10月でも、頭が茹だりそうなほど暑い日がある。
今日は午後から教師たちの会議があるとかなんとかで、午前のみの授業になっている。何もわざわざそんな日に持久走なんてやらなくてもいいじゃないかと思うのに、グラウンドを延々と走り続ける俺達を、教師は日陰で叱咤する。
「春日井! 本気出してないだろ!」
剣道部顧問が体育担当の教師なのは厄介だ。少しでも手を抜くとバレてしまう上に、下手すれば部活時間を削って説教をされることになる。
「すんません!」
ここでは心の中で舌打ちをするに留めて、黙ってペースを上げておくことが最良だとこれまでの失敗から学んだ。あとで何か言われたらテキトーに謝っておけばいい。
普段走り込みをしている上に、他の奴らよりも脚の長さがある分、余裕も生まれる。俺の前にいるのはサッカー部のエースとバスケ部のレギュラーだけで、あとの生徒は半周以上後ろを走っていた。
代わり映えのないトラックを走り続ける。いっそ外周にしてくれればまだマシだったのに、と無駄なことを考えている間に、小さな背中に追いついた。
「依弦、お前もっと走れるだろ」
追い抜き際にそう肩を小突くと、目を細めてこちらを睨んでくる。息はかなり上がっていて、少しつつけば転んでしまいそうなくらい足取りが頼りなかった。
昨日の帰り道の依弦を思い出す。
もう高校生だ、自分の足でしっかりと歩けるに決まっている。依弦はバスケもサッカーも、スポーツならなんでもできて、身長差がある相手とのジャンプボールだって成功させられる。負けん気も強い。
何かおかしい。この走り方は。
「大丈夫か?」
少しペースを落としてそう尋ねると、ふいとそっぽを向いて拒絶された。
俺も顧問の目があったから、それ以上深入りすることはなく二度ほど依弦を抜かして走り続けた。順位は3位。結局サッカー部とバスケ部を抜かせなかったということで授業後に5分ほど顧問からありがたいお叱りを受けて、持久走は無事終わった。
「依弦、一緒に帰んじゃねぇの?」
体育を最後に授業はすべて終わる。今日は部活もないから、生徒たちは担任がホームルームの終了を告げると、各々の今後の予定を充実させるべく塊となって話に花を咲かせ始める。
今日は俺も部活がない。いつも、予定が合いそうな時は真っ先に後ろから声をかけてくるのに、今日は着替え終わって足早に出口へ向おうとしていた依弦を、不思議に思いながらも呼び止めた。
「おい、依弦」
「あ、あぁ、うん。早く帰ろ」
頑なに依弦は俺から顔を逸らす。顔が背けられていても、その首筋、耳、頬と赤くなっているのがありありとわかる。
0時ちょうどの太陽が、真上から俺達の頭頂部をジリジリと焦がしていく。持久走の熱は引かず、制服のカッターシャツが肌にはりついて気持ち悪い。
「…………」
右隣で不規則に揺れる頭を横目で見る。一言も発さず、ただ黙々と足を進める依弦に、少し腹が立った。
「依弦」
返事はない。
「俺には言ってくれよ」
「…………」
帰路に唯一ある信号が赤になる。車を1台、2台見送ると、もう道を阻むものも、俺たちを見ているものもなくなった。
それを見計らったように右半身に、とす、と重みがのしかかってきた。
熱い身体。
太陽の熱を上手く逃がし切ることができず、すべてを溜め込んでしまっている。
「熱中症だな。なんで言わなかった」
「いえ、迷惑、かけらんないから」
息を吐き、震える声でそう言う。俺は自分の鞄と依弦の鞄をまとめて肩にかけ、今にも前に倒れ込みそうな依弦を背負う。余計暑くなるかと思ったけれど、とりあえず安全が第一だ。意識はあるし話もできる。緊急性はない。
「俺んち連れてくぞ」
「わるい……」
家が近くてよかった。あと3分ほどで着く。
大人しく俺に背負われている依弦の熱が背中から直に伝わってくる。
