「ただいま」
鞘花の声が、無人の家にこだまする。返事がないのはいつものことなのに、それでも鞘花は、挨拶を忘れることはない。
返ってくるのを待っているからだ。
(また楯姉か)
どうせ今日も、出稽古に行っているのだろう。今日はどこの家だ?
鞘花は、鞄をどんと床に落とした。傷だらけのフローリング。ところ狭しと置かれた鍛錬道具たち。それらすべて、この家の歴史を表している。姉の為の歴史だ。
昔はこうじゃなかった。
鬼を討つ導手の一族。黒木家はそこに小さいながら名を連ねてきた。とはいえ、結界師や祓鬼師のような花形ではない。主だって俗世に降り、情報収集や、資金繰りをする所謂調達役の家柄だ。だから、まあほぼ人間と変わらぬ暮らしをして、時に非日常を味わう――それくらいの立ち位置にいたのだ。
そんなわけだから、鞘花と姉の楯は大して導手として教育されるでもなく、ほぼ人間らしく育てられた。
これは俗世に近い導手の家において、珍しいことではない。導手の存在は、人間には知られてはならなかったので、理性の働く年齢になるまで人として育てられることはままあったのだ。
鞘花は頭が良く、器量もよかった。その為、俗世でもかなり高い地位に位置づけられた。
姉の楯も可愛らしい顔立ちだったが、鞘花には及ばなかった。
調達役の家において、それは大きなアドバンテージだった。俗世でいかに権力を握れるか――それが調達役の肝であったからだ。
鞘花は自分が優れていることは周囲の反応で気づいたし、褒められるのが嬉しく、より優れるように努力した。
より目立つように、より好かれるように――それが姉の楯を追いやるなどとは、あまり考えなかった。
妹に生まれた以上、親から与えられる愛情には限りがある。ならば必ず、自分から得に行かなければならなかったし、そんなもの姉妹間でイーブンのはずだ。
もっとも楯は、それでもずっと優位な位置にいた。楯は何もせずとも今日起こったことを母に聞かれるが、鞘花はそうではなかった。なら、声を上げなければならない。
「お母さん、今日はね!」
楯にはその理屈はわからないようで、いつもすごい目で睨んできた。そのくせ、自分からは何も言わない。鞘花はそれがたいそう不思議だった。
鞘花は、楯に出来ることはもっと上手く出来るように、楯に出来ないことは出来るように努力した。そうしてやっと両親は、自分のことを見てくれるからだ。
とくに母は、楯にいつもかかりきりで、何か成果を出さないと、その顔を上げてくれなかったからだ。
母は、楯を叱るとき、必ず鞘花も何か理由をつけて叱った。その逆はなかった。
楯は、ろくすっぽ言いたいことも言えないくせに、意地悪には頭が回る。楯は、鞘花が叱られていると必ず過去の不出来も持ち出して、母の怒りの火に油を注いだ。
楯は鞘花のものをよく盗んだし、影で暴力を振るってきた。母は怒らなかった。
「どうして、楯は泥棒になるよ」
というと、逆に叱られてしまった。いわく 「鞘花が生意気だから、楯も腹が立つ。あの子は不器用な子だから上手く怒りを表せない」だそうだ。そんなものだから、楯の盗癖や暴力がやむことはなかった。
楯に、祓鬼師としての才が見出されるまでは。
調達役としての仕事をなすため、ある祓鬼師のお家に挨拶に行ったときのことだ。お庭の隅で小さくなり待っていたら、楯は稽古をつけていた師匠に見初められた。そうして祓鬼師として武器を振るうこととなった。
母は反対したが、楯の意思は固く――母もまた、楯に自信をつけてやりたかったのだろう――結局はのんだ。
それから、鞘花の生活は変わってしまったのだ。
調達役に誇りを持っていても、やはり皆、祓鬼師と結界師への憧れがある。実際、同じ導手といえぬほど、待遇も違った。
調達役は、どれほど祓鬼師や結界師のために資金繰りや情報収集をしても、彼らの家に、まっすぐ玄関から迎えられることはない。ましてお偉方の家など、門さえくぐれなかった。
金や情報を多く持つと俗世に染まる気がする――そんな忌避感が、導手の中にはあったからだ。いつも庭先から忍びのように入り、見送りもなくでていく。
そんな調達役の黒木の家に、祓鬼師が。両親、親戚一同はすっかり目の色を変えた。
何をおいても楯中心の生活となり、楯のための食事、用事、祝事――鞘花は、一気に日陰においやられてしまった。
鞘花は、楯に出来ることならと自分も挑んだが、鞘花には祓鬼師の才も、結界師としての才もなかった。これには、鞘花も愕然だった。
その時の赤く火照った頰の熱を、鞘花は幾らでも思い出すことが出来た。
その時の楯の、歪み上がった頰の形も。
「あのときの鞘ちゃんねえ! すごい勢いで走ってきたんだよーっ。『私も!私も出来ますーっ』って」
「やだ、そんな簡単に現れるもんじゃないのにね」
「んっ! 師範も困ってたよっ」
