第5話 月からの遣い(後編)
花宮さんが去った後、晩御飯を食べながら話すのはやはり彼のことだった。
「トキ、どう思う?」
「あの青年のことですか?」
「うん」
「えらく、綺麗な御人でしたねぇ」
「眩しかったよねぇ」
「本当にお会いしたことないんですか?」
「ないない」
「じゃあ、何故お嬢様に」
「きっと私が知らないうちになにかしちゃったんだよ」
「うーん、トキから見てお嬢様を捕まえに来たわけではなさそうですけどねぇ」
みそ汁をすすりながらトキの話を聞いた。
「何か悪巧みをされているようには感じませんでしたが」
「そうかなぁ」
「一年だけなら前向きに検討してもいいのではないですか?」
「うーん」
「いい出会いかもしれませんよ?」
「うーん」
「報酬は弾むと仰ってましたし、結婚も夢ではありませんよ」
トキの口調は青年の味方のようだった。
「トキは私の味方でいてよ」
「トキはずっとお嬢様の味方ですよ? この先もずっと、でも……」
「でも?」
「ずっと一緒にいられる保証はないので、ね」
「トキが私を見捨てても私はずっとここにいるよ?」
「もしもの話ですよ、トキがいなくなったら」
「やめてよ。トキはいなくならないよ!」
トキはそれ以上話をするのをやめてしまった。
気づけばみそ汁を飲み干していて、ご飯を口の中に放り込んだ。トキの言葉とお米をゆっくり咀嚼しながら天井を見上げた。
トキとずっと一緒にいられないなんて、そんなこと考えたことなかったよ。
答えは出ないまま時間だけは過ぎていき、数日間寝る前もご飯の時も、洗濯物を干している今もトキとの話題はそればっかりだった。
「……何かに困っているのかなぁ」
「そう見えたような、見えなかったような」
「そもそも私の1年にそんな価値……あるのかな。あるとは思えないけど」
「……事情は分かりませんが、価値があるからお嬢様に会いに来られたのではないでしょうか」
物干し竿に洗濯物を広げながらぱんぱんとしわを伸ばしているトキを背に桶の中でわしわし衣類を洗い続けた。
「トキはあの人の味方だもんねぇ」
トキはお嬢様の味方で決めるのはあくまでお嬢様だと言われることを想定していた。想像できなかったのは何も返答がないことだった。
「ねえ、トキ聞いてる?」
振り返る間際、ばさりと洗濯物が地面に落ちる音がしたと同時にもっと大きい音がした。
勢いよく振りかえるとトキが丸くなりながら倒れていた。
「トキ!」
体を揺さぶろうとして目に入った青い顔をしたトキを見て手を止めた。
「むやみに触らない方が、いい、絶対」
どくんどくんと心臓が口から出てしまいそうなほど動いている。頭はすでに真っ白で口だけがぱくぱく開いている。
「ぁ……えっと、なんだっけ。お医者さん!」
視界がぐるぐるし始めた。それでもお医者さんを呼びに行かないと、もつれる足をどうにか動かして家を飛び出した。
トキがトキが、走りながら息を吸えばいいのか吐けばいいのかわからず、ただ息が苦しい。真っ白な頭の中にトキの言葉が浮かんできてほしくなかった。
『ずっと一緒にいられる保証はないので、ね』
『トキがいなくなったら』
トキがいなくなったら、私はどうしたらいいの。
唇が勝手に震えはじめる。力任せに唇を噛みしめても震えは止まらなかった。
街中の一本道、この先を抜ければ病院なのに、人だかりが出来ていて進むことができない。その人だかりの中心にいるのは女性に囲まれている花宮さんだった。
「あの、どいてください、道をあけてください」
女性たちに弾かれて、冷たい言葉が飛び交って尻餅をついた瞬間に唇を噛んで切った。口の中に鉄の味が広がった。
こんなところで止まっているわけにはいかないのに。
