告白に驚き、しばらく陽翔を見つめていたが、目に涙を浮かべて微笑んだ。
「もう……急に何? そんなの、あたりまえでしょ」
そう言いながら、志乃は陽翔の手をしっかりと握った。
陽翔は顔を上げ、二人は笑い合う。
すると――
「ねえ、陽翔ちゃん。キスしてくれる?」
「……き、キス?」
「そうよ。いや?」
志乃が首をかしげながら尋ねると、陽翔は顔を真っ赤にしながらも即座に否定した。
「いやじゃねーよ……!」
陽翔は手を握ったまま、志乃を公園の奥へと連れていった。
周りに誰もいないことを確認すると、志乃に顔を近づける。
だが、身長差がありキスが届かない。
「……届かねぇ……」
陽翔は仕方なく、近くの花壇を囲む石のブロックへと志乃を誘導し、自分がそこに上がった。
そして――志乃の顔にそっと唇を重ねる。
静かな時間が流れた後、志乃が口元に手を当てながら微笑んだ。
「初めての割に、上手ね♡」
「なっ……初めてだよ! てか、お前も初めてだろ?」
志乃は陽翔の隣を歩き出し、意味ありげな笑みを浮かべた。
「さあね?」
「初めてだろ? なあ、志乃!」
焦る陽翔に、志乃は立ち止まり、屈んで目線を合わせた。
そして、優しく囁く。
「私にウエディングドレスを着せてくれたら教えてあげる」
陽翔は顔を真っ赤にして絶叫した。
「絶対に着せてやる!」
「楽しみにしてるわ」
二人は手を繋ぎ、笑い合いながら夕日の落ちる公園を後にした。
玄関の扉を開けた瞬間、陽翔は予想通りの声を耳にした。
「おはよう、陽翔ちゃ~ん♡ 今日も遅刻せずに起きられてえらいわね~!」
声の主は柊志乃。190センチの長身にスラリとした体型、切れ長の目、形の良い鼻――どこを取っても完璧な顔立ちだ。朝の柔らかな日差しを浴びるその姿は、まるで雑誌の表紙を飾るモデルのようで、ひときわ目を引く。
ただ、その見た目に反して口を開けばおネエというギャップがありすぎる。しかもこの男は陽翔の幼なじみであり、何でもできる万能人間。おまけにいつも弟扱いしてくる、少々迷惑な存在だ。
「お前な…また迎えに来たのかよ」
陽翔は半ば呆れながら、志乃の整った顔を睨みつける。だが、その反応をまるで楽しむかのように、志乃は満面の笑みを浮かべてみせた。
「当たり前じゃない。お姉ちゃんが弟を迎えに来るのは常識でしょ~」
「俺は弟じゃない!同い年だ!」
陽翔が反論する間もなく、志乃はさっと陽翔のカバンを取り上げた。その動きは自然すぎて、抗議する隙すら与えない。
「ちょっ、返せよ!」
「荷物はお姉ちゃんが持つべきでしょ。ほら、行くわよ。」
志乃は軽々とカバンを肩にかけると、すたすたと歩き出す。その背中は堂々としていて、余裕の塊だった。
仕方なく陽翔はその後を追いかける。志乃の背中を見上げるたび、自分との違いを感じずにはいられない。
子供の頃から、志乃は何でもできる人だった。
幼稚園の頃、陽翔が遊び場で他の子に押されて泣いていると、志乃がその子を追い払ってくれたことがあった。小学校では運動会のリレーで転んで落ち込む陽翔に、「次は勝てる」と練習に付き合ってくれたこともある。
いつも助けてもらってきた。優しくて頼れる人――だけど。
(ずっと守られるだけなんて、嫌だ)
心の中でそう呟くと、自然と唇を噛んでいた。陽翔は志乃の背中をじっと睨む。
「なあ、なんで毎回そうやってさ…カバン取るんだよ。俺だって自分で持てるのに!」
陽翔が声を張り上げると、志乃が振り返った。その動きにさえ余裕が感じられるのが癪に障る。
「ん~?だって、私が持ったほうが早いでしょ?」
「俺が遅いって言いたいのかよ!」
「そうとも言うわね~」
志乃はさらりと笑うと、また前を向いて歩き出す。陽翔は何も言えなくなり、ただその背中を追い続けるしかなかった。
「ねえ、陽翔ちゃん」
突然、志乃が足を止めた。
「…なんだよ」
陽翔は不機嫌そうに振り返るが、志乃の視線が自分の胸元に注がれているのに気づいた。
「シャツのボタン、掛け違えてるわよ」
「は?」
志乃は軽く息をつくと、すっと手を伸ばした。
「お、おい、何して――さ、触るな」
「動かないの。ほら、お姉ちゃんが直してあげるから」
器用にボタンを外し直す志乃の指は、細くてきれいだった。女子みたいに華奢なのに、どこか洗練されていて、無駄がない。陽翔はされるがまま硬直するしかない。
「完成。これで完璧よ」
志乃が手を引っ込め、満足げな表情を浮かべる。その顔がいつにも増して余裕たっぷりで、陽翔は一気に顔が熱くなるのを感じた。
「だから触るなって言ったろ!」
「感謝しなさいな。お姉ちゃんの愛よ~」
「もういいだろ!早く行くぞ!」
陽翔は恥ずかしさを隠すように、志乃を追い越して歩き出した。
そんな陽翔の後ろから、志乃の笑い声が追いかけてくる。
「あらあら、お姉ちゃんを置いて行くの~?」
それがまた癪に障るのだが、結局陽翔は言い返せないまま、志乃と並んで学校へと向かった。
朝の空気が冷たいのに、陽翔の耳の先だけは妙に熱かった。
教室に足を踏み入れると、朝のざわつきが耳に飛び込んできた。
クラスメイトたちがあちこちで集まり、楽しそうに話をしている。志乃と陽翔が教室に入ると、すぐ近くからこんな声が聞こえてきた。
「昨日の『名探偵ストレイ』見た?あれマジでヤバかったんだけど!」
「見た見た!てか、最後の伏線すごすぎたよな!」
「それってさ、アイツが犯人だったやつだろ?途中で気づいた?」
「全然気づかなくてさ、めっちゃ驚いたわ!」
少し離れた別のグループでは、音楽の話題が出ているようだ。
「ミスティーの新曲聴いた?もうマジでヤバすぎなんだけど!」
「聴いた!MV見た?衣装も良すぎてもう死んだわ!」
「あの白いやつだろ?あれ、やばいよな~」
朝の空気に溶け込むような会話が続く中、陽翔は「こんなに元気に話すことがよくあるよな」と感心しながら、自分の席に向かう。だがその背後には、当然のように志乃がぴったりとついてきていた。
「なあ、教室に入ったんだから、もう離れろよ」
陽翔が振り返ると、志乃は飄々とした顔で肩をすくめた。
「いいじゃない、陽翔ちゃんのことが気になって仕方ないのよ~」
「気にしなくていいから!」
陽翔の抗議を聞いた近くのクラスメイトたちが、クスクスと笑う。
その時、山田と何人かの生徒が話をしている声が耳に入った。
「てか、聞いた?レッドドラゴンのリーダー、変わったらしいよ」
「マジ?誰が新しいリーダーになったんだよ」
「知らねえけど、めっちゃヤバい奴らしいぞ」
「まじか、あのグループ最強だろ?」
会話の内容は流れるように続いていたが、陽翔は「へえ、不良グループか」と思いながら聞き流した。特に関心を持つわけでもなく、ただ日常の一つとして耳を過ぎていく。
「怖い話ね」
すぐ隣で志乃が小さく呟く。陽翔はそれに返事をせず、ただ席に着いた。
午前の授業が始まると、教室は一転して静かになった。
先生の話が淡々と続き、陽翔はノートにペンを走らせながら、ふと窓の外に目を向ける。風に揺れる木の葉の音が、かすかに耳に届く。
別の席に座る志乃はというと、つまらなそうに視線を彷徨わせていた。
ちらりと陽翔の背中を見ては、小さな声で笑う。
「ふふ、陽翔ちゃん、今日も可愛いわね~」
授業中の静けさの中で、それは聞こえないほどの小さな独り言だった。
午後の授業が終わり、夕焼け色に染まった空の下、陽翔と志乃は並んで通学路を歩いていた。
「ほら、陽翔ちゃん。早く帰りましょう」
志乃が軽い声で言うと、陽翔は疲れた表情で顔をしかめる。
「帰りくらい一人にしてくれよ」
「ダメよ。お姉ちゃんが弟を見送るのは当然でしょ」
「だから弟じゃないって!」
陽翔が声を荒げても、志乃はまったく悪びれる様子もなく笑っている。
二人が進む道の途中には、小さな公園があった。遊具はあるものの、平日の夕方にはほとんど人の姿は見えない。立ち寄る子供もいなければ、散歩中の人の姿もなく、どこか静まり返った雰囲気を漂わせている。
「ここ、やっぱり人いないよな」
公園を横目で見ながら陽翔が呟くと、志乃はちらりと目を向けるだけで何も言わなかった。二人の足音だけが小道に響いている。
公園を抜けようとしたその時、前方に制服姿の男性が見えた。自転車を押しながら歩いているのは田中警察官だ。近所の交番に勤務していて、この辺りをパトロールしている姿をよく見かける。
「あ、田中さん!」
志乃が手を振ると、田中が気づいて顔を上げた。
「おや、志乃君に陽翔君。今日も仲良く帰ってるな」
田中は自転車を止めて、二人の方に歩み寄ってきた。
「仲良く、だなんて……。私は弟を見守ってるだけですけどね~」
