「……どうしようか」

 駅のエスカレーターでゆっくりと上っていく麻莉奈と智史くんに手を振りながら、私はぽつりと呟く。主語のない言葉だけれど、隣の直人くんは、こういう時に不足を聞き返すことは無かった。

「僕は行きたいなって、伊豆って言葉はよく聞くし、地図でも遠くないのに行ったことないんですよね。それに……やっぱりのぞみさんとの旅行なんて魅力的な響き過ぎてやばいです」

「……伊豆の、どこなんだっけ?」

 全く行く気がないなら、詳細な場所なんてどうでもいいはずだった。
 つまりは、私の心はそういうことなのだろうと、他人事のように感じる。

「えっと……あたがわって読むんですね。熱川温泉ってところみたいです、海鮮のバイキングも付いてるし、プールもあるそうですよ、凄い!」

 そしてまた、こういった機微の方には特に感づかないのもまた、直人くんらしくて。純粋に情報を調べてニコニコしながら教えてくれるその笑顔を見ているとほんわかとしてしまった。
 それでも、自分から決定的な言葉を踏み出せないのも、私の心で。

「……良さそうだね」

 そんな曖昧な答えにならない言葉を発するのも、私の口だった。

「じゃあ……えっと、のぞみさん!」

「え? はい、何?」

 でも、直人くんはいつもそんな躊躇いとか、駆け引きとかはなくて。

「僕は、あの時の約束を破りたくないし、のぞみさんが嫌なことはしないって決めてます」

「……うん、ありがとう」

「でも、やっぱり毎日好きです。だから、旅行一緒に行きたいです」

「あ…………うん」

 いつもながらの、ストレートにも程がある言葉に赤面しながら、私は小さく頷いた。

(うんって……何)

 内心で呟く。
 まだこの真っ直ぐさを受け止めれきれないずるさと、それを許してくれる優しさと、それでも変わらないでいてくれる直人くんの明るさに甘えながら、私は日々を隣人として過ごしていた。

(……麻莉奈には見透かされちゃってそうだったけど、うん、旅行、これで、ちゃんと向き合わなきゃ)

 好きだと告げられた、それでいてそれ以上を求めてこない相手との関係は、麻薬のように甘くて、とても楽だ。
 文字通り、溺れるほどに。

「ほんとですか!? やった! じゃあ、和菓子食べながら計画立てましょ計画。のぞみさんが休暇の間に、よし、僕も休みを取って……」

「……うん、楽しみだね」

「はい!」

 これは、いつまでも溺れていないで、自分で掴まないといけないと思っていた私に訪れた、良い機会だった。
 

 ◇◆


 前の車がハザードで渋滞区間になったことを知らせている。
 ほとんど思い出すことも無くなった元婚約者は運転が荒い人で、しかも渋滞になると途端にいらいらが表に出る人であったこともあり、正直、私はドライブが、特に渋滞は苦手だった。

 だが――――。

『地図で見る限り、車で行ったほうが色々自由そうですし、途中で色々見ながら行くのも楽しそうじゃないですか?』

『でも、免許はあるけど私運転したことほぼなくて……お任せになっちゃうけどいいのかな?』

『運転好きですし、荷物とかも含めてレンタカー借りちゃいましょう。安全運転でいきます』

 そんな会話通り、直人くんの運転はレンタカーにも関わらずとてもスムーズだった。苦手なことと得意なことが、両極端に分かれているらしい直人くんは、得意ということは本当に上手だ。

「直人くん、疲れてない? お茶欲しかったら言ってね」

 緩やかに速度を落として、前の方も詰まっているのを見て、私はそう運転席の直人くんに尋ねる。

「はい、全然大丈夫です! それに話してたらずっと楽しいですし」

 とてもほっとさせてくれる、嘘がない言葉もありがたかった。

「良かった……うん、私もびっくりするくらい楽しい」

 本心だった。こんなところで、苦手が書き換えられるのかと思うほどに、楽しい。
 無音もなんだからと音楽をかけながら車を走らせ始めて気付いたことだったが、私と直人くんの音楽の趣味は似通っていた。

 数ヶ月隣人をして、一緒に御飯を食べる日々でも、意外と音楽の話をしたことはなかったのだが、適当に流したYouTubeのメドレーに二人で色々言いながら話すのは、懐かしさと共に居心地の良さがある。

 そんな風に感じながら、私は窓の外を見ていて、ふとあるものに気付いた。

(へぇ、何か面白いな?)

 そして、目に止まったものについて口を開こうとすると。

「あれ? のぞみさん見て下さい! なんか三角の家がありますよ?」

 私が思っていたのと全く同じ事を、直人くんが口に出して言った。

「…………あ」

「うわ、凄いですね。山間(やまあい)に目立つなぁ、ああいうデザインも遊び心あっていいですよね」

「……うん、私も言おうと思ってた。窓もあるしいくつか部屋あるみたいだけど、中の壁はどんな感じになってるんだろうね?」

「不思議ですよね! 端っこのスペースをうまく使えなさそうです!」

 こんなことが、何度かあって。
 家を出てから一時間ほど。ナビによると後二時間ばかりの目的地までの道程すら、随分と楽しみになっている私がいた。

(…………)

 出発までの時間で感じていた不安は、期待に変わっていて。
 この、ドキドキとはまた違う居心地の良い温かさと共に、私はもう、渋滞は苦手ではなくなっていた。