「あ、持つよ。重いだろうし」
「ありがと。お言葉に甘えさせてもらう。じゃあこっちもらうね」
放課後、国語教師が明日の授業で使用するプリントの束を渡してきたらしく、クラスの女子が重そうな箱を持ちながら覚束ない足取りで廊下を歩いているところを見つけた。
少し残って勉強をしようと思い、俺が1階の資料室まで参考書を取りに行っていなければ、この子は3階まで重い箱を抱えて上る羽目になっていたのかと考えると少しぞっとする。
自分のみぞおちほどまでしか背丈がない女の子に、重いものは持たせられない。男女平等が謳われている世の中だが、大きな男に生まれてしまったのもあって平等に対しては少し敏感だ。
だって、こんなにも違う。
「こんなん持たせるとか酷いよな」
「いけると思ったんだけど、持ってみたら意外と重かった。ありがとね」
「いくらでも。デカいのが役立つの、こういうときくらいしかねぇし」
教卓にどん、と箱を置き、中から紙の束を取り出す。バラを束ねて冊子にするらしく、計36ページにも及ぶ資料になるらしい。
「あとは私が綴じる。ありがとう、運ぶの手伝ってくれて」
俺が資料室から借りてきた物理の参考書が差し出された。礼を言って受け取ると、握られていた箇所だけほんのりと温かくて少しおかしかった。無機物から人の体温を感じると、どうも変な感じがする。
「にしても、春日井くん手大きいね。参考書がミニチュアみたいに見える」
「あーまぁ、うん」
B5判の参考書は確かに女子の小さな手で持つとそこそこのサイズに見える。世間話の延長に過ぎないのかもしれないけれど、改めてそんなことを言われても上手い反応というものが思いつかない。だから依弦から朴念仁と言われるんだろう。自分でもわかってる。
手が大きいことは別に胸を張るような事実でもあるまいし軽く流しておこうと思った矢先、開いた小さな手のひらが目の前に突き出された。
「え?」
「手、どんくらい大きさ違うのかなって」
それは、合わせろということか? 急に生み出された女子との触れ合いの機会に身体が硬直する。部活で人が散り散りになってしまった教室には、俺たちしかいなくて、大して関わりもないクラスの女子と至近距離で戯れるのは少し気が引ける。
こんなとき、依弦ならどうするんだろう。そういや、あいつどこ行ったんだ。今日は俺の部活が休みだから一緒に帰るとか言っていたくせに。依弦の机の上を見ると、中身がないせいでへしゃげてしまった通学カバンが放置されている。校内にはいるはずだが姿を見ていない。そんなことが足速に頭を駆けて行ったが、状況は変わらない。俺は観念して右手を出した。
「うわ、めっちゃ大きい! すごいなぁ、こんなに違うんだ」
ぴたっとくっつけられた手のひらは小さくて、しっとりとしていた。違いを楽しむように色々な角度から合わせられた手を覗き込まれ、彼女が少し動くたびに花のような、桃のような淡い香りが鼻腔をくすぐる。身近に母親以外の女性がいない俺にとって、こんなの心拍数を上げるなという方が無茶な話だ。
いつまで手を合わせていたらいいんだろう。引き際がわからなくて落ち着かなくなってきたとき、誰かが乱暴に扉を開ける音がして慌てて重なっていた手を引っ込めた。
「ぁ……い、づる……」
「なぁにしてんの? オレも混ぜてよ!」
授業中とは打って変わって無邪気にこちらへ駆け寄る依弦だが、前髪からちらりと覗いたその目は明らかに笑ってはいなかった。
勢いを殺しきれなかったと言わんばかりに俺に体当たりをし、そのままぴたりと身体をくっつけられる。あまりの近さに驚いて身を引くと、追いかけるようにして距離を詰められる。
「手の大きさ比べてた。春日井くんってほんとに手大きいよね」
「あー、そういうこと。随分仲良さそうだったから、泰斗と芳川さんがそういう感じなのかと思って一瞬焦っちゃった」
依弦が、にこ、と愛想のいい笑みを浮かべる。どんなことを言っても、何をしても許されそうなその笑顔が俺に向けられたことはないけれど、きっと他の人は見慣れているんだろう。この笑顔を見ると、なぜか胸がざらついたもので撫でられたような感覚がする。
