「今日でこの家を出ていくことにします」
赤のロリータファッションに身を包んだトウコは、見た目にそぐわない落ち着いた声音で告げたあと、三つ指をついて頭を下げた。
「お世話になりました」
「マジで出ていくつもり?」
煙草を吸いながら訊ねると、トウコは頭をあげ、ぱっつりと揃えられた前髪の下から私をジトッと見た。
「明音が出ていってくれるのなら、私は出ていきませんけど」
「別にいいじゃん、一緒に住んでおけば」
「よくありません。そもそも、就職したらあなたがここから出ていくって約束でしたよね」
「うーん」
「でも、うまくいくか分からないからって一年だけ一緒に住んで支えてほしいって言って」
「あー、うんうん」
「一年経ったら、もしダメになってもちょっとは食いつないでいけるように、貯金が五十万貯まるまで一緒にいてほしいって言って」
「言った言った」
「そして、昨日のお給料から自動積み立てされた結果、あなたの貯金は五十万を超えました。ですので、もう本当にこれで終わりです」
「私の貯金のペースを把握してんのすごいね」
「私のおかげで貯金もできているのですから、当然の権利です」
「そうかぁ」
灰皿の上で、とんとんと煙草の灰を落とすと、トウコが私の手元に目をやる。
数年前、灰皿の上に吸殻を山盛りにしていたら、火が出たことがあった。すぐに気付いて消したし特に大きな問題にはならなかったが、トウコは自分がいたにも関わらず火事になりかねない事態を起こしてしまったことにひどく動揺し、それ以来私が煙草を吸っているときには遠目からでも監視するようになった。
その頃とは違って吸殻をほったらかしにすることはないし、吸う本数もだいぶ減ったから心配しなくても大丈夫だと思うのだが、そういう問題でもないらしい。
「で、ここを出てどこに住むかもう目星はつけてんの」
「いいえ。これからです」
「住むところ決まるまではどうするの」
「御心配には及びません。旅をしながら探しますので、そのときどきで目についたところに泊らせていただこうかと」
「ふーん」
隙を見せるまいとしているのか、固い口調を崩さずに真剣な顔をしているトウコを、私は座卓に頬杖をついて眺める。
「……なんですか。何か言いたいことがあればどうぞ」
黙って見続ける私の視線に耐えかねたのか、トウコが睨んでくる。
「私と一緒にいてくれるなら、もっと可愛い洋服買ってあげるけど」
「この服だけで十分です」
「トウコはさぁ、駅前のケーキ屋のショートケーキが好きじゃん。あれももう食べれなくなるよ」
「別に食べられなくてもいいです」
「トウコがテレビで見て、かわいいって言ってたキャラクターグッズも買ってあげられなくなるなぁ」
「いりません!!」
トウコが大きな声を出す。
「私は、これ以上何かしてもらいたいとか思っていません!! そういうことがしたいのであれば、ヒモになってくれる男性でも探せばいいんじゃないですか!?」
「トウコが『ヒモ』って言うのウケる」
私がへらへらと笑うと、トウコは、諦めたようにはぁっとため息をついた。
「とにかく、私は出ていきますので。お世話になりました」
すぐ横に置いてある風呂敷の包みを抱え、さっと立ち上がった彼女のふっくらとした頬は苛立ちからか紅潮していて、その愛らしさにこんなときなのに触れたくなってしまう。
初めてこの部屋で会ったときも、窓から入る光に明るく照らされたつやつやとした頬とこちらを見つめる大きな瞳に見惚れ、目が離せなかったことを思い出す。それは、さっさと帰りたいとしか考えていなかった私に、この子と共にここで暮らしていきたいと思わせるだけの威力を持っていた。
同居を始めた当初は、ぐいぐいと距離を詰める私にトウコは戸惑ってばかりだった。その瞳が印象的だからと、名をもじって「瞳子」と呼ばれることにも慣れない様子だった。今までそんな人に出会ったことがなかったらしいから、しょうがないだろう。
