ホームルームが終わり、俺の心臓はより一層音を立てる。オーディション開始まであと三十分ほど。時計を見てその事実が脳内で処理されると、鼓動は速く大きくなる。
「緊張してるねぇ、暁斗」
北上さんたちが、動けなくなった俺を見るなり声をかけてくる。少しでも和ませようと、彼女は煽るような言葉を選んだのだろう。
「うん、やばい。心臓破れそう」
単語を淡々と放ち、まるでロボットのようだと自分でも思った。彼女たちも笑っている。
「落ち着けって。暁斗ならなんとかなる」
確信したように頷く北上さん。勝手なことを言うなといわんばかりの顔をする鈴さんは、ゆっくりと口を開く。
「行こう、暁斗くん」
一度深呼吸し、妙に重みのある足を動かし彼女と共に教室を出る。オーディションのある日は部活がない。本来なら鈴さんも行く必要はないのだが、「私のスカウトだから」と言って聞かなかった。審査をすることはないが、最後まで俺の演技を観るのだと言う。なぜか彼女は、早く観たくてうずうずしている様子だった。不安や心配といった感情は持ち合わせていないようだ。
体育館に到着すると、すでに雰囲気が出来上がっていた。参加者も審査員も、全員が揃っているみたいだった。
審査員長は高橋さん、他三年生の方々四名。引退となる夏の全国大会が近いにも関わらず、こうして観てくれることにしっかり敬意を払わなければ。
受付をしていた高橋さんに名前を伝えると、舞台裏へと案内される。別れ際、彼は呟くように言った。
「受けてくれてありがとう。心配だった」
独り言のようで、その裏には応援の意図が込められていることを難なく読み取る。答える前に姿を消してしまったが、俺は心の中で最善を尽くすと誓った。
「あーきとっ。俺の次なんて、不運だなぁ」
聞き馴染んだ声の方へと振り向くと、そこには一輝の姿があった。日にちが被るだけでなく、順番も近くなるなんて思ってもいなかった。でももう、そんなことで怖気付くような人間じゃない。俺はただ無言で、目線を交える。
「まぁ、がんばれー」
鼻で笑った彼は、台本に目を戻す。あの様子だと、まだセリフが曖昧な部分があるようだ。俺はもうセリフは覚えている。あとはどうやって演技するかが重要だ。
大丈夫、大丈夫。沢山練習したんだ、なんとかなる。
高橋さん、高華さん、北上さん、それに鈴さん。演劇に関わるほぼ全ての方に沢山の助言をもらった。沢山励ましてもらった。
信じろ、信じろ。お前ならできる。
一番最初の参加者が呼ばれ、オーディション開始が知らされる。
すでに三人の演技が終わり、あと四人で順番が回ってくる。一輝は不安にかられているのか台本を見つめたまま座っている。俺はもっと緊張してまた手足が震えてしまったりするのかと思っていたが、意外にもそうはならず、割と落ち着いている。少しの不安や緊張があるが、うまくバランスが取れているようだ。
一輝の名前が呼ばれ、舞台上に出てくるよう言われる。まだ完璧ではないのか、「クソっ」と言葉を漏らして表へと出ていった。次はもう自分の番が回ってくる。気持ちはまだ落ち着いている。これをなるべく保って、万全の状態で練習の成果を発揮しよう。
待機しながら、計六人の演技を観た。素直に言うと、俺の方が上手く出来そうだと思った。本番になって焦りまくってしまう可能性はあるが、何事もなく終われば問題なく選ばれるだろう。ただ、今回のオーディションは三日間行われるため、みんながみんな同じような演技をするかはわからない。とんでもない参加者がいる可能性もある。
一輝の演技も例に漏れずそこまで上手ではない。間違いなく高橋さんは気に入らないだろう。「普通」、ただその一言で片付けられてしまうのではないのだろうか。それに彼はまだ恥じらいを含んでいてどこかぎこちない。演技において恥ずかしいという感情を持ち合わせることはできるだけ避けた方がいいだろう。それは演技にも出てしまい、観ている人に違和感を抱かせる。
演技を終えた一輝は、審査員に向けお辞儀したあと、そそくさと逃げるように降壇した。
短いはずなのに、とても長く感じた沈黙。そして声がこだまする。
「次の方、お願いします」
