昔々の年の暮れ、神様が動物たちに御触れを出しました。
『一月一日元日の朝、私のもとを訪れたものを、お前たちの頭領にしてやろう』
動物たちは騒めきます。
〝頭領〟になれば、他の動物たちを自分の思うがままに操る事ができます。
しかし、なれなければ?
未来永劫、頭領に逆らうことは許されないのです。
『恐れながら神様』
口を開いたのは、小さな鼠でした。
『選ばれる動物は一種類のみでしょうか?』
神様は訝しそうな顔をしました。
『選ばれるのが最初に神様のもとを訪れた一種類のみであれば、私のような小さくか弱いものには些か条件が不利かと』
鼠は、集っている動物たちを見渡すようにしながら言いました。
『身体の大きな龍や、威勢の良い虎、脚の速い馬に敵うとは到底思えません。それに一つの血筋が権力を握れば悪政が蔓延りましょう。どうかお慈悲をいただけませんか?』
神様は、鼠の言うことも一理あると頷きました。
『よかろう。それでは十二番目の動物までを頭領とし、それぞれに力を授けよう。間に合わなかった動物たちはそれぞれの頭領の眷属とする』
かくして、今も伝わる元日の十二支の競争が行われました。
一番になったのは、なんと神様に進言したあの小さな鼠でした。
そして、十二の動物が出揃います。
〝子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥〟
頭領になった者たちには、神様から新たな名も授けられました。
順当に十二の動物が決まり、国の未来も安泰だと皆胸を撫で下ろします。
しかし、一匹だけ納得がいかないという表情を浮かべているものがいました。
『神様!』
息を切らして前に出たのは、競争で十三番目になった猫でした。
『どうした』
『恐れながら、この競争には不正がありました』
動物たちはどよめきます。
『そうでなければ鼠が一番になるなど、どう考えても——』
『黙れ!』
神様は瞳孔を開いて猫を睨みつけます。声は地の底から聞こえているかのように低く、怒りが露わです。
『しかし』
猫は震える声で食い下がろうとしました。
『お前は神である私の決定にケチをつけようと言うのだな』
『いえ、決してそのようなつもりは——』
『もう良い。お前のような無礼なものは——』
続く神様の言葉に、猫は膝から崩れ落ちて絶望しました。
こうして十二の方角それぞれに頭領が屋敷を構え守護る国が誕生しました。
これが〝倭支國〟の始まりの物語。
◇
倭支國。
この国はかつて東に存在し、今はもう滅びてしまった日本という国と友好関係を結んでいたことから文化がよく似ている。住宅街には日本家屋が多く見られるが、街にはモダンな煉瓦造りの建物が立ち並ぶ。着物や袴、それに西洋の服に身を包むものが往来し、都会では自動車も珍しくない。
そしてここは倭支國の首都、干都。
歪な円形をしたこの島国の中心に位置する都市である。
降り積もった雪の溶けない、如月と呼ばれる冬の月初め。
「寧寧! 寧寧はいないのか!」
朝の陽光が差し込む平屋造りの広い屋敷に、恰幅の良さを感じさせる低い男性の声が響き渡る。この家の主人、狐塚葉一郎である。
「はい! 旦那様!」
少女、寧寧が慌てた様子でやんわりとウェーブのかかった茶色い髪をなびかせ廊下をパタパタと走る。一目見ただけで質素とわかる煤色の着物の、襷掛けした袖をほどきながら。
「大変お待たせいたしました」
寧寧は和室の入り口近くの廊下で平伏するように座して三つ指をついた。
「まったく、いつまで待たせる気だ」
立派な座卓の向こうで腕を組んだ着物姿の葉一郎は、嫌味なほどの大きなため息をついた。
「本当に愚図ねえ」
彼の隣で、深い葡萄色の着物を身に纏った妻の葛子が蔑んだ目を向けたのが、顔を上げないでいる寧寧にもわかる。いつもそのような視線を向けられているからだ。
「婚姻肩代儀の日取りが決まった」
葉一郎の言葉に、寧寧の心臓がギクリと音を立てる。
「お前の十八の誕生日だ」
「はい」
寧寧は頭を伏せたままで答える。
「いいか、当日はくれぐれも粗相の無いようにするんだぞ」
「はい。承知いたしました」
「〝猫〟のお前を育ててやった恩を忘れるんじゃないよ」
葛子が笑みを孕んだ声で言う。
「どの家も国の頂に立つ名家だからね、どの家だろうと構わない。しっかりとご縁を結んで、狐塚家にしっかり恩返ししてちょうだいね。十八まで育ててやった上に学校にも通わせて、花嫁修行もさせてやったんだ」
「…………」
寧寧の唇に少しだけ力が入る。
「返事は?」
威圧感を感じさせる葛子の声に、寧寧は思わずパッと顔を上げた。
「誰が顔を上げていいと言った?」
目の前には、着物を着た雌の狐が寧寧を睨みつけるような表情で座っている。
寧寧は慌てて頭を伏せ直した。
「は、はい、奥様。ご恩は必ずお返しいたします」
結局寧寧は顔を上げることを許されないまま、それどころか部屋に入ることも許されないまま退がるよう命ぜられた。
しかしそのことに彼女の胸が痛み傷つくことはない。幼少期から、それを当たり前のこととして育てられてきたからだ。
寧寧の眼前で、襖がひとりでにピシャリと閉まる。
もちろん勝手に閉まったのではない。葉一郎が、〝異能〟と呼ばれる一種の超能力でそうしたのだ。
十二支の物語で始まったといわれるこの国の人々はみな、位に差はあれど神に仕える動物の血を引くとされ、不思議な能力を有している。物を動かす念動力程度はみな当たり前のように持ち、また、それぞれに特殊な能力を有する者もいる。
例えば葉一郎や葛子は炎を操るいわゆる狐火の能力を持っているし、他にも千里眼や空中浮遊の術を使うものなど様々だ。
