まだ誰からも連絡が来ていなかったからか、門番は通常通りのチェックのみを行い、春馬達を外へ出した。
「ありがとう、ございます……!」
脱出した直後、女が涙を流しながら頭を下げる。男も同じく、涙ぐみながら顎を引いた。
「もう、終わりかと思った……まさか、あのダレムに逆らってまで俺たちを助けてくれる人がいるなんて」
二人の言葉を聞きながら、春馬は困ったように笑う。
「まぁ、流れ者なんで気になさらず」
春馬がそう言うと、灰色の髪の男が仏頂面で口を開いた。
「俺が一番働いただろう」
「良いじゃないか。別に誰が答えたって。感謝してるよ、ヴァール」
文句を聞き、春馬はヴァールと呼んだ男を振り向いて軽く感謝を伝える。ヴァールはそれに満足そうに頷き、腰に下げた袋から小さなガラス製の瓶を出した。そして、それを女に向けて放る。
「治療薬だ。使え。今なら傷痕も残らない」
ヴァールがそう告げて女は治療薬を受け取るが、目はヴァールの顔から離れなかった。
震える手で瓶を持ったまま、ヴァールの顔を指差す。
「ま、まさか、灰色の鬼狩り……」
女がそう口にした瞬間、男が慌てた様子で叱責する。
「こ、こら! Aランク冒険者、英雄のヴァール殿だろう!? も、申し訳ない。ヴァール殿。悪気は無く、たまたま思い出した字名が……」
言い訳をしつつ謝罪する男に、ヴァールは無表情で溜め息を吐いた。
「気にしていないし、英雄でもない。たまたまオーガが森の中に巣作りをしていたから潰しただけだ。近くに町があることも知らなかったしな」
ぶっきらぼうにそう言ったヴァールに、春馬が笑いながら頷く。
「道に迷ってたって話だよね、それ」
「うるさい」
春馬が茶化すと、ヴァールは一言で切って捨てた。そんなやり取りをする二人に、女は難しい顔で首を傾ける。
「……ヴァール様はお一人で行動されることも聞いていましたが」
その呟きが聞こえたのか、聞こえなかったのか、春馬とヴァールは二度三度と適当なやり取りを行い、女を見た。
「あ、ほら。早く飲まないと」
「傷が残るぞ。ほら、早く飲め」
二人に急かされて、女は慌ててもらった薬瓶を口につけて傾けた。中には薄っすらと青い液体が入っており、するすると女の口の中に流れる。
「……はぁ。あ、ありがとうございました」
飲んだ後、女は急ぎ礼を述べる。
直後、傷口は淡い光を放ちながら変化をしていった。血が止まり、逆再生のように裂けた肉が集まり、皮が再生していく。
「治る過程はなんか気持ち悪いよねぇ。中々慣れないなぁ」
春馬が眉をハの字にして言うと、ヴァールは呆れたような顔で首を左右に振る。
「見慣れた。お前も見慣れろ」
「そんな簡単には……」
二人が間の抜けた会話をしている中、傷が治っていく過程を唖然とした様子で見ていた親子は、揃ってヴァールに顔を向ける。
「ヴァール殿、これはまさか……!」
「ん? 中級治療薬だ。エルフ特製の」
「なっ!?」
なんでも無いように告げられ、親子は愕然とした。
「そ、それは……こ、困ったことに、俺たちにはとても払える品では……」
男が冷や汗を流しながらそう言い、ヴァールは面倒くさそうに春馬を指差す。
「気にするな。どうせコイツのだ」
「いや、確かにそうだけど、お前は気にしなさいよ」
話を振られた春馬は苦笑混じりにそう返し、女を見た。
「……うん。傷は綺麗に治りましたね。じゃあ、気を付けて村にお帰り下さい」
春馬が女の顔を見ながら優しく声を掛けると、女は照れたように赤くなって一歩下がった。
「女たらしが。ソフィアに言うぞ」
「ソフィアは関係無いでしょ。普通の会話だ」
「天然だから一番タチが悪い」
二人が半眼で文句を言い合うと、男が所在なさげに声をかける。
「あ、あの……お、お代は本当に?」
男の言葉は二人の耳に届かず、親子はどうしたものかと顔を見合わせたのだった。
二人を見送り、春馬とヴァールはまた街中に戻った。
「やっぱり、このままじゃあ終わらないだろうね」
春馬が言うと、ヴァールが鼻を鳴らして首を左右に振る。
「そりゃそうだろう。あの馬鹿は大衆の前で恥を晒して負傷までしたんだ。まぁ、貴族なら上級治療薬くらい持ってるだろうが、痛みは忘れない」
「私は良いけど、ヴァールが一番狙われるね。手切っちゃったし。ははは」
「ハハハじゃねぇよ。あの馬鹿からしたら皆同罪だろうが」
笑う春馬と怒るヴァール。二人が街中を歩いていくと、あの騒ぎを目撃した者も何人か現れ、二人に注目し始めた。
視線が集まるのを感じ、ヴァールは舌打ちをする。
「衛兵呼ばれたら面倒だ。移動するか」
「大丈夫、大丈夫。とりあえず、ギルドに行ってから報告だけしとこうよ。ギルドには先に謝っておこう」
「……面倒な」
と、そんな会話をしながら歩く二人に近付く人影があった。
「ちょ、ちょっといいか」
声をかけられ、二人は振り向く。すると、声を掛けた主の方が戸惑い、顎を引いた。
中年の太った男である。どう見ても兵士の類では無い。
「何かご用ですか?」
春馬が笑顔で聞くと、男は険しい顔で口を開く。
「あなた達、あのダレム様に逆らった二人だろう? 早くこの街から逃げなさい。出来たら公爵領からも離れた方が良い……公爵様は決して民を蔑ろにする方ではありませんが、あの方は……」
男にそう言われ、ヴァールは肩を竦む。
「あのバルトロメウス公爵の実子、だろう。知っている。これまでは公爵が健在だったから大人しくしていたが、近年は公爵の体調不良に合わせて好き放題し始めたとか」
そう告げると、男は苦々しく頷いた。だが、周りの目を気にしてか、静かに返答する。
「……ダレム様は直属の騎士団はお持ちではありません。しかし、この街の領主代行の地位について一年以上経ちます。すぐに何かしらの理由をつけ、反逆者鎮圧の為の部隊を組織するでしょう。どんな事情があれ、その部隊と出会ったなら、逆らわずに捕縛されるしかない。正当な理由で動く騎士団と戦ってしまえば、どうあっても反逆者の烙印を押されますぞ」
と、男は必死に忠告する。その顔を見て、ヴァールは面倒くさそうに溜め息を吐いたが、春馬は優しげに微笑んだ。
「私達の心配をしてくれているんですね。ありがとうございます」
そう答える春馬に、男は悲しそうに首を左右に振る。
「ただの惨めな商人ですよ。あの親子が連れて行かれようとしているのを、私はただ見ていることしか出来なかった。正直、私があなた達のような冒険者であったとしても、あのようなことは出来なかっただろう」
そう言って、男は「胸がすく思いだったがね」と言葉を続け、小さく笑った。
春馬はそれに笑い返し、頷く。
「お気になさらず。結果、あの親子は無事に街から出ました。私達も大丈夫ですから」
そう言うと男は眉根を寄せ、心配そうに口を開いた。
「……そうですか。もし何かありましたら、何でも言ってください。まぁ、妻子がいるので、あまり無茶は出来ませんがね」
と、男が言った途端、周りで春馬達を注目していた何人かが声を上げる。
「お、俺も助けるぞ」
「私は衣装屋です。もし逃げる際に変装するなら……」
「冒険者仲間だ。私も手を貸そう」
そんな声が聞こえ、気付けば春馬とヴァールの近くには人集りが出来ていた。
「わ、分かった。分かったから退け!」