それでも懲りずにかまっているうちに、次第に心を開いてくれるようになったトウコの可愛らしさに私はますます惹きつけられた。初めて花のような無邪気な笑顔を見せてくれたときは、私の胸の中にも花が咲いた。
その笑顔がもっと見たくて、いろいろとプレゼントしたりもしたけれど、トウコは何をもらっても、嬉しそうにする一方でどこか落ち着かない様子だった。人に与えるばかりだったこれまでの経験がそうさせるのだろうと、私はそのいじらしさを愛した。
ただ、スーパーボールをあげたときだけは、違った。床に投げつけたら跳ね返って天井まで跳んでいき、また跳ね返って床に落下し、また跳ね上がってあらぬ方向へ跳んでいき。そうやって部屋中を飛び回るスーパーボールを、トウコは大きな瞳をパチパチとさせながら興味津々で追いかけ、そして手でつかんだ瞬間、鈴のような声をあげて笑った。
あぁ、トウコをこんな風に笑わせてあげられるのは、自分しかいないのだ。
再びスーパーボールを床に投げ、舞うようにそれを追いかける少女を見て確信した私は、ずっとトウコを側に置いておこうと決めた。トウコがなんと言おうとも、絶対に手放さないと。
スーパーボールに翻弄される姿の可愛らしさを思い出して煙草をくわえている口元が緩んでしまったのか、トウコが胡乱な目を向けてくる。
「……何で笑ってるんですか」
「ちょっとね。それより、またぼろ屋に住むつもり? せっかく可愛い格好しているのに」
胸にぎゅっと包みを抱えたトウコは、座ったままの私を見下ろし「そうですけど」と答える。
「私の一番の喜びは、こういうところに住む人を立ち直らせ、幸せにすることなので」
「だから、もうお金が貯まって人生順調にいきそうな私は用済みってわけ?」
私の言葉に、一瞬狼狽えたようにトウコが目を瞬かせるが、すぐに頷いた。
「そうです」
「じゃあ、引き続き私のそばにいてもいいんじゃないかな、やっぱり」
怪訝そうな顔になったトウコの前でスマホを操作した私は、銀行の残高を画面に出して「ほら」と見せた。
「残金、一万円もないよ」
「え、なん、なんで」
「このアパート、取り壊すんだって。老朽化が進んでるから」
答えつつ、六畳一間の部屋を見回す。雨漏りによる染みが天井には浮かび、畳はささくれだっている。砂壁はところどころにカビが生えているし、窓からは隙間風が吹き込んでくる。廊下にあるトイレも風呂も共同な上に黒ずんだ汚れが取れることはない。
しかし、そんなボロボロな住処でも、トウコと一緒に暮らしているという一点だけで、他のどんな豪華な部屋よりも価値はあった。
「取り壊したあとは……」
「駐車場にするらしいよ。だから新しい部屋に引っ越すんだけどさ。敷金礼金に、家賃二か月分払ったらこうなった」
「……」
「引っ越し代はクレジットカードで払ってー、その支払いは来月の給料からひかれるから、来月はマジで一万円生活になるし、新しいとこ家賃高いから、また赤字覚悟の生活になりそうなんだよね。となると、トウコの力が必要ってわけ」
信じられない、とでも言いたげに目を見開くトウコを見つめながら、私はにやっと笑ってみせた。
「座敷童子が家にいれば、大丈夫なんでしょ?」
しばらく見つめ合ったあと、トウコは泣きそうな顔でへたりと床に座り込んだ。
煙草をぎゅっと灰皿に押し付けた私は、トウコへと手を伸ばす。
「ね、一緒に行こ」
抱き寄せて囁くと、震える手が私の服をぎゅっとつかむ。
「……ごめんなさい」
「ん?」
「ごめんなさい」
「なにが」
「――嘘をついてたんです。私が……私が明音と一緒に行っても、明音を裕福にしてあげることは、できません」
胸の中にいるトウコは蚊の鳴くような声で続けた。
「私が、裕福にできるのは、家の、持ち主だけだから」
「へぇ。つまり私みたいに借りてる人にはなんの恩恵も無くて、家主とかオーナーだけが裕福になるってこと?」