そして事あるごとに、楯はそれを持ち出した。そのたびに母はそれを笑ったし、鞘花はひどく不愉快だった。
「まああの子は出しゃばりなところがあるから。いい薬になったかもね」
夜遅く、母が父にそう話しているのを聞いた。鞘花は、極力音を立てずにベッドに帰った。悔しさに歯をぎしぎしと食いしばりながら。
◆
「――遅いっ!!」
出来上がった夕飯を配膳していると、どすの利いた甲高い声が、飛んできた。見ればソファの向こうから、にゅっと楯の片足が突き出されている。裸足のふくらはぎが、ばんばんとソファの側面を叩いていた。不愉快全開、そんな様子である。
「遅い、遅いッお腹すいたッ! もーっ急いで帰ってきたのに! ああ、時間無駄にしたなぁ!」
ばたばたとソファの上で、暴れまわる。相棒の薙刀を持ってもんどり打っている。鞘花は引きつる米噛みを抑え、「もうできたよ」と言った。しかし返事はない。打って変わっての静寂である。
鞘花は歯を食いしばり、どうにか次の言葉を言った。
「楯姉。お待たせ。ご飯できたよ」
下手に出た鞘花に、楯は今度こそ無視をして、スマホを弄りだした。苛々とした様子で、スマホをタップしている。誰のせいで苛立っているか、はっきり見せるように。
「時間ない。もーいかなきゃいけないし」
そう言って、立ち上がるとうんと伸びをした。「はーぁ」と大きなため息をつくと、棚にあったお菓子とチョコバーを引っ掴みでていく。
「今日死んだらどうしよ。こんなんが最後の晩餐かぁ」
はっきり呟くのも忘れずに。大きく大きく音を立てて、ドアを閉めると、楯は支度に出ていった。
鞘花は、エプロンの裾を固く握りしめた。
私だって「楯が帰るからすぐご飯作って!」と言われて、用事断って急いで家に帰ってきて、息をつくまもなく、あらかじめ母に指定された献立を作って。
その間、楯はのんびりストレッチしたり遊んだり、自分のことしかしてないというのに。
祓鬼師と言うだけで、これだけ横暴に振る舞えるのか。
祓鬼師の才が目覚めてこっち、楯の横暴は増すばかりだ。「明るくなった」と母は喜んでいるが、鞘花からするといい変化には思えない。
鞘花は不愉快を堪えながら、ご飯をおにぎりにして、お弁当箱を取り出し、詰められるおかずを詰めた。
最後の晩餐。
楯は祓鬼師だ。命をかけて鬼と闘っている。だから、あれだけの横暴をしても、許される。その理不尽を受ける鞘花には、耐え難いものがあった。
それでも、あれだけの横暴をしても、楯は、命をかけているのだから。
「楯は、私たちには理解できない試練をこえているのよ。家でくらい、万全に休ませてあげるのよ!」
口を酸っぱくして言われる言葉だ。
そんなこと、鞘花だって言われなくてもわかっている。少し楯の愚痴を零せばお説教がやってくる。けれど、鞘花とて、本当に楯の仕事の重さを理解できないわけじゃない。
だから、ものすごく腹が立ってもこうして弁当を詰める。
母が楯にと望んだものを、ちゃんと食べられるように。
(まあ処世術って言われるんだろうけど)
ドアの向こうで、激しい支度の音がする。鞘花は弁当の横に弁当の蓋を置いて、冷めるのを待った。
まあ実際そうなんだろう。思ってれば、腹なんて立たないだろうから。
◆
近所の神社に参り、お百度を踏んだ。
「楯姉が、無事に帰りますように」
楯が初陣を迎えてから、ひとり鞘花はそれを繰り返している。誰にも知られたくなかったので、ずっと隠していた。母が知れば、「処世術」だと笑うだろう。たしかに自分は楯が嫌いだ。けれども、死んでなんてほしくない。そんな気持ちさえ、母に疑われる。それだけは耐え難かったのだ。
◆
「どうしてちゃんとしてくれなかったのよ!」
母の説教に、鞘花は「ごめんなさい」と神妙にした。母の肩の向こうでは、楯がデリにぱくついていた。帰りに買ってもらったそうだ。
「お姉ちゃんに何かあったら、どうするつもりだったの⁉本当に意地悪ね」
「ママ、いーよお。鞘ちゃんは、楯のこと、どーでもいーの知ってるから」
鞘花は、ぐっとこらえた。「そんなことないよ」と返す。「嘘ばっかり」と言われても、くり返した。
「もう少し、他人のために働くことを考えなさい。本当に目立ちたがりなんだから」
深夜にまで及ぶお説教が終わった。母は「ああ、明日も早いのに!」とドアを大きく閉めて出ていった。楯はさんざん母の怒りの火に油をそそいだ後、のんびりお風呂に入っている。
また今日も一番最後に風呂に入って、後始末をして、朝一番に早く起きなければならない。とりあえず、片づけをしようと、キッチンに向かうと、ゴミ箱には、鞘花のつめたお弁当のおかずとおにぎりが、手つかずで捨てられていた。
鞘花は歯を食いしばって、片づけをし、そのゴミ袋をとじた。
◆
鞘花は広い会場中を走り回っていた。
