第4話 月からの遣い(前編)
さて、あれから10年も経つと心も体も大きくなり、こいは16歳になりました。
ここまでの道のりは決して平坦ではなく、バケモノの指導者であるトキは宣言通り、鬼となりました。
新しいお家に来た翌日のこと、私はぼうっと寝巻のまま着替えさせてくれるのを待っていた。しかし、トキは目の前で正座をするだけだった。
「トキ、お着がえ」
「いいえ、お着がえは今日から一人でして頂きます」
私の前にさっと着物が置かれただけだった。
着物を置かれても着方のわからない私はトキと着物を交互に見ることしかできない。
「着れない」
「では、どうします?」
「トキに」
「いいえ」
「わからない」
「では、そのままでいてください」
「やだ」
私が駄々をこねてもトキは何もしてくれなかった。
最終的に溜息をついてから、いいですかと私を諭した。
「わからないことは聞いて、教えてもらわないといけません。教えを乞うときは教えてくださいと頭を下げます」
やだやだと言ったところでトキはじゃあそのままでいてくださいと何度も突き放した。くしゃみをして鼻水が垂れ、肩が震えてようやく私は観念した。
「着物の着方を教えてください……」
おずおず頭を下げるとトキは眉を下げ、微笑んでくれた。
「かしこまりました」
トキは着物の着方を一から説明し始めた。
二日ほど自力で着ることが出来ず、体に布を巻き付けて過ごした。
「トキ……髪……」
「ご自分で」
櫛を渡されただけだった。
寝て起きて、四方八方ハネ、うねる私の髪の毛はくせが酷く梳かすのが大変だということを初めて知った。
櫛を片手に何度も何度も逆立つ髪の毛と交戦した。
今までやってもらう側だった私が、自分でやる側になるのは何をするにも大変さが付きまとった。
布団の敷き方、炊事、裁縫、洗濯、掃除、お風呂、何もかも知らなかった。
「包丁の使い方を教えてください」
「裁縫の仕方を教えてください」
「掃除の仕方を教えてください」
「洗濯の仕方を教えてください」
私の言葉にトキは嫌な顔を一切見せずに根気強くかしこまりましたと頷いてくれた。鬼の言う通り、やることも、やらなければいけないこともたくさんあって退屈はしなかった。
「きゅうりって……」
初めて育てた野菜はきゅうり。野菜は木から生えるわけではないことも初めて知った。
何度も調理中に包丁で指を切った。裁縫をすれば針で指を刺したり、洗濯物を泥まみれにしたり、掃除をすれば床を水浸しにしたりと困難が多い日々だった。けれど、トキというとても厳しい先生のおかげで炊事、裁縫、洗濯、掃除一人で難なく出来るようになった。
身体が大きくなるにつれて心も大きくなると心の傷も大きくなるらしい。10年前のお姉様の瞳が歳を重ねるごとに鮮明に頭に浮かぶようになった。
何度も忘れようと、前を向こうとしたのに忘れることなど出来るはずもなく、次第に人の目が見られなくなった。
『あんたなんか、いなければよかったのに』
他人の視線が否応なく私を責めたてているように感じてしまう。少しでも遮るように前髪を伸ばしはじめ、唇に触れるくらいの長さでおちついた。
また、赤い瞳を見て驚かれることも多く自然と地面ばかり見るようになった。
「ぁ……ァ」
月に何度か、あんたなんていなければと叫ばれる夢を見て夜中に目を覚ましてしまう。びっしょりと背中に汗をかいている。
「そんなこと……私が一番わかってる、だれにも迷惑かけないようにひっそりと生きるから……ごめんなさい、ごめんなさい」
いくら私が生きることに前向きになったとしても、前に進んでいるように見えたとて、少しも進んでいないのかもしれない。
トキからお使いを頼まれて街を歩いていると、街中で普段あまり聞くことのない黄色い声がたくさん飛び交っていた。
声を追いかけるように辺りを見渡すと女性に囲まれている青年が両手で迫りくる女性たちを制しながら困ったように眉をハの字にしていた。
「見たことのないお顔ですけれど……」
「どちらからいらっしゃったんですかぁ?」
「この街へは何をしに?」
「僕は……ですね」
質問攻めをされている青年が質問を切るようにそれはもう、眩しさを感じるほど綺麗な顔で微笑んだ。その表情に周りの女性は話すのをやめてうっとりと見上げ、青年の言葉を待っている。