志乃が軽く冗談を交えると、陽翔がすかさず声を張り上げた。
「だから弟じゃないってば!」
そのやり取りを聞いた田中は、困ったように笑いながらも、どこか楽しそうだ。
「それにしても田中さん、今日もパトロールですか?」
「まあな。この辺は普段平和だから楽なもんだよ」
田中は自転車のハンドルに手をかけながら、ちらりと公園を見やった。
「とはいえ、最近ちょっと不良グループがうろついてるって話もあったから、気にはしてるけどな」
「え、不良グループ?」
陽翔が眉をひそめると、田中は「心配いらないさ」と軽く手を振った。
「昔からいるような連中だけど、大したことはないよ。夜にたむろしてることがあるくらいだ。普通にしてれば関わることもない」
「そうなんですね」
志乃がそう答えると、田中はニコリと笑った。
「志乃君がいるなら、陽翔君も安心だな。君みたいな頼れるお姉ちゃんがいれば、何があっても大丈夫だろう」
「お姉ちゃんじゃない!」
陽翔がまたしても声を荒げると、田中は「すまんすまん」と笑いながら頭を下げた。
公園を抜け、静かな住宅街に差し掛かると、家々の窓からこぼれる明かりが通りを照らしていた。陽翔はふと口を開く。
「ほんと、あの田中さん、いっつも人をからかうよな」
「それが田中さんの魅力でしょ~」
志乃が軽く笑いながらそう答える。
「まあ、悪い人じゃないけどさ」
陽翔がぼそりと呟くと、志乃は横目で陽翔を見て小さく笑った。
「そういうとこ、素直で可愛いわよね」
「どこがだよ!」
陽翔が慌てて顔を背けると、志乃はくすくすと笑いながら、また歩き出した。
二人の影が長く伸びて、夕闇に溶け込んでいく。
第2章:陽翔の葛藤と悠馬のアプローチ
「じゃあ、今日から新しいクラスメイトを紹介するぞ」
担任の声が響くと、ざわざわとしていた教室が一瞬で静かになった。誰もが興味津々といった様子で前を向き、陽翔もそれにつられて視線を上げる。
教室の扉が開き、刈り上げたサイドヘアが目を引く男が現れた。
無造作に袖をまくり上げたシャツ、緩く垂れたネクタイ。
その姿は、まるで不良ドラマの主人公のようだった。
「自己紹介を頼む」
担任の声が静まり返った教室に響く。
「遠藤悠馬。よろしく」
悠馬は一歩前に出ると、担任を一瞥することなく教室を見渡した。
がっちりした肩幅、堂々とした動き――その存在感に、生徒たちは圧倒されていた。
「…うわ…」
誰かが息を飲む音が聞こえる。
悠馬は表情を変えることなく、その場に静かに立っていた。
クラスメイトたちは目を合わせてヒソヒソと囁き合いながらも、悠馬から目を離せない様子だった。
「じゃあ、席は一番後ろだな」
担任が適当に指差した席に悠馬が向かうと、道を空けるように周囲の生徒たちがそっと体を避ける。彼が歩くだけで教室の空気が変わる――そんな錯覚すら覚えた。
(なんだよ、あいつ…)
陽翔は少し居心地の悪さを感じながら、悠馬をじっと見ていた。
最初のホームルームが終わり、教室が休み時間になると、悠馬はすぐに動き出した。
「なあ、ちょっと聞きたいんだけどさ」
声をかけられたのは、前の席に座っていた男子生徒だった。悠馬は自ら立ち上がると、自然な口調で会話を始める。
「ここって、昼飯どこで食べてるやつが多いんだ?」
「あ、ああ、教室とか学食、売店かな…」
緊張した様子で答える男子生徒に、悠馬はふっと笑った。
「へえ、どっちもありか。学食はメニューとか多いのか?」
「うん、結構種類あるよ」
「それいいな。行ってみるか」
悠馬はさらりとした態度で次々と質問を投げかけ、それに答える生徒たちも次第に緊張を解いていった。話しかけられた生徒が笑顔を見せ始めると、周囲にいた生徒たちも自然とその輪に加わっていく。
陽翔は自分の席からその光景をぼんやりと眺めていた。
(…すげえな)
彼は確かに目立つ。見た目のインパクトが強いし、最初は誰もが戸惑うような威圧感があった。それなのに、悠馬は自分から話しかけ、あっという間に周りの空気を和らげてしまった。
(なんだろう…この感じ)
陽翔は胸の奥に、何とも言えないざわつきを覚えた。
それが何なのか、自分でもはっきりとは分からない。ただ、悠馬がクラスの中心に溶け込んでいく様子を見ていると、どこか居心地の悪い気持ちになるのだった。昼休みになり、教室のざわつきがさらに増した頃、悠馬が次に声をかけたのは志乃だった。
「おい、君、背高いな。何センチあるんだ?」
突然の言葉に、志乃がちらりと悠馬を見て薄く微笑む。
「私?190センチよ。あなたも背が高いのね」
「そうだな。俺は185くらいか」
「じゃあ、もう少し伸ばせば私に追いつけるわね」
志乃の余裕たっぷりの笑顔に、悠馬は少し驚いたような表情を見せたが、すぐに口元を歪めて笑った。
「面白い奴だな、お前」
「あなたも、ね」
志乃はいつも通り余裕のある態度を見せていた。陽翔にとって、志乃がクラスの男子たちと話すのは日常的な光景だ。だが、悠馬と話す志乃の姿を目にしたときだけは、胸の奥がざわついた。
「陽翔ちゃん、何よその顔?」
ふと気づくと、志乃がこちらを見て笑っていた。悠馬との会話を終えた後、陽翔の反応を楽しむように振り返ってきたのだ。
「べ、別に」
陽翔が慌てて目をそらすと、志乃は肩をすくめながらまた微笑む。
「ふーん。まあ、気にしないでいいわよ~」
志乃の余裕のある態度に対し、陽翔は言いようのない悔しさを感じながら俯いた。
昼休み、陽翔はいつもの席で弁当の包みを広げていた。志乃は教室を出て行ったまま戻ってきていないが、どうやら購買部に飲み物を買いに行ったらしい。
(もう少し早く戻ってこいよ…)
陽翔は自分の弁当をつつきながら、教室の扉をちらりと見た。そのとき、軽やかな足音とともに志乃が教室に戻ってきた。
「はい、陽翔ちゃ」
志乃が手にしていたのは二本のペットボトル。お茶とスポーツドリンクの二種類で、陽翔の方に軽く放り投げるように渡してきた。
「お、おい、ちゃんと渡せよ!」
陽翔が受け取り損ねそうになるのを見て、志乃は軽く笑う
「そんなことで落とすなんて、弟失格よ~」
「だから弟じゃないって言ってるだろ!」
陽翔が反論している間に、志乃は自分の席に腰掛けた。飲み物を鞄の上に置きながら、窓の外をちらりと眺める。
その時だった。
「なあ、志乃」
悠馬の声が教室のざわめきを突き抜けるように響いた。
悠馬は教室の隅で購買部で買ったパンを片手に持ちながら、堂々と志乃の席に近づいてきた。クラス中の視線がその動きを追っているのが分かる。
「なんですか、悠馬君」
志乃がゆったりとした声で答えると、悠馬はパンをテーブルに置いて腕を組む。
「一緒に飯食おうぜ」
その一言に、教室が一瞬静まり返る。悠馬の誘いはあまりにもストレートで、クラスメイトたちは思わず息を飲んだようだった。
「一緒に?」
志乃は笑みを浮かべたまま首を傾げる。その手にはまだペットボトルが握られていた。
「でも、もう私は陽翔ちゃんと食べる予定があるのよね」
「そうなのか」
悠馬は軽く視線を陽翔に向けた。その一瞥には特に感情が込められていないように見えたが、陽翔は思わず身を縮めた。
「じゃあさ」
悠馬はそのまま構わず話を続けた。
「次の放課後、どっか付き合えよ」
教室全体が再び緊張に包まれる。
「放課後?」
志乃はその言葉を繰り返しながら、悠馬をじっと見つめる。
「それって、デートのお誘いかしら?」
冗談めかしたその言葉に、周囲の数人が小さく笑う声を漏らした。だが、悠馬は一切笑わず、まっすぐ志乃を見据えている。
「そう思ってくれてもいいぜ」
悠馬の言葉は驚くほどストレートだった。志乃はほんの少しだけ目を細めると、再び口元に笑みを浮かべた。
「そうね…」
彼女は悠馬の顔をじっと見つめ、数秒考えるそぶりを見せた。
「また考えておくわ」
「了解」
悠馬はそれ以上何も言わず、満足そうに笑うと踵を返した。
そのやり取りを見ながら、陽翔は弁当の箸を持ったまま固まっていた。
(なんだよ、それ…)
志乃に近づこうとする悠馬の堂々とした態度。それに対して余裕たっぷりに対応する志乃。そして、悠馬の言葉を否定せずに受け流すその仕草――すべてが胸に刺さるように感じた。
「陽翔ちゃん、そんなにじっと見てどうしたの?」
いつの間にか視線に気づいていた志乃が、こちらを振り返って笑っていた。
「べ、別に」
陽翔が慌てて顔をそらすと、志乃は軽く肩をすくめて再び悠馬の方へ目を向けた。
放課後、悠馬が再び志乃に声をかけているのを陽翔は耳にした。
「結局、今日付き合ってくれるのか?」
「まあ、悪い話じゃないわね。でも――」
