爽やかな春の空気と青い空。真新しい制服は着慣れないせいか窮屈に感じられるけれど、足元のスニーカーは履き慣れているものだから、そこまで走るのは苦じゃない。
 それにしても、なんっで、入学早々寝坊してんだ俺!
 入試で満点取ったがために、新入生代表挨拶しなきゃないから、早めに学校へ来るように言われていたのに。
 遅刻なんかしてらんないんだよ。なんで今日に限ってスマホの電源落ちてんのかなぁ? ああ、とにかく急がなきゃない!
 角を曲がって直線を走れば学校は目の前だと言うところで、誰かにぶつかってしまった。

「わっ!!」

 衝撃で思わずよろけてしまう。転びそうになるのをなんとか堪えて、何に当たったのか、痛みに顔面を押さえながらようやく目を開いた。
 目の前に立つのは、ガタイの良い学ラン姿の男数人。こちらを睨むように見下ろしているから、一気に背筋に緊張が走る。
 これはマズイ人にぶつかってしまったのかもしれない。
 瞬時に思考が危険反応を示していって、俺はなにも言えずに後退りする。

「なに逃げようとしてんだよ。あやまんねーの?」
「……あ、す、すみま……」

 あまりの威圧感にようやく絞り出した声は届いているのかどうか。

「ああ!? 聞こえねーなぁ!」

 バカデカい声に体が震える。情けねぇ。そうは思いながらも、こういうタイプは嫌いすぎてどうしようもない。とにかく今は謝って逃げるしかない。そう思って、息をすうっと吸い込んだ瞬間だった。

「なぁーにしてんのー?」

 笑いを含んだ余裕のある声が聞こえたかと思えば、目の前にいた男がふっ飛んでいく。

「こいつ、俺の友達なんだよね。いじめないでくれない?」

 目の前に、今度はスラリと高身長で俺と同じブレザーの制服を着ている誰かが立ちはだかる。まるで、俺のことを守ってくれているみたいに。
 奥では倒れ込んでしまった男を周りの数人が囲んでこちらを見ているけれど、その全てが顔面蒼白しているように見える。
 見上げれば、逆光で後ろ姿。俺には目の前の人が誰なのか全然わからない。

「ああ!? ふざけんなよ、いきなり殴りやが……って!!」

 飛んだ意識が戻ったのか、男は威勢よく起き上がったと思ったら、周りと同じようにすぐ表情を変えた。

「あーれー? 起き上がれちゃう? もう一発、いっとくぅ?」

 ひょいっとしゃがみ込んで、やっぱり楽しそうに笑いを含みながら喋る彼とは対照的に、さっきまで堂々としていたやつの声色が震えていくのが分かった。

「あ、ああ、あああ……秋中(あきちゅう)の、深山(みやま)藍二(あいじ)ぃ!?」
「ご名答〜っ」
「ぐはぁっ!!」

 回答とともに放たれた拳によって男を完全にKOさせると、くるりとこちらに振り向いた。
 一瞬見えた太陽の光に、目を細めてしまう。逆光に立つ彼の顔は、まだよく見えない。だけど、今聞こえてきた名前は俺も知っている。
 秋月中学の深山藍二。この辺では知らない人はいないと思う。それくらい不良で良い噂も悪い噂も絶えない。

「今日から秋月高校の、深山藍二だけどな! その制服……あんたも同じ高校ってことだよな?」

 ようやくはっきり見えた顔は、息を呑むほどに綺麗だと思った。
 涼しげな目元が垂れて、体の線の細さはさっきのガタイのいい男を突き飛ばすようには到底見えない。透明感ある肌は、吸い込まれそうに澄んでいて、思わず見惚れてしまう。

「道に迷っちゃってさ。なぁ、俺も一緒に連れてってくんない?」

 てへ、と笑う目の前の不良に、俺は驚きと安堵で腰が抜けて立ち上がれなくなった。

「あははは! 殴ってもねーのに腰抜かれんの初めてだよ」

 手を差し伸べられて、グイッと引かれる。力強い大きな手に、何故か胸がドキドキする。まだどんなやつなのかわからない恐怖があるからなのかもしれない。まさか、こんな名のある不良と同じ学校に通うことになるなんて。助けてもらっておきながら、幸先とても不安だ。
 立ちあがった俺は、そのまま深山藍二と学校へ向かうことになってしまった。

 しかし、学校は目と鼻の先。道案内もなにもないんじゃないかとは思うが、断ることなんてできずに言われるがまま隣を歩く。
 さっきから、周りの視線が刺さってきて全身が痛い。こんな不良と友達だと思われたくない。って、それ以前に、なんとかこいつを振り切って、俺は職員室へ行かねばならないんだ。

「なぁ、お前、名前は?」
「へ!? あ、えっと、久保」
「下の名前!」
「え!? あ、雅哉(まさや)……」
「雅哉、ありがとなっ」
「え?」
「学校まで案内してくれて、助かった」
「え? あ、いや」

 どうやってこの場をやり過ごそうかと考えていたのに、あっさりと深山藍二は校門に足を踏み入れると、俺から離れて行った。
 スキップをするような浮かれた後ろ姿を見送って、ようやく安心して呼吸が出来た気がする。

 なんとか入学式には間に合ったし、無事新入生代表挨拶を終えてホッとしたのも束の間。渡されたクラス表の中に、自分の名前と、深山藍二の文字。思わず二度見してしまった。
 まさか同じクラスとか、どうすんだよ。
 自分の席についてから教室内を見渡してみたけれど、深山藍二の姿はないようだ。
 胸を撫で下ろして気を抜いた瞬間、「ねぇ!」と声がかかる。
 すぐ目の前で腕を組んで、怒ったような表情をしている女子がこちらを見て立っていた。
 綺麗に揃えられたボブヘアが肩につくぎりぎり上でサラリと流れる。首を傾げて俺の顔を覗き込んでくるから、驚いてしまう。
 ぱっちりした瞳とほんのりピンク色の頬。一瞬だけかわいいと感じた。しかし、彼女の口から出てきた名前に次の瞬間絶句する。

「ねぇ、あなた、藍二と友達なの?」

 なにやら疑うような、信じられないとでも言うような目で訴えかけてくるから、言葉に詰まる。

「新入生代表の挨拶してたよね? どうしてそんな真面目な子が藍二と一緒に学校来てるの? 今まであたしとも話した事ないよね?」
真昼(まひる)、やめなよ質問責め」

 俺が戸惑っていると、もう一人のギャルっぽい女子が呆れるようなため息をついて、詰め寄ってきていた彼女を引き戻してくれる。内心ホッとするけど。いきなりなんなんだ。

「ごめんねー、この子深山藍二のことになると見境ないから」

 あの不良と居たってだけでここまで詰め寄ってくるとか、もしかしてこの子。

「深山藍二の……彼女……とか?」

 俺の言葉に、二人ともキョトンとした表情をしたのを見逃さなかった。マズイ事を聞いてしまったか? と瞬時に不安になる。

「ちーがぁーう! あたしは藍二の幼なじみ。小さい頃からずっと知ってるの! すぐケンカするし、乱暴だし、校則破りまくりだし、先生にも喧嘩売るし、バカだしアホだし、あんなのの彼女とか絶対に無理だし!」

 顔が青ざめているから、無理と言う言葉は本当なんだと思うが、それにしてもなんだか酷い言われようだ。

「そう、なんだ」
「君も、もしあいつになんかされたらあたしに言ってね!」
「え……あ、ああ」
「いこ、萌香(もえか)

 いきなりやって来て、言いたいこと言って教室を去っていった二人の後ろ姿を唖然として見送る。クラスが違うのに、わざわざ俺に忠告しに来たってことか? 幼なじみでそんなことやるって、よっぽどあの深山藍二が怖いのか、それともあの子の方が深山藍二よりも上の立場にいるのか……よく分からないけど、どっちにしろ関わりたくもない。おだやかに高校生活が送れたらそれだけで良かったのに。最初からこれじゃあ幸先不安すぎて、今日もまた眠れなそうだ。
 窓の外の空は、心が洗われるみたいに綺麗に澄んでいる。だけど、俺の心の中はいつまで経っても曇って濁ったままだ。

