アジサイが花を咲かせ、滴が煌めいている。先程までは虹が見えているところもあった。
俺——鷹波暁斗は学校の正門前で傘を閉じ、空を眺める。さっきまで街中を覆っていた、分厚く灰色の雲の隙間から太陽が顔を出し、所々で青空が見える。暖かい日差しが、体を包み込む。雨は止んで虹も見ることができた。今日は何か良いことがあるかもしれないという期待とともに、だるく重かった体が少し楽になったように感じた。
「あきとー! おはよっ」
声の方へ振り向くと、走ってくる佐野一輝の姿があった。
彼とは中学一年生の時に出会い、高校一年生の現在までクラスが一緒。一人だった俺を助けてくれた存在。人の前に立つのが得意で、誰とでも仲良くできる、俺とはかなり反対の人間だ。高校生になってからも、クラスの中心的人物になっている。
彼が俺に追いつくと、自然に二人並んで校舎へと向かう。
「朝から元気だね。一輝は僕と対照的だ」
「あーそっか。暁斗は天気崩れると体調悪くなるんだっけ」
体の性質関係なく、朝からこんな元気な人間もそんないないと思うが……。
「うん。この時期は毎日辛い」
“辛い”とは言ったものの、雨は割と好きな方だ。過去に何度も体調を崩したし、通行する自転車や車に水をかけられたりもした。でもそれ以上に、この光景や空気感が好きなのだ。
「てか昨日さ……」
一輝は表情を変えてそう切り出す。少し軽やかだった足取りが、一気に重くなる。
彼は堂々としていて、人との交流が得意な反面、衝突が度々起こる。思っていることを素直に伝えられるという能力が、却って悪さをしているのだろう。
「……ってことがあってさ。あいつまじでうざくね?」
沢山話して、同意を求めてくる。最近はこういうやりとりが多くなった気がする。
「そ、そうだね……」
会話のほとんどを聞き流して、適当に相槌を打つ。陰口なんか嫌いで、同意なんてしたくない。なのに、否定することも止めることもせず、同調する自分が本当に嫌いだ。
彼は舌打ちをして、吐き捨てるように言った。
「あいつ、だから嫌われんだよ」
なぜかその言葉は、心を深く突き刺した。まるで俺に言っているみたいだったからだ。
自分だって自覚している。周りに合わせてばかりで、何があっても無理やり笑って、汚く卑怯な自分が嫌われる対象であることを。でもこうすることしかできないんだ。ありのままの自分では、みんなが離れていってしまう。誰一人として味方がいないというのはとても耐えられない。だからこそ、自分じゃない誰かを演じ続けなければならない。
教室に入り外を見ると、灰色の雲は再び街を覆い、雨を降らせていた。
四時間目の化学が終わり、昼休みに入った。教室では仲の良い人同士で机をくっつけ合い弁当を広げている。
「暁斗、昼飯食おうぜ」
普段は集団で行動している一輝が珍しく一人で誘いに来た。俺は化学の教材を鞄にしまい、弁当を取り出しながら頷く。
「一輝、珍しいね。いつもの人たちは?」
「部活のことで先生から話があるんだってさ。あいつらサッカー上手だからなぁ、レギュラーなんだろうな」
羨ましそうに一輝は言うが、彼だってバスケ部で一年生ながらにレギュラーだ。それもめちゃくちゃ上手い。新学期最初の練習試合では、部員の中で最も点を獲得したらしい。彼の性格上、先輩から何かされないかだけ不安だ。本当に。
「暁斗もすごいよなぁ。弁当毎日作ってるんでしょ? 地味だけど本当に凄いと思う」
「親に負担をかけすぎるのは申し訳ないからね。地味だけど、意外と楽しいよ?」
地味ではないと思うが、否定はしないでおく。……そういうとこだぞ、俺。
父は単身赴任中で、母も今は仕事が忙しい。入学当初は、母と日替わりで作っていたが、忙しなく動く母を見て少しでも休んでほしかった。朝早くから起きるのは苦だが、これは仕方のないこと。