そして、位が上の動物の血を引く家系の者の血は濃く、先ほどの葛子のように現代においても動物の姿に変身することができる。それは野生的な本能に最も近い能力であるため、自らの意思で変身することもあれば、葛子のように感情の昂りで変身してしまうこともあるのだ。
動物の〝位〟の最上位はもちろん領地をおさめる頭領である十二支。
その下に鹿や狐といった動物たちが順に名を連ねる。順といっても、十二支以外の動物たちは彼らに仕える身であるため、その身分にそれほどの差はない。ただ一種類の動物を除いては。
この国で最も位が低く、蔑まれ、忌み嫌われる存在、それこそが神の不興を買った存在である猫であり——寧寧である。
『あれが猫か……気味の悪い目をしている』
『髪の色も、肌の透けるような白さも薄気味悪いわ』
『猫に睨まれると災いが降りかかるらしい』
寧寧が街を歩けば、そこかしこから噂話をする声が聞こえてくる。その声は、視線は、悍ましいものを見た時のそれである。
寧寧は物心つく頃には狐塚の家に暮らしていた。
彼女の意思でも、狐塚の意思でもない。ただ順番に従っただけだった。
一四五年に一度生まれる猫の娘を、狐、鹿、烏、狸の四家で順に預かり育てるというのが古からの決まりごとで、それが今回は狐の番であった。ただそれだけのことだ。
〝花嫁修行〟と言えば聞こえはいいが、葛子が寧寧にさせてきたのは奉公人にさせるような家事の全てであった。
一年中休みなく、早朝から奉公人に混ざり炊事や洗濯、家の掃除をし、学校から帰れば夕飯の支度をし、風呂を炊き、誰よりも遅く就寝するような生活をしてきた。
それでも葉一郎や葛子が罪悪感を抱くようなことは決してない。
この日も、呼び出されるまで寧寧は家中の長い廊下の雑巾がけをしていた。
閉じた襖を前に、寧寧は「ふう」とため息をつき、指先の赤くなった手を見つめる。
踏みしめればしっかりと足跡が残るような深い雪の残る季節、湯を使うことなど許されない寧寧は、凍るような冷たさの水で炊事をし、雑巾掛けをした。
白く滑らかだった指先は、霜焼けで赤く爛れたようなひどい見た目に変わっている。
「痛い……」
ぽつりとつぶやくと、彼女はもう一度、今度は小さくこぼすようにため息をついて指先に口づけた。
すると、寧寧の指は先の方からみるみるうちに輝くような白さを取り戻していき、あっという間に元の雪のような白い肌になった。
〝治癒〟
それが猫である彼女の持つ異能だ。
霜焼け程度の小さな傷であればこんな風にすぐに治してしまう。
それどころか、大きな傷でも口づけで治すことができるほどの能力である。
ただし、ひどい傷を治すにはそれなりの代償がある。能力を使った後に高熱を出して寝込んでしまうのだ。
葉一郎や葛子は、自身や夫妻の子どもたちが怪我をすれば寧寧に治癒の能力を使わせた。しかしその代償に寧寧が高熱を出して寝込めば『家事もできない役立たず』と侮蔑の言葉を投げかけた。
そしてこの異能こそが、彼らが寧寧を虐げることに罪悪感を抱かない原因でもある。
家事で怪我をしても、折檻で傷ついても、寧寧には傷一つ残らない。
彼らはそんな寧寧を気味悪がり、半ば畏れながらもストレスの捌け口として都合よく虐げてきたのだ。
それでもこの狐塚家が、今の寧寧にとっての唯一の居場所と呼べる場所だ。
猫がどこで生まれるのか、それは誰も知らない。
一四五年に一度、どこかで生まれた猫の赤子が四家の門前に何者かの手によって置き届けられる。
倭支國では寿命一五◯年を超えるものも稀に現れるため、一四五年に一度というのもあり得ないとは言えない。ただしそれは、猫以外の動物の子孫たちであれば、だ。
猫は現れるたびに一匹、それも決まって女であると伝えられている。
他の種族と交わって子を成した猫もいたが、そのすべてが猫ではない子を産んだ。
〝猫から猫は生まれない〟
いつしかそれが定説となっていた。
それでは猫はどこで、どのようにして生まれるのか?
その得体の知れなさもまた、人々に猫という存在を気味悪がらせる一因となった。
そしてそれは自分の出自がわからず、親の存在に想いを馳せることもできない寧寧にとって、孤独を募らせる原因である。
どんなに寂しくても苦しくても、心を閉ざして狐塚の家にすがるほかないのである。
またため息をついたところで、不意に朧げな記憶が寧寧の脳裏を撫でるようにかすめる。
——『その時は必ず私がお前を助けよう』
(え……?)
今まで忘れていた、幼少の記憶。
(あれは……)
◇
それは、寧寧が十歳の頃のこと。
葛子にお遣いを言い付けられた寧寧は、狐塚家の近くの商店に買い物に出かけた。当然のように店主や他の買い物客からは冷たい視線を浴びせられたが、この頃にはもう寧寧は己の立場を理解して傷つかないよう心を閉ざすようになっていた。
その帰り、神社の近くを通りがかった。
その神社は干都の北東つまり鬼門に鎮座し、その奥の林は禁足地となっている神聖な場所だ。
その日は、林の木々がまるで落ち着きなく騒めいているようだった。
(何かいる)
寧寧は、それまでに感じたことのない獣の気配を感じた。
普段なら決して寄り道などはしない彼女だが、その強烈な気配に、好奇心に抗うことができず林へと足を踏み入れてしまった。
『きゃっ』
林に入ってすぐに血溜まりで足を滑らせそうになった。
見れば、大きな獣が血を滴らせて倒れている。かろうじて血のついていない箇所から、白い獣なのだとわかる。乾き始めたような血の筋もあることから、怪我をして時間が経っているのであろう。
(苦しそう……)
血で固まった毛並みは鈍く上下を繰り返し、事切れそうな呼吸を感じさせた。
(このままでは、死んでしまう……?)
