アラームで目を覚ますのが、なんだか久しぶりに感じる。いつも通りの時間に起きれるか不安な部分もあったが、特に問題はなさそうだ。
 部屋を出て階段を降りて行くと、台所が明るくなっていた。覗いてみると、母が卵焼きを焼きながら弁当箱にご飯を詰めていた。母がまだ仕事に行っていないことは珍しく、弁当を作っている姿に懐かしさを感じる。
 ただ見つめている俺に気づくと一瞬目を丸くした。でもすぐにいつもと変わらない表情に戻り、微笑みとともに優しさを帯びた声で言った。
「あ、暁斗。……おはよう」
「お、おはよう」
 急に復帰したことには言及せず、弁当作りに戻る。これから仕事に行くのに任せるのは酷だろうと思い、駆け足で母の隣に立ち、出来上がった食べ物たちを詰めていく。それを見た母はなにも言わずに卵焼きの元へ向かう。
 完成すると、なぜか今日はいつもより美味しそうだった。母と作ったのはもうずっと昔。でも今なら、あの時のことを簡単に思い出せる。包丁を使うとき、あまりにも不安定で母が悲鳴をあげたり、想像異常にフライパンが重くて食べ物を落としかけたり。
「ありがとう、母さん。でもどうして作ってくれたの? 今日も学校には行かなかったかもしれないのに」
 心からの感謝とともに、疑問を投げかける。すると母は、少し迷ったようなそぶりを見せた後、らしくない顔をして言った。
「親の勘よ」
 親の勘? なんだそれ。
 普段の母なら絶対に言わないようなことを、それも真顔で言うので、おかしくて声を出して笑ってしまった。母もつられて笑い出す。
「なんだ、笑えるじゃない」
 俺よりも早くおさまった母は、笑みを含んだ安心したような顔で言った。どういう意味なのかわからずぽかんとしていると、今度は訴えかけるような目をして俺の両肩に手を置き顔を覗き込む。
「縋りたい時は、縋るんだよ。想いも、自分で伝えな」
 そう言った母は、「青春ねぇ」と言い残して自室へと消えた。一体さっきから何を言っているのだろうと不思議に思いながら、俺は学校に行く支度を始めた。

 扉を開け外に出ると、ぽつぽつと雨が降り始めていた。なんか頭が痛いなぁと思っていたが、原因はこれだったか……。
 一度戻って傘を取り、さして一歩踏み出す。雨が傘にうちつく音を聞きながら、学校ではなくあの公園を目指す。
 目印の大きな木々に囲まれた公園が見えてくる。雨で少し滑りやすくなっている階段を登り、いつもの場所にいる鈴さんの元へ向かう。
「あ、おはよう暁斗くん。体調は大丈夫?」
「うん、なんとか。少し頭が痛いくらい」
 俺が天気の変化に弱いことを覚えていてくれたのか、症状を聞いて安堵の表情を見せる。だがそれは、瞬く間に曇っていってしまう。
「じゃあ、行こっか」
 少し不安げな表情を押し殺すかのように、にっこり笑って言った。俺は頷き彼女と共に学校に向かう。
 昨日の夜、俺と鈴さんはこの公園で待ち合わせることになった。スマホの電源を落としていたことに気づき起動させると、メッセージアプリには大量のメッセージと着信が届いていた。音沙汰なしだったこの二日間、本気で心配してくれたのだろうと思い少しだけ安心した。そこにまた一件の通知が入り、一緒に行かないかと誘われたのだ。正直教室にどんな態度で入ればいいのかわからなかったので、俺はありがたく承諾した。
 学校に着くまでの間、俺たちは口を開かなかった。いや、(ひら)けなかったの方が近いかもしれない。彼女は嫌がらせを受け早退しているために、どんな目に遭うかわからない。俺も三日ぶりの登校で、間違いなく一輝たちが突っかかりにくる。
 不安を胸いっぱいに抱えながら俺は、隣を歩く鈴さんに目を向ける。傘を持つ手が震え、怯える子犬のようだった。小刻みな振動が傘を伝って、たくさんの水滴が零れ落ちる。呼吸のリズムも崩れているのか、時々肩も動いている。巻き込んでしまった申し訳なさに心を抉られたが、時間は戻せない。彼女をしっかりサポートすることが、俺にできる最大の償いだ。
「鈴さん、一回深呼吸してみて」
 急な声かけに少し驚きながらも、一度立ち止まり深呼吸する。目を瞑って何度か繰り返すと、まだ少し苦しみを隠すように笑って見せる。
「ありがとう、暁斗くん。ちょっと楽になったよ」
 そう言った彼女はまた歩き始める。相変わらず曇った表情は変わらなかったが、震えが少しばかりおさまったように見える。
 校門が見えてくるにつれ、俺も少しずつ余裕がなくなってくる。下駄箱にて傘を閉じ、靴を履き替える。
 教室に入る前に、鈴さんと自然と目が合う。彼女は何も言わずにただ頷く。言葉はいらない、それは俺も思った。頷き返し、ともに地獄へと踏み込む。
 一緒に頑張ろう。その言葉を胸に抱き、なんとかなることを信じている。

