「...ん。今日も美味いな」

 放課後。甘い匂いが充満した家庭科室。
 日常と化したこの空間で、自分の作ったチーズケーキを恋人【橘 雪斗(たちばな ゆきと)】が頬張っている様子を眺める。

「......なぁ...そんな見つめられながら食いたくないんだけど」

 じとっ...とした目線を送ってきているが、皿から口へと運ばれるフォークは止まっていない。

「良いじゃないすか。好きなんすよ、先輩が美味そうに食べてくれんの」
「...そ」

 短い返事に満足していると、先輩は何かを思い出したように「あ、」とフォークを持っている手を止めた。

「李桜、明日は俺がお前になんか作るから」

 先輩は何かを確認するようにスマホを眺めている。

「え?なんすか急に」
「...んー...。...」
「もっと食べたいなら作りますけど」
「.........いや、......とにかく俺が作る」

 珍しく強引な物言いの先輩に違和感を感じつつも、スッキリしないまま受け流す。

「...そ、っすか?」
「うん」

 こういう時の先輩が意地でも答えないことは八ヶ月の間で散々思い知らされた。

(なーんか違和感あるけど...ま、いっか)

 一つ瞬きをすれば、カチャッ。と再びフォークと皿が擦れる音が聞こえる。

(...ほんと、美味そうに食うな〜)

 軽く伸びをし、ふと疑問が浮かんだ。

「そういえば先輩って料理出来るんすか...?」
「...」

 目線が斜め下を向く。
 そして考え事を咀嚼するように、一定のリズムでモグモグと口が動き出した。

 ごくり。と喉がなったと共にフォークの先が俺を捕らえる。

「料理くらい............できる。バカにしてんのか」

「いや、明らかに変な間ありましたけど」
「気のせい」
「...」
「なんか...こう...混ぜて捏ねて焼けば良いんだろ?」

 指先をグニャグニャしてジェスチャーしているが、不安要素しかない。

(この人はほんっと...)

「何作ろうとしてんのか知らないっすけど、家庭科室のもん壊さないでくださいね」
「分かっ...た。...そのつもりではいる」

(...んー......すっごい不安だけど...、)

 口元に手を当て、慣れない手つきで料理をする先輩の姿を想像する。

(......うん。かわいいな)

「先輩が作ってくれる料理だったら何でも食いますよ」
「...不味くても食えよ」
「もちろん」

 付き合って一度も手料理を食べたことの無い身としては、不安より歓喜が勝ってしまった。


◇◆◇◆◇◆


「えーっ...と...?180℃で予熱して18〜25分ほど焼き上げる......」

 スマホに表示されているレシピを拙く朗読する。

(李桜が「先輩はマフィンくらいが良いんじゃないすか?」とか言うから簡単なんかと思ったけど...)

 熱気の籠るレンシレンジにカップを敷き詰めたトレーを入れ、閉める音と共に軽くため息をつく。

「これ...合ってんのかな」

 呟いた独り言が広い家庭科室に木霊した。

(とりあえず食えるもんになってくれ)

 神頼みでしかない願いと、...一応、レンジの前で二礼二拍手一礼をする。

__ピッ...という軽快な音が鳴り、途端に身体の力が抜けた。

「よし...」

 片手で首を揉みながら、近くにあった背もたれの無い椅子に腰掛け机に項垂れる。

(慣れねぇことしたら疲れるな...)

 黒板上の時計をチラリと確認する。針は16時50分を指していた。

(李桜、先生になんか頼まれたって言ってたっけ)

 そのままの姿勢でスマホを開く。すると、『今からそっち行きます』と通知が入っていた。

(『おっけー待ってる』...っと。............んー...。いや、『待ってる』とかいらねぇか)

 四文字を消し、代わりに愛用しているおっけースタンプを送り返す。

 一つ欠伸をし、夕日が調理器具をパチパチと反射していく様子をボーッと眺めた。


◇◆◇◆◇◆


 職員室のドアを閉め、さっそくスマホを取り出す。

「『今からそっち行きます』...っと。」

 そのメッセージの30秒後くらいに返信が来た。

『おっけー』

(ふっ...先輩、このやる気なさそうな...犬?のスタンプほんと好きだよなぁ)

 自然と緩む口角を右手で覆い隠しながらスマホをポケットにしまう。

(先輩の手料理......)

