君と笑い合ったあの日々を、「演技」だなんて言わせない

 今日、平年より遅めの梅雨入りが発表された。
 個人的にはもっと前から梅雨入りしていたのではと思うのだが、正式には今日かららしい。
 しとしとと雨が降る中、いつも以上に辛い体を抱えた俺は、やっとの思いで教室に辿り着く。
「どしたん、暁斗」
 登校して最初に話しかてきたのは、意外なことに北上さんだった。彼女らは不思議そうな表情を浮かべている。四人が揃っていることなんて珍しいな、なんて思って時計をみると、イレギュラーだったのは俺の方みたいだった。普段より十分近く遅い。
 それに今日は一輝がいないみたい。彼が休むことはないと思うので、多分朝練だろう。もうそろそろ大会も近いって言ってたし。
 見慣れない光景に少々驚いていると、ぼーっとしていると思ったのか心配そうな顔で桑原さんが尋ねてきた。
「だ、大丈夫? 顔色悪いけど……」
「うっ……ちょっとやばいかも。天気とか気圧の変化に弱くて……」
 俺は彼女らに弱々しく答える。頑張って平然を装うつもりだったが、辛すぎて上手くいかない。
「そっかー、これから大変になりそうだな」
 北上さんが納得したように言う。
 彼女らとは、かなりカジュアルに接することができるようになった。桑原さんとの練習以来、演劇部の練習には顔を出すようにしていたのがきっかけだ。演技が極まっていくのと共に、こうして人脈も広げられたのはとても嬉しい。一週間でここまで距離を詰めれたのはほとんど北上さんのおかげっていうのは内緒。
「暁斗くん、今日も来る?」
「うん。もっと上手くいくように、お邪魔させていただきます」
 最近、なぜかよくわからないのだが、桑原さんを除く彼女ら三人は、こういう風に話していると決まってにやけている。クラスメイトが陰口を言っている時のようなものは感じられないので、特に気にしてはいないのだが、ずっと続いていると気になる。
「熱心だなぁ、暁斗は。オーディション、絶対受かるじゃん」
「ちょっと香織。あんま適当言わない」
 桑原さんがそう言ってくれて少しありがたかった。あまり期待されるのは喜ばしくない。自分でもわかるくらい演技は上手くないし、欠点が多すぎて審査員のお気に召すとは思えない。
「まぁでも、頑張ってな。演劇部の人たちは、結構楽しみにしてるから」
 そう言う北上さんをはじめに四人全員頷いていた。なんて返せばいいのかわからず困惑する俺に、手を差し伸べるかのように先生が入ってきてホームルームが始まる。
 正直あんなに期待されるとは思ってなかった。演劇部の部員なわけでもないし、経験があるわけでもない。なんなら一輝のような明るい性格ではないので、避けられる、よく思われないと思っていた。なぜかわからない期待に押し潰されそうになる。
 もし、ここで期待を裏切ることになったら、どうなるのか。失望されて、広がった人脈はまた戻ってしまうのか。失敗しても、今のように仲良くしてくれているのか。
 重かった体が、格段に重みを増した。

 演技担当の方たちは、体育館での練習に切り替わる。先週その知らせを聞いたとき、こんなに早いのかと驚いていると、「うちの部活は特殊だから」と高華さんが笑っていた。そうだよな、もっと色々話し合ってるイメージは間違ってないよな。
 体育館に着くと、もうすでに舞台上で何やら話していた。俺は部員じゃないので、毎度のことながら隅っこで見学させていただいている。
 今回の練習は劇の頭。人物の特徴の大まかな部分が明らかになる割と重要なシーン。
 俺を含めた主要キャスト六名のうち、最も登場するのは四名。俺を除いた三名の役者が舞台に立ち、他はその下で見守る。流れを確認して、思ったことを伝え合う。
 だったはずだが……
 先輩の田辺(たなべ)さんから演技が始まった。