「あれっ、一輝じゃん! 来たんだ」
 席に鞄を下ろした俺を見つけるなり、一緒にいた仲間を引き連れこちらにやってくる。どうやって冷やかしてやろうか、そういった目つきをして。
「何か用?」
 できるだけいつも通りな雰囲気を出しながら問う。すると彼らは吹き出して大きく笑う。
「お前ほんっと演技下手くそだな。どうせこの三日間、うじうじして出て来れなかったんだろ?」
 返答に悩む俺に、今度は睨むようにして言葉を投げつける。
「諦めろって。お前には無理。オーディションは俺が勝ち取って、主人公として最高の演技を見せてやるよ」
 自慢げに吐き捨てた彼は、嘲笑いながら席へと戻っていった。
 彼ら全員がどこかへ行ったとき、俺は安堵のため息をついた。何とか終わったあの時間は、妙に長く感じられ、とても呼吸が苦しかった。
「おはよう、暁斗」
 鈴さんの方に向くと、そこにはいつものメンバーが心配そうな、でもどこか安心したような顔で俺を見ていた。俺が挨拶を返す前に、北上さんは念を押すように言った。
「お前のことだから、『巻き込んでごめん』とか思ってそうだが、全然そんなことないからな。暁斗は悪くない。私らはお前を、応援し続けてるから」
 嘘偽りない言葉だということが、彼女らの眼差しや態度に表れていた。俺が心の底から「ありがとう」と伝えると、満足そうに微笑んでいた。
 先生が入ってくることで、自然とみんな自席へ戻っていく。北上さんの後ろ姿はとてもたくましく、とても強い味方ができたなと思うと、少し心が軽くなった。

 帰宅して玄関の扉を閉めると、溜まっていた疲れがどっと押し寄せてきた。立っているのも億劫で、その場に蹲る。ずっと神経を使っていたので、解放感が続けて押し寄せる。やっと終わった、地獄から完全な帰還を果たした。もう後はやることを済ませて寝るだけだ。俺は無理やり体を動かし、着替えるために自室へと向かった。
 着替えて椅子に腰掛け、今日のことを振り返る。今日というたった一日で、クラスの惨状を見せつけられた。
 ホームルームの後から、それは顕著に現れた。一時間目の移動教室では、鈴さんがクラスの女子に足を掛けられ派手に転ばされた。それを彼女らは見えていないかのように振る舞い、距離が離れたところでくすくすと、醜いものを見るように笑っていた。事前になるべく構わないようにと鈴さんには言われていたが、こんなものを見せられて何もしないのは流石に苦しい。散乱した用具を拾い上げ鈴さんに渡すと、約束を破った俺に少々怪訝そうな顔をしたが、すぐに笑って『ありがと』と言った。
 わかってはいたが、危害を加えられるのは彼女だけではない。俺も一輝たちにいろいろとされた。すれ違いざまに背中を叩かれたり、突然押されたり……。あまり大きな怪我を負うようなものはなかったので、そこまで気にしてはいない。これが毎日続くとなると少し厄介な気もするが。
 とにかく心配なのは鈴さんの方だ。やっぱり陰口で囁かれるのは声質のものばかり。さらに彼女は、北上さんたちが干渉することをひどく嫌がっているらしく、巻き込みたくないという思いがはっきりと出ていた。もちろん北上さんたちもそれを気にしているらしく、昼食を一緒に食べているときに懸命に訴えかけていた。それでも頑なに鈴さんは拒否し、その後もうまくいっていない様子だった。
 状況が悪化しているのは俺たちだけじゃない。あの一件を皮切りに、いたずらや暴言が横行するようになっていた。一輝の態度はよりひどくなっていって、仲間内とまとまっているように見えて喧嘩が多い。クラスメイトも日頃の鬱憤を晴らすように分裂していき、孤立する人、一人を集中砲火するグループに分かれていった。鈴さんの言っていた“悪い雰囲気”は、俺たちに向けた陰口が増えたからではなく、生徒全員が簡単に他人を傷つけるようになってしまったからなのだ。俺はこんなことは全く予想していなかったので、驚きのあまり何も言えなかった。自分に危害が加えられて傷ついたというより、クラスがこうなってしまったという事実の方がショックだった。実際はただ浮き彫りになっていなかっただけで、ずっと前からこうだったのかもしれない。大嫌いな陰口や悪口が、一体いつまで飛び交い続けるのかという不安が、脳裏から離れなかった。