「……雨、止まないね。この時間は降るはずじゃなかったのに」
 桑原さんががっくりした様子で言った。
 彼女と行ったあの公園のまた同じ場所で、演劇について話していた。かなり良いなと思った場所なので、時々ここで話している。……とは言ってもまだ三回目なのだが。
 今日は本当は集まる予定じゃなかった。だが珍しく晴れていたし、ネットの天気予報でも降水確率は極めて低かったので、誘いには迷うことなく頷いた。そして今、見事にその低確率を引き当てたわけだ。
「梅雨の時期って、何でハズレやすいのかな」
 素直に思った疑問をぽつりと口にすると、彼女はクスリと笑った。
「暁斗くんって、着眼点すごいよね。確率のことなんか誰も考えないよ。頭がいい人はやっぱ違うなぁ」
「そ、そうかな。成績もそんなに良い方ではないんだけど……」
「本気出してないだけでしょー」
 そう言ってまた笑っている。
 冗談抜きで本当に成績は良くない。かと言って悪くもない、ものすごく平均的。
 何度か点数を上げようと思ったことがあり、テストの二週間ほど前にはしっかり勉強をしていた。これでは足りないとわかっていても、やっぱりそれより早く始めるのは難しい。なんか、気が全然乗らないのだ。そんな予想は毎度的中し、結果は伸び悩んだまま。自分から計画を立てて、その通りに実行して結果が出せる人は本当にすごいと思う。
「そうだ、今週の日曜、空いてる?」
 止まない雨を眺めていると、彼女がこちらに向き直って聞いてきた。
「……空いてると思う、けど」
「よかったー。実はね、気になるサイトを見つけて……」
 スマホを取り出した彼女は、開いたサイトをこちらに向ける。
「これ、一緒に行かない?」
 フォントや背景から手の込んだサイトであることがわかる。そしてそこには、『舞台化決定!』の文字。
 この某大ヒット映画の舞台化は、ニュースでも報道されていた。気になってはいたが、てっきり東京とかでしか公演しないと思っていたので、是非とも観たい。
「いいね、行きたい。……けどこれチケットとか必要なんじゃない? もう全部取られちゃってそうだけど……」
「そ、それがね、ちょうど二枚確保してるんだぁ。誰と行こうか迷ってて……」
 異様に早口で、目が泳いでいる彼女によって取り出されたチケットは、微風によりゆらゆらと揺れる。そんな奇跡があるのかと、どうしても疑ってしまう。もしかしたら、本来は俺じゃない誰かと行こうとしてたパターンなのかもしれない。そうなのであれば、流石に申し訳ない。
「本当は誰かと一緒に行くためのものじゃないの? そんな大切なチケットを僕がいただくなんて……」
「ち、違う違う! 別に先約がいるわけでもないし、私は暁斗くんと……」
 後半はモゴモゴとしていて聞き取れなかった。彼女は焦っているのか、喋る速さは勢いを増していた。
 一瞬断ろうかと思ったが、ここまで誘ってくれているのを断るのは却って申し訳ない。行きたかったものだしここは甘えてしまおう。
「じゃあ、遠慮なくいただきますね。本当にありがとう」
 そう言って彼女が持っていたチケットをそっと受け取り、鞄へしまう。
「あっ。雨、止んだ」
 彼女の呟きを聞いて視線をずらすと、さっきまで降っていた雨が嘘みたいになくなっていた。一向に止む気配がなかったのに……。
「また降り出しちゃうとまずいから、今日はもう帰ろうか」
 せっかく止んでくれたんだ。このタイミングを逃すわけには行かない。桑原さんが風邪なんか引いたら、今日集まったことをひどく後悔するだろうし。
「待って!」
 鞄を持って立ちあがろうとした時、彼女は急に大きな声を出していった。びっくりして振り向くと、「ご、ごめん」と言って話を続ける。
「く、詳しい予定とかも立てたいから、連絡先、交換しない……?」
 恐る恐るといった様子で彼女は言葉を零す。思えば今まで交換していなかったし、何かと不便なことが増えてしまいそうだ。
「あ、うん、いいよ」
 スマホを取り出し、お互いのメッセージアプリの登録番号を教え合う。登録が完了すると、『よろしく!』という可愛い犬のスタンプが送られてきた。
「よし……。ありがとう、暁斗くん。またちゃんと決めようね」
「うん。こちらこそ、誘ってくれてありがとう。楽しみにしてます」
 互いが感謝を伝え合い、「また明日」と言ってお互いの帰路に着く。

 家に着いてもらったチケットを鞄から取り出し、眺めながら今日のこと思い出す。
 なんだろう、この感情は。
 何かが引っ掛かっているというのか、よくわからない。
 でも間違いなく言えるのは、彼女といると本当に楽しくて、時間はあっという間に過ぎていく。
