翌日、だるい体を引きずりながら教室へと向かう。
 教室が見えてきたとき、ふと掲示板に貼られた昨日のポスターを見て立ち止まる。なんだかんだで掲示板をこんなにしっかりと見たのは初めてかもしれない。
 ——やっぱり、やりたい。
 でも、なかなかその勇気が出ない。周りになんて言われるか、ちゃんと上手くできるのか、何より昨日の一件が、心を支配し続けている。
 一つため息をついて教室に入る。考えても仕方ない。どうせ俺にはできないんだから。それにずっと考えてると、これから毎朝あそこを通る度に見てしまいそうで怖い。
 席(一番窓側の一番後ろ)について鞄を横にかける。ホームルームまで特にすることもないので、鞄から読み途中の小説を取り出す。中学生のときから人と関わるのが苦手な俺は、こうやって一人で過ごせるようなことを探していた。昔から小説を読むのは好きだったので、それほど苦しくない。
 詩織を挟んでいたページを開いたとき、右隣から突然声をかけられた。
「暁斗くん、今日の放課後空いてる?」
 彼女は桑原鈴(くわはら すず)。初めての席替えで隣になって以来、たまに話すようになった人物だ。
「空いてるけど……、どうして?」
「ちょっと話したいことがあってさ。正門前で待ってるから、いいかな……?」
「う、うん。分かった」
 了承すると彼女は、「ありがとう! ほんとありがと!」と言って友達の輪へと戻っていった。
 何か悪いことをしてしまったのだろうかと少し不安になる。心当たりが全くないので大丈夫だと思うが、怒られたりしないことを願っている。
 変わりそうにない天気を見ながら、ため息を漏らした。

 時間が過ぎるのがいつもより速く感じた。気づけばもうホームルームが終わり、各々が帰宅を始めている。
 昇降口で靴を履き替え外に出ると、いつの間にか雨は止んでいた。まだ雲は残っていたが、少しずつ晴れてきているようだ。
 天気の変化に気づかなかったくらいぼーっとしていたのだろうか。今日の学校での記憶がほとんどない。授業の内容なんて言うまでもない。そもそもなんの教科だったっけ……。
 何か引っ掛かるものがあったが、晴れているうちに帰ってしまいたかったので、正門へと向かう。
「暁斗くん!」
 正門を抜けるとき、聞き覚えのある声が、俺の名前を呼んだ。
 驚き振り向くと、走ってきて肩で息をする桑原さんの姿があった。そして同時に、自分が最悪なことをしたのだと気づく。朝のやりとりが、ぼやけたものから確かなものに変わっていく。
 彼女は顔を上げると、少し怒った顔をして言った。
「忘れてたでしょ。そのまま帰ろうとするからびっくりしたよ」
「本当にごめんなさい。……完全に忘れてました」
 俺が百悪いので、即座に謝罪する。少しの間頬を膨らませていた彼女は、すぐににっこり笑ってくれた。
「立って話すのもあれだから、場所を変えたくて……。ついてきてくれない?」
「う、うん」
 話の内容がなかなか明かされないので、不安が増大していく。場所を変えなければ話せないことって相当やばいことをしたんじゃないだろうな……。でもいくら探っても見つからない……。
 案内する彼女の斜め後ろを歩きながら、ちゃんと話したことはなかったなと考える。首がぎりぎり隠れるくらいのミディアムボブの明るい茶髪が、太陽の光を反射し輝いている。朝のことを思い出すと、目鼻立ちも整っていたし、可愛いと言われている理由もわかる気がする。元気すぎず、明るく親しみやすい彼女は、男女隔たりなく仲良くでき、こんな自分といるのはあまり想像がつかない。
「あ、別に何か怒ってる訳じゃないよ! ただちょっと、学校では話しにくいだけで……」
 俺の不安な気持ちを察したのか、隣にきて伝えてくれた。なんで分かったのだろうと少し怖かったが、肩の力を抜かしてくれたのはとてもありがたかった。
「ほんと? ずっと不安だったんだ」
「暁斗くん、顔に全部出てたよ。なんかガッチガチに緊張してるみたいだったし」
「え、そんなに……?」
「そうだよー。なんか私が無理やり暁斗くんを連れ回してるみたいだったんだから」
「……それは、ごめん。でも今は少し楽になったよ。ありがとう」
 素直にそう伝えると、彼女は微笑んでいた。
 そんな会話をしていると、木々に囲まれた少し大きめの公園が見えてきた。どうやら目的地はそこのようで、横断歩道を渡って公園へと向かっていく。
