――暗い、怖い……早くおうちに帰りたい……
 真っ暗で寒い中、僕は一人置き去りにされている。立ち上がりたいのに、暗くて怖くて、全然動けない。
 ――でもこれは記憶。4歳の頃、誘拐されかけた時の僕の古い、傷のような記憶。
 夢だけど、すごくこわい。喉も渇いた、お腹も空いた。どうしよう。ママ、パパ、ばぁば……



「――ニジくん……」

 呟いた名前が、返事をした気がする。返事をしたそれが、僕の頬とか鼻先を撫でている感触が――

「おはよう、瑠衣。よく眠れた?」
「……え?」

 心地よい感触を味わっていたら、不意に名前を呼ばれた。え? と、眼を開けた先に映り込んだのは、切れ長で綺麗な、クールビューティーと呼ぶにふさわしい整った顔。長い黒い髪を後ろでまとめているのが垂れている。
 真っ黒で夜色の目に、ぼんやりと寝ぼけた姿の僕が映し出されている。間抜けで、無防備で、ほんの少し目許が潤んでいる、寝ぼけた子リスみたいな僕が。
 ああ、またあの夢を見ていたんだ……と、安堵すると同時に、いま僕の顔を覗き込んでいる相手の存在に慌てて跳ね起きた。

「に、ニジくん?! 何でここに?!」
「なんでも何も、もう7時半だよ。全然起きてこないってママさんから言われたから、起こしに来たんだけど」

 そう言いながら、ニジくんは僕の寝ていたベッドに腰かけ、僕の寝ぐせだらけの頭を当り前のように撫でようとしてくる。それを慌てて交わし、キッと睨みつけても、ニジくんは整った顔絵で微笑んでいるばかり。その手には、しっかり僕のスマホが握られている。

「ちょっと! 僕のスマホ! 何してんだよ!」
「何もしてないよ。ああ、瑠衣は今日もかわい……」
「それやめろてば、馬鹿ニジ!」

 跳ね起きると同時に僕に罵られても、ニジくんは動じる様子もない。寧ろ嬉しそうですらある。なんなんだか、本当に……ほぼ毎日毎朝……!
 彼は、僕が三歳の時のこの街に越してきてから付き合いのある、二軒隣のニジくん、こと、原虹太朗(はらこうたろう)。僕より一歳年上の、いわゆる幼馴染だ。
 かれこれ14年くらいの付き合いになるんだけれど、ニジくんは毎朝と言っていいほど僕を迎えに来るし、一緒に登校する。そう、高校も一緒の学校なのだ。
 ニジくんはものすごく頭がいいはずなのに、この辺りでは中くらいのちょっと下、なんてレベルの僕と同じ学校に進学した。理由は、ただ僕が進学しそうだから、と言うだけで一年先に。
 ただそれだけの勘で進学先を決めてしまうニジくんも恐ろしいけれど、結果として同じ高校に行っている僕も僕だろう。

「瑠衣~、起きたの~? 早くご飯食べちゃいなさいよー。ニジくんまで遅刻させる気?」
「わかってるよぉ!」

 僕が喚いたのが聞こえたのか、母さんが様子を見に来た。母さんは僕とそっくりな栗色のくせ毛で、目許も同じ淡い茶色だ。僕と母さんには、イギリス人の血が流れているからだ。
 母さんの母さん、つまり僕の祖母である、ばぁばは、イギリスの人だった。結婚を機に来日し、孫である僕と暮らしたりして五年前に他界している。

「もう、やっと起きた。いつもごめんねえ、ニジくん。助かるわ、この子ニジくんじゃないと起きてくれないから」
「そっかぁ、それは光栄だな」
「そんなことない!! それより早く学校行かなきゃ!」

 制服のシャツやブレザーを慌てて身に付けつつ、通学のリュックを掴んで、僕はニジくんの手を牽いて外に出た。「朝ご飯は?」と、叫ぶように聞いてくる母さんの声には「駅で買いますー」と、何故かニジくんが手を振って答える。
 家を転がるように出て、それこそ歩きながらシャツやブレザーを整えていたら、「瑠衣」と、不意に名前を呼ばれた。
 振り返ると、ニジくんがブラシを手に僕を手招きしている。

「ちょっとジッとしてて……そう、いいよ。あと、ほら、ネクタイ。曲がってる」
「べつに、ちょっとくらい乱れてても、男だから誰も気にしな……」
「ダメ、ちゃんとしなきゃ。そうでないと、セルフネグレクトしてる、そういう扱いしていい子だって思われちゃうからね」
「そんな大袈裟な……」
「瑠衣。頼むから、俺に直させて」