「す、すみません。皆さんの気持ちは有り難いのですが、とりあえずギルドに行かせてくれますか?」
ヴァールが戸惑いながら怒鳴り、春馬が苦笑しながら片手で空をチョップしつつ前進する。
人々を振り切り、ようやく目的の建物に着いた二人は汗を拭いながら息を吐いた。
「……兵士相手にするより疲れたぞ」
「まぁ、彼らも善意で言ってくれてたんだから……疲れたのは確かだけどね」
そう呟き、春馬が建物を見上げる。
「それにしても、やっぱりこの国の建築物は興味深いなぁ。東欧みたいっていうのも何か違うかな? でも、帝国の建築様式を確かに受け継いでいるのに、独自の変容を遂げた個性ある形状と色使い。不思議だよね」
ぶつぶつと呟きながら建物を眺める春馬に、ヴァールは呆れたような顔で溜め息を吐いた。
赤い石壁と赤銅色の丸い屋根。建物の周りにはせり出した屋根を支えるように、太く丸い屋根が無数に立っている。まるで宮殿か神殿のような形状だが、周りの建物も同様であり、特別なものではないことが分かる。
どの建物にも壁に大きな布がかけられており、その模様で何の建物か分かるようになっていた。
剣は騎士団、盾は衛兵の関連施設。金槌は鍛冶屋、ランプは商会、虫眼鏡は鑑定と質屋、枝に止まる鳥は宿屋といった具合である。
他にも大工、演芸、娼館、教会など様々な職業とそれに見合った模様があった。
そして、目の前の建物、冒険者ギルドの掲げる模様は羽だ。羽は自由の象徴なのだが、実際は手に職を得られなかったという理由で選ぶ者も多い為、ならず者やろくでなしの巣窟とも揶揄されている。
他にも魔術士ギルドが存在するが、そちらはある程度以上の魔術の心得がなければ入ることすら出来ず、エリート意識の高い雰囲気を持っていた。
春馬が嬉しそうに手を伸ばし、観音開きの扉を開けて中に入ると、屋内にいる者達の目が春馬に向く。
他の町の冒険者ギルドと同じく、ガラの悪い者が多く、睨むような視線を向ける者までいた。
だが、春馬は気にせず中を歩いて行き、奥のカウンターの前に立つ。カウンターは大きな一枚板で、その奥には二人の女がいた。緑髪の三十歳前後の女と栗色の髪の二十前後の女だ。
冒険者ギルドは街内外からの依頼による料金と、冒険者が持ってくる鉱石や魔獣などの素材の買取と販売、そしてギルドのある建物内での宿と食事によって利益を得ている。特別な場合では、ギルドのある領主などからの要請なども収入源だ。
その中で、最も大きな利益になるのが、冒険者が持ってくる素材の買取と販売である。
「いらっしゃいませ。当ギルドは初めての御利用……」
春馬とヴァールの姿を認めた栗色の髪の女が声を掛けてきて、言葉の途中で目を見開き、動きを止めた。
その目はヴァールの顔で止まっている。
「……いらっしゃいませ。Aランク冒険者のヴァール様、そしてBランク冒険者のハルマ様ちょことお見受け致します」
固まった受付嬢の代わりに、もう一人の受付嬢、緑髪の女がそう口にした。
「私の名前もご存知ですか?」
春馬が驚いてそう尋ねると、受付嬢は表情を崩さずに頷く。
「もちろんです。一ヶ月前、とある貴族の館を破壊したと聞き及んでおります」
「あ、悪名で有名に……? なんて事だ……」
受付嬢の言葉にショックを受け、春馬は天を仰ぐ。それにほくそ笑みながら、ヴァールは栗色の髪の受付嬢に声を掛けた。
「悪いが、この街でもこのハルマがやらかした。ギルド長はいるか? 話がしたい」
ヴァールがそう言うと、受付嬢二人が春馬を見て、次にヴァールを見る。
「お、おります! 少々お待ちください!」
慌てて栗色の髪の受付嬢が答え、カウンターの更に奥にある二階への階段を登っていった。
辺境の広大な領地を治める大貴族、バルトロメウス・フォン・クランツ公爵。領地の中心には小高い丘があり、その丘全てを城壁で囲んだ巨大な城塞都市に公爵の居城はある。
その権力と富を象徴する豪華な城である。石造りの無骨な形状でありながらどこか洗練された美しさも併せ持つ見事な城だ。
バルトロメウス公爵はコルネリス王国の国王、エルンスト二世の実弟の子である。四男という立場から、元々は王都で騎士団の士官という地位にあった。国の法に合わせ、決まった期間軍に属し、最低限の戦のルールと士官としての技能、そして愛国心を学んだ後に小さな街の領主や領主代行となる。それが既定路線というものだった。
しかし、本人の努力か、元々才能があったのか、バルトロメウスは士官として大きな結果を出し、公爵家の騎士団長に就任してからも結果を出し続けた。
気がつけば王国の守り神と呼ばれる程の軍功となり、隣国との戦の際には他の騎士団や傭兵団を纏める軍団長となって総指揮を行い、三度の大戦全てに勝利した。
齢五十五を超えてからは軍団長を辞任し、代わりに二つの隣国と接する北の最重要防衛拠点の領主となる。
それがバルトロメウス公爵領であり、バルトロメウスの実績と王国からの信頼を基に築き上げられた豊かで治安の良い土地である。
だが、近年、その環境は変わりつつあった。
戦や訓練に明け暮れ、自領を与えられてからは領地の経営に全ての力を尽くしたバルトロメウスの、持病からくる衰弱である。
バルトロメウスが衰弱して城から殆ど出てこなくなったことにより、徐々に領地が荒れ始めたのだ。殆どの理由はバルトロメウスの容体を探る為に他国から意図的に追われた盗賊や山賊の類の為である。
本来ならば自領を守るため、バルトロメウスが民衆の前で騎士団を叱咤激励し、驚くような速さで現場に急行させる。
しかし、近年は違った。騎士団は確かに素早く賊の鎮圧に動くのだが、大々的に行われてきたバルトロメウスの激励が無い。そして、居城のある中心都市や領地の端に位置する各城塞都市は治安を通常通り維持しているが、その他の町に関しては徐々に雰囲気が変わってきていた。
それは公爵領の外れの方にある中規模の町、スラヴァでも同様だった。
騎士団で一定期間の軍務を終え、三年の領主代行を経て問題が無ければスラヴァの領主となる。それがバルトロメウス公爵の五男であるダレムに予定された未来である。
ダレムは外面が良く、忙しさから子供に構えなかったバルトロメウスには普通の子に見えた。騎士団でも怒りっぽい士官や先輩の騎士などに怯えたのか、大人しく過ごしており素行の悪さなどは見られなかった。
しかし、領主代行としてスラヴァに来て、バルトロメウスの体調の悪さに比例して領主が街にいない期間が増えた為、徐々に本性を露呈していく。
領主はバルトロメウスが騎士団を率い始めた頃の部下であり、現在は男爵といった立場にある。殆どの時間をバルトロメウスの部下として過ごしたことから、領主は公爵を敬愛しており、実子であるダレムへも期待と信頼をもって接していた。
ダレムは愛想良く領主と話し、仕事を覚えた。その為、領主はダレムならば大丈夫と思い、暇を見つけてはバルトロメウスの見舞いに行くことになる。
その生活に慣れてきて、ダレムは変わっていった。
「くそ……! くそったれが……!」
怒鳴りながら、ダレムは廊下の端に置かれた調度品の壺を叩き壊す。
慌ててメイドの一人が割れた壺の破片を集めに来ると、その頭を思い切り蹴り飛ばした。
「うぁ……」