その日は、祓鬼師たちが己の鍛錬の成果を頭領に見せる、御前試合だった。これにより祓鬼師たちは階級をあげる。大切な試合だ。
そこで、なんと楯は、自らの階級を示す襷を忘れたらしい。
「ないと試合に出られないっ!持ってきて!」
電話の向こうで怒鳴り散らされ、鞘花は急遽学校を早退し、家に帰って会場に向かうはめになった。
しかし、会場の外に楯がいないではないか。会場内は、関係者以外立ち入り禁止なのだ。これでは、襷が渡せない。
どれだけ連絡しても、返事もない。メッセージに既読さえつかない。鞘花はなんとか外の係りの人に自分の素性を伝え、姉に襷を渡したい旨を伝えた。
「申し訳ございませんが、調達役のかたはここからは入れませんので」
そう不審そうに言われてしまった。そんなことは知っている。けれども、まるで自分が無礼者かのように言う係りのものにも腹が立った。誰のおかげで、こんな御前試合ができていると思っているのよ。
それでもどうにか係りのものに頼み込み、楯を探し出してきてもらった。相当迷惑そうにされたので、鞘花は謝り通しだった。
それから、やってきた楯は不機嫌でいっぱいだった。
「遅いッ!何してたの⁉」
受け取った襷で、鞘花の顔をはたいた。連れ添ってきていた祓鬼師の少年たちが笑う。屈辱だった。
「ごめんなさい。待ち合わせのところにいないから、探してもらったの」
「準備あるから、中にいるに決まってるでしょ⁉鞘ちゃんて、ほんっと馬鹿!」
そう言って、踵を返し、去っていった。いつものことだが、お礼もない。連れ添っている少年のひとりが、鞘花に下卑た視線を向け、笑った。
「もしかして、わざと?意地悪だね~」
「俺たちに会いたかったとか?」
「調達役とか無理!」
そう言って去っていった。ひたすらに、悔しかった。祓鬼師ということだけが才能の、三下男が。こっちだって、あんたたちなんておよびじゃないんだよ。
どうして、ここまで馬鹿にされるだろう。くやしさに涙があふれる。しかし、泣くのはもっと屈辱だ。鞘花は見られたくなくて、会場の外の裏庭に向かった。
「――?」
何やら騒がしい。少年たち――衣装から祓鬼師とわかる――が、数人、誰かを取りかこんで蹴りをいれていた。
「なよっちいコネ野郎!」
「家柄だけで、手柄を得やがって、とっとと鬼に食われちまえっ!」
聞くに堪えないざらついた声で、中心にいる者を攻撃し続けていた。御前試合前に、見苦しい。それとも、御前試合前だから、だろうか。卑怯な奴ら。見れば、中心の者は、彼らよりずっと細く小さいではないか。年少の者をいじめるなんて――鞘花の怒りに火が付いた。
祓鬼師相手に争うなど、絶対にやってはいけないこと。しかし、どうにも腹が立っていた。祓鬼師?――祓鬼師がなによ!
「やめなさい!」
鞘花は飛び出して叫んだ。そこにあったホースで、彼らに水をぶちかける。御前試合の衣装がびしょ濡れになる。
「うわっ!」
「寄ってたかって、みっともない!それが鬼を討つ祓鬼師のすることですか!」
「この女……!俺たちを誰だと」
「知らないわよ!」
男のすごみに、鞘花はすごみ返した。もとより、やられっぱなしになる性格ではない。ホースの勢いを強めて、その顔に思い切り水をかけてやる。
「アンタなんて、ちっとも知らない!どーせ大した手柄、たててないんでしょ!」
「てっめえ……!」
「おい、もう試合が始まる!」
つかみかかろうとしたとき、仲間の一人が焦った声をあげた。彼らは今、びしょ濡れだ。このような姿で、頭領の前に出ることはできない。身支度を整えるため、彼らは去った。「覚えてろよ」などと、小物らしいセリフを残して。
さて、嵐が過ぎ、鞘花はすっきりとしていた。残された件の少年に振り返る。思い切り水をかけたせいで、彼にも被弾してしまっていた。これにはさすがにばつが悪くなる。鞘花は鞄からタオルをとりだすと、そっと拭いてあげる。
「あ、あのっ」
「ごめんなさい。あなたにまでかけてしまって」
「い、いえ、衣装はありますので……」
その言葉を聞いて鞘花はひと安心した。少年はおたおたと、傷だらけの顔を、真っ赤に染めている。見たところ、高校一年の自分より年下に見える。小学六年か、中学一年くらいだろうか?こんな子供によってたかって、やっぱりあの男たちは下種野郎だ。
見たところ、すごく可愛い容姿をしているし、嫉妬か何かだろう。
「試合はいつですか?」
「夕刻からです」
それならまだ、時間があるな。鞘花は手当の道具を取り出す。楯が祓鬼師となってこっち、常に持ち歩いているのだった。
「そ、そんな、大丈夫ですから……!」
「この薬はよく効くんです。試合の前でしょう」
清潔な水で傷をきれいにしてから、ぽんぽんと傷薬を塗ってやる。小さいとはいえ年頃なのか、少年は、全身真っ赤になって固まっていた。かわいいなあ、と笑いつつ手当を済ませる。