 廊下ですれ違う帰宅する生徒の足音よりも、少し早いリズムを響かせながら家庭科室へと向かった。


__________


「せーんぱい」

 家庭科室のドアを開けると、外とは対照的な温風と甘い香りで全身が包まれた。

「ん...。お疲れ、李桜」

 机に項垂れていた白い頭がゆっくりと起き上がり、まったりとした声色で迎えられる。

 改めて室内の甘い匂いを吸う。

「へ〜...ちゃんと作ってたんすね」
「ちゃんとってなんだよ」
「先輩のことっすからダルくなって作ってないかと」
「作ってたからこうやって疲れてんだよ」

 先輩がうつ伏せていた机の上には、使いかけの器具やらアルミカップやらが散りばめられていた。

(...片付けまでは無理だったっぽいな)

 先程起き上がった頭は再び項垂れ、代わりに力が入ってない人差し指が起き上がる。

「...なんすかその指」
「れんしれんじ」

 指先を追うと、起動しているレンシレンジが[17:03]と表示されており、その秒数が減っていく。

「お〜今焼いたとこっすか?」
「うん」

 熱くなっているレンシレンジの前を通り過ぎ、定位置である先輩の隣に腰掛ける。

「つか、結局なんで急に自分で作るって言い出したんすか」

 頬杖をつきながら問うと、先輩は二度瞬きをして右上に目線を逸らした。

(...誤魔化す時いっつもそれするよな〜)

 俺の様子を伺うようにチラリと視線を投げかけてくる。
 口が数回小さく開閉し、やっと聞こえた回答は曖昧だった。

「...んー.........なんとなく...?」

「なんで疑問形なんすか」
「...言っても、そんな...大した、...理由じゃ、ないし......」

(歯切れ悪すぎだろ)

 もはや何を言っているのか分からないレベルに口篭り始める。

(これ......教えてくれるまでずっと待ってたら...)

 モニョモニョ動いている口をじっとりと見つめる。

___「ずっと一緒に居られるんすかね」

 溜め込んでいたものが静かに、一粒ずつ喉を通った。

(...あ...?俺......口に出て__)

「...んぁ?なんか言っ_」

 言い終わる前に、ガタッと椅子から立ち咄嗟に口元を手で覆う。
 先程まで唸っていた先輩と目が合った。

「...どしたん...気分悪い感じ?」
「え...ぁ、は」

 一瞬にしてさっきと立場が逆になる。

「...聞こえました?さっきの...」
「いや、聞こえんかった...ごめんもっかい言って」
「良かっ........._いや、聞こえなかったんなら良いすよ」
「...そうか?」

 親指の爪で皮膚を沈ませ、溢れ出そうな欲を奥底に押しやる。

(欲を出すのは...まだ怖い、かな)

「...はい。大したことじゃないんで」

 訝しげな視線を受け取らずにいると、先輩は諦めたように「まいっか」と会話の終止符を打った。


◇◆◇◆◇◆


「てか先生の呼び出しってなんだったん」

 秒数が減っていくレンジから、李桜に視点を移す。

「あー...さっきのっすか?」
「うん」

 李桜は一瞬目線を落とし、目を細めた。

「卒業式の在校生挨拶っての頼まれたんすよ」
「卒業...」

(そんなイベントもあったな)

「そっか、俺卒業か」

 散らばっていたアルミカップを重ねながら呟く。

「えぇ?...先輩、三年の自覚あります?」
「うーわ。先生と同じこと言うじゃん」

 耳にタコができるくらい聞いたセリフに、ぐで〜...と身体が溶け机にへばりつく。

「先輩」
「ん...。なに」

 急に頭を撫でられ、心地の良い体温が伝達する。

(頭撫でられるの...慣れねぇな...)

「.........寂しい、すね」
「......」

 消え入りそうな声に無言で返すことしか出来なかった。
 頭に伝わる手の大きさや温度を味わうように目を閉じる。

(そっか...李桜とこうやって放課後会うのも...もうちょいで終わり。...ってことか)

 今まで考えてこなかった思考が、脳内で次々とスタートダッシュしていく。

(卒業しても恋人...だよな)