 この高校だって、本命なんかじゃなかった。他に行かなくてはいけない、もっと上のランクの学校があったのに、中学ニ年の終わりに成績がガタ落ちしたせいで、ランクを下げて尚且つ地元からも遠い場所を選んだ。
 ここでの入試で満点なんて当たり前だった。だから、両親だって喜びもしなかった。きっとまだ、俺が秋月高校へ入学したことを不満に思っているはずだ。
 だからって、この高校だってそこまで偏差値が低いわけじゃないのに、なんで深山藍二なんてヤバいやつがいるんだよ。信じられない。
 喧嘩もして頭も良くて高校にも受かるとか、出来すぎだろ。どんなやつかなんて名前以外は全然知らないけど、ろくなやつじゃないはずだ。今は穏やかに暮らしたい。それだけが俺の願いだ。今後はなるべく関わらないで過ごして、今度こそ両親に認められるように勉強に集中しよう。

「雅哉ー! お疲れーっ」
「……は?」

 校門から出てすぐに、車止めに腰を下ろしてこちらに手を振る深山藍二の姿に愕然とする。
 笑顔でいるから、俺が殴られるとかそう言うことはないとは思う。けれど、なぜここにいて、俺の名前を呼ぶのかが分からない。そもそも、校門には一緒に踏み入ったはずなのに、結局入学式も教室にも一度も現れなかった。それなのに、なぜ今ここにいるのかが意味不明だ。
 とりあえず、俺じゃない他の「マサヤ」を呼んでいると思って、一旦聞こえなかったフリをしておこう。
 あからさまに進んでいた方向から向きを変えて歩き出すと、すぐに後ろから足音が近づいてくる。だけど、振り向いたら終わりだと思ってひたすら前を向いて歩く。

「おーい、雅哉ってば! 今、目、合ったよな?」

 バッチリ合いました。でも俺は用事ないんで。心の中で返事を返しつつ、俺はペースをあげる。

「ねぇ、雅哉って春星中だろ? なんで秋月高校選んだの? まぁでも、まさか同じ高校に通えるなんて思わなかったから驚いたけど!」

 俺の早足になんなく付いてくるから、こっちがペースを上げなきゃなくて、息が上がってくる。余裕そうに喋る内容はどこから入手して来たのか、なぜ俺の出身中学を知っている? 学校に来ないで情報収集してたのか? 助けたお礼をさせるために、俺の弱みを握ろうとしているのか? だとしたら、とんでもなく最低なやつだな。腹立たしくなるけど、情けなくもなる。

「助けてもらったことは感謝してます。だけど、もう二度と俺に話しかけないでください」

 ピタッと立ち止まると、深山藍二も二歩進んでから振り返った。
 深く頭を下げて、お願いをする。
 きちんと伝えれば伝わるはずだ。最低なやつだって心くらいはあるだろう。顔を上げて目を合わせる事なく横を通り過ぎようとして、腕を掴まれた。

「あのさぁ、人に何かお願いする時は、目を見て話してくんない?」

 真っ直ぐに向けられた瞳は真剣だ。
 吸い込まれそうになって動けずにいた俺は、悔しさに唇を噛み締める。

「……もう、話しかけないで、ください」

 目を逸らしたい衝動を抑えながら、なんとか言い切った。これで解放される。そう思って腕を振り払おうとした瞬間、なぜか深山藍二に抱きしめられていた。
 あまりに突然のことで、何も考えられなくなる。そして、耳元で声が聞こえてきてハッとした。

「ぜってぇヤダ。会ったら話しかけるし、俺と付き合え。後悔はさせない」

 やけに色気のある小声に、体が震えて心臓が早鐘を打ち始める。恐怖に混じって、なんだかよく分からない感情まで湧き上がってくる気がして、ギュッと両手に力を入れて握りしめた。
 俺のブレザーの胸ポケットに何かを忍ばせると、深山藍二は不的な笑みを浮かべて去っていった。
 抱きしめられていた感触が離れて、途端に安堵と寂しさが混じるような感覚になって、不思議に思った。
 なんなんだ、あいつ。
 胸ポケットから取り出したノートの切れ端には、きっと深山藍二のものだろう。電話番号とIDが記されていた。
 さっきから、ため息しか出てこない。
 帰ってきて、部屋の机の上には先ほど渡された番号の書かれたノートの切れ端。そして、思い出すのは抱きしめられた温もり。
 小さい頃はよく母さんに抱きしめてもらっていたけど、今は当たり前にそんなこともなくなっていた。なんだか、優しくて大きな胸に包まれた感触を思い出すと、グッと胸が熱くなってくる。なんなんだ、深山藍二って。当然、この番号に俺の連絡先を教えてしまえば、きっと逃げられなくなる。

『俺と付き合え。後悔はさせない』

 なんだよそれ。不良仲間になれってことか? そんなん無理に決まってんだろ。これ以上内申点下げられないし、俺には遊んでいる暇なんかないんだよ。でも、連絡しなかったらどうなる?
 臆病な自分にまたしてもため息をついた。明日、ちゃんとまた断ろう。


 次の日。教室前のドアまで来ると、俺の席に座って寝ている人がいるのに気がついた。
 あれ? 教室は間違えていない……よな? 俺の席って、あそこだよな?
 戸惑いながら一歩を踏み出せずにいると、後ろから声が聞こえて来た。

「おはよう! 久保くんっ」

 ビクッと体を震わせた後で、振り返ると昨日深山藍二の幼なじみだと言っていた真昼が立っていた。

「……おは、よう」
「あ! やっぱりいた!」

 挨拶を返した俺に笑顔をくれると、すぐに視線を窓側に向けた。

「藍二! なにしてんのよ」

 ズンズンと俺の席まで進んで行って、こともあろうか、寝ている金髪頭をペチッと叩いた。
驚いてただ見ていることしか出来ない俺は、むくりと起き上がったのが、深山藍二だと気がつく。
 なんで俺の机で寝てるんだよ。意味わかんねぇ。またしてもため息をついてしまうと、大きなあくびをしながらこちらに気がついた深山と、目が合ってしまった。

「おう! 雅哉! 遅かったなー」
「こらっ、藍二の席はこっち! ここは久保くんの席! って、昨日から思ってたんだけど、二人ってどういう知り合いなの?」

 グイグイと深山の腕を引っ張りながら席を移動させようとしている彼女の動きを見ていると、どうやら隣の席に移動させようとしているようだ。
 確かに、昨日は隣の席は空席だったけど、まさか、隣なのか!?
 腹の底からため息が湧き上がって来る。
 最悪なことは続く時は続くって知ってる。今までだってそうだった。
 受験の前に両親が俺の成績のことで喧嘩をして別居を始めた。自分のせいで家族がバラバラになってしまったことに引け目を感じて、勉強しても勉強しても、成績が上がらなかったことを思い出す。あげく、切磋琢磨していた友人にも呆れられてしまって、逃げ出した。辛くても、どうにも出来なかった。
 だから、別に俺は最悪がいくら続こうが別に気にしない。辛いなんて、思った時点で苦しいだけだし、こんなもんかと諦めて仕舞えばいいんだ。今回だって、別に深山の言う通りにしていれば別に問題ない。
 考える事をやめて、俺は自分の机まで進んだ。

「ねぇ、藍二、久保くんの迷惑になるようなことだけはやめてね?」
「は? 迷惑ってなんだよ」
「その鋭い眼で睨んだり、大きな声で話しかけたり!」
「はぁ? なんだよそれ」
「とにかく、高校ではおとなしくしていて。みんなすでに怯えているんだから、これ以上自分の評価さげないでよ。あたしは心配して言っているんだからね!」
「心配される筋合いねーし、幼なじみだからってウザいんだよ」

