第0話 おはよう世界 

 モオオオオ――モオオオオ――
 夜明けすぐの澄んだ空気を牛の鳴き声が力強く震わせている。

「……起きてるよ」
 目を閉じたまま寝起きの掠れた声で返事をした。
 私の飼っている真っ白な牛は夜が明けたら起こしてくれと言ったことしっかりと覚えていたようだ。この部屋から少し距離のある牛舎からちゃんと声を届けてくれている。
 
 牛の目覚ましが声がおさまり、部屋の隅におかれた寝台からのそのそ起き上がった。
 中央に置かれた机の前で仁王立ちをする。
「たんまりあるなぁ」
 嫌でも積まれた書類の山が目に入り、辟易した。
 椅子に掛かった白衣を手に取り、羽織りながら、書類の束を掴んだ。
「なになに……」
 上から目を通して判子を押し、決済済みと書かれた箱に向かって書類を指で弾いた。
とある書類の内容に目が止まり、眉間に皺をよせた。顎に手を当て、机から一番遠い本棚の前へすたすた移動した。
「何処に書き残した内容だったかな」
 縦にも横にも詰められた本棚から力任せに目当ての本を引っ張り出そうとした結果、目当ての本以外が次々と床に積まれた本の上へばらばらと落ちていった。
 いよいよ足の踏み場がなくなってきたな。
 目当ての本には付箋や思い付きを書きなぐった紙切れが多く挟まっている。ぱらぱらと目当ての本のページをめくった瞬間だった。

 パンッ――
窓際に置いていた経過観察中の試験官三本の内、一本が手を叩いたような乾いた音を立てて割れた。
「またか……」
 視線だけを試験官の方へ向けた。
 手に持っている本を床に積まれた本の上に置き、踏まないように大股で割れた試験管に近づいた。
 破片を拾おうと膝を折った瞬間、また一本、さらにもう一本、音を立てて割れてしまった。
「いい加減、何が足りないのか教えてくれないか……はあ」
 大きなため息をつきながら破片を拾い、掌で握るとさらさらと砂になった。
 掌に残る砂にふうと息を吹きかけた後、白衣のポケットに手を入れた。煙草を取り出し、口に咥えたと同時に扉が叩かれた。
 ――ドンドン!
 ずいぶん間の悪いことで。
「はいはい」
 眼球をぐるりと回して天井を見上げ、仕方なく煙草を咥えるのをやめた。
 勢いよく開いた扉の風圧で机の上の書類が数枚宙を舞い、私の足元に落ちてくる。
「失礼いたします!」
 顔を見てにこりともしない私の部下は機械的に頭を下げ、二秒ほどで頭を上げた。
「音羽《おとわ》先生、至急初《うぶ》の宮《みや》へお越しくださいとのことです」
「私でないといけない案件かね?」
「そのようにお伺いしております!」
「……了解した。すぐに向かうと伝えておいてくれ」
「承知いたしました! そのようにお伝えいたします」
 雑談の一切ない一方的な手紙のようなやり取りを終えると部下は部屋から出ていった。
 部下の背を見送ってから足元の書類を拾いあげた。
「旭《あさひ》の経過観察報告書……お前はいつ戻ってくるのかね」
 書類を眺め、それを拳でくしゃくしゃと握りこんで白衣のポケットにねじ込んだ。