また深呼吸。拳をグッと握りしめて覚悟を決める。やり切る、できる。
ゆっくりと一歩踏み出し、真ん中へと向かう。審査員に体を向け体育館を一望する。こうやってみると意外と広い。
「クラスとお名前をお願いします」
「一年C組、鷹波暁斗です」
淡々と話す高橋さんに、俺はしっかり聞き取れるように答える。今まで支えてくれたいた方々の顔は、今日は全く違う。他人のように、鋭い目つきで座っている。でもその中には、まだ微かに応援するような気持ちが表れているような気がする。
「どこからがスタートなのかは把握していると思いますので、お好きなタイミングでお願いします。今セットされている小道具たちはぜひお使いください」
用意されていたものは全て俺が想像していたものに近かった。認識に大きな違いがない、それはとても大きな安心感を与えた。
オーディションで観られるシーンは、物語で最も大きい山場。主人公が別人のようになって感情を晒す部分を、どうリアルに、より引き込まれるように演じるかが重要だ。
一礼し、深呼吸する。
一発目のセリフから、好調な滑り出しだった。
「お疲れー! めっっっちゃ良かったよ!」
オーディションを終え鈴さんと体育館から出ると、堪えていたものを一気に吐き出すように口を開いた。嘘かと思うくらいに俺を褒めちぎる。
「あ、ありがとう……」
自分ごとのように喜んでいるのを見て驚き、そう言ってもらえて嬉しかった。個人的に引っ掛かる点はいくつかあったが、かなり良い演技ができたのではないかと思っている。なぜかわからないけど自信がある。
「あと二日でどうなるかわからないけど、今日のメンバーの中だったら暁斗くんで決まりでしょ」
「そ、そうかなぁ」
「そうだよ! みんな帰って行く中暁斗くんは最後まで見てたからわかるはずだよ? 私がこう思ってるんだから、高橋さんには映ってすらないと思う」
ズバズバと話していく彼女の意見には、少し納得できる。全員というわけではないが、本当に練習したのかと疑うほど酷い人だっていた。かと言って、俺が一番良かったと断言できるわけでもない。上手だなと思ってしまった人は少なからずいた。
「あとはもう、結果を待つだけだね。ビクビク怯えても仕方ないし、テストに集中しよう!」
彼女は拳を高々と突き上げ宣言する。その側で俺は、すでにテスト一週間前であることを思い出され絶望していた。オーディションばかりで完全に忘れていた。今年は例年よりも中間と期末の感覚が長く、範囲も広いと聞いた。今から勉強を始めて間に合うとは思えない。
「その様子だと、忘れてたみたいだね。よし、公園行こ? お互い教え合えば一週間でも余裕だよ!」
「……それは鈴さんの頭がいいからでしょ」
俺はぽつりと呟く。彼女は「何か言った?」と無邪気に尋ねてきたが、なんでもないと首を振る。
成績トップというわけではないが、彼女は頭がいい。努力した結果なのだろうけど、勉強時間と結果が全く見合っていない。俗に言う地頭が良いというやつだろう。本当に、羨ましい限りである。
半ば強引に公園に連れてこられる。勉強が目的で連れてこられたのだと思っていたが、彼女が一番に発した言葉は全く関係のないものだった。
「今年も演劇部は夏の全国大会に出場するんだけど、もちろん行くよね?」
三年生の最後の演技。さらにその演劇には、二年生の高橋さんと高華さんもいる。ずっと頑張ってきた部活動の節目となる。今年は四連覇もかかっているし、個人的に高橋さんの演技が気になるので絶対に行きたい。
「行けることなら行きたい、けど」
「だよね!? よし、じゃあ一緒に行こう! 香織たちも一緒だけど問題ないよね!?」
俺が答え終わるのとほぼ同時に、彼女は目を輝かせながら言う。
「でも、演劇部は演劇部でまとまって行くんじゃないの?」
「一年生は関与しないみたいなんだぁ。近くで観れたらそれはもちろん良かったけど、私たちは部員じゃなくて、あくまで客としてしか観れないんだって」
特に一緒に行くことに問題はないのだが、やっぱりどこか気まずくなってしまいそうで怖い。多分また電車に揺られることになるのだろう。
「会場ってどこなの? やっぱり東京?」