「これでよし。きっとお医者さんに診てもらってくださいね」
「あ、あの――」
立ち上がり、その場を去ろうとした鞘花に、少年が声をかける。振り返ると、少年は何やら必死な目で、鞘花を見ていた。
「あなたの、お名前は――」
「名乗るほどのものじゃ、ありません」
そう言って、その場を後にしたのだった。
◆
「なんてことをしてくれたの!」
母に顔を張られ、鞘花は倒れ込んだ。名乗らなくても、足はつくらしい。怒り心頭で出迎えられたから、いつもの小言かと思ったら、件のいじめをしていた祓鬼師たちから、苦情が入ったらしい。一応事情は説明したが、火に油を注ぐだけだった。
「まあ、鞘花は正しいことをしたと思うよ」
父の仲裁に、余計に母は激昂する。
「調達役風情が、祓鬼師に刃向かうなんてっ……!いじめくらい何よ!あの方たちは、楯の上役なのよ!」
なんと、あの者たちはそれなりの家格だったらしい。てっきり三下だと思っていたのに。ずっと楯は泣いている。
「いじめられたらどうしようっ……頑張ってきたのにっ」
「鞘花!」
もう一発、顔を張られた。母が泣きながら、自分をなじる。
「楯がいじめられたら、どうするの!だいたい、あんたはいじめなんて止めるような性格じゃないじゃない!どうせ楯への腹いせなんでしょ⁉それで、何かあったら……っ!あんたは人殺しよっ!」
うわーん、楯が泣く。母が、楯を抱きしめる。
人殺し。その言葉に、鞘花もうなだれた。母の言葉は、鞘花の心をえぐるには十分だった。
確かに、私はいい性格じゃない。優しくない。今回のことはうかつだった。けれども、母の中で、自分はどんな人間に見えているんだろう。姉を嫉妬から貶めるような――そんな悪人に見えるのか。
けれども、自分のちっぽけな正義で、楯が窮状になったことは間違いないのだ。「ごめんなさい」と謝ろうとした時だった。
呼び鈴が鳴った。一度は無視したが、何度も鳴らされるそれに、父が出た。応答して、素っ頓狂な声をあげる。
「使者が……!龍城さまからの、使者がいらっしゃったぞ!」
「お初にお目にかかります」
黒木の家族一同、頭を下げた。
応接室にて、龍城の使者は、にっこり笑い礼を返す。調達役で目の肥えている鞘花でも、目を見張るような立派な和装だった。
「黒木どの。あなたの調達役としての噂はかねがね聞いております。今日は、ご息女に用があり参ったのです」
その言葉に、母と楯の気分が高揚したのが、頭を下げていてもわかった。まあ、それはそうだろう。導手の一族で、五名家にたとえられ、その中でも筆頭の祓鬼師である龍城家だ。用があるなら、祓鬼師の楯と決まっている。
「黒木鞘花どの。このたびは、われらの若様である刀心様を助けていただき、ありがとうございました」
「えっ」
使者の言葉に、鞘花は思わず声と顔をあげた。そして、あわてて下げようとしたところ、手で制される。優しい目をしていた。
使者はお礼と言って、たくさんの品々をとりだした。どれも名家御用達の一品で、父は恐縮する。
「こ、このようなものを……!調達役のわれらに、もったいのうございます」
「いいえ、われらは同じ鬼を討つ使命を得た導手。そこに祓鬼師も調達役もありませぬ」
言葉は真摯だった。鞘花を見て、微笑する。
「肝心なのは正義の心です。ご息女のような方がいて、私どもも、すがすがしい心地となりました」
「はは……っ」
父が感涙するのを脇に、鞘かは呆然としていた。あまりに嬉しいことが起きると、人は思考を止めるらしい。ただただ、頭をさげた。自分の心を、認められた。嬉しくて、仕方なかった。
「やはり、五名家ともなられると、立派だな」
龍城の使者を見送り、父は嬉しそうに言った。
「調達役も、祓鬼師も同じか。頑張ってきてよかった」
その万感こもった言い方に、そういえば父はたいそう調達役として熱心な人であったことを思いだす。母と楯が、調達役なんてと馬鹿にするのを、気まずそうに聞いていたのも。
父なりに、苦悩はあったのかもしれない。鞘花は父の涙の残る目じりを見た。
「鞘花、よかったな。見なさい、こんな立派な菓子、香まである」
「本当だ。嬉しい」
鞘花は、お礼の品々を見て、喜んだ。母と楯が、顔を真っ赤にして、こちらを睨んでいるのが見えたが、そんなことは今日、どうでもよかった。この日の幸せを、これから何があっても覚えておこう。そして、心に誠を抱いていよう。
鞘花は、そう心に決めた。
しかし、この僥倖は、この日限りで終わらず――
「私が、龍城の若様専属の調達役に⁉」
刀心に、猛アプローチされることになることを、鞘花はまだ知らない。
鞘花の声が、無人の家にこだまする。返事がないのはいつものことなのに、それでも鞘花は、挨拶を忘れることはない。
返ってくるのを待っているからだ。
(また楯姉か)
どうせ今日も、出稽古に行っているのだろう。今日はどこの家だ?
