衝撃的な事実を知らされた次の日。オーディション開始の一週間前だ。火曜、水曜、金曜の部活動の時間を使って三日間にわたり行われる。俺は火曜日に受けることを今日、知らされた。「もっとハードな練習にしないとね!」という鈴さんの言葉と共に。
「今日は暁斗くんに全部費やす!」
彼女はそう言ってなかなか隣から離れてくれない。これから毎日一緒に体育館に向かうことになるのだろうか。
「あの、待たなくていいよ? 先に練習してた方がいいんじゃ」
「いいから待つ! さ、早く!」
俺の言葉を遮って急かす彼女は、今日は一段と興奮している。何か良いことでもあったのかな。
不意にバタンと音がする。音のした方を見ると、台本を落としていたことに気づく。
拾い上げようとしゃがんだ時、別の手が台本を持っていき、俺の手は空を掴む。きっと鈴さんだと思い立ち上がり、「ありがとう」と伝えようとした時、俺は終わりを悟った。
一気に血の気が引いていく。台本を拾ったのは鈴さんじゃない。
俺の目線の先にいたのは、台本を見てにやついている一輝だった。
「暁斗、お前もオーディション受けんの?」
嘲笑気味にそう言い放つ。そして付箋やメモで染められた台本をぺらぺらとめくっていく。
待て、「も」って何だ?
まさか……。
「俺も受けるんだよねー。あ、そういえば事情があって説明会に参加できない人が何人かいたけど、あれ暁斗か」
俺の勘は、運悪く当たってしまった。
「ははっ、何これ? 『泣いてしまいそうな表情で』だって」
台本に加えたメモを読み上げ、大きく嘲笑う。あまりに大きな声を出すため、いつも一輝といる人たちが集まっていく。クラスにいた他の人たちからも、なんだなんだと冷たい視線が集まる。
心臓と呼吸の音が、マイクを通しているかのように大きく響く。衝撃的で、恥ずかしくて、悲しくて、悔しくて、よくわからなくなる。ただ呆然と立ち尽くし、顔はとても酷いことだろう。
「か、返してよ」
声は掠れ、ほぼ出ていなかった。いくらやっても、声なんて出ない。
ただ、俺が手を伸ばして取り戻そうとする仕草を見てわかったのか、反対側を向いて奪わせまいとする。どうしよう、と羞恥心やらなんやらで消えてしまいたかった。
「いい加減にして! 早く返しなさいよ!」
突然、教室に怒号が響く。一瞬にして静寂が生まれる。声の主は鈴さんだ。
彼女の言葉が、日々のイライラが募った一輝の癇に障ったのか、鬼のような形相でこちらに振り向く。
「うっせぇなぁ! 良い子ぶってんじゃなえよ気持ちわりぃなぁ!」
そう言い放って持っていた台本をこちらに向かって投げ捨てる。鈴さんに当たってしまうのが怖かったが、手前で減速しバタンという音と共に落下する。一輝は仲間たちとへらへら笑いながら教室を後にしていった。
俺は床に落ちたくしゃくしゃの台本を見つめて動けなくなる。
「鈴! 大丈夫か!?」
遠くから見ていたであろう北上さんたちは、一心に鈴さんの方へと向かう。周りのクラスメイトたちの囁き声が聞こえる。ところどころで俺が演劇をやることを冷やかすような言葉が聞こえてきて、より傷口が開いていく。
少しぼーっとしていた俺は、急いで台本を鞄へとしまう。
「暁斗、今日はもう帰った方がいい。呼吸が荒いし、酷い顔してる」
北上さんは、真剣な眼差しで告げる。「邪魔だから」というわけではなく、本当に心配してくれているのだろう。それは日常生活からなんとなくわかる。
鈴さんに目をやると、「私は大丈夫」というように無理やり口角を上げていた。でもそれは嘘だろう。彼女の目は今、ものすごく泣きそうに目が潤んでいる。
できれば残りたかったが、熱心に何度も言われてしまったので、素直に従うことにした。それにあの場にいたところで何かできるとは思えなかった。
でもなぜだろう。涙って、こんなにも出ないものだったかな。
ほぼ無心で家に辿り着いた。学校から家までのことが一切残っていない。制服はびしょ濡れで、傘を持ってさしていなかったことに気づく。きっとゾンビみたいに帰って来たのだろう。
ささっと着替えた俺は、ベッドに倒れ込んだ。もう動く気力さえ残っていなかった。
全部、バレた。ここまでいろんな人にサポートしてもらったのにも関わらず、全部が明るみになった。
演劇をやるということが周知された時、あんな反応をされることはずっと前からわかっていた。だから自分からやることはできなかったし、誘われた後も少し乗り気ではなかった。