『……お前は……誰だ』
突然の低い声に寧寧の肩がビクリと跳ねた。
『……け、怪我、してる……』
寧寧は上手く言葉を紡げず、それだけぽつりと口にした。
『……去れ……』
獣は苦しそうに言葉を発する。苦しさからか、怒りにも似た余裕のなさを感じる声色だが、不思議と恐怖は感じない。
寧寧は衝動的に一歩駆け出して膝をつくと、小さな手で獣の前脚を掬い上げるように持ち上げた——そして、口づける。
『何を——』
獣の身体は、寧寧の口づけた脚の先から徐々に傷が塞がり、血の跡も消えていく。小半刻ほどですべての傷が塞がり、地面に滴っている分以外の血は消えてしまった。
寧寧はごくりと息を飲んだ。
目の前の大きな獣は白といういうよりは銀色の艶やかな毛を輝かせ、気品に溢れた瞳で寧寧を見つめている。
〝高貴な家の人間だ〟
獣に人間というのもおかしい気がするが、倭支國では当たり前の表現だ。ともかく、銀色の獣は幼い寧寧にも只者でないことを一目で理解させたのだ。
『お前は——』
続く一言が、呆然としていた寧寧の心臓を恐怖で軋ませる。
『ひょっとして、猫か?』
彼女は咄嗟に、土下座するように手と頭を地面につけた。
『わ、私のような者が、あ、あなた様のようなお方に触れてしまい申し訳——』
『何を言っているんだ』
獣は呆れたようにため息をついた。
『顔を上げろ』
寧寧が恐る恐る顔を上げると、再び獣と目が合う。
『私と同じ……』
思わずつぶやいてしまった。その目が、左右で違う色をしていたから。
寧寧の目は右が青藍色、左が鼈甲色をしている。目の前の瞳は、ちょうど鏡に映したように反対の色をしている。
『私の質問に答えてくれないか? この地に軽々と足を踏み入れることができ、治癒の能力を持つ……そしてその瞳、お前は猫なのであろう?』
寧寧は観念したようにコクリと頷いた。
〝この地に軽々と足を踏み入れることができ〟その意味はわからなかったが。
(高貴な方に私のような卑しいものが触れて、きっと咬み殺されてしまうんだわ)
『やはりそうか』
心臓の音に全身を支配されてしまった寧寧の予想に反して、獣はぺこりと頭を下げた。
『助かった。礼を言う』
『え……』
『お前が現れなければ、私は間違いなく命を落としていた』
『え……えっと……』
——〝礼を言う〟
『…………』
気がついたら、寧寧の頬を生暖かいものが伝っていた。
『ああ、ひょっとして怖がらせてしまったか』
『ち、違……』
彼の言葉に、寧寧は必死で首を横に振った。
『……違うんです、えっと——』
それは、彼女が生まれて初めて他者からもらった感謝の言葉だった。
『…………っ』
自分も礼を返したいのに、胸が詰まってしまい上手く言葉が出てこない。
寧寧がうつむいて困っていると、頬を暖かい何かが撫でた。
目を開くと、彼が寧寧の頬に優しく鼻先をつけ、涙をぺろぺろと舐める。
『ふふっくすぐったい』
寧寧が笑うと、彼はどこかほっとしたように小さく息を漏らした。
そして、何かを探るようにもう一度くんくんと寧寧の頬に鼻先を近づけた。
『お前は不思議なにおいがするな』
『え?』
『陽のにおいと陰のにおい、二つのにおいが混ざり合っているようだ』
寧寧には彼の指摘にまったく心当たりがなくキョトンとするばかりだ。
『……まあいい。何か、助けられた礼をしよう。何でも望みを言え』
『えっ』
『物でも金でも、好きに言ってみろ』
寧寧はまた、首をぶんぶんと横に振る。
『そ、そんな! お礼だなんてめっそうもない』
『子どもが遠慮することはない』
『い、いえ、本当に結構です。いただいても、持って帰ることができません』
狐塚の家で、寧寧が自分の意思で何かを所有することは許されない。
ましてや金品など、すぐに取り上げられるのが目に見えている。
戸惑う寧寧の様子に、彼はまたため息をついた。
(ああ……せっかくのご厚意に、失礼なことを言ってしまったんだわ)
寧寧はまたうつむいて、瞳にはじんわりと涙が浮かんできた。
『わかったから、顔を上げろ』
その言葉に、泣きそうになっている顔を上げる。
『いつかお前が困ることがあれば、その時は必ず私がお前を助けよう』
『え……そんなこと』
『お前がはっきりと口に出して助けを請えば、必ず私に届く』
そんなことができるものなのかと寧寧は不思議に思ったが、目の前の瞳は戯言を言っているとも嘘をついているとも思えない。
『それが礼ということで許してくれるか?』
寧寧はコクコクと、今度は首を縦に振った。
『そうか、では今日のところはこれで失礼させてもらうとしよう』
『あ、あの……!』
立ち去ろうとした彼が寧寧の方を見る。
『お名前を教えていただけませんか?』
誰かに何かを請うたことに、寧寧自身が一番驚いていた。
その様子に、彼はやんわりと目を細めた。
『白銀だ』
『白銀様……あ、えっと、私は——』
『知っている。寧寧だろう?』
『え? どうして……』
一瞬、獣である彼が微笑んだように見えた。
『時がくれば、そのうちまた会うだろう。その時にすべてわかるはずだ』
寧寧がまた不思議そうな顔をしている間に、白銀と名乗った彼は疾風のような速さでどこかに駆けていってしまった。
◇
あの日家に帰ると、予定より半刻も帰りの遅れた寧寧に葛子が怒り狂って厳しく折檻した。
そして、白銀のひどい怪我に治癒を使ったことで翌日から数日、寧寧は高熱を出して寝込んでしまった。
そのせいかあの日のどこか現実味のない記憶、そして白銀との約束は今日の今日まですっかり記憶から抜け落ちていた。
(どうして急に思い出したのかしら……)
白銀の瞳を思い出した寧寧の心臓は、本人も気づかないほどの微かな脈を打った。
◇
半月後。
「本当に気味が悪いったらないわ。どうしてうちの学級なのかしら」
寧寧は女学校の教室で、いつものように自分の席に座っている。
ただ座っている、それだけなのに周りの噂する声が騒がしい。
寧寧はこの学校に初等科から通っている……というより、世間体を気にした狐塚夫妻に押し込まれたと言った方が正しいのかもしれないが。
しかし十八歳になる今日まで、友だちと呼べる存在はついにできなかった。
皆、猫を気味悪がって近づこうとしないため、席は一人一番後ろの離れた場所。体育などで二人一組や班を作らなければいけないものは、誰も寧寧と組もうとしないため、寧寧の方から気を使って不参加を申し出るようになった。
それでも、勉強をするのが好きな寧寧にとって、学校は狐塚の家から離れられる平和な時間であった。
周囲は寧寧にわざと聞こえるように陰口を言うことがあっても、猫のもたらすとされる災いを恐れて、決して手を出してくるようなことはなかった。
誰からも好かれないことに傷つかないわけではない。
それでも、実害がない以上は平穏な日々を過ごせせる何でもない毎日だった。
今日、これから起こるであろうことに比べれば。