 そして、また会いたい、次はいつだろうと考える自分がいる。
 演劇を好きなのか、はたまたそれは……。いや、それはダメだろう。
 また想いに蓋をしたが、これはしなければならないと思う。そうしないときっと、後悔する。
 それからの日々、スマホの液晶を点灯させるたびに、彼女からメッセージが送られてこないかな、と妙に心がざわつくことが増えた。彼女の名前を見つけるだけで、脈は異様に加速する。
 この思いの正体もまた、蓋をした感情からなのか。それとも、ただ早く演劇が観たいだけなのだろうか。

 公演当日。今日は梅雨に似つかない快晴だ。雨ばかりが続いていたので、久々に浴びる太陽の日差しが夏のように感じる。もうあと二日で七月を迎えるので、もうほぼ夏みたいなものか。
 約束をしてから今日までの三日間、とても長く感じた。演劇を生で見るのは久しぶりだし、そもそも回数も少ない。楽しみで仕方なかった。
 桑原さんとは、あれから何度か連絡を取り合って、今向かっている互いの最寄駅集合になった。演劇の会場は、その駅から県の中心部へと向かえば徒歩ですぐに着く。一時間ほど電車で揺られるが、背に腹は変えられない。
 駅が見えてきたところでスマホが震える。駅の外の隅の方で立ち止まり、壁にもたれるようにして確認すると、桑原さんから『少し遅れます!』とだけ来ていた。急いで来て事故に遭ったりでもしたら大変なので、『ゆっくりでいいよ』とだけ返信する。すぐに既読がついたが、彼女のことだからものすごく急いで来そうだな。
 五分ほど待っていると案の定、桑原さんが走ってこちらに向かっくる。彼女は肩で息をしながら謝罪する。
「全然気にしなくていいよ。電車もあと十分ぐらいあるし」
「あなたは……優しすぎです」
 荒い呼吸を整えながらそう零す。五分やちょっとで怒る方がどうかしてると思うのだが……。それに俺はチケットを取ってもらった身だし、文句なんて言えるはずない。
 少し休憩してから改札を抜け、数分待って到着した電車に乗り空いている席に並んで腰掛ける。電車の中で気まずくなったらどうしようと思っていたが、そんな不安はすぐにかき消された。
「暁斗くん、めっちゃお洒落だね」
「それを言うなら桑原さんだって……」
 そう言うと、突然桑原さんがクスクスと笑い始めた。
「暁斗くん、もう『さん』って呼ばないでよ。『鈴』って呼び捨てでいいからさ」
 言われて気づいたが、確かにずっと「桑原さん」と呼んでいた。一輝以外の人たちはみんな苗字とさん付けで呼んでいたので、特に違和感がなかった。
「わかりました。……鈴、さん」
「癖が抜けてないよ。……慣れるまでかかりそうだね」
 呼び捨ての違和感が思いの外すごくて恥ずかしがっていると、鈴さんは車内だと言うのに声を出して笑っていた。人が少なくてよかった。ここからさらに増えていくのだろうから、そこではどうか抑えていただきたい。
 どうにかして話題を変えたいと思い考えていると、どうしても解消しておきたかったことがあったので、忘れないうちに話を切り出す。
「そういえば、チケットの費用っていくらだった? お金を返したいんだけど……」
「いや、いいよそんなの! いらないから大丈夫!」
「それは流石にできないよ。演劇の席って結構高いって聞くし」
 俺が演劇を観ることの少なかった理由の一つ。一番良い席で一万円ほど。大劇場では平均でもそれくらいだし、中規模でも六千円ほどはする。今回俺らが向かう場所はそこそこ大きいはずなので、費用はかなり高いはずなのだ。
「本当に大丈夫だから、気にしなくていいって」
「タダでもらうわけにはいかないよ。申し訳ないって」
 そんな押し問答が続く。ところどころで彼女は、「近所のおばさんにもらったものだから」とか言っていたが、嘘であることが全て顔に出ていた。
 なんとか支払いたい俺と、意地でも受け取りたくない彼女の必死の攻防は、電車が動き出して二十分くらい経つまで続いた。その結果、折れたのは俺だった。
「ほ、本当にいいの……?」
「全然いい! 私が勝手に誘っただけだもん!」
「あ、ありがとう」
 素直な感謝の気持ちと、本当にこれでいいのかという疑問と、なんか悪いことをしたなという罪悪感が混ざり合った。
 その後はくだらない雑談が続いて、退屈することはなかった。だがこの混ざり合った変な感情は、ずっと心に引っ掛かり続けた。

 電車を降りると、都心部というのも相まってかなり暑く感じる。雨が続いていたこともあってじめじめしている。