「でも?」
「陽翔ちゃんもいるのよね」
志乃の視線が陽翔に向けられる。驚いた陽翔は、思わずその場で立ち止まった。
「俺?」
「そうよ。ほら、弟を一人で帰らせるなんてお姉ちゃん失格でしょ?」
志乃は冗談めかして言い、陽翔の方へと歩き出す。その姿を見て、悠馬は少しだけ口元を歪めた。
「…まあ、いいさ」
悠馬はそれ以上何も言わず、手にした鞄を肩にかけて去っていった。その背中を見送りながら、陽翔は志乃の方を向く。
「なんだよ、急に…」
「別に?」
志乃は笑いながらそう言うと、軽い足取りで陽翔の横を歩き始めた。
陽翔は胸の中で何かがざわつくのを感じながらも、その理由が分からなかった。ただ、悠馬の存在が志乃との距離感を少しずつ変えていくような、そんな気がしてならなかった。
陽翔は唇を噛みながら、小さなため息をついて志乃の隣を歩き続けた。
放課後、校門へと続く道を歩く二人。夕焼けの光が長い影をアスファルトに映し出している。
「それにしても、悠馬君って積極的よね~」
志乃がふっと笑いながら言った。
「…何の話だよ」
陽翔は横目で志乃を見ながら素っ気なく答える。
「さっきの昼休みの話。『次の放課後どっか付き合えよ』だなんて、すごくない?そんなこと言える人、なかなかいないわよ~」
志乃の声はどこか楽しげで、軽い冗談を交えているように聞こえる。しかし、その言葉は陽翔の胸にじわりと刺さった。
「ふーん。別にどうでもいいけど」
陽翔は足元の石をつま先で蹴りながら、わざと冷めた声を出した。
「ほんとにどうでもいいのかしら?」
志乃がちらりと陽翔の顔を覗き込む。その余裕たっぷりの表情に、陽翔は思わず目をそらした。
「どうでもいいって言ってんだろ!」
語尾が少し強くなったのは、自分でも誤魔化しきれない動揺のせいだった。
「でもさ、陽翔ちゃん」
志乃が少し歩みを止め、振り返るように陽翔を見た。
「悠馬君って、結構素敵だと思わない?」
「は?」
突然の言葉に、陽翔は目を見開いた。
「だって、がっちりした男らしい体型にワイルドな顔立ち、それにちょっとミステリアスなところが女心をくすぐるわよね」
「お前は男だろ!」
陽翔が思わず突っ込むと、志乃はくすくすと笑いながら肩をすくめた。
「そうだったわ。でも、それでもああいうタイプの人ってやっぱり魅力的だと思わない?」
「…知らねえよ、そんなの」
陽翔は拳を握りしめながら答えた。けれど、志乃の言葉がぐるぐると頭の中を巡っている。
(なんだよ、それ…)
胸の奥がざわざわして、息苦しいような気持ちが広がる。志乃の視線が悠馬に向いている――ただそれだけのことで、なぜこんなに動揺するのか、自分でもわからなかった。
「陽翔ちゃんも、少しは見習ったら?」
さらに追い打ちをかけるように、志乃は続けた。
「何をだよ」
「例えば、もっと堂々とするとか?小さくまとまっちゃダメよ~」
「小さくまとまるとか…関係ないだろ!」
陽翔が思わず声を荒げると、志乃はくすくすと笑った。
「ごめんなさいね~。でも、陽翔ちゃんってからかうと可愛いのよね」
「可愛くねえから!」
必死に言い返す陽翔だったが、その言葉に力はなかった。
しばらく沈黙が続いた。二人の足音だけが静かな通学路に響く。志乃は小さくため息をつきながら、ふと空を見上げた。
「ま、悠馬君がどうとかは置いといて…」
「…?」
「私、陽翔ちゃんが一番好きよ」
突然の言葉に、陽翔は足を止めた。
「…何だよ、それ」
「何って?」
志乃は振り返り、またいつものように微笑んでみせた。
「いや、だから…」
陽翔は言葉を詰まらせながら、視線を逸らした。
「ま、冗談か本気かは、陽翔ちゃんの想像に任せるわ」
志乃は軽い足取りで歩き出す。その背中を見つめながら、陽翔は拳を握りしめた。
(なんなんだよ…本当に)
夕焼けに染まる影が長く伸びていく中、陽翔は志乃の後を追いながら、胸のざわつきと戦い続けていた。
朝、陽翔がドアを開けると、いつもの光景が広がっていた。家の前で志乃が彼を待っている。毎日のように繰り返される日常――そのはずだった。だが、今日は違っていた。志乃の隣に、悠馬が立っていたのだ。
「おはよう、陽翔ちゃん!」
志乃が明るい声で手を振る。その隣で悠馬が微かに笑みを浮かべている。
「驚いちゃった!私が家を出たら、たまたま悠馬君が歩いてたのよ。聞けば、この近所に越してきたみたい!」
志乃が楽しそうに話す一方で、陽翔は思わず眉をひそめた。
「…何でお前がここにいるんだよ」
「言っただろ?近くに越してきたんだって」
悠馬は軽く肩をすくめるだけで、どこか挑発的な目を陽翔に向けた。
「こんな偶然あるのね~」
志乃が屈託のない笑顔を見せるのを横目に、陽翔は朝から心がざわざわするのを感じていた。
登校中も、いつもと違う空気が陽翔を苛立たせた。志乃が悠馬と並んで歩き、楽しげに話をしている。それがどうにも気に食わない。
「私ね、ここら辺は詳しいのよ。困ったことがあったら何でも聞いてね!」
「おう、頼りにしてる」
悠馬の返事に、志乃が嬉しそうに笑う。
「俺、先行く」
陽翔は短く言い放つと、カバンをぎゅっと握りしめ、その場から駆け出した。
「陽翔ちゃん?」
志乃が首をかしげる。
「どうしたのかしら?」
「いいじゃねえか。姉ちゃん離れさせてやれよ」
悠馬が志乃の肩に軽く腕を回す。志乃はその軽口に思わず笑ってしまったが、すぐに口元を押さえた。
陽翔は振り返ることなく、ただ前を向いて走り続けた。背後から聞こえる楽しそうな声が、耳に焼き付いて離れなかった。
その日の体育の授業は柔道だった。男子たちが汗を流しながら投げ技や受け身の練習をする中、ひと際注目を集めていたのは志乃だった。彼の190センチの長身は、高校の男子生徒にとっても脅威である。柔道着に身を包んだ志乃は、誰もが一度は憧れるほどの絵になる姿だった。
「じゃあ、次は遠藤と柊!」
先生の指示で、志乃と悠馬が対戦することになった。
(また志乃が圧勝するんだろうな…)
陽翔は無気力にその光景を眺めていた。これまでの対戦では、志乃が高身長を活かしてほとんどの男子を投げ飛ばしてきた。悠馬だって、結局は――。
だが、陽翔の予想は裏切られた。
「よっ――!」
悠馬が低い姿勢から素早く動き、志乃の懐に飛び込むと、あっという間に足をかけて倒した。
「うそ…」
周囲の男子たちから驚きの声が漏れる。床に押さえ込まれた志乃が苦笑しながらもがいているが、悠馬の力強い押さえ込みからは逃げられそうにない。
(なんで、志乃が…)
陽翔は、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
さらに視界に飛び込んできたのは、二人の顔の距離だ。寝技をかけた悠馬の顔が、志乃の顔にぐっと近づいている。まるで、次の瞬間にキスでもするのではないか――そんな風に見えるほどだった。
「……おい」
思わず小さくつぶやいた陽翔だったが、その声が届くことはなかった。
志乃の息遣いがどこか荒く感じられるのも、陽翔の胸をざわつかせる。
(もういいよ…。先生、早く止めろよ)
「よし、そこまで!」
先生の声が響き渡り、ようやく試合が終了する。悠馬が体を起こすと、志乃も立ち上がりながら、わずかに肩で息をしていた。
「へえ、やるじゃない」
志乃が微笑みながら言うと、悠馬は余裕の表情で肩をすくめた。
「まあな」
一瞬だが、志乃と悠馬が、なんとなくお互いを見つめ合うような仕草をしたように陽翔の目には映った。その瞬間は、陽翔にはそれが永遠のように思えた。
(なんだよ、それ…)
まるで言葉ではない何かで結ばれているような、そんな不思議な空気が二人の間に流れている――陽翔にはそう見えた。
(さっきから何なんだ、このもやもやする気持ちは…)
胸の奥が締め付けられるような痛みに変わっていく。
志乃がふと視線を外し、軽く柔道着の肩を整えながら立ち去った。その後ろ姿を悠馬が目で追っているようにも見える。
陽翔は手に握ったタオルを強く握りしめると、無言のまま視線を逸らした。
第3章:陽翔の覚醒と志乃の距離感
昼休み、いつものように志乃と一緒に昼食を食べようとしていた陽翔だったが、志乃に「ちょっと用事があるの」と言われ、一人で食べることになった。
(どこ行ったんだよ…)
窓の外をぼんやり眺めながら、陽翔は落ち着かない気持ちを抱えていた。志乃がいないだけで、こんなに居心地が悪くなるとは思っていなかった。
そんな時、教室のドアがガラリと開いた。入ってきたのはクラスメイトの高橋真由だった。志乃とはよく話しているのを見かけるが、陽翔にはあまり関わりのない子だ。
