「なおとー、早く早く、一緒に歩こうよー」

 夕暮れ時、そろそろ帰らなければという麻莉奈さんと智史を駅まで送るために部屋の外に出ると、今日一日で仲良くなれた智史が、部屋を出るなり駆け出して階段に向かった。

「うん、鞄だけ取ってくるからちょっと待っててね」

 小さな手をぶんぶんと大きく振りながら、僕にも早く来いという仕草が微笑ましい。だが、財布くらいは持っていこうと、僕は隣の自分の家の扉を開けながらそう返事をした。

「智史! ちょっと待って、勝手に行かないの! あんた道わかんないでしょうが!」

 その間にも、背後から少し慌てたような麻莉奈さんの声が響いて、ダダダッと彼女が駆けていくのが見える。
 注意された智史は、ピシっとその場で気をつけの姿勢をとっていて、その仕草に思わず笑みをこぼしながら扉を閉めようとした時、柔らかな声が耳に届いた。

「ねね、直人くん」

 閉まる前に扉に手をかけて、隙間からにゅっと首から上だけを覗かせたのぞみさんの表情は、とても明るくて、僕は嬉しくなる。

「のぞみさん、どうかしました?」

 僕は、玄関に置いてあった鞄を手に取りながら、自然と笑顔になって質問を返した。
 のぞみさんはにっと微笑んで、髪を軽く掻き上げながら言う。

「あのさ、ありがとね。直人くんが智史くんと遊んでくれてたおかげで、麻莉奈とも沢山話せたし、麻莉奈も凄く喜んでくれてた」

 うん、今日ののぞみさんもとても綺麗だ。
 元々そう思っていたけれど、会社を辞めて少し休みを取っている彼女は、何かから解放されたかのように一層輝いて見えた。一時は疲れが見えていた頬にも健康的な色が戻り、目の奥に宿る不安も少しずつ和らいでいるように感じた。

「ふふ、お休みだったから大丈夫ですし、ゲームの子供視点も実地で知れたし、僕も楽しかったです。喜んでまでもらえたら一石二鳥ですね、いや、三鳥かな?」

 のぞみさんはそんな僕の言葉に微笑んで。

「……ほんとに、ありがとね、その――――」

「なーおと! まだー!?」

 のぞみさんが何かを言いかけたその言葉は、遠くから響く智史の声に遮られてしまった。のぞみさんは言葉を飲み込み、一瞬だけ迷うような表情を見せてから、穏やかに微笑んで「行こっか」と言った。

 僕は頷いて改めて玄関を出る。
 風が吹いて、隣に並ぶのぞみさんの髪から、ふわりといい匂いとしか形容の出来ない甘い香りがして、無意識に手を伸ばしてしまいそうになった。

「……? どうかした?」

 僕の微妙な動きを感じ取ったのか、のぞみさんが首を傾げる。
 その仕草がひどく愛おしく感じて、僕はただ、隣にいれることが嬉しくて、笑って首を横に振った。

「いえ、行きましょっか。智史とは僕が歩きますから、お二人はせっかくなんでお話しながら着いてきて下さい」


◇◆


「なおと、あれ何?」

 小さな指が目に入る建物を次々と指し示す。智史の好奇心は尽きることを知らない。

「あれはラーメン屋さんだね、チャーシューが美味しい」

「へぇ、あれは?」

「あれは鍼灸院。のぞみさんの、えーと、パパとママがやってて、僕の腰も治してもらったんだよ」

「じゃああれは?」

「なんだろ? よしここは僕のスマホのGoogleレンズで検索……ヤブランっていうらしいよ」

「へぇー、すごいすごい! じゃあね……」

 智史の瞳は好奇心で輝いていた。通行人が少ない時間帯のおかげで、ゆっくりと彼の疑問に答えながら歩けていた。初めての経験だけれど、子供と一緒に歩くというのは意外と楽しい。

 そして、もうすぐ駅が見えてきたというところで、智史が何かを見つけて足を止めた。後ろから歩いてくる二人に向けて、興奮した声で叫ぶ。

「あれ面白そう……ねね、ママ。あれ引きたい!」

 智史が指さした先には、商店街のイベントスペースがあった。赤と白の派手な装飾に囲まれた福引台と、『特賞あります!!』という目立つ立て札。ガラガラという音が商店街の雑踏に混じって聞こえてくる。

「えっと? 『一等賞は国産牛肉1kg、特賞はあたってからのお楽しみ。ちゃんと入ってますよ?』だって。少し買い物したら福引券がもらえるみたいだね」

 僕が立て札に書かれた文字を読み上げると、追いついてきた麻莉奈さんが「うーん」と少し迷うような声を出した。その横顔を見つめるのぞみさんの視線が、そっと僕に向けられる。

 僕はその無言のメッセージを理解して頷き、麻莉奈さんと智史に提案した。

「そっちの和菓子屋さんでも買ったら福引券対象みたいだし、買って帰ろうと思うんで、福引引いてみる?」

「ほんとに?」「え……でも、いいんですか?」

 瞬時に反応する智史と、少し遠慮がちな麻莉奈さん。僕は二人に笑顔で頷きながら、以前にのぞみさんと一緒に食べた小さな饅頭を購入した。
 代わりにもらった福引券を智史に渡すと、お礼を言いながら、満面の笑みを浮かべてガラガラの元へと走っていき、麻莉奈さんも後を追う。

「直人くん、ありがとね」「いえいえ、和菓子、帰ったら食べましょ」

 少し囁くように身を寄せてそう話していると、カランカラン、と大きな鐘の音が突然鳴り響き、僕らは揃ってビクリとした。見ると、智史が係員から白い封筒を受け取って、こちらに向かって高々と掲げている。

「伊豆の温泉付きホテルの二名様ペアチケットか、智史凄いじゃない! ……あれ、でもこれ、十月までが期限だわ……」

 通行人にも祝福されながら二人が戻ってきて、麻莉奈さんがチケットの内容を読み上げる。

「凄いじゃん、ってあら? そうなの? 特賞ってそういうことかぁ、なるほどね」

 のぞみさんが応える様子を見ながら、僕もそのチケットの細かい内容を覗き込んだ。確かに、期限は十月末日と記されている。どうやら使用期限が迫ったペアチケットを、特賞という形で提供しているらしい。

 麻莉奈さんは少し考えるように頬に指を当てて、それから決断したような表情で言った。

「うん、流石にうちは無理ね。智史は小学生だから三名分になっちゃうし、旦那の仕事も無理だわ……というわけで、はい」

 そう言って、彼女がさらりと僕にチケットを手渡してきた。突然のことに、僕は反射的に受け取ったものの、その意味を理解するのに一瞬時間がかかった。

「え? いいんですか?」

 驚きの声を上げる僕に、麻莉奈さんは頷いて、のぞみさんと僕を見比べながら言う。

「元々もらった券だし、こうするのが筋よね。それに、今日話を聞いただけだけど、二人はとても良いと思うの。のぞみもぽかんとしてないで、いいじゃん、違う環境で過ごしてみるのも。直人くんだってさ、のぞみと旅行、行きたいでしょ?」

 麻莉奈さんが、僕らをそれぞれ見ながら、いたずらっぽく告げて。

「行きたいです!」

 と僕は即答するのだった。