「春日井、ちょっと右側に身体避けてくれ」

 5限目の数学の授業中。教壇の真ん中に立つ教師からそう言われて身体を右向きに折り畳んだ瞬間、全生徒の視線が教室の中心最後列にいる俺の方を向いた。

 「木爪! 起きろ!!」

 教師のターゲットは俺の後ろに座る依弦だった。後ろの席で、もにょ、と小さな声が目を覚まし、柔らかい衣擦れの音が耳を撫でる。4限のバスケで持てる全力を出し切った依弦は数学の授業の開始前には教科書を枕にしてすでに入眠態勢をとっていた。

 「うらぎりもの……」

 教師に注意された依弦は、絞り出すようなか細い声で俺を責めた。依弦の細い指先がカリ、と俺の背を引っ掻き、薄いカッターシャツを越えて微弱な刺激が脊髄に到達する。予想していなかったこそばゆさに、大げさに身体が跳ねてしまった。

 「んなビクつくことねぇだろ。ザコすぎ」
 「……るせぇ、いたずらしてねぇで起きろ」

 教科書を丸めて依弦の頭頂部を叩く。ほとんど力を入れていないのに、ポコ、と小気味いい音が静かな教室中に響き渡った。

 「ったーー。オレの頭すっからかんなのバレたじゃんか!」

 叩かれた頭をわざとらしくさすりながら依弦がそう言うと、教室中で笑いが起こる。授業も終盤に差し掛かり、なんとなくクラスの空気が淀んできていた頃に依弦の軽口で淀みが換気され、少し息がしやすくなったような気さえした。

 進学クラスの2年。しかも10月となると、否が応でも受験を意識させられる。まだ受験なんて遠い話だと思っていたのに、試験日までのカウントが365日に近づけば近づくほど、目に見えない焦りが出てきてしまう。

 「木爪、お前成績はいいのになぁ。先生の授業ちゃんと聞いてるから成績良いんだって、俺に胸張らせてくれよ」

 教師はそれだけ言って、また黒板に向き直る。国立大学の入試問題を解くよう指示された俺たちは少しだけ姿勢を低くしてペンを走らせる。今日習ったばかりの範囲なのに、こんな応用問題解けるわけないだろ。
 全員がそう言いたげな空気を醸し出しているのに、後ろの依弦だけは違った。さっき起こした上体はまた机の上に投げ出されていて、伸びた腕と指先が俺の椅子に預けられている。

 依弦はいつもこうだ。こいつが授業中に起きているところをほとんど見たことがない。にも関わらずテストの点数は上位常連。きっとどこかで勉強しているんだろうけれど、何かに必死に取り組んでいるというのは、なんとなく依弦には似合わないような気もする。

 「木爪! お前、もう前来て解け」

 さすがに呆れた教師が依弦を教壇へ呼び出す。案の定依弦はピクリともせず、死んだように同じ姿勢で規則的な呼吸をしていた。

 「依弦、前行けってさ」
 「……今日いつになくうるせぇな、あいつ。男の子の日かよ」

 俺が問題を解く手を止めて依弦の髪を雑にかき混ぜると、小さな舌打ちと共に微妙に返事をしにくい言葉が返ってきた。
 依弦は俺が品のない発言に顔を顰めるのもお構いなしに、「あー……? ぁんだあれ」と黒板の字を目を細めて見てから、ゆらりと立ち上がって前へ歩いて行く。

 「積分していい?」
 「未履修範囲だ。いいわけないだろ。今日教えたこと使え」
 「解けりゃいいじゃんかよ〜……だる」

 悪態は止まらない。けれど、チョークを指先2本で掴んで薄いへろへろとした字を連ねていく依弦から、妙に目が離せなかった。丁寧な途中式、無駄が省かれた解法、7+5の答えを筆算で出そうとした時にはヒヤヒヤしたが、それでも最後はきれいな解が導出された。

 「解けるのに寝るなよ、全く」
 「解けるから寝るんだよ」

 今は機嫌が悪いらしい。依弦は1日の中でもかなり機嫌と様子の変化が激しい。人に当たり散らしはしないが、電池が切れたように静かになったり、俺にぴったりくっついて離れなくなったりする。そんな依弦の世話を全て任されている俺の身にもなってほしい。まったく。

 「んじゃあ復習しとけよ。課題はさっきのページの最後の設問。次回の最初に答え合わせします」

 チャイムの音と同時に教師が教室から去っていく。張り詰めていた空気は一気に弛緩し、異物がなくなった空間は心なしか明るかった。

 「今日なんか依弦くんめっちゃ目付けられてたね」

 隣の藍沢(あいざわ)さんが依弦に目を遣りながら声をかけてきた。普段藍沢さんと話すことはほぼないけれど、たまにこうして声をかけてくれる。

 「虫の居所悪かったんじゃない? まぁ寝てるこいつが100%悪いけど」
 「眠いからね。しかたないよ」

 にこ、と依弦に遣っていた視線を俺に移して、柔らかく微笑む。黒板消さなきゃ、と日直の仕事を思い出した藍沢さんは、次の教科の準備をきちっと机上に出してから軽い足取りで黒板へ向かっていった。

 「おいてめぇ。藍沢、彼氏いるぞ」
 「……やっと起きたんかよ。なんだいきなり。知ってるわ」
 「知ってて見惚れてたとかやば」
 「見るくらい許せよ」
 「許すわけねぇだろ」

 これだから童貞は、と余計な一言を残し、依弦は鞄から現国の教科書を取り出す。
 次の時間は起きているつもりなんだな、と感心したところで、教科書は無事に枕として依弦の頭の下に敷かれていった。