 生まれた思考を掻き消すため、李桜の方に目をやると、

「...ってことで〜」

 変に間延びした声で、薄く笑っていた。

「せんぱーい、頼むから留年しません?」


◇◆◇◆◇◆


「は?」

 黙り込んでしまった先輩とパチッと目が合う。

「いや、だから留年しま「なんで、絶対やだ。めんどい」

 先程とは裏腹に饒舌な否定が返ってくる。

「え〜そんな拒否らなくても良くないすか?」
「...」
「ね?」

 先輩は顎に手を当て俯く。そしてもう一度目が合い、

「......いや、拒否るだろバカか」

 拒否られた。

「...だって俺と先輩二歳差っすよ?」
「うん」

「先輩がいない学校なんてただのコンクリートの塊......廃校同然っすよ〜...」
「勝手に廃校にすんなよな。...てか俺いなくても李桜は友達めっちゃいんじゃん」
「そうっすけど...それとこれとは話が違うじゃないすか〜」

「まぁ、俺居なくても李桜はなんとかなるって」
「......そうすかね〜?」

(俺は...俺じゃなくて先輩のことを...)

 いつものぼんやりとした眼差しを浴びながら、先輩が俺の知らない奴と絡んでいる様子を想像してしまう。

「...」

 その瞳の奥を暴くように淡い水色の瞳を見つめる。

(やっぱ大学ってなると交流とか増えるよなー...)

「あ、もうちょいでマフィン焼けそう」

(合コンとか誘われたりすんのかな...先輩顔良いし)

「...足りなかったら追加で焼いてください。って書いてあんだけど...んー...分かんねぇな」

(なんて言っても俺と違ってノンケだしなー...)

「なぁ、これ良さげ?」

(フリーだったら告ってオッケー貰えるって有名だったし...)

「なぁ、李桜...?だいじょぶ?」

(俺が知らないとこでいつの間にか彼女とか作ってたりして__)

___ピピピピッピピピピッ

 淀んだ思考回路に機械音が亀裂を作る。

「あ、焼けた」
「...」
「李桜ー?」
「...ん、ぁ、はい」
「焼けた」
「......そっすね」

 机を見ると、散らばっていたアルミカップや器具が片付けられていた。

(いつの間に...)

「...あのさー」

 空の机をぱちぱちと見ていると、レンジから漂う湯気に包まれながら話しかけられる。

「なんすか?」
「間違ってたらただ俺が恥かくから合ってて欲しいんだけど」

 綺麗になったテーブルに良い焼け色をしたマフィンが並んでいく。

「李桜、心配してる?」

「心配......っすか...?」
「...んー...例えば」

 先輩は俺に一度目配せをして続ける。

「俺が李桜と離れてる間に他の恋人作っちゃう...とか?」
「...」

(なーんでそういうことだけ勘づくかな〜...)

 先輩のめったに動かない眉は、少し八の字になっている。

(......俺のは...もっと、『心配』よりも..._)

 行き着く言葉を認識したくなくて細い息を吐いた。

「...心配、...してるんすかね。...俺」

 曖昧な返事をすると、先輩の瞳孔が少し開き、白い髪から覗く耳に淡く朱が広がった。

「てっきり...その...距離あったら別れちゃう...的なあれを心、配してんのかと......」
「そりゃ...それも心配っすよ」

 少し焦った顔から朱が引き、ホッとしたように眉が下がる。

「俺だけかと思った。...そういう心配してんの」
「んな訳......って、...」

 頬杖をついていた肘がガクッと机からずり落ちる。

「は?...俺が先輩以外の恋人作るとか思ってたんすか」

 先輩の目線は俺の爪先からゆっくりと上がっていき、やがて目が合う。

「...そんなん分かんねぇじゃん」
「はぁ?」
「だって...李桜、多分イケメンの部類だろ?」
「イケメンの部類って...。先輩は思ってないんすか?」
「俺...は、イケメンとか分かんねぇし」
「へ〜...?」

「李桜が俺んとこの教室来る時、毎回女子たちが『1年のイケメンくんだ〜!』って騒いでるから」
「...そうなんすか?」
「うん、聞こえてなかったん?」
「全く...」

(俺は先輩にしか用事ないんで)

「...ま、俺は先輩以外いらねぇっすから安心してください」

 一瞬動きが止まり、乱れもしてない前髪を意味も無くとぎ始めた。

「わ、かった...」

(先輩って直球な言葉に弱いよなー)

