カチャリ、と鍵が開く音がして、私は少し微睡みから意識を浮かばせる。
 鍵を渡した直人くんが、おそらく足音を忍ばせてキッチンに荷物を置いた気配がした。

(…………ふふ)

 身体の怠さも、熱っぽさも、頭痛も何一つよくはなっていないけれど、私はほっとして、そんな自分に少し驚く。
 頭には、まずはと言って渡された冷えピタが貼られている感触があって、それが、これが現実であることを伝えてくれていた。

 他人に看病されるなんて、果たしていつ以来だろうか。 
 両親はとても優しかったし、私自身があまり体調を崩すことは無かったからだが、客商売であることからも、体調を崩した場合は隔離というのが基本だった。

 家を出てからもそう。

『発熱? 風邪かぁ、最近流行ってたもんな。じゃあ予定は延期で、お大事にな』

 社会人同士、共倒れることがないように。
 それがとても、普通だと思っていたけれど。

『38.7度? やばいじゃないですかどうしましょう、あ、冷えピタ買ってきますね、そして何買えば……とりあえず行ってきます! すぐ戻ってきますからゆっくり寝ててくださいね!』

 今となっては、普通なんてわからないけれど。
 嬉しいのがどっちかは、わかった。

(あ…………うわぁ…………びっくり)

 いつも浮かび上がっては、胸の奥を引っ掻いてきた思い出が、当たり前のように自分の中で上書きされてしまう瞬間を観測して、自分のことのはずなのに、熱に浮かされた頭で、うわぁ、と呟いてしまう。

 布団を少しだけ頭まで被り直して、その意味するところはまだ、そっとしまった。
 今はただ、甘えるという行為をして、ゆっくりと待っていよう。

「のぞみさん……あ、眠れたのかな? よし、じゃあ、作るぞ――――」

 そっと扉を開けて、そう呟いた直人くんの声が聞こえて、私はふと、疑問に思った。

 ――作る? あの直人くん(・・・・・・)が?

 布団からそっと顔を出して、耳をすませる。

「えっと、よし……これをまずはチンして」

 ――あ、よかった。レンジね。
 
 そわそわとしてしまう私はもう、微睡みではなくて。

「その間に、よいしょ……水で最初洗うっていってたよね。このまな板と包丁を使わせてもらって」

 ――え?

 なんだかとても、嫌な予感がした。

「みさきねぇさんは刻まれてるネギを買えっていってたけれど、それは売り切れてたし、これくらいなら僕でも……えっと確か猫? 猫がなに関係あるんだっけ」

 ――――え?

 身体の怠さだけはそのままに、目眩も、頭痛も、眠気も覚めてきて。

「よいしょ、こうかな?」

 コ゚トン!

 ――――コ゚トン!?

 その後も心臓に悪い音が続いて、私はどんどん目が冴えていって。

「…………よし切れた、えっとこの後が、イタっ」

「直人くん!?」

 出ないと思っていた声が、出た。
 すると、すぐに扉が開いて、直人くんが心配そうな顔を出してこちらの様子を伺う。

「あ……のぞみさん。起こしちゃってごめんなさい」

「それよりも、今、痛いって。大丈夫?」

「やば……聞こえてました? えっと、慣れないことをしたら、置いたままにした包丁に指刺しちゃって、でも大丈夫です、食べ物は無事ですから!」

 満面の笑みで言う直人くんに、私はもう気が抜けて、ホッとしているのか呆れているのかわからなくなって。

「もう……直人くんの指が無事じゃなきゃ意味がないでしょ……」

 弱々しい声で、私は言った。

「あはは、でもでも、見て下さいのぞみさん!」

 それなのに、そんな私に直人くんは、凄く嬉しそうな顔で言うものだから。
 私は少しだけ力が戻った身体と、少しだけはっきりした意識とともに、私は首だけを起こして、直人くんが作ってくれたそれを見た。

(……わぁ)

 お盆に、スプーンとお椀が乗せられている。
 お椀の中にあったのは、熱々であることを示す湯気が立つ白いおかゆ。それに梅干しと、みじん切りには少し太い白ネギが添えられている、シンプルなご飯だった。

 甘いお米の優しい匂いと、梅干しの視覚に、朝からゼリーと栄養ドリンクしか入れていない私のお腹が空腹を訴えている。
 そして、頬がピクリと痙攣したような感覚があった。

(…………?)

 違和感に、私が少し止まっていると。

「わぁ……久しぶりに、のぞみさんのいつもの笑顔を見た気がします、やっぱりのぞみさんの笑顔は、すっごくいいですね!」

 すっごく、の部分にとてもとても力を込めて、直人くんはふわりと笑って言って、私はようやく自分が、いつもの笑みというものを浮かべていたのだと知った。