「ダメ。一回中断。ちょっと来て」
 高橋さんから低く、冷たい声が放たれる。
 全員口を閉じていたが、明らかに困惑した雰囲気が漂い始めている。間違いなくこれは、高橋さんにスイッチが入ってしまった証拠だ。普段の彼はものすごく冷静で、それは見学をしていてすぐにわかった。そんな人が、いきなり練習内容から逸れたことをするのは、よっぽどのことがあったからだろう。そして、演劇に対する想いがかなり強い証だということを悟る。
「よし。……もう一回最初からいこう。止めてすまなかった」
 そう言って高橋さんはもといた場所へ戻り、田辺さんもまた舞台上に戻る。そして、演技が再開する。
 先ほどのセリフが一通り終わったとき、俺は高橋さんの実力に圧倒された。
 さっきと全く違う。
 具体的に何を変えたかとか、そういうものはわからない。もしかしたらわからないぐらい細かいものなのかもしれない。でも決定的に何かが違う。
 田辺さんの役はクラスの中心人物。いわゆる誰にでも好かれる様な人間。コミュニケーション能力も高く明るい性格な彼を、余すことなく表現している。
 演技って、面白い。
 周りからは気づかない、些細なことでも何かが変わる。まるで人のように。実体のなかった役に、どんな命も吹き込める。演じる人の人間性や癖なんかでも変わるし、表現の幅は無限大。そんな素晴らしいものに関わることのできる日が、本当に来るなんて……。
 その後は特に止められることなく終わった。続いて意見交流が行われる。ここで部員の方々の優しさが顕著に現れた。
 俺が想像していたのは、ズバズバと直した方が良いところを投げられ、指摘される側はものすごく辛いものだと思っていたが、全く違った。良かったところもしっかり伝えていたし、もちろん改善点も教えてくれるのだが、全然棘がない。体育館に漂う空気はとても柔らかく、楽しげだった。
 初参加のときに衝撃を与えられた桑原さんと高華さんにも、様々な助言が伝えられていた。どれだけすごい人も、やっぱり完璧ではないのだなと思い、自分も完璧じゃなくていいんだと安堵のため息をついた。そこまで気を張る必要はあまりなさそうだ。
 交流が終わると、気づかないうちに姿を現していた上田先生が口を開いた。
「非常に良いと思う。最初の練習とは思い難いくらい良いと思う。個々の人物がしっかりと表現できている。だが、せっかくの機会だし、熱心な努力家さんも、参加させてみてはどうだ?」
 熱心な努力家? 一体誰のことなんだろうと、演劇部の方々を見回していると、数人と目が合った。
 えっ……。まさか……。
「いいですね。でも良いのですか? 参加すること自体はものすごく賛成なのですが、正式な部員ではありませんし」
「全然大丈夫だ。もし何かあれば、俺がなんとかするよ」
 高橋さんと先生のそんな掛け合いが聞こえてくる。その時俺は、焦りすぎて二人を捉えれなかった。
「ありがとうございます、先生。では……、暁斗くん。やってみよう」
 高橋さんと上田先生の、期待に満ちた目。部員の皆さんから次々と上がる期待の声。心の中で絶叫し、頭が真っ白になる俺。
 やばい、どうしよう……。
 幸いなことに冒頭のセリフはしっかりと覚えているし、人物の特徴を掴むために何度も演じ方を考えていた。だが今回はそれを披露することになる。人と話すことはもちろん、前に立つことも苦手な俺が、急に演技しろと言われてできるもんじゃない。
 その場で突っ立っていても仕方ないので、階段を使い舞台へあがりながら、セリフや今までの考えをもう一度まとめる。でも上手くいかない。パニックになりすぎてしっかり考えられない。手足、もはや体までもが震え、心臓の音と呼吸が速くなるのを感じる。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう……。
