水に張りついた足音が鳴る。

 昨晩に降った秋雨によってぬかるんだ森の中を、(くるわ)二咲(にさき)は泥が着物に跳ねるのも厭わずに走っていた。森の虫達が何事かと顔を現しても彼女は目もくれず、ひたむきに前だけを見て走る。心では必死に叫んでいた。

(……嫌だ。お父さん……、死なないで……っ)

 やがて森の出口が見え始める。喧噪が耳に届いた。深いために「入らずの森」と呼ばれる森のそばには、そんな呼び名をつけた人々の住む村がある。視界が開けたとき、彼女は足を止めた。

 村人が群を成しているのが目に入った。村にとって広場のようなその場所に村人の多くが集まっており、中心点に近づくにつれて武器を手にする人の割合が増す。人々の視線は一点に集中していた。

 中心点には縄で捕縛され、地面に膝をつく男がいる。二咲のようにみすぼらしい身なりを泥で汚したその男が自身の父であるとわかったとき、二咲は再び足を踏み出していた。しかし、

 ――来るな二咲!

 過去の父の声が頭の中に響き、すぐに踏みとどまった。

「戯れ事もここまで。裏切り者め」

 村の数人が片手に弓矢を持ち、距離はそのままに言葉で父に詰め寄っている。まるで弱腰なのを武力で隠すように。

「あやかし側に寝返った者など成敗してくれるわ」
「人間の敵! 絶対に許さぬぞ」

 そうだそうだ、やっちまえと、水を得た魚のように後ろから声が上がる。
 すると、一人の男が前に出た。

「残念だ。貴様を信じていたのに……」
「それはこっちの台詞だ。おまえだけは信じてくれると思ったのに」

 父が苦し紛れに吐き捨てる。その瞬間、男の背後で弓が構えられ、刹那の静寂の後に一斉に矢が放たれた。数個の矢が宙を走り、そのうちの三本が父を射貫いた。

 二咲は思わずその場にへたり込む。彼女が思い出すのは、つい三十分ほど前に交わした父との会話。

 ――人とあやかしが対立するよう仕組んでいる者がいる。俺はそれをみんなに伝えに行ってくる。
 ――私も行く。
 ――来るな二咲! 何があるかわからない。もし俺に何かあったら、雀町(すずめちょう)へ行くんだ。

 それが父との最後の会話だった。
 危険を承知で出ていった父。妙な胸騒ぎがして、二咲は父の言いつけを反故にして跡を追った。

 一度破った約束、二度目はない。けれど、父の言うとおりにしないといけないと頭ではわかっていても、どうして置いていくことなんてできなかった。もしこの世に悪魔がいるのなら、それは悪魔よりも酷い所業だ、と。

「お父さん!」

 二咲は立ち上がり、群の前に躍り出ていた。矢に貫かれて倒れる父の手を握る。かすかに握り返された。まだ生きていると、二咲の中に希望が生まれる。

 しかし、そんな二咲さえも矢は狙っていた。

「裏切り者の娘か。貴様も同罪だ」

 父はこれを案じていたのだと二咲が気づいたのは、振り返って、男の血走ったような目を見たときだった。この矢から守るために父は逃げろと言った。わかっていた。わかっているつもりだった。けれど、村を犠牲にしてでもいいから父には逃げてほしかった。きっと、自分の狡い心が今回の事態を招いたんだ。

 せめて……せめて、父の名誉だけは守りたい。

「お父さんは裏切ってない! 村を救うために――」
「黙れ!」

 しかし、自分の願いなどないも同然というかのようにたった一言で退けられ、二咲は諦めるように目を閉じた。


 突如、青色の炎が、二咲達を囲うようにして上がった。

「な、なんだ! 何が起こった!」
「この炎はなんだ!」

 矢は一向に放たれない。それどころか、不測の事態が起こったと言わんばかりに村人達が喚いているように思える。二咲はしばしの間、目を瞑ったままその声を聞いていたが、やがておかしいことに気づいておもむろに目を開いた。

 二咲が見たのは、炎よりもまず、青年の背中だった。青年は二咲達を庇うようにして前に立ち、炎の向こうで狼狽える村人達の姿を目に焼きつけている。

「この力、まさか……。あやかしの中でも最強と謳われる、鬼……」

 炎が壁を作っていて村の状況が見えないけれど、それまで戸惑い一色だった村人の声が、恐怖に染まっていくのを二咲は感じた。そして、村人の誰かが「やはり裏切り者だったんだ!」と叫んだとき、炎が強さを増すのを見た。