「ちょっと、陽翔君来て。志乃君が…」
息を切らしながら話す彼女に、陽翔は驚いて立ち上がった。
「志乃がどうしたんだよ!」
「転んで足をひねったみたいなの。私じゃ運べないから……とにかく来て!」
陽翔は慌てて真由の後を追い、廊下を駆け抜けた。
校舎裏の小道に着くと、志乃が足を押さえながら座り込んでいた。
「志乃!」
陽翔は急いで駆け寄り、その顔を覗き込んだ。
「ごめんね、陽翔ちゃん。ちょっと転んじゃったみたいで…」
志乃はいつものように微笑んでいるが、足首は腫れ始めていて明らかに痛そうだった。
「大丈夫かよ?歩ける?」
陽翔がしゃがみ込むと、志乃は苦笑しながら首を振った。
「少し歩くのは難しいかもね。でも、どうにかなるわよ」
「俺、肩貸すよ!」
陽翔はすぐに手を伸ばそうとした。だが、その瞬間――
「俺が運ぶ」
低くはっきりした声が陽翔の背後から聞こえた。振り返ると、悠馬が悠然と現れた。
悠馬は迷うことなく、志乃の片腕を自分の首に回させると、もう片方の腕を膝の下に差し込み、一気に持ち上げた。
志乃の細身の体が悠馬の腕の中で軽く揺れる。
「えっ?」
志乃は驚いた表情を浮かべたが、すぐに「ありがとう」と少し照れくさそうに笑った。
「お前、意外と重いな」
「まあ、失礼しちゃうわね。レディーに向かって」
志乃はふふっと笑った。
悠馬はふと鼻を動かし、志乃の髪に顔を近づけた。
「いい匂いだな。シャンプーか?」
「わかる?ちょっと高いの使ってるの。お気に入りよ」
「俺も同じの買うかな」
「ダメよ。その短い髪には石鹸で十分よ」
二人の楽しそうなやり取りを聞きながら、陽翔は後ろをついて歩くしかなかった。
(ふざけんな…)
手が拳を握り締める音だけが聞こえた。
保健室に到着すると、悠馬は慎重に志乃をベッドに横たえた。
「ほら、ちゃんと横になってろよ」
悠馬の声はいつになく低く、優しい響きを帯びていた。
志乃は軽く息を吐きながら枕に頭を預ける。
「ありがとう。ずいぶん手際がいいのね」
「まあ、な」
悠馬は志乃の足元に視線を落とした。
「痛むか?」
そう言いながら、悠馬はゆっくりと志乃の足首のあたりに目を留めた。
「ちょっとね。でも、大丈夫よ」
志乃がそう言うと、悠馬は慎重な手つきで志乃の足に触れようとしたが、一瞬ためらう。
しかし、次の瞬間、悠馬は迷いを捨て、ゆっくりと志乃の足首を優しく撫でた。
「……!」
志乃は思わず体を少しこわばらせたが、その動きはすぐに和らいだ。悠馬の手の動きは思った以上に穏やかで、触れられる感覚がじんわりと広がっていく。
「大丈夫か?」
その問いかけに、志乃は少し赤くなった顔を隠すように目をそらした。
「…うん。大丈夫よ」
悠馬はそんな志乃の様子を見て、口元にわずかに笑みを浮かべた。
「そりゃよかった」
その言葉と共に、悠馬は志乃の足から手を離し、視線を上に戻した。
陽翔はその様子を後ろから黙って見つめていた。
優しく足に触れ、志乃の反応を引き出す悠馬――その一つ一つの行動が、陽翔の胸に突き刺さる。
(ふざけんな…)
手が拳を握り締め、歯を食いしばる音が静かな保健室に響くように感じられた。
悠馬はゆっくりと立ち上がり、ベッドから離れようとする。
その時、ふと振り返りながら言った。
「またなんかあったら俺に頼れよ」
「ありがとう。そうするわ」
志乃は穏やかな笑みを浮かべた。
悠馬は満足そうに頷くと、保健室を出ようとする。
陽翔とすれ違いざま――
悠馬が顔をわずかに傾け、陽翔の耳元に低い声で囁いた。
「お前に志乃は守れねえよ」
陽翔の肩がびくりと震える。
「弟ちゃんは、俺とお姉ちゃんの恋路を応援してな」
悠馬が陽翔の耳元で囁き、挑発するような笑みを浮かべて去っていった。
保健室には静寂が訪れ、陽翔はその場に立ち尽くしたまま拳を強く握りしめていた。
(…俺、何してんだよ…)
悠馬の言葉が耳の奥にこびりついたまま、心の中で何度も反芻する。
「陽翔ちゃん?」
志乃が軽く首をかしげながら声をかけた。
「え、あ、何?」
陽翔は慌てて我に返り、志乃に向き直った。
「どうしたの?ぼーっとして」
「…別に、なんでもない」
陽翔は視線を逸らしながら椅子を引き寄せ、ベッドの横に腰掛けた。
志乃はそんな陽翔をじっと見つめ、ふっと笑みをこぼした。
陽翔はふと、悠馬が志乃の足を優しく撫でていた光景を思い出した。
(俺だって……やってみれば……)
不意にその考えが頭をよぎり、陽翔は小さく息を吸った。
「ちょっと……足、見せて」
「え?」
志乃が不思議そうに陽翔を見たが、陽翔は顔を赤らめながら手を伸ばした。
「…さっき悠馬がやってたみたいに、俺だって……その、楽にしてやれるかもって……」
「ふふ、陽翔ちゃんが?」
志乃は笑いをこらえるように口元を押さえたが、陽翔の真剣な表情に気づき、静かに足を差し出した。
陽翔は慎重に手を伸ばし、志乃の足首に触れた。
だが――
(どうすんだよ、これ…悠馬みたいにうまく撫でられねぇし…)
陽翔はぎこちなく手を動かし始めたが、力加減がうまくいかず、少し強めに押してしまった。
「いっ……!」
志乃が小さく声を上げて顔をしかめた。
「ご、ごめん!?」
陽翔は慌てて手を引っ込める。
「もう、陽翔ちゃんったら…」
志乃は苦笑しながら、足首をさすり直した。
「……俺、やっぱ向いてないよな…」
陽翔は俯きながら、がっくりと肩を落とした。
「そんなことないわよ。気持ちは嬉しいわ」
志乃はふわりと微笑みながら、陽翔の手を軽く叩いた。
その優しい仕草が、陽翔の胸をぎゅっと締め付ける。
「でもね、私はちゃんとわかってるわよ」
志乃がぽつりと呟いた。その言葉に陽翔は反応し、ゆっくりと志乃に目を向ける。
「何が……?」
「陽翔ちゃんは、いつだって私のことを気にかけてくれてるわよね」
志乃は穏やかな瞳で陽翔を見つめていた。
「ありがとう、いつも」
その優しい言葉に、陽翔の胸がぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
(それだけじゃ…ダメなんだよ…)
陽翔は言葉にできない気持ちを押し込めるように、拳を膝の上でぎゅっと握った。
「もう少し休んだら行くから、陽翔ちゃんも教室に戻っていいわよ。」
「…俺、ここにいるよ」
陽翔のその言葉に、志乃は少し驚いたように目を丸くしたが、すぐにふわりと微笑んだ。
「ふふ、ありがと」
陽翔は志乃の横顔を見つめながら、自分の中でくすぶっている気持ちに向き合おうとしていた。
(俺……やっぱり志乃が……)
心の中で、その答えを認めかけた瞬間――
保健室の窓から差し込む柔らかな光が、志乃の微笑みを優しく照らしていた。
放課後、志乃は誰もいない教室で陽翔を待っていた。
窓から差し込む夕日が、机と床をゆっくりと赤く染めていく。
(まったく……また待たされちゃって。何してるのかしら、陽翔ちゃん)
志乃は窓の外を見ながら軽くため息をついた。
すると――
「よっ、志乃」
突然の声に志乃は驚いて振り返った。
「悠馬君?」
悠馬が教室の入り口から歩み寄ってくる。
「足はもういいのか?」
「おかげさまで。もう完全に完治したわ」
そういって志乃はズボンの裾を少し上げ、足を見せた。
「そうか。ところで、こんなところで一人かよ?俺と少し付き合えよ。どっか行こうぜ」
悠馬はそう言うと、窓際の机に腰を下ろした。
「どこかって?」
志乃が問い返すと、悠馬はふっと笑みを浮かべた。
「お前と一緒ならどこでもいいぜ。買い物したり、ゲーセン行ったり……ホテルでもな」
「……あら、うれしいお誘いね」
志乃は軽く目を細めながら言った。
「でも、陽翔ちゃんを待ってるのよ」
さらりと答えた志乃に、悠馬はわずかに目を細めた。
「…へぇ、あいつかよ」
悠馬は椅子から立ち上がり、ゆっくりと志乃に近づいた。
「お前、あいつにばっか構ってんのな」
「どういう意味?」
志乃は軽く眉をひそめたが、悠馬はさらに距離を詰める。
「お前さ、あんな頼りねぇ奴、ずっと待ってて楽しいか?」
「どういう意味?」と志乃は再び尋ねた。
「お前、あいつにいつも振り回されてんじゃん」
悠馬が小さく鼻を鳴らして笑うと、志乃は不機嫌そうに眉をひそめた。
「そんなことないわよ。陽翔ちゃんはちゃんと頑張ってるんだから」
悠馬は言葉を返さず、立ち上がり、志乃に近づいていった。
その頃――
陽翔は委員会の仕事を終え、廊下を急いで歩いていた。
(また志乃を待たせちまった…またくどくど文句言われるぞ。さっさと行かねぇと)
廊下の角を曲がり、志乃がいる教室が見えたその時――
(誰かいる?)