半日で学校を終え、急いで家に帰った寧寧はいつになく機嫌の良い葛子に広間に呼び出される。
そして、女中たちによってそこに用意されていた衣装を着付けられる。
黒の打掛と角隠し、そして口には真っ赤な紅を引かれる。
婚礼の衣装だ。
「よく似合ってるよ」
葛子は今にも歌い出しそうなほどの明るい声で、顔には笑みを湛えている。
寧寧の心はそれと反比例するように不安に押しつぶされそうに重く息苦しくなっていく。
「迎えの車が来たようだね」
黒塗りの自動車が、狐塚家の門前に横付けされている。
その後部座席に、打掛姿の寧寧がただ一人で乗せられた。顔には目隠しの白くて細い布が巻かれている。
ここから婚姻肩代儀が終わるまで、寧寧は何も見ることが許されない。
車の揺れを感じながら、ただただ心臓を高鳴らせ自分の宿命を呪うことしかできないのだ。
—— 『もう良い。お前のような無礼なものは——』
競争の日、不正を訴えた猫に神様が何を言ったのか。
それこそが婚姻肩代儀の始まりである。
しばらくして車が止まり、後部座席のドアが開けられる。
目隠しをされた寧寧は、手を取られ案内されるがまま、日本家屋らしき建物に入った。
畳の感触と匂いを感じながら正座で待っていると、ぞろぞろと人の入ってくる気配を感じた。
「ほう、これが猫か」
「こうして見ると案外普通だな」
「目が隠れているからでしょう?」
「どんな声で鳴くんだろうねぇ」
彼らは寧寧を品定めするような発言を繰り返すと、寧寧をぐるりと取り囲むように腰を下ろしたようだった。
声の主は男女が入り交じっておそらく十一人。しかし部屋には寧寧以外に十二人が座しているはずだ。
なぜなら、彼らこそが倭支國の十二の方角を治める頭領、十二支だからだ。
【婚姻肩代儀】
それは十二支のうちのどの家に猫が嫁ぐのか、十二支が話し合い決める場である。
猫が生まれるのと同じ周期、干支が十二周した翌年つまり一四五年に一度執り行われる。
神様はあの時こう言った。
『もう良い。お前のような無礼なものは慰み者としてこの十二の頭領たちに永遠に尽くし従うがいい』
〝慰み者として〟〝永遠に尽くし従う〟
それこそが猫が神から言い渡された罰であり、猫の宿命である。
十二支の競争からこれまでに八度、この婚姻肩代儀があったと言われている。
十二支のいずれかの家に引き取られた猫は、時に大切な花嫁として扱われ、時に奴隷として扱われ、時に——その場で殺されることもあったという。
つまりこの場では、猫の運命は、命は、十二支の手中にあるのだ。
なぜ〝肩代〟なのか。
それは——。
「うちには猫はいらないよ。ちょうど業績が上がっている時期なのだから」
そう言ったのは、紡績業を営む未だった。
彼らは皆、目の見えていない寧寧に丁寧に声で自己紹介をしてから話した。
「そんなこと言ったらうちにだっていりませんよ。大体うちの当主は代々女と決まっているのだから忌み嫁どころか花嫁だっていらないわ」
美術商を営む巳が言った。
そう、十二支たちは決して猫を嫁に欲しがっているわけではない。
「いらないと言って辞退できるのならそうしていますよ、家を不幸にするかもしれない忌み嫁なんて」
子が言う。彼の家は製粉業で財を成している。
猫は家を繁栄させるとも没落させるとも言われてきた。
神の不興をを買った猫の原罪を十二支が肩代わりするのがこの儀の名前の由来だ。
もちろん本当に没落するようなことは頭領である十二支にはあり得ない。
しかし運良く猫が家を繁栄させてくれればいいが、そうでなければ業績が向こう三十年は悪化すると言われ、それを取り返すため必死に業績立て直さなければいけなくなるのだ。
そして、猫を引き取ることになった家から四家へ結納金も支払わなければいけない習わしもある。
しなくて良い苦労や出費はしないに越したことはない。だから各々理由をつけて猫を押し付け合うことになる。
そしていらない猫を引き取った頭領は、その性格次第では猫を殺してしまうのだ。
「前回は申の家だったな」
子が伝統芸能家系の申に聞いた。
「ああ、一四五年前は運悪くうちで引き取ることになって、芸が途絶える寸前まで言ったと聞いている。先代は猫を今でも恨んでいるね」
その言葉に、寧寧の心臓が不安でギュッと縮み上がる。
(申の家に行けば、すぐに殺されてしまうかもしれない)
それからしばらくは、それぞれの家が猫を引き取りたくない理由をつらつらと挙げていく時間が続いた。
「どうやらどの家も引き取りたく無いようだね」
そう言ってため息をついたのは子だった。
「では仕方ない、今回はうちで——」
「今回はうちが猫を嫁にもらおう」
一刻ほどの長い時間で、初めて聞く声だった。
(え……? この声、どこかで)
低く落ち着いた声に聞き覚えがあったが、寧寧はそれをどこで聞いたのか思い出せない。
「今まで一言も話さなかったくせに、急に嫁にもらうとはどういう風の吹き回しだ? 戌よ」
聞いたのは申だった。
(戌……?)
「誰も引き取りたいと言わないのだから、嫁に欲しいと言っている我が家で引き取るのは構わないだろう?」
「いや、だから今、私の家で引き取ると」
「なんだ? 子は、本当は猫を引き取りたいのか?」
「い、いや」
子の声が焦りはじめたのが寧寧にも伝わる。
「ならばいいだろう?」
「しかしそれはあまりにも身勝手な——」
「身勝手? そうか。では本人に選ばせるのはどうだ?」
「本人?」
その場にいた全員が戸惑った声を出した。
「猫本人に選ばせる。彼女の命に関わることだ、それくらいの権利はあるだろう」
そう言った戌らしき者が自分に近づいてくる気配を寧寧は感じた。
「寧寧、お前自身で目隠しを外せ」
戌は寧寧の耳元で囁いた。
「え……」
「いいのか? このままでは子に殺されるぞ? 自分の運命は自分で選べ」
その声に、寧寧は声の主の顔を思い浮かべた。
「おい戌! 勝手が過ぎるぞ」
申が子に加勢するように言うのが聞こえたが、寧寧は目隠しに手をかけするりとそれを外した。
急な明るさにゆっくりと馴染んでいく視界が真っ先に映したのは、黒の紋付き袴を着た黒髪の若い男だった。
聞き覚えのあった声に反して、初めて見る顔をしている。
しかし寧寧には彼が誰なのかすぐにわかった。
「白銀様……?」
青藍と鼈甲の瞳が寧寧をとらえていたからだ。
「久しぶりだな、寧寧」
寧寧は、つま先から頭のてっぺんまで、心底安堵するのを感じた。
「私はお前を不幸にはしないよ。どうする? 寧寧、選ぶのはお前だ」
—— 『お前がはっきりと口に出して助けを請えば、必ず私に届く』
「た、助けて……助けてください、白銀様」
寧寧は泣きながら、生まれて初めて人に助けを請うた。
『一月一日元日の朝、私のもとを訪れたものを、お前たちの頭領にしてやろう』
動物たちは騒めきます。
〝頭領〟になれば、他の動物たちを自分の思うがままに操る事ができます。
しかし、なれなければ?