 しばらくその様子を楽しみ、奥底に押しやったものを細く喉を通過させる。

「___てか」

 水平だった口角を上げ、にこりと笑顔を作る。

「先輩こそ、いつの間にか作ってんじゃないすか〜?彼女」

 数秒間の沈黙の後、静かに空気が振動した。

「...つに」
「え?」

 最後の一個のマフィンを音を立てて机に置かれ、いつもの穏やかな瞳が僅かに揺れていた。

「別に」

 そのマフィンをカップから取り出し、少し乱暴に俺の口の中に突っ込まれる。

「んぐ...っ」
「変な心配いらねぇから」

「俺、そんなに信用ないか?」
「...ん"」

「まぁ...確かに李桜と付き合う前は色んな奴と付き合ってたりしてたけど」
「...ん"ーっ!」

「今は李桜がいるし......って、...」
「......」

 しばらく窓の外を見ながら喋っていた先輩と身体が対面になる。

「あー...ごめ。食ってるもんかと思ってた」

 口に密着していたマフィンが離れる。

「いや、食うつもりだった......っていうか一口は食べたんすけど...」
「.........俺、なんかミスってた感じ...?」
「その〜...、」
「なんでも言ってくれ」

 確認するように、口の中に広がったさっきの味を舌で転がす。

 居場所と一口が無くなったマフィンが先輩の手に戻っていった。

「んめっっっちゃ甘かったっす」

 言いながら、マフィンを持っている方の細い手首を掴み先輩の口元へとゆっくり持っていく。

「自分でも食べてみてください」
「...待っ」

 後ずさろうとしたのか、足元で「ガンッ!」と椅子が倒れる音がした。

「ちょ...い、椅子が...」
「んなの後で良いじゃん」

 机に片手をつき、逃げれないように身体で押さえ付ける。

 困惑が露わになっている瞳がマフィンと俺とを行き来する。

「...」

 最終的にマフィンに焦点が合い、小さく口を開けた。

「......ん、」
「どーすか?」

 大した量を口に含んでいないのに咀嚼するスピードが徐々に落ちていく。
 数回噛んだ後、喉仏が上下した。

「...くっっっそ甘い......」
「でしょ?」

 眉間に皺の寄っている先輩を堪能していると、左肩に弱い力が加わる。

(...?)

「あと、...距離近すぎ」

 決して強い力では無いが、なすがまま後ろに押される。

(...なんか、)

「顔、めっちゃ赤くないすか...?」
「...」

 軽く覗き込むと、肩が分かりやすくビクッと跳ねた。

「先輩?」
「......黙、れ」

 先輩は防御力0の腕を顔の前に翳し、更に俯いてしまう。

「それ、どけてください」

 言葉にするよりも行動が早くなる。抵抗力の無い手首を掴み、今度は両手で机にホールドした。

「...っ」

(初めてみる顔...)

 頬に手を添えると、普段は体温が低い肌が熱を持っていた。

「もしかして照れてます?こんな距離近いだけで」
「ぃ、いーだろ別に...」

(恋愛初心者みたいな反応しといて実際は女の子と付き合いまくってたくせに...こんな反応......)

 今まで培ってきた黒い塵が山となる。

「......その顔、もう絶対に俺以外に見せないでくださいよ」
「...なん、っ......はぁ...?ど、いう意味...」

(もうこの際...)

 親指でゆっくりと頬を撫でる。

「前の彼女にもこんな顔見せたんすか」

(全部聞いて良いか)

 先輩の困惑を無視し、ずっと押し込んできた感情をドロドロと零す。

「なんで俺と付き合ってんすか...?」


◇◆◇◆◇◆


 ギリっ...と手首が締め付けられる。

(目、こわ...)

 李桜の前髪から除く瞳は、光が差し込まず黒く澄んでいた。

「李桜...怒ってる...?」
「怒ってない」
「ぉ...怒ってんじゃん...」
「...」

 本人曰く怒ってないらしいが、隠しきれない圧を感じる。

(これ...どこ見れば正解なん...)