「人を、探しているんです」
人探しか……見つかるといいな。
前髪の隙間から青年を見上げた瞬間。少し距離があったのに目が合った。
バチン――。
星がはじけるみたいに目がちかちかした。青年は私から目を離すとわざとらしく困った素振りをして、口元に手を当てた。
「赤い髪で、赤い瞳の子を探していて……」
赤い髪で、赤い瞳……なんてこの街で私しかいないじゃない。
鳥肌が立って気づけばぐるりと体を翻して走り出していた。
私は自分が知らないうちに罪を犯していたのでしょうか。あの人はきっと私を捕まえに来たんだ。絶対に捕まりたくない。嫌だ嫌だ嫌だ。
家の中に駆け込んでトキに縋りついた。
「トキ、トキ、トキ、私、捕まっちゃうかもしれない。何か罪を犯してしまったんだと思う。私がバケモノだから……」
トキはきょとりと何度か瞬きをした。そして、縋りついている私をなだめながらため息をついた。
「なにか思い当たることがあるんですか?」
「おもいあたるこ、と?」
「それがないなら、捕まる理由なんてないではないですか」
「だって、私の事探してたんだよ? この街で髪と瞳が赤い子を探してるって、理由もなく探すなんておかしいよ」
「では、理由があるのでは?」
「ないない、絶対ない。あんなに眩しい人、見たことも、もちろん会ったこともないよ」
ふむとトキが顎に手を当てて考えこんだ後であっと何か思い付いたようだった。
「それは捕まえに来たのではなく、迎えにきたのではないですか?」
「何の迎えだっていうの?」
「例えば、そうですねぇ。あ! お嬢様をお嫁にお考えとか」
「嫁! そんなこと天と地がひっくり返っても可能性ないでしょう。どちらかというと捕まる方が……可能性あるよ」
「わからないではないですか。どこからかお嬢様の情報を得て、縁談の申し込みをなんて、ない話ではありませんよ。お嬢様ももう16なのですからね」
お、お、お嫁さん。私が嫁入り? いやいやいや。そんな御伽話じゃないんだから。
「あるわけ、ないよ! そんなの、さ。ねぇ。本当にあったら困るよ」
でも実際、本当にあったら……私はどうするんだろう。
いや、違う。珍しい赤い女だから騙されて、どこかに売られるなんてことの方があるかもしれない。体温が急激に上がったり下がったりしている中、玄関先からごめんくださいと声がした。
私はびくりと飛び上がった。トキは飛び上がった私にびっくりしていた。
「き、きた」
「では、トキが出てきます」
「ま、まって。危ないよ。私がはっきり断るから……だ、大丈夫。任せて、トキに迷惑かけない、よ!」
トキに背中を見守られながらゆっくりと玄関先に向かって歩いた。何度か己を鼓舞するように胸を叩いて、よしよしと声を出した。
勢いよく戸を開けて、相手の顔は見ず、話も聞かず、頭を下げた。
「ごごごごごめんなさい。お嫁にはい、い、いけません!」
頭の上にしーんと沈黙が流れていて、とても間が長くておかしいことは分かってはいたものの、顔を上げられずにいるとトキの声がした。
「あぁ! 郵便屋さん。私に手紙ですか?」
「あぁ、はい。こちらです」
「ご苦労さまです」
「いえ、ではまた」
頭の上で戸が閉まる音がした。
「あれ?」
トキの笑っている声がして、ゆっくりじっとり顔を上げて振り返った。顔の部位をぎゅっと中心に寄せた。
きっと今、梅干しみたいな顔をしているに違いない。
「穴があったら入りたい」
顔から火が出そうだった。いや、出ていたのかもしれない。
「顔を冷やしてくる」
いまだに笑っているトキを尻目に外に出ようと戸を開いた時だった。文字通り、ばったりあの人に会ってしまった。
「あ」
「僕でよければ、結婚します?」
「けけけ、結構です」
慌てて家の中に入ろうとすると待ってと腕を掴まれた。
前髪の隙間からちらりと覗くと私よりもずいぶん背が高く、やっぱり眩しい容姿、年上のようで、口元にほくろがあった。微笑みかけてくる表情は狐に似ていて、反射的に手を振り払おうとするとパンッと音をたてて手が離れた。
「え、あ」
傷ひとつない頬がほんのり赤くなり、私の手が青年の頬を叩いてしまったことを理解した。
「ごごごご、ごめんなさい。叩くつもりはまったくなくて、なかったんです!」
青年は頬を触りながらも表情を崩すことはなかった。