綺麗なのに、その奥に何かがあるような、違和感が拭えない。
「たしかに、泰斗って手大きいよね。オレと比べてもこんなに違うんだから」
そう言って強引に右手を取られ、依弦のてのひらと合わせられる。俺より一関節分は小さいのに、女子とは違う。硬くて、骨っぽくて、吸い付いてくるような感覚もない。去り際にてのひらの中央部分を柔く引っ掻かれて、こそばゆさに思わず全身が力んでしまう。
「もしなんか手伝えることあったらオレもやるよ。2人より3人でやったほうが早いっしょ」
「あ、ありがと。2人とも、用事とかないの?」
「ないよ。オレも泰斗も」
なんで俺の分までお前が答えるんだよ。内心むっとしながらも依弦が言ったことは間違っていないから、大人しく頷いておく。
3人しかいない教室に、紙が擦れる音とホッチキスを止める音が響く。時折誰かが通り過ぎては、「何してんの?」と訊くだけ訊いて、手伝うことなく去っていく。
「ちょっと。お前、プリントの束の角ズレてる! ちゃんと角合わせてから差し出してくんね?」
「……すんません」
芳川さんが4ページ綴りの小冊子を作り、俺たちが32ページ綴りの大物を作る。長らく折り畳んで保管されていたプリントにはしつこい折り癖がついていて、俺と依弦で整理係とホッチキス係を分けることになった。けれど、不器用な俺はプリントの角を揃えることすらままならなくて、依弦に何度も笑われる。
「仲いいね、君ら。いつもずっと一緒にいるし」
「まぁな。1年の時にこいつのせいで捻挫してさ」
「……悪かったよ」
「んな凹むなって。いつまで引きずってんだ」
バチ、バチ、と紙を綴じる音がする。あの時のことはもう忘れたい。
体育のサッカー中に依弦の小さな身体が真後ろに迫ってきているのが見えていなくて、振り返った瞬間、ドン。吹っ飛んでいった依弦は捻挫で約2週間、満足に動けなかった。
特に周囲から責任を追求されるようなことはなかったけれど、足を庇って少しずつ動く依弦の荷物を持ったり、階段で依弦をおぶったりと、俺としてやれることは最低限やったつもりだった。
「それ以来仲良しってわけ! な? 泰斗」
「まぁ。そうだな」
最近忘れかけていたあの出来事を思い出して、若干の居心地の悪さが身体を這う。あの時から依弦と一緒にいるのが当たり前になって、無茶振りや、自由奔放な依弦のストッパーになることにも慣れてしまった。
芳川さんは俺たちの話にそれ以上踏み込んでくることもなく、淡々とホッチキス留めをしていく。この話題に関しては、これくらいの反応が一番ありがたい。
「先生たちも木爪くんの面倒見てくれてる春日井くんには頭上がらなさそうだもんね〜」
「依弦が何かしたら真っ先に俺に声かかるの、どうにかなんねぇかな」
仲の良い友人というより、保護者と子どものような関係な気もする。依弦が遅刻してきたときは、何か事情を知らないかと尋ねられ、課題をやってこなかった日にはちゃんとやるようお前からも言っておいてくれと言われる。依弦の世話をしたところで俺になにか利益がもたらされるといったものではないけれど、なんとなく、頼られるのに悪い気はしない。
「っし、終わったし帰るか」
「ありがとう。助かったよ」
プリントの束を教卓の中にしまい込み、俺たちは各々、カバンを持って教室を出る。最初は少し残って勉強しようと思っていたけれど、想定していたよりも作業が長引いてしまい、もう諦めて帰宅することにした。
芳川さんと俺たちは家が逆方向らしく、下駄箱で靴を履いて、彼女は反対側に歩いて行った。
まだ17時。
校舎から出ると、空に水色とオレンジ色の境目ができていた。
「お前さ、」
砂利道を歩き出した時、いつもより低い依弦の声が耳を突く。
「ほんとデカいよな」
「……は?」
依弦はこういう人間だ。いつも突然で、俺の予想なんか遥かに飛び越えてくる。
「お前がオレみたいにチビだったらよかったのに」
「お前が俺みたいにデカかったらよかったんだろ」
見たものをそのまま声に出す癖のある依弦への対処法は、もうわかっている。特に何も考えていないんだから、こちらも特に何も考えず返事をすればいい。難しく考えたら負けなんだと、関わり始めた頃に悟った。