未来永劫、頭領に逆らうことは許されないのです。
『恐れながら神様』
口を開いたのは、小さな鼠でした。
『選ばれる動物は一種類のみでしょうか?』
神様は訝しそうな顔をしました。
『選ばれるのが最初に神様のもとを訪れた一種類のみであれば、私のような小さくか弱いものには些か条件が不利かと』
鼠は、集っている動物たちを見渡すようにしながら言いました。
『身体の大きな龍や、威勢の良い虎、脚の速い馬に敵うとは到底思えません。それに一つの血筋が権力を握れば悪政が蔓延りましょう。どうかお慈悲をいただけませんか?』
神様は、鼠の言うことも一理あると頷きました。
『よかろう。それでは十二番目の動物までを頭領とし、それぞれに力を授けよう。間に合わなかった動物たちはそれぞれの頭領の眷属とする』
かくして、今も伝わる元日の十二支の競争が行われました。
一番になったのは、なんと神様に進言したあの小さな鼠でした。
そして、十二の動物が出揃います。
〝子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥〟
頭領になった者たちには、神様から新たな名も授けられました。
順当に十二の動物が決まり、国の未来も安泰だと皆胸を撫で下ろします。
しかし、一匹だけ納得がいかないという表情を浮かべているものがいました。
『神様!』
息を切らして前に出たのは、競争で十三番目になった猫でした。
『どうした』
『恐れながら、この競争には不正がありました』
動物たちはどよめきます。
『そうでなければ鼠が一番になるなど、どう考えても——』
『黙れ!』
神様は瞳孔を開いて猫を睨みつけます。声は地の底から聞こえているかのように低く、怒りが露わです。
『しかし』
猫は震える声で食い下がろうとしました。
『お前は神である私の決定にケチをつけようと言うのだな』
『いえ、決してそのようなつもりは——』
『もう良い。お前のような無礼なものは——』
続く神様の言葉に、猫は膝から崩れ落ちて絶望しました。
こうして十二の方角それぞれに頭領が屋敷を構え守護る国が誕生しました。
これが〝倭支國〟の始まりの物語。
◇
倭支國。
この国はかつて東に存在し、今はもう滅びてしまった日本という国と友好関係を結んでいたことから文化がよく似ている。住宅街には日本家屋が多く見られるが、街にはモダンな煉瓦造りの建物が立ち並ぶ。着物や袴、それに西洋の服に身を包むものが往来し、都会では自動車も珍しくない。
そしてここは倭支國の首都、干都。
歪な円形をしたこの島国の中心に位置する都市である。
降り積もった雪の溶けない、如月と呼ばれる冬の月初め。
「寧寧! 寧寧はいないのか!」
朝の陽光が差し込む平屋造りの広い屋敷に、恰幅の良さを感じさせる低い男性の声が響き渡る。この家の主人、狐塚葉一郎である。
「はい! 旦那様!」
少女、寧寧が慌てた様子でやんわりとウェーブのかかった茶色い髪をなびかせ廊下をパタパタと走る。一目見ただけで質素とわかる煤色の着物の、襷掛けした袖をほどきながら。
「大変お待たせいたしました」
寧寧は和室の入り口近くの廊下で平伏するように座して三つ指をついた。
「まったく、いつまで待たせる気だ」
立派な座卓の向こうで腕を組んだ着物姿の葉一郎は、嫌味なほどの大きなため息をついた。
「本当に愚図ねえ」
彼の隣で、深い葡萄色の着物を身に纏った妻の葛子が蔑んだ目を向けたのが、顔を上げないでいる寧寧にもわかる。いつもそのような視線を向けられているからだ。
「婚姻肩代儀の日取りが決まった」
葉一郎の言葉に、寧寧の心臓がギクリと音を立てる。
「お前の十八の誕生日だ」
「はい」
寧寧は頭を伏せたままで答える。
「いいか、当日はくれぐれも粗相の無いようにするんだぞ」
「はい。承知いたしました」
「〝猫〟のお前を育ててやった恩を忘れるんじゃないよ」
葛子が笑みを孕んだ声で言う。
「どの家も国の頂に立つ名家だからね、どの家だろうと構わない。しっかりとご縁を結んで、狐塚家にしっかり恩返ししてちょうだいね。十八まで育ててやった上に学校にも通わせて、花嫁修行もさせてやったんだ」
「…………」
寧寧の唇に少しだけ力が入る。
「返事は?」
威圧感を感じさせる葛子の声に、寧寧は思わずパッと顔を上げた。
「誰が顔を上げていいと言った?」
目の前には、着物を着た雌の狐が寧寧を睨みつけるような表情で座っている。
寧寧は慌てて頭を伏せ直した。
「は、はい、奥様。ご恩は必ずお返しいたします」
結局寧寧は顔を上げることを許されないまま、それどころか部屋に入ることも許されないまま退がるよう命ぜられた。
しかしそのことに彼女の胸が痛み傷つくことはない。幼少期から、それを当たり前のこととして育てられてきたからだ。
寧寧の眼前で、襖がひとりでにピシャリと閉まる。
もちろん勝手に閉まったのではない。葉一郎が、〝異能〟と呼ばれる一種の超能力でそうしたのだ。
十二支の物語で始まったといわれるこの国の人々はみな、位に差はあれど神に仕える動物の血を引くとされ、不思議な能力を有している。物を動かす念動力程度はみな当たり前のように持ち、また、それぞれに特殊な能力を有する者もいる。
例えば葉一郎や葛子は炎を操るいわゆる狐火の能力を持っているし、他にも千里眼や空中浮遊の術を使うものなど様々だ。
そして、位が上の動物の血を引く家系の者の血は濃く、先ほどの葛子のように現代においても動物の姿に変身することができる。それは野生的な本能に最も近い能力であるため、自らの意思で変身することもあれば、葛子のように感情の昂りで変身してしまうこともあるのだ。