陽翔はふと足を止めた。
教室から、聞き慣れた悠馬の声が微かに聞こえてくる。
(悠馬…またかよ…)
胸の奥がじわりとざわつく。
気になった陽翔は、静かにドアの陰から中を覗き込んだ。
「志乃、お前ってさ――」
悠馬は志乃の目の前まで近づき、手を伸ばして軽く顎を持ち上げた。
「もっと、俺を見ろよ」
志乃は一瞬、動揺したように目を見開いた。
「な、何言ってるのよ」
「お前って、誰にでも優しすぎんだよ」
悠馬の指先が、志乃の肌をなぞるように動く。
「だから……俺、イライラすんだよな」
悠馬は低く囁きながら、ゆっくりと顔を近づけていった。
「ちょ、ちょっと悠馬君……!」
志乃は慌てて後ろに下がろうとするが、悠馬は軽く手首を掴み、逃がさない。
「逃げんなよ……。俺は本気なんだからさ」
悠馬の目には、執着とも言える熱が宿っていた。
「お前、俺だけのもんになれよ」
志乃は一瞬息を飲んだ。だが――
「……強引ね」
志乃は視線をそらしつつも、微笑んで応じた。
「でも……そんな強引な男性は嫌いじゃないわ。ま、私は簡単には口説けないけど」
悠馬は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに笑みを浮かべた。
「ふっ……さすがだな。お前って、ほんと面白い」
陰で様子を見ていた陽翔は、拳を握りしめていた。
(悠馬……何してんだよ……志乃に……!)
悠馬が志乃に触れる――それだけで、胸の奥に怒りが煮えたぎるようだった。
(このままじゃ…本当に志乃を奪われる…)
陽翔の視界には、悠馬の挑発的な笑みと、志乃が動揺しながらも笑みを返す姿が映っていた。
(ダメだ…こんなの、見てられねぇ…!)
次の瞬間――
陽翔は勢いよくドアを開け放った。
バンッ!と音が響き、静かな教室に反響する。
「!」
悠馬と志乃が同時に振り返る。
「陽翔ちゃん?」
志乃が驚いた表情で声をかける。
しかし、陽翔は何も言わずに志乃の元へ歩み寄ると、その手をぐっと握りしめた。
「帰ろう!」
短く言い放つと、陽翔は志乃を連れて教室を出ていく。
「え、ちょ、陽翔ちゃん……?」
志乃は戸惑いながらも、陽翔の真剣な表情に押され、手を引かれるまま歩き出した。
悠馬はその場に残され、黙って二人の背中を見送っていた。
教室から出た後、陽翔は志乃の手をしっかり握り、早足で廊下を歩いていた。
その背中を見つめながら、志乃がふと微笑む。
「ふふっ、陽翔ちゃん……急にどうしたの?」
「別に…ただ、待たせちまったから…」
「本当に?なんだか、さっきの陽翔ちゃん……ちょっとカッコよかったかも」
志乃の言葉に、陽翔は足を止めて振り返った。
「……うるせぇよ」
そう言いながら、陽翔は少し顔を赤らめている。
志乃はその顔を見て、さらに優しく微笑んだ。
「かわいい反応ね、陽翔ちゃんって」
「お前な……!」
陽翔は呆れたように小さくため息をつき、再び歩き出した。
すると――
志乃はそっと陽翔の腕に自分の腕を絡めた。
「ちょっ……おい、離せよ!」
陽翔は照れたように顔を赤くしながら、慌てて志乃の腕を振りほどこうとする。
「いいじゃない。たまにはこうしても」
志乃は楽しそうに笑いながら、腕を組んだまま歩き続けた。
陽翔はそれ以上何も言えず、顔を背けたまま足を動かす。
その二人を、悠馬は背後から立ち止まって見ていた。
無言のまま、鋭い視線を送る。
(……おもしれぇじゃねぇか)
低く呟くと、悠馬はゆっくりと笑みを浮かべ、静かにその場を去っていった。
だが、陽翔と志乃は、その視線に気づくことはなかった――。
3. 陽翔の気持ちを後押しする出来事
後日の昼休み。
教室のあちこちから弁当の包みを開く音や、友達同士の楽しそうな会話が聞こえてくる。
陽翔は窓際の自分の席で、机に弁当を広げていた。
志乃は「飲み物買ってくるわね」と言って少し前に教室を出ている。
不意に声をかけられ、陽翔はハッとして振り返った。
「ねぇ、陽翔君」
「……真由?」
高橋真由が明るい笑顔を浮かべながら、陽翔の席の前に立っていた。
「何、ボーッとしてんの?志乃君は?」
「飲み物買いに行った」
陽翔は弁当の箸を動かしながら、そっけなく答えた。
「ふぅん…そっか」
真由は陽翔の隣の席に腰を下ろすと、じっと陽翔を見つめた。
「ねぇ、志乃君ってさ、最近悠馬君とよく一緒にいるよね?結構仲良さそうに見えるけど」
その言葉に、陽翔は一瞬表情を強張らせた。
「……別に、どうでもいいだろ。あいつが誰と一緒だろうがさ」
陽翔はそっけなく答えながら視線を逸らす。
真由はその様子を見て、口元に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「へぇ~、どうでもいいんだ?本当に?」
「本当にだよ」
陽翔は少し強めに言い返したが、心の中では胸がざわついていた。
(…仲良さそう、か…)
志乃と悠馬が一緒にいる姿を思い出すと、再びもやもやとした感情がこみ上げてくる。
「もしかしてさ、陽翔君って――」
真由はからかうような口調で続けた。
「志乃君のこと、好きなんじゃない?」
「はぁっ!?」
陽翔は思わず大声を上げ、周りの生徒たちが驚いてこちらを振り向いた。
慌てて口を押さえ、小声で言い直す。
「な、何言ってんだよ……そんなわけねぇだろ!」
「え~?だって、今すごい反応してたよ?」
真由は楽しそうに笑う。
「お前な…」
陽翔は頭を抱え込むようにしてうつむいた。
(俺が、志乃のことを……好き……?)
真由の言葉が、頭の中をぐるぐると回る。
否定しようとする気持ちとは裏腹に、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
(……俺、本当に……志乃が……?)
真由は陽翔の反応を見て、「からかいすぎたかな?」と少し心配そうに彼を見つめた。
「ま、冗談だったけどさ。でも――」
真由は立ち上がり、陽翔に向かって笑顔を向けた。
「もし本気だったら、早く気づいた方がいいかもよ?悠馬君、かなり攻めてるみたいだしね」
その言葉を残し、真由は他の友達のもとへと歩いていった。
陽翔は真由が去った後、ぼんやりと窓の外を見つめていた。
しかし、そのもやもやとした気持ちは夜まで消えなかった――。
その日の夜。
陽翔はベッドの上に座り、昔のアルバムを手に取った。
ページをめくると、そこには幼い頃の自分と志乃の写真が並んでいる。
運動会、夏祭り、クリスマス……どの思い出にも、志乃が隣にいた。
(……ずっと、当たり前だと思ってた)
陽翔は静かに息を吐いた。
一緒にいるのが当たり前、ずっと隣にいるものだと疑ったこともなかった。
だが、悠馬が現れたことで――その「当たり前」が揺らぎ始めている。
(……俺、志乃が好きなんだな……)
心の中でようやくその言葉を認めた瞬間、胸が熱くなる。
(隣にいてほしいんだ。他の男に……なんかやるもんか)
陽翔は力強くアルバムを閉じた。
いつもの臆病な自分ではなく、志乃を守り抜く自分にならなければいけない――そう強く決意する夜だった。
第4章:陽翔の不器用な執着攻め
陽翔は玄関のドアを開けた。
志乃がいつものように立っている――そしてその隣には、悠馬の姿もあった。
「おはよう、陽翔ちゃん。」志乃が手を振りながら微笑む。
悠馬は軽く手を挙げたが――
陽翔は無視して、無言で志乃の手を掴んだ。
「えっ、ちょっと陽翔ちゃん!?」
志乃が驚く間もなく、陽翔は足早に歩き出した。
悠馬の視線を背中に感じながらも、振り返らずにどんどん先を急いだ。
「ねぇ、陽翔ちゃん、どうしたの?急ぎすぎじゃない?」
志乃が少し息を切らせながら問いかけてくる。
「……宿題忘れたんだよ。手伝ってくれ。」
陽翔は苦し紛れに嘘をついた。
「宿題?」
志乃は少し首をかしげたが、すぐに「しょうがないわね」と微笑んだ。
「いいわよ。でもそんなに慌てなくても…」
「いや、急がねぇと!」
陽翔はさらに歩みを速め、ほぼ競歩の勢いで進んでいく。
(俺、なんだよ…わけわかんねぇ嘘ついて、志乃を引っ張り回して…)
しかし――志乃を悠馬から引き離したい気持ちは、抑えられなかった。
学校に到着し、教室の席に着くと、陽翔は大きく息を吐いた。
(はぁ……疲れた……)
息を整えていると――
「はい、じゃあノート出して」
志乃がいつの間にか陽翔の机に腰掛けて、笑顔を向けていた。
「……え?」
陽翔はきょとんとした表情を浮かべる。
「ほら、宿題!忘れたんでしょ?」
志乃が言うと、陽翔はハッとして慌てた。
「あ、ああ……いや……」
カバンからノートを取り出すと、ちゃんと宿題はやってあった。
「……やってあった……」
陽翔は申し訳なさそうにうつむいた。
「ご、ごめん……」
「もう、しっかりしてよね」
