連日のテストも終わり、とうとう夏休みに入った。それと同時期に梅雨明けが発表され、その日を境に猛暑日となるところが急増した。八月となった今日も各地で猛暑日となっていて、あまりの暑さに俺は項垂れていた。蒸し暑かった梅雨とは違い、夏本番は外にいるだけで汗が滲んでくる。ぎらぎらと照りつける日差しが、肌をどんどん焼いていく。これが嫌で俺は夏が好きじゃない。
 演劇部の練習へ出席するために体育館へ向かっていたのだが、思った以上に時間があったので自分の教室を覗きに行く。
 今は学校中が文化祭の準備に取り組んでいる。開催される九月中旬まで残りあと一ヶ月ほど。夏休み前に決めた各出し物の準備を、夏休みの合間を使って行っている。もちろん強制ではないし、全く準備をしないなんてことも全然ありだ。クラスによってはなかなか士気が上がらなかったり、焦りが生まれる時期でもあるのだろうが、俺のクラスはそんなことはなかった。実行委員と北上さんを中心にうまくまとめられているのだろう。
「あれ、暁斗じゃん! どうしてここに?」
 俺を見つけた文化祭の実行委員を担うクラスメイトの木村(きむら)がそう声をかけてくると、他の人からも視線が集まる。木村とは「演劇を観るのが好き」という共通点で、終業式間際に仲良くなった人物。俺が演技をするのを心の底から待ち侘びてくれている人物の一人だ。
「時間に余裕があるから、何か手伝えないかなって」
「その時間は演劇に使いな。そのために暁斗には仕事を渡してないんだから」
 オーディションに合格したことが知られると、文化祭はそっちに集中した方がいいと言って強引に仕事を外されてしまった。そこまで気を遣わせるのは少し胸が痛かったし、周りからどんな目で見られるか不安だったのだが、「最高の演技を見せてくれれば良い」と多くの賛同者がいたので、素直に従わせてもらった。「あいつは仕事がなくて幸せだな」なんて嫌味も言われるが、味方してくれている人たちに励まされながら、なんとか頑張っている。
 今日もまた何も手伝えなかったが、体育館へ向かいながら台本を取り出して、気分を切り替える。沢山ある時間を使って今日の練習範囲を確認するために、近くにあった階段の二段目に腰を下ろす。ここはなかなか人も通らないので集中できるだろう。セリフを追いながら、頭から漏れていないか確認する。そして同ページに貼った付箋から、演技の仕方もおさらいする。
「なーに泣いてんの、台本と睨めっこして。それもこんな場所で」
 突然降ってきた言葉に目を見開き、顔を上げる。そこには久々に見る鈴さんの姿があった。最後に会って一週間しか経っていないのに、なぜかとても久しぶりに感じ、会えたことがとても嬉しく感じる。そしてどれくらい時間が経ったのだろうかと考えていると、自分が泣いていることに遅れて気づく。見られてしまった恥ずかしさが湧き上がって視線を逸らす。
「ご、ごめん。色々あって」
 自分でもなんで泣いてるのかわからないので、適当に濁す。すると彼女はただ一言、「そっか」と零して俺の隣に座る。
 どちらも口を開かないこの沈黙が少し気まずい。ふと鈴さんの方を見ると、どこか悲しそうな顔をしていて、何かあったのかなと不安が顔を覗かせる。
 突然顔を上げて、遠くを見るような目で彼女は言う。
「暁斗くんは、何も変わってないよ」
「……ど、どういうこと?」
 脈略なくそんなことを言うので、動揺のあまり言葉がすんなり出ない。混乱して言葉の真意がわからず焦りあたふたする俺に彼女は、「落ち着いて」と吹き出す。
(けな)してるわけじゃなくて、……暁斗くんの本質的な部分は何も変わってないってこと。優しいところも、あなた本来の演技も」
 彼女の言われて、引っかかり続けていたものの正体がわかる。きっと俺は、演劇を通して本来の自分を見失うことが怖かったのだ。確かに演技ばかりする最低な自分は嫌いだし、早く変わってしまいたいと願う日々がずっと続いていた。変われない自分に絶望し、消えてしまいたいときも、涙が止まらないときもあった。だがもし俺が変わってしまったら、そんな自分に声をかけてくれた、そんな自分と仲良くしてくれた人たちの知る俺は、自然と消えていく。それが怖かった。変わってしまった俺はそんなに好きじゃないなんて言われたら、あまりにも苦しすぎる。「変わる」ということは、過去の自分を完全に捨てることになる。その勇気が、俺にはない。
 ここまで結びつけてくれたのは、過去の俺だから。
「変わらないっていう選択も、一つの正解だと思うよ。私が出会ったのは、今の君じゃないし」
 彼女は心を覗くかのように優しく語りかけてくる。その優しさが、抱いた恐怖心を軽くしてくれる。それに対して俺は、すぐに浮かんだ疑問を口にする。
「どうして君は、今の僕と仲良くしてくれるの? 過去の僕は、少しずついなくなってきているのに」
 彼女は途端に視線を逸らし、頬を赤らめる。そして聞こえるかどうか曖昧な声で呟く。
「君が、好きだからに決まってるじゃん……」
 少し聞き取りづらいのに、普通なら聞こえないはずなのに、なぜかすんなり脳に入ってくる。処理に時間がかかって、認識した頃には俺も視線を逸らしてしまう。
 急な告白に気付いたのか、彼女は慌てて手をブンブン振って否定する。
「ち、違うからね! 今のは、……嘘! 忘れて! 忘れてっ!」
 まるでりんごのような顔の彼女は、バレバレな嘘を並べる。ここまできて撤回できるわけないだろ……。
 心臓の鼓動が速くなり、声が出せない。すでに十分暑いのに、体温はさらに上昇する。
「も、もうっ! 全部暁斗くんのせいっ! 早く体育館行こ!」
 顔を真っ赤にして膨らませ怒る彼女が、先陣を切って体育館へ駆けていく。そんな姿が本当に可愛くて、つい吹き出してしまう。なんか悩んでいたのが馬鹿みたいになる。
 ずっと蓋をしていた、厄介なあの感情。少し開けてみるのも良いかもしれない。
 部活の練習は、俺も鈴さんも全然上手くいかなかった。噛んでしまったり、セリフが飛んだり……。たまたま目があったとき、思わず二人で笑ってしまった。