「お疲れ様、よく頑張ったな――って、ギリギリまで来なかった奴が、どのツラ下げて言ってんだって話だけど」
ステージの暗幕が下がると、悟さんは自分が着ていた黒のブレザーをそっとわたしの肩にかけてくれた。そんなさりげない彼の優しさに一瞬、ドキッとしてしまう。
「気に食わなかったらさ、一発思いっきり引っ叩いてくれていいよ、俺のこと」
すまなさそうに自分の顔を指さす悟さんに、わたしは思わず、くすっとしてしまった。
「できませんよ、そんなこと。だってわたし、悟さんの顔に傷なんてつけたくないですから」
そこでやっと悟さんの頬が、ほっと安心したように緩む。それから彼はわたしの方へ手を差し出してきて、
「次の発表もあるから、とりあえずここから移動しよう。立てる?」
わたしはうなずいて、彼の手を取った。温かい……。
たったそれだけで、さっきまで極度の不安と恐怖でこわばっていた全身が、まるで嘘のようにやわらいでいく。悟さんの手には、わたしを落ち着かせてくれる不思議な作用でもあるんだろうか。
「浅野さん!」
ステージ発表を終え、悟さんと一緒に舞台裏にやってくると、上の放送室の階段から忙しなく下りてきた木暮さんにいきなり抱きつかれた。
「こ、木暮さん!?」
「――ごめんねっ」
それが何に対しての謝罪なのかわからず、わたしは戸惑った。
「何も木暮さんが謝るようなことじゃないですよ。さっきはわたしがしくじっただけですし……」
「ううん、そんなことない! 浅野さんは今日のためにすごく頑張ってくれたよ! ちょっと働きすぎて、倒れちゃうんじゃないかって心配になるくらい」
そりゃまぁ確かに、自分から実行委員を名乗り出たからには絶対、成功させなきゃとは思ってたけど……。
「なのに私、さっき浅野さんがステージ出てる時もどうしたらいいかわかんなくて……何もできなかった、友達なのに」
友達。その時、木暮さんがわたしのことをちゃんと友達だと認識してくれていた事実に、場違いにも嬉しいと思ってしまった自分がいた。
「ありがとう……」
「えっ……?」
感極まるあまり口をついて出た言葉に、木暮さんがきょとんと目を丸くしてわたしを見る。そんな彼女にわたしは左手の親指を掲げて、グッドサインを作った。
「CDの担当、木暮さんだったよね。曲流すの、ナイスタイミングだったから」
木暮さんの涼やかな瞳が、大きく見開く。ぱっと笑顔を見せた彼女はもう一度、わたしをぎゅっと胸に引きよせるようにハグをした。
「よかったな」
かすかに喜びをにじませたようなつぶやきに、わたしはそこでようやく忘れかけていた悟さんの存在を思い出す。彼はどこか微笑ましそうな面持ちを浮かべ、わたし達を見ていた。
やがて木暮さんも、まるで我が子を見守るような悟さんの視線に気付いて、
「残りはこっちでやっておくからさ、浅野さんは後はゆっくり休みなよ」
「でも、まだ仕事が……」
「いいっていいって。浅野さん、ただでさえ今日、朝早くから準備してくれてたんだし。足りない分は私が助っ人呼んでくる」
木暮さんはそう言ってくれているけど、本当にいいのかな……。
それでもまだちょっと渋っているわたしの耳元に、木暮さんはそっと顔をよせて、
「うわさになってる”彼氏さん”、なかなか男前だね」
「なっ……」
中途半端な声を喉でつまらせたわたしに、木暮さんはさらなる追い討ちをかける。
「話はまた今度、じーくり聴かせてもらうから」
トンとわたしの肩に手を置くなり、木暮さんは「それじゃ私はここで」と、わたしに弁明の余地すら与えることなく涼しい顔で去っていく。ど、どうしよう……。
まさか自分のまいた種がそこまで行き渡っているとは。とっさに口が滑ったとはいえ、いくらなんでも軽率だった。
「何話してたんだ?」
「な、なんでもないです……ただ、この後の予定の確認を」
たどたどしい口調になるわたしに、悟さんはどこかまだ神妙そうに首を傾げていたけれど、それ以上は突っこまないでくれた。穴があったら入りたい……。いや、まぁ全部、わたしの自業自得だけどもっ。
「あの……」
「あのさ」
声が重なったのは、まったくと言っていいほど同時だった。まるであらかじめ示し合わせたかのように。
「あっ、ごめん、タイミングミスったわ」