人だかりの中から手が伸びてきて私の腕を引っ張り上げた。
女性たちの甲高い悲鳴が上がる中、花宮さんはとても冷めた声で道をあけてくれと女性たちをどかせた。
「何かあったの?」
花宮さんは私の瞳を覗き込むように屈んで前髪の隙間から瞳を探してくれた。
「トキ、トキが、倒れちゃって」
少ない言葉で察してくれたのか花宮さんは腕を引いて病院を目指してくれた。病院の場所を把握しているようだった。私よりも慣れているように病院に入るとお医者さんに話をし、私たちを先導した。
「トキさんはどちらに?」
「こ、こっちです」
家につくなりお医者さんと力を合わせトキを家の中へ運んでくれた。
気を失ったのかただ眠ってしまったのか、穏やかに布団で寝ているトキに安心しながらも険しい表情のお医者さんが私に向き直った。
「こいちゃん」
この街に来てからずっとお世話になっている先生から聞いたことのない重い声がした。先生は分厚いレンズの眼鏡を取って、目頭を押さえた。
「先生、トキは」
「トキさん……心臓の調子がよくないって以前からうちに通ってたんだよ」
「前から……?」
「こいちゃんには秘密にしてほしいって言われていたし、僕みたいな街医者には治療は難しいからもっと大きな病院に行った方がいいって、何度も言っていたんだけどねぇ」
「秘密……? どうして」
「まぁ、大きい病院に見てもらうっていうのもタダじゃないし、きっとこいちゃんを一人にしたくなかったんじゃないかな」
「私がいなかったら、トキは治療をしていたんでしょうか……」
「あーごめん。そうじゃない。先生の配慮がなかったね。責めているわけじゃない。理由はきっと数えればいくらだってあるよ。こいちゃんだけのせいじゃないさ」
慌てて気を遣ってくれる先生は大きな鞄に診察道具をしまいはじめた。
「……ありがとうございました」
「お大事にね」
深々と頭を下げる私に先生は気休めにしかならないけどと薬を置いて帰っていった。
お医者さんを見送った後、隣にいてくれた花宮さんに頭を下げた。
「ごめんなさい。巻き込んでしまって……とても……助かりました」
ぐらぐらと心が揺れているのが自分でもわかる。気を抜けば泣いてしまうくらいだった。
隣にいる花宮さんを見上げると彼は綺麗に口元を吊り上げていた。それに合わせて口元のほくろも妖しく揺れた。
その顔は今、この場にはとても不謹慎だった。
「何を笑っているんですか……」
「え、笑ってた?」
見間違いだったのだろうか。
「あぁ、この状況は悪くないなって」
何を言っているんだろう、この人。
爪先からじわじわと呼吸をするたびに怒りがこみ上げ、胃のあたりまであがってきた。
「こんな時に……最低です」
着物を巻き込んで拳を握った。
「最低? それはどうかな」
「なに……」
「僕を利用するなら今だよ」
「利用?」
「僕を利用してトキさんを助ける選択をすればいい。君の1年を僕に売って、その代わりにトキさんを助けてほしいって言ってくれれば、トキさんの治療費、入院費、生活費全て出すよ。そして君の事も保証する」
「何を、言っているんですか」
「君にとっても悪くない話じゃないの?」
花宮さんを睨みつけてさらに強く拳を握った。
返す言葉もこれからどうすればいいかも何も持ち合わせていない。ギリギリと爪が掌に食い込んでいった時だった。
「あのさあ……」
花宮さんは前髪の隙間から今度は素早く私の瞳を捕まえた。
「こんな時だから! 決断するんだよ。死んでしまったら、もう何もかも間に合わない!」
彼は背筋がびりびりとするくらいの声量で言った。ひくりと喉が鳴り、勢いに負けて後退ったのは私。花宮さんはすぐ狐のように目を細めて今度は冷静に言葉を紡いだ。
