この旅を始める事になってしまったのは俺が高校二年生に進級した時に起こった事が原因だった。この時、高校生活が滅茶苦茶になるなんて思ってもいなかった。
 桜が舞う春。微妙に暖かくなりつつある気温が俺の心境と重なり、不安と楽しみが混じっていた。進級に伴ってのクラス替えで仲の良い友達とはきっと同じのクラスになれないだろうと容易に予想が出来たからである。それでも楽しみが混じっていたのはまだ知らない新たな出会いがあるかもしれないという期待があったからであろう。しかし初対面の人と、上手く話せる自信はなかったので、やっぱり不安の方が勝っていた様に思える。
 そんな不安はすぐに杞憂に終わる事となる。登校して、張り出されていたクラス名簿を確認すると、同じクラスに一番親しい友人の名前があったのである。
 とりあえず一安心する。良かった。ふぅと深い溜息を付くと後ろの奴に聞かれてしまった。
「何だ、青木、そんな深い溜息して。同じクラスに嫌いな奴でも居たのか?」
 振り向くとそこには一番親しい友人――藍沢が笑って立っていた。
 藍沢は俺と違って不安を感じている様子は微塵もなく、朗らかな印象だ。彼には仲の良い友達が俺以外にも沢山いるから、クラス替えに不安を感じる要素はどこにもないのだろう。
 俺は藍沢と向き合った。
「また一年間、お前にからかわれる毎日かと思うと嫌になってね」
「おいおい、俺の愛情表情だろ?」
 本心ではなく冗談だ。それはお互いに分かっていて俺達は笑い合った。
「また一緒のクラスだ。よろしく!」
 藍沢が手を挙げたので、勢いよくハイタッチをした。
 この時点で不安よりも期待の方が完全に上回る事になる。藍沢と一緒に新たな出会いとか、楽しいイベントなど出来る事が何よりも嬉しかった。
 この一年、藍沢が居れば何でも乗り越えられるような気がした。
 藍沢と知り合ったのは高校入学して早々の事だ。俺は馴染めていない緊張感が漂う教室の雰囲気に負けてしまい、前に座っていた奴の背中を突いたのである。それが藍沢だった。
 今思えば、相手の事を何も知らないのに軽率な行動だった。しかし、突いて良かったと思っている。藍沢は初対面ながらに気さくで口調も柔らかく、接してくれたのである。
 その時、どんな会話を交わしたのかは覚えていない。けれども、とても楽しかった記憶だけが残っている。そんなわけで藍沢とは早々に仲良くなっていった。
 それから何かある事に俺は藍沢と一緒に行動した。運動会や文化祭などの行事も一緒だったし、毎度ある試験前には家が近い彼の家に泊まって勉強会もしたりした。
 とても楽しい一年だった。それがもう一度味わえるなんて嬉しい限りだった。
 俺達はそのままいつものように他愛のない話をしながら新しい教室へと向かった。
 新しい教室に辿り着き中へと入ると、すでにかなりの人が居て賑わっていた。俺達も席に着いて雑談の続きを始める。まだ席が名前順に並んでいる為、藍沢とは前後隣同士の席となる。丁度一年前の高校生活が始まった頃を思い出して懐かしく感じた。
 俺は藍沢と他愛のない会話を続けながら、同じ教室にどんな奴が居るのかと辺りを見渡す。しかし、外見しか分からないので無駄な行為だなと思い直し、止めようとした時に、丁度教卓の前に座っている人物に目が行ってしまう。
 そいつは単純に目立っていた。縦にも横にも大きい奴だったのである。筋肉で膨れているというより、殆ど脂肪という感じだ。その柔らかそうな身体を机に寄りかかるようにして丸まって座っていた。殆どの人が友達と会話している中で、一人で真正面の黒板をただじっと見つめていて異様な空気を醸し出している。完全に浮いてしまっていた。何だか関わってはいけないような雰囲気がそいつにはあった。
 変な奴。話してはいないが一瞬にして分かった。関わらないほうがいい。
 そいつの存在は忘れて、藍沢との会話に集中することにする。内容は昨日のサッカーの試合へとなっていた。
