ぴぴぴ、ぴぴぴ。
 僕は枕元に置いてある目覚まし時計を止めて、のそのそとベッドから出た。時間はちょうど朝の六時。高校までは、自転車で二十分くらいだけど、弁当を作らないといけないから早起きするのが日課になっている。
 着替えてから階段を降りてリビングに入ると、化粧を終えた母がチーズの乗ったトーストを齧っている最中だった。
「おはよう。今日、遅くなるから、夕飯適当に食べておいてね」
「おはよう。分かった」
 挨拶を交わして、僕は顔を洗いに洗面所に向かった。そして、いつも通りの身支度を済ませてから、自分の分の食パンをトースターで焼く。
「そういえば、もうすぐ進路の面談あるでしょう?」
「あ……うん」
 昨夜から保温してある白米を弁当箱に詰めながら、僕は頷いた。
「もうすぐ、日程のアンケートを配るって先生が言ってた」
「そう……早く日を決めてもらいたいわ。仕事の都合もあるし」
 僕の家は母子家庭だ。
 まだ僕が赤ん坊だった頃に離婚をしている母は、僕のことをほぼひとりで育ててくれた。
 これ以上、負担になりたくないから、高校を卒業後は働こうと決めていたけど——。
「大学には行ってね」
「……そのことなんだけど」
「駄目よ。絶対に」
 母はふっと笑う。
「高校だって、交通費のいらない地元を受けてくれたでしょう? あなたは遠慮をしすぎよ」
「それは……」
「キャンパスライフ、きっと楽しめるわ。まだ子供なんだから、変に気を遣わなくて良いのよ? お母さんはこれでも結構、稼いでいるんだから」
「……うん」
「文学部に行きたいんでしょ? 頑張りなさいな」
「ありがとう」
 僕は、まだ白紙の進路希望のプリントのことを思い出した。締切は今週中だ。早く、書かないと。
「あ、もうこんな時間」
 ついているテレビで、星座占いが始まったタイミングで、母が立ち上がった。
「ごめん! これ、片付けてくれる?」
「うん。分かった」
「それじゃ、行ってきます!」
 行ってらっしゃい、と僕は母を見送ってから、弁当を詰める作業を再開した。自分で出来ることは自分でやる。それが、我が家のルールだ。弁当作りは、中学の頃からやっているので慣れている。
 卵焼きを作っていると、チン、とトースターが鳴った。今日はブルーベリーのジャムを塗ろうと思う。卵焼き用のフライパンを揺らしながら、今日も長谷はこれを食べてくれるのかな……なんてことを考えた。
「ほんと、変な奴……」
 僕は昨日の昼休みのことを思い出した。
 何が「可愛い」だ……! そんな言葉、言われても、嬉しくなんて……!
 僕はコンロの火を止めて、出来立ての卵焼きをまな板の上に置いた。
 何故だが分からないけれど、今日のこれはいつもより、甘く出来た気が、する。
 
 ***
 
 家を出て自転車を漕いでいると、駅の近くの自動販売機の前に、ギターのケースを背負った金髪を見つけた。
 挨拶、した方が良いよね……。
 僕は自転車の速度を緩めたのと同時に、金髪が振り返る。手にココアの缶を持っていた長谷は、にこっと笑って僕に言った。
「おはよ、加瀬」
「あ、おはよう……」
 僕は自転車から降りて、長谷の横に立った。長谷は興味有り気に僕の自転車を観察している。
「チャリ通なんだ?」
「うん。地元民だからね」
「電車だと思ってた」
「長谷は電車?」
「そう」
 長谷は深く頷く。
「もしかして、同じホームから出て来るかなって待ってたんだけど、まさかチャリだとは予想外」
「待ってた? 僕を?」
 僕は驚いて長谷を見つめる。
「何か、用事だった?」
「いや……」
 長谷はココアの缶を傾ける。ふわっと甘い香りがした。
「用は無いけど、会えたらラッキーじゃん」
「ラッキー?」
「そう。スーパーラッキー」
 言いながら、長谷は僕の自転車の後ろに跨ろうとした。慌てて僕は止める。
「駄目! ふたり乗りは駄目だよ!」
「真面目か」
「ええ、とても」
 僕の言葉に、長谷はぷっと吹き出した。
「それじゃ、歩きながら、一緒に登校しようぜ」
「ああ、ならオーケー」
 僕は自転車の手すりを握って、ゆっくりと歩き出した。こうやって誰かと登校するのは、考えてみれば初めてのことだ。
「今日一限目って何?」
「えっと……古典かな。確か」
「うわー。一番眠い授業!」
 缶を振りながら長谷が言う。言われてみればそうだ。古典を担当している先生の声は、何故だか眠気を誘うのんびりした声。朝からあの声を聞くと、眠くなるなぁ……。
「長谷のクラスは何なの?」
「うーんと、体育」
「良いなぁ」
「良く無い。持久走とか言ってたから、今からサボりたくて仕方無いわ」
 僕はちらりと長谷を見る。細い。持久走なんかやったら、半分くらいの距離でバテちゃうんじゃないかな。年もいっこ上だし、その……体力とか僕らに比べたら、落ちてそう。
 僕の視線に気が付いたのか、長谷はわざとらしく頬を膨らませた。
「やだ、加瀬君。そんなに、じろじろ私を見るなんて、下心があるに違いないわ!」
「え!? いや、僕は別に……」
「それか、とっても失礼なことを考えていたのね! 間違い無いわ!」
「なに、そのキャラ……」
 僕は息を吐く。昨日行っていた「人見知りをする」ってのは、絶対に嘘だと思った。
「細いから心配してたんだよ」
「え? 細い? 俺が?」
 僕の言葉に、長谷はきょとんとした。
「普通じゃない? 服はエルサイズだし」
「それは身長があるからだよ。ちゃんと朝ごはん食べて来た?」
「朝飯は、これ」
 すっとココアの缶を見せてきた長谷を、僕は心配でたまらない気持ちで見つめた。
「……ダイエットでもしてるの?」
「まさか! 育ち盛りの俺にそんなものは不要!」
「なら、どうして朝食を抜いて来るの?」
「だって、時間の許す限り寝ていたいから」
 僕は腕時計を見た。校門が閉まるまで、まだ三十分もある。ぎりぎり遅刻なんてことにはならない。矛盾している。
 長谷は「ああ」と声を出した。
「今日は、特別に早く家を出たんだ」
「特別? どうして?」
「そんなの決まってる」
 ぱちん、と長谷はウインクしてみせた。
「偶然を装って、加瀬と登校するため!」
「……は?」
 長谷は何を言っているんだろう。
 偶然を装う? なんのために? いや、僕と登校するためか……はい?
「あのさ、長谷……」
「やば、口が滑った!」
 そう言うと、長谷は僕の肩を軽く叩いてから、早足で校門に向かって行ってしまう。
「それじゃ、また昼休みな!」
「え、あ、ちょっと!」
 長谷は透視能力でもあるのだろうか。確かに、弁当箱はふたり分あるけど……。
「……変な奴」
 僕は小さくそう零した。
 あんなに明るい長谷が、僕なんかに構ってくる理由が分からない。
 ——可愛いね。
「っ……!」
 長谷の言葉が頭の中によみがえる。
 もう、何が何だか分からない……!
「ほんと、変な奴!」
 僕は勢い良く自転車に跨って、駐輪場までの道を急いだ。
 昼休み、どんな顔をして長谷に会えば良いのか、さっぱり分からない。
 ぐるぐる考えを巡らせながら、僕は弁当箱の入ったリュックをそっと撫でた。