夏休みになってからの吉良先輩と俺は、週に1回か2回会う約束をしていた。

どれも勉強会という名目で取り付けられた約束だ。

勉強会の計画は、吉良先輩に強引に流されて決まった気もする。

『夏休みはどっか旅行行ったりするん〜?』
『暇すぎて何もすることなさそうな日、僕と一緒に勉強しやん?』
『平日と土日やったら、どっちが良い?』
『じゃあ、今週はこの日と、この日の昼からにして、来週の分は会った日に決めよー』

吉良先輩に尋ねられた質問に答えているうちに、勉強会の日も時間も場所まであっという間に決まっていた。

俺との勉強会なんて吉良先輩になんのメリットも無いはずだ。

だから、『勉強会、俺が一緒で大丈夫ですか』と尋ねると『問題ないで。僕、一応受験生やから勉強はせなあかんねんけど。千秋ちゃんとの方が、周りに気使わんでええから楽やで』と返ってきた。

気を使ってくれたのか、本心なのかはわからなかったけど、俺は先輩の言葉を素直に受け取っておいた。


 初めての勉強会は、喫茶店でしようってことになった。

ショッピングモールの中にある喫茶店の前で、14時に会おうと約束している。

家からショッピングモールまでの道のりは、蝉が本格的に大きな声で鳴いていたし、強い日差しは問答無用で肌をジリジリと焼いてきていたから、ショッピングモールの中での待ち合わせにしてくれたのはありがたかった。


「千秋ちゃん、こっちこっち」

待ち合わせよりも10分くらい早く喫茶店に着くと、吉良先輩が店の前で手を振って待っていた。

「お待たせしてしまってすみません」

「ううん、待ってへんよ〜。本屋寄りたくて早よ来てただけやし」

そう言った吉良先輩は、さっき買ったという本を出した。

紙のブックカバーがかけられた本は、赤色の小さな暗記用下敷きが挟まれていた。

それを見て、やはり頭の良い人というのは、ほんのちょっとの時間でも勉強をしているんだなと感心した。


 喫茶店に入ると、平日だからか空いていて、すぐに席へ案内してもらえた。

苦いのが苦手だと言う吉良先輩は、砂糖入りのアイスカフェオレを注文した。

先輩と同じで、苦いものが苦手な俺も慌てて「同じカフェオレでっ」と注文すると、先輩は「お揃いやなぁ」と言って笑った。

 お揃いの甘いアイスカフェオレと茶菓子が運ばれてくると、吉良先輩は、店に入る前に読んでいた本を再び出して、ペラペラと読み始めた。

俺も鞄から数学の問題集を出して、先輩の様子を見ながら解いていく。

しばらくの間、吉良先輩がペラっと本を捲る音と、俺のシャーペンが文字を書く音だけが聞こえる時間が続いた。

「あの。先輩は数学と国語ならどっちの方が得意ですか?」

集中力が切れ始めた俺は、吉良先輩へ唐突に質問した。

「んー、どっちかというと国語の方が好きやなぁ。文章読むん好きやし、答えはあるけど表現方法までは定められてない感じがええかな」

てっきり数学の方が得意だと思っていた。

「へぇ。何か意外……」

「そう?千秋ちゃんはどっちなん?」

「俺もどちらかというと国語の方が得意だと思います。数学はなんか難しいというより、苦手っていう感じで」

いつも何処かで計算を間違えてしまうから、理解ができないというよりも正解に辿り着けない頻度が高くて嫌になるという感じだ。

「なるほどなぁ。たとえばどんな問題?」

「えーっと。この問題とかですかね」

自分の問題集をペラペラとめくって、先輩に見せる。

どれどれと前のめりになって問題集を覗き込む吉良先輩は、問題文を小さく音読した。

そんな先輩の姿を俺は、ぼんやり肩肘をついて眺める。

(吉良先輩、結構まつ毛長いな)