「いや無理無理。早起きとかできないって」
彼は手を振りながら言う。朝あれだけ元気ならできそうだけどな……。
昼食を食べ終え次の授業の準備をしていると、廊下が騒がしくなっていた。そのことに気づくのと同時に、友達同士で掲示板に向かうクラスメイトがいた。
「暁斗、俺らも行ってみようぜ」
「うん、いいよ。なんだろうね」
一輝に誘われ、人の波に乗って教室を出て、掲示板を見に行く。
「すごいな、一体何があったんだ?」
他クラス共有の掲示板でもあるため人が多く、後ろからではなかなか見えない。一輝についていくようにして人混みを縫っていく。やっとのことで、話題になっているであろうポスターを見つける。
とても綺麗に、見やすくまとめられているそれは、演劇部からのものだった。秋の文化祭で行う演劇の主役を募集するらしい。説明会の日時が記載されていて、そこで詳しい内容を知らされるらしい。
こんなに話題になる理由は、おそらく二つだ。一つは、この高校の演劇部は夏の全国大会の常連で、三年連続で優勝している。これだけの実績を持つならば、素人である一般生徒よりも、演劇部で行う方がいい。
もう一つは、演劇部に所属する二年生の高華麗の存在である。容姿端麗、文武両道。学校一の美少女、らしい。男女問わず人気な彼女と親密になるにはとてもいい機会なのだろう。一輝も彼女に気があると聞いたことがあるが……。参加するのかな。
「暁斗、演劇やるの? めっちゃ見惚れてるけど」
「まさか、僕には無理だよ。人前にすら立てないから」
間髪を入れずに苦笑いしながら答えると、一輝は少し笑いながら言った。
「だよな! 暁斗、なんか似合わないし。あ、俺、先に教室戻ってるわ」
何かを思い出したような彼は人混みを抜け、どんどんと遠ざかって行った。
残された俺は、音が消えてしまったような感覚に陥った。彼の放った一言が、何度も脳内で再生される。
どうして、やってみたいって言えなかったんだろう。
どうして、あんな風に心を刺してくるのだろう。
俺の心が貧弱なだけなのだろうか。
弱い自分に憤りを覚え、傷ついた心を抱き抱えながら、ポスターを片隅に捉えて、その場に立ち尽くした。
帰宅後、制服からスポーツウェアに着替えた俺は、そのままベッドに倒れ込んだ。スマホを点灯させると、十七時と表示されていた。早く夕食を作らなければ。
母は帰りが遅いので、いつも俺が夕食を作る。普段なら学校から帰ってすぐに作るが、今日はできそうにない。なんならこのまま眠ってしまいたい。現実から離れてしまいたい。
天井を見つめながら、一輝を思い出す。彼に言われたあの言葉が、刺さったまま抜けない。幼い頃から俳優や声優に憧れていた俺は、演劇にものすごく興味があった。あのポスターが綺麗に見えたのは、自分がそれだけ惹かれていた証拠なのかもしれない。こんな機会二度とないだろうと思って、真剣に考えていた。
改めてあの惨状を思い出すと、弱い自分に再び憤りを覚えた。いつになったら俺は変われるのだろう。いつになったら自分を好きになれるのだろう。生涯このままなのだろうか。考えれば考えるほど苦しく、泣きたくなった。感情がぐちゃぐちゃに混ざり合い、呼吸が浅く、速くなる。気づけば心臓がバクバクと音を立てていた。
流石に夕飯を作らなければと思い、立ち上がって深呼吸をする。
台所に向かうと、仕事から帰宅して料理を作る母がいた。仕事が早く終わったみたいだ。俺が作ると言ったが、母はいつも作ってもらってるから申し訳ないと言って台所にすら立たせてくれなかった。俺は仕方なく椅子に腰掛けて、母の料理の完成を待つ。トントンとリズムよく包丁を使う手慣れた音や、何かを焼いている音が響く。やがて美味しそうな匂いが家中に立ち込める。
数週間ぶりに、母の料理を食べた。暖かくて、胸が締め付けられるみたいだった。