 ギロリと向けた視線は刺さりそうなほど鋭くて、教室内がシンっと静まり返る。
 俯いてしまった真昼のことが心配になってしまうが、次の瞬間、ガバッと上げた顔はかわいらしさとは裏腹に不適な笑みを浮かべている。

「あたし、風紀委員になって藍二のこと見張るつもりだからよろしく! 幼なじみであり、風紀委員だからね! 容赦しないからね!」

 深山に顔を寄せて宣戦布告するみたいに強気な姿に、俺は圧倒される。
 この子、めちゃくちゃメンタル強い?
 周りの視線も、深山の睨む目線もものともしないで、彼女は教室から出ていった。
 毎度ながら、教室が違うのにわざわざ深山藍二を監視しにくるとか、きっと幼なじみである以前に優しいのかもしれない。
 俺にはそんな存在すらいないから、ある意味羨ましい。

「あー、まじでウザいあいつ」

 ボソリと呟いた深山の言葉に、俺はため息を吐き出した。

「良い子じゃないか」
「は?」

 カバンの中身を出しながら、すぐ隣から聞こえて来た声にハッとする。ため息だけ吐き出したつもりが、つい言葉に出てしまったんだと、気がついた時にはもう遅かった。
 そっと隣に視線を送ると、眉を顰めて怪訝な顔でこちらを見ている深山の顔。
 鋭さのある睨みは美しさが混合していて凄みが増している。この顔を見ても歯向かっていたあの子はかなりの強者だ。やっぱり深山以上に強いのかもしれない。なんて、一瞬のうちに思考が巡っていると、今度は不貞腐れるみたいに深山はこちらを向いたまま頬杖をつく。

「なに? お前、真昼のこと良い子とか思っちゃってんの?」
「……え?」
「やめとけ、あんなんただの小言女だ」

 心底嫌そうにため息を吐き出すから、なんだかイラッとしてしまう。

「小言だって、言ってくれる人がいるのは幸せだろ」

 深山のことを考えてくれるから言うんだ。そんなことも分からないのか。小言を言われているうちが花なんだ。そのうち誰も何も言わなくなるんだ。そんなの一番惨めなんだぞ。
 深山みたいな自分ばかりが正しいと思っていそうな奴は、俺ははっきり言って嫌いなんだ。
 あからさまに顔に嫌悪感が出てしまったのかもしれない。でも、別にそれはそれで良いんだ。もう、関わりたくなんかないから。

「なぁ」

 ギイっと椅子の足が床にスライドする音がして、立ち上がる気配を感じる。

「ちょっと顔かして」

 くいっと顎を上げられて、まっすぐに真剣な瞳と目が合う。また、吸い込まれそうになるのを必死で抑えながら、目を逸らした。

「だから、逸らすんじゃねぇよ。まっすぐ俺を見ろ」

 なんでお前なんか見なきゃいけないんだ。
 心の葛藤は吐き出せずに、深山の手の力に抗って横を向いた。

「とにかく、ちょっと来い。話がある」

 そのまま教室内を出ていってしまった深山、教室内がようやくざわつき始めた。

「……大丈夫か?」

 前の席の大宮が心配そうに声をかけてくれるけど、俺は何も言えずに行くべきか行かざるべきかが頭の中が渦巻く。
 行ったとしても、行かなかったとしても、どっちにしろ隣の席だ。会うのは避けられないし、これは決着をつけなきゃない。長引かせると絶対に厄介な案件だ。

「……行ってくる」
「お、おう。健闘を祈る」

 覚悟を決めて立ち上がった俺に、大宮は励ましのガッツポーズを送ってくれた。
 大宮って、影は薄そうだけど良いやつだな。そんな失礼極まりない事を思いながら、教室を出る。

「……ってか、どこに行ったんだ?」

 廊下を左右見ても深山の姿はない。
 せっかく意気込んでも、これじゃあ無意味だ。から回ってる。はぁ、とため息が出る。
 ため息ばっかりも疲れるし、やっぱやめるか。そう思って教室に戻ろうとして、足を止めた。
 もしかして。急に、深山がいそうな場所が思い浮かんで、昇降口から外に出た。校門を出て辺りを見回すと、車止めに座ってスマホを弄る深山が目に入った。
 今度は怯まないぞと、精一杯の睨み顔をして目の前に立った。なんと思われようが、別に構わない。なんなら殴られる覚悟だってある。
 ここで終わらせられるなら、それくらいは仕方ないから受け入れるしかない。
 なのに、顔を上げた深山のこの表情はなんだ?

「おお!? 雅哉! まじで来てくれたの!? えー! めっちゃ嬉しいっ!」

 まるで、主人の帰りを心待ちにしていたワンコみたいな純粋無垢な笑顔を向けられて、決心が緩む。

「絶対もう嫌われたし、無視してこないだろうなーって思ってたー!」

 艶かしいため息まで吐き出してそんな事を言うから、調子が狂う。
 本当にさっき教室で見ていた深山藍二なのか? と疑いたくなるくらいに。

「よっし、じゃあ行こっか?」
「……は?」

 ぴょんっと跳ねて車止めから立ち上がると、さっきから深山の頭に何故か犬の耳とお尻にはふさふさのしっぽがゆらゆら揺れている幻覚が見えて、今にも走り出しそうな勢いだから混乱する。

「遊びにいこーぜ」
「……は? いや、学校……」
「そんなんいいから」
「いや、いいからじゃねーし」

 ただでさえ、こっちはランク下げた学校に来てんだ。授業サボるなんてもってのほかだ。これ以上ここからの俺の評価を下げたくないんだよ。

「俺は学校休むとかサボるとかぜってぇしないんだよ! ここではトップを、それ以上を取り続けなきゃなんねーの! だから、もう俺に構うんじゃねぇっ」

 心の中の不満が爆発してしまって、受験までの間に積み重ねて溜め込んだ鬱憤まで湧き上がってくる。八つ当たりするみたいに言い放ってしまった。
 当然、もうさっき見た幻覚は消えている。喧嘩を売ったようなものだし、殴られる覚悟も決める。近づいてくる深山の気配に、俯いたままグッと両手を握りしめて歯を食いしばった。

「じゃあ戻るか、教室」

 ポンっと優しく頭を撫でられて、深山が学校の方へ歩き出す。
 なんだよそれ。なんでそんな優しい反応なんだよ。怒れよ。そっちもわがままかもしんないけど、俺だってもう限界で、言いたいこと言い放ったんだ。関わってほしくなくて、突き放すように本音をぶちまけたのに。なんも響いてないってどう言うことだよ。むしろ呆れてる? 慰められてるのか? それって、めちゃくちゃ悔しいだろ。
 もう、なんだかよく分からない。


 教室に深山と共に戻って来た俺を見て、クラスメイトは無言のまま驚愕の表情を浮かべていた。わかる。その反応は大いにわかりみが深い。
 しかし、隣できちんと……ではないけれど、でかい態度で椅子に座り、だけど、まっすぐに黒板を見つめている深山の心境はまったくもって分からなすぎる。まじで何考えてるのか。不良の思考回路なんざ知る余地もないし、分かりたくもない。

「ちょっと、藍二が教室にいて最後まで授業受けるとかなにそれ。今日世界終わるんじゃない?」

 結局、全ての授業に参加して放課後に至るのだが、これはごく当たり前で普通なことなのに、きっと深山藍二にとってみたら、異常なことなんだろう。真昼が引くほどに驚いて俺の前に立っている。

「あんた何者?」
「……え?」
「藍二のなんなの?」

 疑いの目を向けられて、俺は焦る。
 この子、見た目はふわふわしてて小さくてかわいいくせにどっかキモが座っていると言うか、芯が強いと言うか。深山藍二のことに執着しすぎと言うか……あ、そっか。彼女じゃないとか言ってたけど、もしかして、片想いなのか?
 確かに深山、不良じゃなきゃめちゃくちゃイケメンでかっこいいし、背デカいし強いし、惚れる要素ありまくりだよな。幼なじみだって言うし、ずっと一緒にいて好きにならないほうがおかしいか。深山の方は恋愛とかに疎そうだし、真昼の想いには気が付いてないのかも。
 頭の中で二人の関係性を整理して納得していると、グイッと肩を引かれた。

「こいつは俺の。近づくんじゃねえ、真昼」

 抱きしめるように深山は俺を引き寄せてから、威圧的な顔で真昼を睨んでいる。
 は?

