カツ――カツ――。

 夜更けの路地に私の足音が響く。駅前は灯りと人通りがあるものの、マンションへ続く道は暗く静かだ。ある時間帯を過ぎると、音の響き方が変わる――その境界を知ったのはいつだったか。

(久しぶりに結構な時間になっちゃったな)

 終電は(まぬが)れたものの、突発の手直しは予想通り時間を食った。それでも、元の素案の素材が活かせたおかげで最低限満足いく形に仕上がったのは幸運だった。

『ええ、この時間までやってたの? 月野さん少し頑張りすぎじゃない?』

『あれ? 良いって言ったのに。月野さん、抜くところは抜かないと疲れちゃいますよ?』

 顧客に送るためのサンプルを印刷して所定の場所に格納して、終わった報告をしたところでの上司と営業からの返信に、仮面が剥がれそうになったが。

 達成感と徒労感が交錯する中、後輩の香菜がいてくれたらどれだけ楽だっただろうか。彼女なら、私より先に文句を言葉にしてくれただろうが、今日はその声もなく、疲れが身体にまとわりつく。

(香菜ちゃんもギリギリまで頑張ってくれたけど申し訳なかったな)

 彼女が定時で上がった理由――彼氏の両親への挨拶――を思い出しつつ、マンションのポストを確認する。うまくいっていればいいな、と自然に願う自分がいて、少し安心した。誰かを妬むような心には振り回されたくない。

 そして、鍵を取り出して部屋の前まで行くと、ドアノブに紙袋が下げられているのに私は気付いた。

(…………なんだろう?)

 私は首を傾げる。何も頼んだ覚えはなければ、置き配だったとしても下のポストのはずなのだがと思って、確認しようかと仕事用ではない方のスマホを見ると、いくつか通知が来ていた。

 いくつかは広告だったが、紙袋の謎がわかるメッセージを見つける。
 風間さんから、二通。

『風間:駅前に行ったら見つけて、お礼のお土産を置いておきます。脳が疲れたときは、甘いものが正義です。でも苦手だったら処分してください』
『風間:課金はできないですけど、これなら、賞味期限があるから勿体無いですよ作戦です!』

 紙袋を覗くと、駅前の和菓子屋の小さな大福が並んでいる。可愛い包装が目を引く、私も好きな店だ。

「ふふ……」

 仕事の疲れとモヤモヤの後だったからか、日付が変わる深夜にそんな息が漏れた。そして、帰宅した足音で気付いたのか、隣のドアがカチャリと開く。

「あ……音がしたからもしかして? と思ったらやっぱりのぞみさん。おかえりなさい、あはは、そっとドアノブに引っ掛けちゃったんですけど、その、迷惑でしたかね」

 風間さんが寝癖のついた髪で、少し不安そうな表情を覗かせた。

「ただいまです。そしてこれ、ありがとうございます…………その、頂きますね、嬉しいです」

 それに私がそう言うと、風間さんはどこかホッとしたような笑顔になる。

「ほんとですか? 良かった、迷惑かもしれないって思いながら、でもやっぱり、助けてもらってばかりで返せてないなぁって思っちゃったので」

 不思議な人だった。疲れた心が少し軽くなる気がする。ふざけたようなノリで、でも、いい加減ではない人。
 だからだろうか。気づけば、私は自分でも少し驚くような提案を口にしていた。

「こんな時間ですけれど、もしも良かったら、この頂いた和菓子ご一緒しませんか? お茶くらいなら出しますよ?」

「え? いいんですか? あ……でも流石にそれはよくないですかね?」

 一瞬嬉しそうな顔で肯定して、それが曇った。常識を思い出したらしい。

「いえ、風間さんは不思議とそういう印象が全く無いですし…………違いますね、凄く誰かに愚痴を言いたい気分なんですけれど、少しだけ付き合ってもらえませんか?」

 それに、私は告げる。
 ただのわがままなのは自覚していた。でも、夜の静けさだろうか、彼の雰囲気だろうか、いろいろなものが組み合わさって、私を少しだけ素直にしていた。

「そういうことなら喜んで」

 そして、わがままを言われた立場なのに、風間さんはそう言って、ふらっとそのまま扉から出てくる。

「こちらからの提案ですし、信用しますよ。もちろん変なことしたら、腰を捻りますけれど」

「ええ? 何にも悪いことはしないので、腰は勘弁してくださいよ!」

 風間さんが、私の冗談のような、でも、そんなことは無いだろうと思いながらも少しだけ本気の言葉にそう反応して、そして次の瞬間に顔を見合わせてくすくすと笑った。小さなわがままを、何気ない冗談を、他意なく交わして。

 自分でも驚くほど自然に出た笑みが、今日の一日だけで気づかぬうちに固まっていた表情を崩した。そして、それ以上に自分一人の足で立つために築いていた心の何処かの防波堤まで揺れた気がして。
 私は、揺らいでしまわないように、ドアノブをぐっと握りしめる。

 とても静かな夜のマンションに風が吹く音が、不思議と大きく聞こえた。