君と笑い合ったあの日々を、「演技」だなんて言わせない

 長いようであっという間な夏休みは、今日で終わりを迎える。明日から学校が始まり、一日を演劇に費やすことも難しくなる。
 一ヶ月ほどの夏休みを振り返ると、なかなか良いものとは言い難い気もする。課題が終わっていないとかそういうことではないのだが、ほとんどを家で過ごしたことが心残りだった。部活が沢山あるのは嬉しかったが、やっぱりどこか旅行とかにも行きたかったな。両親の仕事が忙しいから到底無理なんだけど。
 今日の練習が終わり、声量のバランスや感情表現がなかなか上手くできたんじゃないかと自画自賛する。上機嫌で帰宅の準備をしていると、どこからともなく現れた高華さんに声をかけられる。
「今日の演技も最高だったね。ほんと、初心者とは思えないや」
「そ、そこまでは……」
「いや、本当にすごいよ。先輩なのに負けちゃった気分だよ。沢山学ばされるし」
 曇りのない目をする彼女から、嘘ではないことがしっかりと伝わってくる。しかしどこか悲しそうな、苦しそうな表情を時々浮かべる。
 踏み入らないほうがいいかとも思ったが、恐る恐る尋ねる。
「何か、あったんですか?」
 すると彼女は目を丸し、「演技が上手いと見破ることもできるのか」と冗談混じりに呟く。少し俯いた彼女は、今度は俺にしっかりと向き直って口を開く。
「オーディションで君を久しぶりに見たとき、私は正直もう演劇を辞退したかった。君があまりにも上にいて、手が届きそうになかったから。正直なことを言えば、君には落ちてほしかった。でも、それは無理だろうなって思ってたよ。だって、文句のつけどころがないんだもん。あなたの演技が、不完全だったから」
 不完全なら、だめなのではないか。そう聞こうとしたが、隙なく続きを話す。
「完璧じゃなかった。触れるだけで壊れてしまいそうな、何かが欠けたら成り立たない、あまりにも繊細すぎる演技だった。そんなの私は知らなかったし、最初は信じられなかった。でもなぜか惹き込まれて、いつの間にか白旗を上げてた」
 何か悪いことをしたような気がして、気分が沈んでいく。謝るべきだろうかという迷いを、彼女の言葉が断ち切る。
「君のおかげで私は変われたよ。今回の演劇は、私の最後の年でもある。君からもらった『新しい形』の演技を、存分に生かさせていただくね」
 にっこり微笑んだ彼女は、今日最も真剣な表情で言葉を紡いだ。
「ここに来てくれて、私と出会ってくれて、本当にありがとう」
 俺は無言でお辞儀をする。なんだかとても不思議な心境で、なんと言ったらいいのかもわからない。高華さんは、「また次の部活でね」と明るく笑って帰っていった。
 初めて演劇部の見学に行ったとき、高華さんに声をかけられたのを思い出す。容姿端麗だとかなんとか言われているけど、俺が真っ先に浮かんだのは、「大人」だった。
 言葉の端々から、その姿からそれを感じた。一期一会の精神を今知って、よりそのイメージは固いものになった。だから高華さんは、完璧、憧れそのものだった。演劇では言葉の使い方も、呼吸の仕方も、真似しなきゃいけない部分が何個もあった。そんな彼女は、「君に変えられた」と言った。それが本当かどうかはわからないし、にわかに信じがたいことだが、憧れだった人に少なからず認めてもらえたということは素直に嬉しかった。
 そして何より、彼女が演劇にかける思いの強さには、ひどく心を打たれた。自分が誰かに劣っていると思っていながらも、それをバネにして伸びるほど、最高の演劇にしたいという想いの強さが表れている。それは一つの想いでできた単純なものではなく、苦しみや嫉妬、葛藤などの複雑な想いを含んでいる。そんな辛く苦しいことは、きっと誰もができることではない。
 他の役者たちも、似たような想いを持っているのかもしれない。そんな想いをしてでも完成させたいという執念があるのかもしれない。
 関係者の数だけ複雑に感情が混ざり合ったこの演劇を、なんとしても成功させたい。そう強く思う、夏休み最終日だった。