「別に友達くらい勝手にすれば? ただ、久保くんが嫌がることはしないでよ? ほんと喧嘩っぱやいんだから、藍二は」
「大丈夫だよ。喧嘩したってこいつには指一本触れさせねーから」

 ん?

「ほんと、ちゃんと守ってあげてよ?」
「ったりめーだろ」
「まぁ、良いお友達が出来てあたしもちょっと安心。藍二のことよろしくね、久保くん」

 はぁ!?
 ニコッと笑いかける真昼の笑顔は名前の如く、てっぺんに昇る真昼の太陽のように神々しい。そして、いまだに深山に肩を抱かれる俺は、もはや逃げ場のない袋のネズミだ。
 なんなんだよ、この状況。
 最悪が重なりすぎて今まじで心底最悪だ! もう生きてる意味すら見失いそう。
 明日からの学校生活が苦痛すぎる。
 魂の抜けた俺は、あの後どこをどうやって帰ったのか、もうよく覚えていない。


 足が重たいのは、今に始まった事ではないけれど、高校入学後ほどそう感じる日はないかもしれない。本当なら、誰も俺を知らない地で気楽にマイペースに、勉強に励むつもりでいたのに。
 朝はいつものようにキッチンのテーブルの上に置かれた食パンに苺ジャムを塗って牛乳で流し込んだ。成長期はたぶん来たはずなのだが、スタートダッシュの早すぎた俺の身長は小学校高学年を境に止まり、中学の頃には周りにどんどん抜かされていった。
 深山にだって見下ろされるばかりで、なんだかその時点でもう負け確定な気がして、悔しく思った。

 学校の教室に入ると、隣で今日も寝息を立てているこいつは、授業はまともに聞いているのを見た事はないし、まして金髪、ピアスに、崩した制服は指定のブレザーじゃなくて、黒のセーターかパーカーを着ていて、ネクタイはゆるゆる。いや、だからってだらしないとかじゃなくて、高身長に綺麗な顔をしているから、それが様になっているって言うのが、一番イケすかない。
 だけど、今机の上に大っぴらに並んでいるテストの点数には深く納得できる気がする。やる気がないの一択。

「なに?」

 しまった。あまりにもじろじろ見すぎてしまった。
 先日、入学後すぐの学力テストが行われたのだが、中学の復習だし俺は入試も満点でこのテストだって簡単だった。それでも、テストというものはその日のコンディションや緊張から、意図しないことが起きるのである。まぁ、俺の場合はそんなことはなかったけど、深山の場合はどうだったのか。入試があまりにも絶好調だったということだろうか? たまたま山が当たりすぎたのか? 最強の運の持ち主なのか? いや、そんな奇跡あるか。

「俺、勉強嫌いなんだよねー」

 机の返却答案用紙をチラッと見て、深山はゲェッと舌を出す。酷い点数を恥ずかしげもなく広げているから、俺は思わず本音を溢してしまった。

「……よくこの高校受かったな」

 よっぽど面接時に猫を被ったのだろうか。想像してみようとするけど、無理だった。

「ほんとだよなー。入試だけは人生一頑張ったからな、俺。まさか雅哉と同じ学校に通えるなんて思ってもなかったから、まじでやってて良かった、真昼塾だぜ」
「……なんだよそれ」

 どっかで聞いたことのあるような謳い文句。思わず乾き笑いしてしまう。

「おやぁ、聞いたわよ、今の言葉」

 放課後になると、必ずと言って良いほどに毎回現れる真昼は定番になっているから、もう驚きもしない。この二人はきっとこんな調子で幼い頃から仲が良いんだろう。周りも二人を見る目は穏やかだ。むしろ、深山の素行が許されるのは真昼のおかげといっても過言ではないのかもしれない。宣言通りに真昼は風紀委員になり、今日も深山藍二と言う不良を取り締まって学校の平和を保っている。
 って、大袈裟なんだよ!
 俺は元々深山も真昼も知らないから、だからなんだってんだって話だ。

「やる気なさ過ぎでしょ、藍二ぃ」
「うるさー」
「あたしとの特訓の成果をちゃんと発揮しなさいよー!」
「なんだよ、特訓ってダセェ」
「ここからまた成績落とすとすぐに落第するんだからね! もう中学みたいに義務教育じゃないんだから、いつだってこっちは首切りできんのよ? 舐めないでくれる?」
「は? なんで真昼に首切られなきゃなんねーんだよ」
「風紀委員だからよ」
「どんな権限だよ。アホらしい」

 片手をズボンのポケットに突っ込んだまま深山は立ち上がるとこちらに振り返る。

「じゃあね、雅哉」

 ニンっと不敵な笑顔で見下ろされて、やっぱりイケすかない。カッコいいがなんだ。喧嘩強いがなんだ。かわいい幼なじみがいるのがなんだ。俺にはまったく関係ないもんね。
 フンっと何も言わずにそっぽを向いてやった。

「つれねぇなぁ。ま、いいけど」

 不服そうな声でそう言って、深山は出て行った。

「久保っち、スゲェな」

 深山と真昼が出て行ったのを確認してから、前の席の大宮が振り向いて興奮気味に話しかけてきた。

「……久保っちって、なに?」

 そんなあだ名で呼ばれたことは今までない。

「え? あ、ごめんつい。この前須藤さんがそう呼んでたから俺も移っちゃった」
「須藤……って、誰? もしかして真昼の友達のギャル?」
「え、あ、うん。ってか、深山くんも朝野さんも名前呼びってとこからまずすごいよね」
「……朝野?」
「うん、朝野真昼」
「あさの、まひる?」

 いや、朝なの? 昼なの? ってか、真昼って名前だったの?

「いや、知らないで呼んでたの?」
「……いや、心の中では呼んでたけど、口に出てた?」
「うん、出てたよ? 今も」

 まじか!? たぶん、そう顔に書いているように出ているのだろうから、これは声に出していなくても大宮には伝わっていると思う。大宮の顔にも、え!? 無意識!? と書いてあるような気がするから。

「深山も真昼も流れでそう呼んでるだけだよ。真昼は……まぁ、今から朝野さんに直してもなんかしっくり来ないし、別にそのままでいいかな」

 呑気な俺とは打って変わって、大宮の目が輝いていく。

「すーげぇ! なんかカッコいいー! 俺も久保っちのこと名前で呼んでも良い?」
「え!? ……あ、ああ、まぁ、いいけど」

 カッコいい? 俺が? 大宮ってあんまり目立たないけど良いやつじゃん。(二度目の失礼な発言)
 いつも隣からの威圧を感じて気分が晴れずにいたけど、目の前にこんな和みキャラがいたんじゃん。もっと早く気がつけばよかった俺。なんかあったら大宮に相談しよ。
 気持ちが少しだけ軽くなったと思ったら、急にグイッと肩を掴まれた。と、思えば頭上から罵声が飛ぶ。

「はぁ!? なにが『名前で呼んでもいい?』だよ! ダメに決まってんだろ! 雅哉を雅哉って呼んでいいのは俺だけなの! 分かった? そしてさぁ、あんま俺の雅哉と仲良くなんないでくんない?」

 目の前の大宮の顔は顔面蒼白だ。

「ご、ごごごごごご、ごめんなさいー!!」

 ガタンっ! とものすごい音を立てて椅子から立ち上がると、大宮は斜めになってしまった机をきちんと直してから椅子をしまうと、慌てて走り去って行った。狼狽えているのか冷静なのか、もはやよく分からない。
 こちらはと言えば、こんなことは入学式の後からずっと続いていたからもう頭上の深山が睨みを利かせていることは見えなくてもお見通しだ。

「帰ったんじゃなかったのかよ」
「忘れ物だよ、忘れ物」

 肩を組まれたまま離れようとしない深山から体を離そうとするけど、強引に顎を引かれて真正面に向き合った。

「俺以外の男と話さないでね」

 にーっこり笑うと、深山はようやく俺から離れて机の中を覗き込み始めた。

「はぁ!? なんだよそれ。大宮はめっちゃ良いヤツだし。ってか、深山以外の男と話すなって意味がわかんねーし。せっかく友達が出来そうなんだから邪魔すんじゃねぇし!」

 基本友達なんていらないとは思ってるけど、教室で話しが出来るくらいの友達はいてほしいんだよ。テストや学校の情報交換もできるし、なにより深山みたいな訳わかんない不良から身を守るための極意みたいなものを、このクラスの奴らは持っている気がする。
 なんでかって、そんなん、俺ばっかりがこいつに絡まれているからだ。
 俺のこと前から知ってたのかしらないけど、色々調べ上げてるし、「付き合え」って言ったり、「俺の」って言ったり、俺以外と話すな? もう、毎回よくわからなすぎる! ってか、言う相手間違ってんだろ。そんなん女子に言えや! 女子扱いしてんな。腹立つー!