「ごめん大きな声を出して……君はさっき、お医者さんに私がいなかったらって聞いてたよね?」
「ぁ……えと、はい」
「自分のせいだと思うなら、なおさら最善を尽くさないと一生悪夢を見続けるよ?」
私の返答を待たずにではまた明日と花宮さんは帰って行った。
背中のビリビリが落ち着いてくると背骨を抜かれたようにふにゃふにゃと体の力が抜けた。トキの眠る横で膝を抱えて丸くなる。ころんとそのまま寝転がるとうとうとしはじめた。
夢の中でお姉様の声がした。
『あんたなんていなければ』
その声を振り切るように走り出した先にお父様が見えた。
『お前なんていなければ』
お父様の声がした。
表情まで見られなかったけれど、きっと間違いない。その声からも逃げるように走り出した先にトキを見つけた。縋りつくように引っ付くと冷たく振り払われてしまった。
「トキ?」
困惑する私に降りかかってきたのは涙だった。
『お嬢様のせいで、お嬢様のせいで私は死ぬんです。お嬢様さえ、いなければ!』
やめて、トキには言われたくなかった。ここにいていいって言ってほしかった。地面が抜ける感覚で目が覚めた。穏やかに眠り続けているトキに安堵しつつも唇を噛んだ。
『一生悪夢を見続けるよ?』
いつか私も悪夢を見ないようになれるのだろうか。
花宮さんの言葉を思い出して、自分の肩を抱き、目を閉じて深呼吸をすると家の匂いがした。今となっては何も感じないこの匂いもここに住み始めた時は違和感でしかなかった。
『トキ、変な匂いする』
『きっと慣れますよ。新しい生活が始まった合図です』
ここにきて近所の子に赤い髪をからかわれた時。
『お嬢様の赤はみんなを照らす太陽みたいでありがたいですけどねぇ。誰にでも暖かい太陽、トキは大好きです』
『そうかなぁ』
はじめて一人で作った料理は焦げていて半分以上真っ黒だった煮物。
『味が沁みていて美味しい』
トキは全て美味しそうに食べてくれた。
初めて自分で縫った着物を家宝にすると泣いてくれた。眠れない日は手を繋いで眠ってくれた。歌を一緒に歌ったり、魚を焦がして笑ったり、風邪を引いたらずっと隣にいてくれた。
トキと過ごしてきた日々は悪夢なんかじゃなかった。
「宝物みたいに大切にされてた」
トキが私を大切にしてくれたように私もトキを大切にしたい。
トキとの思い出を振りかえって目を覚ますと夜が明けていて、自分の身体にトキの布団が半分かけられていた。トキが目を覚ましてこちらを向いた。私の前髪を暖簾のように指先で分けて耳にかけてくれる。
「ご心配をおかけしました。驚かせてしまって、たまにある発作が昨日はたえられずに」
「トキ……」
「はい?」
「決めたよ」
「何をです?」
「私のせいで長生きしちゃったって笑ってほしいから、身体治そうよ」
「お嬢様の負担になるのなら……」
「ならないよ。むしろお釣りが出るよ」
「この先、鬼ばばになるかもしれませんよ?」
「もうずっと前から鬼ばばだよ」
「ふふ」
トキは泣きながら笑ってありがとうございますと何度も言った。
翌日、お昼過ぎに花宮さんがやってきた。
「トキさん、お加減いかがですか?」
「えぇ、花宮さん。お嬢様から聞きました。昨日はお世話になりました」
「いえ、僕はなにも」
こいちゃん、花宮さんは狐のような表情で微笑んで私の名前を呼んだだけだった。答えを催促するわけでもなく私が話すのを待ってくれる。
「花宮さん、あの……私の1年間、買ってください。その代わりトキのことよろしくお願い致します」
「こちらのほうこそ、よろしくお願い致します。トキさんのことはお任せください」
お互いに頭を下げた。私が頭を上げても花宮さんはまだ頭を上げず、慌ててもう少し頭を下げてみた。