 駅から徒歩数分で着く劇場までやってくると、多くの人が入場していた。ちょうど開演十五分前なので、今さっき受付が始まったのだろう。入っていく人たちを見ていると、年齢幅は結構広いみたいで、親子で来ている人もいれば、かなりご高齢な人も来ている。そして大ヒットの舞台化なだけあって人数が多い。
「こんなに人気なのに、どうやってチケット手に入れたの?」
「急用で行けなくなった人とかが、特定のサイトで売ったりしてるんだ。リセール機能って言うんだけど……。あ、違法なやつとかじゃないからね!?」
 念を押すように否定する鈴さん。そんなことがあるのかと、俺は手にしているチケットを見て感心する。この持ち主にはしっかりと感謝せねば。もちろんそれを買ってくれた彼女にも。
 俺たちも準備を済ませ受付に向かう。中へと入っていくと、そこには目を奪われる景色が広がっていた。
 第一印象はとにかくでかい。ステージが大きいのはもちろん、ライトや装飾なんかも新鮮だった。座席は階段上になっていて、ステージ側を向くように弧を描いている。映画館とはまたちょっと、いやかなり違う作りに、俺は圧倒された。
 指定された座席へと向かい腰掛ける。座席の材質にも手を入れているのか、座り心地がとんでもなくよかった。座席を上から見た時、ここはちょうど真ん中ほどの位置で、演者の表情なんかも十分に見えるだろう。 
 座席に着いて開演を待っている合間にも、多くの人が入ってくる。多分八割以上は埋まっているのだろう。もしかしたら満席なのかも。
 新しい景色に感動している俺と対照的に、鈴さんは落ち着いた様子で言った。
「どう? 初めての劇場。とんでもない景色でしょ」
 その問いかけに俺は、声を出すことなく頷く。彼女が言う「初めて」は、きっと大規模劇場のことだろう。演劇は見たことあっても、この規模では観たことない。
 胸を躍らせながら待っていると、注意事項等の開演を告げるアナウンスがかかる。ついに、幕が上がる。

 休憩時間も設けられていたはずなのに、気づけばもう終わっていた。夢中になり過ぎてすごく短く感じたが、確かに三時間ほど経過していた。
 演劇は、冒頭から驚かされることばかりだった。登場する人物の表現がとにかくリアルで、始まってすぐに引き込まれてしまった。それに場面の操作がとても上手だった。声のトーン、表情、態度、行動……。どの場面でも、演者が雰囲気を思うがままに作り出していた。
 それ以上にも沢山あったが、キリがないのでそこは割愛。内容も勿論、本当に面白かった。
 劇場を出ると、照りつける日差しがさっきよりも強く感じた。真昼間のビル街は熱がすごくこもる。真夏はどれだけ暑いのだろうか……。
「近くにいいカフェがあるらしいんだけど、お昼だし行ってみない? 演劇を観た感想とかも聞きたい」
 素直に誘いに乗りながら、用意周到すぎることに感心していた。こんな計画性のある人になりたい。
 彼女に案内されながら歩いていくと、一角のカフェに辿り着いた。外観からすごくお洒落で、ちょっと入るのに気が引けたが、彼女は平気な様子で入っていく。こういうところに慣れているのかな。
 整えられた服装に身を包んだ店員さんに、二人がけの席に案内される。外観だけでなく内装も作り込まれていて、カウンター席もあり席数が多い。他の時間帯はもっと人が来るのだろうか。
「すごいねぇここ。初めて来たんだけど、来てよかったなぁ」
 彼女も店内の様子に驚いているようで、ぐるぐると辺りを見回していた。
「今日のために調べていてくれたの?」
「ち、違うよ! なんか、たまたまネット見てたら見つけただけ……」
 彼女は手を大きくぶんぶん振って否定する。そこまで必死に否定しなくてもいいと思うのだが……。
 タイミングよく尋ねてくださった店員さんに注文を済ませる。お互いあまりお腹が空いていなかったので、少量のケーキセットを注文した。彼女はショートケーキとダージリンティー、俺はフィナンシェとアイスコーヒー。
「暁斗くんコーヒー飲むんだ。私は苦くて好きになれないや」
「甘すぎるものがあまり得意じゃなくて。いい感じに中和してくれるんだ」
 フィナンシェはそこまで甘くないと思うで今回はあまり意味がないかもしれないが、でもやっぱりコーヒーが一番好きかもしれない。あの独特な風味になぜか惹きつけられる。……コーヒーの種類とかは全然詳しくないけれど。
「私と正反対だなぁ。すっごい甘党だもん」
 そんな会話をしていると、思ったよりも早く運ばれてきた。提供の早さに驚きながら、一緒に用意されたガムシロップをじっと見つめる。迷った結果、ちゃんと入れてコーヒーを一口飲む。
「それで、どうだった? 生の演劇は」