少し俯く吉良先輩をぼんやり見つめていると、先輩が注目を集める理由も納得できた。

男らしい輪郭に、キュッと綺麗に口角が上がった薄い唇。

それに、どこか胡散臭い笑顔なのに目が離せなくなるのは、やはりこの目尻のホクロせいだろう。

「千秋ちゃん?」

吉良先輩が不思議そうに俺の名前を呼んで頭を上げた。

両肩がビクッと大きく跳ね上がる。

「わぁ。すみませんっ」

いつの間にか俺も先輩に近寄ってしまっていたのか、数秒前まで眺めていた吉良先輩の顔がすぐ目の前にあった。

(やばっ、近っ)

今回は前と違って、近づいたのは俺の方だ。

その瞬間、前に先輩が言ってた『パーソナルスペースがばがば過ぎて、何かされそうで心配やわ』という言葉が急に頭に浮かんでくる。

顔と顔が近くにあるというのに、吉良先輩は全く驚きもせず、じっとしている。

(あ、何か……され……)

目をギュッと瞑った瞬間、先輩の笑い声がした。

「あははははっ」

そっと片目を開けると、吉良先輩はのけぞって笑っていた。

「千秋ちゃん、なに目ぇギュッて閉じてびっくりしてんの。あはは。ちゃんと勉強に集中せなあかんやん」

先輩の声を聞いて、俺は両目を開けた。

「すみません」

ケラケラと笑う吉良先輩を見ていると、俺だけがこの近距離で起きる『何か』を想像していたのかもしれないと思えて、勢いよく顔へ熱が駆け上がってくる。

俺はいろんな噂をされている吉良先輩を過剰に意識し過ぎたのかもしれない。

「ほんまかわええなぁ。でも、こんなとこで何もせんよ。安心して勉強に集中してええで」

何もされなかった安堵からか、勝手な妄想をしていた羞恥心からなのか、自分で自分の心音が聞こえてくる。

「集中……します」

反省して、先輩にそう伝えた。

「ん。えらいなぁ」

そう言った先輩は、俺の頭をぐしゃぐしゃと雑に撫でた。

「うわ、ちょっとっ」

俺は照れ隠しに文句を言いながら崩れた髪を直して、今度こそ問題集に視線を向けた。


 吉良先輩に勉強を教えてもらっていたら、かなり集中していたらしく、気がつくと外は夕方になっていた。

「そろそろ帰ろか、暗なってくるやろうし」

吉良先輩が読んでいた本をパタリと閉じる。

俺も、先輩に合わせて、帰る用意をした。

吉良先輩が俺の分も合わせて、QRコードで会計を済ませ、店の外に出る。

「今日は勉強を教えてくれて、ありがとうございました」

「ええの、ええの。気にせんといて」

「俺のせいで先輩の勉強は全然進まなかったですよね。すみません」

俺がそう言うと、吉良先輩はまたケラケラと笑った。

「え、何で笑って……。だって、その参考書のページ全然進みませんでしたよね」

俺は吉良先輩がどうして笑っているのか理解できなくて、先輩が持っている本を指差した。

「あぁ、これ?これ参考書ちゃうよ」

「え?」

隣の席の人が俺の方を見るくらい大きな声が出た。

「これ、エッセイ本やで。おもろいよな、自分じゃない誰かの体験って。」

先輩が、これはなぁ、と言って持っている本の著者について説明しようと、本の後ろのページを捲る。

「はっ、ははっ、やっぱり俺とは元の頭の作りが違うんですね」

先輩が持っている暗記用下敷きが挟まれた本を見て、俺はずっと先輩も俺と同じように一生懸命勉強をしているのだと勘違いしていた。

今日、勉強をしていたのは俺だけで、吉良先輩は俺にただ勉強を教えてくれていただけだった。

そう思うと、腹立たしいのか、惨めなのか分からなくなってくる。

「そんなことないよぉ?僕もちゃんと勉強してるで」

「そんなの絶対に嘘ですよね」

急にむしゃくしゃしてきて、強く言い返す。

「ほんまほんま。ほら。勉強道具持ってきてるやろ」

そう言って、吉良先輩は鞄の中を見せてくれた。

(ほんとだ……)