 遠くから見たときよりもずっと大きい木が、緑の葉を揺らしていた。三段ほどの木でできた階段を登って入り奥へと進むと、外から見たときには想像できないほどの広さだった。入り口は複数あるみたいで、俺たちが入った場所の向こう側には多くの遊具があり、そこでは幼稚園生らしき子どもたちが遊んでいた。こちら側は、どちらかと言えばリラックススペースのような場所で、木々の下にベンチが数箇所あったり、少し歩けば屋根付きのテーブルと椅子も設けられている。ベンチやテーブルなどは木でできているため、公園の雰囲気ととても合っている。こんな場所があるなんて知らなかった。
 広大な公園に見惚れている俺を見て、彼女は優しい声で言った。
「すごいよね、この公園。私は別世界みたいに感じて、お気に入りの場所なんだ」
 別世界。その言葉はなぜかとてもしっくりきた。俺もそう感じたのかもしれない。自然溢れるこの場所は、季節によってきっといろいろな景色を見せてくれるのだろう。
 雨上がりでベンチは使えそうになかったので、屋根付きの場所に移動し向かい合って座る。
「それで、話したいことなんだけど……」
 その一言で、俺は背筋を伸ばす。何を言われるのだろうか。緊張で少し手が震えていた。
「演劇、やってみない?」
 彼女はやや時間を置いて、遠慮がちに言葉を絞り出した。
 昨日の出来事が一瞬にして蘇るのと同時に、心臓の音が大きく、速くなる。
「ど、どうして?」
 声が震えてしまい、動揺を隠し切ることができなかった。 
 すると彼女は、「実は……」といって申し訳なさそうに話し始めた。
「昨日と今日、暁斗くんが掲示板のポスターを食い入るように見てたから……。私は演劇部だから、何かできないかなって……」
 いろいろとびっくりだが、まさか見られていたなんて……。それに、彼女が演劇部だったことも知らなかった。
「でも、なんで僕なの? 他にも沢山見てる人はいたじゃないか」
「……あの時、佐野くんと一緒に見てたでしょ? たまたま近くにいたら、会話が聞こえちゃって……。暁斗くんはやるわけないって否定してたけど、……なんていうんだろう、悲しそうな顔をしてたから」
 ゆっくりそう答えると、「勝手に聞いちゃってごめん」と付け足した。俺はどう答えていいかわからず、黙り込んでしまった。だが彼女は、回答を急かすこともせずただ静かに待っていてくれる。その間にバクバクと音を立てていた心臓を落ち着かせることができた。
「僕には、できないよ。容姿もいいわけじゃないし、それに演技だって、できるはずない」
 そう答えるのが精一杯だった。せっかく誘ってくれたのにも関わらず、こんなにあっさり断ることに申し訳ない気持ちで心が埋め尽くされる。
「怖いのは、すごくわかる」
 少し間を空けて、唐突に彼女はそう言った。
「暁斗くんは誰かといるとき、いつも何かを演じてるように見える。でもそれは、優しいからだと思うんだ。きっと、周りとは比べものにならないくらい豊かな心を持つ証拠だと思う。だって私にはできないもん」
 静かに、にっこり笑って教えてくれた。隠しているつもりだったのに、作り笑いのこともバレていたなんて。
 今まで、このことは知られたら嫌われると思っていた。でも彼女は、そんな俺を認めてくれた。安心して、嬉しくて、少しずつ視界がぼやけていく。ダメだ、我慢しないと。
「だから私は、あなたと演劇をやりたい。周りに知られたくなかったら、説明会も出なくていい。私が全力でサポートする」
 信じられない。信じられるわけない。
 でも……、やりたい。
 だから俺は、考える間もなく聞いてしまった。
「そ、そんなの、いいの……?」
「大丈夫、ちゃんと許可はもらった。適当な理由つけて出席できなかったっていえば大丈夫だよ」
 そこまでしてくれていることを知って、決意は固まった。
「やってみるよ。全力で頑張る」
 込み上げる涙を堪え、不器用ながらに笑って見せる。彼女は、「そう言ってくれて良かった」と言って微笑んだ。
 突然の出来事に乱れた心を落ち着かせていると、少しずつ雲行きが怪しくなっていることに気づいた。そろそろ帰ったほうがいいかもしれないと言いかけたところで、ふと尋ねてみた。
「不思議に思ったんだけど、どうしてここまでしてくれるの?」
 すると彼女は、少し慌てた様子で、言葉を選ぶようにして言った。
「暁斗くんは、特別だから……」