ずっと忘れていたんだ。クラスで話せる人が増えて、高華さんや高橋さん、演劇部の方々に出会い支えられて、鈴さんと実際に演劇を観て、たくさんの練習を重ねて……。ずっと、忘れていた。本当の俺はずっと笑顔で、八方美人とも言える最低な役者だったのだということを。
変われたと思っていたのに、実際は変わったように見えただけ。本質はずっと変わらぬまま。想いを閉じ込め、隠し、打ち消し、得意の演技で悟られないようにする。得意の演技でみんなに合わせる。どれだけ不器用でも顔色を伺うことは得意で、嘘をつくって逃げることも、演技で欺くことも得意だ。
そうだ。俺はもう、立派な役者だったんだ。それも卑劣で、最悪な。そんな俺には、正しい演技をする資格はない。因果応報、酷いことをしたのに、良い思いをできるなんてありえない。
オーディションは諦めよう。鈴さんたちには申し訳ないが仕方ない。もう学校に行けるかも怪しいんだ。同情されなくても、罵られても構わない。
もう、いいんだ。
それからの日々、俺は魂が抜けたようになっていた。自室に篭り、カーテンも閉め、刺激を受けずにぼーっとしていた。あの悪夢のような日から降り続いていた雨は止み、今日は快晴。カーテンの隙間から漏れた光がそれを伝える。俺の心境とこんなに真逆なことが少し腹立たしかった。
こんなにずたずたになっても、涙は一滴も出ない。あんなにやりたかった演劇を手放したのに、出ない。生きる価値のなさ、自分の醜さを思い知らされたのに、出ない。ただただ消えたいという思いが増大していくだけ。
でもなぜか、食欲も、睡眠欲もある。静寂に包まれた部屋にお腹の音は鳴り響くし、夜になれば睡魔が襲ってくる。消えたいと願うのに、体は生きることを欲している。そんな自分にまた腹が立つ。
母は最初こそ心配してくれていたが、今は何もしないでいてくれている。無理に復帰させるのはよくないと判断したのだろう。俺はそれがとてもありがたかった。
いつも通りくる空腹に苛立ちを抑えながら部屋の扉を開け、台所へと向かう。冷蔵庫には、おにぎりが二個、皿に乗っていた。それを取り出し、テーブルに持っていく。昼食はいつも用意してくれている母に感謝したいのだが、その優しさがまた、傷口に塩をぬる。
被されたラップに添えてあった付箋のメモを見る。『がんばったね!』と、間違いなく母の字で書かれていた。俺がこうしてだめになっていることを否定しないでいてくれる母に、誠心誠意「いただきます」を伝え、おにぎりを一口かじる。冷えているのに、なんでこんなに心に温かみを与えてくるのだろうか。
食事を終えた時、流石に少し動いた方がいい気がしたので、着替えて外に出る。容赦なく照りつける日差しは、一日ぶりに外に出た人間には厳しい。数分しか歩いていないのに息が上がってくる。たった数日でこんなに変わってしまうのか……。
へとへとになりながらも、流れに身を任せて歩いて行く。すると、見慣れた大きな木々が見えてくる。近づくことすら少し躊躇ったが、休憩もしたいし入ることにした。
いつもの屋根付きのスペースに腰掛け周囲を見渡す。すると今までの日々が蘇ってくる。
部活がない日はほぼ毎回集まって作戦立ててたっけ。雑談だけして終わった日もあったな。午後から雨が降り出して雨宿りしたり、虹が見えてはしゃいだり……。
演劇はやらないと決めたのに、鈴さんは今頃どうしているだろうと考えてしまう。彼女に誘われた日に生まれたであろうこの感情は一体なんのか。まるでもう一人の自分、全く逆の想いを持った自分がいるみたいだ。
「やっぱり、いた」
聞き慣れた声に驚き振り向き立ち上がる。制服姿に鞄を肩からかけ、おそらく学校から帰る途中であろう鈴さんは、屋根の下まで来ていた。考え込んでいたのか全く気づかなかった。彼女は安心とも、悲しみとも、怒りともいえない表情を浮かべながら涙を堪え、歯を食いしばっている。
でもなぜここにいるのか。今日は部活がないとはいえこんなに早く帰宅するなんておかしいのではないか。それとも意外と時間が経っていたのだろうか。
「なんで、連絡したのに、見てくれなかったの?」
彼女の声は僅かに震えている。
刺激から完全に離れるために、スマホの電源は切っている。今も勿論スマホは持っていない。
無言のまま、何も言えずにいる俺にきつく問い詰める。
「すごく心配だったんだよ? 私だけじゃない、香織たちも」