 目線を外そうとするも目力から解放されず...かと言って頭ごと横向くのはな...と思考が何周も回転する。

「と、りあえず座.........__ッ!」

 頬に添えられていた手が離れ、再び手首を掴まれ身体ごと机に抑え込まれる。

「前に付き合ってた奴と同じで俺も___」

 自身の左耳に李桜の髪が燻る。

「_俺...も......」

 耳から直接脳内に入り込んでくるような低音が途切れ、代わりに喉が鳴る音がした。

「李、桜...?」

 呼びかけに返事はなく、軽く両肩を押され、久しぶりに身体が自由になる。

「ぅおっ......急になに...」

 まだ身体が自由に慣れず、安定してない体勢で李桜に目をやる。

「李桜お前まじで今日おかし......い__」

 見ると、決して寒くない室内にも関わらず顔面蒼白になっている李桜がゆっくりと後ずさっていた。
 ついさっき倒した椅子が更に転がる。

「.........ぃや、...すんません...まじで、...なんでもな」

 長い前髪と長い指で蒼白な顔が隠される。

「待て。絶対なんでもなくはねぇだろ」

(ここで引いたら...ダメな気がする)

 一歩踏み込み、李桜の前髪を撫でるように片手でどける。

「...ぃ、ゃ...ほんとに......」
「ちゃんと話せ」

(李桜のこと、もっと知りたいから)

 俺が生きてて、色んな人と付き合ってきて、こんな感情が湧く人は初めてだった。

 
◇◆◇◆◇◆


「で、さっきのどういう意味だったんだよ」
「.........先輩この話嫌いだと思うんすけど...」

 いつもの定位置の椅子だが、酷く落ち着かない。

「んなの言ってみなきゃ分かんねぇだろ」
「だって...自分の元カノの話っすよ?抵抗の一つや二つあるんじゃないすか?」
「......」

 先輩は右斜め上を見て何かを思い出すように唸る。

「......やっぱ嫌だったんじゃ_「ない」

「...え...?」
「抵抗、ないよ」
「は、ぇ?...なんで」
「なんでって...んー......」

 しばらく考え込み、探るように細く息を吸い込んだ後、ゆっくりと口を開く。

「好き...じゃなかったから...?」
「...」

 自分に対しての言葉では無いのは分かっているが、嫌に刺さる。
 それが刺さったまま抜けず、奥に沈む。

「...そんなこと言って〜ほんとは好きだったんじゃないすか〜?」

(俺も『元』になる可能性だって...ある、よな)