「口を慎め。これ以上、無様な姿を晒すなら、この村ごと焼き払ってやる」

 二咲の父は薄れゆく意識のなか、その青年の怒鳴り声を聞いて静かに笑った。

(二咲を頼んだ、(ちがや)――)



 早くに母を亡くした二咲は、父と二人で暮らしてきた。父にも両親がいなかったので父一人子一人、村で慎ましい生活を送っていた。しかし約三年前、二咲が十六のとき。村と町を結ぶ森で遭難事故が相次いで発生したのを機に父が捜索隊を立ち上げ、二人して森の中の小屋に移り住んだ。

 二咲と青年は父を連れて、二人の住まいである小屋に戻ってきた。矢を抜き、父を横たわらせる。身体は温かい。まだ生きているような気がする。なのに、何度確認しても脈は動いていないし、呼吸もしていなかった。

 こんなに早く別れがくるとは思わなかった。遭難は捜す方も命懸けだと繰り返し聞かされてきたけれど、こんな形で別れることになるなんて思いもしなかった。昨日の夜まで一緒にご飯を食べて、笑い合っていたのが嘘のよう。

 もう一度、笑った姿を見たい。
 笑えない冗談でも怒らないから、冗談だと言って笑ってほしい。
 決して裕福な暮らしではなかったけれど――。

(私はただ、一緒に笑っていられるだけでよかったのに……)

 二咲は父の亡骸に縋り、心臓を締めつけられる痛みから逃れるように咽び泣いた。

 転んでも手を差し伸べてくれない。痛くて泣いてもあやしてくれない。厳しい父だったけれど、村の男の子達にいじめられたら仕返ししてくれる優しい父だった。――大好きだった。

 青年はそんな二咲の隣に腰を下ろし、誰に聞かせるでもなくぽつりと言葉を落とす。

「郭は俺の飲み友達だった」
 二咲の父と飲み交わした数々の記憶に思いを馳せて一度、唇を噛みしめる。
「村の状況は聞いてたのに、助けられなかった……」

 青年の無念さが、二咲の頭に添えられた彼の手から伝わるようだった。


 翌早朝、二咲は父の亡骸を埋葬し、重ねて父の死を悼んだ。
 小屋に帰ると、先に戻っていた青年が帰り支度をしているところだった。昨日は余裕がなかったが、改めて彼を見つめる。

 全体的に繊細さを感じさせる容姿だ。かっこいいよりも、美しいの言葉が彼を形容しているように思う。桃色に染まった髪、一本一本が遊ぶように跳ねた毛先、耳には妖力を抑えるための耳飾り、首には黄金に煌めく首飾り。紅色の羽織で隠れた体躯は、ちらりと見えたときに細身だった。

 ただ、何よりも興味を引くのは、目にかけられた色眼鏡だ。まるで目を見つめられるのを拒むかのようなそれが、彼を謎らしく引き立てている。

「もう帰るのですか?」

 名前も知らない青年だったが、父を看取ってくれた者にわずかな寂しさを滲ませる。

「俺がここでやれることは、もうないから」
「そうですか。助けてくださってありがとうございました」

 二咲は深々と頭を下げた。また涙が溢れそうになったので、ぐっと堪えて頭を戻す。

「いや、俺は結局、何もできなかった」
「そんなことありません。あっ、最後にお名前を教えていただけませんか?」
「――茅」

 青年はぶっきらぼうに自身の名前を告げると、父が大好きだった酒の壺を持ち上げた。二咲は、茅さん、と心の中で何度も唱えながらその名を刻む。

「それと、最後じゃないから」
「えっ?」
「二咲も準備して。ここを出るよ」
「準備って……」
「ここで一人で生きていくつもり? 村の連中からあんな目に遭って」

 尋ねられたくないことを尋ねられて、二咲は口ごもる。今後のことを考えていないわけではなかったが、今は未来を見据える余裕がなかった、というよりはあえて目を逸らしていた。