小さな身体にこんな熱を蓄えていたのか。
なぜ早く言ってくれなかったのか。
あの時俺がちゃんと走り続けるのを止めるように言っていれば。
しても仕方がない後悔ばかりが頭を占めるのを振り払うように、懸命に足を動かした。
俺の家はじいちゃんからの譲りもので、無駄に広くて部屋数も多い。突然依弦を連れてきたところで、家族の誰も困りはしない。
「あ、兄ちゃんも帰ってきたんだ。……だれ?」
玄関で中2の弟がアイスを齧りながら出迎えてくれる。修学旅行の関係でテストが早まり、この1週間は午前で帰宅してきている。俺の背に乗る物体に目を遣り、のんびりしている場合ではないと悟ったのか急いでアイスを食べきった。
「友だち。なぁ優斗、タオルケット2枚と氷嚢4つ用意してくれないか? あと母さんにも伝えといてくれ。熱中症だ」
「ん。和室に持って行っとく。あとポカリと扇風機も置いとくね。和室かなり涼しいから扇風機で十分だよ」
我ながらよくできた弟だと思う。剣道一家で夏に熱中症でぶっ倒れることなんて日常茶飯事だったから、対応には手慣れている。よほど重症でない限りは、冷やして和室に転がしておけというのが家訓となりつつあった。
「おい、依弦、起きてるか?」
「……ん。ごめん。ありがと……。お邪魔します」
「律儀だな、お前」
背負ったまま依弦のスニーカーを脱がせて、玄関に放っておく。縁側に面した和室には、優斗が用意してくれた物一式が綺麗に揃えられていた。
「ちょっと休んどけ」
「ぅん……」
依弦を横たわらせ、腹にタオルケットをかけてやる。頭の下に敷いたタオルケットの高さを調整し、首筋と腋窩、気休めに額にも氷嚢を乗せる。
太陽さえ遮ってしまえばかなり涼しい。風が吹くと庭の草木がかさかさと擦れ合う音がして、さっきまでの焦りが和らいでいくような気がした。
そういや今日半日、依弦の顔をしっかり見ていなかった。
まだ熱の残る、綺麗な顔。眉間に寄った皺は顔の赤みが引くにつれて少しずつ消えていく。
「お前、クマ酷いな」
目の下をそっと撫でる。濃いクマが目の下に巣食っていて、1日やそこらでできたものじゃないことだけは確かだった。身長差を理由に、ちゃんと依弦の顔を見ていなかった自分に猛烈に腹が立つ。
「最近寝れてないのか?」
尋ねると、視線だけこちらに寄越して小さな声で答える。
「ずっとだよ。うち、夜は飲み屋やってて。母さんひとりだから、日中は会社で働いて、夜は居酒屋。それでオレの学費とか全部出してくれてんだ。オレが知らんふりしてたら、母さん倒れるだろ」
それだけ言って、依弦はすぅ、と目を閉じた。
同時に、白い指先が俺の指を絡め取る。
「暑いだろ」
「いいから、うるさい。頭に響く」
規則的な呼吸に安堵すると、これまで焦りに支配されていた思考がクリアになる。
授業中の居眠り、目の下のクマ、成績は上位を維持、体調が悪くても誰にも伝えない。
全部、母親に迷惑をかけないようにした結果だ。
家のことを手伝っているから、夜眠れない分、学校で眠る。どうせ眠れないからって、夜の空いた時間に勉強しているんだろう。進学のことを考えて成績は維持はマスト。それに、体調不良を訴えた際、一番に連絡がいくのは親だから、教師に体調不良を伝えるのは避けるに決まっている。
「……もっと早く言えよ」
悔しくて目に薄らと水の膜が張る。
俺は近くにいたのに、何もできなかった。
あの時も、今も。何も変わっちゃいない。
穏やかな表情で眠る依弦の横に、自身の身体を横たえる。
俺よりも遥かに小さい身体で、そんなもん背負ってんじゃねぇよ。
絡んだ指から力が抜けていく。
人に頼れない依弦が、俺の横で眠っている。
それが嬉しくて、依弦の頬に手が伸びる。
いつから俺は、こいつから離れられなくなったんだろう。
