気配を感じたのか、重なる瞼が持ち上がる。

 「は、ちょ、お前……なに……」

 寝起きの掠れた声が直接オレの身体に染み込んでくる。みぞおち辺りに馬乗りになっているから、いくら体格のいい男でも上手く身動きが取れない。

 やさしい泰斗なら尚の事だ。

 目を覚ましたのをきっかけに、上体を倒して泰斗の耳の傍に両手をつく。

 外は薄いネイビーの幕がかかり始めている。昼間の殺人級の太陽はすっかりどこかへ行き、あれだけ身体にこもって仕方がなかった熱も畳に吸収されていったようだった。

 「お前さ、ほんといい男だよな」

 ざざ、と風に揺られて、草木が擦れる。自然の雑音に混ざって、思ったよりも低い声が和室にこだました。力を入れて律さないと喉が震えてしまいそうで、オレは一度大きく息を吸った。
 オレの下で目をぱちくりさせている男は、未だに状況がわかっていないのか、「え」だの、「ん?」だの、意味のない音と疑問符を量産している。

 その姿がどうしようもなく愛おしくて、隆起する喉仏に指を這わせた。

 息を飲むのも、耳に届かない小さな声が喉を震わせるのも、手に取るようにわかる。

 「依弦……ほんとになに? おい、退けよ、」
 「オレがお前のこと好きだって言ったら、お前はどう思う?」

 泰斗の言葉を封じるように、重ねて紡ぐ。

 「オレにしか優しくすんなってわがまま言っても、いつもみたいに仕方ないなって笑って、聞いてくれる?」

 喉に這う指先が、熱を持って顎、頬へ伝っていく。
 慣れ親しんだ指はまるで、自分とは別の生き物みたいに、意思を持って泰斗に触れていく。

 バスケのゲームで勝った時のハイタッチや、会話の中での軽いスキンシップみたいに誰にでもするものじゃない。

 指先の奥に、人には言えない感情がある。

 「依弦、お前、いきなりどうしたんだよ」
 「いきなりじゃない」

 なぜこの男はこんなにも鈍いんだろう。この鈍さにオレがいくら苦しめられて、頭を悩ませたかなんて、たぶんこいつは知らない。

 「お前、ひとつも気づかないからこっちがビビったわ。そもそもあんな軽い捻挫で2週間も安静が必要なわけないし。そこから学校いる間はずっとオレと一緒で、女子からも遠ざけられて、おかしいと思わなかった?」

 一息でまくし立てるように話す。
 指先が、オレの意思に反して泰斗の唇を撫でる。

 「お前が世話焼いてくれるのが嬉しくて、馬鹿みたいに縛りつけちまったけどさ。そろそろ気付けよ」

 1年のあの時、ドリブルをしている相手からボールを奪おうと思った。持ち前の小ささと俊敏さを活かして仲間と敵の合間を縫っていつも通り走る。ボールの主なところまで辿り着いたはいいものの、相手が想像以上にデカくて少し身体が接触しただけでふっ飛ばされてしまった。

 オレは軽い捻挫で済み、医者からは念の為1週間は安静にするようにと告げられたが、実のところ次の日から問題なく足は動いた。なのに、オレをふっ飛ばしたヤツはバカみたいに優しくて、オレの怪我に責任を感じていると、養護教諭から話を聞いた。

 同じクラスの、春日井泰斗。名前と、背が高いということしか知らなかったけれど、何度も何度も謝ってきて、懸命にオレの身辺の世話をし始めた時には驚いた。

 足が動かないフリをして、甘えたのが間違いだったんだ。

 自分の親に甘えられなかった分を、全てこの男にぶつけているようで。女の子とは違うてのひらの大きさ、背中の分厚さ、オレの名前を呼ぶ低い声。

 全てを自分のものにしたくてたまらなくなってしまった。

 この話をすると、泰斗はいつも申し訳なさそうな顔をする。けれど、オレはいつでもあの甘やかな痛みを、記憶の一番手前に、独占欲と所有欲と、支配欲と共にしまっている。

 いつでもすぐに思い出せるように。

 誰にも、泰斗にすらも探られないように、『問題児だけど明るくて盛り上げ上手で、実は頑張り屋な木爪依弦』で飾り立てて。

 そうしたら、誰にも気付かれず泰斗のことを好きでいられるし、誰にも不思議がられずに、泰斗を傍に置いておくことができる。

 「ごめんな、お前の優しさに漬け込むようなことして。でも、もう、お前の隣を誰かに譲るつもりなんかねぇんだわ」

 口角の片側だけを吊り上げて、笑う。

 分厚い身体とは正反対の薄い唇に、自分のそれを重ねる。

 「どう? 初めてのキスは」
 「わかんねぇよ、短すぎて」
 「次は泰斗の方からしろよ」

 男同士なのに、友だちなはずなのに。
 泰斗は今まで、たったの一度も、本気でオレを拒絶したことがない。こんな感情をぶつけられても、柔らかく微笑んでいる。

 もう、オレの勝ちだ。

 首がぐっと引き寄せられ、答え合わせをするように唇を重ねる。

 「……これが答えかよ。いいよ、俺の負けだ。好きだよ、お前のこと」
 「遅ぇよ。やっと気づいたか」

 泰斗が腹の上に跨るオレを見上げる。泰斗が自分より下にいるのが珍しくて、思わずくすりと笑ってしまった。
 一呼吸置いて、身体を起こした泰斗に抱きしめられる。馬鹿力が。骨が軋む音がしてさすがに命の危機を感じた。
 恋人との触れ合いどうこうの前に、まずはこいつに、人との触れ合い方を教えないといけない。

 「泰斗……んな触り方してるうちは、オレのこと抱かせねぇからな」

 直接的な言葉にぎくりとしたのが分かった。外が暗くなり始めているのがもったいない。明るいところだったら、染まった頬をからかってやったのに。

 「……その前にっ! お前は家帰れ。つか寝ろ。できる範囲で。んでまた明日学校来い。話はそれからだ」
 「へぇへぇ。わかりましたよ童貞くん」

 まぁ、ゆっくりでいいだろう。

 どうせ、逃がしてやるつもりなんてないし。