花宮さんが去った後、晩御飯を食べながら話すのはやはり彼のことだった。
「トキ、どう思う?」
「あの青年のことですか?」
「うん」
「えらく、綺麗な御人でしたねぇ」
「眩しかったよねぇ」
「本当にお会いしたことないんですか?」
「ないない」
「じゃあ、何故お嬢様に」
「きっと私が知らないうちになにかしちゃったんだよ」
「うーん、トキから見てお嬢様を捕まえに来たわけではなさそうですけどねぇ」
みそ汁をすすりながらトキの話を聞いた。
「何か悪巧みをされているようには感じませんでしたが」
「そうかなぁ」
「一年だけなら前向きに検討してもいいのではないですか?」
「うーん」
「いい出会いかもしれませんよ?」
「うーん」
「報酬は弾むと仰ってましたし、結婚も夢ではありませんよ」
トキの口調は青年の味方のようだった。
「トキは私の味方でいてよ」
「トキはずっとお嬢様の味方ですよ? この先もずっと、でも……」
「でも?」
「ずっと一緒にいられる保証はないので、ね」
「トキが私を見捨てても私はずっとここにいるよ?」
「もしもの話ですよ、トキがいなくなったら」
「やめてよ。トキはいなくならないよ!」
トキはそれ以上話をするのをやめてしまった。
気づけばみそ汁を飲み干していて、ご飯を口の中に放り込んだ。トキの言葉とお米をゆっくり咀嚼しながら天井を見上げた。
トキとずっと一緒にいられないなんて、そんなこと考えたことなかったよ。
答えは出ないまま時間だけは過ぎていき、数日間寝る前もご飯の時も、洗濯物を干している今もトキとの話題はそればっかりだった。
「……何かに困っているのかなぁ」
「そう見えたような、見えなかったような」
「そもそも私の1年にそんな価値……あるのかな。あるとは思えないけど」
「……事情は分かりませんが、価値があるからお嬢様に会いに来られたのではないでしょうか」
物干し竿に洗濯物を広げながらぱんぱんとしわを伸ばしているトキを背に桶の中でわしわし衣類を洗い続けた。
「トキはあの人の味方だもんねぇ」
トキはお嬢様の味方で決めるのはあくまでお嬢様だと言われることを想定していた。想像できなかったのは何も返答がないことだった。
「ねえ、トキ聞いてる?」
振り返る間際、ばさりと洗濯物が地面に落ちる音がしたと同時にもっと大きい音がした。
勢いよく振りかえるとトキが丸くなりながら倒れていた。
「トキ!」
体を揺さぶろうとして目に入った青い顔をしたトキを見て手を止めた。
「むやみに触らない方が、いい、絶対」
どくんどくんと心臓が口から出てしまいそうなほど動いている。頭はすでに真っ白で口だけがぱくぱく開いている。
「ぁ……えっと、なんだっけ。お医者さん!」
視界がぐるぐるし始めた。それでもお医者さんを呼びに行かないと、もつれる足をどうにか動かして家を飛び出した。
トキがトキが、走りながら息を吸えばいいのか吐けばいいのかわからず、ただ息が苦しい。真っ白な頭の中にトキの言葉が浮かんできてほしくなかった。
『ずっと一緒にいられる保証はないので、ね』
『トキがいなくなったら』
トキがいなくなったら、私はどうしたらいいの。
唇が勝手に震えはじめる。力任せに唇を噛みしめても震えは止まらなかった。
街中の一本道、この先を抜ければ病院なのに、人だかりが出来ていて進むことができない。その人だかりの中心にいるのは女性に囲まれている花宮さんだった。
「あの、どいてください、道をあけてください」
女性たちに弾かれて、冷たい言葉が飛び交って尻餅をついた瞬間に唇を噛んで切った。口の中に鉄の味が広がった。
こんなところで止まっているわけにはいかないのに。