またしても何も言えない俺に、彼女は呟くように衝撃的な事実を明かす。
「私はこの二日間、演劇部の活動に参加してない」
衝撃のあまり目を見開く。これには俺も黙っていられなくなり、勝手に口が開く。
「な、なんで」
「暁斗くんは? 演劇、どうするつもり?」
俺の弱々しい質問は彼女の鋭い口調に遮られる。少し躊躇ったが、しっかりと決めたことを伝える。
「僕は、演劇はやめる。オーディションも諦めるよ」
彼女は信じられないというように顔を歪ませ、でもそれはどこかで予想できていたという様子だった。
お互い俯き黙り込むと、「……ない」と掠れた声が鼓膜を震わせる。しっかりと聞きたくて、彼女の顔を捉える。
「だったら私も、演劇をやめる!」
涙を堪えきれなくなったのか、俺の目を一点に見つめ、嗚咽を漏らしながら言葉を絞り出す。
「それは違うでしょ。なんで君まで」
「あなたがいないなら私もやらない! 誰になんて言われても、絶対に!」
俺の問いかけに間髪入れずに答える。
大粒の涙を流しながら、言葉を紡いでいく。
「あなたがいたから……ここまで頑張れたんだよ。馬鹿にされても、上手くいかなくて思い悩んでも……。難しいことにも、新しいことにも懸命に励むあなたに私は……、元気をもらえたの」
くしゃくしゃな顔で、途切れ途切れになりながらも最後まで話を諦めない。
「暁斗くんを見た時、演技をしてるのが丸わかりだった。でもそれはあまりにも上手で、周りは少しも気づいていなかった。でも私は、あなたのその『優しい役』が大好きだった。存在がすごく羨ましかった」
いつボロが出たのだろう。『演技』をしていることまで把握されているではないか。
「僕は『優しい役』なんかじゃない。自分が嫌われたくないから、孤立したくないから、ただ人に合わせてただけ。ずるくて、卑怯で、何も羨ましがられる人間じゃない」
「違う。違う、違う、全然違う! 全然わかってない!」
必死に否定する俺に、間にボール一つしか入らないくらいに距離を詰めながらそう言う。身長差で彼女は俺を見上げるようにしている。
改めて近くで彼女の顔を見ると、泣き続けた目は赤く腫れている。
「暁斗くんは、いくつもある役の中から、わざわざ自己犠牲という役を選んだんだよ。いや、もしかしたらそうならざるを得なかったかもしれない。……とにかくあなたは、良くも悪くもいつも周りの様子を第一に考えてる。多くの人が、あなたに憧れてる」
「そんなの…うそ」
「嘘じゃない! 私がそうなんだもん! 暁斗くんの温かい演技が、本当に大好きだった。練習を一緒にやるのも、見るのも、すっごく大好きだった!」
知らなかった彼女の想いを明かされ、視界はだんだんとぼやけていく。それでも彼女の目線は、一点に俺の瞳の奥を捉え続けている。
「あなたの演技が大好きで……、あなたに、勇気や、頑張る力をもらったの! 役に立てないとか、迷惑をかけてるなんて思わないで! すでにあなたは、多すぎるくらいのものを与えてるから!」
沢山の涙と一緒に、彼女は懸命に訴えかけてくる。俺はもう耐えられず、雫が溢れ始める。足に力が入らず、その場で四つん這いになるように崩れ落ちた。さぞみっともない姿であろう俺に、目線を合わせるように彼女もしゃがむ。でももう、顔を上げて彼女の顔を捉える力もない。
「お願い……戻ってきて。演劇をやらないなんて言わないで。暁斗くんと一緒に、演技がしたい」
懇願するかのような彼女の声。
演技ではない、確かな涙を流しているという事実。
いつぶりだろう。こんな風に、閉じ込めたものを外に吐き出せたのは。
初めてだった。本当の自分を見抜かれて、それを好きだと言ってくれる人なんていないと思っていたのに。
鈴さんは俺の真横に来てしゃがむと、「辛かったよね」とだけ言って背中を撫で始める。そんなことをされてたら余計に涙が止まらなくなるというのに。声なんか、抑えられずはずない。
「こんな僕にも、演劇ができますか……?」
泣きながら、でもしっかりと伝えた。彼女の瞳を、しっかりと捉えて。俺はきっと酷い顔をしているだろう。それでも伝えなければならない、「演劇がやりたい」と。
「暁斗くんは、十分過ぎるぐらい頑張った。だからもう、あとは自分を信じるだけだよ」