志乃は軽くため息をつくと、陽翔のうつむいた顔を両手で持ち上げた。
「悠馬君、置いてきちゃったわ。あとで謝っておいてね」
志乃の優しい笑顔が、目の前に広がる。
その瞬間、陽翔の胸が大きく跳ねた。
(やっぱり……志乃が好きだ)
陽翔は心の中で改めてそう強く感じた。
だが、それを言葉にすることはできず、ただ志乃の顔から視線を逸らした。
「ふふっ、陽翔ちゃんって、今日は何だか可愛いわね」
「なっ……! 可愛いって言うな!」
「だって、ほら――」
志乃は指で陽翔の頬を軽くつついた。
陽翔は顔を赤くして手で払いのけるが、さらに焦ってしまう。
志乃はそんな陽翔を楽しむように笑うと、立ち上がった。
「じゃ、また授業のあとでね」
そう言い残し、志乃は自分の席に去っていった。
陽翔はその背中をぼんやりと見つめていた――。
一方、その頃――
悠馬は学校に向かいながら、小さく舌打ちをした。
(ガキが…チョロチョロしやがって…)
志乃と陽翔が去っていく様子が脳裏に浮かぶ。
イラつきながらも、その感情を抑えるように深く息を吐いた。
昼休み――。
陽翔は自分の弁当を広げていたが、どうにも落ち着かない。
(……どうやって志乃に何かしてやればいいんだよ……)
考え込んでいると、志乃が教室に戻ってきた。
手には二本のドリンク。
「お待たせ、陽翔ちゃん!」
志乃は軽やかに微笑みながら、陽翔の机にドリンクを置いた。
「どうしたの?また考え事?」
「あ、いや……別に」
陽翔は顔を逸らしながら返事をするが、ふと立ち上がり、勢いよく口を開いた。
「なぁ、志乃! 今日は俺がドリンク買ってくるよ!」
「……え?」志乃は目を瞬かせた。
「だから、ドリンク! 今日は俺が――」
「もうあるじゃない」
志乃は机の上に置かれたドリンクを軽く指差す。
「……あ、そっか……」
陽翔は気まずそうに席に戻る。
(くそっ……タイミング悪ぃ……)
気を取り直そうと、陽翔は自分の弁当の中身を見た。
「なぁ、志乃。から揚げいるか?」
陽翔は弁当箱から一つ、箸でつまみ上げて見せる。
「え、いいの?」
「ああ。ほら、たまにはこういうのも――」
「でも、私ダイエット中なのよね」
志乃は苦笑いしながら首を振った。
「……そっか」
再び沈黙が落ちる。陽翔は内心で悔しさを感じていた。
(なんなんだよ……うまくいかねぇ……)
そんな陽翔の心中を知ってか知らずか、志乃は楽しそうに笑っていた。
「もう、陽翔ちゃんったら。今日はどうしたの?やけに優しいわね」
「……そ、そんなことねぇよ!」
陽翔は顔を赤くして慌てて否定する。
昼休みが終わる頃――。
陽翔はふと教室の入り口に悠馬が立っているのに気づいた。
悠馬はじっとこちらを見つめていたが、ゆっくりと近づいてくる。
「よう、陽翔。楽しそうじゃねぇか」
「……普通だろ」
陽翔は表情を引き締めて返す。
悠馬はふっと笑い、志乃をちらりと見た後、陽翔に視線を戻した。
「仲良くやれよな、お姉ちゃんと」
悠馬は挑発的に言い残すと、教室を出て行った。
陽翔はその言葉に思わず拳を握りしめるが、何も言い返せなかった。
(……絶対に渡さねぇからな、志乃は)
放課後の教室。
掃除当番の日だった。
陽翔、志乃、悠馬の三人が黙々と掃除を進めていたが、志乃は教室の隅にある机を持ち上げて運ぼうとしていた。
「重いわね……」
志乃は少し顔をしかめながら机を動かしていた。
その様子を見て、悠馬が近づいてきた。
「おいおい、志乃。そんなの無理して持たなくてもいいだろ」
悠馬は軽く笑いながら、志乃の手から机を奪うようにして持ち上げようとする。
「俺が運ぶぜ。貸してみろ」
だが――
「いや、俺がやる!」
陽翔がすかさず声を上げた。悠馬の言葉に苛立ちを感じていた陽翔は、志乃の方に一歩踏み込むと机を受け取ろうとした。
「志乃、貸して」
志乃は一瞬きょとんとしたが、「じゃあ、お願いね」と微笑みながら机を陽翔に託した。
陽翔は気合を入れて机を持ち上げた……が――
「うわっ!?」
机の片側が急に重くなり、バランスを崩してしまう。
片手を取られた陽翔はそのまま後ろによろけ、机を落としそうになった。
「大丈夫、陽翔ちゃん?」
志乃が慌てて声をかける。
陽翔は辛うじて机を支えながら、顔をしかめた。
「な、なんだよこれ……めちゃくちゃ重い……!」
その時、志乃が机の横を指差した。
「ごめんなさい、言うの忘れてたわ。佐野君のカバンがかかってるのよ」
陽翔は机の横に目をやると、確かにカバンがぶら下がっていた。
そのカバンの中身が、妙にずっしりとしている。
「佐野君、筋トレ好きでね。あのカバンの中にいつもダンベル入れてるのよ」
「な……ダンベル!? おいおい、そんなのカバンに入れんなよ……」
陽翔は苦笑しながら机を持ち直そうとしたが、まだうまくバランスが取れない。
悠馬が腕を組んだまま、軽く吹き出した。
「ははっ、無理すんなよ、陽翔。俺なら軽々持てるぜ?」
その言葉に、陽翔はカッとなった。
「……別に大丈夫だっての!」
もう一度力を込めて机を持ち上げるが、どうにもぎこちない。
すると、志乃がそっと陽翔の腕に触れた。
「ありがとう、陽翔ちゃん。でも無理しないでね。私が少し手伝うわ」
志乃は笑顔を浮かべながら陽翔の隣に立ち、机を一緒に持ち上げる。
(……くそ、もっとカッコよく決めたかったのに……)
陽翔は内心で悔しさをかみ締めたが、志乃の微笑みを見てほんの少しだけ気持ちが和らいだ。
「よし、これで大丈夫ね。陽翔ちゃん、ありがと」
志乃のその言葉に、陽翔の胸が少しだけ温かくなる。
しかし、悠馬の視線がチラリと横から感じられた。
「ほらよ、終わったら次の掃除しとけよ」
悠馬は冷やかすように言い残し、軽く肩をすくめて窓拭きに戻っていった。
(くそ……いつか絶対にアイツを見返してやるからな……!)
陽翔はそう心の中で誓い、志乃と一緒に机を運び始めた――。
掃除が終わり、三人は教室を出て下駄箱へと向かっていた。
夕暮れの光が校舎の窓から差し込む中、陽翔は横目で悠馬を警戒していた。
(こいつ……また志乃に近づこうとするんじゃねぇか?)
そんな不安を抱えながら、陽翔はいつも通り声をかけた。
「志乃、帰るか」
「うん」
志乃がうなずき、靴を履き替えようとした瞬間――悠馬が軽く笑いながら近づいてきた。
「おい、志乃。一緒に帰ろうぜ。せっかくだから、途中で何か食っていかねぇか?」
悠馬がさらりと言うと、陽翔の眉がぴくりと動いた。
(またコイツ……!)
陽翔はすぐさま前に出て、志乃の隣に立った。
「いや、志乃は俺と帰るから!」
悠馬と志乃は一瞬、驚いたように陽翔を見た。
志乃が口を開こうとした瞬間、陽翔は手を伸ばして彼女の手を取った。
「ほら、さっさと帰ろう!」
「えっ!? 陽翔ちゃん、急に手を――!」
志乃は戸惑いながらも、陽翔に引っ張られる形で歩き出した。
悠馬はその様子を見て、口元に薄い笑みを浮かべた。
「へぇ……大胆じゃねぇか、陽翔」
「う、うるせぇ!」
陽翔は振り返らず、早足で進んでいく。
しかし、志乃がその歩調についていけず、息を切らしてしまった。
「ちょっと待って……陽翔ちゃん……!」
「あ、悪い…」
陽翔は急に立ち止まり、志乃を気遣うように振り返った。
志乃は肩で息をしながら、微笑んで言った。
「そんなに急がなくてもいいのよ」
(また……俺、空回りしてんじゃねぇか……)
陽翔は悔しそうに眉をひそめたが、志乃は彼の手を優しく握り返した。
「ありがとう、陽翔ちゃん。でも、もう少しゆっくり歩きましょう?」
「……あ、ああ」
陽翔は少し照れたようにうなずき、歩調を緩めた。
その二人の背中を、悠馬は静かに見つめていた。
(陽翔の奴……さすがに必死すぎだろ)
悠馬は小さく舌打ちをすると、軽く肩をすくめて歩き出した
静まり返る柔道室に、畳を踏む音だけが響いていた。
今日は柔道の実戦練習――そして、陽翔の対戦相手は悠馬だ。
「陽翔ちゃん、頑張って!」
志乃が畳の外から声援を送る。
その声に、陽翔は少し顔を赤くしながらも力強くうなずいた。
「おう、見てろよ……!」
悠馬はその様子を不快そうに見ていた。
(……調子乗ってんじゃねぇよ、陽翔)
悠馬は柔道着の襟を軽く整え、構えに入った。
「よし、二人とも準備はいいな?」
体育教師の声に、陽翔と悠馬は無言でうなずいた。
「始め!」
合図と同時に、二人が動き出す。
陽翔は一気に距離を詰め、悠馬の懐に飛び込んだ。
「せぇいっ……!」
だが――
「甘ぇよ」
悠馬は素早く陽翔の動きを見切り、軽くいなして受け流した。
陽翔がバランスを崩したその瞬間、悠馬はすばやく動いた。
右肩に陽翔の腕を引っ掛け、体を反転させる――。
陽翔の体は宙に放り投げられ、勢いよく畳に叩きつけられた。
ドンッ――!