「まあそうしたいなら、むりに止めないけど」

 と言いつつ、茅は酒壺を床に置いた。

「俺は二咲を生かす義務がある。郭に何度も、自分に何かあったら二咲をよろしくって頼まれた。だから、俺は二咲を雀町に連れていく。それでもここで死にたいってなら、俺は止めない」

 彼は人を石にしてしまうあやかしなのだろうか、と二咲は思った。だから、色眼鏡をかけている。だって、茅に見つめられて、身体が動かないもの。

 唐突に訪れた別れと出会い――。
 悲しみに暮れる暇もなく選択肢を迫られて、正直に言えば、自分の意思はあまりなかった。他人に決められた選択に乗っかるだけ。茅がついてきてほしそうにしているから、そっちを選ぶ。いつかこの選択を後悔して、他人に責任をなすりつけるかもしれない。

 だから、その日がこないことを願う。
 あなたについていってよかったのだと、そう思える未来があることを祈るしかない。

「一緒に行きます」

 我に返ってはっとしたときにはもう、そう答えていた。



 古来よりあやかしは、人に恐怖をもたらす存在だった。異形かつ特別な力で。

 それがいつしか、あやかしは人と変わらない姿形をして生まれてくるようになった。あやかしが生まれるというよりも、特別な力――妖力を持った者をあやかしと呼ぶようになっていった。

 人とあやかしが共存する時代。しかし、その異質すぎる力は対立を生むものでしかなかった。共存とは夢物語。事実は、力を誇示するあやかしと、あやかしに虐げられる人間の構造が各地ででき上がっていた。
 二咲の住む村はそれが顕著だったがために、仲間同士で争う醜い結果となってしまった。

 ただ、村があやかしを異常に忌み嫌うのもむりはなかった。村といくつかの町を結ぶ森のそばには、あやかしの首都と呼ばれるほど栄えた町があり、これまであやかしの被害に何度も遭ってきたからだ。その町の名前こそ雀町である。

 豪華絢爛、紅色の建物に彩られた町は、訪れるたびに二咲の目を引く。父に連れられて両手で数えられる程度だが来たことがあった。「相手を知る。それが共存の第一歩だ」と言われて。

 雀町の何が有名かと訊かれたら、誰もが飲食店の多さを挙げる。大通りに建つ建物のほとんどが飲食店、と言っても過言ではない。昼も迎えていないというのに飲み屋が当然のように開いていて、ちらりと見ただけでどこも埋まっているように見えた。

「雀町は酒呑童子が治める町だ」

 前を歩く茅が、ふらりと飲み屋に入っていく男を眺めながら口を開いた。「酒呑童子、知ってる?」と振り返らずに尋ねてくる。二咲は「はい」と小さく返事をした。

 酒呑童子は、無類の酒好きと云われている鬼のあやかしだ。茅はこの町を治めていると言ったが、さもすればあやかしの総大将と言い換えてもいい。実際にそういった地位はなくとも、世間の認識するところであやかし界の頂点は彼に違いない。

 飲み屋に入って追い出されたあの男に「あやかしの頂点は?」と尋ねても、きっと「酒呑童子様だ」と答える。父もやはり、そのように言っていた。

 片手に酒壺を持ち、迷いなく足を進めていた茅が、ふと立ち止まって身を翻した。二咲も自然と足を止める。

「ここは人もあやかしも関係ない。酒に強くなりな。それだけで君は、一人でも生きていける」

 茅の力強い瞳に見つめられて、その言葉が心の奥底まで染み込んでくるようだった。


 茅は、大通りを少し抜けたところにあるお屋敷に入った。表の看板に「あいおい(ざか)」と書かれていたここは――。

「いらっしゃいませ。あっ、茅様!」

 引き戸の音に誘われて奥から顔を出したのは、父とそんなに歳が離れていないような五十代の男性。垂れた目尻と大きな耳たぶ、ふくよかな頬が七福神の恵比寿を思わす。

「お久しぶりでございます。最近いらっしゃらないので、竹葉(つくは)が寂しがっておりますぞ」

 男はすりすりと手を擦りながら近寄ってきた。

「まあいろいろとあって。それより、この娘をここで雇ってくれない?」

 茅の言葉に男の商売笑みがわずかに拗けたのを、二咲は見逃さなかった。肩から提げていた袋を掲げ直し、ごめんなさいと、心の中で謝る。

「雇うとはまた、急な話ですなあ……」
「急に抱えることになったからね。今度の宴会はここでやるから、頼むよ」
「何を言います。茅様の頼みとあらば、喜んでお引き受けいたします」