「い、いえ、こちらこそ……」
なんとも言えない、歯がゆい沈黙がおりる。お互い間が持たなくなっていると、先に切り出してきたのは悟さんだった。
「今、ちょっとだけでも時間とれないかな? 浅野と二人っきりで話がしたいんだ」
気まずくなって伏せていた顔をあげると、普段は少し気怠げな彼のふちの深い瞳が、今は真剣にわたしを見ていた。
それからまた少し場所を移動したわたし達は、ちょうど空いていた中庭のベンチに二人並んで座った。体育館ではまだ引き続きステージ発表が行われていて、にぎやかな声がかすかに漏れてここまで聞こえてくる。
「あの、どうして、わかったんですか……? きっと悟さんはもう気付いてるんですよね。わたしの正体がその……Asahiだってこと」
悟さんは手持ち無沙汰に、中庭の中央にある紅葉の木を見上げていた。こっちを振り向くその拍子に彼の長いもみあげ一本一本が、まるでそよりと音を立てるようにやわらく風に揺れる。
「それはお前が、浅野光だから」
「はい……?」
一瞬、彼が何を言っているのかわからなかった。数秒、停止して考えて、もしやと思った。悟さんは気付いたのかもしれない。わたしのAsahiという名前の由来に。
「あれ、もしかして違った? 俺はてっきり浅野光って本名から変換して”朝の光”になるからAsahiなんだと思ってたけど」
「あっ、いえ……あってますよ」
ずばり言い当ててみせた悟さんは、ちょっと得意げな顔でにっと笑った。
「でも、たったそれだけで?」
「ううん、違うよ。俺、浅野みたいにそんなに頭よくないからさ。実際のところ、名前は後から気付いたみたいなもんで、正直、”それ”がなかったらわからなかったと思う」
「それ……?」
悟さんの視線の先を目で追うと、そこには完全に盲点だった”その存在”があった。
「あっ……」
「ミサンガ、本当にずっと付けててくれてるなんて思わなかった。お前って、そういうところ律儀だよな。でも、ありがとう。そんなに大事にしてくれてるんだって知ったら、すごく嬉しかった」
ちょっと照れくさそうに笑いながら、悟さんは頬をかいていた。
「……わたしは知られたくなんてなかったですよ、悟さんにだけは」
「どうして?」
「だって、まるで別人みたいだったでしょう? 今のわたしと」
「そりゃまぁ最初は驚いたけど……でも、だから何だって言うんだ?」
「がっかりしてないですか?」
「がっかり?」
「あれが本当のわたしなんです。なのに、悟さんはなんとも思わないんですか?」
「んー……」
食い気味に迫ったわたしに、悟さんは眉間にしわを寄せ、うなっている。それからわずか数秒して、「ぶっちゃけたこと言うとさ」と、もたげていた頭をあげた。
「俺は別に気にしないよ。だって、浅野がどっちの格好してようと、お前はお前じゃん」
じわりと胸の中に熱いものが広がる。その瞬間、心がすっと軽くなったような気がした。
「高校に入って、わたしは昔の自分を捨てたつもりでいました……なにより、わたしはこの名前にふさわしいようなキラキラした存在になりたかったから。でも、しょせんは上っ面だけでしたね……今日だって、ステージに上がったとたん怖気付きましたし」
本当は心まで強い自分に変わりたかった。そう涙声になりながら嘆くわたしに、悟さんは言った。
「浅野は――ううん、光は十分、変わったと思うよ」
「えっ……?」
突然、名前で呼ばれたことにドキッとし、悟さんを見る。彼はどこかなつかしいような面持ちを浮かべたまま言った。
「俺さ、実はさっき思い出したんだ。お前、さては二年前、俺に動画の録音頑張れって言ってくれた子だろ?」
* * *
昔から人とコミュニケーションをとるのが、そんなに得意な方じゃなかった。せっかく声をかけてきてくれる子がいても、いつも言葉に詰まってしまったり、空気の読めないことを言って場の雰囲気を壊してしまうようなことがあった。
そしたらいつか周りには誰もいなくなっていて、無意識に人目を避けるようになっていた。
「うっ……気持ち悪い、学校、行かないとなのに……」
二年前、当時、中学二年生だったわたしは、自分の部屋の立ち鏡の前で制服姿のままうずくまった。