「僕がいきなり腕を掴んだのがいけなかったですね」
こんな綺麗な顔を叩いてしまった。いよいよ、言い逃れのできない大罪人として捕まってしまうに違いない。
「現行犯になってしまった」
あわあわしているとトキがするりと横から顔を出して家の中に招き入れた。
「こんなところで立ち話もなんですし、一旦中で、頬を冷やしましょう」
大急ぎで座布団とお茶と頬を冷やすように手ぬぐいを水で絞ったものを用意してぎこちなく向かい合った。頬に手ぬぐいを当てている青年におどおど声をかける。
「え、えっと、どうして家に」
青年は頬から手ぬぐいを離して、喉を鳴らした。
「はじめまして、花宮月彦と申します」
「と、東条こいです……」
つられて私も名乗ってしまった。
「ひとつお願いがあってこちらまで参りました」
「お願い、ですか?」
お願いの詳細が語られるまでに少し間があき、息を吸う音がした。少しだけ顔を上げて花宮さんの喉ぼとけのあたりを眺めていた。
「あなたの一年間を僕に売って頂けないですか?」
「う、売る!?」
「報酬はお金でも、物でも、例えば僕でも構いません」
「えっと」
捕まってしまうこと、騙されること、お嫁にいくこと、何通りかを想定した上でどう断ろうかと言葉を組み立てていたのに花宮さんからの言葉にどう返せばいいのかわからなかった。
「……」
何も発しない私に代わりに隣に座るトキが手を上げた。
「どういうことでしょうか?」
「厳密に言うと年が明けるまで、僕と一つ約束してほしいことがあるんです」
「約束というと?」
「これ以上は引き受けるという答えが得られないと教えられません。ただ、誓って。こいさんに危害は加えません。安全と衣食住の確保はお約束します。もしもの時は僕も命を懸けます」
「命ってそんな」
参ってしまった。これならお嫁に来てほしいと言われたほうがよかったとまで思ってしまった。
「考えさせてください」
「えぇ、また改めて伺います」
花宮さんは答えを急かすことなく、意外にもすんなり今日は帰っていった。
すぐに断りたかったのに断れなかったのは淡々と語る口調と余裕のある表情とは裏腹にずっと彼の手が震えていたからだった。
さて、あれから10年も経つと心も体も大きくなり、こいは16歳になりました。
ここまでの道のりは決して平坦ではなく、バケモノの指導者であるトキは宣言通り、鬼となりました。
新しいお家に来た翌日のこと、私はぼうっと寝巻のまま着替えさせてくれるのを待っていた。しかし、トキは目の前で正座をするだけだった。
「トキ、お着がえ」
「いいえ、お着がえは今日から一人でして頂きます」
私の前にさっと着物が置かれただけだった。
着物を置かれても着方のわからない私はトキと着物を交互に見ることしかできない。
「着れない」
「では、どうします?」
「トキに」
「いいえ」
「わからない」
「では、そのままでいてください」
「やだ」
私が駄々をこねてもトキは何もしてくれなかった。
最終的に溜息をついてから、いいですかと私を諭した。
「わからないことは聞いて、教えてもらわないといけません。教えを乞うときは教えてくださいと頭を下げます」
やだやだと言ったところでトキはじゃあそのままでいてくださいと何度も突き放した。くしゃみをして鼻水が垂れ、肩が震えてようやく私は観念した。
「着物の着方を教えてください……」
おずおず頭を下げるとトキは眉を下げ、微笑んでくれた。
「かしこまりました」
トキは着物の着方を一から説明し始めた。
二日ほど自力で着ることが出来ず、体に布を巻き付けて過ごした。
「トキ……髪……」
「ご自分で」
櫛を渡されただけだった。
寝て起きて、四方八方ハネ、うねる私の髪の毛はくせが酷く梳かすのが大変だということを初めて知った。
櫛を片手に何度も何度も逆立つ髪の毛と交戦した。
今までやってもらう側だった私が、自分でやる側になるのは何をするにも大変さが付きまとった。
布団の敷き方、炊事、裁縫、洗濯、掃除、お風呂、何もかも知らなかった。
「包丁の使い方を教えてください」
「裁縫の仕方を教えてください」
「掃除の仕方を教えてください」
「洗濯の仕方を教えてください」
私の言葉にトキは嫌な顔を一切見せずに根気強くかしこまりましたと頷いてくれた。鬼の言う通り、やることも、やらなければいけないこともたくさんあって退屈はしなかった。
