屋上には、僕ら以外誰も居ない。
 その状況が、今はとても有り難かった。
「加瀬!」
「……」
「かーせー!」
「……聞こえてる」
 僕は転落防止用の柵の方を向いて長谷に答えた。長谷が「もう!」と唸って僕の肩を叩く。僕はゆっくりと彼を見た。長谷は、金髪を指で触りながら僕に言う。
「あのさ……正直に言うと、他人が作ったものは苦手なんだよね」
「そう……」
 僕はコンクリートを見つめる。やっぱり弁当は無理に食べてくれたんだと思うと、なんとも言えない気持ちになる。
 加瀬は、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「……一番最初に、加瀬が食べろって言った時、正直、ちょっと困った。弁当なんて、手作りの代表じゃん? それを食べるのは戸惑った」
「……そっか。ごめん」
「いや、これには理由があるんだ」
「……理由?」
 首を傾げる僕に、加瀬は言いにくそうに口を開いた。
「あのさ……俺が一年ダブってるのは知ってるだろ?」
「うん」
「それには、手作りのトンカツに原因があるんだ」
「……トンカツ?」
 意味が分からなかった。僕は長谷の目を見た。その目には、少しの翳りが見えた。
「俺、推薦で大学を受ける予定だったんだよね」
「推薦……」
 驚いた。考えてみれば、僕は昨年の長谷のことを何も知らない。
「でさ、当時付き合っていた彼女が居て、その子は俺を応援するつもりで手作りのトンカツを振る舞ってくれたんだ。受験の前日に」
「え……」
 まさか。
 嫌な予感がした。
 僕は長谷に「それって……」と小さく言った。長谷は頷く。
「そう。お察しの通り、加熱不足のせいで食中毒になりました。で、しばらく入院。受験はパア。ついでに期末試験も追試も受けられなくて、留年。このことは先生たちは知ってるけど、生徒は知らない。俺が口止めしたから。格好悪いだろ? 食中毒で何もかも失敗したってのは」
「格好悪くなんて……!」
 僕は思わず長谷の肩を掴んだ。細い。折れそうなくらい、長谷は脆い。
「それじゃ、その彼女とは今も会ったりするの?」
「いや、卒業と同時に音信不通。責任取れって俺が言うと思ってるんだろうな。そんなこと言わないのに。あーあ、冷たいよな」
「長谷……」
 こんな時、どう言葉を掛けたら良いのだろう。僕は必死に言葉を探したけど、相応しい言葉は何も見つけられなかった。
 そんな僕に、長谷は苦笑しながら言う。
「ま、暗い話はここまでで……加瀬、お前の弁当は、何故だか俺を惹きつけたんだよ」
「惹き、つけた?」
「そう」
 長谷は目を細めて笑った。
「なんか、この子の作ったものなら大丈夫って思えた。だから、食べさせてもらった。そしたら、案の定めっちゃ美味かった!」
「っ……」
「俺、加瀬の手作りのものなら平気。もっといっぱい食べたいって思う。だからさ、迷惑だなんて思ってないから……ずっと、俺に食べさせてよ」
「う……」
 どうして、涙が出るんだろう。
 僕は目元を隠すために俯いて長谷に言った。
「……怖いよ。また長谷が傷付くことにでもなったら……」
「そんなことにはならない。絶対。分かる」
 ぎゅう。
 僕を安心させるように、長谷は僕を抱き締めて来た。僕はされるがまま、その体温に身を任せる。男らしい、硬い骨が肩にぶつかった。
「ずっと、俺の胃袋を掴んでいてよ」
「……うん」
「約束な」
 耳元で聞こえる長谷の声がくすぐったい。僕はなんだか恥ずかしくて、長谷の胸に顔を埋めた。
 
 ***
 
「美味い! やっぱ、この味!」
「……甘くない? 今日の卵焼きは失敗かなって思ってたんだけど」
「そんなことない! 最高の一品! 三つ星レストランの味!」
 僕の作った弁当を食べながら、長谷は嬉しそうに笑う。変なの。僕の手作りは平気なんて、変なの……。
 でも、ちっとも嫌じゃない。
 むしろ——嬉しい。
 長谷を独り占めしているみたいで、小さな優越感を得ている。けど……。
「何?」
「え?」
「いや、俺のこと見つめてたから」
「あ……」
 長谷の言葉に、僕は肩をすくめる。
「あのさ……こうやって食事をしてるの、誰にも見られない方が良いよね、って思って」
「え? なんで?」
「だって、長谷は他人の作ったものは食べないってことになってるから……僕の手作り弁当を食べてるのはおかしいよ」
「そんなの、付き合ってるから問題無いじゃん」
「あ、そうか」
 え?
 待って、付き合うって言った……!?
 僕は長谷に訊いた。
「誰と誰が付き合ってるって!?」
「加瀬と俺」
 当然のように長谷は言う。僕は意味が分からず、また訊き返してしまった。
「誰と誰が……っ!」
「え? だって、俺に気があるから弁当を作ってくれてるんでしょ?」
「な……!」
 どう都合良く解釈したらそうなるんだ!?
 僕は「付き合って無い!」と長谷のつむじを指で押しながら言った。
「まだ出会って間も無いのに、付き合うとか無いでしょ!?」
「えー。違うの? 俺のこと嫌い?」
「き、嫌いじゃ無いけど……」
「じゃあ、好き?」
「……」
「俺は好き。好きになっちゃった」
 ぐいぐいくる長谷に、僕はどう返せば分からなくなった。さすが、彼女が居ただけのことはある。すごい行動力だ。
「えっと、味噌汁? 俺に毎日作ってよ」
「何それ。プロポーズのフレーズじゃん」
「そう受け取ってくれても良いよ。俺はこの先、加瀬の作ったものしか食べられない身体になっちゃったから」
 弁当箱をランチョンマットの上に置いて、長谷は僕にずいっと近付いた。急に真面目な顔になるから、僕はどきっとしてしまう。
「……ちゅーして良い?」
「は……?」
「したい。加瀬のこと、好き。俺のものにしたい」
「っ……! 駄目! まだ早い!」
「けちー」
 頬を膨らませる長谷を、僕は呆れて見つめた。そもそも、まだ「付き合って無い」んだから!
 き、キスなんて……駄目!
 僕は食べ終わった弁当箱の蓋を閉めながら、まだ膨れている長谷の頬を指でつつく。
「キスは付き合って三ヶ月の記念日!」
「えー!? 中学生じゃん。そんなの」
「高校生も中学生も、そんなに変わらないよ。たぶん」
「変わるって。俺はキスもその先もしたいのにー」
 とんでもないことを言う長谷を無視して、僕はランチョンマットの上の長谷の弁当箱から、箸で冷凍のハンバーグを取って彼の口元に近付けた。
「ほら、あーん」
「え? 食べさせてくれんの?」
「……一応、付き合ってるんだから。まぁ、このくらいは」
「え!? 付き合うのはオーケーしてくれんの!?」
 長谷の目が輝く。
 僕はあえて目を逸らしながら、小さな声で彼に言った。
「僕も、たぶん長谷のこと、好きだし」
「たぶんってなんだよー」
 ぎゅう。
 飛び付いてくる長谷に押し倒されて、僕は危うくコンクリートで頭をぶつけるところだった。
「こら! 箸を持ってるんだから急に暴れるな!」
「好き! マジで加瀬、大好き!」
 言いながら、長谷は僕の頬にくちづけた。文句を言ってやろうと思ったけど、まぁ、頬だし良いかな……と、僕は苦笑しながら、それを受け入れたのだった。