「ははは、ほんっと酷い顔だなぁ……」
ふと視界に映った顔は酷くやつれていて、くせっ毛な髪はボサボサ、メガネの奥の目は自分でもぎょっとするほど生気を失っていた。
「ダメ……今日はテストなんだし」
それでも、学校だけは休むわけにはいかない。受験に響くかもしれないし、何よりお母さんやお父さんに無駄な心配をかけたくはない。わたしは床に貼りついたままの足を、無理やり引き剥がすように立ち上がった。
何度も立ち止まってしまいたくなる自分の弱い心にムチ打ちして、重い足を引きずるように学校へ向かう。けれど、その途中で、わたしは猛烈な吐き気と頭痛に襲われた。
「あ、あれ……」
目の前がくらくらする。
やがてそれがまともに立っていられないくらいになって、頭を押さえたまま道ばたにしゃがみこむ。まるで異質なものでも見るような、歩いてくる通行人の視線が痛かった。
もういっそこのまま死んでいなくなりたいと思った。この先もずっと、息苦しいまま生きていくくらいなら。
わかってる。いじめなんて世の中にはそこら中に転がっていて、わたしなんか比べものにならないくらい辛い思いをしている人がいるということも。しょせんは自分が弱いだけなんだということも。でも、もう限界だった。
「君、大丈夫?」
今まで必死に抑えこんでいたものが一斉に胸からあふれ出して、思わず、泣きそうになっていたその時。誰かがそっとわたしの肩を叩いた。
「ぁ、ぇ………」
声にもならないような聞くにたえない嗚咽を漏らしながら顔を上げると、そこにはわたしとは違う制服を着た背の高い男の子が一人、立っていた。そして、それが悟さんだった。
「だ、大丈夫ですっ……!」
はっとしたわたしは慌てて立ち上がったけれど、その瞬間、足元がふらついた。
「危ないっ!」
「あっ……」
倒れる寸前で、間一髪悟さんに支えられる。わたしは必然と彼の平たくて硬い胸に頭をもたげるような態勢になった。
「よろよろじゃないかっ」
「で、でもっ、学校行かないと……! テストがあるんです!」
「今はどう見てもそれどころじゃないだろ! えっっと、どこか座れそうな場所……あそこの河川敷まで歩ける? ゆっくりでいいから」
悟さんは河川敷の方にある誰も座っていないベンチを指差すと、そこまでわたしを連れて行ってくれた。
「はい、これ、そこの自販機で買ってきたから、よかったら飲んで」
「あ、ありがとう、ございます……」
少しして容態が落ち着いてくると、悟さんはわたしにスポーツドリンクを差し出した。わざわざこっちのペースに合わせてゆっくり歩いてくれたり、「キツかったらからすぐに言っていいから」と、気遣ってくれたり、そんな彼のさりげない優しさになんだか胸がいっぱいになった。
「あ、あの……ごめんなさい。お兄さんも学校あるのに……」
当時、悟さんは中学生にしてはやけにおとなびて見えて、わたしはてっきり一つか二つは年上だと思っていた。
「そんなの気にしなくていいよ。ていうか、君、真面目すぎ。あいつにも少し見習わせたいくらいだ」
「あいつ?」
「ああ、ごめん。しょっちゅう寝坊してくるアホな友達のこと思い出してさ」
「友達、ですか……」
正直、羨ましいと思った。その頃のわたしには友達は愚か、クラスにいることすら苦痛でしかなかったから。
「そう。でも、なんだかんだいい奴なんだよ。あいつといるだけで自然と明るい気持ちになれるっていうか、ほんとバカみたいなことでも笑えてきてさ。俺の大事な相棒なんだ」
「相棒?」
「うん。実は俺、Twiklesって名前でそいつとMytubeで歌い手活動やってんだ」
「ま、Mytube!? そんなにすごい人なんですか……?」
「すごいってほどじゃないよ。まだ全然、始めたばっかみたいなもんだし」
「そ、それでも、自分の歌を誰かに聴いてもらうなんて……わたしじゃ絶対できないです」
「俺も最初は君と同じだったよ。でも、一生懸命なあいつを見てる内に俺もだんだん熱が入っちゃってさ」
そう語る悟さんの瞳には、穏やかな光が宿って見えた。
「そうだ、今日録音する予定の曲、ここで歌ってもいいかな? ちょっとボイトレしておきたくて。Hope Your Smileって曲なんだけど」