動物の〝位〟の最上位はもちろん領地をおさめる頭領である十二支。
その下に鹿や狐といった動物たちが順に名を連ねる。順といっても、十二支以外の動物たちは彼らに仕える身であるため、その身分にそれほどの差はない。ただ一種類の動物を除いては。
この国で最も位が低く、蔑まれ、忌み嫌われる存在、それこそが神の不興を買った存在である猫であり——寧寧である。
『あれが猫か……気味の悪い目をしている』
『髪の色も、肌の透けるような白さも薄気味悪いわ』
『猫に睨まれると災いが降りかかるらしい』
寧寧が街を歩けば、そこかしこから噂話をする声が聞こえてくる。その声は、視線は、悍ましいものを見た時のそれである。
寧寧は物心つく頃には狐塚の家に暮らしていた。
彼女の意思でも、狐塚の意思でもない。ただ順番に従っただけだった。
一四五年に一度生まれる猫の娘を、狐、鹿、烏、狸の四家で順に預かり育てるというのが古からの決まりごとで、それが今回は狐の番であった。ただそれだけのことだ。
〝花嫁修行〟と言えば聞こえはいいが、葛子が寧寧にさせてきたのは奉公人にさせるような家事の全てであった。
一年中休みなく、早朝から奉公人に混ざり炊事や洗濯、家の掃除をし、学校から帰れば夕飯の支度をし、風呂を炊き、誰よりも遅く就寝するような生活をしてきた。
それでも葉一郎や葛子が罪悪感を抱くようなことは決してない。
この日も、呼び出されるまで寧寧は家中の長い廊下の雑巾がけをしていた。
閉じた襖を前に、寧寧は「ふう」とため息をつき、指先の赤くなった手を見つめる。
踏みしめればしっかりと足跡が残るような深い雪の残る季節、湯を使うことなど許されない寧寧は、凍るような冷たさの水で炊事をし、雑巾掛けをした。
白く滑らかだった指先は、霜焼けで赤く爛れたようなひどい見た目に変わっている。
「痛い……」
ぽつりとつぶやくと、彼女はもう一度、今度は小さくこぼすようにため息をついて指先に口づけた。
すると、寧寧の指は先の方からみるみるうちに輝くような白さを取り戻していき、あっという間に元の雪のような白い肌になった。
〝治癒〟
それが猫である彼女の持つ異能だ。
霜焼け程度の小さな傷であればこんな風にすぐに治してしまう。
それどころか、大きな傷でも口づけで治すことができるほどの能力である。
ただし、ひどい傷を治すにはそれなりの代償がある。能力を使った後に高熱を出して寝込んでしまうのだ。
葉一郎や葛子は、自身や夫妻の子どもたちが怪我をすれば寧寧に治癒の能力を使わせた。しかしその代償に寧寧が高熱を出して寝込めば『家事もできない役立たず』と侮蔑の言葉を投げかけた。
そしてこの異能こそが、彼らが寧寧を虐げることに罪悪感を抱かない原因でもある。
家事で怪我をしても、折檻で傷ついても、寧寧には傷一つ残らない。
彼らはそんな寧寧を気味悪がり、半ば畏れながらもストレスの捌け口として都合よく虐げてきたのだ。
それでもこの狐塚家が、今の寧寧にとっての唯一の居場所と呼べる場所だ。
猫がどこで生まれるのか、それは誰も知らない。
一四五年に一度、どこかで生まれた猫の赤子が四家の門前に何者かの手によって置き届けられる。
倭支國では寿命一五◯年を超えるものも稀に現れるため、一四五年に一度というのもあり得ないとは言えない。ただしそれは、猫以外の動物の子孫たちであれば、だ。
猫は現れるたびに一匹、それも決まって女であると伝えられている。
他の種族と交わって子を成した猫もいたが、そのすべてが猫ではない子を産んだ。
〝猫から猫は生まれない〟
いつしかそれが定説となっていた。
それでは猫はどこで、どのようにして生まれるのか?
その得体の知れなさもまた、人々に猫という存在を気味悪がらせる一因となった。
そしてそれは自分の出自がわからず、親の存在に想いを馳せることもできない寧寧にとって、孤独を募らせる原因である。
どんなに寂しくても苦しくても、心を閉ざして狐塚の家にすがるほかないのである。
またため息をついたところで、不意に朧げな記憶が寧寧の脳裏を撫でるようにかすめる。
——『その時は必ず私がお前を助けよう』
(え……?)
今まで忘れていた、幼少の記憶。
(あれは……)
◇
それは、寧寧が十歳の頃のこと。
葛子にお遣いを言い付けられた寧寧は、狐塚家の近くの商店に買い物に出かけた。当然のように店主や他の買い物客からは冷たい視線を浴びせられたが、この頃にはもう寧寧は己の立場を理解して傷つかないよう心を閉ざすようになっていた。
その帰り、神社の近くを通りがかった。
その神社は干都の北東つまり鬼門に鎮座し、その奥の林は禁足地となっている神聖な場所だ。
その日は、林の木々がまるで落ち着きなく騒めいているようだった。
(何かいる)
寧寧は、それまでに感じたことのない獣の気配を感じた。
普段なら決して寄り道などはしない彼女だが、その強烈な気配に、好奇心に抗うことができず林へと足を踏み入れてしまった。
『きゃっ』
林に入ってすぐに血溜まりで足を滑らせそうになった。
見れば、大きな獣が血を滴らせて倒れている。かろうじて血のついていない箇所から、白い獣なのだとわかる。乾き始めたような血の筋もあることから、怪我をして時間が経っているのであろう。
(苦しそう……)
血で固まった毛並みは鈍く上下を繰り返し、事切れそうな呼吸を感じさせた。
(このままでは、死んでしまう……?)