「ぐっ……!」
「一本!」
体育教師の声が響いた。
試合終了の合図が出される。
陽翔は衝撃に顔をゆがめ、歯を食いしばったまま痛みに耐える。
その上から、悠馬が小声で冷たく言い放った。
「ほらよ、これが現実だ――お前、ガチで志乃を狙ってんだろ? だが、お前じゃ志乃とは不釣り合いだ。強い男じゃないとな」
その挑発に、陽翔の拳が震える。
(……ふざけんな……そんなこと、言わせてたまるか……!)
悠馬は立ち上がり、無表情で一礼した。
陽翔も痛む体を起こし、悔しさをかみ締めながら悠馬に向かって頭を下げた。
壁際の自分の席に戻ると、陽翔は静かに座り込んだ。
(くそっ……また悠馬にやられた……)
その隣に志乃がそっと座り、心配そうに声をかけてきた。
「陽翔ちゃん、大丈夫?すごく痛そうだったけど……」
「……全然だよ。悠馬に一本取られちまった」
陽翔はうなだれたまま答える。
志乃は軽くため息をつき、肩をポンと叩いた。
「でも、私ちゃんと見てたよ。陽翔ちゃん、すごく頑張ってた」
その言葉に、陽翔は少し驚いて顔を上げた。
「志乃……」
「大事なのは強さじゃないわ。陽翔ちゃんが一生懸命だったってこと。それが一番大事よ」
志乃は優しく微笑んだ。
陽翔はその笑顔に少しだけ心が救われた気がして、小さくうなずいた。
(……でも、次は……次こそ絶対勝ってみせる……)
柔道の授業が終わり、放課後の時間になった。
陽翔は着替えを済ませ、志乃と一緒に昇降口へと向かっていた。
陽翔はうつむいたまま、志乃に言われた言葉を頭の中で何度も繰り返していた。
(……大事なのは一生懸命なこと……か。でも……俺はもっと――)
「おい、陽翔」
不意に背後から声をかけられ、陽翔はハッと顔を上げた。
悠馬が余裕たっぷりの表情でこちらに歩み寄ってくる。
「何だよ…」
陽翔は眉をひそめて悠馬をにらみつけたが、悠馬は気にも留めない様子で言葉を続けた。
「さっきの試合、惜しかったなぁ。まぁ、俺には全然敵わなかったけどな」
「……うるせぇ」
陽翔は悔しそうに顔をそむけたが、悠馬はにやりと笑いながらさらに近づいてきた。
「お前、ガチで志乃を狙ってるってことは、今日の試合でよーく分かったぜ。
でもさ――あんな情けない試合しといて、まだ俺に勝てると思ってんのか?」
悠馬の言葉が、陽翔の胸を鋭くえぐる。
(……こいつ、本当にムカつく……)
しかし、次の瞬間――
「もう、やめてよ悠馬君」
志乃が間に入ってきた。
「陽翔ちゃんをからかうのはやめてって言ってるでしょ?」
志乃は少し真剣な表情を浮かべていた。
その言葉に、悠馬は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにふっと笑った。
「お前、ほんとにコイツに甘いよな、志乃」
悠馬は肩をすくめると、陽翔をじっと見つめた。
「ま、いいぜ。今日はここまでにしといてやるよ」
しかし――悠馬の目が一瞬鋭く光り、真剣な声で告げた。
「でも、これは覚えておけ。俺は必ずお前を俺のものにする」
その目は冗談など一切なく、真剣そのものだった。
陽翔はその言葉に一瞬凍りついたが、悠馬はそれ以上何も言わずに背を向けて歩き出した。
悠馬が去っていくのを確認した陽翔は、志乃にそっと視線を向けた。
「志乃……ありがとう」
「ふふっ、どういたしまして」
志乃は少し照れくさそうに微笑んだ。
陽翔はその笑顔に胸が少し温かくなるのを感じた。
しかし――
(でも……悠馬の奴……また邪魔してくるに決まってる)
陽翔は拳を握りしめながら、心の中で静かに決意した。
(次は絶対に負けねぇ……!)
第5章:クライマックス
放課後、志乃と陽翔は夕暮れの道を歩いていた。
穏やかな夕焼けに照らされながら、二人はいつものように談笑していた。
「陽翔ちゃん、今日もお疲れ様。あの委員会、大変だったんじゃない?」
「まあな……やること多すぎて、ほんとヘトヘトだよ」
陽翔は肩を回しながらため息をついた。
志乃は少し笑って、その様子を見つめる。
「無理しすぎないでね?」
「分かってるよ……」
そんな何気ない会話を交わしながら、公園の入り口へ差し掛かった。
しかし――
「おい、そこのお二人さん」
突然、低く威圧的な声が響いた。
陽翔と志乃が足を止めると、公園の奥から数人の男たちがゆっくりと近づいてきた。
男たちは不敵な笑みを浮かべながら、二人を囲むように立ち位置を変えていく。
陽翔は咄嗟に志乃を背後に庇い、相手を睨んだ。
「……何だよ、お前ら?」
男たちはすぐには答えず、じりじりと二人に迫る。
すると、一人の男が鼻を鳴らして嘲笑うように言った。
「ふん、このガキが陽翔か…」
陽翔は怪訝な顔をした。
(なんでこいつらが、俺の名前を知ってるんだ……?)
志乃も不安そうに陽翔を見つめた。
その時、男たちを制するように静かな声が響いた。
「手を出すな。俺が話す」
群れの中央から悠馬が現れた。
悠馬はポケットに手を突っ込み、無言で二人を見下ろしている。
「悠馬君……!」
志乃が驚きの声を上げると、悠馬は軽く肩をすくめて歩み寄った。
「こいつら、俺の仲間だよ」
「仲間…?」
陽翔はその言葉を反芻し、さらに警戒を強めた。
その時、悠馬の隣に立った手下がにやりと笑いながら口を開いた。
「この方はな――2代目レッドドラゴンのリーダー、黒瀬 悠馬さんだ。
おい、ガキども、口の利き方に気をつけろよ」
陽翔はその言葉に目を見開いた。
(……こいつがリーダーだって……!?)
志乃も信じられない表情で悠馬を見つめている。
悠馬は二人の反応に満足そうに微笑むと、志乃に向かって一歩近づいた。
「さて――志乃。少し話をしようぜ」
悠馬がもう一歩前に出ると、空気が張り詰めた。
陽翔は無意識に志乃の手を強く握り返し、悠馬を睨みつけた。
(……ふざけんな……。何を企んでやがる……?)
悠馬は余裕たっぷりの笑みを浮かべながら、志乃に一歩近づいた。
「志乃、俺と来い。いい加減、飯くらい一緒にしようぜ?」
志乃は眉をわずかに上げ、皮肉めいた笑みを浮かべながら返した。
「……あら、私と食事したいなら、こんな汚い格好のお仲間じゃなく、高級車に乗ってタキシードを着たナイスなお兄さんたちと迎えにきたら?」
その言葉に、不良たちが「なにぃ?」と怒りの声を上げるが、悠馬は気にせず軽く笑った。
「相変わらずお前は面白いな」
その笑みが消えると、悠馬は真剣な目つきになり、静かに言葉を続けた。
「俺は本気だぜ。お前を愛してる。お前には俺が似合ってる。陽翔なんかより、ずっとな」
志乃は言葉を返せず、無意識に陽翔の手を強く握った。
その手はわずかに震えている。
陽翔は志乃を守るために身を乗り出し、悠馬を睨みつけた。
「ふざけんな! 志乃はお前なんかについて行かねぇ!」
悠馬の目が鋭く光り、静かな声が低く響いた。
「……陽翔、いい加減わからせてやるしかないな」
その瞬間、不良たちがじりじりと二人を囲み始めた。
陽翔は志乃の手をしっかりと握り、走り出した。
「志乃、行くぞ!」
二人は公園内の奥へと逃げようとするが、不良たちが素早く動き、すぐに包囲を完成させる。
志乃と陽翔は引き離され、陽翔は複数の不良たちに囲まれてしまった。
「おい、こいつ動くなよ!」
陽翔が抵抗しようとするが、すぐに腕を掴まれ、頬に鋭い拳が飛んできた。
ゴッ――
「ぐっ……!」
陽翔は地面に叩きつけられるが、歯を食いしばってすぐに立ち上がった。
しかし、別の不良が蹴りを入れ、再び陽翔は倒れ込む。
悠馬は冷たい視線を陽翔に向け、ゆっくりと歩み寄った。
「これが現実だ……俺の邪魔ばかりしやがって。もう少し体にわからせてやるよ」
悠馬が言葉に合わせて、陽翔に強烈な拳を見舞う。
志乃は不良たちに腕をがっちりと掴まれ、必死に叫んだ。
「やめて!!」
しかし不良たちは陽翔を次々に殴り、蹴りつける。
それでも陽翔は何度も立ち上がり、倒れてもまた立ち上がる。
(陽翔ちゃん……)
志乃の胸に、陽翔が幼い頃から自分を守り続けてくれた記憶が浮かび上がった。
(……そうだ、あの時も……)
志乃の脳裏に、昔の出来事がはっきりとよみがえっていく――。
志乃の目の前で、陽翔が血だらけになりながらも必死に立ち上がろうとしていた。
何度倒されても、諦めずに立ち上がるその姿――
その光景が、幼い頃の記憶を鮮やかによみがえらせた。
(……そう……あの時も……陽翔ちゃんは……)
その日は、学校からの帰り道だった。
志乃は住宅街の細い路地を歩いていると、不意に一人の男に声をかけられた。
「なあ、ちょっとこっちに来いよ。面白い話をしてやるからさ……」
男は帽子にサングラスをかけた、太った中年男だった。
油ぎった顔に不気味な笑みを浮かべ、ゆっくりと志乃に近づいてきた。
「……何なんですか……」
志乃が怯えた声で問いかけると、男は突然腕を掴もうとする。
「いいから、ついてこいよ」
「や、やめてください!」
志乃はとっさに後ろへ下がろうとするが、男の手はすばやく志乃の腕を捕まえた。
逃げようとしても力が強く、身動きが取れない。
(……誰か、助けて……!)