そう言って悟さんは立ち上がると、川沿いの砂利のところに立って一つ咳払いをした。
「――!」
そして、次の瞬間、歌い出した彼の歌声に心臓が強く打ち震えた。あの時に感じたかつてないほどの衝撃は、今でも鮮明にこの体に刻みこまれている。
それくらい悟さんの歌はすごかった。上手いとか下手とかそういうんじゃなくて、彼の歌に対する情熱とか、強い愛を感じた。
その時はまだ音楽のことはあんまりよくわからなかったし、ましてやHope Your Smileなんて曲があること自体、知らなかった。なんなら悟さんはメロディーも何もないアカペラで歌っていたけれど、わたしはそんなの一切、気にならないくらい彼の歌に夢中になっていた。
「聴いてくれてありがとな!」
「あっ、いえ、こちらこそ……動画の録音、頑張ってください」
「おう! 君のおかげで今日は良い歌が歌えそうだよ」
それから悟さんと別れた後も、わたしの胸の中ではずっと彼の歌が響き続けていた。
「あ、あった……」
その日、わたしは家に帰ると、真っ先にMytubeでTwiklesの名前を検索してみた。
「しゅんくんと、さとるんくんっていうんだ……なんかちょっと可愛い」
調べてみると、当時まだTwiklesの動画は精々、再生回数も数十回程度で、決して有名ではなかった。
「やった! 今日もまた動画、あがってる。二人ともすごい頑張り屋さんなんだなぁ」
けれど、Twinklesの動画を毎日のように見ている内に、わたしはあっという間に彼らのファンになっていた。
「あいかわらずクラスでは浮いたままだけど、二人の歌を聴いてると、気持ちが楽になるんだよね」
Twinklesの歌を聴くようになってから、もう死にたいとは思わなくなっていった。
たとえ学校でどんな陰口を叩かれようと、のけ者扱いされようと、二人の歌がわたしを励ましてくれたから。
* * *
「君は俺の光だったよ。だって、俺、光と仲良くなれてから毎日がすげぇ楽しみになってたもん」
悟さんの骨ばった大きな手が、そっと優しくわたしの頭をなでる。そうしてまるで魔物から村を救った勇敢な英雄のように微笑んだ彼に、わたしの涙腺は崩れてぐしょぐしょになった。
ステージの暗幕が下がると、悟さんは自分が着ていた黒のブレザーをそっとわたしの肩にかけてくれた。そんなさりげない彼の優しさに一瞬、ドキッとしてしまう。
「気に食わなかったらさ、一発思いっきり引っ叩いてくれていいよ、俺のこと」
すまなさそうに自分の顔を指さす悟さんに、わたしは思わず、くすっとしてしまった。
「できませんよ、そんなこと。だってわたし、悟さんの顔に傷なんてつけたくないですから」
そこでやっと悟さんの頬が、ほっと安心したように緩む。それから彼はわたしの方へ手を差し出してきて、
「次の発表もあるから、とりあえずここから移動しよう。立てる?」
わたしはうなずいて、彼の手を取った。温かい……。
たったそれだけで、さっきまで極度の不安と恐怖でこわばっていた全身が、まるで嘘のようにやわらいでいく。悟さんの手には、わたしを落ち着かせてくれる不思議な作用でもあるんだろうか。
「浅野さん!」
ステージ発表を終え、悟さんと一緒に舞台裏にやってくると、上の放送室の階段から忙しなく下りてきた木暮さんにいきなり抱きつかれた。
「こ、木暮さん!?」
「――ごめんねっ」
それが何に対しての謝罪なのかわからず、わたしは戸惑った。
「何も木暮さんが謝るようなことじゃないですよ。さっきはわたしがしくじっただけですし……」
「ううん、そんなことない! 浅野さんは今日のためにすごく頑張ってくれたよ! ちょっと働きすぎて、倒れちゃうんじゃないかって心配になるくらい」
そりゃまぁ確かに、自分から実行委員を名乗り出たからには絶対、成功させなきゃとは思ってたけど……。
「なのに私、さっき浅野さんがステージ出てる時もどうしたらいいかわかんなくて……何もできなかった、友達なのに」
友達。その時、木暮さんがわたしのことをちゃんと友達だと認識してくれていた事実に、場違いにも嬉しいと思ってしまった自分がいた。
「ありがとう……」
「えっ……?」
感極まるあまり口をついて出た言葉に、木暮さんがきょとんと目を丸くしてわたしを見る。そんな彼女にわたしは左手の親指を掲げて、グッドサインを作った。