くぐもった悲鳴をあげて蹲るメイドに鼻を鳴らし、肩を怒らせてその場を歩き去る。手はもう元に戻っていたが、気分は晴れない。むしろ、時間を置くごとに怒りは深まっていった。
「兵士長! 反逆者討伐の騎士団はまだか!?」
ダレムが怒鳴ると、後を歩く男が顔をあげる。精悍な顔立ちの四十歳ほどの男だ。銀色の豪華な鎧に身を包んでいる。
兵士長と呼ばれた男は睨むようにダレムを見ると、静かに口を開いた。
「現在、準備を進めております。相手は八人の兵士を瞬く間に倒した冒険者との話でしたので、騎士団でも腕の立つ者を中心に集めておりますので多少の時間が掛かっております」
「誰でも良いから数を集めよ。大人数で圧殺すれば結果被害は少ないはずだ」
「……了解しました」
そう返事をし、兵士長は踵を返して命令を実行に移す。ダレムはその後ろ姿を半眼で見やった後、舌打ちをした。
「何を考えているのか分からん奴だ。もし失敗したらすぐに降格処分にしてやる」
ダレムは苛立ちながらそう呟き、また廊下を歩き出した。
結局、騎士団が出陣可能になったのは翌日となった。出来るだけ領主に判断をしてもらいたいと思い兵士長がわざと準備を遅らせたことに気づかなかったダレムは、ただただ兵士長を無能と罵倒し、自ら兵を率いると言って騎士団の前に立つ。
「敵は悪逆非道にも領主代行の俺に剣を向けた悪漢二名とそれに加担した村人二名だ! 卑怯にも不意をつき、兵士八名を殺傷してこの俺も手傷を負った! 片手で何とか追い払ったが、奴らはこの街、引いては公爵領に敵意を持つ危険な輩である!」
怒鳴り、ダレムが剣を抜く。高々と掲げた剣は光を反射させ一段と美しく光った。
「さぁ、剣を抜き、敵を倒せ! 街を守るのは我らだ!」
バルトロメウス公爵の口上を真似したダレムの激励に、騎士団は剣を抜いて顔の前に掲げ、足を踏み鳴らして応えた。
威風堂々と列をなし、騎士団が街の中央を走る大通りを進む。その列の中心には鎧姿で馬に騎乗したダレムの姿がある。事情を知らない観衆の大半はダレムの言葉を鵜呑みにし、歓声をあげて見送った。
だが、その進軍を止める人影が現れる。
小柄な細身の男である。白髪混じりの頭髪と顎髭を生やした初老にさしかかりそうな見た目、衣服もふんわりとした白いローブを着ている。ローブの背には青い羽が刺繍されており、見る者が見れば、この人物が何者か一目で分かるだろう。
その男は無造作に人々の列から離れ、騎士団の進む先に立つ。
「領主代行殿、しばしお待ちを」
男が重い声でそう言った。さほど大声ということもなかったが、不思議と男の声はよく響いた。
「……っ! 止まれ!」
ダレムが怒鳴ると、騎士団は足並み揃えて一旦停止する。兵士達が左右に一歩ずつ別れ、真ん中に出来た空間をダレムが馬に乗ったまま出てきた。
「……これはこれは。俺が情報開示を求めたのに堂々と断りの返事をよこした冒険者ギルドの長、エステルヘルではないか。何用だ」
ダレムが嫌味を込めて尋ねると、エステルヘルと呼ばれた男は顎鬚を指で摘むように撫でながら、口を開く。
「先程の口上には少々事実と違う部分がありました。なので、改めてもらおうかと思いましてな」
飄々とした態度でそう告げたエステルヘルに、ダレムは己の毛が逆立ったと錯覚するほど激しい怒りを覚えた。
「何を言うか! 事実、不意打ちをされて八人の兵士と俺が負傷した! 領主代行に怪我を負わせたなら、騎士団派遣になんらおかしな点は無い!」
自らの怒鳴り声に興奮を高めるダレムに、エステルヘルは片方の眉を上げて「おや?」と首を傾げる。
「確か、ワシが聞いた話では……領主代行が時折行う無体な行為で善良な市民が捕らえられ、危害を受けた。その際、許しを乞うた父親も諸共反逆者として奴隷にすると宣言。そこへ、あまりの非道を止めるべく我がギルドに登録する冒険者が待ったを掛けた、と」
「黙れ、恥知らずが! よくもそのような妄言が吐けたものだ! 領主侮辱の罪で貴様も捕まえるぞ!?」
エステルヘルの台詞を途中で遮り、ダレムが顔を真っ赤にして叫んだ。それに、エステルヘルの顔色が変わる。
「恥知らず、とな?」
空気が震えたような、不思議な圧力を孕んだ声だった。馬が怯えて暴れ、ダレムはその場に投げ出される。
背中から落ちたダレムがくぐもった悲鳴を上げてもがくのを見下ろしながら、エステルヘルの髪の一部が逆立った。頭部に二本のツノが生えたかのようだったが、よく見ればそれが獣の耳であるとしれた。
肉と骨が軋む音が響き、エステルヘルの体躯が一回り二回りも大きくなる。筋肉が膨張し、僅か数瞬で先程の小柄な初老の姿は完全に別人と化した。
「じゅ、獣人が……! 野蛮にも、力尽くで嘘をまかり通らせようとするか!」
地面に転がっておいてまだそのようなことを宣ったダレムを見て、エステルヘルは大声で吠える。
「恥知らずは貴様だ、小僧! 盟友たるバルトロメウスの子であるからと長い目で見るつもりであったが、ほとほと愛想が尽きた! ここで心を入れ替えて民の前で謝罪するなら赦すつもりだったが、もはや我慢ならん!」
言って、エステルヘルは地面に拳を叩きつける。地が揺れ、石畳の道に巨大なひび割れが入った。
「今、この瞬間、バルトロメウスの元へ使者が走った! 貴様のこれまでの悪行全てを記した書状を持ってだ! 貴様はこれで終わりと知れ!」
エステルヘルの断罪の言葉に、ダレムは固まった。赤かった顔が白くなり、冷や汗を流す。
だが、やがてその目に意志の光が宿り、口の端が上がる。
「……冒険者ギルドの反乱だ! 流言を流し、この街を乗っ取ろうとしている! 剣士隊前へ! 魔術師隊! 拘束魔術を行使しろ! 獣人は総じて身体能力が高い! 動きを止めることを主としろ!」
ダレムは、事実自体を消すことを選んだ。
簡単に比較は出来ないが、敢えて冒険者を基準にして考える時、通常一人前と言われるCランク冒険者は剣技をしっかりと習得した兵士、傭兵と同等とされる。一流といわれるBランク冒険者は幼い頃より武芸を学んだ騎士や魔術師と同等とされる。
そして、トップクラスの戦力を持つAランク冒険者は騎士団長や近衛騎士、魔術師長や宮廷魔術師と同等の評価を受ける。
では、Aランク冒険者と騎士や魔術師が戦うとどうなるか。
一対一なら必ず勝つだろう。二人、三人でもまず負けない。だが、これが五人、六人と増えていくとどうなるか。
数は力である。それはどの世界でも変わらない。トップクラスの強さを持つ者であっても、百人以上の兵士に正面からぶつかれば負ける可能性が高い。
元Aランク冒険者だったスラヴァのギルド長、エステルヘルとて、数百という騎士、魔術師、兵士の軍団を相手にすれば、間違いなく負ける。
たまたま街に残っていた冒険者が何人、何十人助太刀に来ようと、勝ち目は無い。
エステルヘルの危機に何人かの冒険者が現れたが、焼け石に水だった。すぐに魔術師の拘束魔術が発動し、冒険者達は動けなくなっていく。
「馬鹿め! これでこの街の乗っ取りを企むエステルヘルの野望は潰えたぞ! 愚かな計画で動きおって、書状も誰が信じるものか!」
皆に聞こえるようにそう叫び、ダレムは片手を前に突き出した。
「さぁ、粛清せよ! 奴らは反逆者に与する愚か者だ!」