「ただ、今日は千秋ちゃんを見つけた瞬間、可愛すぎる千秋ちゃんに心臓射抜かれてもうて、今日は集中して勉強できへんなって悟っただけ〜」

吉良先輩が平然と男の俺に向かって可愛いと言う。

「何、その変な理由。しかも俺なんか、別に可愛くなんかないですよ」

「そんなことないで。僕には今の怒ってる千秋ちゃんも可愛く見えてるもん」

吉良先輩が、緩やかに口角を上げ、目を柔らかく細める。

「……なんか急に嫌なこと言ました。すみません。……俺、勉強するのは嫌いじゃないんですけど。去年ずっと学年で2位か3位にしかなれなくて。頑張っても頑張っても、上には上がいて。だから、1位を取り続ける人ってどんな勉強の仕方をしてるのだろうって、ずっと考えてました」

吉良先輩の落ち着いた様子に感化されたのか、ぽろりと心の内を打ち明けた。

「ふーん。てことは、ここ最近ずっと僕のこと考えてくれてたってこと?」

「いや、そんな変な意味じゃなくって。えっと」

返答が予想外すぎて、慌てて誤解を招かず説明できる言葉はないか探す。

「はははっ、冗談やって。でも、今日、千秋ちゃんが勉強してるの眺めてたけど、要領掴むの上手いよなぁ。物事の点と点を繋げるのが上手いっていうか」

これまで勉強をしていて、初めてそんなことを言われた。

「んーでも、学んだことを発展させて考える方が好きそう。合ってるかわからへんけど、数学とかの永遠と出される計算のドリルとか苦手そう。解くのが苦手っていうより、その作業が窮屈に感じて飽きるみたいな」

「そ……うなんですかね」

確かに計算は苦手だ。

脳が疲れる。

でも、解くのが苦手なんじゃなくて、解き続ける行為が苦手だなんて考えたこともなかった。

「僕は逆に楽しいなぁって思えるんやけどな。何分で全部解けるかなとか思う」

胡散臭い笑顔を貼り付けて笑う先輩を眺めながら、先輩に言われた言葉が頭の中でぐるぐると反芻する。

あまりにも俺がポカンとしているように見えたのか、吉良先輩は俺の目の前で手をひらひらと振る。

「あれ?なんかフリーズしてる?」

「あ、いえ。なんか考えてもみなかったことだったので」

正直にそう言うと、吉良先輩は「へぇ」と小さく驚いてから話を続けた。

「だって、千秋ちゃん、新しい知識とか知るの好きやろ?だから、根本的にこの教科が苦手って感じには見えへんかったで」

「ほ、ほんとに?」

頭の良い吉良先輩からの客観的な評価に胸が弾む。

「うん。やから、自分の苦手な教科を集中的にするっていうよりも、休み休み新しい刺激を脳みそに与えながら勉強してたらずっと1番取れるんんちゃうかな〜」

「休み休み……新しい刺激……たしかにやってみるのも良いかも」

俺がこれまで考えようともしなかった新しい視点とアドバイスにどんどん胸が高揚してくる。

何よりも、苦手なことを克服しようとばかり考えていたから、吉良先輩の考え方は新鮮でワクワクした。

「あのっ、また今度も勉強会、先輩の迷惑じゃなければお願いしますっ」

気持ちが昂ったからか、勢いよく先輩の服の裾を掴んで言った。

「ふふっ、ええよぉ。千秋ちゃんならいつでもかまへんよ」

そう言った先輩は、また俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

初めて頭を撫でられたときとは違って、褒められているような、あやされているような、くすぐったい気持ちになった。


 吉良先輩との初めての勉強会を終えた俺は、帰宅するとすぐにベッドに飛び込んだ。

仰向けになって目を瞑り、恋愛の噂が絶えなくて、俺に好きだと言ってきた吉良先輩のことを考える。

勉強し始めた時はちょっと緊張したけど、勉強の教え方はすごくわかりやすかったし、休憩中にした雑談もくだらなくて、時々笑いすぎて涙が出た。

何よりも、ずっと学年主席を取り続けている吉良先輩に褒めてもらえた瞬間のことを思い出すと、胸がくすぐったくなる。

自分が想像していた吉良先輩のイメージとは全然違って、案外、良い人なのかもしれないと思った。