「そうです。だから、明音がまたアパートやマンションに引っ越すなら、私がそこに一緒に行っても、明音にはなんの利益ももたらせません。今も……そうです。むしろ、家主に利益を与えるためにいつか明音が不利益を被るかもしれないから、もう出ていこうって……でも、遅かったですね。ごめんなさい」
「――なんで、嘘ついてた?」
私の問いに黙り込んだトウコに「ねえ、なんで?」ともう一度聞きながらその艶やかな髪に頬をあてる。
「明音と暮らすのが、楽しかったからです」
たっぷりとした沈黙のあとに告げられた言葉に、私は微笑みながらトウコを抱く腕に力を込めた。
「私もだよ。だから一緒に行こう」
*
引っ越しの前夜、ほとんどない身の回りの荷物を段ボールに詰める私の横で、今日も赤いロリータ服を着ているトウコは毬の代わりにスーパーボールを床に投げて遊んでいた。防音なんて概念の無い天井や床にぶつかるたびに、木造のアパート中に響くのではという音をたてているが、自分以外にこのアパートに住んでいる人なんてとっくにいなくなっているので問題ない。
そこに、スマホの着信音が鳴った。
慌てて跳ね回るスーパーボールをつかまえようとするトウコに「外で話してくるから遊んでな」と声をかけ、私はスマホと煙草を持って玄関から出る。
「もしもし」
『あぁ、明音? 久々に出たよ。あんたの希望の案件』
「なに」
『夜な夜な泣く市松人形』
「いいね」
ポケットからライターを出し、煙草に火をつける。
『再来週の水曜か木曜でどう?』
「じゃあ、木曜で。有休取っとく」
『にしても、ほんとあんたって悪趣味よね』
電話の向こうでふふふ、と斡旋屋の女が笑う。
『祓い屋を辞めたのに、今でも女の子の妖怪やら幽霊だけは祓いたがるって。まあこっちとしては、どんなちっさい案件でも受けてくれるから有難いけど』
「うるさ」
また笑った斡旋屋が告げた住所をスマホに入力し、私は通話を切った。
別に祓いたがってるわけじゃないけどさ、と、ゆっくりと煙を吐き出す。
――トウコに見合わないから、しょうがなく祓ってるだけで
これから先、私がいなくなる遠い未来にもトウコが寂しくならないように。トウコと同じように可愛くてトウコが仲良くしていける、そんな存在を探してるのに、どいつもこいつもトウコの足元にも及びやしない。
今度の市松人形に憑いてるのはどんなかな、と煙草を口にくわえたまま家に戻ると、スーパーボールを持ったトウコがしかめ面をする。
「また灰が落ちますよ」
「どうせこの家は取り壊すんだし、ちょっとくらい畳が焼けても大丈夫だって。トウコがいれば、火事になることもないんでしょ」
「それはそうですが」
ちょっとだけ自信なさげなのは、前に吸殻から火が出たからだ。家がそういった被害を受けるようなことは、座敷童子がいる家では普通は起こらないはずなのに、とあの日もトウコは不安そうに言っていた。
まさか、私が「祓い屋」で、トウコから良くも悪くも影響を受けることがないのだとは、思いもしないのだろう。
もともと煙草を吸っていた理由が、祓うときに使う線香の香り消しのためだったということも。
そして、私たちが出会ったのも、この家の大家から依頼され、夜な夜な毬をつく音を響かせるトウコを祓うためだったということも。
きっとこの先も知ることはない。
「あ、そういや灰皿仕舞ったんだっけ」
部屋に戻って気付く。あとで灰皿代わりにして最後に捨てようと思っていたコーラの缶も、まだ中身が残っている。
仕方なく部屋の奥に進んでがたつく窓を開け、そこから灰を地面に落とした。夜空をバックに咲き誇る桜から、花びらがひらりひらりと舞い散る。
「この部屋から見る桜は好きでした」
トウコも隣に並んで桜を見上げる。
「今度の部屋も桜が見えるとこにしといたよ」
私が答えると、トウコは嬉しそうににっこりとした。あの日私に本当のことを告白してから、表情はさらに明るく可愛らしくなっている。
その顔を見ながら私は再度誓うように思う。
絶対に手放さないし、未来永劫一人にすることはない。
でも、もしトウコに見合う存在が見つからなかったら。
この手で祓って、永遠に私だけのものにしよう。