ダレムが叫び、今度は魔術師達が手のひらに炎の球を作り上げていく。剣士隊は剣を構え直し、瞬く間にエステルヘル達を包囲した。
包囲が少しずつ狭まろうとしたその時、鋭い風切り音が鳴り響いて最前列に立つ兵士達の剣が弾き飛ばされた。
エステルヘルはくつくつと笑い、その場に座り込む。
「余程の事態にならぬ限り、出てくるなと言っただろうが」
眼前に立つ人物にそう文句を言うと、言われた相手は肩を竦めて灰色の髪を揺らす。
「……これは仕方がないだろう」
ヴァールが面倒くさそうにそう口にすると、エステルヘルの後方から春馬が歩いてきた。
「余程の事態、というやつですよね。ギルド長」
笑いながらそう言い、春馬は片手の掌を上に向ける。すると、そこには小さな半透明の青い球が浮かんでいた。
それを見て、エステルヘルとヴァールは目を見開く。
「ちょ、ちょっと待て! お前は本当に待て! 頼むから!」
「ハルマ! まずは俺が全力であたる! だから、お前は……!」
慌てふためく二人を見て、ダレムが奥歯を嚙み鳴らして怒鳴った。
「ば、ば、馬鹿にするな! 屑どもが! この人数を相手に二人冒険者が増えた程度でどうなると……! 大体、そんな小さな魔術如きで……」
ダレムが馬鹿にしたように笑うと、春馬は面白そうに口の端を上げる。
「それはそうですよ。これは初級魔術、ウォーターボール。恐いわけがない」
そう言って、嘲笑うダレムに向かって魔術を発動した。
半透明な青い球が春馬の手元を離れた直後、球は急激に巨大化しながら破裂する。
瞬く間に体積を増やした水流は、まるで鉄砲水のような勢いで騎士団に殺到した。仮令屈強な騎士でも、強大な魔術師でも、何の準備も無しに大量の質量をぶつけられれば成す術は無い。
騎士団どころか、馬や大型の馬車ですらあっさりと流されていく。
「な、なん……!?」
驚愕に目を見開くダレムも濁流に飲まれて消えた。
その光景に、エステルヘルは頭を抱えて天を仰ぎ、ヴァールは項垂れる。他の冒険者や一般の民達は唖然として固まっていた。
「こ、これは……まさか、今のが魔術師一人の魔術、なのか?」
「そんな、馬鹿な……」
驚愕の声がいたる場所から上がり、中には春馬に化け物でも見るような目を向ける者もいた。
ただ、春馬だけは状況を確認し、満足そうに頷く。
「よし。今回は被害を最小限に抑えられた」
そう言ってガッツポーズをとる春馬に、ヴァールは頬を痙攣らせて呟く。
「……また金が飛んでいく。くそ、ハルマめ。ソフィアに怒られるぞ」
「騎士団はおろか、その他の者も死者はおらん。怪我人は数えきらんくらいでたが、あの状況では奇跡だろう」
エステルヘルが言うと、春馬がにっこりと笑った。
「でしょう? 前回、火の魔術で失敗しましたからね。今回は水にしてみました。大正解でしたよ」
誇らしげにそう言う春馬に、エステルヘルは椅子の背もたれに体重を預け、溜め息を吐く。
二人は今、冒険者ギルドの二階に来ていた。事態の収拾の為に半日掛けて士官以上の人間を捕縛し、本来の領主の帰りを待っている状態である。
壁や天井は木の板や梁が露出した趣のある部屋で、エステルヘルと春馬は対面する形でソファーに座っていた。
「しかし、街の、特に領主の館と騎士団用の宿舎、後は一部の民と商人の建物は被害甚大だ。なにせ、一階部分は全て水浸しで窓も扉も無くなったからな。幸いなのはウォーターボールの向かった方向だけだったことだな。これで街全てが水没してたら目も当てられん」
と、エステルヘルは再び溜め息を吐く。体は元の小柄な状態に戻っている為、春馬は老人をいじめているような気持ちになり、慌てて頭を下げた。
「いや、申し訳ありませんでした……あの時は、他に手が無いと思って……」
気落ちした様子で頭を下げた春馬に、エステルヘルは苦笑して首を左右に振る。
「いや、助けられた身でどうこう言えたことではないのう。ワシも思わず売り言葉に買い言葉で怒ってしまった。本当はあそこで根気良く説得せねばならんかったのだが……腹立たしい態度につい、な」
「ははは……まぁ、仕方ないですよ。それで、ダレムはあのまま地下牢に?」
「そうじゃのう。バルトロメウスに無断で処刑してしまうなんてことは出来んしな。しばらくはあのままじゃ。領主が帰って来たらどうするか相談しよう」
悩む素振りを見せつつ、エステルヘルは予め決めていたように淀みなくそう答えた。
春馬は悲しそうに微笑み、斜め下を見る。
「……公爵は悲しむでしょうね。どんな子でも、子供は子供ですから」
そんなことを呟く春馬に、エステルヘルは目を瞬かせる。
「……二十にもならんのに、親の気持ちになって悲しむことが出来るのか。優しいな、お主」
「……いや、まぁ、普通ですよ」
エステルヘルに感心され、春馬はどこか遠い目をして答えた。一瞬の間が空き、静かな時間が部屋を支配する。
と、階段を駆け上がってくる足音が響いた。
「ハルマ!?」
若い女の声と、激しくドアを開ける音が同時に鳴り、春馬とエステルヘルが振り向く。
「ああ、ハルマ! 怪我はない!?」
そう言って、一人の女がソファーに座る春馬の隣に両膝をついて跪き、顔や体を両手で撫でる。
「ちょ、ソフィア……大丈夫だから。ごめんよ、心配をかけたね」
春馬が照れながら女の手を握って答えると、ソフィアと呼ばれた女は頬を赤く染めて顎を引いた。その姿を見て、エステルヘルは目を丸くする。
街を歩けば誰もが振り向くような美しい女性だ。流れるような透明感のある金髪を背中まで下ろしており、左右に分かれた髪の間には名工の調度品のように整った若い女性の顔がある。優しげな、おっとりとした雰囲気の顔だ。
だが、エステルヘルが驚いたのは絶世の美女だからではなく、その目はソフィアの顔と耳に向いていた。
「……まさかお主は、Aランク冒険者パーティー『聖弓』の一人、ソフィアーナ……?」
細く先が尖った耳を見ながら、エステルヘルがそう呟いた。すると、ソフィアが眉間に皺を寄せて口を尖らせる。
「聖弓に属してたのはもう十年も前。今は特定のパーティーには属してないわ」
そんな返答を聞き、エステルヘルは戸惑いながらも頷いた。
「あ、ああ……それは知ってるが、何故お前さんがこの街に? 近年名を聞かなかったから、てっきりエルフの国に帰ったのかと……」
冒険者ギルドにとって、希少な素材を収集し、騎士団でも手間取る強大な魔獣を倒すことの出来るAランク冒険者は重要人物として扱う。故に、冒険者ギルドは姿を消したAランク冒険者が出た場合、各地で情報収集を行って捜索するのだ。
しかし、聖弓解散後、ソフィアの名は徐々に聞かなくなった。聖弓は四人のエルフだけで結成された非常に珍しい冒険者パーティーだったが、その実力も確かだった。
かつてAランク冒険者六人で結成した最強のパーティーはドラゴンすら退けたとされ、唯一Sランクを冠するパーティーとなったが、そんな例外を除けば間違いなく世界トップクラスの冒険者達である。
その一人が、突如として辺境の街に現れたのだ。エステルヘルでなくとも驚いたことだろう。
と、エステルヘルが目を白黒していると、開いたままのドアの向こうから疲弊した顔つきのヴァールが顔を出した。
「……疲れた。ハルマ、お前は嫁にどんな教育をしてるんだ」