 お互いにサッカー部というわけではないが、観戦するのは好きだった。もうすぐ世界大会が開催される事もあって、代表選手の活躍にはとても注目していたのである。
 しばらくその話をして盛り上がってきた時である。急に会話に割り込んできた奴がいた。
「なになに?何の話?何の話?」
 驚いて声の方向を見ると、先ほどの肥満体型の奴が立っていた。
 後ろ姿だけでは分からなかった顔面を見てみる。体型と共にふっくらとしていて、掛けているメガネの縁の部分が顔のたるんだ皮膚で埋まっていた。レンズの奥にはちょこんと目があり、若干出っ歯であった為、動物のビーバーに似ているなと思った。
 ビーバーは眼鏡の奥にある小さな目をギラギラとさせて俺の方を見つめている。まるで好物の餌でも見つけたかのような表情だった。
「誰?」
 藍沢が警戒し少し棘があるようにそいつに問いかける。それに対してビーバーは全く怯んだ様子がなかった。
「ああ、自己紹介がまだだったね。僕は山崎っていうんだ。これから一年間よろしく」
 言い終わるとしゃがみ込んで、座っている俺達に視線を合わせてくる。山崎の顔面が近づく。
「ああ、よろしく」
 その行為に引きつつも、藍沢は挨拶を返す。この臨機応変の対応は流石だった。俺なんていきなりの事で声すら出ていなかった。
「それで何の話?」
 山崎は先程の言葉をニコニコしながら繰り返した。こちらが少し引き気味なのに気がついてない。
 こいつ、ぐいぐいとくるな。他人との距離が分からないタイプなのだろうか。
「昨日のサッカーの話だよ」
 藍沢が返答する。どうやらこの現状にもう慣れた様子だ。
 この山崎という男、サッカーが好きなのだろうか。ひょっとしたら体型に似合わず、スポーツが出来るのかもしれない。それか俺達と同じで観戦が好きなだけか。
 瞬時に浮かんだ俺の疑問を山崎は全て否定した。
「あー。それか、オレは観てないんだよね。そもそも、スポーツ観戦なんてしないし」
 じゃあこいつ、何で来たんだよ。
「てっきり、ゲームの話かと思ったんだ」
 山崎はよく聞く有名なサッカーゲームの名前を挙げた。何だ、その話はしていないし、するつもりはない。
「ゲームじゃない。現実の話だよ。現実」
 若干イラつきながら、突っぱねるように言ったが、山崎は堪えた様子はない。
「ゲームも良いよ。楽しいよ」
 こいつは何を言ってるんだ。後から入ってきて。
 山崎は得意げに脂肪に挟まって下がらないメガネをくいっと上に上げた。
「観てるんだったらゲームの方もやるべきだよ。実在する選手も出てくるんだから」
 どうやら止まる様子が無かった。
「はぁ……」
 俺の溜息に気づいた様子もなく、山崎はゲームの話を淡々とし始める。ハットトリックを決めた事や、ある選手を使えば誰にも負けず最強だとか。藍沢と昨日の試合の話がしたいのに、関係ない話に逸れていく。
 ゲームなんてやってないし最近の奴なら尚更よく分からない。藍沢も同じみたいで、俺達は山崎が一方的に話す内容を聞いている他無かった。
 流石に苦痛になり、言い返そうとした時である。前のドアが勢いよく開いた。見てみると、担任らしき女性の先生が入って来た所だった。ドアを閉めるとそのまま教卓へと進み、皆に静かにして席に着くように指示を出す。会話は終わりとなり、山崎は重そうな身体をゆっくりと動かして自分の席へと戻っていった。
 思わず溜息が出てきてしまう。これからホームルームが始まるのは億劫だったが山崎の話から解放されたのはありがたい限りであった。
「何だか凄い奴だったな」
 藍沢に溜息を聞かれていたようで振り向きなが笑いかけてくる。どうやら変に感じていたのは俺だけでは無かったらしい。少し安心した。
 再度藍沢にだけ聞こえるようにワザと溜息をついた。
「これから一年間も一緒だと思うと気が重くなるよ」
「ははっ、もっと話せば良い奴かもしれないぞ」
「ないわー」
 担任教師が自己紹介を始めたので、俺達は会話をその辺りで切り上げ教卓の方へと集中を向けたのであった。