人だかりの中から手が伸びてきて私の腕を引っ張り上げた。
女性たちの甲高い悲鳴が上がる中、花宮さんはとても冷めた声で道をあけてくれと女性たちをどかせた。
「何かあったの?」
花宮さんは私の瞳を覗き込むように屈んで前髪の隙間から瞳を探してくれた。
「トキ、トキが、倒れちゃって」
少ない言葉で察してくれたのか花宮さんは腕を引いて病院を目指してくれた。病院の場所を把握しているようだった。私よりも慣れているように病院に入るとお医者さんに話をし、私たちを先導した。
「トキさんはどちらに?」
「こ、こっちです」
家につくなりお医者さんと力を合わせトキを家の中へ運んでくれた。
気を失ったのかただ眠ってしまったのか、穏やかに布団で寝ているトキに安心しながらも険しい表情のお医者さんが私に向き直った。
「こいちゃん」
この街に来てからずっとお世話になっている先生から聞いたことのない重い声がした。先生は分厚いレンズの眼鏡を取って、目頭を押さえた。
「先生、トキは」
「トキさん……心臓の調子がよくないって以前からうちに通ってたんだよ」
「前から……?」
「こいちゃんには秘密にしてほしいって言われていたし、僕みたいな街医者には治療は難しいからもっと大きな病院に行った方がいいって、何度も言っていたんだけどねぇ」
「秘密……? どうして」
「まぁ、大きい病院に見てもらうっていうのもタダじゃないし、きっとこいちゃんを一人にしたくなかったんじゃないかな」
「私がいなかったら、トキは治療をしていたんでしょうか……」
「あーごめん。そうじゃない。先生の配慮がなかったね。責めているわけじゃない。理由はきっと数えればいくらだってあるよ。こいちゃんだけのせいじゃないさ」
慌てて気を遣ってくれる先生は大きな鞄に診察道具をしまいはじめた。
「……ありがとうございました」
「お大事にね」
深々と頭を下げる私に先生は気休めにしかならないけどと薬を置いて帰っていった。
お医者さんを見送った後、隣にいてくれた花宮さんに頭を下げた。
「ごめんなさい。巻き込んでしまって……とても……助かりました」
ぐらぐらと心が揺れているのが自分でもわかる。気を抜けば泣いてしまうくらいだった。
隣にいる花宮さんを見上げると彼は綺麗に口元を吊り上げていた。それに合わせて口元のほくろも妖しく揺れた。
その顔は今、この場にはとても不謹慎だった。
「何を笑っているんですか……」
「え、笑ってた?」
見間違いだったのだろうか。
「あぁ、この状況は悪くないなって」
何を言っているんだろう、この人。
爪先からじわじわと呼吸をするたびに怒りがこみ上げ、胃のあたりまであがってきた。
「こんな時に……最低です」
着物を巻き込んで拳を握った。
「最低? それはどうかな」
「なに……」
「僕を利用するなら今だよ」
「利用?」
「僕を利用してトキさんを助ける選択をすればいい。君の1年を僕に売って、その代わりにトキさんを助けてほしいって言ってくれれば、トキさんの治療費、入院費、生活費全て出すよ。そして君の事も保証する」
「何を、言っているんですか」
「君にとっても悪くない話じゃないの?」
花宮さんを睨みつけてさらに強く拳を握った。
返す言葉もこれからどうすればいいかも何も持ち合わせていない。ギリギリと爪が掌に食い込んでいった時だった。
「あのさあ……」
花宮さんは前髪の隙間から今度は素早く私の瞳を捕まえた。
「こんな時だから! 決断するんだよ。死んでしまったら、もう何もかも間に合わない!」
彼は背筋がびりびりとするくらいの声量で言った。ひくりと喉が鳴り、勢いに負けて後退ったのは私。花宮さんはすぐ狐のように目を細めて今度は冷静に言葉を紡いだ。