「そう怒んなってば。かわいー」
「はぁ!? かわいいって言うな!!」

 全然悪いと思ってない顔で笑う深山に、もう我慢ならなくて発狂する。
 そんな俺の目の前に立ち上がって向き合う深山は背の高さもあって、その存在感だけで威圧的だ。思わず怯んでしまう自分が情けなくなる。

「スマホ、出して」

 目の前に掲げられたスマホ。深山が探していたのはスマホかと、呆れながらも流れに乗せられて、言われるがままにスマホをポケットから出してしまった。
 すぐに手元から取り上げられると、なにやら操作をしている。

「はい、これ俺の連絡先入れといたから。なんかあったら連絡してね。俺からもするし」
「……はあああ!?」
「雅哉全然教えてくんないじゃん。強行突破するしかないでしょ。でもこれでとりあえずは安心だな。じゃあなー」

 後ろ向きで手を振って教室を出ていくから、愕然としてしまう。
 やられた! ってか、なんで素直にスマホ渡してんだよ、俺!
 あーいうやつには逆らえないって、本能でとっさに動いてしまったのかもしれない。
 仕方ない。いずれ、どうやったってあいつはきっと俺の連絡先を入手するはずだ。どんな繋がりがあるのか知らないけど、なんでも知ってそうで怖いんだよ。そんなやつとは関わりたくないし、もう過去の俺は忘れたいんだ。高校生活は新たに穏やかなスタートにしたいんだから、マジで放っといて欲しい。
 盛大なため息を吐き出すと、手元でスマホが震えた。まさか、深山がさっそく何か送って来たのかと思って画面を確認すると、懐かしい名前に困惑する。

「……太一……」

 着信が来ているけれど、出る勇気がまだない。
 太一は、中学の時にずっとテストで一位二位を競い合って来たライバルであり、親友だ。いや、もう、今は親友だった……だな。
 急激にテストの点が取れなくなった俺は、太一と戦う理由も競う意味も無くして、逃げたんだ。「高校でも一緒に競い合おうぜ」そんなことを当たり前のように語っていた。
 親の喧嘩や別居のせいで成績が下がったなんて、そんなの理由になんてならない。太一は慰めてくれようとしたけど、俺はそれが惨めで悔しくて、話しかけてくれようとしていた太一から距離を取るようになった。

「今更、なにを話せば良いんだよ」

 しばらく見つめていたスマホの着信が止まって、メッセージが届く。

》元気か?

 一言だけ。
 なのに、なんだか無性に情けなくなって、悔しくて、心配されていることに腹が立つ。太一は何も悪くない。自分の不甲斐なさに落ち込んでいるだけだ。
 順調に階段を登って行った太一とは、今更どう向き合えば良いのかなんてわからない。もう、会うのも苦しいから、だから、俺は知り合いのいないこの秋月高校を選んだんだ。もう、会いたくない。メッセージは既読を付けたまま返事をしなかった。
 憂鬱だ。毎日が憂鬱だ。
 せっかく仲良くなれそうだと思った大宮は、深山の威嚇のせいであれからぜんっぜん、全くもってこちらを見ない。挨拶すら、言葉は交わすものの、よそよそしく目も合わせてくれなくなった。
 そして、今日も重役登校の深山はお昼少し前にようやく登校した。授業真っ最中だというのに、悪びれもなく、ダルそうに大きな欠伸をしながら俺の隣の席に座る。

「おはよう、雅哉」

 向けられる笑顔は無邪気な子供のようだけど、裏で何を思っているのか、考えるのも恐ろしい。ため息が出そうなのを堪えて、小さく「おはよう」を返す。返さないと突っかかって来るし、面倒だからだ。

「なぁ、雅哉」

 授業中なのも構わずに深山が話しかけてくるから、真っ直ぐに黒板と向き合ったまま返事をしないでいた。

「昨日の帰りにさ、めっちゃ頭いい奴が行く高校の制服着た奴が校門らへん彷徨いてたんだけど、雅哉の知り合いとかじゃないよね?」
「は!?」

 思わず、すぐに太一のことが頭に浮かんで、深山の方へ振り返ってしまった。
 先生の咳払いが聞こえて、俺はすぐに前へと向き直る。

「いかにも真面目な感じのやつ。メガネに姿勢めっちゃ真っ直ぐで、何回もスマホと学校を交互に見てて、変な奴だった」

 眉を顰めて怪訝そうな深山に、やっぱり太一の姿を思い出す。
 たぶん、間違いない。
 もしかして、昨日のメッセージが届いた時、学校前まで来てたってことかよ。ってか、どっからこの高校に俺が入学したって情報を得たんだよ。俺の個人情報色んなとこで漏れすぎだろ。まじでやめてほしい。一番知られたくないやつらに知られるって最悪だ。
 深山も太一も、もう俺に構わないでほしいのに。
 ついに盛大なため息を吐き出し、授業は終了した。


 昼休み。有無を言わさずに全方角を包囲されて、俺は深山と真昼とギャル須藤に囲まれて昼飯を食べることに毎回なっている。
 クラスメイトもこの光景はもう見慣れて来たんだろう。今じゃ別にこちらを怪訝な目で見たりしてこないし、ましてや俺のことを助ける気なんてものもなさそうだから、仕方なくここにいるしかない。

「久保っち大丈夫ー? さっきからめっちゃため息ばっかじゃん」

 ギャル須藤が心配そうに綺麗に描いた眉を下げて笑うから、ははっと、乾いた笑いを吐き出す。
 大丈夫ではない。いつまで経っても慣れたくないし、放っといてほしいんだけど。

「あれ? 雅哉、スマホなんかきてる……」

 机の上に無造作に置きっぱなしにしていたスマホの画面が、着信を知らせている。気がついた深山が、次の瞬間、俺よりも先にスマホを手にして、事もあろうか通話に応えた。

「はいはーい。誰ー?」

 さっきチラッと見えた画面には、太一と表示されていた気がする。
 昨日も学校前まで来ていたみたいだし、昼休みにわざわざ連絡してくるって、よっぽどの用事があるんだろうか。少しだけ、不安になる。

「へぇ、え? 何? お前雅哉のなんなの?」

 眉間に皺を寄せて、明らかに不機嫌な深山。スマホの向こうの太一は大丈夫だろうかと、心配になる。

「雅哉は俺以外の奴は好きじゃないから。もう連絡してくんじゃねぇ。じゃあな!」

 一方的に通話を終了させたんだろう。スマホを返されると、「なにこいつ、ウザ」と深山は怪訝な顔をしている。
 太一にとってみれば、深山の方が「何こいつ」状態だったと思う。だけど、今は太一とは話したくないし、きっとこれを機にもう連絡して来ないんじゃないかなと思うと、少し気が楽だ。