「CDの担当、木暮さんだったよね。曲流すの、ナイスタイミングだったから」
木暮さんの涼やかな瞳が、大きく見開く。ぱっと笑顔を見せた彼女はもう一度、わたしをぎゅっと胸に引きよせるようにハグをした。
「よかったな」
かすかに喜びをにじませたようなつぶやきに、わたしはそこでようやく忘れかけていた悟さんの存在を思い出す。彼はどこか微笑ましそうな面持ちを浮かべ、わたし達を見ていた。
やがて木暮さんも、まるで我が子を見守るような悟さんの視線に気付いて、
「残りはこっちでやっておくからさ、浅野さんは後はゆっくり休みなよ」
「でも、まだ仕事が……」
「いいっていいって。浅野さん、ただでさえ今日、朝早くから準備してくれてたんだし。足りない分は私が助っ人呼んでくる」
木暮さんはそう言ってくれているけど、本当にいいのかな……。
それでもまだちょっと渋っているわたしの耳元に、木暮さんはそっと顔をよせて、
「うわさになってる”彼氏さん”、なかなか男前だね」
「なっ……」
中途半端な声を喉でつまらせたわたしに、木暮さんはさらなる追い討ちをかける。
「話はまた今度、じーくり聴かせてもらうから」
トンとわたしの肩に手を置くなり、木暮さんは「それじゃ私はここで」と、わたしに弁明の余地すら与えることなく涼しい顔で去っていく。ど、どうしよう……。
まさか自分のまいた種がそこまで行き渡っているとは。とっさに口が滑ったとはいえ、いくらなんでも軽率だった。
「何話してたんだ?」
「な、なんでもないです……ただ、この後の予定の確認を」
たどたどしい口調になるわたしに、悟さんはどこかまだ神妙そうに首を傾げていたけれど、それ以上は突っこまないでくれた。穴があったら入りたい……。いや、まぁ全部、わたしの自業自得だけどもっ。
「あの……」
「あのさ」
声が重なったのは、まったくと言っていいほど同時だった。まるであらかじめ示し合わせたかのように。
「あっ、ごめん、タイミングミスったわ」
「い、いえ、こちらこそ……」
なんとも言えない、歯がゆい沈黙がおりる。お互い間が持たなくなっていると、先に切り出してきたのは悟さんだった。
「今、ちょっとだけでも時間とれないかな? 浅野と二人っきりで話がしたいんだ」
気まずくなって伏せていた顔をあげると、普段は少し気怠げな彼のふちの深い瞳が、今は真剣にわたしを見ていた。
それからまた少し場所を移動したわたし達は、ちょうど空いていた中庭のベンチに二人並んで座った。体育館ではまだ引き続きステージ発表が行われていて、にぎやかな声がかすかに漏れてここまで聞こえてくる。
「あの、どうして、わかったんですか……? きっと悟さんはもう気付いてるんですよね。わたしの正体がその……Asahiだってこと」
悟さんは手持ち無沙汰に、中庭の中央にある紅葉の木を見上げていた。こっちを振り向くその拍子に彼の長いもみあげ一本一本が、まるでそよりと音を立てるようにやわらく風に揺れる。
「それはお前が、浅野光だから」
「はい……?」
一瞬、彼が何を言っているのかわからなかった。数秒、停止して考えて、もしやと思った。悟さんは気付いたのかもしれない。わたしのAsahiという名前の由来に。
「あれ、もしかして違った? 俺はてっきり浅野光って本名から変換して”朝の光”になるからAsahiなんだと思ってたけど」
「あっ、いえ……あってますよ」
ずばり言い当ててみせた悟さんは、ちょっと得意げな顔でにっと笑った。
「でも、たったそれだけで?」
「ううん、違うよ。俺、浅野みたいにそんなに頭よくないからさ。実際のところ、名前は後から気付いたみたいなもんで、正直、”それ”がなかったらわからなかったと思う」
「それ……?」
悟さんの視線の先を目で追うと、そこには完全に盲点だった”その存在”があった。
「あっ……」
「ミサンガ、本当にずっと付けててくれてるなんて思わなかった。お前って、そういうところ律儀だよな。でも、ありがとう。そんなに大事にしてくれてるんだって知ったら、すごく嬉しかった」
ちょっと照れくさそうに笑いながら、悟さんは頬をかいていた。