今日は午後から教師たちの会議があるとかなんとかで、午前のみの授業になっている。何もわざわざそんな日に持久走なんてやらなくてもいいじゃないかと思うのに、グラウンドを延々と走り続ける俺達を、教師は日陰で叱咤する。
「春日井! 本気出してないだろ!」
剣道部顧問が体育担当の教師なのは厄介だ。少しでも手を抜くとバレてしまう上に、下手すれば部活時間を削って説教をされることになる。
「すんません!」
ここでは心の中で舌打ちをするに留めて、黙ってペースを上げておくことが最良だとこれまでの失敗から学んだ。あとで何か言われたらテキトーに謝っておけばいい。
普段走り込みをしている上に、他の奴らよりも脚の長さがある分、余裕も生まれる。俺の前にいるのはサッカー部のエースとバスケ部のレギュラーだけで、あとの生徒は半周以上後ろを走っていた。
代わり映えのないトラックを走り続ける。いっそ外周にしてくれればまだマシだったのに、と無駄なことを考えている間に、小さな背中に追いついた。
「依弦、お前もっと走れるだろ」
追い抜き際にそう肩を小突くと、目を細めてこちらを睨んでくる。息はかなり上がっていて、少しつつけば転んでしまいそうなくらい足取りが頼りなかった。
昨日の帰り道の依弦を思い出す。
もう高校生だ、自分の足でしっかりと歩けるに決まっている。依弦はバスケもサッカーも、スポーツならなんでもできて、身長差がある相手とのジャンプボールだって成功させられる。負けん気も強い。
何かおかしい。この走り方は。
「大丈夫か?」
少しペースを落としてそう尋ねると、ふいとそっぽを向いて拒絶された。
俺も顧問の目があったから、それ以上深入りすることはなく二度ほど依弦を抜かして走り続けた。順位は3位。結局サッカー部とバスケ部を抜かせなかったということで授業後に5分ほど顧問からありがたいお叱りを受けて、持久走は無事終わった。
「依弦、一緒に帰んじゃねぇの?」
体育を最後に授業はすべて終わる。今日は部活もないから、生徒たちは担任がホームルームの終了を告げると、各々の今後の予定を充実させるべく塊となって話に花を咲かせ始める。
今日は俺も部活がない。いつも、予定が合いそうな時は真っ先に後ろから声をかけてくるのに、今日は着替え終わって足早に出口へ向おうとしていた依弦を、不思議に思いながらも呼び止めた。
「おい、依弦」
「あ、あぁ、うん。早く帰ろ」
頑なに依弦は俺から顔を逸らす。顔が背けられていても、その首筋、耳、頬と赤くなっているのがありありとわかる。
0時ちょうどの太陽が、真上から俺達の頭頂部をジリジリと焦がしていく。持久走の熱は引かず、制服のカッターシャツが肌にはりついて気持ち悪い。
「…………」
右隣で不規則に揺れる頭を横目で見る。一言も発さず、ただ黙々と足を進める依弦に、少し腹が立った。
「依弦」
返事はない。
「俺には言ってくれよ」
「…………」
帰路に唯一ある信号が赤になる。車を1台、2台見送ると、もう道を阻むものも、俺たちを見ているものもなくなった。
それを見計らったように右半身に、とす、と重みがのしかかってきた。
熱い身体。
太陽の熱を上手く逃がし切ることができず、すべてを溜め込んでしまっている。
「熱中症だな。なんで言わなかった」
「いえ、迷惑、かけらんないから」
息を吐き、震える声でそう言う。俺は自分の鞄と依弦の鞄をまとめて肩にかけ、今にも前に倒れ込みそうな依弦を背負う。余計暑くなるかと思ったけれど、とりあえず安全が第一だ。意識はあるし話もできる。緊急性はない。
「俺んち連れてくぞ」
「わるい……」
家が近くてよかった。あと3分ほどで着く。
大人しく俺に背負われている依弦の熱が背中から直に伝わってくる。