「なんだよ、雅哉。こいつのことそんなにウザかったの? めちゃくちゃホッとした顔してんじゃん。言えよ。俺がいつでもこんな奴追い払ってやっからよぉ」

 ポンポンっと頭を撫でて、嬉しそうに笑う深山の笑顔に、何故か本当に安堵した。
 俺の何を知ってるわけでもない深山だけど、だからこそな気がする。俺のことを知らないから、なんだって出来てしまうんだろうと思うと、ホッとする。
 弱い俺の心を、太一には見透かされている気がして、会ってもきっと余計な同情を聞くことになる気がして、嫌なんだ。

「なんだよ、マジ悩み?」

 隣から、ふわりと温もりに包まれる。
 突然の出来事に、俺は固まってしまって、身動きが取れなくなる。深山が俺を抱きしめていた。

「俺が雅哉のこと守るから。だから、不安になんてなるな」

 窓際のお日様の光をずっと受けていたからだろうか。包み込む深山の胸に顔を埋めると、ふんわりと優しいお日様のあたたかさと匂いがする。あったかい。安心する。なにより、包み込まれた優しさが心に染みる。
 ずっと、何もかもから逃げ続けて来た情けなさが、一気に受け止めてもらえているような気がして、胸の底から感情が込み上げてくる。
 視界が歪み始めて、俺はハッとして深山のことを突き放して教室を飛び出した。
 何してんだ、俺は。
 深山なんかに安心するとか、意味がわからない。あいつも何であんなに優しく抱きしめたりするんだ。おかしいだろ。
 最初から、あいつは変だ。俺にだけ優しすぎるし。そうやって俺のことを丸め込んでパシリにでも使う気だろ。その手には乗らないからな。マジで。危ない。危ない……危なく、抱きしめ返してしまうところだった。
 自分の両掌を見て、情けなくなって握りしめた。


 昼休みも終わって教室に戻ると、隣の席には深山の姿はなかった。内心ホッとする。どんな顔をして会えば良いのか分からなかったから。
 あいつはほんと、よく分からなすぎる。

 放課後になると、スマホにメッセージが届いた。太一からだろうかと一瞬頭をよぎったけど、画面を見て安堵する。

》図書室でべんきょー見て

 深山からのメッセージに、思わず苦笑いしてしまう。

「勉強くらい漢字変換しろよ。どんだけだよ」

 来週テストがあることは、勉強嫌いな深山でもちゃんと知ってたんだな。変なところで感心してしまう。仕方ない。そう思って図書室に向かおうと立ち上がった瞬間、賑やかな声が教室に入って来た。

「あ! 久保っちここにいるじゃーん」
「ほんとだ!」

 入って来たのは、いつもの二人。
 この二人は別々に行動することはあるのだろうかと思うくらいに、いつでもセットで現れる。そんなに一緒にいて喧嘩とかしないのかよと思ったりもするけど、別にそんなの興味はないから聞いたりはしない。

「ねぇ、久保くん藍二に勉強教えてほしいんだけど、お願い出来ないかな?」
「……え」

 もうすでに、深山から図書室に来いと命令とも取れるメッセージが届いていた。そして、まさに今そこへ行くつもりだった。だから、真昼にお願いされるまでもないのだが。

「藍二ってばあたしの真昼塾より雅哉塾の方がいいとか言い出して逃げたのよー! あいつ、ほんと勉強ヤバいんだから本気で自分のヤバさに気がついてほしいのに」

 教室内に入って来ながら怒る真昼に、俺は椅子を机に納めて向き合った。

「今、図書室で勉強見てってメッセージきたよ」
「え!? まじ!?」

 真昼よりも先に、ギャル須藤が叫ぶ。

「これは槍の雨が降るかもしれない……」

 青ざめた顔をして、真昼が眼球だけ窓の外へずらした。つられて俺も外を見てみるけれど、槍どころか雨さえも降って来なそうな晴天だ。たぶん、負傷者は出ないと思う。

「久保くんってさ、秋月スタートアップ塾に通ってたりした?」

 真昼の聞き覚えがありすぎる言葉に、目を見開く。

「その反応は、通ってたってことだよね?」

 真相を探るように近づいて来る真昼に、嘘をつく意味もないから頷いた。

「いつも開始ギリギリに来て、終わったら速攻で帰ってたよね?」

 学校が終わってから向かうと、塾の開始時間はいつもギリギリ。そして、スタアプが終わったら地元に戻ってまた別の塾に行くという多忙な日々を過ごしていた。
 周りを見る余裕なんてなかったし、どんな学生が塾にきているかなんてのも、興味はなかった。

「そっかぁ、あれ、久保くんだったんだ」

 納得するみたいに頷く真昼に、俺は首を傾げる。どういうことだ? あの頃の俺のことを知ってる?

「久保くん、藍二のことよろしくね」
「え?」
「たぶんやる気だけはあると思うんだ。やれば出来る子だから。これ、良かったら使って」

 そう言いながら、真昼はトートバッグの中から数冊のノートを出す。表紙には「藍二の苦手克服ノート」と書いてある。

「え、これって……」
「真昼塾は今日を持って閉鎖しますので、あとはまかせたよっ、久保くん」

「はいっ」とノートを笑顔で差し出すから、戸惑いながらも受け取った。

「久保くんのおかげで、藍二は受験頑張れたんだよ」
「……え? なんだよ、それ」
「じゃあ、また明日ねーっ。行こ行こ、萌香ーっ」

 入って来た時と変わらぬテンションで二人は去っていくから、呆然と見送るしかない。
 だけど、さっきの真昼の言葉。『久保くんのおかげで、藍二は受験頑張れたんだよ』
 深山は、もしかして俺のことを知っていたってことか? まさか。
 でも、出身中を知っていたり、真昼と同じ塾に通っていたことを知っていたり、もしかして、全部知ってて近づいて来てたのか? なんのために? 俺は、知り合いなんて、誰もいなくて良いって思っていたのに。
 俺のことを何も知らない深山なら、別にどうでもいいやって思って接して来てたのに。だけど、知ってるって……なんだか、胸の中がモヤモヤする。ぐるぐると負の感情が渦巻いてくる。なんだか、気分が悪い。胃の奥から込み上げるものを吐き出さないように、胸元を押さえて何度も飲み込んだ。
 息苦しくなってきて壁に寄りかかると、足に力が入らなくなって、体を支えられずにそのままズルズルとしゃがみ込んだ。
 図書室まで、あと数メートル。
 なんで俺があいつに勉強を教えなきゃならないんだ。最初からそれが目的で近づいて来たのか? 出来損ないの俺なら、ちょうどいいとでも思ったのか? 
 突然、湧き上がってくる悲しみのような、哀れみのような気持ち。深山からの優しさが、全部崩れていく。
 あれは、マジでなんだったんだ。もう、あんな訳のわからない優しさなんかいらない。優しさに期待なんかしちゃだめだ。

 両親に褒められるのが嬉しくて、テストでは良い点数を取り続けていた。順位が上がるほど、学校での平均点が他の奴より優っているほど、喜んでくれた。話だって聞いてくれた。なのに、テストで思うように点数が取れなくなり出した途端に、全てが崩れていく。
 褒めてくれない。喜んでくれない。嘆いて、困った顔をして、怒って。
 俺は、何のために勉強してたんだっけ? って、結局、何もかも分からなくなった。

「雅哉!?」

 駆け寄る足音と深山の声。すぐそばで聞こえた気がしたのに、何故か遠くなっていく。
 もう、誰も俺を褒めてくれない。それが、ずっと悲しかった。

「雅哉! おい、しっかりしろって!」

 ガクガクと肩を揺らされて、ますます胃が気持ち悪くなる。朦朧としているのに、叩かれる肩や頬が痛い。

「おいっ、目を開けろ! 息……してない?」

 虚だけど意識はある。息もしているはずだ。心臓は決して止まってねぇ。それより、力強すぎだろ。叩かれた頬から頭に振動が巡って、ますます朦朧としてるんだよ。手加減ってもんはないのかこの不良には。

「おい! マジで死ぬんじゃねぇぞ! 雅哉!」

 深山が叫んだ瞬間、視界が真っ暗になる。
 暖かい温もりを感じるけど、何が起きたのかわからない。
 ん? んー? んんんー? 苦しい。息が出来ない。え、俺マジで死ぬの?
 冷静になった途端に、目を見開く。すぐ目の前に深山の綺麗な肌。閉じた瞳に濡れたまつ毛、さっきから感じていた温もりは、唇にある。

「んんーーーー!?!?」
「あ、生き返った!」

 唇が離れたかと思えば、パッと明るい笑顔になる深山。そして、突然のことでパニック状態、フリーズしてしまった俺のことを包み込んだ。

「死んだかと思っただろーが! ふざけんなよ!」
「……って、ふざけんなはこっちのセリフだー!!」

 何をしてんだ! マジで何をしてんだ!?