彼女はにっこりと優しく笑ってそう言ってくれた。「頑張れ」ではなく「頑張った」と言ってくれたことに、本当に全てが見透かされているのだなと改めて思った。人から「もっと頑張ろう」と言われるのはもううんざりだった。俺はもうこれだけ頑張っているのにといつも心の中で叫んでいた。
「演劇、やりたいです」
涙ながらの嘘偽りない言葉を聞いた彼女は、満面の笑みを浮かべていた。
「少し落ち着いた?」
向かいに座る鈴さんは優しく問いかける。俺は深呼吸して頷く。
存分に泣いた後、俺たちはいつものように向かい合って座っている。俺が誘ったわけでも、彼女が誘ってわけでもなく、自然とこうしている。ここまで関係を築いてくれた演劇には感謝しかない。
「ごめんなさい。あの時、巻き込んでしまって……」
ずっと抱えていた罪悪感をここで消してしまいたかった。そんなに簡単に消えるものではないのだが、せめて一度だけ謝りたかった。
「えっ、そんなの気にしないでよ。飛び込んで行った私が悪いし」
「でも、二度と経験したくなかったことを蘇らせちゃったでしょ? 元はと言えば、あれは僕の不注意で……」
「元凶はどう考えても佐野くんでしょ。あんな人、オーディションになんて絶対受からないんだから。あれで受かったら部長に抗議してやる」
やや興奮気味に言葉を連ねる。珍しく怒りをあらわにする彼女を見て、俺はダメだとわかっていても、込み上げてくる笑いを抑えきれず吹き出してしまう。
「……なんで笑うの」
「だって、そんなに怒ってるなんて思わなくて」
むすっとしていた彼女は、我に返ると頬に少しずつ赤みを帯びていく。
「……だって、暁斗くんがあんな風にされてるの見て、我慢できるわけないもん」
そう言って目線をそらし、頬を膨らませる。そう思ってくれるのは嬉しいのだが、拗ねた幼い子供のような彼女が可愛くてまた笑ってしまう。
「笑わないでよー!」
「ご、ごめん」
謝罪するものの、やっぱり抑えられない。
お互いが落ち着き始めた頃、今度は彼女から口を開く。あの悪夢を思い出させるのが酷だと思ったのか、少し不安げだった。
「あの後、何があったのか、話したほうがいい……?」
「……できれば、知っておきたい」
素直にそう答えると、事細かに説明してくれた。
あの事件があった日は、鈴さんが部活に欠席したが、それ以外特に何もなかったらしい。ただ問題がその次の日からで、一輝に言われたような悪口や陰口が増えていったのだという。北上さんたちがサポートをしてくれたものの、その日も部活には行かず早めに帰宅したらしい。
そして今日。遂にそれは嫌がらせという形にまであらわれてしまい、臨時で部活動があったものの体調不良で早退してきたのだという。
それを聞いた俺は、余計に申し訳なくなってしまい何度も謝罪した。それでも彼女はそれを受け入れてくれない。
「とにかく、今はクラスの雰囲気がすごく悪い。だから無理に学校に行く必要はないよ」
「いや、ちゃんと行くよ。ここで引いたら、もっと行きづらくなる」
確かにそんな雰囲気の中に三日ぶりに飛び込むのは気が引ける。でも矛先が少しずつ彼女に向かっているのは事実だし、このまま逃げればもう本当に学校には行けなくなる。親に学費は出してもらっているし、一応勉強して入って高校だ。一年生で退学なんてしたら、俺みたいな人間に将来はない。
明日はどうなってしまうのだろうという漠然とした不安を抱えていた俺に、鈴さんは優しく微笑む。
「一緒に、乗り切ろう!」
彼女のその溌剌とした、爽やかな声に、俺は背中を押された。
「今日は暁斗くんに全部費やす!」
彼女はそう言ってなかなか隣から離れてくれない。これから毎日一緒に体育館に向かうことになるのだろうか。
「あの、待たなくていいよ? 先に練習してた方がいいんじゃ」
「いいから待つ! さ、早く!」
俺の言葉を遮って急かす彼女は、今日は一段と興奮している。何か良いことでもあったのかな。
不意にバタンと音がする。音のした方を見ると、台本を落としていたことに気づく。
拾い上げようとしゃがんだ時、別の手が台本を持っていき、俺の手は空を掴む。きっと鈴さんだと思い立ち上がり、「ありがとう」と伝えようとした時、俺は終わりを悟った。
一気に血の気が引いていく。台本を拾ったのは鈴さんじゃない。
俺の目線の先にいたのは、台本を見てにやついている一輝だった。
「暁斗、お前もオーディション受けんの?」
嘲笑気味にそう言い放つ。そして付箋やメモで染められた台本をぺらぺらとめくっていく。
待て、「も」って何だ?
