「……雨」
 翌日の昼休み、僕は小さく呟いた。
 今朝から生憎の天気で、今日は屋根の無い屋上での食事は出来そうに無い。
 ——卵焼き、作ったのにな。
 卵焼きの他にも、いろいろと用意した。偶然、家にあった使っていない弁当箱に、冷凍食品のおかずと白米をぎゅうぎゅうに詰めて来たのだ。
 長谷は、身長のわりには細かった。きっと普段からご飯を抜いているに違いない。僕は別にあいつの「オカン」では無いが、なんだか、どうしようも無く心配になったのだ。
「なぁ、加瀬。教室で食べるなら一緒に食べないか……って、あれ?」
 カバンからイチゴのパンを取り出しながら前田が廊下の方を見た。そして、固まる。どうしたのだろうか、と僕もそちらを見た。視線の先には——長谷が明るい髪を揺らしながら、こちらに向けて手を振っているのが見えた。
「ね、ねぇ……長谷さんじゃない?」
「誰を待っているのかな?」
 女子たちが、ざわざわと騒ぎ出す。もしかして、長谷って人気があるの……?
「あーあ、イケメンは得だよなぁ」
 前田が息を吐く。
「なんだろ、こっち見てるけど……このクラスの奴で彼女になった女子が居るんかな」
「あの人、人気あるの?」
 首を傾げる僕に、前田は「ああ」と頷いてみせた。
「年上ブームだよ」
「年上ブーム?」
「一個上なんだ、あのイケメンさんは。理由は知らんけど……とにかく、女子高生は年上の男に弱い! 俺らみたいな同い年の奴なんか眼中に無いって感じだな。年上の余裕ってやつを、あの男は持っているに違いない」
「……へぇ」
 知らなかった。だって、長谷とは一度も同じクラスになったことが無いし、部活だって違う。そもそも僕は、身近な人間以外には興味をあまり持たないので、女子たちが「年上ブーム」なんてものにハマっているなんて想像もしていなかった。
「僕、ちょっとご飯食べてくる」
「え? この雨の中で!?」
「場所は変えるけど……約束があるから」
「や、約束!? ま、まさかお前もとうとう彼女が……!?」
「違う、違う」
 僕は苦笑しながら、いつものようにランチトートと文庫本を用意した。
「あの人……長谷が待ってるの、僕だから」
「へぇ……え、ええっ!?」
 裏返った前田の大声が、教室内に響き渡った。

 ***
 
「やほーっ」
「……どうも」
 人懐っこい笑顔で手を振る長谷のもとに向かった僕の背中に、興味あり気な視線が突き刺さるのを感じる。それを気にしないふりをして、僕は長谷にランチトートをずいっと見せた。
「どこで食べる?」
「昨日の場所は?」
「屋上は雨だよ」
「ああ、なら……俺の部室で食べよう」
 そう言って、長谷は僕の手を取って大股で廊下を進んで行く。急に手を繋がれて、僕はびっくりした。
「ちょ、ちょっと……!」
「あはは、迷子になったら駄目だろ?」
 三年間も通っている校舎で迷子になってたまるか!
 僕は手を振り払おうとしたけど、長谷の力が強くて、それは叶わなかった。
 長谷は背が高い。僕より、五センチはデカいと思う。でも、細い。腕相撲をしたら、僕の方が余裕で勝てそうな見た目なのに……どこからこんな力が出せるんだろう。
「はい、到着!」
「……え? あれ?」
 連れて来られたのは、音楽室ではなくって美術室だった。驚く僕をよそに、長谷は慣れた様子でポケットから鍵を取り出して扉を開ける。
「ね、ねぇ……長谷は美術部なの?」
「え? 違うけど?」
「でも、ここ美術室だよね?」
「ああ、そっか」
 長谷はぽんと手を叩く。
「使わせてもらってるんだ。美術部の活動が無い、火曜日と金曜日に」
「そうなんだ……びっくりしたよ」
 納得した僕は、室内を見回す。選択授業で美術を取っていないので、ここに入るのは初めてだった。
「でも、なんで音楽室で活動しないの?」
 僕は石膏の像を指でつつきながら長谷に訊いた。長谷は息を吐きながら答える。
「音楽室は、毎日のように軽音部が使ってるから貸してくれない」
「へぇ……え?」
 おかしい。だって、長谷も軽音部でしょ?
 それなのに、貸してくれないとはどういう意味……?