赤のロリータファッションに身を包んだトウコは、見た目にそぐわない落ち着いた声音で告げたあと、三つ指をついて頭を下げた。
「お世話になりました」
「マジで出ていくつもり?」
煙草を吸いながら訊ねると、トウコは頭をあげ、ぱっつりと揃えられた前髪の下から私をジトッと見た。
「明音が出ていってくれるのなら、私は出ていきませんけど」
「別にいいじゃん、一緒に住んでおけば」
「よくありません。そもそも、就職したらあなたがここから出ていくって約束でしたよね」
「うーん」
「でも、うまくいくか分からないからって一年だけ一緒に住んで支えてほしいって言って」
「あー、うんうん」
「一年経ったら、もしダメになってもちょっとは食いつないでいけるように、貯金が五十万貯まるまで一緒にいてほしいって言って」
「言った言った」
「そして、昨日のお給料から自動積み立てされた結果、あなたの貯金は五十万を超えました。ですので、もう本当にこれで終わりです」
「私の貯金のペースを把握してんのすごいね」
「私のおかげで貯金もできているのですから、当然の権利です」
「そうかぁ」
灰皿の上で、とんとんと煙草の灰を落とすと、トウコが私の手元に目をやる。
数年前、灰皿の上に吸殻を山盛りにしていたら、火が出たことがあった。すぐに気付いて消したし特に大きな問題にはならなかったが、トウコは自分がいたにも関わらず火事になりかねない事態を起こしてしまったことにひどく動揺し、それ以来私が煙草を吸っているときには遠目からでも監視するようになった。
その頃とは違って吸殻をほったらかしにすることはないし、吸う本数もだいぶ減ったから心配しなくても大丈夫だと思うのだが、そういう問題でもないらしい。
「で、ここを出てどこに住むかもう目星はつけてんの」
「いいえ。これからです」
「住むところ決まるまではどうするの」
「御心配には及びません。旅をしながら探しますので、そのときどきで目についたところに泊らせていただこうかと」
「ふーん」
隙を見せるまいとしているのか、固い口調を崩さずに真剣な顔をしているトウコを、私は座卓に頬杖をついて眺める。
「……なんですか。何か言いたいことがあればどうぞ」
黙って見続ける私の視線に耐えかねたのか、トウコが睨んでくる。
「私と一緒にいてくれるなら、もっと可愛い洋服買ってあげるけど」
「この服だけで十分です」
「トウコはさぁ、駅前のケーキ屋のショートケーキが好きじゃん。あれももう食べれなくなるよ」
「別に食べられなくてもいいです」
「トウコがテレビで見て、かわいいって言ってたキャラクターグッズも買ってあげられなくなるなぁ」
「いりません!!」
トウコが大きな声を出す。
「私は、これ以上何かしてもらいたいとか思っていません!! そういうことがしたいのであれば、ヒモになってくれる男性でも探せばいいんじゃないですか!?」
「トウコが『ヒモ』って言うのウケる」
私がへらへらと笑うと、トウコは、諦めたようにはぁっとため息をついた。
「とにかく、私は出ていきますので。お世話になりました」
すぐ横に置いてある風呂敷の包みを抱え、さっと立ち上がった彼女のふっくらとした頬は苛立ちからか紅潮していて、その愛らしさにこんなときなのに触れたくなってしまう。
初めてこの部屋で会ったときも、窓から入る光に明るく照らされたつやつやとした頬とこちらを見つめる大きな瞳に見惚れ、目が離せなかったことを思い出す。それは、さっさと帰りたいとしか考えていなかった私に、この子と共にここで暮らしていきたいと思わせるだけの威力を持っていた。
同居を始めた当初は、ぐいぐいと距離を詰める私にトウコは戸惑ってばかりだった。その瞳が印象的だからと、名をもじって「瞳子」と呼ばれることにも慣れない様子だった。今までそんな人に出会ったことがなかったらしいから、しょうがないだろう。