まさか……。
「俺も受けるんだよねー。あ、そういえば事情があって説明会に参加できない人が何人かいたけど、あれ暁斗か」
俺の勘は、運悪く当たってしまった。
「ははっ、何これ? 『泣いてしまいそうな表情で』だって」
台本に加えたメモを読み上げ、大きく嘲笑う。あまりに大きな声を出すため、いつも一輝といる人たちが集まっていく。クラスにいた他の人たちからも、なんだなんだと冷たい視線が集まる。
心臓と呼吸の音が、マイクを通しているかのように大きく響く。衝撃的で、恥ずかしくて、悲しくて、悔しくて、よくわからなくなる。ただ呆然と立ち尽くし、顔はとても酷いことだろう。
「か、返してよ」
声は掠れ、ほぼ出ていなかった。いくらやっても、声なんて出ない。
ただ、俺が手を伸ばして取り戻そうとする仕草を見てわかったのか、反対側を向いて奪わせまいとする。どうしよう、と羞恥心やらなんやらで消えてしまいたかった。
「いい加減にして! 早く返しなさいよ!」
突然、教室に怒号が響く。一瞬にして静寂が生まれる。声の主は鈴さんだ。
彼女の言葉が、日々のイライラが募った一輝の癇に障ったのか、鬼のような形相でこちらに振り向く。
「うっせぇなぁ! 良い子ぶってんじゃなえよ気持ちわりぃなぁ!」
そう言い放って持っていた台本をこちらに向かって投げ捨てる。鈴さんに当たってしまうのが怖かったが、手前で減速しバタンという音と共に落下する。一輝は仲間たちとへらへら笑いながら教室を後にしていった。
俺は床に落ちたくしゃくしゃの台本を見つめて動けなくなる。
「鈴! 大丈夫か!?」
遠くから見ていたであろう北上さんたちは、一心に鈴さんの方へと向かう。周りのクラスメイトたちの囁き声が聞こえる。ところどころで俺が演劇をやることを冷やかすような言葉が聞こえてきて、より傷口が開いていく。
少しぼーっとしていた俺は、急いで台本を鞄へとしまう。
「暁斗、今日はもう帰った方がいい。呼吸が荒いし、酷い顔してる」
北上さんは、真剣な眼差しで告げる。「邪魔だから」というわけではなく、本当に心配してくれているのだろう。それは日常生活からなんとなくわかる。
鈴さんに目をやると、「私は大丈夫」というように無理やり口角を上げていた。でもそれは嘘だろう。彼女の目は今、ものすごく泣きそうに目が潤んでいる。
できれば残りたかったが、熱心に何度も言われてしまったので、素直に従うことにした。それにあの場にいたところで何かできるとは思えなかった。
でもなぜだろう。涙って、こんなにも出ないものだったかな。
ほぼ無心で家に辿り着いた。学校から家までのことが一切残っていない。制服はびしょ濡れで、傘を持ってさしていなかったことに気づく。きっとゾンビみたいに帰って来たのだろう。
ささっと着替えた俺は、ベッドに倒れ込んだ。もう動く気力さえ残っていなかった。
全部、バレた。ここまでいろんな人にサポートしてもらったのにも関わらず、全部が明るみになった。
演劇をやるということが周知された時、あんな反応をされることはずっと前からわかっていた。だから自分からやることはできなかったし、誘われた後も少し乗り気ではなかった。
ずっと忘れていたんだ。クラスで話せる人が増えて、高華さんや高橋さん、演劇部の方々に出会い支えられて、鈴さんと実際に演劇を観て、たくさんの練習を重ねて……。ずっと、忘れていた。本当の俺はずっと笑顔で、八方美人とも言える最低な役者だったのだということを。
変われたと思っていたのに、実際は変わったように見えただけ。本質はずっと変わらぬまま。想いを閉じ込め、隠し、打ち消し、得意の演技で悟られないようにする。得意の演技でみんなに合わせる。どれだけ不器用でも顔色を伺うことは得意で、嘘をつくって逃げることも、演技で欺くことも得意だ。