ヴァールが溜め息混じりにそう呟き、エステルヘルの目は更に見開かれることになった。
「ありがとう、ございます……!」
脱出した直後、女が涙を流しながら頭を下げる。男も同じく、涙ぐみながら顎を引いた。
「もう、終わりかと思った……まさか、あのダレムに逆らってまで俺たちを助けてくれる人がいるなんて」
二人の言葉を聞きながら、春馬は困ったように笑う。
「まぁ、流れ者なんで気になさらず」
春馬がそう言うと、灰色の髪の男が仏頂面で口を開いた。
「俺が一番働いただろう」
「良いじゃないか。別に誰が答えたって。感謝してるよ、ヴァール」
文句を聞き、春馬はヴァールと呼んだ男を振り向いて軽く感謝を伝える。ヴァールはそれに満足そうに頷き、腰に下げた袋から小さなガラス製の瓶を出した。そして、それを女に向けて放る。
「治療薬だ。使え。今なら傷痕も残らない」
ヴァールがそう告げて女は治療薬を受け取るが、目はヴァールの顔から離れなかった。
震える手で瓶を持ったまま、ヴァールの顔を指差す。
「ま、まさか、灰色の鬼狩り……」
女がそう口にした瞬間、男が慌てた様子で叱責する。
「こ、こら! Aランク冒険者、英雄のヴァール殿だろう!? も、申し訳ない。ヴァール殿。悪気は無く、たまたま思い出した字名が……」
言い訳をしつつ謝罪する男に、ヴァールは無表情で溜め息を吐いた。
「気にしていないし、英雄でもない。たまたまオーガが森の中に巣作りをしていたから潰しただけだ。近くに町があることも知らなかったしな」
ぶっきらぼうにそう言ったヴァールに、春馬が笑いながら頷く。
「道に迷ってたって話だよね、それ」
「うるさい」
春馬が茶化すと、ヴァールは一言で切って捨てた。そんなやり取りをする二人に、女は難しい顔で首を傾ける。
「……ヴァール様はお一人で行動されることも聞いていましたが」
その呟きが聞こえたのか、聞こえなかったのか、春馬とヴァールは二度三度と適当なやり取りを行い、女を見た。
「あ、ほら。早く飲まないと」
「傷が残るぞ。ほら、早く飲め」
二人に急かされて、女は慌ててもらった薬瓶を口につけて傾けた。中には薄っすらと青い液体が入っており、するすると女の口の中に流れる。
「……はぁ。あ、ありがとうございました」
飲んだ後、女は急ぎ礼を述べる。
直後、傷口は淡い光を放ちながら変化をしていった。血が止まり、逆再生のように裂けた肉が集まり、皮が再生していく。
「治る過程はなんか気持ち悪いよねぇ。中々慣れないなぁ」
春馬が眉をハの字にして言うと、ヴァールは呆れたような顔で首を左右に振る。
「見慣れた。お前も見慣れろ」
「そんな簡単には……」
二人が間の抜けた会話をしている中、傷が治っていく過程を唖然とした様子で見ていた親子は、揃ってヴァールに顔を向ける。
「ヴァール殿、これはまさか……!」
「ん? 中級治療薬だ。エルフ特製の」
「なっ!?」
なんでも無いように告げられ、親子は愕然とした。
「そ、それは……こ、困ったことに、俺たちにはとても払える品では……」
男が冷や汗を流しながらそう言い、ヴァールは面倒くさそうに春馬を指差す。
「気にするな。どうせコイツのだ」
「いや、確かにそうだけど、お前は気にしなさいよ」
話を振られた春馬は苦笑混じりにそう返し、女を見た。
「……うん。傷は綺麗に治りましたね。じゃあ、気を付けて村にお帰り下さい」
春馬が女の顔を見ながら優しく声を掛けると、女は照れたように赤くなって一歩下がった。
「女たらしが。ソフィアに言うぞ」
「ソフィアは関係無いでしょ。普通の会話だ」
「天然だから一番タチが悪い」
二人が半眼で文句を言い合うと、男が所在なさげに声をかける。
「あ、あの……お、お代は本当に?」
男の言葉は二人の耳に届かず、親子はどうしたものかと顔を見合わせたのだった。
二人を見送り、春馬とヴァールはまた街中に戻った。
「やっぱり、このままじゃあ終わらないだろうね」
春馬が言うと、ヴァールが鼻を鳴らして首を左右に振る。
「そりゃそうだろう。あの馬鹿は大衆の前で恥を晒して負傷までしたんだ。まぁ、貴族なら上級治療薬くらい持ってるだろうが、痛みは忘れない」
「私は良いけど、ヴァールが一番狙われるね。手切っちゃったし。ははは」
「ハハハじゃねぇよ。あの馬鹿からしたら皆同罪だろうが」
笑う春馬と怒るヴァール。二人が街中を歩いていくと、あの騒ぎを目撃した者も何人か現れ、二人に注目し始めた。
視線が集まるのを感じ、ヴァールは舌打ちをする。
「衛兵呼ばれたら面倒だ。移動するか」
「大丈夫、大丈夫。とりあえず、ギルドに行ってから報告だけしとこうよ。ギルドには先に謝っておこう」
「……面倒な」
と、そんな会話をしながら歩く二人に近付く人影があった。
「ちょ、ちょっといいか」
声をかけられ、二人は振り向く。すると、声を掛けた主の方が戸惑い、顎を引いた。
中年の太った男である。どう見ても兵士の類では無い。
「何かご用ですか?」
春馬が笑顔で聞くと、男は険しい顔で口を開く。
「あなた達、あのダレム様に逆らった二人だろう? 早くこの街から逃げなさい。出来たら公爵領からも離れた方が良い……公爵様は決して民を蔑ろにする方ではありませんが、あの方は……」
男にそう言われ、ヴァールは肩を竦む。
「あのバルトロメウス公爵の実子、だろう。知っている。これまでは公爵が健在だったから大人しくしていたが、近年は公爵の体調不良に合わせて好き放題し始めたとか」
そう告げると、男は苦々しく頷いた。だが、周りの目を気にしてか、静かに返答する。
「……ダレム様は直属の騎士団はお持ちではありません。しかし、この街の領主代行の地位について一年以上経ちます。すぐに何かしらの理由をつけ、反逆者鎮圧の為の部隊を組織するでしょう。どんな事情があれ、その部隊と出会ったなら、逆らわずに捕縛されるしかない。正当な理由で動く騎士団と戦ってしまえば、どうあっても反逆者の烙印を押されますぞ」
と、男は必死に忠告する。その顔を見て、ヴァールは面倒くさそうに溜め息を吐いたが、春馬は優しげに微笑んだ。
「私達の心配をしてくれているんですね。ありがとうございます」
そう答える春馬に、男は悲しそうに首を左右に振る。
「ただの惨めな商人ですよ。あの親子が連れて行かれようとしているのを、私はただ見ていることしか出来なかった。正直、私があなた達のような冒険者であったとしても、あのようなことは出来なかっただろう」
そう言って、男は「胸がすく思いだったがね」と言葉を続け、小さく笑った。
春馬はそれに笑い返し、頷く。
「お気になさらず。結果、あの親子は無事に街から出ました。私達も大丈夫ですから」
そう言うと男は眉根を寄せ、心配そうに口を開いた。
「……そうですか。もし何かありましたら、何でも言ってください。まぁ、妻子がいるので、あまり無茶は出来ませんがね」
と、男が言った途端、周りで春馬達を注目していた何人かが声を上げる。
「お、俺も助けるぞ」
「私は衣装屋です。もし逃げる際に変装するなら……」
「冒険者仲間だ。私も手を貸そう」
そんな声が聞こえ、気付けば春馬とヴァールの近くには人集りが出来ていた。
「わ、分かった。分かったから退け!」
「す、すみません。皆さんの気持ちは有り難いのですが、とりあえずギルドに行かせてくれますか?」