 迷惑そうな一瞬の表情が嘘のように、男性は破顔した。茅は二咲に向きを直る。

「ここはあいおい坂と言って、この町一番の料亭だ」

 茅から「この町一番」と評価されて、男性は得意げに鼻を鳴らした。

「そうですとも。そこは自信を持って言えますぞ」
「彼は、ここの主人の左之助(さのすけ)。あいおい坂は住み込み可の料亭だから、衣食住には困らない。わかるね?」

 顔を覗き込むように問われて、二咲は勇ましく頷いて見せた。茅の言いたいことはわかっている。

(私はここで働かせてもらう。――生きていくために)



「あーあー、嫌になるなまったく。面倒なことになったもんだ」

 庭を持ったあいおい坂は古くは武家屋敷だったそうで、掃除の行き届いた長い廊下をずんずんと突き進む料亭の主人、左之助は、先ほどからずっとこの調子だ。茅から彼を紹介され、荷物を置くなり「ついてこい」と言われたので黙って従っているが、二咲は肩身の狭い思いでいた。

 左之助はふいに歩く速度をゆるめて、二咲を一瞥した。

「見るからに弱そうな女だ」

 彼が何に対して弱さを測ったのか定かではないが、たしかに二咲は貧弱そうに見える見目をしていた。

 清廉潔白な性格を体現するようなきれいな黒髪も持ち、さなぎから蝶へ羽化する途中のような可憐さと品の良さを兼ね備えた容姿は一方で、まだ素朴さを残し、栄華を極めた雀町では野暮な印象を与える。特に痩せ型の体躯は、強者から目をつけられやすかった。

「名前はなんだったか」
「郭二咲です」

 これで三度目の自己紹介だ。

「ああそうそう。……ったく、こっちはいっぱいいっぱいだってのに、茅様も面倒なもんを押しつけてきた」

 主人の機嫌を悪くする原因が自分にあるため、二咲は大変申し訳ない気分でいっぱいだった。せめて粗相をして迷惑をかけないよう、その心に刻み込む。

「茅さんとは、どういう関係なんですか?」

 主人の機嫌をささやかでもどうにかできないかと、二咲は口を開いた。

「この店の上客だ。茅様の頼みだから引き受けたが、使えないとわかったら追い出すからな」

 口を開かなければよかったと後悔し、「はい……」と返事が小さくなった。大通りに並んでいた飲食店とは一線を画す料亭の上客とは、茅はよほどの地位の持ち主なのであろう。自分を紹介してくれた彼に迷惑をかけないかと、途端に不安になってきた。

 せわしなく視線をさまよわせる二咲をよそに、左之助はある部屋の前で立ち止まる。

「竹葉、左之助だ。今いいか?」と声をかけ、中から女性の声で「どうぞ」と返答があってから障子を開けた。ここで待てと左之助から指示を受け、二咲はその場に膝を正す。左之助はあいさつもなしに入室した。

 部屋は、決して広いとは言えない八畳の座敷だ。少なくともこの屋敷では。しかし、中にいたのは女性一人。床の間を背にし、文机で書物を読んでいる途中だったらしく、一人でいるには充分すぎる大きさのように、二咲には思えた。

 なるべく目を合わせないように女性の姿を確認した二咲は、はっと息を呑んだ。そして、女性と目が合ってしまい、咄嗟に俯く。顔がほんのり熱を帯びていくようで恥ずかしくなる。

「左之助、そちらは?」

 低くも通った声が喋る。

「茅様からの紹介で、今日入ったばかりの新人だ。まずは給仕の見習いでもさせようかと思ってる」
「茅の紹介……?」

 女の目が、床に頭を伏せる二咲をじっとりと見つめる。

「面を上げ、名を名乗れ」

 茅、と呼び捨てにするとはかなり親密な仲なのだろうかと、いらぬ邪推を広げていた二咲に言葉が落ちてきた。二咲はおもむろに顔を上げて、やはりきれいな人だな、と思った。

 まず目を引くのが、凜々しい顔つきだ。薄化粧のようで、眉を引き、目元と唇に紅色を塗るのみだが、どことなく気の強さを感じさせる目が印象的だった。背筋をピンと張った姿勢は自然であり、お手本のよう。彼女の容姿を彩る、暖色の花をあしらった白色の着物がその姿をより一層引き立てる。