涙を我慢して食べていたからか、後半から味がわからなかった。
俺——鷹波暁斗は学校の正門前で傘を閉じ、空を眺める。さっきまで街中を覆っていた、分厚く灰色の雲の隙間から太陽が顔を出し、所々で青空が見える。暖かい日差しが、体を包み込む。雨は止んで虹も見ることができた。今日は何か良いことがあるかもしれないという期待とともに、だるく重かった体が少し楽になったように感じた。
「あきとー! おはよっ」
声の方へ振り向くと、走ってくる佐野一輝の姿があった。
彼とは中学一年生の時に出会い、高校一年生の現在までクラスが一緒。一人だった俺を助けてくれた存在。人の前に立つのが得意で、誰とでも仲良くできる、俺とはかなり反対の人間だ。高校生になってからも、クラスの中心的人物になっている。
彼が俺に追いつくと、自然に二人並んで校舎へと向かう。
「朝から元気だね。一輝は僕と対照的だ」
「あーそっか。暁斗は天気崩れると体調悪くなるんだっけ」
体の性質関係なく、朝からこんな元気な人間もそんないないと思うが……。
「うん。この時期は毎日辛い」
“辛い”とは言ったものの、雨は割と好きな方だ。過去に何度も体調を崩したし、通行する自転車や車に水をかけられたりもした。でもそれ以上に、この光景や空気感が好きなのだ。
「てか昨日さ……」
一輝は表情を変えてそう切り出す。少し軽やかだった足取りが、一気に重くなる。
彼は堂々としていて、人との交流が得意な反面、衝突が度々起こる。思っていることを素直に伝えられるという能力が、却って悪さをしているのだろう。
「……ってことがあってさ。あいつまじでうざくね?」
沢山話して、同意を求めてくる。最近はこういうやりとりが多くなった気がする。
「そ、そうだね……」
会話のほとんどを聞き流して、適当に相槌を打つ。陰口なんか嫌いで、同意なんてしたくない。なのに、否定することも止めることもせず、同調する自分が本当に嫌いだ。
彼は舌打ちをして、吐き捨てるように言った。
「あいつ、だから嫌われんだよ」
なぜかその言葉は、心を深く突き刺した。まるで俺に言っているみたいだったからだ。
自分だって自覚している。周りに合わせてばかりで、何があっても無理やり笑って、汚く卑怯な自分が嫌われる対象であることを。でもこうすることしかできないんだ。ありのままの自分では、みんなが離れていってしまう。誰一人として味方がいないというのはとても耐えられない。だからこそ、自分じゃない誰かを演じ続けなければならない。
教室に入り外を見ると、灰色の雲は再び街を覆い、雨を降らせていた。
四時間目の化学が終わり、昼休みに入った。教室では仲の良い人同士で机をくっつけ合い弁当を広げている。
「暁斗、昼飯食おうぜ」
普段は集団で行動している一輝が珍しく一人で誘いに来た。俺は化学の教材を鞄にしまい、弁当を取り出しながら頷く。
「一輝、珍しいね。いつもの人たちは?」
「部活のことで先生から話があるんだってさ。あいつらサッカー上手だからなぁ、レギュラーなんだろうな」
羨ましそうに一輝は言うが、彼だってバスケ部で一年生ながらにレギュラーだ。それもめちゃくちゃ上手い。新学期最初の練習試合では、部員の中で最も点を獲得したらしい。彼の性格上、先輩から何かされないかだけ不安だ。本当に。
「暁斗もすごいよなぁ。弁当毎日作ってるんでしょ? 地味だけど本当に凄いと思う」
「親に負担をかけすぎるのは申し訳ないからね。地味だけど、意外と楽しいよ?」
地味ではないと思うが、否定はしないでおく。……そういうとこだぞ、俺。
父は単身赴任中で、母も今は仕事が忙しい。入学当初は、母と日替わりで作っていたが、忙しなく動く母を見て少しでも休んでほしかった。朝早くから起きるのは苦だが、これは仕方のないこと。
「いや無理無理。早起きとかできないって」