それでも懲りずにかまっているうちに、次第に心を開いてくれるようになったトウコの可愛らしさに私はますます惹きつけられた。初めて花のような無邪気な笑顔を見せてくれたときは、私の胸の中にも花が咲いた。
その笑顔がもっと見たくて、いろいろとプレゼントしたりもしたけれど、トウコは何をもらっても、嬉しそうにする一方でどこか落ち着かない様子だった。人に与えるばかりだったこれまでの経験がそうさせるのだろうと、私はそのいじらしさを愛した。
ただ、スーパーボールをあげたときだけは、違った。床に投げつけたら跳ね返って天井まで跳んでいき、また跳ね返って床に落下し、また跳ね上がってあらぬ方向へ跳んでいき。そうやって部屋中を飛び回るスーパーボールを、トウコは大きな瞳をパチパチとさせながら興味津々で追いかけ、そして手でつかんだ瞬間、鈴のような声をあげて笑った。
あぁ、トウコをこんな風に笑わせてあげられるのは、自分しかいないのだ。
再びスーパーボールを床に投げ、舞うようにそれを追いかける少女を見て確信した私は、ずっとトウコを側に置いておこうと決めた。トウコがなんと言おうとも、絶対に手放さないと。
スーパーボールに翻弄される姿の可愛らしさを思い出して煙草をくわえている口元が緩んでしまったのか、トウコが胡乱な目を向けてくる。
「……何で笑ってるんですか」
「ちょっとね。それより、またぼろ屋に住むつもり? せっかく可愛い格好しているのに」
胸にぎゅっと包みを抱えたトウコは、座ったままの私を見下ろし「そうですけど」と答える。
「私の一番の喜びは、こういうところに住む人を立ち直らせ、幸せにすることなので」
「だから、もうお金が貯まって人生順調にいきそうな私は用済みってわけ?」
私の言葉に、一瞬狼狽えたようにトウコが目を瞬かせるが、すぐに頷いた。
「そうです」
「じゃあ、引き続き私のそばにいてもいいんじゃないかな、やっぱり」
怪訝そうな顔になったトウコの前でスマホを操作した私は、銀行の残高を画面に出して「ほら」と見せた。
「残金、一万円もないよ」
「え、なん、なんで」
「このアパート、取り壊すんだって。老朽化が進んでるから」
答えつつ、六畳一間の部屋を見回す。雨漏りによる染みが天井には浮かび、畳はささくれだっている。砂壁はところどころにカビが生えているし、窓からは隙間風が吹き込んでくる。廊下にあるトイレも風呂も共同な上に黒ずんだ汚れが取れることはない。
しかし、そんなボロボロな住処でも、トウコと一緒に暮らしているという一点だけで、他のどんな豪華な部屋よりも価値はあった。
「取り壊したあとは……」
「駐車場にするらしいよ。だから新しい部屋に引っ越すんだけどさ。敷金礼金に、家賃二か月分払ったらこうなった」
「……」
「引っ越し代はクレジットカードで払ってー、その支払いは来月の給料からひかれるから、来月はマジで一万円生活になるし、新しいとこ家賃高いから、また赤字覚悟の生活になりそうなんだよね。となると、トウコの力が必要ってわけ」
信じられない、とでも言いたげに目を見開くトウコを見つめながら、私はにやっと笑ってみせた。
「座敷童子が家にいれば、大丈夫なんでしょ?」
しばらく見つめ合ったあと、トウコは泣きそうな顔でへたりと床に座り込んだ。
煙草をぎゅっと灰皿に押し付けた私は、トウコへと手を伸ばす。
「ね、一緒に行こ」
抱き寄せて囁くと、震える手が私の服をぎゅっとつかむ。
「……ごめんなさい」
「ん?」
「ごめんなさい」
「なにが」
「――嘘をついてたんです。私が……私が明音と一緒に行っても、明音を裕福にしてあげることは、できません」
胸の中にいるトウコは蚊の鳴くような声で続けた。
「私が、裕福にできるのは、家の、持ち主だけだから」
「へぇ。つまり私みたいに借りてる人にはなんの恩恵も無くて、家主とかオーナーだけが裕福になるってこと?」
「そうです。だから、明音がまたアパートやマンションに引っ越すなら、私がそこに一緒に行っても、明音にはなんの利益ももたらせません。今も……そうです。むしろ、家主に利益を与えるためにいつか明音が不利益を被るかもしれないから、もう出ていこうって……でも、遅かったですね。ごめんなさい」