「暁斗くん」
 突然右肩にポンッと手を置かれ、体の震えが収まる。驚いて振り向くと、高華さんだった。大人びた声で、俺を落ち着かせてくれる。
「大丈夫、大丈夫。君ならきっと上手くやれるから、自分を信じてみて。怖いのもすごくわかるけど、仮に何かあっても、みんな受け入れてくれる。失敗なんて、して当然なんだから」
 失敗なんて、して当然……。
 そうだ、さっきまで何を見ていたんだ。高華さんだっていろんな助言をされていたじゃないか。完璧じゃなくていい。やれることをやるんだ。
「ありがとう、ございます。かなり落ち着きました」
 胸に手を当て、心の底から感謝を伝えると、高華さんは肩から手を離し、笑顔で背中を押してくれた。
「演技の前に、深呼吸を忘れないでね」
 その一言を置いて、舞台の片側へと避けていった。
 完璧じゃなくていい、やれることをやる。大丈夫、俺ならできる。
 速い心臓の音を頭の片隅に置きながら大きく息を吸って、吐く。
 そして俺は、言葉を紡いだ。

 演技を終え、高橋さんたちのいる舞台下に一礼する。そして拍手と労いの声が上がる。
 やりきった、自分が今できることを。途中で一度だけセリフが飛んだが、すぐに立て直すことができた。だんだんと場が静まってくると、高橋さんが突然話し始める。
「非常に良い演技だったよ。正直、演劇未経験だからどうだろうと思っていたが、それを疑ってしまうほど良かった」
 あれほどにまで厳しかった彼にここまで好評だったことはすごく嬉しかった。それに自分でも上手くやれているということを知って自信に繋がった。
「だが、僕の思っていた人物とは、イメージが少し異なっていた。でも、それはそれですごく良かったよ。オーディションまで待たなかったことを後悔するくらい。新しく生まれた考えは、これからの参考にするよ」
 俺は心の中でガッツポーズをした。高橋さんの心を少しだけかもだけど掴めた。
 高橋さんをや、最後まで見守ってくれた方々にもう一度深くお辞儀した。「ありがとうございます」と声にしたつもりだったが、達成感や上手くできた感動に揉まれて声にならなかった。
 再び起こる拍手に少し照れながら舞台から降りると、部活終了のチャイムが鳴った。次回の練習もまた体育館であるということを聞いて、各々が帰宅の準備を始める。
 俺はできるだけ早いうちにと思い、高華さんのもとへ向かう。
「あの、ありがとうございました。おかげさまで、とても良い演技ができました」
「全然いいよー。それに私は何もしてないよ。あれは暁斗くんの実力。めっちゃすごくてびっくりしちゃった」
 どれだけ感謝を伝えても、「私は何もしてない」と言って聞いてくれなかった。「これからも頑張ってね」と言葉を残して帰っていった。
「がんばったな」
 たった一言、肩を叩いて去っていった。突然のことで反応できなかったが、急いで振り返り、「ありがとうございます」と背中に伝えた。先生はこちらに振り返らず、手だけを挙げてそのまま体育館を出ていった。
「お疲れ様、暁斗くん」
 体育館を出た先で、桑原さんが待っていた。
「ありがとう。練習に付き合ってくれてたのも結構効いたと思う。本当にありがとう」
 自然と並んで校門をくぐる。一緒に練習をするようになって以来、ほとんどこうして二人で帰っている。
「そんなに褒めないでよ……。照れるって」
 彼女は俯きながら言葉を零す。僅かに見える顔から、頬が紅潮しているのがわかる。
 その後も、他愛のない話をしながら、お互いの家への分岐点で別れる。演劇を始めてから、毎日が充実しているのがわかる。それもこれも全部桑原さんが演劇に誘ってくれたおかげだ。本当に感謝しないと。
 今日は多くの人に支えてもらった。そしてそれだけ期待されていることもわかった。応えられるように、最善を尽くさねば……。