特に意図もなく、気になったので彼女に問うと、度肝を抜く答えが帰ってきた。
「香川だよ」
「へぇ、香川なんだ。てっきり都市部の方で開催されると思って……えっ!? 香川!?」
おいおい香川だと……。四国なんて行ったことないし、何より結構遠い。船とか使うのかな。てかなんでこんなに平然としていられるんだ。
もしかしてと思った俺は、恐る恐る尋ねる。
「香川って、どこかわかってる……?」
「わかるに決まってるよ。四国の中で右上にあるところでしょ?」
ゆっくりと頷くと、彼女は少し考えるそぶりを見せた後、突然顔を上げ叫ぶ。
「めっちゃ遠いじゃん!」
彼女の聞き取りやすい声は、公園内にこだまする。静まり返っていたので、それは格段と大きく聞こえた。
想像以上に響く声に頬を赤らめる彼女を見て、意外と抜けてる人なのかなと思ったが、口にはせずに留めておく。
「ご、ごめん。でもここまで遠いと日帰りじゃ無理だなー。暁斗くんは行ける?」
「ちょっと難しそう。今から宿の予約取るのも厳しそうだし」
「そっかー。残念」
そう言って彼女は、頬杖をつきながらシャーペンをぐるぐる回している。これじゃ勉強はなかなか進まなそうだな。
俺も先輩方の演劇を観に行きたかったので、少し気分は沈んでいたものの、遅れを取り戻すために数学の教科書を開く。得意なものから始めていこう。
「ねぇ、暁斗くん。もし夏休みに、遊びに誘ったら、来てくれる……?」
上目遣いで俺の瞳の奥を見据える彼女に、一瞬にして惹き込まれる。今まで感じたことのない不思議な感情に支配される。
「都合が合えば、行ける、けど」
動揺して上手く話せない上に、顔が熱っているのが自分でもわかる。これを聞いた彼女は、大きくガッツポーズし、「楽しみだなぁ」と声を漏らした。
そのあとは特に何事もなく解散になり、帰路についた。家が見えてきてもまだ脈が速く、謎に緊張している。玄関の前で立ち止まり、考える。
彼女を前にして生まれ、ずっと気がかりだった感情。このよくわからない、蓋をした、不思議な、ちょっと苦しいような感情。
間違いない、とんでもないものが芽生えてしまっていた。
どうにかして隠し切らなければ……。
「緊張してるねぇ、暁斗」
北上さんたちが、動けなくなった俺を見るなり声をかけてくる。少しでも和ませようと、彼女は煽るような言葉を選んだのだろう。
「うん、やばい。心臓破れそう」
単語を淡々と放ち、まるでロボットのようだと自分でも思った。彼女たちも笑っている。
「落ち着けって。暁斗ならなんとかなる」
確信したように頷く北上さん。勝手なことを言うなといわんばかりの顔をする鈴さんは、ゆっくりと口を開く。
「行こう、暁斗くん」
一度深呼吸し、妙に重みのある足を動かし彼女と共に教室を出る。オーディションのある日は部活がない。本来なら鈴さんも行く必要はないのだが、「私のスカウトだから」と言って聞かなかった。審査をすることはないが、最後まで俺の演技を観るのだと言う。なぜか彼女は、早く観たくてうずうずしている様子だった。不安や心配といった感情は持ち合わせていないようだ。
体育館に到着すると、すでに雰囲気が出来上がっていた。参加者も審査員も、全員が揃っているみたいだった。
審査員長は高橋さん、他三年生の方々四名。引退となる夏の全国大会が近いにも関わらず、こうして観てくれることにしっかり敬意を払わなければ。
受付をしていた高橋さんに名前を伝えると、舞台裏へと案内される。別れ際、彼は呟くように言った。
「受けてくれてありがとう。心配だった」
独り言のようで、その裏には応援の意図が込められていることを難なく読み取る。答える前に姿を消してしまったが、俺は心の中で最善を尽くすと誓った。
「あーきとっ。俺の次なんて、不運だなぁ」
聞き馴染んだ声の方へと振り向くと、そこには一輝の姿があった。日にちが被るだけでなく、順番も近くなるなんて思ってもいなかった。でももう、そんなことで怖気付くような人間じゃない。俺はただ無言で、目線を交える。
「まぁ、がんばれー」
鼻で笑った彼は、台本に目を戻す。あの様子だと、まだセリフが曖昧な部分があるようだ。俺はもうセリフは覚えている。あとはどうやって演技するかが重要だ。