 同性の二咲でも一目で緊張してしまうほど、見目麗しい洗練された女性だった。

「郭二咲です」

 名乗る声もかすかに震えてしまう。
 竹葉の紹介は左之助が担った。

「彼女は竹葉。おまえでは手も足も出ない、あいおい坂一番の芸妓だ」
「あいおい坂一番、か……。私もまだまだだな」

 左之助の紹介に対して竹葉が冗談を言う。左之助が慌てて「いや、雀町一だ」と言い直すと、竹葉は子どものような笑顔を見せて笑い飛ばした。

(竹葉様は、見た目よりずっと茶目っ気がある人なのかもしれない)

 二人の会話を聞いていた二咲は少しだけ安堵し、張っていた肩を下ろす。とそこへ、廊下の向こうから騒がしい足音が聞こえてきた。

「ご主人様、竹葉様! 大変でございます!」

 若い男が血相を変えて走ってくる。入り口に正座していた二咲は退こうとしたが、それよりも男が到着するのが早く、部屋に入ろうとする彼に蹴飛ばされてつんのめった。

 男は「あ、すいません」と謝りながらも、彼女に手を差し伸べることなく部屋へ駆け込んだ。

「騒々しい。お客様に聞こえる」
「も、申し訳ございません!」

 竹葉に窘められて、男は跪き、頭を下げる。しかし、すぐに頭を戻すと、

「ですが、(やぐら)様がお見えに……」
「また来たのか、あのヤクザもん……」

 と、歯を食いしばる左之助。
 体勢を正した二咲は、男の用が只事ではないと、三人の表情と張り詰めた空気から察したのだった。


 左之助、竹葉、男が廊下を走らない程度に急ぐ。二咲はどうしていいかわからなかったので、ひとまず三人を追いかけた。

 あいおい坂では「梅の間」と呼ばれる、常連客しか通さない部屋の前に仲居が集まっていた。

「何をしている。仕事しろ」

 左之助はシッシッと手で追い払う。彼に叱責された仲居達は、一度は素直に聞き届け解散したものの、左之助らが部屋に入るとすぐに戻ってきて、興味本位としか思えないその好奇な顔を覗かせた。

 珍事とは、いつの世も人々の関心をそそる。二咲もそれに加わる形となった。

 梅の間には、黒い外套を羽織った髭面の男が部屋の真ん中で膝を立てるようにして座っており、品位は落ちるが同じ身なりをした数人の男達が壁沿いに立っている。髭面の男は、左之助と竹葉の姿を確認するなり、にたりと卑しい笑みを浮かべた。

「お待ちしてましたよ」

 左之助は男の前に正座し、指先を畳につけると、

「櫓様。本日はどのようなご用件で」
「どのようなってねえ。わかってるでしょ。期限は明日までですよ。返せるんですかねえ、ご主人」
「でしたら」すみやかに竹葉が左之助の隣に腰を下ろし、口を挟む。「今日はもうお帰りください。明日、必ずご用意いたしますので」

 つい今し方までの堂々とした立ち振る舞いが嘘のような、人の下風に立つ態度。二咲はわずかに驚きを隠せなかった。

「あの、何があったんでしょうか?」

 口に手を添え、そばにいた仲居に尋ねる。仲居は二咲を一瞥した。

「借金取りよ。左之助様があの櫓って男からこの店を担保に金を借りたんだけど、高額な利子を吹っかけてきたのよ。その期限が明日に迫ってるっていう話」

 仲居から説明を受け、左之助のいきり立つような態度に合点がいった。返済が期限が迫っているというのに、自分のような若輩者を抱えるはめになり、頭を抱えたくなるのもむりはない。不可抗力とはいえ、間の悪いときにやってきてしまったらしい。