鞘花は、鞄をどんと床に落とした。傷だらけのフローリング。ところ狭しと置かれた鍛錬道具たち。それらすべて、この家の歴史を表している。姉の為の歴史だ。
昔はこうじゃなかった。
鬼を討つ導手の一族。黒木家はそこに小さいながら名を連ねてきた。とはいえ、結界師や祓鬼師のような花形ではない。主だって俗世に降り、情報収集や、資金繰りをする所謂調達役の家柄だ。だから、まあほぼ人間と変わらぬ暮らしをして、時に非日常を味わう――それくらいの立ち位置にいたのだ。
そんなわけだから、鞘花と姉の楯は大して導手として教育されるでもなく、ほぼ人間らしく育てられた。
これは俗世に近い導手の家において、珍しいことではない。導手の存在は、人間には知られてはならなかったので、理性の働く年齢になるまで人として育てられることはままあったのだ。
鞘花は頭が良く、器量もよかった。その為、俗世でもかなり高い地位に位置づけられた。
姉の楯も可愛らしい顔立ちだったが、鞘花には及ばなかった。
調達役の家において、それは大きなアドバンテージだった。俗世でいかに権力を握れるか――それが調達役の肝であったからだ。
鞘花は自分が優れていることは周囲の反応で気づいたし、褒められるのが嬉しく、より優れるように努力した。
より目立つように、より好かれるように――それが姉の楯を追いやるなどとは、あまり考えなかった。
妹に生まれた以上、親から与えられる愛情には限りがある。ならば必ず、自分から得に行かなければならなかったし、そんなもの姉妹間でイーブンのはずだ。
もっとも楯は、それでもずっと優位な位置にいた。楯は何もせずとも今日起こったことを母に聞かれるが、鞘花はそうではなかった。なら、声を上げなければならない。
「お母さん、今日はね!」
楯にはその理屈はわからないようで、いつもすごい目で睨んできた。そのくせ、自分からは何も言わない。鞘花はそれがたいそう不思議だった。
鞘花は、楯に出来ることはもっと上手く出来るように、楯に出来ないことは出来るように努力した。そうしてやっと両親は、自分のことを見てくれるからだ。
とくに母は、楯にいつもかかりきりで、何か成果を出さないと、その顔を上げてくれなかったからだ。
母は、楯を叱るとき、必ず鞘花も何か理由をつけて叱った。その逆はなかった。
楯は、ろくすっぽ言いたいことも言えないくせに、意地悪には頭が回る。楯は、鞘花が叱られていると必ず過去の不出来も持ち出して、母の怒りの火に油を注いだ。
楯は鞘花のものをよく盗んだし、影で暴力を振るってきた。母は怒らなかった。
「どうして、楯は泥棒になるよ」
というと、逆に叱られてしまった。いわく 「鞘花が生意気だから、楯も腹が立つ。あの子は不器用な子だから上手く怒りを表せない」だそうだ。そんなものだから、楯の盗癖や暴力がやむことはなかった。
楯に、祓鬼師としての才が見出されるまでは。
調達役としての仕事をなすため、ある祓鬼師のお家に挨拶に行ったときのことだ。お庭の隅で小さくなり待っていたら、楯は稽古をつけていた師匠に見初められた。そうして祓鬼師として武器を振るうこととなった。
母は反対したが、楯の意思は固く――母もまた、楯に自信をつけてやりたかったのだろう――結局はのんだ。
それから、鞘花の生活は変わってしまったのだ。
調達役に誇りを持っていても、やはり皆、祓鬼師と結界師への憧れがある。実際、同じ導手といえぬほど、待遇も違った。
調達役は、どれほど祓鬼師や結界師のために資金繰りや情報収集をしても、彼らの家に、まっすぐ玄関から迎えられることはない。ましてお偉方の家など、門さえくぐれなかった。
金や情報を多く持つと俗世に染まる気がする――そんな忌避感が、導手の中にはあったからだ。いつも庭先から忍びのように入り、見送りもなくでていく。
そんな調達役の黒木の家に、祓鬼師が。両親、親戚一同はすっかり目の色を変えた。
何をおいても楯中心の生活となり、楯のための食事、用事、祝事――鞘花は、一気に日陰においやられてしまった。
鞘花は、楯に出来ることならと自分も挑んだが、鞘花には祓鬼師の才も、結界師としての才もなかった。これには、鞘花も愕然だった。
その時の赤く火照った頰の熱を、鞘花は幾らでも思い出すことが出来た。
その時の楯の、歪み上がった頰の形も。
「あのときの鞘ちゃんねえ! すごい勢いで走ってきたんだよーっ。『私も!私も出来ますーっ』って」
「やだ、そんな簡単に現れるもんじゃないのにね」
「んっ! 師範も困ってたよっ」
そして事あるごとに、楯はそれを持ち出した。そのたびに母はそれを笑ったし、鞘花はひどく不愉快だった。
「まああの子は出しゃばりなところがあるから。いい薬になったかもね」