小さな身体にこんな熱を蓄えていたのか。
なぜ早く言ってくれなかったのか。
あの時俺がちゃんと走り続けるのを止めるように言っていれば。
しても仕方がない後悔ばかりが頭を占めるのを振り払うように、懸命に足を動かした。
俺の家はじいちゃんからの譲りもので、無駄に広くて部屋数も多い。突然依弦を連れてきたところで、家族の誰も困りはしない。
「あ、兄ちゃんも帰ってきたんだ。……だれ?」
玄関で中2の弟がアイスを齧りながら出迎えてくれる。修学旅行の関係でテストが早まり、この1週間は午前で帰宅してきている。俺の背に乗る物体に目を遣り、のんびりしている場合ではないと悟ったのか急いでアイスを食べきった。
「友だち。なぁ優斗、タオルケット2枚と氷嚢4つ用意してくれないか? あと母さんにも伝えといてくれ。熱中症だ」
「ん。和室に持って行っとく。あとポカリと扇風機も置いとくね。和室かなり涼しいから扇風機で十分だよ」
我ながらよくできた弟だと思う。剣道一家で夏に熱中症でぶっ倒れることなんて日常茶飯事だったから、対応には手慣れている。よほど重症でない限りは、冷やして和室に転がしておけというのが家訓となりつつあった。
「おい、依弦、起きてるか?」
「……ん。ごめん。ありがと……。お邪魔します」
「律儀だな、お前」
背負ったまま依弦のスニーカーを脱がせて、玄関に放っておく。縁側に面した和室には、優斗が用意してくれた物一式が綺麗に揃えられていた。
「ちょっと休んどけ」
「ぅん……」
依弦を横たわらせ、腹にタオルケットをかけてやる。頭の下に敷いたタオルケットの高さを調整し、首筋と腋窩、気休めに額にも氷嚢を乗せる。
太陽さえ遮ってしまえばかなり涼しい。風が吹くと庭の草木がかさかさと擦れ合う音がして、さっきまでの焦りが和らいでいくような気がした。
そういや今日半日、依弦の顔をしっかり見ていなかった。
まだ熱の残る、綺麗な顔。眉間に寄った皺は顔の赤みが引くにつれて少しずつ消えていく。
「お前、クマ酷いな」
目の下をそっと撫でる。濃いクマが目の下に巣食っていて、1日やそこらでできたものじゃないことだけは確かだった。身長差を理由に、ちゃんと依弦の顔を見ていなかった自分に猛烈に腹が立つ。
「最近寝れてないのか?」
尋ねると、視線だけこちらに寄越して小さな声で答える。
「ずっとだよ。うち、夜は飲み屋やってて。母さんひとりだから、日中は会社で働いて、夜は居酒屋。それでオレの学費とか全部出してくれてんだ。オレが知らんふりしてたら、母さん倒れるだろ」
それだけ言って、依弦はすぅ、と目を閉じた。
同時に、白い指先が俺の指を絡め取る。
「暑いだろ」
「いいから、うるさい。頭に響く」
規則的な呼吸に安堵すると、これまで焦りに支配されていた思考がクリアになる。
授業中の居眠り、目の下のクマ、成績は上位を維持、体調が悪くても誰にも伝えない。
全部、母親に迷惑をかけないようにした結果だ。
家のことを手伝っているから、夜眠れない分、学校で眠る。どうせ眠れないからって、夜の空いた時間に勉強しているんだろう。進学のことを考えて成績は維持はマスト。それに、体調不良を訴えた際、一番に連絡がいくのは親だから、教師に体調不良を伝えるのは避けるに決まっている。
「……もっと早く言えよ」
悔しくて目に薄らと水の膜が張る。
俺は近くにいたのに、何もできなかった。
あの時も、今も。何も変わっちゃいない。
穏やかな表情で眠る依弦の横に、自身の身体を横たえる。
俺よりも遥かに小さい身体で、そんなもん背負ってんじゃねぇよ。
絡んだ指から力が抜けていく。
人に頼れない依弦が、俺の横で眠っている。
それが嬉しくて、依弦の頬に手が伸びる。
いつから俺は、こいつから離れられなくなったんだろう。