「きゅうりって……」
初めて育てた野菜はきゅうり。野菜は木から生えるわけではないことも初めて知った。
何度も調理中に包丁で指を切った。裁縫をすれば針で指を刺したり、洗濯物を泥まみれにしたり、掃除をすれば床を水浸しにしたりと困難が多い日々だった。けれど、トキというとても厳しい先生のおかげで炊事、裁縫、洗濯、掃除一人で難なく出来るようになった。
身体が大きくなるにつれて心も大きくなると心の傷も大きくなるらしい。10年前のお姉様の瞳が歳を重ねるごとに鮮明に頭に浮かぶようになった。
何度も忘れようと、前を向こうとしたのに忘れることなど出来るはずもなく、次第に人の目が見られなくなった。
『あんたなんか、いなければよかったのに』
他人の視線が否応なく私を責めたてているように感じてしまう。少しでも遮るように前髪を伸ばしはじめ、唇に触れるくらいの長さでおちついた。
また、赤い瞳を見て驚かれることも多く自然と地面ばかり見るようになった。
「ぁ……ァ」
月に何度か、あんたなんていなければと叫ばれる夢を見て夜中に目を覚ましてしまう。びっしょりと背中に汗をかいている。
「そんなこと……私が一番わかってる、だれにも迷惑かけないようにひっそりと生きるから……ごめんなさい、ごめんなさい」
いくら私が生きることに前向きになったとしても、前に進んでいるように見えたとて、少しも進んでいないのかもしれない。
トキからお使いを頼まれて街を歩いていると、街中で普段あまり聞くことのない黄色い声がたくさん飛び交っていた。
声を追いかけるように辺りを見渡すと女性に囲まれている青年が両手で迫りくる女性たちを制しながら困ったように眉をハの字にしていた。
「見たことのないお顔ですけれど……」
「どちらからいらっしゃったんですかぁ?」
「この街へは何をしに?」
「僕は……ですね」
質問攻めをされている青年が質問を切るようにそれはもう、眩しさを感じるほど綺麗な顔で微笑んだ。その表情に周りの女性は話すのをやめてうっとりと見上げ、青年の言葉を待っている。
「人を、探しているんです」
人探しか……見つかるといいな。
前髪の隙間から青年を見上げた瞬間。少し距離があったのに目が合った。
バチン――。
星がはじけるみたいに目がちかちかした。青年は私から目を離すとわざとらしく困った素振りをして、口元に手を当てた。
「赤い髪で、赤い瞳の子を探していて……」
赤い髪で、赤い瞳……なんてこの街で私しかいないじゃない。
鳥肌が立って気づけばぐるりと体を翻して走り出していた。
私は自分が知らないうちに罪を犯していたのでしょうか。あの人はきっと私を捕まえに来たんだ。絶対に捕まりたくない。嫌だ嫌だ嫌だ。
家の中に駆け込んでトキに縋りついた。
「トキ、トキ、トキ、私、捕まっちゃうかもしれない。何か罪を犯してしまったんだと思う。私がバケモノだから……」
トキはきょとりと何度か瞬きをした。そして、縋りついている私をなだめながらため息をついた。
「なにか思い当たることがあるんですか?」
「おもいあたるこ、と?」
「それがないなら、捕まる理由なんてないではないですか」
「だって、私の事探してたんだよ? この街で髪と瞳が赤い子を探してるって、理由もなく探すなんておかしいよ」
「では、理由があるのでは?」
「ないない、絶対ない。あんなに眩しい人、見たことも、もちろん会ったこともないよ」
ふむとトキが顎に手を当てて考えこんだ後であっと何か思い付いたようだった。
「それは捕まえに来たのではなく、迎えにきたのではないですか?」
「何の迎えだっていうの?」
「例えば、そうですねぇ。あ! お嬢様をお嫁にお考えとか」
「嫁! そんなこと天と地がひっくり返っても可能性ないでしょう。どちらかというと捕まる方が……可能性あるよ」
「わからないではないですか。どこからかお嬢様の情報を得て、縁談の申し込みをなんて、ない話ではありませんよ。お嬢様ももう16なのですからね」
お、お、お嫁さん。私が嫁入り? いやいやいや。そんな御伽話じゃないんだから。
「あるわけ、ないよ! そんなの、さ。ねぇ。本当にあったら困るよ」
でも実際、本当にあったら……私はどうするんだろう。