そうだ。俺はもう、立派な役者だったんだ。それも卑劣で、最悪な。そんな俺には、正しい演技をする資格はない。因果応報、酷いことをしたのに、良い思いをできるなんてありえない。
オーディションは諦めよう。鈴さんたちには申し訳ないが仕方ない。もう学校に行けるかも怪しいんだ。同情されなくても、罵られても構わない。
もう、いいんだ。
それからの日々、俺は魂が抜けたようになっていた。自室に篭り、カーテンも閉め、刺激を受けずにぼーっとしていた。あの悪夢のような日から降り続いていた雨は止み、今日は快晴。カーテンの隙間から漏れた光がそれを伝える。俺の心境とこんなに真逆なことが少し腹立たしかった。
こんなにずたずたになっても、涙は一滴も出ない。あんなにやりたかった演劇を手放したのに、出ない。生きる価値のなさ、自分の醜さを思い知らされたのに、出ない。ただただ消えたいという思いが増大していくだけ。
でもなぜか、食欲も、睡眠欲もある。静寂に包まれた部屋にお腹の音は鳴り響くし、夜になれば睡魔が襲ってくる。消えたいと願うのに、体は生きることを欲している。そんな自分にまた腹が立つ。
母は最初こそ心配してくれていたが、今は何もしないでいてくれている。無理に復帰させるのはよくないと判断したのだろう。俺はそれがとてもありがたかった。
いつも通りくる空腹に苛立ちを抑えながら部屋の扉を開け、台所へと向かう。冷蔵庫には、おにぎりが二個、皿に乗っていた。それを取り出し、テーブルに持っていく。昼食はいつも用意してくれている母に感謝したいのだが、その優しさがまた、傷口に塩をぬる。
被されたラップに添えてあった付箋のメモを見る。『がんばったね!』と、間違いなく母の字で書かれていた。俺がこうしてだめになっていることを否定しないでいてくれる母に、誠心誠意「いただきます」を伝え、おにぎりを一口かじる。冷えているのに、なんでこんなに心に温かみを与えてくるのだろうか。
食事を終えた時、流石に少し動いた方がいい気がしたので、着替えて外に出る。容赦なく照りつける日差しは、一日ぶりに外に出た人間には厳しい。数分しか歩いていないのに息が上がってくる。たった数日でこんなに変わってしまうのか……。
へとへとになりながらも、流れに身を任せて歩いて行く。すると、見慣れた大きな木々が見えてくる。近づくことすら少し躊躇ったが、休憩もしたいし入ることにした。
いつもの屋根付きのスペースに腰掛け周囲を見渡す。すると今までの日々が蘇ってくる。
部活がない日はほぼ毎回集まって作戦立ててたっけ。雑談だけして終わった日もあったな。午後から雨が降り出して雨宿りしたり、虹が見えてはしゃいだり……。
演劇はやらないと決めたのに、鈴さんは今頃どうしているだろうと考えてしまう。彼女に誘われた日に生まれたであろうこの感情は一体なんのか。まるでもう一人の自分、全く逆の想いを持った自分がいるみたいだ。
「やっぱり、いた」
聞き慣れた声に驚き振り向き立ち上がる。制服姿に鞄を肩からかけ、おそらく学校から帰る途中であろう鈴さんは、屋根の下まで来ていた。考え込んでいたのか全く気づかなかった。彼女は安心とも、悲しみとも、怒りともいえない表情を浮かべながら涙を堪え、歯を食いしばっている。
でもなぜここにいるのか。今日は部活がないとはいえこんなに早く帰宅するなんておかしいのではないか。それとも意外と時間が経っていたのだろうか。
「なんで、連絡したのに、見てくれなかったの?」
彼女の声は僅かに震えている。
刺激から完全に離れるために、スマホの電源は切っている。今も勿論スマホは持っていない。
無言のまま、何も言えずにいる俺にきつく問い詰める。
「すごく心配だったんだよ? 私だけじゃない、香織たちも」
またしても何も言えない俺に、彼女は呟くように衝撃的な事実を明かす。
「私はこの二日間、演劇部の活動に参加してない」