俺たちが通学路としている道は極端に人が少ない。田んぼと畑ばかり。細い住民用道路に、じゃりじゃりとアスファルトを踏みしめる音だけが響く。
「……芳川の手、かわいかった?」
こんな静かな道で、聞き逃すはずがない。20センチ下にある顔は見えなくて、どういう表情でその言葉が発されたかがわからない。いつも元気に大きな声で話す依弦とは別人のようで、思考が一瞬フリーズする。
「まぁ、女子だから。小さかった」
「答えになってねぇよ」
「知らね。つか、んなこと俺に訊いてどうすんだよ。芳川さんのこと狙ってんの?」
クラスの中心にいる明るい芳川さんと、同じく誰にでもフレンドリーな依弦。ふたりが俺の知らないところで仲良くしていても、全く不思議なことではない。そこで友情を育んで、恋愛の芽が発展しかけていたならさっきの俺は空気の読めないとんだお邪魔虫だったに違いない。
「俺、クラスの恋愛事情とかよくわかんねぇ。悪かったよ」
女子と関わることはほとんどない。デカいから悪目立ちして、向こうから話しかけられることはあれど、それ以上俺が相手に対して踏み込むことはない。色恋だの他人の進路だの、単純に興味がないのと、依弦の相手で手いっぱいなのが大きい。
「お前ってそういうやつだよなぁ。いいよ、もう。じゃ」
気づいた時には俺の家の前まで来ていた。家から近かったという理由だけで決めた学校からの下校時間は、短いに決まっている。
「おう、じゃあな。また明日」
依弦の家はどこなんだろう。かれこれ1年半ほど一緒にいるけれど、あいつの家に行ったことがないどころか、場所すら知らない。近いのか、遠いのか。せめてそれくらいは知っておきたいのに、何度訊いてもはぐらかされるだけだった。
いつもはさっさと家に入ってしまうのに、今日は離れていく依弦を目で追ってしまっていた。心なしか俺といる時より歩みはゆっくりで、芯のある歩き方をしている。自分がいない時にも、依弦が自分の足で立って歩いていることが不思議でならなかった。
「ありがと。お言葉に甘えさせてもらう。じゃあこっちもらうね」
放課後、国語教師が明日の授業で使用するプリントの束を渡してきたらしく、クラスの女子が重そうな箱を持ちながら覚束ない足取りで廊下を歩いているところを見つけた。
少し残って勉強をしようと思い、俺が1階の資料室まで参考書を取りに行っていなければ、この子は3階まで重い箱を抱えて上る羽目になっていたのかと考えると少しぞっとする。
自分のみぞおちほどまでしか背丈がない女の子に、重いものは持たせられない。男女平等が謳われている世の中だが、大きな男に生まれてしまったのもあって平等に対しては少し敏感だ。
だって、こんなにも違う。
「こんなん持たせるとか酷いよな」
「いけると思ったんだけど、持ってみたら意外と重かった。ありがとね」
「いくらでも。デカいのが役立つの、こういうときくらいしかねぇし」
教卓にどん、と箱を置き、中から紙の束を取り出す。バラを束ねて冊子にするらしく、計36ページにも及ぶ資料になるらしい。
「あとは私が綴じる。ありがとう、運ぶの手伝ってくれて」
俺が資料室から借りてきた物理の参考書が差し出された。礼を言って受け取ると、握られていた箇所だけほんのりと温かくて少しおかしかった。無機物から人の体温を感じると、どうも変な感じがする。
「にしても、春日井くん手大きいね。参考書がミニチュアみたいに見える」
「あーまぁ、うん」
B5判の参考書は確かに女子の小さな手で持つとそこそこのサイズに見える。世間話の延長に過ぎないのかもしれないけれど、改めてそんなことを言われても上手い反応というものが思いつかない。だから依弦から朴念仁と言われるんだろう。自分でもわかってる。
手が大きいことは別に胸を張るような事実でもあるまいし軽く流しておこうと思った矢先、開いた小さな手のひらが目の前に突き出された。
「え?」
「手、どんくらい大きさ違うのかなって」