 ぽかんと長谷を見つめていると、彼は困ったように眉を下げた。
「……俺、軽音部じゃないよ?」
「え……でも、昨日、ギターを持ってたじゃん」
「そう。持ってる。だって、俺はギター部だから」
「へっ?」
 軽音部の存在は知っていたが、ギター部というのがあるのは知らなかった。
「まぁ、とりあえず座ろうぜ」
 石膏の像の近くの席に長谷は座った。僕もそれに続く。何も喋らない像の存在は、ちょっとだけ不気味だった。
「軽音部とギター部って、違うの?」
「違うよ」
 ふふ、と長谷は笑う。
「向こうは、ほとんどの人がバンド組むって感じかな。でも、俺は……こう見えて、人見知りで友達を積極的に作れる性格じゃ無いから、バンドは向いてないかなって。ギター部は個人で好きな曲を演奏するだけだから気が楽なんだ。孤独な俺にピッタリ」
「人見知り? 本当かなぁ」
 ランチトートから弁当箱を取り出しながら僕は言った。昨日の今日で、こんなに自然に会話をしている長谷は、とてもじゃないが人見知りをするような人間には見えない。
 ふたつ目の弁当箱を取り出すと、長谷はそれを見て目を丸くした。
「え? もしかして、それは俺の分だったりするの?」
「あ、うん……」
 ちょっと照れ臭くなって、僕は頬を掻く。
「迷惑じゃなかったら、食べてくれると嬉しいな」
「迷惑だなんて! そんなこと思わない!」
 長谷は僕から弁当箱を両手で丁寧に受け取った。
「開けても、良い?」
「どうぞ」
 僕の言葉に、長谷はどこか緊張気味に弁当箱の蓋を開けた。そして、中身を見て目を分かりやすく目を輝かせる。
「えっ……美味そう。全部、食べても良いのでしょうか?」
「ふふ、どうぞ?」
 用意してきた割り箸を手渡すと、長谷は両手を合わせて「いただきます!」と元気に言った。そして、おかずに箸をつける。一番に彼が選んだのは——。
「ん! やっぱり、卵焼き美味い!」
 嬉しそうに長谷は卵焼きを頬張る。味付けは昨日と同じ。だから、よっぽどそれを気に入ってくれているんだな。なんだか照れ臭い……。
 僕も自分の弁当箱の蓋を開けて、あえて唐揚げを箸でつまんだ。
「長谷は、好きなものは先に食べるタイプなの?」
「ん。正解」
 細い見た目に似合わず、長谷は豪快に弁当を口に運んでいる。食が細いというわけではなさそうだ。やっぱり、痩せすぎなのは毎日の食生活のせい……?
「どうしたん?」
「え?」
「いや、箸が止まってるから」
 そこで僕は、自分の食事が中断してしまっていたことに気が付いた。
 まさか、長谷のことが気になっていたなんて言えない。だから、僕は咄嗟に自分の卵焼きを指差した。
「こ、これ。良かったら食べない? 随分と気に入ってくれてるみたいだし……」
「え!? 良いの? サンキュー!」
 あっという間に、僕の卵焼きは長谷に吸収された。
「そんなに、好き?」
 勢いのある食べっぷりを見て、思わず僕はそう口走っていた。長谷は笑顔で頷く。
「好き。大好き」
「っ……そ、そう……」
 長谷の言葉に、何故だか僕はどきどきしてしまった。
 長谷が好きって言ったのは、卵焼きだ。別に、僕に向かって言ったわけでは無いと分かっているのに……。
「ああ、マジでオカン。マジで愛妻」
「っ……! 母親なのか妻なのか、どっちだよ!」
 照れ隠しに、僕も弁当を食べるスピードを早める。そんな僕の耳元で、長谷はふっと笑いながら囁いた。
「どっちにも、なってよ」
「ん!?」
 いきなりそんなことを言われて、僕は咽かけた。
「ば、馬鹿じゃないの!?」
「ははっ。なんか、加瀬ってさ……」
 長谷は目を細めて僕に言う。
「可愛いね」
 か、可愛い……!?
 僕は教室での、前田の言葉を思い出した。
 ——年上の余裕ってやつを、あの男は持っているに違いない。
 僕、もしかして長谷に遊ばれてる!?
 僕はもう一度「馬鹿じゃないの!?」と言って、残っていた白米を勢い良く口の中に放り込んだ。
「ふふ、マジで可愛い……」
 もう冗談は止せよ、と僕は言おうとした。
 けど、僕に向けられる視線があまりにも柔らかいものだったので、僕は何も言えなくなってしまったのだった。