「……わたしは知られたくなんてなかったですよ、悟さんにだけは」
「どうして?」
「だって、まるで別人みたいだったでしょう? 今のわたしと」
「そりゃまぁ最初は驚いたけど……でも、だから何だって言うんだ?」
「がっかりしてないですか?」
「がっかり?」
「あれが本当のわたしなんです。なのに、悟さんはなんとも思わないんですか?」
「んー……」
食い気味に迫ったわたしに、悟さんは眉間にしわを寄せ、うなっている。それからわずか数秒して、「ぶっちゃけたこと言うとさ」と、もたげていた頭をあげた。
「俺は別に気にしないよ。だって、浅野がどっちの格好してようと、お前はお前じゃん」
じわりと胸の中に熱いものが広がる。その瞬間、心がすっと軽くなったような気がした。
「高校に入って、わたしは昔の自分を捨てたつもりでいました……なにより、わたしはこの名前にふさわしいようなキラキラした存在になりたかったから。でも、しょせんは上っ面だけでしたね……今日だって、ステージに上がったとたん怖気付きましたし」
本当は心まで強い自分に変わりたかった。そう涙声になりながら嘆くわたしに、悟さんは言った。
「浅野は――ううん、光は十分、変わったと思うよ」
「えっ……?」
突然、名前で呼ばれたことにドキッとし、悟さんを見る。彼はどこかなつかしいような面持ちを浮かべたまま言った。
「俺さ、実はさっき思い出したんだ。お前、さては二年前、俺に動画の録音頑張れって言ってくれた子だろ?」
* * *
昔から人とコミュニケーションをとるのが、そんなに得意な方じゃなかった。せっかく声をかけてきてくれる子がいても、いつも言葉に詰まってしまったり、空気の読めないことを言って場の雰囲気を壊してしまうようなことがあった。
そしたらいつか周りには誰もいなくなっていて、無意識に人目を避けるようになっていた。
「うっ……気持ち悪い、学校、行かないとなのに……」
二年前、当時、中学二年生だったわたしは、自分の部屋の立ち鏡の前で制服姿のままうずくまった。
「ははは、ほんっと酷い顔だなぁ……」
ふと視界に映った顔は酷くやつれていて、くせっ毛な髪はボサボサ、メガネの奥の目は自分でもぎょっとするほど生気を失っていた。
「ダメ……今日はテストなんだし」
それでも、学校だけは休むわけにはいかない。受験に響くかもしれないし、何よりお母さんやお父さんに無駄な心配をかけたくはない。わたしは床に貼りついたままの足を、無理やり引き剥がすように立ち上がった。
何度も立ち止まってしまいたくなる自分の弱い心にムチ打ちして、重い足を引きずるように学校へ向かう。けれど、その途中で、わたしは猛烈な吐き気と頭痛に襲われた。
「あ、あれ……」
目の前がくらくらする。
やがてそれがまともに立っていられないくらいになって、頭を押さえたまま道ばたにしゃがみこむ。まるで異質なものでも見るような、歩いてくる通行人の視線が痛かった。
もういっそこのまま死んでいなくなりたいと思った。この先もずっと、息苦しいまま生きていくくらいなら。
わかってる。いじめなんて世の中にはそこら中に転がっていて、わたしなんか比べものにならないくらい辛い思いをしている人がいるということも。しょせんは自分が弱いだけなんだということも。でも、もう限界だった。
「君、大丈夫?」
今まで必死に抑えこんでいたものが一斉に胸からあふれ出して、思わず、泣きそうになっていたその時。誰かがそっとわたしの肩を叩いた。
「ぁ、ぇ………」
声にもならないような聞くにたえない嗚咽を漏らしながら顔を上げると、そこにはわたしとは違う制服を着た背の高い男の子が一人、立っていた。そして、それが悟さんだった。
「だ、大丈夫ですっ……!」
はっとしたわたしは慌てて立ち上がったけれど、その瞬間、足元がふらついた。
「危ないっ!」
「あっ……」
倒れる寸前で、間一髪悟さんに支えられる。わたしは必然と彼の平たくて硬い胸に頭をもたげるような態勢になった。
「よろよろじゃないかっ」
「で、でもっ、学校行かないと……! テストがあるんです!」
「今はどう見てもそれどころじゃないだろ! えっっと、どこか座れそうな場所……あそこの河川敷まで歩ける? ゆっくりでいいから」