大丈夫、大丈夫。沢山練習したんだ、なんとかなる。
高橋さん、高華さん、北上さん、それに鈴さん。演劇に関わるほぼ全ての方に沢山の助言をもらった。沢山励ましてもらった。
信じろ、信じろ。お前ならできる。
一番最初の参加者が呼ばれ、オーディション開始が知らされる。
すでに三人の演技が終わり、あと四人で順番が回ってくる。一輝は不安にかられているのか台本を見つめたまま座っている。俺はもっと緊張してまた手足が震えてしまったりするのかと思っていたが、意外にもそうはならず、割と落ち着いている。少しの不安や緊張があるが、うまくバランスが取れているようだ。
一輝の名前が呼ばれ、舞台上に出てくるよう言われる。まだ完璧ではないのか、「クソっ」と言葉を漏らして表へと出ていった。次はもう自分の番が回ってくる。気持ちはまだ落ち着いている。これをなるべく保って、万全の状態で練習の成果を発揮しよう。
待機しながら、計六人の演技を観た。素直に言うと、俺の方が上手く出来そうだと思った。本番になって焦りまくってしまう可能性はあるが、何事もなく終われば問題なく選ばれるだろう。ただ、今回のオーディションは三日間行われるため、みんながみんな同じような演技をするかはわからない。とんでもない参加者がいる可能性もある。
一輝の演技も例に漏れずそこまで上手ではない。間違いなく高橋さんは気に入らないだろう。「普通」、ただその一言で片付けられてしまうのではないのだろうか。それに彼はまだ恥じらいを含んでいてどこかぎこちない。演技において恥ずかしいという感情を持ち合わせることはできるだけ避けた方がいいだろう。それは演技にも出てしまい、観ている人に違和感を抱かせる。
演技を終えた一輝は、審査員に向けお辞儀したあと、そそくさと逃げるように降壇した。
短いはずなのに、とても長く感じた沈黙。そして声がこだまする。
「次の方、お願いします」
また深呼吸。拳をグッと握りしめて覚悟を決める。やり切る、できる。
ゆっくりと一歩踏み出し、真ん中へと向かう。審査員に体を向け体育館を一望する。こうやってみると意外と広い。
「クラスとお名前をお願いします」
「一年C組、鷹波暁斗です」
淡々と話す高橋さんに、俺はしっかり聞き取れるように答える。今まで支えてくれたいた方々の顔は、今日は全く違う。他人のように、鋭い目つきで座っている。でもその中には、まだ微かに応援するような気持ちが表れているような気がする。
「どこからがスタートなのかは把握していると思いますので、お好きなタイミングでお願いします。今セットされている小道具たちはぜひお使いください」
用意されていたものは全て俺が想像していたものに近かった。認識に大きな違いがない、それはとても大きな安心感を与えた。
オーディションで観られるシーンは、物語で最も大きい山場。主人公が別人のようになって感情を晒す部分を、どうリアルに、より引き込まれるように演じるかが重要だ。
一礼し、深呼吸する。
一発目のセリフから、好調な滑り出しだった。
「お疲れー! めっっっちゃ良かったよ!」
オーディションを終え鈴さんと体育館から出ると、堪えていたものを一気に吐き出すように口を開いた。嘘かと思うくらいに俺を褒めちぎる。
「あ、ありがとう……」
自分ごとのように喜んでいるのを見て驚き、そう言ってもらえて嬉しかった。個人的に引っ掛かる点はいくつかあったが、かなり良い演技ができたのではないかと思っている。なぜかわからないけど自信がある。
「あと二日でどうなるかわからないけど、今日のメンバーの中だったら暁斗くんで決まりでしょ」
「そ、そうかなぁ」
「そうだよ! みんな帰って行く中暁斗くんは最後まで見てたからわかるはずだよ? 私がこう思ってるんだから、高橋さんには映ってすらないと思う」
ズバズバと話していく彼女の意見には、少し納得できる。全員というわけではないが、本当に練習したのかと疑うほど酷い人だっていた。かと言って、俺が一番良かったと断言できるわけでもない。上手だなと思ってしまった人は少なからずいた。