衝撃のあまり目を見開く。これには俺も黙っていられなくなり、勝手に口が開く。
「な、なんで」
「暁斗くんは? 演劇、どうするつもり?」
俺の弱々しい質問は彼女の鋭い口調に遮られる。少し躊躇ったが、しっかりと決めたことを伝える。
「僕は、演劇はやめる。オーディションも諦めるよ」
彼女は信じられないというように顔を歪ませ、でもそれはどこかで予想できていたという様子だった。
お互い俯き黙り込むと、「……ない」と掠れた声が鼓膜を震わせる。しっかりと聞きたくて、彼女の顔を捉える。
「だったら私も、演劇をやめる!」
涙を堪えきれなくなったのか、俺の目を一点に見つめ、嗚咽を漏らしながら言葉を絞り出す。
「それは違うでしょ。なんで君まで」
「あなたがいないなら私もやらない! 誰になんて言われても、絶対に!」
俺の問いかけに間髪入れずに答える。
大粒の涙を流しながら、言葉を紡いでいく。
「あなたがいたから……ここまで頑張れたんだよ。馬鹿にされても、上手くいかなくて思い悩んでも……。難しいことにも、新しいことにも懸命に励むあなたに私は……、元気をもらえたの」
くしゃくしゃな顔で、途切れ途切れになりながらも最後まで話を諦めない。
「暁斗くんを見た時、演技をしてるのが丸わかりだった。でもそれはあまりにも上手で、周りは少しも気づいていなかった。でも私は、あなたのその『優しい役』が大好きだった。存在がすごく羨ましかった」
いつボロが出たのだろう。『演技』をしていることまで把握されているではないか。
「僕は『優しい役』なんかじゃない。自分が嫌われたくないから、孤立したくないから、ただ人に合わせてただけ。ずるくて、卑怯で、何も羨ましがられる人間じゃない」
「違う。違う、違う、全然違う! 全然わかってない!」
必死に否定する俺に、間にボール一つしか入らないくらいに距離を詰めながらそう言う。身長差で彼女は俺を見上げるようにしている。
改めて近くで彼女の顔を見ると、泣き続けた目は赤く腫れている。
「暁斗くんは、いくつもある役の中から、わざわざ自己犠牲という役を選んだんだよ。いや、もしかしたらそうならざるを得なかったかもしれない。……とにかくあなたは、良くも悪くもいつも周りの様子を第一に考えてる。多くの人が、あなたに憧れてる」
「そんなの…うそ」
「嘘じゃない! 私がそうなんだもん! 暁斗くんの温かい演技が、本当に大好きだった。練習を一緒にやるのも、見るのも、すっごく大好きだった!」
知らなかった彼女の想いを明かされ、視界はだんだんとぼやけていく。それでも彼女の目線は、一点に俺の瞳の奥を捉え続けている。
「あなたの演技が大好きで……、あなたに、勇気や、頑張る力をもらったの! 役に立てないとか、迷惑をかけてるなんて思わないで! すでにあなたは、多すぎるくらいのものを与えてるから!」
沢山の涙と一緒に、彼女は懸命に訴えかけてくる。俺はもう耐えられず、雫が溢れ始める。足に力が入らず、その場で四つん這いになるように崩れ落ちた。さぞみっともない姿であろう俺に、目線を合わせるように彼女もしゃがむ。でももう、顔を上げて彼女の顔を捉える力もない。
「お願い……戻ってきて。演劇をやらないなんて言わないで。暁斗くんと一緒に、演技がしたい」
懇願するかのような彼女の声。
演技ではない、確かな涙を流しているという事実。
いつぶりだろう。こんな風に、閉じ込めたものを外に吐き出せたのは。
初めてだった。本当の自分を見抜かれて、それを好きだと言ってくれる人なんていないと思っていたのに。
鈴さんは俺の真横に来てしゃがむと、「辛かったよね」とだけ言って背中を撫で始める。そんなことをされてたら余計に涙が止まらなくなるというのに。声なんか、抑えられずはずない。
「こんな僕にも、演劇ができますか……?」