『……お前は……誰だ』
突然の低い声に寧寧の肩がビクリと跳ねた。
『……け、怪我、してる……』
寧寧は上手く言葉を紡げず、それだけぽつりと口にした。
『……去れ……』
獣は苦しそうに言葉を発する。苦しさからか、怒りにも似た余裕のなさを感じる声色だが、不思議と恐怖は感じない。
寧寧は衝動的に一歩駆け出して膝をつくと、小さな手で獣の前脚を掬い上げるように持ち上げた——そして、口づける。
『何を——』
獣の身体は、寧寧の口づけた脚の先から徐々に傷が塞がり、血の跡も消えていく。小半刻ほどですべての傷が塞がり、地面に滴っている分以外の血は消えてしまった。
寧寧はごくりと息を飲んだ。
目の前の大きな獣は白といういうよりは銀色の艶やかな毛を輝かせ、気品に溢れた瞳で寧寧を見つめている。
〝高貴な家の人間だ〟
獣に人間というのもおかしい気がするが、倭支國では当たり前の表現だ。ともかく、銀色の獣は幼い寧寧にも只者でないことを一目で理解させたのだ。
『お前は——』
続く一言が、呆然としていた寧寧の心臓を恐怖で軋ませる。
『ひょっとして、猫か?』
彼女は咄嗟に、土下座するように手と頭を地面につけた。
『わ、私のような者が、あ、あなた様のようなお方に触れてしまい申し訳——』
『何を言っているんだ』
獣は呆れたようにため息をついた。
『顔を上げろ』
寧寧が恐る恐る顔を上げると、再び獣と目が合う。
『私と同じ……』
思わずつぶやいてしまった。その目が、左右で違う色をしていたから。
寧寧の目は右が青藍色、左が鼈甲色をしている。目の前の瞳は、ちょうど鏡に映したように反対の色をしている。
『私の質問に答えてくれないか? この地に軽々と足を踏み入れることができ、治癒の能力を持つ……そしてその瞳、お前は猫なのであろう?』
寧寧は観念したようにコクリと頷いた。
〝この地に軽々と足を踏み入れることができ〟その意味はわからなかったが。
(高貴な方に私のような卑しいものが触れて、きっと咬み殺されてしまうんだわ)
『やはりそうか』
心臓の音に全身を支配されてしまった寧寧の予想に反して、獣はぺこりと頭を下げた。
『助かった。礼を言う』
『え……』
『お前が現れなければ、私は間違いなく命を落としていた』
『え……えっと……』
——〝礼を言う〟
『…………』
気がついたら、寧寧の頬を生暖かいものが伝っていた。
『ああ、ひょっとして怖がらせてしまったか』
『ち、違……』
彼の言葉に、寧寧は必死で首を横に振った。
『……違うんです、えっと——』
それは、彼女が生まれて初めて他者からもらった感謝の言葉だった。
『…………っ』
自分も礼を返したいのに、胸が詰まってしまい上手く言葉が出てこない。
寧寧がうつむいて困っていると、頬を暖かい何かが撫でた。
目を開くと、彼が寧寧の頬に優しく鼻先をつけ、涙をぺろぺろと舐める。
『ふふっくすぐったい』
寧寧が笑うと、彼はどこかほっとしたように小さく息を漏らした。
そして、何かを探るようにもう一度くんくんと寧寧の頬に鼻先を近づけた。
『お前は不思議なにおいがするな』
『え?』
『陽のにおいと陰のにおい、二つのにおいが混ざり合っているようだ』
寧寧には彼の指摘にまったく心当たりがなくキョトンとするばかりだ。
『……まあいい。何か、助けられた礼をしよう。何でも望みを言え』
『えっ』
『物でも金でも、好きに言ってみろ』
寧寧はまた、首をぶんぶんと横に振る。
『そ、そんな! お礼だなんてめっそうもない』
『子どもが遠慮することはない』
『い、いえ、本当に結構です。いただいても、持って帰ることができません』
狐塚の家で、寧寧が自分の意思で何かを所有することは許されない。
ましてや金品など、すぐに取り上げられるのが目に見えている。
戸惑う寧寧の様子に、彼はまたため息をついた。
(ああ……せっかくのご厚意に、失礼なことを言ってしまったんだわ)
寧寧はまたうつむいて、瞳にはじんわりと涙が浮かんできた。
『わかったから、顔を上げろ』
その言葉に、泣きそうになっている顔を上げる。
『いつかお前が困ることがあれば、その時は必ず私がお前を助けよう』
『え……そんなこと』
『お前がはっきりと口に出して助けを請えば、必ず私に届く』
そんなことができるものなのかと寧寧は不思議に思ったが、目の前の瞳は戯言を言っているとも嘘をついているとも思えない。
『それが礼ということで許してくれるか?』
寧寧はコクコクと、今度は首を縦に振った。
『そうか、では今日のところはこれで失礼させてもらうとしよう』
『あ、あの……!』
立ち去ろうとした彼が寧寧の方を見る。
『お名前を教えていただけませんか?』
誰かに何かを請うたことに、寧寧自身が一番驚いていた。
その様子に、彼はやんわりと目を細めた。
『白銀だ』
『白銀様……あ、えっと、私は——』
『知っている。寧寧だろう?』
『え? どうして……』
一瞬、獣である彼が微笑んだように見えた。
『時がくれば、そのうちまた会うだろう。その時にすべてわかるはずだ』
寧寧がまた不思議そうな顔をしている間に、白銀と名乗った彼は疾風のような速さでどこかに駆けていってしまった。
◇
あの日家に帰ると、予定より半刻も帰りの遅れた寧寧に葛子が怒り狂って厳しく折檻した。
そして、白銀のひどい怪我に治癒を使ったことで翌日から数日、寧寧は高熱を出して寝込んでしまった。
そのせいかあの日のどこか現実味のない記憶、そして白銀との約束は今日の今日まですっかり記憶から抜け落ちていた。
(どうして急に思い出したのかしら……)
白銀の瞳を思い出した寧寧の心臓は、本人も気づかないほどの微かな脈を打った。
◇
半月後。
「本当に気味が悪いったらないわ。どうしてうちの学級なのかしら」
寧寧は女学校の教室で、いつものように自分の席に座っている。
ただ座っている、それだけなのに周りの噂する声が騒がしい。
寧寧はこの学校に初等科から通っている……というより、世間体を気にした狐塚夫妻に押し込まれたと言った方が正しいのかもしれないが。
しかし十八歳になる今日まで、友だちと呼べる存在はついにできなかった。
皆、猫を気味悪がって近づこうとしないため、席は一人一番後ろの離れた場所。体育などで二人一組や班を作らなければいけないものは、誰も寧寧と組もうとしないため、寧寧の方から気を使って不参加を申し出るようになった。
それでも、勉強をするのが好きな寧寧にとって、学校は狐塚の家から離れられる平和な時間であった。
周囲は寧寧にわざと聞こえるように陰口を言うことがあっても、猫のもたらすとされる災いを恐れて、決して手を出してくるようなことはなかった。
誰からも好かれないことに傷つかないわけではない。
それでも、実害がない以上は平穏な日々を過ごせせる何でもない毎日だった。