それは、合わせろということか? 急に生み出された女子との触れ合いの機会に身体が硬直する。部活で人が散り散りになってしまった教室には、俺たちしかいなくて、大して関わりもないクラスの女子と至近距離で戯れるのは少し気が引ける。
こんなとき、依弦ならどうするんだろう。そういや、あいつどこ行ったんだ。今日は俺の部活が休みだから一緒に帰るとか言っていたくせに。依弦の机の上を見ると、中身がないせいでへしゃげてしまった通学カバンが放置されている。校内にはいるはずだが姿を見ていない。そんなことが足速に頭を駆けて行ったが、状況は変わらない。俺は観念して右手を出した。
「うわ、めっちゃ大きい! すごいなぁ、こんなに違うんだ」
ぴたっとくっつけられた手のひらは小さくて、しっとりとしていた。違いを楽しむように色々な角度から合わせられた手を覗き込まれ、彼女が少し動くたびに花のような、桃のような淡い香りが鼻腔をくすぐる。身近に母親以外の女性がいない俺にとって、こんなの心拍数を上げるなという方が無茶な話だ。
いつまで手を合わせていたらいいんだろう。引き際がわからなくて落ち着かなくなってきたとき、誰かが乱暴に扉を開ける音がして慌てて重なっていた手を引っ込めた。
「ぁ……い、づる……」
「なぁにしてんの? オレも混ぜてよ!」
授業中とは打って変わって無邪気にこちらへ駆け寄る依弦だが、前髪からちらりと覗いたその目は明らかに笑ってはいなかった。
勢いを殺しきれなかったと言わんばかりに俺に体当たりをし、そのままぴたりと身体をくっつけられる。あまりの近さに驚いて身を引くと、追いかけるようにして距離を詰められる。
「手の大きさ比べてた。春日井くんってほんとに手大きいよね」
「あー、そういうこと。随分仲良さそうだったから、泰斗と芳川さんがそういう感じなのかと思って一瞬焦っちゃった」
依弦が、にこ、と愛想のいい笑みを浮かべる。どんなことを言っても、何をしても許されそうなその笑顔が俺に向けられたことはないけれど、きっと他の人は見慣れているんだろう。この笑顔を見ると、なぜか胸がざらついたもので撫でられたような感覚がする。
綺麗なのに、その奥に何かがあるような、違和感が拭えない。
「たしかに、泰斗って手大きいよね。オレと比べてもこんなに違うんだから」
そう言って強引に右手を取られ、依弦のてのひらと合わせられる。俺より一関節分は小さいのに、女子とは違う。硬くて、骨っぽくて、吸い付いてくるような感覚もない。去り際にてのひらの中央部分を柔く引っ掻かれて、こそばゆさに思わず全身が力んでしまう。
「もしなんか手伝えることあったらオレもやるよ。2人より3人でやったほうが早いっしょ」
「あ、ありがと。2人とも、用事とかないの?」
「ないよ。オレも泰斗も」
なんで俺の分までお前が答えるんだよ。内心むっとしながらも依弦が言ったことは間違っていないから、大人しく頷いておく。
3人しかいない教室に、紙が擦れる音とホッチキスを止める音が響く。時折誰かが通り過ぎては、「何してんの?」と訊くだけ訊いて、手伝うことなく去っていく。
「ちょっと。お前、プリントの束の角ズレてる! ちゃんと角合わせてから差し出してくんね?」
「……すんません」
芳川さんが4ページ綴りの小冊子を作り、俺たちが32ページ綴りの大物を作る。長らく折り畳んで保管されていたプリントにはしつこい折り癖がついていて、俺と依弦で整理係とホッチキス係を分けることになった。けれど、不器用な俺はプリントの角を揃えることすらままならなくて、依弦に何度も笑われる。
「仲いいね、君ら。いつもずっと一緒にいるし」
「まぁな。1年の時にこいつのせいで捻挫してさ」
「……悪かったよ」
「んな凹むなって。いつまで引きずってんだ」
バチ、バチ、と紙を綴じる音がする。あの時のことはもう忘れたい。
体育のサッカー中に依弦の小さな身体が真後ろに迫ってきているのが見えていなくて、振り返った瞬間、ドン。吹っ飛んでいった依弦は捻挫で約2週間、満足に動けなかった。
特に周囲から責任を追求されるようなことはなかったけれど、足を庇って少しずつ動く依弦の荷物を持ったり、階段で依弦をおぶったりと、俺としてやれることは最低限やったつもりだった。