彼は手を振りながら言う。朝あれだけ元気ならできそうだけどな……。
昼食を食べ終え次の授業の準備をしていると、廊下が騒がしくなっていた。そのことに気づくのと同時に、友達同士で掲示板に向かうクラスメイトがいた。
「暁斗、俺らも行ってみようぜ」
「うん、いいよ。なんだろうね」
一輝に誘われ、人の波に乗って教室を出て、掲示板を見に行く。
「すごいな、一体何があったんだ?」
他クラス共有の掲示板でもあるため人が多く、後ろからではなかなか見えない。一輝についていくようにして人混みを縫っていく。やっとのことで、話題になっているであろうポスターを見つける。
とても綺麗に、見やすくまとめられているそれは、演劇部からのものだった。秋の文化祭で行う演劇の主役を募集するらしい。説明会の日時が記載されていて、そこで詳しい内容を知らされるらしい。
こんなに話題になる理由は、おそらく二つだ。一つは、この高校の演劇部は夏の全国大会の常連で、三年連続で優勝している。これだけの実績を持つならば、素人である一般生徒よりも、演劇部で行う方がいい。
もう一つは、演劇部に所属する二年生の高華麗の存在である。容姿端麗、文武両道。学校一の美少女、らしい。男女問わず人気な彼女と親密になるにはとてもいい機会なのだろう。一輝も彼女に気があると聞いたことがあるが……。参加するのかな。
「暁斗、演劇やるの? めっちゃ見惚れてるけど」
「まさか、僕には無理だよ。人前にすら立てないから」
間髪を入れずに苦笑いしながら答えると、一輝は少し笑いながら言った。
「だよな! 暁斗、なんか似合わないし。あ、俺、先に教室戻ってるわ」
何かを思い出したような彼は人混みを抜け、どんどんと遠ざかって行った。
残された俺は、音が消えてしまったような感覚に陥った。彼の放った一言が、何度も脳内で再生される。
どうして、やってみたいって言えなかったんだろう。
どうして、あんな風に心を刺してくるのだろう。
俺の心が貧弱なだけなのだろうか。
弱い自分に憤りを覚え、傷ついた心を抱き抱えながら、ポスターを片隅に捉えて、その場に立ち尽くした。
帰宅後、制服からスポーツウェアに着替えた俺は、そのままベッドに倒れ込んだ。スマホを点灯させると、十七時と表示されていた。早く夕食を作らなければ。
母は帰りが遅いので、いつも俺が夕食を作る。普段なら学校から帰ってすぐに作るが、今日はできそうにない。なんならこのまま眠ってしまいたい。現実から離れてしまいたい。
天井を見つめながら、一輝を思い出す。彼に言われたあの言葉が、刺さったまま抜けない。幼い頃から俳優や声優に憧れていた俺は、演劇にものすごく興味があった。あのポスターが綺麗に見えたのは、自分がそれだけ惹かれていた証拠なのかもしれない。こんな機会二度とないだろうと思って、真剣に考えていた。
改めてあの惨状を思い出すと、弱い自分に再び憤りを覚えた。いつになったら俺は変われるのだろう。いつになったら自分を好きになれるのだろう。生涯このままなのだろうか。考えれば考えるほど苦しく、泣きたくなった。感情がぐちゃぐちゃに混ざり合い、呼吸が浅く、速くなる。気づけば心臓がバクバクと音を立てていた。
流石に夕飯を作らなければと思い、立ち上がって深呼吸をする。
台所に向かうと、仕事から帰宅して料理を作る母がいた。仕事が早く終わったみたいだ。俺が作ると言ったが、母はいつも作ってもらってるから申し訳ないと言って台所にすら立たせてくれなかった。俺は仕方なく椅子に腰掛けて、母の料理の完成を待つ。トントンとリズムよく包丁を使う手慣れた音や、何かを焼いている音が響く。やがて美味しそうな匂いが家中に立ち込める。
数週間ぶりに、母の料理を食べた。暖かくて、胸が締め付けられるみたいだった。
涙を我慢して食べていたからか、後半から味がわからなかった。