 漏れ出そうな溜息を手のひらで抑えるように頬杖をつく。

「その顔、やめろ」

 瞬間、支えとなっていた肘が机から落とされ、盛大に体勢を崩した。

「あ"っ...ぶないじゃないすか!何して__」
「俺、ちゃんと言ってくんなきゃ分かんねぇから」
「は、?何の話...」
「李桜の話だよちゃんと聞け」

 先輩のせいで体勢が崩れたのにも関わらず、今度は両肩を掴み姿勢を正せと言ってくる。

 向かい合ったのを確認すると、いつもの調子で話し始めた。

「俺...彼女とか、そもそも人に興味が持てなかったんだけど」

 先輩に自身の口元を指さされる。

「李桜って何か誤魔化す時、口に手当てたり変に間延びした声になんだよ」
「...」

「あと...それにプラスで皮膚に爪立ててる」

 手首を掴まれ、目の前まで持ってこられる。

「ほんと...だ」

 自分で付けたであろう爪痕が指や手の甲に赤く残っていた。

「...自分でも、こんなに人のこと見てるの初めて...で...」

 眺めていた爪痕が自分よりも白い手で覆われ、見えなくなる。

「俺は李桜でも分かんねぇこと知ってる。...ちゃんと見てる、から..._」

 俺の手を握ったまま、目を合わせ、色付いた顔を晒してくれている。

「李桜と同じくらい、好き。...だから」

 長いまつ毛が下を向き、深呼吸をした後、淡い水色の瞳が現れる。

「李桜の全部、聞きたい」

 半開きだった自分の口が閉じていき、口角が自然と緩んでいく。

「......そんなこと言われたら、言わざるを得ないじゃないすか」

 握られていた手を更に上から握り返す。

「ぁ、当たり前だろ...俺も言ったんだから包み隠さず言えよ」
「分かりましたって」

 微笑みながら皮膚に残った爪痕を撫で、押し込んできた欲を発掘する。


__________


「まぁ...簡単に言うと...、先輩は俺のこと別に好きじゃないのかと思っ」
「はぁ?」
「...ちょ、最後まで聞いてくださいって」
「...」

 さっそく口を挟んできた先輩は、不満そうな顔で口を噤んだ。

「んで...俺も先輩の『元』になる時があるんじゃないかと...不安になる時があって」

 吐き出す内に、山となっていた黒い塵がバラバラになって溶けていく。

「その度にずっと一緒にいられたらって思ってたんすけど」

 不満顔のシワが微かに残っていたが、目が少し開きシワが無くなる。

「先輩、そういうの言われるの面倒くさがると思って...嫌われたくなくて言いたくなかったんすよ」

 語り尽くした合図に、両手を顔の横で上げる。

 やがて、その指の一本一本の間に先輩の指が絡んできた。

「そんなので嫌う訳ねぇだろ」

「.........じゃあ、...これからも一緒に居てくれます?」
「...うん」

 絡まり合った指を離さないように握り返し、力を加える。

「ずっと。ですけど」
「...ずっとだ」

 自然と身体に入っていた力が溶け、倒れるように先輩の肩に頭を預けた。

「李桜、ありがと。言ってくれて」
「いえ...俺が勝手に思い込んでただけでしたし...。それに、先輩って案外俺のこと好きなんすね」

 肩から頭を離そうとすると、すばやく押さえ付けられた。

「あは...っ照れてるんすか〜?さっき自分で言ってたくせに」
「......今、俺の顔見たら殴る」

(...ついさっきは存分に見せてくれたのにな〜)

__________


 しばらく経った後、やっと頭が開放された。

「...首いってぇ...」
「それは、すまん」

 首を揉みながら先輩を見ると、何事も無かったかのような平然とした顔になっていた。

(あの顔かわいーからまた見たいんだけど...)



「あ、そう言えば」

 ふと疑問に思ったことが口から転がり落ちる。

「先輩って高校で何人彼女いたんすか?」
「ぇ、...あー.........」

 元カノの話に抵抗はないらしいが、言いにくそうに口をもごもごしている。
 やがて、耳を澄まさないと聞こえないくらいの声が聞こえてきた。

「......ろ、ろく...」

「...は?6人もいたんすか」
「う...そんな目で見んなよ...」

(そんな目でも見たくなるだろ...思ったより多いし...)

「なんで付き合ってたんすか」
「んー...告られた、から...?」
「...そんだけで?」

 先輩はバツの悪そうな顔で頬杖をつく。

「だ、って...女子ってそういうの断ったらすぐ広めるし...その場で泣かれたらどうしたらいいか分かんねぇし...なんか最悪刺されそうだし...おっけーして損することはないしで...付き合って...ました...」

 まるで本当にされたかのような顔で語られる。

「...女子に対する偏見すごいっすね」
「偏見じゃなくて...最後の以外やられたことあるし...」
「マジすか...?こわ...」
「な...」

 (六人か...そんなにいたらキスだって俺が初めてじゃないよな...)

 無意識に手が口へと伸びる。前に、固く手を握った。

「じゃあ...六人もいたんだからキスとかもしたんすか?」

 問いかけた瞬間、先輩の椅子がガタッと床を引きずった。

「は?!き、キス...とか...そんな、見境なくする訳...」

(そんな動揺するか?キスぐらいで...)

「...前から思ってたんすけど先輩って案外ピュアっすよね」
「ピュ...ア...」

「キス、求められたりとかしてないんすか?」

 先輩は自分の唇に人差し指を噛むように当てる。

「それは...されたけど、なんか嫌...だったからしてない...」
「でも俺とはしたじゃん」
「......ぅん」
「俺からの一回だけっすけど」
「じゅ、十分だろ」
「俺は足りないっす」

 唇に挟まっていた指を退かし、代わりに自分の指で唇をなぞる。

「ん...なに......」
「今、して良いすか?」

 少し経った後、固まった身体が首だけ上下する。

「ふっ...良かった」

 俺は椅子から立ち上がり、先輩が座っている椅子に片膝を乗っけた。

「は、?!ちょ、近...っ」
「近くないとキスはできないじゃん」

 目線が彷徨った挙句、最終的にギュッと目を瞑った。

(かわい...)

 丸い後頭部に手を沿わせ、やがて唇が触れ合う。

「ん、」

 口の端から漏れ出る声が鮮明に聞こえ、更に口付ける。

(やば...すっげぇ幸せ...)

 先輩の下手な鼻呼吸を感じながら瞼を開けてみると、顔が赤く、まつ毛が少し濡れていた。

(先輩も俺と同じだったら良いな...)