悟さんは河川敷の方にある誰も座っていないベンチを指差すと、そこまでわたしを連れて行ってくれた。
「はい、これ、そこの自販機で買ってきたから、よかったら飲んで」
「あ、ありがとう、ございます……」
少しして容態が落ち着いてくると、悟さんはわたしにスポーツドリンクを差し出した。わざわざこっちのペースに合わせてゆっくり歩いてくれたり、「キツかったらからすぐに言っていいから」と、気遣ってくれたり、そんな彼のさりげない優しさになんだか胸がいっぱいになった。
「あ、あの……ごめんなさい。お兄さんも学校あるのに……」
当時、悟さんは中学生にしてはやけにおとなびて見えて、わたしはてっきり一つか二つは年上だと思っていた。
「そんなの気にしなくていいよ。ていうか、君、真面目すぎ。あいつにも少し見習わせたいくらいだ」
「あいつ?」
「ああ、ごめん。しょっちゅう寝坊してくるアホな友達のこと思い出してさ」
「友達、ですか……」
正直、羨ましいと思った。その頃のわたしには友達は愚か、クラスにいることすら苦痛でしかなかったから。
「そう。でも、なんだかんだいい奴なんだよ。あいつといるだけで自然と明るい気持ちになれるっていうか、ほんとバカみたいなことでも笑えてきてさ。俺の大事な相棒なんだ」
「相棒?」
「うん。実は俺、Twiklesって名前でそいつとMytubeで歌い手活動やってんだ」
「ま、Mytube!? そんなにすごい人なんですか……?」
「すごいってほどじゃないよ。まだ全然、始めたばっかみたいなもんだし」
「そ、それでも、自分の歌を誰かに聴いてもらうなんて……わたしじゃ絶対できないです」
「俺も最初は君と同じだったよ。でも、一生懸命なあいつを見てる内に俺もだんだん熱が入っちゃってさ」
そう語る悟さんの瞳には、穏やかな光が宿って見えた。
「そうだ、今日録音する予定の曲、ここで歌ってもいいかな? ちょっとボイトレしておきたくて。Hope Your Smileって曲なんだけど」
そう言って悟さんは立ち上がると、川沿いの砂利のところに立って一つ咳払いをした。
「――!」
そして、次の瞬間、歌い出した彼の歌声に心臓が強く打ち震えた。あの時に感じたかつてないほどの衝撃は、今でも鮮明にこの体に刻みこまれている。
それくらい悟さんの歌はすごかった。上手いとか下手とかそういうんじゃなくて、彼の歌に対する情熱とか、強い愛を感じた。
その時はまだ音楽のことはあんまりよくわからなかったし、ましてやHope Your Smileなんて曲があること自体、知らなかった。なんなら悟さんはメロディーも何もないアカペラで歌っていたけれど、わたしはそんなの一切、気にならないくらい彼の歌に夢中になっていた。
「聴いてくれてありがとな!」
「あっ、いえ、こちらこそ……動画の録音、頑張ってください」
「おう! 君のおかげで今日は良い歌が歌えそうだよ」
それから悟さんと別れた後も、わたしの胸の中ではずっと彼の歌が響き続けていた。
「あ、あった……」
その日、わたしは家に帰ると、真っ先にMytubeでTwiklesの名前を検索してみた。
「しゅんくんと、さとるんくんっていうんだ……なんかちょっと可愛い」
調べてみると、当時まだTwiklesの動画は精々、再生回数も数十回程度で、決して有名ではなかった。
「やった! 今日もまた動画、あがってる。二人ともすごい頑張り屋さんなんだなぁ」
けれど、Twinklesの動画を毎日のように見ている内に、わたしはあっという間に彼らのファンになっていた。
「あいかわらずクラスでは浮いたままだけど、二人の歌を聴いてると、気持ちが楽になるんだよね」
Twinklesの歌を聴くようになってから、もう死にたいとは思わなくなっていった。
たとえ学校でどんな陰口を叩かれようと、のけ者扱いされようと、二人の歌がわたしを励ましてくれたから。
* * *
「君は俺の光だったよ。だって、俺、光と仲良くなれてから毎日がすげぇ楽しみになってたもん」
悟さんの骨ばった大きな手が、そっと優しくわたしの頭をなでる。そうしてまるで魔物から村を救った勇敢な英雄のように微笑んだ彼に、わたしの涙腺は崩れてぐしょぐしょになった。