今日、これから起こるであろうことに比べれば。
半日で学校を終え、急いで家に帰った寧寧はいつになく機嫌の良い葛子に広間に呼び出される。
そして、女中たちによってそこに用意されていた衣装を着付けられる。
黒の打掛と角隠し、そして口には真っ赤な紅を引かれる。
婚礼の衣装だ。
「よく似合ってるよ」
葛子は今にも歌い出しそうなほどの明るい声で、顔には笑みを湛えている。
寧寧の心はそれと反比例するように不安に押しつぶされそうに重く息苦しくなっていく。
「迎えの車が来たようだね」
黒塗りの自動車が、狐塚家の門前に横付けされている。
その後部座席に、打掛姿の寧寧がただ一人で乗せられた。顔には目隠しの白くて細い布が巻かれている。
ここから婚姻肩代儀が終わるまで、寧寧は何も見ることが許されない。
車の揺れを感じながら、ただただ心臓を高鳴らせ自分の宿命を呪うことしかできないのだ。
—— 『もう良い。お前のような無礼なものは——』
競争の日、不正を訴えた猫に神様が何を言ったのか。
それこそが婚姻肩代儀の始まりである。
しばらくして車が止まり、後部座席のドアが開けられる。
目隠しをされた寧寧は、手を取られ案内されるがまま、日本家屋らしき建物に入った。
畳の感触と匂いを感じながら正座で待っていると、ぞろぞろと人の入ってくる気配を感じた。
「ほう、これが猫か」
「こうして見ると案外普通だな」
「目が隠れているからでしょう?」
「どんな声で鳴くんだろうねぇ」
彼らは寧寧を品定めするような発言を繰り返すと、寧寧をぐるりと取り囲むように腰を下ろしたようだった。
声の主は男女が入り交じっておそらく十一人。しかし部屋には寧寧以外に十二人が座しているはずだ。
なぜなら、彼らこそが倭支國の十二の方角を治める頭領、十二支だからだ。
【婚姻肩代儀】
それは十二支のうちのどの家に猫が嫁ぐのか、十二支が話し合い決める場である。
猫が生まれるのと同じ周期、干支が十二周した翌年つまり一四五年に一度執り行われる。
神様はあの時こう言った。
『もう良い。お前のような無礼なものは慰み者としてこの十二の頭領たちに永遠に尽くし従うがいい』
〝慰み者として〟〝永遠に尽くし従う〟
それこそが猫が神から言い渡された罰であり、猫の宿命である。
十二支の競争からこれまでに八度、この婚姻肩代儀があったと言われている。
十二支のいずれかの家に引き取られた猫は、時に大切な花嫁として扱われ、時に奴隷として扱われ、時に——その場で殺されることもあったという。
つまりこの場では、猫の運命は、命は、十二支の手中にあるのだ。
なぜ〝肩代〟なのか。
それは——。
「うちには猫はいらないよ。ちょうど業績が上がっている時期なのだから」
そう言ったのは、紡績業を営む未だった。
彼らは皆、目の見えていない寧寧に丁寧に声で自己紹介をしてから話した。
「そんなこと言ったらうちにだっていりませんよ。大体うちの当主は代々女と決まっているのだから忌み嫁どころか花嫁だっていらないわ」
美術商を営む巳が言った。
そう、十二支たちは決して猫を嫁に欲しがっているわけではない。
「いらないと言って辞退できるのならそうしていますよ、家を不幸にするかもしれない忌み嫁なんて」
子が言う。彼の家は製粉業で財を成している。
猫は家を繁栄させるとも没落させるとも言われてきた。
神の不興をを買った猫の原罪を十二支が肩代わりするのがこの儀の名前の由来だ。
もちろん本当に没落するようなことは頭領である十二支にはあり得ない。
しかし運良く猫が家を繁栄させてくれればいいが、そうでなければ業績が向こう三十年は悪化すると言われ、それを取り返すため必死に業績立て直さなければいけなくなるのだ。
そして、猫を引き取ることになった家から四家へ結納金も支払わなければいけない習わしもある。
しなくて良い苦労や出費はしないに越したことはない。だから各々理由をつけて猫を押し付け合うことになる。
そしていらない猫を引き取った頭領は、その性格次第では猫を殺してしまうのだ。
「前回は申の家だったな」
子が伝統芸能家系の申に聞いた。
「ああ、一四五年前は運悪くうちで引き取ることになって、芸が途絶える寸前まで言ったと聞いている。先代は猫を今でも恨んでいるね」
その言葉に、寧寧の心臓が不安でギュッと縮み上がる。
(申の家に行けば、すぐに殺されてしまうかもしれない)
それからしばらくは、それぞれの家が猫を引き取りたくない理由をつらつらと挙げていく時間が続いた。
「どうやらどの家も引き取りたく無いようだね」
そう言ってため息をついたのは子だった。
「では仕方ない、今回はうちで——」
「今回はうちが猫を嫁にもらおう」
一刻ほどの長い時間で、初めて聞く声だった。
(え……? この声、どこかで)
低く落ち着いた声に聞き覚えがあったが、寧寧はそれをどこで聞いたのか思い出せない。
「今まで一言も話さなかったくせに、急に嫁にもらうとはどういう風の吹き回しだ? 戌よ」
聞いたのは申だった。
(戌……?)
「誰も引き取りたいと言わないのだから、嫁に欲しいと言っている我が家で引き取るのは構わないだろう?」
「いや、だから今、私の家で引き取ると」
「なんだ? 子は、本当は猫を引き取りたいのか?」
「い、いや」
子の声が焦りはじめたのが寧寧にも伝わる。
「ならばいいだろう?」
「しかしそれはあまりにも身勝手な——」
「身勝手? そうか。では本人に選ばせるのはどうだ?」
「本人?」
その場にいた全員が戸惑った声を出した。
「猫本人に選ばせる。彼女の命に関わることだ、それくらいの権利はあるだろう」
そう言った戌らしき者が自分に近づいてくる気配を寧寧は感じた。
「寧寧、お前自身で目隠しを外せ」
戌は寧寧の耳元で囁いた。
「え……」
「いいのか? このままでは子に殺されるぞ? 自分の運命は自分で選べ」
その声に、寧寧は声の主の顔を思い浮かべた。
「おい戌! 勝手が過ぎるぞ」
申が子に加勢するように言うのが聞こえたが、寧寧は目隠しに手をかけするりとそれを外した。
急な明るさにゆっくりと馴染んでいく視界が真っ先に映したのは、黒の紋付き袴を着た黒髪の若い男だった。
聞き覚えのあった声に反して、初めて見る顔をしている。
しかし寧寧には彼が誰なのかすぐにわかった。
「白銀様……?」
青藍と鼈甲の瞳が寧寧をとらえていたからだ。
「久しぶりだな、寧寧」
寧寧は、つま先から頭のてっぺんまで、心底安堵するのを感じた。
「私はお前を不幸にはしないよ。どうする? 寧寧、選ぶのはお前だ」
—— 『お前がはっきりと口に出して助けを請えば、必ず私に届く』
「た、助けて……助けてください、白銀様」
寧寧は泣きながら、生まれて初めて人に助けを請うた。