 彼女はショートケーキに目を輝かせながら言った。感じたことが多過ぎて言葉を選んでいると、ケーキを頬張った彼女が幸せそうな顔で「美味しい……」と呟く。本当に好きなんだなろう、アニメで見るようなふわふわとしたオーラまで放っている。
「本当にすごかった。あんな風に演技できたらって、何度も思ったよ」
 俺の答えに彼女は相槌を打つと、食べる手を止めて考えるような仕草をしていた。
「暁斗くんは、あまり真似しない方がいいと思うよ」
 まさかの回答に、当然俺は驚愕する。そのあまり飲んでいたコーヒーが咽せた。
「えっ、なんで?」
「いや、確かに取り入れた方が良いところはあるよ。呼吸の仕方もだけど、体の使い方とかさ。でもやっぱり、暁斗くんはちょっと違う。こうなんか……、個性に満ちた演技だからこその良さがあるって言ったらいいかな。つ、伝わってる!?」
 思い返して何を言っているのかわからなくなったのか、彼女は少し恥ずかしそうにしていた。でもしっかり伝わっている。
 彼女のいう「個性」は、どうやって演技に反映させればいいのだろう。やっぱりそのためにも、基礎となる部分は真似した方が良い気がする。
「鈴さん、俺の演技で足りないところって、改めてなんだと思う?」
「あー! やっと名前で呼んだ! ずーっと待ってんだから」
 触れるべきじゃないところを突かれて、「そこはいい!」と照れを誤魔化していると、クスクス笑いながらもしっかりと考えてくれているみたいだ。ショートケーキの最後の一口を楽しみ、アドバイスをくれる。……食べるの早いな。
「さっき少し出たけど、体の使い方かな。例えばだけど、淡々と冷酷に怒る場合と、怒鳴るように怒る演技は違うでしょ? その時に、まぁ声のトーンとかも大事なんだけど。怒鳴るときは、何か物を叩きつけるような動きをしてみたり、大きく息を吸ったり……。とにかく細かい部分まで体を動かすと、結構印象変わるでしょ?」
 とてもわかりやすい例と指摘に感謝しながら頷き、活かせそうな部分を探る。何個か思い当たるので、家に帰ったら確認してみよう。
「他には何かある?」
「ううん、あとは本当に細かいことだし、一気に詰め込むのも良くない。だから、とりあえずこれからの課題はそれになるかな」
「……ありがとう。頑張って取り入れてみる」
「がんばぁ! また何かあったらいつでも聞いてね!」
 彼女は胸に手を当てて、とても誇らしげに言った。
 
 店を出たのは約一時間半後のことだった。お互いの食事が終わった後も、何気ない会話が続いてつい長居してしまった。支払いを両者譲らず少し揉めて、結果しっかり俺が払った。ここまでしてもらって払わないわけにはいかない。とてもいい場所だったので、またいつか訪れたい。
 改札を抜けて、ホームに到着した電車に乗る。朝はものすごく人が乗っていたのに、今は全然人がいない。通勤時間や帰宅時間にはやっぱり多くなるのだろう。いや、今日は日曜だしあまり関係ないか。現在三時過ぎ。増えないことをただ祈る。
 来た時のように、二人自然と並んで座る。話題は尽きずに弾み続ける一方で、全く退屈しなかった。
 ビルが建ち並んでいた景色はやがてなくなり、いつもの見慣れた光景が見えてくる。その途端になんだか喪失感が湧いてくる。この時間もずっと続くわけではないのだと思い知らされたから。
「今日はありがとう。すごく楽しかったし、参考になったよ」
「な、何も感謝されるようなことは……。こちらこそありがとう、すっごく楽しかった」
 彼女の言葉を最後にお互い俯き、黙り込む。まもなくして、駅に停車するというアナウンスがかかる。動けない俺とは反対に、時間は動き続ける。
 何も話せないまま停車し、俺たちは流れるように降車して改札を抜ける。
 最初に待ち合わせた場所で、もう少しだけ一緒に居たくてぽつりぽつりと会話をしたが、どこかぎこちなさが隠しきれなかった。重苦しい雰囲気の中、彼女は少し怖がるような表情で言った。
「また、誘ってもいい、かな?」
「う、うん。また、いつか」
 そう伝えるとともに、彼女はみるみる安堵の表情に変わり、やがて笑顔になる。
「やった。じゃあ、また明日ね!」
 帰っていく彼女に手を振りながら見送る。駅に一人残されて、様々な感情が生まれる。
 どうして、こんなに楽しく感じるのだろう。
 どうして、また会いたいと思うのだろう。
 ずっと一人が好きだった。誰かと一緒に、しかも二人なんて地獄でしかなかった。なのに、どうして……。
 とても楽しかった。でもよくわからないこのもどかしさが気持ち悪い。
 次はいつになるだろう。もしかしたらもうないのかな。
 俺は煮え切らない気持ちを抱えて、帰路についた。