夜遅く、母が父にそう話しているのを聞いた。鞘花は、極力音を立てずにベッドに帰った。悔しさに歯をぎしぎしと食いしばりながら。
◆
「――遅いっ!!」
出来上がった夕飯を配膳していると、どすの利いた甲高い声が、飛んできた。見ればソファの向こうから、にゅっと楯の片足が突き出されている。裸足のふくらはぎが、ばんばんとソファの側面を叩いていた。不愉快全開、そんな様子である。
「遅い、遅いッお腹すいたッ! もーっ急いで帰ってきたのに! ああ、時間無駄にしたなぁ!」
ばたばたとソファの上で、暴れまわる。相棒の薙刀を持ってもんどり打っている。鞘花は引きつる米噛みを抑え、「もうできたよ」と言った。しかし返事はない。打って変わっての静寂である。
鞘花は歯を食いしばり、どうにか次の言葉を言った。
「楯姉。お待たせ。ご飯できたよ」
下手に出た鞘花に、楯は今度こそ無視をして、スマホを弄りだした。苛々とした様子で、スマホをタップしている。誰のせいで苛立っているか、はっきり見せるように。
「時間ない。もーいかなきゃいけないし」
そう言って、立ち上がるとうんと伸びをした。「はーぁ」と大きなため息をつくと、棚にあったお菓子とチョコバーを引っ掴みでていく。
「今日死んだらどうしよ。こんなんが最後の晩餐かぁ」
はっきり呟くのも忘れずに。大きく大きく音を立てて、ドアを閉めると、楯は支度に出ていった。
鞘花は、エプロンの裾を固く握りしめた。
私だって「楯が帰るからすぐご飯作って!」と言われて、用事断って急いで家に帰ってきて、息をつくまもなく、あらかじめ母に指定された献立を作って。
その間、楯はのんびりストレッチしたり遊んだり、自分のことしかしてないというのに。
祓鬼師と言うだけで、これだけ横暴に振る舞えるのか。
祓鬼師の才が目覚めてこっち、楯の横暴は増すばかりだ。「明るくなった」と母は喜んでいるが、鞘花からするといい変化には思えない。
鞘花は不愉快を堪えながら、ご飯をおにぎりにして、お弁当箱を取り出し、詰められるおかずを詰めた。
最後の晩餐。
楯は祓鬼師だ。命をかけて鬼と闘っている。だから、あれだけの横暴をしても、許される。その理不尽を受ける鞘花には、耐え難いものがあった。
それでも、あれだけの横暴をしても、楯は、命をかけているのだから。
「楯は、私たちには理解できない試練をこえているのよ。家でくらい、万全に休ませてあげるのよ!」
口を酸っぱくして言われる言葉だ。
そんなこと、鞘花だって言われなくてもわかっている。少し楯の愚痴を零せばお説教がやってくる。けれど、鞘花とて、本当に楯の仕事の重さを理解できないわけじゃない。
だから、ものすごく腹が立ってもこうして弁当を詰める。
母が楯にと望んだものを、ちゃんと食べられるように。
(まあ処世術って言われるんだろうけど)
ドアの向こうで、激しい支度の音がする。鞘花は弁当の横に弁当の蓋を置いて、冷めるのを待った。
まあ実際そうなんだろう。思ってれば、腹なんて立たないだろうから。
◆
近所の神社に参り、お百度を踏んだ。
「楯姉が、無事に帰りますように」
楯が初陣を迎えてから、ひとり鞘花はそれを繰り返している。誰にも知られたくなかったので、ずっと隠していた。母が知れば、「処世術」だと笑うだろう。たしかに自分は楯が嫌いだ。けれども、死んでなんてほしくない。そんな気持ちさえ、母に疑われる。それだけは耐え難かったのだ。
◆
「どうしてちゃんとしてくれなかったのよ!」
母の説教に、鞘花は「ごめんなさい」と神妙にした。母の肩の向こうでは、楯がデリにぱくついていた。帰りに買ってもらったそうだ。
「お姉ちゃんに何かあったら、どうするつもりだったの⁉本当に意地悪ね」
「ママ、いーよお。鞘ちゃんは、楯のこと、どーでもいーの知ってるから」
鞘花は、ぐっとこらえた。「そんなことないよ」と返す。「嘘ばっかり」と言われても、くり返した。
「もう少し、他人のために働くことを考えなさい。本当に目立ちたがりなんだから」
深夜にまで及ぶお説教が終わった。母は「ああ、明日も早いのに!」とドアを大きく閉めて出ていった。楯はさんざん母の怒りの火に油をそそいだ後、のんびりお風呂に入っている。
また今日も一番最後に風呂に入って、後始末をして、朝一番に早く起きなければならない。とりあえず、片づけをしようと、キッチンに向かうと、ゴミ箱には、鞘花のつめたお弁当のおかずとおにぎりが、手つかずで捨てられていた。
鞘花は歯を食いしばって、片づけをし、そのゴミ袋をとじた。
◆
鞘花は広い会場中を走り回っていた。