 櫓は二人から頭を下げられ、これまた優越感に浸るような気味の悪い笑みを見せると、胡座をかいた。

「そうですねえ。では、酒で勝負でもしましょうか。俺に勝てたら今日は帰りましょう」

 随分、聞き分けの良い人だなと、呑気に思ったのは二咲だけだった。櫓の言葉を聞いた仲居達が途端にざわめきだす。後ろに立っていた仲居は顔を真っ青にした。

「冗談じゃない。竹葉姐さんは一度、櫓様に負けてるのよ。姐さんはこの店で一番お酒に強いお方。誰も櫓様には勝てない」
「櫓様、それは」左之助の泣き縋るような声がして、視線を戻す。
「いくらなんでも、あんまりでは……」
「だったら金を返せばいい。ここにある酒を全部売れば、まあ多少の金にはなるでしょうね。竹葉、どうする?」

 櫓は竹葉に水を向けた。竹葉もまた、顔から正気を失っていて、櫓の言葉に一切の反応を見せなかった。ただ、その表情は絶望しているというよりも、覚悟を決めるのに時間がかかっているだけのように思えた。

 しかし櫓は、この女は使えない、と判断した。

「竹葉がむりなら、ほかに誰か――」

 精査するように周囲に目をやる。仲居達が次々と顔をそむけるなか、櫓の視線がある一点で止まり、口角を上げた。

「ちょうどいい。目が合ったそこの娘」と、指を差す。「おまえが竹葉の代わりに俺の相手をしろ」

 仲居、櫓の部下、左之助、そして竹葉の視線が一点に集約される。櫓の指先は、まっすぐ二咲を向いていた。


 *


 雀町の建物は多くが平屋なのに対し、町の、延いては国の中枢を担う城は五階建てのもっとも天に近い建物と云われていた。外に出れば、これよりもはるかに高い山々があるというのに……と、茅はいつも思っている。

 二咲をあいおい坂に置いた後、本城に戻ってきた茅は、放り出していた仕事に手をつけていた。各地で起こる人とあやかしとの争い。この書類にはそれらの記録が事細かに記されている。

 いまいち気分が乗らずパラパラとめくっていたところ、扉を叩く音が耳を貫いた。

(いばら)です」

 扉の向こうからする声に「どうぞ」と返答すれば、一人の男が入ってきた。茅はすかさず椅子から飛び上がり、笑顔で駆け寄った。

「やあやあ、茨くん! 待っていたのだよ」
「仕事に飽きたのですね。……厚かましい。あんたの尻拭いをするのはこっちなんだ」

 あからさますぎる態度の原因を一瞬で見破られてしまった、どころか、腹を抉るような毒舌のおまけ付き。茅はたちどころに笑みを消し、椅子に戻った。

 彼の名前は茨。茅と同じく鬼のあやかしである。まじめかつ頭の切れる男なので部下に置いたが、いかんせん、古くからの友人ということでたまに出る歯に衣着せぬ物言いが凶器並みの鋭さを持っている。それはもう、幾度となく茅の心を削ってきた。そして、仕事にうるさい。

 軟禁状態のなかを抜け出して郭のもとに向かったので、茨は今、虫の居所が悪かった。

「で、どこへ行っていたのですか?」

 茨は、新たに持ってきた資料を机の上に置いた。「ちょっとね」と茅がそれを端に追いやると、上司相手に不躾にもため息を吐く。

「どうせあれでしょう。花嫁探し」

 茅は何も答えなかった。

「いい加減、諦めなさい。酒に強いあなたのお眼鏡にかなう女性なんて、この世にいませんよ。――酒呑童子の名前を捨てないかぎりね」

 茅は本名だが、強い鬼につけられる異名として、ちまたでは「酒呑童子」とも呼ばれている。あやかしの首都と呼ばれる雀町を統べ、さらには、あやかしの総大将とも名高い酒呑童子は、まさしく茅であった。

 異名は代々受け継がれていくものであり、酒が好きだったためにその異名を賜った茅は、酒呑童子の地位を手にした瞬間から人もあやかしも関係ない世界を作るために動いた。そうして、雀町という酒による下剋上ができる町を首都にした。

 目標を達成した茅が次に欲したのは、生まれた頃からその存在を知らない、家族だった。

 しかし、そちらは難航している。自分と同じくらい酒が好きで、自分と同じくらい酒が飲める女性は、そうそう現れてくれない。

(郭だけだもんなあ。俺に張り合うくらい飲めたの。娘の二咲はどうなんだろう。郭は飲み方を教えてたと言っていたけど……。今度、訊いてみよう)

