君と笑い合ったあの日々を、「演技」だなんて言わせない

 教室に戻ると、北上さんたちが笑顔で迎えてくれた。どうやらもう結果は知っているようだ。
「やったな、暁斗。お疲れ様」
「うん。いろいろありがとう」
 緊張ばかりしていた俺を、「なんとかなる」と言って励ましてくれた彼女らにはとても感謝している。本番では普段よりも楽に、自信を持って演技ができた。
「これからもっと大変になるけど、無理はするなよ」
「うん。適度に頑張る」
 オーディションを終えた労いと、これからの練習の緊張感を、ちょうど良い塩梅で伝えてくれる。そのおかげで怠けることも、緊張しすぎることもなくなってくる。
「てかなんで鈴が泣き腫らしてんだよ! めっちゃ赤いぞ!?」
「うっ……、だってー……」
 当然ながら、北上さんも鈴さんの様子に戸惑っている。思い出してまた泣き出しそうになっている彼女を見ながら、知らないところでいろんな人が応援してくれていたことに気付かされる。オーディションを諦めなくて良かったと改めて強く思う。
 そんな風に和気藹々と話していると、突然体に衝撃が加わり、左に倒される。気づけば床はすぐそこにあり、左半身に遅れて痛みがやってくる。何が起こったのかわからずにいる俺に元に、罵るような声が届く。
「なんでお前なんだよ! どんな手を使って受かったんだよ!? ふざけんなよ!」
 声の主は一輝。思いつく言葉を、声を荒げて俺にぶつけ続ける。茹蛸(ゆでだこ)のように顔を赤くして、今まで見たことのない表情をする彼は、まるで別人のようだった。
 今度は俺に蹴りを入れようとするが、それに気づいた北上さんが慌てて静止にかかる。俺はその機会を無駄にしないように、左半身に残る痛みに耐えながら起き上がる。不意打ちだったため、受け身が取れずに大きなダメージを負っているようだ。立ち上がると余計に痛みが増していく。
 一輝は北上さんの静止を振り切ると、俺との距離を詰めて問いただす。
「おい、答えろよ! どうやって受かったんだよ! お前みたいなやつが!」
 彼はオーディションに落ちた挙句、合格者が俺だったことにより一層腹を立てているのだろう。今にもまた暴力を振るいそうな体は、怒りによって僅かに震えている。
 でもなぜか、恐怖という感情は湧いてこなかった。なんならかなり落ち着いていた。俺は一輝に、もう今までの暁斗はいないと伝えたかったのかもしれない。平常心のまま、冷静に彼の問いに答える。
「努力をしたから、かな。一輝は嘲笑(わら)っていたけど、台本は何度も読んで沢山メモを残したし、オーディションに直結しない部分だって練習した。実際に演劇を観に行ったこともあったし、第三者に観てもらってアドバイスをもらった。こんな僕だからこそ、できる限りの努力をした。その結果だよ」
 理解できないといった顔をする一輝に、俺は殴られる覚悟だった。今まで明らかに立場が下だった人にこんなことを言われれば、一輝の怒りはますます収まらなくなる。それでも俺は伝えたくて、自覚したかった。自分がもう今までとは違うということを。演劇を通して少しでも変わったということを。
 顔を歪ませた彼は、再び怒号を響かせる。
「俺が……、どうしてお前なんかに……。クソがっ!」
 同時に一輝は近くにあった机を蹴飛ばし、大きな音と共に倒してしまう。俺と一輝の二人に集まった視線の中に、面白がっているものはもうない。一輝のあまりの変貌具合に怯えているのか、それに近いものだけだ。
 居心地が悪くなった彼は、舌打ちをして教室を出て行った。どこへ向かったのかはわからないが、もう知る必要もないだろう。だってこれは、ただの喧嘩ではない。きっと一輝から完全に離れるという決別なのだろう。
 倒れた机をもとに戻し、喧騒がまた少しずつ戻っていく。痛みのある箇所の目を向けると左腕に痣ができただけで済んでいるようだった。
 授業が始まる寸前まで、北上さんたちは俺に話しかけなかった。「あれで本当に良かったのか?」と問いかけるような、心配するような表情をしていたが、聞かないでいてくれているのだろう。自然な気遣いがありがたくて、心が温かくなる。