「あとはもう、結果を待つだけだね。ビクビク怯えても仕方ないし、テストに集中しよう!」
彼女は拳を高々と突き上げ宣言する。その側で俺は、すでにテスト一週間前であることを思い出され絶望していた。オーディションばかりで完全に忘れていた。今年は例年よりも中間と期末の感覚が長く、範囲も広いと聞いた。今から勉強を始めて間に合うとは思えない。
「その様子だと、忘れてたみたいだね。よし、公園行こ? お互い教え合えば一週間でも余裕だよ!」
「……それは鈴さんの頭がいいからでしょ」
俺はぽつりと呟く。彼女は「何か言った?」と無邪気に尋ねてきたが、なんでもないと首を振る。
成績トップというわけではないが、彼女は頭がいい。努力した結果なのだろうけど、勉強時間と結果が全く見合っていない。俗に言う地頭が良いというやつだろう。本当に、羨ましい限りである。
半ば強引に公園に連れてこられる。勉強が目的で連れてこられたのだと思っていたが、彼女が一番に発した言葉は全く関係のないものだった。
「今年も演劇部は夏の全国大会に出場するんだけど、もちろん行くよね?」
三年生の最後の演技。さらにその演劇には、二年生の高橋さんと高華さんもいる。ずっと頑張ってきた部活動の節目となる。今年は四連覇もかかっているし、個人的に高橋さんの演技が気になるので絶対に行きたい。
「行けることなら行きたい、けど」
「だよね!? よし、じゃあ一緒に行こう! 香織たちも一緒だけど問題ないよね!?」
俺が答え終わるのとほぼ同時に、彼女は目を輝かせながら言う。
「でも、演劇部は演劇部でまとまって行くんじゃないの?」
「一年生は関与しないみたいなんだぁ。近くで観れたらそれはもちろん良かったけど、私たちは部員じゃなくて、あくまで客としてしか観れないんだって」
特に一緒に行くことに問題はないのだが、やっぱりどこか気まずくなってしまいそうで怖い。多分また電車に揺られることになるのだろう。
「会場ってどこなの? やっぱり東京?」
特に意図もなく、気になったので彼女に問うと、度肝を抜く答えが帰ってきた。
「香川だよ」
「へぇ、香川なんだ。てっきり都市部の方で開催されると思って……えっ!? 香川!?」
おいおい香川だと……。四国なんて行ったことないし、何より結構遠い。船とか使うのかな。てかなんでこんなに平然としていられるんだ。
もしかしてと思った俺は、恐る恐る尋ねる。
「香川って、どこかわかってる……?」
「わかるに決まってるよ。四国の中で右上にあるところでしょ?」
ゆっくりと頷くと、彼女は少し考えるそぶりを見せた後、突然顔を上げ叫ぶ。
「めっちゃ遠いじゃん!」
彼女の聞き取りやすい声は、公園内にこだまする。静まり返っていたので、それは格段と大きく聞こえた。
想像以上に響く声に頬を赤らめる彼女を見て、意外と抜けてる人なのかなと思ったが、口にはせずに留めておく。
「ご、ごめん。でもここまで遠いと日帰りじゃ無理だなー。暁斗くんは行ける?」
「ちょっと難しそう。今から宿の予約取るのも厳しそうだし」
「そっかー。残念」
そう言って彼女は、頬杖をつきながらシャーペンをぐるぐる回している。これじゃ勉強はなかなか進まなそうだな。
俺も先輩方の演劇を観に行きたかったので、少し気分は沈んでいたものの、遅れを取り戻すために数学の教科書を開く。得意なものから始めていこう。
「ねぇ、暁斗くん。もし夏休みに、遊びに誘ったら、来てくれる……?」
上目遣いで俺の瞳の奥を見据える彼女に、一瞬にして惹き込まれる。今まで感じたことのない不思議な感情に支配される。
「都合が合えば、行ける、けど」
動揺して上手く話せない上に、顔が熱っているのが自分でもわかる。これを聞いた彼女は、大きくガッツポーズし、「楽しみだなぁ」と声を漏らした。
そのあとは特に何事もなく解散になり、帰路についた。家が見えてきてもまだ脈が速く、謎に緊張している。玄関の前で立ち止まり、考える。
彼女を前にして生まれ、ずっと気がかりだった感情。このよくわからない、蓋をした、不思議な、ちょっと苦しいような感情。
間違いない、とんでもないものが芽生えてしまっていた。
どうにかして隠し切らなければ……。