「おまっ、今、な、何をした!?」

 触れた温もりを思い出して、口元を抑えると、頭に向かって血が沸騰するみたいにのぼっていく。

「あはは、雅哉顔真っ赤じゃん。え、初めてだった?」

 眉間に皺を寄せる。余裕そうな深山の態度にさらに腹が立つ。

「俺を置いて死ぬんじゃねぇよ、雅哉」
「っつーか、死なねーし! ちょっと気分悪くなっただけだ、それなのに、キ……」
「ん?」
「な、なんでもねぇ!」

 ほんっと、不良のすることは訳分からんすぎる。俺のファーストキス……なんで深山なんかと。ガックリと項垂れると、肩を引き寄せられて耳元で深山が囁く。

「もっかいする?」
「はぁ!? しねーよ!」
「つれないねぇ」
「ほんっと、なんなんだよ。俺で遊びすぎだろ。もう放っといてほしい! 俺に構うな、話しかけるな、勉強も遊びもお前なんかとは付き合えない!」

 肩で息をして、またしても一気に深山に不満をぶつけた。また、いつものように余裕そうに笑うか、今度こそ怒って殴りに来るのか、どちらでも良いやと開き直っていると、深山が不服そうにこちらを見ている。なんだかその目に腹が立つ。

「このノートがあれば勉強だってできんだろ!幼なじみのこと大切にしろよ! 大概、ふざけてないで勉強しろ。もうマジで関わりたくない」

 まだクラクラする頭を押さえて立ち上がると、元来た道を歩きだす。

「おい、雅哉……」

 深山の腕が俺の肩に触れる手前で、振り払った。触るなと睨む。深山ほどの威圧感は出せていないと思うけど、睨んだ先の深山の表情は意外にも泣きそうに見えたから、一瞬足が止まりそうになった。すぐに視線を外して早足で歩き出す。もう、これで関わってこなければいい。

 そもそも、入学式の日に深山に助けてもらった事が始まりで、そんなことがなかったら、関わることもなかったんだよ。俺が遅刻をしなければ良かったんだ。過去を振り返って後悔したってもう遅いのに、ああすれば良かった、ああしなきゃ良かったって、無かったことにできたらどんなにいいだろうって思うことばっかりだ。
 そんなこと思ったって、過去は変えられないし、そうなってしまった以上は諦めるしか他にない。人生のほとんどは諦めだ。
 もう深山とここで出会ってしまったことは諦めるしかない。

「雅哉!!」

 追いかけて来たのか、回り込んで深山が俺の前に立ちはだかる。無視を決め込んで前に進もうとすると、いきなり深山が頭を下げるから、驚いて立ち止まってしまった。

「……ごめん、雅哉! マジでごめん……頼むから、嫌いにだけは……ならないで」

 目の前の深山の肩が、下げた頭が、小さく揺れている。言葉は途切れ途切れで弱々しく震えていた。こんなに威圧感のない深山は初めて見る。いつでも堂々としていて、そのくせ人懐こくて、睨むとめちゃくちゃ怖くて、俺にだけ何故か優しくて。
 嫌いになんか別にならないけど、でも、深山は自分勝手すぎる。振り回されてる俺がなんか、情けないと言うか、なんと言うか。

「俺さ、雅哉のこと一年前から、知ってたんだ」
「……え?」
「真昼が、同じ塾に通ってて凄い奴がいるって教えてくれた事があってさ、名前までは知らなくて、でも、真昼の話を聞いてるうちにどんな奴なのか気になって暇つぶしに見に行ったんだよ」

 そっと顔を上げると、眉を下げて笑うから、俺は無言のまま話は聞いてやろうと深山を見つめた。

「いつも周りには目もくれずに、真っ直ぐ前だけ向いて歩くそいつが、何故かカッコよく見えたんだ。何も考えないで喧嘩ばっかしてる俺とは違う人種だなって、最初は興味なかったんだけど、突然そいつが俯いて歩く様になっていて、明らかに様子がおかしいと思った。まぁ、ダメな時もあるよなって思ってたら、そのうち塾に来なくなったって真昼から聞いて、なんとなく気になり出した」

 はぁ、とため息を吐き出すと、深山はますます困った様に笑う。

「だからって、どうしたらいいかとかわかんなくてさ。ありとあらゆる手段使って情報聞き出してたら、なんか真昼が怒り出してさ」

 ありとあらゆる……手段。
 俺の頭の中では喧嘩上等と背中に書かれた学ランを着て、誰彼構わずボコボコにして悪魔の笑みを浮かべる深山の姿を想像してしまう。

「そんなことしてる暇あったら真昼塾開くから一緒の高校に行くよ! って言われて」

 ああ、それで真昼塾。やっぱり幼なじみなだけあって真昼は健気なやつじゃん。深山はそこまでしてくれる真昼の気持ちをちゃんと理解してんのかな。俺にも実際真昼が深山のことをどう思っているかは分からないけど。

「真昼はそいつの事何か知ってんのかと思って、だから猛勉強したんだよ。頑張るって言葉が苦手な俺が、人生一頑張ったんだよ。そしたらさ、マジで雅哉と同じ高校に入れたんだもん。そりゃ浮かれるって!」

 だんだんと興奮して来たのか、息を荒げて深山が俺を壁側に追い詰めると、片手を壁に付き、覗き込む様に俺との距離を縮めた。

「雅哉にもう一度、会いたかったんだよ」

 逃げ場のなくなった俺を、また深山は抱きしめて来る。

「なんで、そんなに俺に執着してんだよ」

 単に真面目だと思ってたやつが、突然勉強放り投げて元々の志望校よりずっと下のランクの高校に入学したってだけで。

「雅哉言ってたじゃん」
『俺は学校休むとかサボるとかぜってぇしないんだよ! ここではトップを、それ以上を取り続けなきゃなんねーの! だから、もう俺に構うんじゃねぇっ』
「──って。俺、あの時、こいつめちゃくちゃカッコいいなって思って、ずっと雅哉のこと気になってたのはこれかって分かったんだ。だから、絶対俺のものにするって決めたから」

 すぐ目の前まで顔を寄せると、ニンっと歯を見せて無邪気に笑う。

「はぁ!?」

 意味がわからない。

「真昼のことは気にすんな。あいつはただのお節介だから」
「いや、気にすんなとかそういう……」

 問題ではなくて。真昼はたぶん深山のこと好きで。だけど、今の流れからすると、深山は俺が、好きってこと? え? いや、マジ意味がわかんねぇ。頭いてぇ。

「どうした!? また倒れるなよ!?」

 頭からすっぽりと深山の胸の中に包まれて、声にならない声が出る。

「図書室静かだからめっちゃ寝れるぞ。行こう!」

 ふわりと全身が宙に浮く。頭痛のせいで全身の力が抜けて抵抗もできない。お姫様抱っこと言うのだろうか? 深山に抱き抱えられたまま、向かうは図書室。
 え、俺一体どうなっちゃうの?
 振り落とされても困るから、必死にしがみついて辿り着いた図書室は誰もいない。
 ソファー席に優しく下されると、深山が俺の額に触れてやけに甘ったらしくため息をついた。