その日は、祓鬼師たちが己の鍛錬の成果を頭領に見せる、御前試合だった。これにより祓鬼師たちは階級をあげる。大切な試合だ。
そこで、なんと楯は、自らの階級を示す襷を忘れたらしい。
「ないと試合に出られないっ!持ってきて!」
電話の向こうで怒鳴り散らされ、鞘花は急遽学校を早退し、家に帰って会場に向かうはめになった。
しかし、会場の外に楯がいないではないか。会場内は、関係者以外立ち入り禁止なのだ。これでは、襷が渡せない。
どれだけ連絡しても、返事もない。メッセージに既読さえつかない。鞘花はなんとか外の係りの人に自分の素性を伝え、姉に襷を渡したい旨を伝えた。
「申し訳ございませんが、調達役のかたはここからは入れませんので」
そう不審そうに言われてしまった。そんなことは知っている。けれども、まるで自分が無礼者かのように言う係りのものにも腹が立った。誰のおかげで、こんな御前試合ができていると思っているのよ。
それでもどうにか係りのものに頼み込み、楯を探し出してきてもらった。相当迷惑そうにされたので、鞘花は謝り通しだった。
それから、やってきた楯は不機嫌でいっぱいだった。
「遅いッ!何してたの⁉」
受け取った襷で、鞘花の顔をはたいた。連れ添ってきていた祓鬼師の少年たちが笑う。屈辱だった。
「ごめんなさい。待ち合わせのところにいないから、探してもらったの」
「準備あるから、中にいるに決まってるでしょ⁉鞘ちゃんて、ほんっと馬鹿!」
そう言って、踵を返し、去っていった。いつものことだが、お礼もない。連れ添っている少年のひとりが、鞘花に下卑た視線を向け、笑った。
「もしかして、わざと?意地悪だね~」
「俺たちに会いたかったとか?」
「調達役とか無理!」
そう言って去っていった。ひたすらに、悔しかった。祓鬼師ということだけが才能の、三下男が。こっちだって、あんたたちなんておよびじゃないんだよ。
どうして、ここまで馬鹿にされるだろう。くやしさに涙があふれる。しかし、泣くのはもっと屈辱だ。鞘花は見られたくなくて、会場の外の裏庭に向かった。
「――?」
何やら騒がしい。少年たち――衣装から祓鬼師とわかる――が、数人、誰かを取りかこんで蹴りをいれていた。
「なよっちいコネ野郎!」
「家柄だけで、手柄を得やがって、とっとと鬼に食われちまえっ!」
聞くに堪えないざらついた声で、中心にいる者を攻撃し続けていた。御前試合前に、見苦しい。それとも、御前試合前だから、だろうか。卑怯な奴ら。見れば、中心の者は、彼らよりずっと細く小さいではないか。年少の者をいじめるなんて――鞘花の怒りに火が付いた。
祓鬼師相手に争うなど、絶対にやってはいけないこと。しかし、どうにも腹が立っていた。祓鬼師?――祓鬼師がなによ!
「やめなさい!」
鞘花は飛び出して叫んだ。そこにあったホースで、彼らに水をぶちかける。御前試合の衣装がびしょ濡れになる。
「うわっ!」
「寄ってたかって、みっともない!それが鬼を討つ祓鬼師のすることですか!」
「この女……!俺たちを誰だと」
「知らないわよ!」
男のすごみに、鞘花はすごみ返した。もとより、やられっぱなしになる性格ではない。ホースの勢いを強めて、その顔に思い切り水をかけてやる。
「アンタなんて、ちっとも知らない!どーせ大した手柄、たててないんでしょ!」
「てっめえ……!」
「おい、もう試合が始まる!」
つかみかかろうとしたとき、仲間の一人が焦った声をあげた。彼らは今、びしょ濡れだ。このような姿で、頭領の前に出ることはできない。身支度を整えるため、彼らは去った。「覚えてろよ」などと、小物らしいセリフを残して。
さて、嵐が過ぎ、鞘花はすっきりとしていた。残された件の少年に振り返る。思い切り水をかけたせいで、彼にも被弾してしまっていた。これにはさすがにばつが悪くなる。鞘花は鞄からタオルをとりだすと、そっと拭いてあげる。
「あ、あのっ」
「ごめんなさい。あなたにまでかけてしまって」
「い、いえ、衣装はありますので……」
その言葉を聞いて鞘花はひと安心した。少年はおたおたと、傷だらけの顔を、真っ赤に染めている。見たところ、高校一年の自分より年下に見える。小学六年か、中学一年くらいだろうか?こんな子供によってたかって、やっぱりあの男たちは下種野郎だ。
見たところ、すごく可愛い容姿をしているし、嫉妬か何かだろう。
「試合はいつですか?」
「夕刻からです」
それならまだ、時間があるな。鞘花は手当の道具を取り出す。楯が祓鬼師となってこっち、常に持ち歩いているのだった。
「そ、そんな、大丈夫ですから……!」
「この薬はよく効くんです。試合の前でしょう」
清潔な水で傷をきれいにしてから、ぽんぽんと傷薬を塗ってやる。小さいとはいえ年頃なのか、少年は、全身真っ赤になって固まっていた。かわいいなあ、と笑いつつ手当を済ませる。