 そんな風にニジくんに言われてしまうと、たとえ人通りの多い朝の道の真ん中でも、僕は立ち止まって服装や髪を整えられてしまう。まるで、小さな子どもみたいな扱いだ。
 本当に大袈裟だな、たかが寝ぐせや制服化着崩れているくらいで……そう、普通なら思うかもしれない。過保護な幼馴染だな、とも笑われるかもしれない。
 でも、これはニジくんにとっても、僕にとっても、笑い事じゃない過去の出来事に通じているんだと思う。
 べつに、僕はセルフネグレクトをしているわけでも、両親にそういう扱いをされたこともない。ただ、4歳の時に誘拐されかけたことがあって……そのことを、ニジくんは言っているんだろう。またそんな風な出来事に、ニジくんが目を離した隙に巻き込まれるんじゃないか、って。

「はい、いいよ、瑠衣」
「……ありがと」
「今日もかわいいよ、瑠……」
「それは余計な一言なんだよ!!」

 ニジくんは隙あらば僕に「かわいい」とか「天使みたいだ」とか言ってくる。そして
絡みつくような指先で僕に触れてうっとりと微笑む。そういう所がなければ、充分クールビューティーなイケメンなのに……残念な人だ。
 それに、僕の服や髪を整えてくれるのは良いとして、その際に僕に触れるのも、まあ、百歩譲っていいとして……だからって、僕をかわいいと言うのは許せない。僕のことをそう言っていいのは、ばぁばだけだ。

「かわいい瑠衣。私の天使。どうかあなたのこの先がしあわせであるように――」

 ばぁばは、祖母は、いつも呪文のように僕にそう言いながら、僕の栗色の髪を撫でてくれていた。祖母とお揃いのくせ毛の栗色のそれは、同じく薄茶の瞳に映し出され、いとおしむように見つめられていた。
 だけど時々、記憶の中の祖母は、僕の頭を撫でながら悲しそうな顔をしていることもある。それを思い返そうとすると、僕はぎゅっと胸が苦しくなる。

(ばぁばとは楽しい事ばかりのはずなのに……そう思っちゃうのは、やっぱり、あの誘拐事件のせいなのかな……)

 あの出来事が僕も僕の家族も悲しませて苦しませたのは間違いない。でも、もう昔の話だし――そう、僕自身は思っているはずなのに。
 でも、あの事を思い出すと、僕はたちまち小さな子リスのように臆病な心になってしまう。震えて、悲しくて苦しい気持ちでいっぱいになる。
 それはやっぱり、あの事がただの昔のことではない、ということなんだろうか。

「瑠衣? そろそろ行かないととマジでヤバいんじゃない?」
「え? あ、わあ! ニジくん、なんで言ってくれないの!」

 立ち止まって考え事をしてしまったのは僕なのに、つい、声をかけてきたニジくんに八つ当たりをしてしまう。軽く拳を作って振り上げても、ニジくんは苦笑して、そっと手を握ってくる。

「だって、瑠衣が考え事している顔が可愛いから、つい、見惚れちゃってさ」
「ニ~ジ~く~ん~!!」

 一瞬でもニジくんなんかに悪いな、とか考えたのがバカみたい! やっぱりニジくんはクセ強の残念イケメンだ。
 遅刻を回避するために走り出そうとした僕に、付き添うようにニジくんが寄って来た……と、思ったら、僕を素早く抱え上げる。

「待って! 何にしてんの?!」
「こうした方が早いし、歩いてたら瑠衣が誰に声かけられるかわからないから」
「大丈夫だってば!」

 喚くように身を捩って降りようにも、ニジくんの力が強くて敵わない。そうしている間に走り出し、どんどん最寄りの駅に近づいていく。確かにこうして走っていくのは速いかもしれないけど……いい歳して抱えられているのは恥ずかしい。いくら僕が、155センチで45キロの小柄で華奢(きゃしゃ)な子リス体型だとしても、もう高2なのだから。
 だけど、ニジくんはもっと恥ずかしくなることを平然と言うのだ。

「大丈夫じゃないよ。俺は瑠衣のナイトとして、ちゃんと教室まで送り届けなきゃなんだから」

 ナイト――騎士ってことらしく、ニジくんはいつもそう言って僕の傍から離れない。きっかけはきっとあの事で、その頃くらいからニジくんは段々残念イケメンになっていった気がする。

(……ニジくんがこうなっちゃったのは、僕の責任でもあるのかな?)

 誰に対してかわからないけれど、なんだか申し訳ない気持ちになりながら、僕はニジくんに抱えられたまま電車に飛び乗ることになる。