「それより、そっちは何の用?」

 茅は思考を打ち切って、茨に尋ねた。茨は表情こそ変えなかったが、返答に少しの時間を置いた。

「今、机に置いた資料についてです。……また現れました、酒蔵荒らしが」

 二人の間に重苦しい空気が流れる。


 *


 二咲と櫓の前にお膳が運ばれる。お膳にはおちょこが一つと心ばかりの漬け物が乗っていて、それとは別に何本ものとっくりが用意された。

 櫓はこうなるとは思っていなかったのだろう。二咲を瞥見する。おそらく彼は、二咲を指名することで、彼女を庇い竹葉が出てくると予想していた。現に、櫓が二咲を指名したとき、竹葉は「私が」と言いかけた。しかし、それを左之助が止めた。

「待て竹葉。あいつはまだ、正式にうちの者になったわけじゃない。負けても無効にできる。その後に竹葉が勝負をすれば勝てる」

 左之助が竹葉に耳打ちするのを、二咲は確かに聞いた。早い話が、彼女は謂わば兵士にされたのだ。足切り兵に。

 おちょこを持つ手が震える。
 竹葉と左之助は背後に立って、心配そうに見つめている。

「二咲はどのくらい飲めるのだ」
「わからない」

 おちょこに酒がつぎ込まれた。
 二咲は、まったく飲んだことがないわけではない。父が酒豪だったために、飲み方は教わっていた。しかし――。

(どうしよう……。お父さん以外の人とは、ほとんど飲んだことがないのに……。でも、逃げたらここを追い出されるかもしれないから、逃げられない……)

 二咲の切実な想いが伝わって、おちょこの中の酒に波が立つ。とろみのある波が本物の酒であることを証明する。

「むりはしないように」

 櫓が余裕そうに笑みを浮かべた瞬間、戦いの火蓋が切られた。


 じつに二時間にも及ぶ飲み比べは、誰も予想していなかった結末を迎えた。

「大変、おいしく頂戴いたしました」

 飲んだら感想を伝えなさい。それが父の教えだったために、二咲はとっくりを空にするたびに感謝を口にした。おちょこを置き、酒で潤った唇を布で拭く。

 一方、二咲の向かいに座る櫓は、目をぎょろりと開き、せり上がる酔いの気配をせき止めるように頬を膨らませている。

「吐くなら外へお願いします」

 竹葉の血も涙もない声が決着の合図となった。櫓は手で口を押さえると逃げるように部屋を出ていき、「あなた方も」と言われ、彼の部下達もぞろぞろと部屋を後にした。

 勝者は一目瞭然。しかし、そこに残された者達の間に、なんとも言えない空気が流れる。それは、人が初めてあやかしを目にしたときの反応に似ていた。

 竹葉はお膳を下げるよう仲居にお願いし、二咲の隣に腰を下ろした。

「二咲は酒が飲めるのだな」
「いえ。こんなに飲んだのは初めてです」
「初めて? だとしたら、相当強いのだな」
「強いというか……」

 二咲は微苦笑を零す。

「父には『おまえは人を酔わせる体質だから、誰かと飲むときは二、三杯でやめておけ』と言われていて……。今日は仕方なかったですが、普段はあまり飲まないようにしてます」

 人を酔わせる体質。それは、二咲を想い、父なりにやんわり濁した言い方だった。要するに、二咲は絶対に酒に酔わない体質であり、裏を返せば、ほろ酔いもできないので酒を楽しめない体質であった。

 その体質が幸か不幸かは、二咲はまだ知らない。

 すると、彼女の言葉を小耳に挟んでいた片づけ係の仲居が、にわかに身を寄せてきた。

「それならあなた、なれるかもよ」
「なれるって、何にですか?」
「決まってるじゃない。酒呑童子様の――」
「早く片づけろ」

 仲居の言葉を遮ったのは竹葉だった。立ち上がり、二咲に冷たい視線を送る。

「とにかく、おまえはしばらく給仕見習いだ。今日は助かったが、仕事はしっかりやることだ」

 再び稼働を始めた仲居達で賑わう廊下。颯爽と歩いていく竹葉の後ろ姿を、二咲はぼんやりと見つめ続けた。

 かすかに耳の奥でざらざらと音がする。
 積み上げていたものが崩れていくような、そんな音が――。

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