「これでよし。きっとお医者さんに診てもらってくださいね」
「あ、あの――」
立ち上がり、その場を去ろうとした鞘花に、少年が声をかける。振り返ると、少年は何やら必死な目で、鞘花を見ていた。
「あなたの、お名前は――」
「名乗るほどのものじゃ、ありません」
そう言って、その場を後にしたのだった。
◆
「なんてことをしてくれたの!」
母に顔を張られ、鞘花は倒れ込んだ。名乗らなくても、足はつくらしい。怒り心頭で出迎えられたから、いつもの小言かと思ったら、件のいじめをしていた祓鬼師たちから、苦情が入ったらしい。一応事情は説明したが、火に油を注ぐだけだった。
「まあ、鞘花は正しいことをしたと思うよ」
父の仲裁に、余計に母は激昂する。
「調達役風情が、祓鬼師に刃向かうなんてっ……!いじめくらい何よ!あの方たちは、楯の上役なのよ!」
なんと、あの者たちはそれなりの家格だったらしい。てっきり三下だと思っていたのに。ずっと楯は泣いている。
「いじめられたらどうしようっ……頑張ってきたのにっ」
「鞘花!」
もう一発、顔を張られた。母が泣きながら、自分をなじる。
「楯がいじめられたら、どうするの!だいたい、あんたはいじめなんて止めるような性格じゃないじゃない!どうせ楯への腹いせなんでしょ⁉それで、何かあったら……っ!あんたは人殺しよっ!」
うわーん、楯が泣く。母が、楯を抱きしめる。
人殺し。その言葉に、鞘花もうなだれた。母の言葉は、鞘花の心をえぐるには十分だった。
確かに、私はいい性格じゃない。優しくない。今回のことはうかつだった。けれども、母の中で、自分はどんな人間に見えているんだろう。姉を嫉妬から貶めるような――そんな悪人に見えるのか。
けれども、自分のちっぽけな正義で、楯が窮状になったことは間違いないのだ。「ごめんなさい」と謝ろうとした時だった。
呼び鈴が鳴った。一度は無視したが、何度も鳴らされるそれに、父が出た。応答して、素っ頓狂な声をあげる。
「使者が……!龍城さまからの、使者がいらっしゃったぞ!」
「お初にお目にかかります」
黒木の家族一同、頭を下げた。
応接室にて、龍城の使者は、にっこり笑い礼を返す。調達役で目の肥えている鞘花でも、目を見張るような立派な和装だった。
「黒木どの。あなたの調達役としての噂はかねがね聞いております。今日は、ご息女に用があり参ったのです」
その言葉に、母と楯の気分が高揚したのが、頭を下げていてもわかった。まあ、それはそうだろう。導手の一族で、五名家にたとえられ、その中でも筆頭の祓鬼師である龍城家だ。用があるなら、祓鬼師の楯と決まっている。
「黒木鞘花どの。このたびは、われらの若様である刀心様を助けていただき、ありがとうございました」
「えっ」
使者の言葉に、鞘花は思わず声と顔をあげた。そして、あわてて下げようとしたところ、手で制される。優しい目をしていた。
使者はお礼と言って、たくさんの品々をとりだした。どれも名家御用達の一品で、父は恐縮する。
「こ、このようなものを……!調達役のわれらに、もったいのうございます」
「いいえ、われらは同じ鬼を討つ使命を得た導手。そこに祓鬼師も調達役もありませぬ」
言葉は真摯だった。鞘花を見て、微笑する。
「肝心なのは正義の心です。ご息女のような方がいて、私どもも、すがすがしい心地となりました」
「はは……っ」
父が感涙するのを脇に、鞘かは呆然としていた。あまりに嬉しいことが起きると、人は思考を止めるらしい。ただただ、頭をさげた。自分の心を、認められた。嬉しくて、仕方なかった。
「やはり、五名家ともなられると、立派だな」
龍城の使者を見送り、父は嬉しそうに言った。
「調達役も、祓鬼師も同じか。頑張ってきてよかった」
その万感こもった言い方に、そういえば父はたいそう調達役として熱心な人であったことを思いだす。母と楯が、調達役なんてと馬鹿にするのを、気まずそうに聞いていたのも。
父なりに、苦悩はあったのかもしれない。鞘花は父の涙の残る目じりを見た。
「鞘花、よかったな。見なさい、こんな立派な菓子、香まである」
「本当だ。嬉しい」
鞘花は、お礼の品々を見て、喜んだ。母と楯が、顔を真っ赤にして、こちらを睨んでいるのが見えたが、そんなことは今日、どうでもよかった。この日の幸せを、これから何があっても覚えておこう。そして、心に誠を抱いていよう。
鞘花は、そう心に決めた。
しかし、この僥倖は、この日限りで終わらず――
「私が、龍城の若様専属の調達役に⁉」
刀心に、猛アプローチされることになることを、鞘花はまだ知らない。