「少し休め」

 そうして、先に用意していたんだろうか。自分の教科書と真昼から預かったノートを広げてペンを持つ深山の横顔は、見た事ないくらいに真面目に見えた。
 寝不足もあったかもしれない。あんなことがあったのに、なんだか深山がそばにいると安心する。図書室の木目の天井と蛍光灯を見る視界が徐々にぼんやりしていく。


 知らない間に、俺は眠っていたらしい。
 目が覚めると、横には机に突っ伏して寝ている深山がいる。
 こいつは寝ていてもかっこいいとか、なんかズルイ。いや、待てよ。深山のことをカッコいいとか思う時点で、俺もなにか変なのかな。
 そっと、もう一度深山の寝顔をみる。
 サラサラの前髪が目にかかって、瞼がピクリと揺れる。起きたのかと思ってじっと見ていると、眉間に皺が寄るから、不思議に思った。瞬間、ぱちっと開いた深山の瞳。驚いて俺はすぐに視線を逸らした。

「雅哉、見過ぎなんだけどー」
「み、見過ぎてねぇし!」

 思わず声が上擦って、そっぽを向く。

「なぁ、目見て話して」
「は?」

 グイッと肩を掴まれて、深山に顎を引かれる。

「なぁ、今、俺のことかっこいいって思ったりした?」
「……はぁ!?」

 やばい。全身から一気に顔に熱が集中する。

「雅哉、やっぱかわいーんだけど。好き」

 ニコッと笑って、深山が近づいてくる。

「はぁぁぁぁぁ!?」

 思いっきり深山の顎を押し返して拒絶する。
 今なんて言った? なんだ、今の自然すぎる流れは。は? かわいいはこの前も言ってたな。だけど、今度は、好き? は? やっぱり、深山って、俺のこと好きなの?

「はいはい、ちゃんとしますよ。べんきょー」

 押し返された首を元に戻すと、深山は諦めた様にノートのページを捲る。

「ってかさ、なんで真昼のノートを雅哉が持ってんの?」
「は?」
「あいつ毎日のようにお前に話しかけてるよな。それ見る度に俺イラッとしてんだけど。俺が見てないとこでも話したりしてるってこと?」
「え?」
「雅哉、毎回真昼のことかばうじゃん? まさかさ、真昼のこと……」

 ペンを動かす深山の手が止まったかと思うと、ジッとこちらを見る瞳は疑いの眼差しだ。ってか、なんで俺がそんな目で見られなきゃないんだ。

「んなわけないだろ。それは、真昼塾を閉鎖するから、あとは雅哉塾に任せるって言われて預かったんだよ。これまでの真昼の報いを無駄にするなよ。そのノートめちゃくちゃ的を得てるし見やすいし分かりやすいんだから」
「え? じゃあ、雅哉塾やってくれんの?」
「え? ああ、まぁ」

 やってやろうとは思ったけど、なんだか深山からの告白を聞いて、よく分かんなくなっている。

「マジで!? やった! え! まじ嬉しんだけど!」

 急に立ち上がって、深山が叫ぶ。誰もいないとはいえ、ここは図書室だ。俺は静かにと人差し指を立てて制止する。

「べんきょーは雅哉に任せるからな、他は全部俺に任せろ!」

 ウキウキで深山は鼻歌を歌い出すと、ノートと向き合う。
 は? なに? 今のどういう意味? 本当に深山の言うことは意味がわからなすぎて怖い。
 とりあえず分かったことは、深山は俺のことが好きらしい。それってどういう好きなんだ? 友達として? それとも……
 深山の横顔。視線が唇に止まって、先ほどのことを思い出す。また、一気に顔が熱くなった。胸が尋常じゃ無いくらいに鳴り始める。なんなんだよ、これ。今まで感じたことのない感覚に狼狽えてしまう。

「雅哉、なに? 思い出しちゃった?」
「な、なにをだよ!?」
「俺、雅哉のこと本気で好きだよ。だから、雅哉も俺のこと好きになってよ」

 真っ直ぐに。目を逸らすことなく見つめられる。伝えたいことは目を見て話せ。深山が言っていたことだ。
 冗談には聞こえないし、こんな気持ちも初めてだし、なんと言えばいいのかもどうしたらいいのかも、分からない。
 微笑んだ深山は、またノートに向き直ると、真面目な顔で問題文を目で辿り出す。
 ふと、真昼のことが脳裏によぎる。やっぱり、深山には真昼だろ。俺じゃないし、なんで俺なんだ。そんな風に考えると、胸の奥がズキンと痛んだ。

 そこからは深山も真面目に勉強に取り組むから、俺は分からないところを真昼のノートを使ってさらに説明する。
 物覚えは悪くない様で、一度説明すると深山はすんなり次の問題も解ける様になっていた。真昼が『やれば出来る子』と言っていた意味がわかった気がする。

「テストまであと一週間ないけど、この調子なら案外いけそうだな」

 深山の出来に、俺はもっと手こずるかと思っていたからホッとする。
 図書室を出て昇降口に向かうと、真昼とギャル須藤が話しているのが目に入った。

「あ、真昼まだいるじゃん」

 深山も気が付いたのか、すぐに二人に向かって声をかけた。

「真昼、ノートありがとなー」
「……え!?」

 笑顔で近づいていった深山に対して、真昼は後退りをして驚いている。そして、なぜか外に出て空を見上げだした。もしかして……

「やっぱ今日地球終わる?」

 真っ青な顔をして深山の前に戻って来るのを見て、俺はやっぱりと思ってしまった。
 世界が終わるとか、槍の雨が降るとか、地球終わるとか。深山の善意はどんだけ信用ないんだよ。思わず笑ってしまう。

「あー、久保くん! ちょっと、藍二がありがとうだって! 信じらんない!」
「真昼のノートのおかげで、勉強捗ったんだよ。俺からもありがとう」
「や、やだぁ。久保くんにお礼言われたら照れちゃう」

 何故か頬をピンクにして真昼がクネクネと体を捻るから、その姿にも面白い幼なじみ二人だなと笑ってしまう。

「よーかったねぇ、藍二ぃ。久保くんマジ良い子じゃんっ」

 ニヤニヤしながら深山の背中を叩く真昼。

「るせぇ。なにお前まで雅哉に照れてんだよ。俺んだからな」
「はいはい。わかってますから」
「ほんと分かってんのかよ」
「うんうん、あー、でもこれで一先ず安心ね。これからは遠くから藍二のこと見守ってるからね」
「もういらねーよ」
「ふふ、きゅんきゅんさせてくださいな」
「……なんだよ、それ」
「あ、いや。こっちの話。久保くん、不束な幼なじみですが、どうぞ末長くよろしくお願いします。萌香行こーっ」

 真昼は俺に向かってぺこりと頭を下げて、深山に軽いグーパンチを決めると、手を振って行ってしまった。
 え? なに? 今のはどういうこと?
 深山もわかんねーけど、真昼もわからん。

「末長くよろしくだって。頼むな、雅哉」

 ポンっと肩を叩かれて、深山が歩き出す。
 は? いや、だから、それってどう言うこと? 末長くっていつまで? よろしくされても良く分かんねーんだけどー!!

「とりあえず、明日も図書室で雅哉塾頼むな」

 振り向いた陽気な笑顔の深山に、不覚にも胸が弾む。なんなんだ、この気持ち。今までなかった気持ちが花開く。
 俺の高校生活大丈夫だろうか? 不安だったのは初めからだ。ずっと、一人でどうにかしようって思ってたから。そこに、なんか知らないけどとんでもない奴が入り込んできた。自分勝手でやりたい放題。俺が反発しても聞きやしないどころか、抱きしめたり、キ……したり、ますますエスカレートしてる気もする。
 でも、別にそれが嫌なわけじゃない。やっぱ俺もおかしいのか?
 きっと、俺はまた明日も深山に勉強を教えに図書室へ行くんだろう。
 まぁ、あとは、なるようになれ。だ。
 もう人生一回諦めてる俺だから、なんも怖くない……はず。