 目を閉じ、更に深く口付けようとした最中、胸元に弱い衝撃が響く。
 しばらく粘ってみるが、首を左右に振られ無理やり唇が剥がされた。

「...っはぁ...!ぁ...まじ、で......長...すぎ......」

 沈みかけている夕日によって、呼吸が整っていない半開きの濡れた唇が照らされる。

「あはっ...!先輩顔赤すぎ」
「お...ぉ前のせいだろバーカ!」

 先輩の全部を包み込むように抱きしめ、またしても文句が続きそうな口をもう一度塞いだ。


◇◆◇◆◇◆


「結局、なんで今日に限って『俺が作る』とか言い出したんすか?」

 小さじと大さじを間違えたせいで、砂糖の量が有り得ないくらい多くなったマフィンを二人でゆっくりと頬張る。

「...ん」

 先輩はスマホを俺の方に向け、日付を指さした。

「...2月13日...?」
「...」
「...今日、なんかありましたっけ?」

 二人の何かの記念日にしても、去年のこの頃は付き合うどころか出会ってもない。

(先輩が覚えてるような記念日...?)

 思考を巡らせていると、最後の一個になったマフィンを俺の目の前に置かれる。

「明日、学校休みだから...バレンタイン...の...やつ......」
「......」
「...黙んなよ」
「先輩が、...俺に?」
「李桜以外誰がいんだよ」

 先輩とマフィンに目線を何回か行き来した後、あまりの嬉しさに頭を抱えた。

「......まじ......で...」
「ちょ、...なに」
「待ってください今幸せを噛み締めてるんで」
「わかっ...た」

 目を瞑り、先輩の一言一句を脳にインプットするように息を吸う。


「先輩、こういうイベント事とかどうでもいいタイプかと思ってたんすけど...」

 やっと落ち着いたところで会話に戻る。

「あー...その...バレンタインは取ってつけたようなもんで...」

 白い髪がだんだん俯いていく。

「俺から恋人っぽいことした事ないな...って」

 再び頭を抱えようと手が上へと登っていくが、途中で腕を掴まれた。

「でも!...俺も李桜に名前で呼ばれたこと、ない」

 さっきのセリフを掻き消すような勢いで言葉を連ねられる。

「...それは...呼んで欲しいってことっすか?」
「うん...なんか名前呼びって恋人っぽいし」
「別に良いっすよ、そんくらい」
「......てか俺の名前分かるよな?いっつも先輩呼びだけど」
「俺をなんだと思ってんすか...名前くらい言えますよ」

 早速言おうとしたが、羨望の眼差しが向けられ言いかけていた口が閉じていく。

(すげぇ見るじゃん...)

 気を取り直して、鼻で溜息をつき口を開いた。

「雪斗...............先輩」
「...」

 出た声が思ったより小さく、徐々に恥ずかしさが滲み出てくる。

「あの、...なんか言ったらどーすか...」

 先輩はほんのり染まった頬を隠さず、あどけなく笑っていた。

「李桜でも照れるんだな」
「照れ...はぁ?!そういう先輩こそ赤くなってるじゃないすか」
「はー?うっるさいなー李桜も珍しく赤いし」
「慣れねぇ呼び方すりゃ誰でも違和感感じるでしょーよ」

 自身の熱くなった首を手で冷やすように触る。

 沈黙が訪れ、二人の顔色が戻っていく。

「...でも、時々呼んで欲しい...かも。名前」

「りょーかいです、......雪斗先輩」
「うお...さっそく......」

 自分から提案しておいて挙動不審になっている様子に、自然と表情筋が解けていった。

__________


 夕日が沈み、家庭科室の電気を付ける。

「別に、学校休みでも俺ん家来れば良くないすか?」
「...え?」

「俺の中では今日が最高のバレンタインになりましたけど...世間一般的には明日らしいんで、明日は一緒に作りません?」
「家、行っていいのか?」
「もちろんっすよ」
「...じゃあ...作ろ、一緒に」

 嬉しそうな顔を見つめながら、微笑む。

「...ですけど、」

 目の前に置かれた最後のマフィンを頬張る。

「俺はこのくっそ甘いマフィンが一番好きっすけどね」

‪ 噛んだマフィンを喉に通し、先輩の頭に手を回す。

(抵抗は...なし)

 様子を見ながら、唇を合わせた。

「ん...」

 まだ口内に広がる甘味を先輩にも流し込むように口付ける。
 やがて白い髪と自身の黒い髪が混ざり、境目が曖昧になっていく。

(あっま...)

 以前の先輩の身体に染み付いていた、嫌に鼻につく香水の匂いが、更に甘ったるい匂いで上書きされていく。

 それが嬉しくて、愛おしくて、抱きしめた。