「ごめん大きな声を出して……君はさっき、お医者さんに私がいなかったらって聞いてたよね?」
「ぁ……えと、はい」
「自分のせいだと思うなら、なおさら最善を尽くさないと一生悪夢を見続けるよ?」
私の返答を待たずにではまた明日と花宮さんは帰って行った。
背中のビリビリが落ち着いてくると背骨を抜かれたようにふにゃふにゃと体の力が抜けた。トキの眠る横で膝を抱えて丸くなる。ころんとそのまま寝転がるとうとうとしはじめた。
夢の中でお姉様の声がした。
『あんたなんていなければ』
その声を振り切るように走り出した先にお父様が見えた。
『お前なんていなければ』
お父様の声がした。
表情まで見られなかったけれど、きっと間違いない。その声からも逃げるように走り出した先にトキを見つけた。縋りつくように引っ付くと冷たく振り払われてしまった。
「トキ?」
困惑する私に降りかかってきたのは涙だった。
『お嬢様のせいで、お嬢様のせいで私は死ぬんです。お嬢様さえ、いなければ!』
やめて、トキには言われたくなかった。ここにいていいって言ってほしかった。地面が抜ける感覚で目が覚めた。穏やかに眠り続けているトキに安堵しつつも唇を噛んだ。
『一生悪夢を見続けるよ?』
いつか私も悪夢を見ないようになれるのだろうか。
花宮さんの言葉を思い出して、自分の肩を抱き、目を閉じて深呼吸をすると家の匂いがした。今となっては何も感じないこの匂いもここに住み始めた時は違和感でしかなかった。
『トキ、変な匂いする』
『きっと慣れますよ。新しい生活が始まった合図です』
ここにきて近所の子に赤い髪をからかわれた時。
『お嬢様の赤はみんなを照らす太陽みたいでありがたいですけどねぇ。誰にでも暖かい太陽、トキは大好きです』
『そうかなぁ』
はじめて一人で作った料理は焦げていて半分以上真っ黒だった煮物。
『味が沁みていて美味しい』
トキは全て美味しそうに食べてくれた。
初めて自分で縫った着物を家宝にすると泣いてくれた。眠れない日は手を繋いで眠ってくれた。歌を一緒に歌ったり、魚を焦がして笑ったり、風邪を引いたらずっと隣にいてくれた。
トキと過ごしてきた日々は悪夢なんかじゃなかった。
「宝物みたいに大切にされてた」
トキが私を大切にしてくれたように私もトキを大切にしたい。
トキとの思い出を振りかえって目を覚ますと夜が明けていて、自分の身体にトキの布団が半分かけられていた。トキが目を覚ましてこちらを向いた。私の前髪を暖簾のように指先で分けて耳にかけてくれる。
「ご心配をおかけしました。驚かせてしまって、たまにある発作が昨日はたえられずに」
「トキ……」
「はい?」
「決めたよ」
「何をです?」
「私のせいで長生きしちゃったって笑ってほしいから、身体治そうよ」
「お嬢様の負担になるのなら……」
「ならないよ。むしろお釣りが出るよ」
「この先、鬼ばばになるかもしれませんよ?」
「もうずっと前から鬼ばばだよ」
「ふふ」
トキは泣きながら笑ってありがとうございますと何度も言った。
翌日、お昼過ぎに花宮さんがやってきた。
「トキさん、お加減いかがですか?」
「えぇ、花宮さん。お嬢様から聞きました。昨日はお世話になりました」
「いえ、僕はなにも」
こいちゃん、花宮さんは狐のような表情で微笑んで私の名前を呼んだだけだった。答えを催促するわけでもなく私が話すのを待ってくれる。
「花宮さん、あの……私の1年間、買ってください。その代わりトキのことよろしくお願い致します」
「こちらのほうこそ、よろしくお願い致します。トキさんのことはお任せください」
お互いに頭を下げた。私が頭を上げても花宮さんはまだ頭を上げず、慌ててもう少し頭を下げてみた。
