僕の大好きな人が、今日も笑えますように


「あ、こっちの柄杓(ひしゃく)でお湯をかけるらしいですよ? これは、毘沙門天かぁ、上杉謙信でしたっけ?」

「そうね、そして、お賽銭もせっかくだからしよっか」

 直人くんの無邪気な笑顔を直視できずに、私は少し目を逸らした。
 毘沙門天。直人くんの言うように、かの有名な武将も信仰していた戦いの神である。その厳しい目つきに頭からお湯をかけながら、私は考えていた。

(……え、これどうしよう)

 もっとも、考えている内容は情けないものだったが。

 月野のぞみ、二八歳。
 年齢を気にしすぎてはいないが、アラサーである。
 そして、恋多きとまではいかないが、初恋でもない。

 更に言えば相手は私のことを恋愛的な意味で好きだと言ってくれる彼なわけで。
 つまりは私が気持ちを告げれば、言うなれば必ず合格できる試験のようなもののはずだった。

 だったが――。

(…………直人くんが好き。うん。そう告げればいいだけなんだけど)

 ここに来て、どのタイミングで言えば良いんだ問題が私の中で発生していた。
 なんなら、これまでの人生、自分から率先して好きと告げたことがあっただろうか。いや、告白は既にされているのだが。

「えっと、ぐるっと回ってはこれそうですけど……よし、まずはこっちにしましょう!」

 そんな事を考えている私に、直人くんは元気にそう言った。

「ふふ……」

 その笑顔に釣られて、私も笑う。
 直人くんが楽しそうだと、嬉しかった。恋と気づいても気づかなくても、その気持ちでいられることが今はただ、心地よくて。

(まぁ、いっか)

 後回しにしているだけかもしれないけれど、今は楽しんでしまおうと、私は決めた。
 そして私は直人くんと並んで歩き始める。
 いつもよりも、少しだけ近くなった距離で。


 ◇◆


 ホテルからぐるりと回って、伊豆熱川駅を通って坂を上っては下り、湧き出る温泉の櫓を見ては喜び、無人のいちごの販売機を見ては驚きをしながら散策を楽しんでいた僕らは、海沿いまで来ていた。
 これまで、毘沙門天、弁財天――何でか弁財天だけ凄く豪華な社だった――大黒天、布袋尊、福禄寿、寿老人と来て、残るは一つである。

「あ、七つ目見っけ! 直人くん行こ行こ!」

 のぞみさんがそう言って、跳ねるように小走りで駆け寄っていく。
 端的に言うと、可愛い。仕事を辞めて明るくなり、更に、旅行に来てからもとても色んな表情を見せてくれているのぞみさんだったが、ご飯を食べた後、より輝きを増している気がした。

(人を好きになると、色んな物が綺麗に見えるって言ってたけど、ホントだったかも。信じてなくてごめんよおんば)

 心の中で、昔そう教えてくれた時には全くと言っていいほど響かなかった事を今更知って謝る。

「恵比寿様は、僕も知ってますよ、商売繁盛の神様ですよね」

「うんうん、それこそステラのある恵比寿駅にもあるもんね」

「はい! そしてのぞみさん、見てください足湯入れるみたいです!」

 僕は、大黒天に脇で湧いている温泉をすくってお湯をかけた後に、その傍にある足湯を指さしてそう言った。
 七福神は地図で見るとそんなに離れていなかったのだが、結構な坂を上り下りして自他共に認めるインドア派の僕は、自慢ではないがそこそこ足にダメージを受けている。

「ほんとだ……ホテルに戻る前だけど、ちょっと入っていく?」

「はい!」

 平日の中途半端な時間ということもあってか、公園になっている海沿いのその足湯に入るのは僕達だけだった。
 砂が入ってはいけないということで、靴下まで脱いで、そっと足をつけると、なんとも言えない気持ちよさが足から背中を伝う。

「ふわぁ」

 のぞみさんも、可愛らしい声を上げながら入って、僕のとなりに腰掛けた。
 肩が少しだけ触れる距離で、温泉の匂いに混ざってのぞみさんの香りが鼻をくすぐる。

「久々に歩いたら足少し痛いけど、何だか癒やされるね」

 のぞみさんがほのぼのと言って、僕に笑顔を向けてくれた。
 その安心した表情に、僕はどきりとする。

 これまでののぞみさんと、何が違うのかわからなかったが、何かが違う気がした。
 座って、僕の目線の少し下にあるのぞみさんの瞳がこちらを優しく見て――。

 少し伸ばした足先に、ちょん、とのぞみさんの足が触れた。
 それは本当に、少しだけの触れ合いなのに、まるでゾワッと電流が走ったような快感で。僕は思わずのぞみさんを見た。

 それににっこりと微笑って、「楽しいね」と、のぞみさんが静かに告げる。
 僕は、「最高です」と答えた。
 何だか凄く、通じ合えたような気がして、僕はまじまじとのぞみさんを見つめる。

 すると――。

「流石にちょっと見すぎ…………」

 とのぞみさんがふいっと目を逸らして言った。

「あ、ごめんなさい、つい――」

 僕が慌てて言い訳のように言うと。

「ううん。嫌じゃないの……ただその……照れる」

 のぞみさんが僕の視界を覆うようにして手のひらを差し出した。

(照れる……?)

 少し疑問に思うも、のぞみさんの仕草があまりにも可愛すぎて、僕がまた好きだと叫びだしそうになった時。

「あ、パパ! こっちも足湯があるよ!」

 子連れの家族が近づいてきて、僕はなんとか踏みとどまった。僕とのぞみさんはその家族の方を見て。

「じゃ、そろそろ行こっか」「はい」

 そう微笑み合って立ち上がったのだった。