「おい、やめろ!!」
突然、怒鳴り声が響いた。
振り返ると、幼い陽翔が木の棒を握りしめ、必死の形相でこちらに駆け寄ってきた。
「こいつに手を出すな!今すぐ離れろ!」
陽翔は男の前に立ちふさがり、棒を構えて睨みつけた。
男は驚いたように眉を上げたが、すぐに不快そうに唇を歪めた。
「なんだガキ……邪魔すんじゃねぇ!」
陽翔は全身を震わせながらも、目を逸らさずに木の棒を突き出した。
「今すぐ離れろ!……大声出すぞ!!」
その言葉に、男は一瞬ためらう。
周囲を気にするようにキョロキョロと周囲を見渡すと、舌打ちをして志乃の腕を放した。
「……チッ、つまんねぇ……」
そう吐き捨てて、男は不機嫌そうにその場を去っていった。
志乃はその場にへたり込む。肩で息をしながら、陽翔を見上げた。
「……陽翔ちゃん……」
「大丈夫か? 志乃……」
陽翔も少し震えながら、志乃の肩にそっと手を置いた。
その優しさに、志乃の胸が暖かくなった。
(あの時から……私の王子様は……陽翔ちゃんだけ……)
志乃の胸に湧き上がった強い感情が、自然と声となってあふれ出た。
「やめろって言ってるでしょ!!」
志乃の叫び声が静寂を切り裂いた。
不良たちが一瞬動きを止め、悠馬も志乃を振り返る。
陽翔は倒れたまま、再び体を支えながら立ち上がろうとしていた。
志乃は涙をこらえながら、その背中をじっと見つめた。
(もう……これ以上、陽翔ちゃんを傷つけないで……!)
「お前ら、何してる!」
遠くから威圧的な声が響いた。
自転車で公園の中へと走り込んでくるのは、田中警察官だった。
「チッ……」
悠馬は舌打ちしながら、不良たちを振り返る。
「……ったく、タイミング悪ぃな。おい、逃げるぞ!」
手下たちは慌てて志乃と陽翔を取り囲んでいた体勢を解き、一斉に走り出した。
志乃は腕を掴まれていた不良から解放され、すぐに倒れている陽翔へ駆け寄る。
しかし、悠馬はその場を離れず、二人を見つめていた。
志乃が陽翔の肩を支え、必死に名前を呼ぶ。
「陽翔ちゃん……大丈夫……?」
その様子を黙って見ていた悠馬が、ゆっくりと近づいてきた。
そして、志乃と目を合わせ、静かに言った。
「俺は真剣なんだ。お前が好きだ、志乃……一緒に行こう」
志乃はその言葉を聞きながら、そっと陽翔の手を握った。
傷だらけの陽翔が、かすかに志乃を見上げる。
「私は陽翔ちゃんがいいの。あんたの何万倍もね」
志乃の言葉は、力強くはっきりとしていた。
悠馬は一瞬、目を見開いた。
彼の表情に悲しみが滲む。
「……そうか……」
何か言おうとして口を開いたが、言葉にならずに飲み込んだ。
そして、何も言わずに振り返り、不良仲間たちを追うように走り去っていく。
しばらくして、田中警官が自転車を停め、息を整えながら駆け寄ってきた。
「陽翔君、志乃君……大丈夫か?」
志乃は陽翔の肩を支えたまま、田中に顔を向けた。
「田中さん……ありがとうございます。でも、陽翔ちゃんが……」
田中は陽翔の血に染まった顔を見て、険しい表情になる。
「ひどいな……すぐに救急車を呼ぼう。」
陽翔はそれを聞いて、かすかに首を振った。
「……平気だよ……田中さん……」
それでも田中は、すぐに無線で連絡を取る準備を始めた。
志乃はもう一度、陽翔の手をしっかりと握りしめた。
第6章:未来への一歩
翌朝――。
玄関を開けると、陽翔は顔に大きな絆創膏を貼りながら外へ出た。
「……志乃、おはよう」
いつものように玄関前で待っていた志乃が、柔らかな笑みを浮かべる。
「おはよう、陽翔ちゃん」
二人は自然と並んで歩き始めた。
途中、志乃が心配そうに陽翔の顔を見ながら問いかける。
「傷……痛くない?」
陽翔は首を軽く振り、照れ隠しのように笑った。
「大丈夫だよ。それより志乃は? 昨日、ケガしてないか?」
「私はケガしてないわよ。平気よ」
二人は少し安心したように目を合わせ、穏やかな空気が流れる。
やがて学校へ到着し、教室に入ると――
陽翔の顔に貼られた絆創膏に気づいた同級生たちが、次々と声をかけてきた。
「陽翔、どうしたんだよ!?」
「志乃と痴話喧嘩でもしたか? あはは!」
心配する声とおちょくる声が入り混じる中、陽翔は困ったように笑いながら席に向かう。
その途中、悠馬の席が目に入るが、彼の姿はまだなかった。
(悠馬……来てないのか……?)
陽翔が自分の席に座り、志乃もカバンを置いてから陽翔の隣にやってくる。
すると――
「ねえねえ、聞いた?」
真由が駆け寄ってきて、興奮気味に声を低くする。
「悠馬君、今朝急に退学したんだって!」
その言葉に、陽翔も志乃も目を見開いた。
「退学……?」
真由は頷きながら続けた。
「親の都合で、またどこかに引っ越すみたいよ」
陽翔はその言葉を聞いて、ゆっくりと息を吐いた。
(……そうか……)
志乃も、少しだけ息をつきながら言った。
「そう……なんだ……」
二人は顔を見合わせ、ほっとしたように微笑んだ。
昨日の危機的な状況から解放されたことを、心から実感していた。
放課後――。
志乃と陽翔は、いつもの通学路を並んで歩いていた。
「悠馬君、引っ越したんだね」
志乃が何気なく呟くと、陽翔は軽く肩をすくめながら返した。
「名残惜しいか? 猛アタックされてたじゃんか」
その言葉に、志乃はわざと真剣な顔をして考えるふりをした。
「そうね……顔も良かったし、体格も良かったし……ちょっと残念かも?」
「えっ!?」
陽翔が驚いた顔をすると、志乃はふっといたずらっぽく笑いながら答えた。
「嘘よ。陽翔ちゃんのが、す・き・よ♡」
「ふざけるなよ!」
陽翔は顔を赤くして照れながら言い返したが、それ以上は何も言わずに歩き続けた。
二人が公園に差し掛かったとき――陽翔が立ち止まる。
「どうしたの?」
志乃が怪訝そうに振り返り、陽翔を見つめた。
陽翔は一呼吸し、真剣な目で志乃を見つめ返す。
「……俺、志乃が好きだ! 愛してる! この先もずっとずっと、俺の隣にいてくれ!」
陽翔は頭を下げ、手を差し出した。
志乃は突然の告白に驚き、しばらく陽翔を見つめていたが、目に涙を浮かべて微笑んだ。
「もう……急に何? そんなの、あたりまえでしょ」
そう言いながら、志乃は陽翔の手をしっかりと握った。
陽翔は顔を上げ、二人は笑い合う。
すると――
「ねえ、陽翔ちゃん。キスしてくれる?」
「……き、キス?」
「そうよ。いや?」
志乃が首をかしげながら尋ねると、陽翔は顔を真っ赤にしながらも即座に否定した。
「いやじゃねーよ……!」
陽翔は手を握ったまま、志乃を公園の奥へと連れていった。
周りに誰もいないことを確認すると、志乃に顔を近づける。
だが、身長差がありキスが届かない。
「……届かねぇ……」
陽翔は仕方なく、近くの花壇を囲む石のブロックへと志乃を誘導し、自分がそこに上がった。
そして――志乃の顔にそっと唇を重ねる。
静かな時間が流れた後、志乃が口元に手を当てながら微笑んだ。
「初めての割に、上手ね♡」
「なっ……初めてだよ! てか、お前も初めてだろ?」
志乃は陽翔の隣を歩き出し、意味ありげな笑みを浮かべた。
「さあね?」
「初めてだろ? なあ、志乃!」
焦る陽翔に、志乃は立ち止まり、屈んで目線を合わせた。
そして、優しく囁く。
「私にウエディングドレスを着せてくれたら教えてあげる」
陽翔は顔を真っ赤にして絶叫した。
「絶対に着せてやる!」
「楽しみにしてるわ」
二人は手を繋ぎ、笑い合いながら夕日の落ちる公園を後にした。