「それ以来仲良しってわけ! な? 泰斗」
「まぁ。そうだな」
最近忘れかけていたあの出来事を思い出して、若干の居心地の悪さが身体を這う。あの時から依弦と一緒にいるのが当たり前になって、無茶振りや、自由奔放な依弦のストッパーになることにも慣れてしまった。
芳川さんは俺たちの話にそれ以上踏み込んでくることもなく、淡々とホッチキス留めをしていく。この話題に関しては、これくらいの反応が一番ありがたい。
「先生たちも木爪くんの面倒見てくれてる春日井くんには頭上がらなさそうだもんね〜」
「依弦が何かしたら真っ先に俺に声かかるの、どうにかなんねぇかな」
仲の良い友人というより、保護者と子どものような関係な気もする。依弦が遅刻してきたときは、何か事情を知らないかと尋ねられ、課題をやってこなかった日にはちゃんとやるようお前からも言っておいてくれと言われる。依弦の世話をしたところで俺になにか利益がもたらされるといったものではないけれど、なんとなく、頼られるのに悪い気はしない。
「っし、終わったし帰るか」
「ありがとう。助かったよ」
プリントの束を教卓の中にしまい込み、俺たちは各々、カバンを持って教室を出る。最初は少し残って勉強しようと思っていたけれど、想定していたよりも作業が長引いてしまい、もう諦めて帰宅することにした。
芳川さんと俺たちは家が逆方向らしく、下駄箱で靴を履いて、彼女は反対側に歩いて行った。
まだ17時。
校舎から出ると、空に水色とオレンジ色の境目ができていた。
「お前さ、」
砂利道を歩き出した時、いつもより低い依弦の声が耳を突く。
「ほんとデカいよな」
「……は?」
依弦はこういう人間だ。いつも突然で、俺の予想なんか遥かに飛び越えてくる。
「お前がオレみたいにチビだったらよかったのに」
「お前が俺みたいにデカかったらよかったんだろ」
見たものをそのまま声に出す癖のある依弦への対処法は、もうわかっている。特に何も考えていないんだから、こちらも特に何も考えず返事をすればいい。難しく考えたら負けなんだと、関わり始めた頃に悟った。
俺たちが通学路としている道は極端に人が少ない。田んぼと畑ばかり。細い住民用道路に、じゃりじゃりとアスファルトを踏みしめる音だけが響く。
「……芳川の手、かわいかった?」
こんな静かな道で、聞き逃すはずがない。20センチ下にある顔は見えなくて、どういう表情でその言葉が発されたかがわからない。いつも元気に大きな声で話す依弦とは別人のようで、思考が一瞬フリーズする。
「まぁ、女子だから。小さかった」
「答えになってねぇよ」
「知らね。つか、んなこと俺に訊いてどうすんだよ。芳川さんのこと狙ってんの?」
クラスの中心にいる明るい芳川さんと、同じく誰にでもフレンドリーな依弦。ふたりが俺の知らないところで仲良くしていても、全く不思議なことではない。そこで友情を育んで、恋愛の芽が発展しかけていたならさっきの俺は空気の読めないとんだお邪魔虫だったに違いない。
「俺、クラスの恋愛事情とかよくわかんねぇ。悪かったよ」
女子と関わることはほとんどない。デカいから悪目立ちして、向こうから話しかけられることはあれど、それ以上俺が相手に対して踏み込むことはない。色恋だの他人の進路だの、単純に興味がないのと、依弦の相手で手いっぱいなのが大きい。
「お前ってそういうやつだよなぁ。いいよ、もう。じゃ」
気づいた時には俺の家の前まで来ていた。家から近かったという理由だけで決めた学校からの下校時間は、短いに決まっている。
「おう、じゃあな。また明日」
依弦の家はどこなんだろう。かれこれ1年半ほど一緒にいるけれど、あいつの家に行ったことがないどころか、場所すら知らない。近いのか、遠いのか。せめてそれくらいは知っておきたいのに、何度訊いてもはぐらかされるだけだった。
いつもはさっさと家に入ってしまうのに、今日は離れていく依弦を目で追ってしまっていた。心なしか俺といる時より歩みはゆっくりで、芯のある歩き方をしている。自分がいない時にも、依弦が自分の足で立って歩いていることが不思議でならなかった。