ヴァールが戸惑いながら怒鳴り、春馬が苦笑しながら片手で空をチョップしつつ前進する。
人々を振り切り、ようやく目的の建物に着いた二人は汗を拭いながら息を吐いた。
「……兵士相手にするより疲れたぞ」
「まぁ、彼らも善意で言ってくれてたんだから……疲れたのは確かだけどね」
そう呟き、春馬が建物を見上げる。
「それにしても、やっぱりこの国の建築物は興味深いなぁ。東欧みたいっていうのも何か違うかな? でも、帝国の建築様式を確かに受け継いでいるのに、独自の変容を遂げた個性ある形状と色使い。不思議だよね」
ぶつぶつと呟きながら建物を眺める春馬に、ヴァールは呆れたような顔で溜め息を吐いた。
赤い石壁と赤銅色の丸い屋根。建物の周りにはせり出した屋根を支えるように、太く丸い屋根が無数に立っている。まるで宮殿か神殿のような形状だが、周りの建物も同様であり、特別なものではないことが分かる。
どの建物にも壁に大きな布がかけられており、その模様で何の建物か分かるようになっていた。
剣は騎士団、盾は衛兵の関連施設。金槌は鍛冶屋、ランプは商会、虫眼鏡は鑑定と質屋、枝に止まる鳥は宿屋といった具合である。
他にも大工、演芸、娼館、教会など様々な職業とそれに見合った模様があった。
そして、目の前の建物、冒険者ギルドの掲げる模様は羽だ。羽は自由の象徴なのだが、実際は手に職を得られなかったという理由で選ぶ者も多い為、ならず者やろくでなしの巣窟とも揶揄されている。
他にも魔術士ギルドが存在するが、そちらはある程度以上の魔術の心得がなければ入ることすら出来ず、エリート意識の高い雰囲気を持っていた。
春馬が嬉しそうに手を伸ばし、観音開きの扉を開けて中に入ると、屋内にいる者達の目が春馬に向く。
他の町の冒険者ギルドと同じく、ガラの悪い者が多く、睨むような視線を向ける者までいた。
だが、春馬は気にせず中を歩いて行き、奥のカウンターの前に立つ。カウンターは大きな一枚板で、その奥には二人の女がいた。緑髪の三十歳前後の女と栗色の髪の二十前後の女だ。
冒険者ギルドは街内外からの依頼による料金と、冒険者が持ってくる鉱石や魔獣などの素材の買取と販売、そしてギルドのある建物内での宿と食事によって利益を得ている。特別な場合では、ギルドのある領主などからの要請なども収入源だ。
その中で、最も大きな利益になるのが、冒険者が持ってくる素材の買取と販売である。
「いらっしゃいませ。当ギルドは初めての御利用……」
春馬とヴァールの姿を認めた栗色の髪の女が声を掛けてきて、言葉の途中で目を見開き、動きを止めた。
その目はヴァールの顔で止まっている。
「……いらっしゃいませ。Aランク冒険者のヴァール様、そしてBランク冒険者のハルマ様ちょことお見受け致します」
固まった受付嬢の代わりに、もう一人の受付嬢、緑髪の女がそう口にした。
「私の名前もご存知ですか?」
春馬が驚いてそう尋ねると、受付嬢は表情を崩さずに頷く。
「もちろんです。一ヶ月前、とある貴族の館を破壊したと聞き及んでおります」
「あ、悪名で有名に……? なんて事だ……」
受付嬢の言葉にショックを受け、春馬は天を仰ぐ。それにほくそ笑みながら、ヴァールは栗色の髪の受付嬢に声を掛けた。
「悪いが、この街でもこのハルマがやらかした。ギルド長はいるか? 話がしたい」
ヴァールがそう言うと、受付嬢二人が春馬を見て、次にヴァールを見る。
「お、おります! 少々お待ちください!」
慌てて栗色の髪の受付嬢が答え、カウンターの更に奥にある二階への階段を登っていった。
辺境の広大な領地を治める大貴族、バルトロメウス・フォン・クランツ公爵。領地の中心には小高い丘があり、その丘全てを城壁で囲んだ巨大な城塞都市に公爵の居城はある。
その権力と富を象徴する豪華な城である。石造りの無骨な形状でありながらどこか洗練された美しさも併せ持つ見事な城だ。
バルトロメウス公爵はコルネリス王国の国王、エルンスト二世の実弟の子である。四男という立場から、元々は王都で騎士団の士官という地位にあった。国の法に合わせ、決まった期間軍に属し、最低限の戦のルールと士官としての技能、そして愛国心を学んだ後に小さな街の領主や領主代行となる。それが既定路線というものだった。
しかし、本人の努力か、元々才能があったのか、バルトロメウスは士官として大きな結果を出し、公爵家の騎士団長に就任してからも結果を出し続けた。
気がつけば王国の守り神と呼ばれる程の軍功となり、隣国との戦の際には他の騎士団や傭兵団を纏める軍団長となって総指揮を行い、三度の大戦全てに勝利した。
齢五十五を超えてからは軍団長を辞任し、代わりに二つの隣国と接する北の最重要防衛拠点の領主となる。
それがバルトロメウス公爵領であり、バルトロメウスの実績と王国からの信頼を基に築き上げられた豊かで治安の良い土地である。
だが、近年、その環境は変わりつつあった。
戦や訓練に明け暮れ、自領を与えられてからは領地の経営に全ての力を尽くしたバルトロメウスの、持病からくる衰弱である。
バルトロメウスが衰弱して城から殆ど出てこなくなったことにより、徐々に領地が荒れ始めたのだ。殆どの理由はバルトロメウスの容体を探る為に他国から意図的に追われた盗賊や山賊の類の為である。
本来ならば自領を守るため、バルトロメウスが民衆の前で騎士団を叱咤激励し、驚くような速さで現場に急行させる。
しかし、近年は違った。騎士団は確かに素早く賊の鎮圧に動くのだが、大々的に行われてきたバルトロメウスの激励が無い。そして、居城のある中心都市や領地の端に位置する各城塞都市は治安を通常通り維持しているが、その他の町に関しては徐々に雰囲気が変わってきていた。
それは公爵領の外れの方にある中規模の町、スラヴァでも同様だった。
騎士団で一定期間の軍務を終え、三年の領主代行を経て問題が無ければスラヴァの領主となる。それがバルトロメウス公爵の五男であるダレムに予定された未来である。
ダレムは外面が良く、忙しさから子供に構えなかったバルトロメウスには普通の子に見えた。騎士団でも怒りっぽい士官や先輩の騎士などに怯えたのか、大人しく過ごしており素行の悪さなどは見られなかった。
しかし、領主代行としてスラヴァに来て、バルトロメウスの体調の悪さに比例して領主が街にいない期間が増えた為、徐々に本性を露呈していく。
領主はバルトロメウスが騎士団を率い始めた頃の部下であり、現在は男爵といった立場にある。殆どの時間をバルトロメウスの部下として過ごしたことから、領主は公爵を敬愛しており、実子であるダレムへも期待と信頼をもって接していた。
ダレムは愛想良く領主と話し、仕事を覚えた。その為、領主はダレムならば大丈夫と思い、暇を見つけてはバルトロメウスの見舞いに行くことになる。
その生活に慣れてきて、ダレムは変わっていった。
「くそ……! くそったれが……!」
怒鳴りながら、ダレムは廊下の端に置かれた調度品の壺を叩き壊す。
慌ててメイドの一人が割れた壺の破片を集めに来ると、その頭を思い切り蹴り飛ばした。
「うぁ……」
くぐもった悲鳴をあげて蹲るメイドに鼻を鳴らし、肩を怒らせてその場を歩き去る。手はもう元に戻っていたが、気分は晴れない。むしろ、時間を置くごとに怒りは深まっていった。