「――なんで、嘘ついてた?」
私の問いに黙り込んだトウコに「ねえ、なんで?」ともう一度聞きながらその艶やかな髪に頬をあてる。
「明音と暮らすのが、楽しかったからです」
たっぷりとした沈黙のあとに告げられた言葉に、私は微笑みながらトウコを抱く腕に力を込めた。
「私もだよ。だから一緒に行こう」
*
引っ越しの前夜、ほとんどない身の回りの荷物を段ボールに詰める私の横で、今日も赤いロリータ服を着ているトウコは毬の代わりにスーパーボールを床に投げて遊んでいた。防音なんて概念の無い天井や床にぶつかるたびに、木造のアパート中に響くのではという音をたてているが、自分以外にこのアパートに住んでいる人なんてとっくにいなくなっているので問題ない。
そこに、スマホの着信音が鳴った。
慌てて跳ね回るスーパーボールをつかまえようとするトウコに「外で話してくるから遊んでな」と声をかけ、私はスマホと煙草を持って玄関から出る。
「もしもし」
『あぁ、明音? 久々に出たよ。あんたの希望の案件』
「なに」
『夜な夜な泣く市松人形』
「いいね」
ポケットからライターを出し、煙草に火をつける。
『再来週の水曜か木曜でどう?』
「じゃあ、木曜で。有休取っとく」
『にしても、ほんとあんたって悪趣味よね』
電話の向こうでふふふ、と斡旋屋の女が笑う。
『祓い屋を辞めたのに、今でも女の子の妖怪やら幽霊だけは祓いたがるって。まあこっちとしては、どんなちっさい案件でも受けてくれるから有難いけど』
「うるさ」
また笑った斡旋屋が告げた住所をスマホに入力し、私は通話を切った。
別に祓いたがってるわけじゃないけどさ、と、ゆっくりと煙を吐き出す。
――トウコに見合わないから、しょうがなく祓ってるだけで
これから先、私がいなくなる遠い未来にもトウコが寂しくならないように。トウコと同じように可愛くてトウコが仲良くしていける、そんな存在を探してるのに、どいつもこいつもトウコの足元にも及びやしない。
今度の市松人形に憑いてるのはどんなかな、と煙草を口にくわえたまま家に戻ると、スーパーボールを持ったトウコがしかめ面をする。
「また灰が落ちますよ」
「どうせこの家は取り壊すんだし、ちょっとくらい畳が焼けても大丈夫だって。トウコがいれば、火事になることもないんでしょ」
「それはそうですが」
ちょっとだけ自信なさげなのは、前に吸殻から火が出たからだ。家がそういった被害を受けるようなことは、座敷童子がいる家では普通は起こらないはずなのに、とあの日もトウコは不安そうに言っていた。
まさか、私が「祓い屋」で、トウコから良くも悪くも影響を受けることがないのだとは、思いもしないのだろう。
もともと煙草を吸っていた理由が、祓うときに使う線香の香り消しのためだったということも。
そして、私たちが出会ったのも、この家の大家から依頼され、夜な夜な毬をつく音を響かせるトウコを祓うためだったということも。
きっとこの先も知ることはない。
「あ、そういや灰皿仕舞ったんだっけ」
部屋に戻って気付く。あとで灰皿代わりにして最後に捨てようと思っていたコーラの缶も、まだ中身が残っている。
仕方なく部屋の奥に進んでがたつく窓を開け、そこから灰を地面に落とした。夜空をバックに咲き誇る桜から、花びらがひらりひらりと舞い散る。
「この部屋から見る桜は好きでした」
トウコも隣に並んで桜を見上げる。
「今度の部屋も桜が見えるとこにしといたよ」
私が答えると、トウコは嬉しそうににっこりとした。あの日私に本当のことを告白してから、表情はさらに明るく可愛らしくなっている。
その顔を見ながら私は再度誓うように思う。
絶対に手放さないし、未来永劫一人にすることはない。
でも、もしトウコに見合う存在が見つからなかったら。
この手で祓って、永遠に私だけのものにしよう。