いや、違う。珍しい赤い女だから騙されて、どこかに売られるなんてことの方があるかもしれない。体温が急激に上がったり下がったりしている中、玄関先からごめんくださいと声がした。
私はびくりと飛び上がった。トキは飛び上がった私にびっくりしていた。
「き、きた」
「では、トキが出てきます」
「ま、まって。危ないよ。私がはっきり断るから……だ、大丈夫。任せて、トキに迷惑かけない、よ!」
トキに背中を見守られながらゆっくりと玄関先に向かって歩いた。何度か己を鼓舞するように胸を叩いて、よしよしと声を出した。
勢いよく戸を開けて、相手の顔は見ず、話も聞かず、頭を下げた。
「ごごごごごめんなさい。お嫁にはい、い、いけません!」
頭の上にしーんと沈黙が流れていて、とても間が長くておかしいことは分かってはいたものの、顔を上げられずにいるとトキの声がした。
「あぁ! 郵便屋さん。私に手紙ですか?」
「あぁ、はい。こちらです」
「ご苦労さまです」
「いえ、ではまた」
頭の上で戸が閉まる音がした。
「あれ?」
トキの笑っている声がして、ゆっくりじっとり顔を上げて振り返った。顔の部位をぎゅっと中心に寄せた。
きっと今、梅干しみたいな顔をしているに違いない。
「穴があったら入りたい」
顔から火が出そうだった。いや、出ていたのかもしれない。
「顔を冷やしてくる」
いまだに笑っているトキを尻目に外に出ようと戸を開いた時だった。文字通り、ばったりあの人に会ってしまった。
「あ」
「僕でよければ、結婚します?」
「けけけ、結構です」
慌てて家の中に入ろうとすると待ってと腕を掴まれた。
前髪の隙間からちらりと覗くと私よりもずいぶん背が高く、やっぱり眩しい容姿、年上のようで、口元にほくろがあった。微笑みかけてくる表情は狐に似ていて、反射的に手を振り払おうとするとパンッと音をたてて手が離れた。
「え、あ」
傷ひとつない頬がほんのり赤くなり、私の手が青年の頬を叩いてしまったことを理解した。
「ごごごご、ごめんなさい。叩くつもりはまったくなくて、なかったんです!」
青年は頬を触りながらも表情を崩すことはなかった。
「僕がいきなり腕を掴んだのがいけなかったですね」
こんな綺麗な顔を叩いてしまった。いよいよ、言い逃れのできない大罪人として捕まってしまうに違いない。
「現行犯になってしまった」
あわあわしているとトキがするりと横から顔を出して家の中に招き入れた。
「こんなところで立ち話もなんですし、一旦中で、頬を冷やしましょう」
大急ぎで座布団とお茶と頬を冷やすように手ぬぐいを水で絞ったものを用意してぎこちなく向かい合った。頬に手ぬぐいを当てている青年におどおど声をかける。
「え、えっと、どうして家に」
青年は頬から手ぬぐいを離して、喉を鳴らした。
「はじめまして、花宮月彦と申します」
「と、東条こいです……」
つられて私も名乗ってしまった。
「ひとつお願いがあってこちらまで参りました」
「お願い、ですか?」
お願いの詳細が語られるまでに少し間があき、息を吸う音がした。少しだけ顔を上げて花宮さんの喉ぼとけのあたりを眺めていた。
「あなたの一年間を僕に売って頂けないですか?」
「う、売る!?」
「報酬はお金でも、物でも、例えば僕でも構いません」
「えっと」
捕まってしまうこと、騙されること、お嫁にいくこと、何通りかを想定した上でどう断ろうかと言葉を組み立てていたのに花宮さんからの言葉にどう返せばいいのかわからなかった。
「……」
何も発しない私に代わりに隣に座るトキが手を上げた。
「どういうことでしょうか?」
「厳密に言うと年が明けるまで、僕と一つ約束してほしいことがあるんです」
「約束というと?」
「これ以上は引き受けるという答えが得られないと教えられません。ただ、誓って。こいさんに危害は加えません。安全と衣食住の確保はお約束します。もしもの時は僕も命を懸けます」
「命ってそんな」
参ってしまった。これならお嫁に来てほしいと言われたほうがよかったとまで思ってしまった。
「考えさせてください」
「えぇ、また改めて伺います」
花宮さんは答えを急かすことなく、意外にもすんなり今日は帰っていった。
すぐに断りたかったのに断れなかったのは淡々と語る口調と余裕のある表情とは裏腹にずっと彼の手が震えていたからだった。