「兵士長! 反逆者討伐の騎士団はまだか!?」
ダレムが怒鳴ると、後を歩く男が顔をあげる。精悍な顔立ちの四十歳ほどの男だ。銀色の豪華な鎧に身を包んでいる。
兵士長と呼ばれた男は睨むようにダレムを見ると、静かに口を開いた。
「現在、準備を進めております。相手は八人の兵士を瞬く間に倒した冒険者との話でしたので、騎士団でも腕の立つ者を中心に集めておりますので多少の時間が掛かっております」
「誰でも良いから数を集めよ。大人数で圧殺すれば結果被害は少ないはずだ」
「……了解しました」
そう返事をし、兵士長は踵を返して命令を実行に移す。ダレムはその後ろ姿を半眼で見やった後、舌打ちをした。
「何を考えているのか分からん奴だ。もし失敗したらすぐに降格処分にしてやる」
ダレムは苛立ちながらそう呟き、また廊下を歩き出した。
結局、騎士団が出陣可能になったのは翌日となった。出来るだけ領主に判断をしてもらいたいと思い兵士長がわざと準備を遅らせたことに気づかなかったダレムは、ただただ兵士長を無能と罵倒し、自ら兵を率いると言って騎士団の前に立つ。
「敵は悪逆非道にも領主代行の俺に剣を向けた悪漢二名とそれに加担した村人二名だ! 卑怯にも不意をつき、兵士八名を殺傷してこの俺も手傷を負った! 片手で何とか追い払ったが、奴らはこの街、引いては公爵領に敵意を持つ危険な輩である!」
怒鳴り、ダレムが剣を抜く。高々と掲げた剣は光を反射させ一段と美しく光った。
「さぁ、剣を抜き、敵を倒せ! 街を守るのは我らだ!」
バルトロメウス公爵の口上を真似したダレムの激励に、騎士団は剣を抜いて顔の前に掲げ、足を踏み鳴らして応えた。
威風堂々と列をなし、騎士団が街の中央を走る大通りを進む。その列の中心には鎧姿で馬に騎乗したダレムの姿がある。事情を知らない観衆の大半はダレムの言葉を鵜呑みにし、歓声をあげて見送った。
だが、その進軍を止める人影が現れる。
小柄な細身の男である。白髪混じりの頭髪と顎髭を生やした初老にさしかかりそうな見た目、衣服もふんわりとした白いローブを着ている。ローブの背には青い羽が刺繍されており、見る者が見れば、この人物が何者か一目で分かるだろう。
その男は無造作に人々の列から離れ、騎士団の進む先に立つ。
「領主代行殿、しばしお待ちを」
男が重い声でそう言った。さほど大声ということもなかったが、不思議と男の声はよく響いた。
「……っ! 止まれ!」
ダレムが怒鳴ると、騎士団は足並み揃えて一旦停止する。兵士達が左右に一歩ずつ別れ、真ん中に出来た空間をダレムが馬に乗ったまま出てきた。
「……これはこれは。俺が情報開示を求めたのに堂々と断りの返事をよこした冒険者ギルドの長、エステルヘルではないか。何用だ」
ダレムが嫌味を込めて尋ねると、エステルヘルと呼ばれた男は顎鬚を指で摘むように撫でながら、口を開く。
「先程の口上には少々事実と違う部分がありました。なので、改めてもらおうかと思いましてな」
飄々とした態度でそう告げたエステルヘルに、ダレムは己の毛が逆立ったと錯覚するほど激しい怒りを覚えた。
「何を言うか! 事実、不意打ちをされて八人の兵士と俺が負傷した! 領主代行に怪我を負わせたなら、騎士団派遣になんらおかしな点は無い!」
自らの怒鳴り声に興奮を高めるダレムに、エステルヘルは片方の眉を上げて「おや?」と首を傾げる。
「確か、ワシが聞いた話では……領主代行が時折行う無体な行為で善良な市民が捕らえられ、危害を受けた。その際、許しを乞うた父親も諸共反逆者として奴隷にすると宣言。そこへ、あまりの非道を止めるべく我がギルドに登録する冒険者が待ったを掛けた、と」
「黙れ、恥知らずが! よくもそのような妄言が吐けたものだ! 領主侮辱の罪で貴様も捕まえるぞ!?」
エステルヘルの台詞を途中で遮り、ダレムが顔を真っ赤にして叫んだ。それに、エステルヘルの顔色が変わる。
「恥知らず、とな?」
空気が震えたような、不思議な圧力を孕んだ声だった。馬が怯えて暴れ、ダレムはその場に投げ出される。
背中から落ちたダレムがくぐもった悲鳴を上げてもがくのを見下ろしながら、エステルヘルの髪の一部が逆立った。頭部に二本のツノが生えたかのようだったが、よく見ればそれが獣の耳であるとしれた。
肉と骨が軋む音が響き、エステルヘルの体躯が一回り二回りも大きくなる。筋肉が膨張し、僅か数瞬で先程の小柄な初老の姿は完全に別人と化した。
「じゅ、獣人が……! 野蛮にも、力尽くで嘘をまかり通らせようとするか!」
地面に転がっておいてまだそのようなことを宣ったダレムを見て、エステルヘルは大声で吠える。
「恥知らずは貴様だ、小僧! 盟友たるバルトロメウスの子であるからと長い目で見るつもりであったが、ほとほと愛想が尽きた! ここで心を入れ替えて民の前で謝罪するなら赦すつもりだったが、もはや我慢ならん!」
言って、エステルヘルは地面に拳を叩きつける。地が揺れ、石畳の道に巨大なひび割れが入った。
「今、この瞬間、バルトロメウスの元へ使者が走った! 貴様のこれまでの悪行全てを記した書状を持ってだ! 貴様はこれで終わりと知れ!」
エステルヘルの断罪の言葉に、ダレムは固まった。赤かった顔が白くなり、冷や汗を流す。
だが、やがてその目に意志の光が宿り、口の端が上がる。
「……冒険者ギルドの反乱だ! 流言を流し、この街を乗っ取ろうとしている! 剣士隊前へ! 魔術師隊! 拘束魔術を行使しろ! 獣人は総じて身体能力が高い! 動きを止めることを主としろ!」
ダレムは、事実自体を消すことを選んだ。
簡単に比較は出来ないが、敢えて冒険者を基準にして考える時、通常一人前と言われるCランク冒険者は剣技をしっかりと習得した兵士、傭兵と同等とされる。一流といわれるBランク冒険者は幼い頃より武芸を学んだ騎士や魔術師と同等とされる。
そして、トップクラスの戦力を持つAランク冒険者は騎士団長や近衛騎士、魔術師長や宮廷魔術師と同等の評価を受ける。
では、Aランク冒険者と騎士や魔術師が戦うとどうなるか。
一対一なら必ず勝つだろう。二人、三人でもまず負けない。だが、これが五人、六人と増えていくとどうなるか。
数は力である。それはどの世界でも変わらない。トップクラスの強さを持つ者であっても、百人以上の兵士に正面からぶつかれば負ける可能性が高い。
元Aランク冒険者だったスラヴァのギルド長、エステルヘルとて、数百という騎士、魔術師、兵士の軍団を相手にすれば、間違いなく負ける。
たまたま街に残っていた冒険者が何人、何十人助太刀に来ようと、勝ち目は無い。
エステルヘルの危機に何人かの冒険者が現れたが、焼け石に水だった。すぐに魔術師の拘束魔術が発動し、冒険者達は動けなくなっていく。
「馬鹿め! これでこの街の乗っ取りを企むエステルヘルの野望は潰えたぞ! 愚かな計画で動きおって、書状も誰が信じるものか!」
皆に聞こえるようにそう叫び、ダレムは片手を前に突き出した。
「さぁ、粛清せよ! 奴らは反逆者に与する愚か者だ!」
ダレムが叫び、今度は魔術師達が手のひらに炎の球を作り上げていく。剣士隊は剣を構え直し、瞬く間にエステルヘル達を包囲した。