泣きながら、でもしっかりと伝えた。彼女の瞳を、しっかりと捉えて。俺はきっと酷い顔をしているだろう。それでも伝えなければならない、「演劇がやりたい」と。
「暁斗くんは、十分過ぎるぐらい頑張った。だからもう、あとは自分を信じるだけだよ」
彼女はにっこりと優しく笑ってそう言ってくれた。「頑張れ」ではなく「頑張った」と言ってくれたことに、本当に全てが見透かされているのだなと改めて思った。人から「もっと頑張ろう」と言われるのはもううんざりだった。俺はもうこれだけ頑張っているのにといつも心の中で叫んでいた。
「演劇、やりたいです」
涙ながらの嘘偽りない言葉を聞いた彼女は、満面の笑みを浮かべていた。
「少し落ち着いた?」
向かいに座る鈴さんは優しく問いかける。俺は深呼吸して頷く。
存分に泣いた後、俺たちはいつものように向かい合って座っている。俺が誘ったわけでも、彼女が誘ってわけでもなく、自然とこうしている。ここまで関係を築いてくれた演劇には感謝しかない。
「ごめんなさい。あの時、巻き込んでしまって……」
ずっと抱えていた罪悪感をここで消してしまいたかった。そんなに簡単に消えるものではないのだが、せめて一度だけ謝りたかった。
「えっ、そんなの気にしないでよ。飛び込んで行った私が悪いし」
「でも、二度と経験したくなかったことを蘇らせちゃったでしょ? 元はと言えば、あれは僕の不注意で……」
「元凶はどう考えても佐野くんでしょ。あんな人、オーディションになんて絶対受からないんだから。あれで受かったら部長に抗議してやる」
やや興奮気味に言葉を連ねる。珍しく怒りをあらわにする彼女を見て、俺はダメだとわかっていても、込み上げてくる笑いを抑えきれず吹き出してしまう。
「……なんで笑うの」
「だって、そんなに怒ってるなんて思わなくて」
むすっとしていた彼女は、我に返ると頬に少しずつ赤みを帯びていく。
「……だって、暁斗くんがあんな風にされてるの見て、我慢できるわけないもん」
そう言って目線をそらし、頬を膨らませる。そう思ってくれるのは嬉しいのだが、拗ねた幼い子供のような彼女が可愛くてまた笑ってしまう。
「笑わないでよー!」
「ご、ごめん」
謝罪するものの、やっぱり抑えられない。
お互いが落ち着き始めた頃、今度は彼女から口を開く。あの悪夢を思い出させるのが酷だと思ったのか、少し不安げだった。
「あの後、何があったのか、話したほうがいい……?」
「……できれば、知っておきたい」
素直にそう答えると、事細かに説明してくれた。
あの事件があった日は、鈴さんが部活に欠席したが、それ以外特に何もなかったらしい。ただ問題がその次の日からで、一輝に言われたような悪口や陰口が増えていったのだという。北上さんたちがサポートをしてくれたものの、その日も部活には行かず早めに帰宅したらしい。
そして今日。遂にそれは嫌がらせという形にまであらわれてしまい、臨時で部活動があったものの体調不良で早退してきたのだという。
それを聞いた俺は、余計に申し訳なくなってしまい何度も謝罪した。それでも彼女はそれを受け入れてくれない。
「とにかく、今はクラスの雰囲気がすごく悪い。だから無理に学校に行く必要はないよ」
「いや、ちゃんと行くよ。ここで引いたら、もっと行きづらくなる」
確かにそんな雰囲気の中に三日ぶりに飛び込むのは気が引ける。でも矛先が少しずつ彼女に向かっているのは事実だし、このまま逃げればもう本当に学校には行けなくなる。親に学費は出してもらっているし、一応勉強して入って高校だ。一年生で退学なんてしたら、俺みたいな人間に将来はない。
明日はどうなってしまうのだろうという漠然とした不安を抱えていた俺に、鈴さんは優しく微笑む。
「一緒に、乗り切ろう!」
彼女のその溌剌とした、爽やかな声に、俺は背中を押された。