包囲が少しずつ狭まろうとしたその時、鋭い風切り音が鳴り響いて最前列に立つ兵士達の剣が弾き飛ばされた。
エステルヘルはくつくつと笑い、その場に座り込む。
「余程の事態にならぬ限り、出てくるなと言っただろうが」
眼前に立つ人物にそう文句を言うと、言われた相手は肩を竦めて灰色の髪を揺らす。
「……これは仕方がないだろう」
ヴァールが面倒くさそうにそう口にすると、エステルヘルの後方から春馬が歩いてきた。
「余程の事態、というやつですよね。ギルド長」
笑いながらそう言い、春馬は片手の掌を上に向ける。すると、そこには小さな半透明の青い球が浮かんでいた。
それを見て、エステルヘルとヴァールは目を見開く。
「ちょ、ちょっと待て! お前は本当に待て! 頼むから!」
「ハルマ! まずは俺が全力であたる! だから、お前は……!」
慌てふためく二人を見て、ダレムが奥歯を嚙み鳴らして怒鳴った。
「ば、ば、馬鹿にするな! 屑どもが! この人数を相手に二人冒険者が増えた程度でどうなると……! 大体、そんな小さな魔術如きで……」
ダレムが馬鹿にしたように笑うと、春馬は面白そうに口の端を上げる。
「それはそうですよ。これは初級魔術、ウォーターボール。恐いわけがない」
そう言って、嘲笑うダレムに向かって魔術を発動した。
半透明な青い球が春馬の手元を離れた直後、球は急激に巨大化しながら破裂する。
瞬く間に体積を増やした水流は、まるで鉄砲水のような勢いで騎士団に殺到した。仮令屈強な騎士でも、強大な魔術師でも、何の準備も無しに大量の質量をぶつけられれば成す術は無い。
騎士団どころか、馬や大型の馬車ですらあっさりと流されていく。
「な、なん……!?」
驚愕に目を見開くダレムも濁流に飲まれて消えた。
その光景に、エステルヘルは頭を抱えて天を仰ぎ、ヴァールは項垂れる。他の冒険者や一般の民達は唖然として固まっていた。
「こ、これは……まさか、今のが魔術師一人の魔術、なのか?」
「そんな、馬鹿な……」
驚愕の声がいたる場所から上がり、中には春馬に化け物でも見るような目を向ける者もいた。
ただ、春馬だけは状況を確認し、満足そうに頷く。
「よし。今回は被害を最小限に抑えられた」
そう言ってガッツポーズをとる春馬に、ヴァールは頬を痙攣らせて呟く。
「……また金が飛んでいく。くそ、ハルマめ。ソフィアに怒られるぞ」
「騎士団はおろか、その他の者も死者はおらん。怪我人は数えきらんくらいでたが、あの状況では奇跡だろう」
エステルヘルが言うと、春馬がにっこりと笑った。
「でしょう? 前回、火の魔術で失敗しましたからね。今回は水にしてみました。大正解でしたよ」
誇らしげにそう言う春馬に、エステルヘルは椅子の背もたれに体重を預け、溜め息を吐く。
二人は今、冒険者ギルドの二階に来ていた。事態の収拾の為に半日掛けて士官以上の人間を捕縛し、本来の領主の帰りを待っている状態である。
壁や天井は木の板や梁が露出した趣のある部屋で、エステルヘルと春馬は対面する形でソファーに座っていた。
「しかし、街の、特に領主の館と騎士団用の宿舎、後は一部の民と商人の建物は被害甚大だ。なにせ、一階部分は全て水浸しで窓も扉も無くなったからな。幸いなのはウォーターボールの向かった方向だけだったことだな。これで街全てが水没してたら目も当てられん」
と、エステルヘルは再び溜め息を吐く。体は元の小柄な状態に戻っている為、春馬は老人をいじめているような気持ちになり、慌てて頭を下げた。
「いや、申し訳ありませんでした……あの時は、他に手が無いと思って……」
気落ちした様子で頭を下げた春馬に、エステルヘルは苦笑して首を左右に振る。
「いや、助けられた身でどうこう言えたことではないのう。ワシも思わず売り言葉に買い言葉で怒ってしまった。本当はあそこで根気良く説得せねばならんかったのだが……腹立たしい態度につい、な」
「ははは……まぁ、仕方ないですよ。それで、ダレムはあのまま地下牢に?」
「そうじゃのう。バルトロメウスに無断で処刑してしまうなんてことは出来んしな。しばらくはあのままじゃ。領主が帰って来たらどうするか相談しよう」
悩む素振りを見せつつ、エステルヘルは予め決めていたように淀みなくそう答えた。
春馬は悲しそうに微笑み、斜め下を見る。
「……公爵は悲しむでしょうね。どんな子でも、子供は子供ですから」
そんなことを呟く春馬に、エステルヘルは目を瞬かせる。
「……二十にもならんのに、親の気持ちになって悲しむことが出来るのか。優しいな、お主」
「……いや、まぁ、普通ですよ」
エステルヘルに感心され、春馬はどこか遠い目をして答えた。一瞬の間が空き、静かな時間が部屋を支配する。
と、階段を駆け上がってくる足音が響いた。
「ハルマ!?」
若い女の声と、激しくドアを開ける音が同時に鳴り、春馬とエステルヘルが振り向く。
「ああ、ハルマ! 怪我はない!?」
そう言って、一人の女がソファーに座る春馬の隣に両膝をついて跪き、顔や体を両手で撫でる。
「ちょ、ソフィア……大丈夫だから。ごめんよ、心配をかけたね」
春馬が照れながら女の手を握って答えると、ソフィアと呼ばれた女は頬を赤く染めて顎を引いた。その姿を見て、エステルヘルは目を丸くする。
街を歩けば誰もが振り向くような美しい女性だ。流れるような透明感のある金髪を背中まで下ろしており、左右に分かれた髪の間には名工の調度品のように整った若い女性の顔がある。優しげな、おっとりとした雰囲気の顔だ。
だが、エステルヘルが驚いたのは絶世の美女だからではなく、その目はソフィアの顔と耳に向いていた。
「……まさかお主は、Aランク冒険者パーティー『聖弓』の一人、ソフィアーナ……?」
細く先が尖った耳を見ながら、エステルヘルがそう呟いた。すると、ソフィアが眉間に皺を寄せて口を尖らせる。
「聖弓に属してたのはもう十年も前。今は特定のパーティーには属してないわ」
そんな返答を聞き、エステルヘルは戸惑いながらも頷いた。
「あ、ああ……それは知ってるが、何故お前さんがこの街に? 近年名を聞かなかったから、てっきりエルフの国に帰ったのかと……」
冒険者ギルドにとって、希少な素材を収集し、騎士団でも手間取る強大な魔獣を倒すことの出来るAランク冒険者は重要人物として扱う。故に、冒険者ギルドは姿を消したAランク冒険者が出た場合、各地で情報収集を行って捜索するのだ。
しかし、聖弓解散後、ソフィアの名は徐々に聞かなくなった。聖弓は四人のエルフだけで結成された非常に珍しい冒険者パーティーだったが、その実力も確かだった。
かつてAランク冒険者六人で結成した最強のパーティーはドラゴンすら退けたとされ、唯一Sランクを冠するパーティーとなったが、そんな例外を除けば間違いなく世界トップクラスの冒険者達である。
その一人が、突如として辺境の街に現れたのだ。エステルヘルでなくとも驚いたことだろう。
と、エステルヘルが目を白黒していると、開いたままのドアの向こうから疲弊した顔つきのヴァールが顔を出した。
「……疲れた。ハルマ、お前は嫁にどんな教育をしてるんだ」
ヴァールが溜め息混じりにそう呟き、エステルヘルの目は更に見開かれることになった。
