文化祭当日。
 わたしは体育館横の準備室で、何度も何度も頭の中でシミュレーションしながら自分の出番を待っていた。
「浅野さん」
 不意に外の通路へと繋がる後ろの鉄扉が開く。
「あっ、木暮(こぐれ)さん」 
 中の様子を伺うようにそこからひょっこりと顔を出したのは、愛用だというヘッドホンと、グレーの無地のパーカーをいつも着ている、同じ文化祭実行委員の木暮さんだった。
「どうしました? 確か、木暮さんは音響の方の係でしたよね」
「ああ、うん、そうなんだけど……」
 木暮さんは一瞬、キリッとした青っぽい瞳を彷徨わせてからおもむろに言った。
「浅野さん、大丈夫かなって思って。なんか全部、土壇場で決まったからさ。もしかしたら無理させちゃってるんじゃないかって。私も本当はもっと浅野さんの力になれたらよかったんだけど……」
 木暮さんがわたしに向ける表情の理由がわかった。それはわたしが、一つだけ空いてしまった一般ステージ枠を悟さんの代わりに引き受けたからだ。
「お心遣い感謝します。でも、もうここまで来たからには、わたしは与えられた役割を最後まで全うするまでですよ」
「そっか……頼もしいね」 
「こういう万が一の時のことも一応は考えてましたから、木暮さんは音響係の方に集中してください。この実行委員の名にかけても、一緒に文化祭を最後まで盛り上げましょう!」
 わたしが左手で渾身のガッツポーズを作ってみせると、木暮さんはやっと安心したように笑ってうなずいてくれた。ぱっと見、クールそうに見える彼女だけれど、案外、話してみるとすごく気さくで優しい人なんだよね。

「うわ……すごいたくさん……」
 木暮さんが放送室の方へ行った後、ステージ横まで移動してきたわたしは舞台袖からこっそりと客席の方を覗いてみた。
 生徒を始め、その保護者さんから地域のお年寄りまでざっと数えても二百人くらいはいそうだ。ステージの下と、ここからではまるで見える景色が違っていて、場の雰囲気にすっかり圧倒されたわたしは思わず、足がすくんだ。
「ダンス部の皆さん、ありがとうございました! 続いては――」
 緊張で心臓の辺りが痛い。正直、ここに立っているのがやっとだ。
 怖い……。自分から名乗り出たくせに、本心はここから逃げ出したくてたまらない。そんな自分が、つくづくみすぼらしくて情けない。
 ――ダメ、弱気になってちゃ。
 萎縮する気持ちを奮起させるべく、両手で自分の頬をぺしんぺしんと叩く。
 きっと大丈夫。わたしはもう昔とは違う。高校に入ったら絶対、理想の新しい自分に生まれ変わるんだって、あの時、心に誓ったんだから。
「行こう……」
 司会のアナウンスが終わると、わたしはまるで自分に言い聞かせるようにマイクをぎゅっと握りしめる。そうして一度、深呼吸をしてから、ステージの中央に向かって歩き出した。

 ギラつくようなスポットライトの強い光に、思わず、目をすがめたくなる。すでにマイクを持つ手は小刻みに震えていた。
 ――あ、あれ……なんで。声が、出ない……。
 口元にマイクをあてたものの、まるで声帯が凝り固まってしまったかのように動かない。
「えっ、なにこれ?」
「ずっと黙ってるね、どうしたんだろう……」
「もしかして、ど忘れじゃない?」
 いつまで立っても黙ったまま突っ立っているわたしに、やがて観客席がざわつき出す。
 ヤ、ヤバイ……。早く、なにか……なんでもいいからしゃべらなきゃっ。
 けれど、わたしの焦る気持ちとは反面、声は虚しくかすれて、なんとも弱々しい吐息と化するだけだった。
『浅野さんってさぁ、なんか話しかけづらいんだよね。それに見るからに根暗そうだし』
『まぁ正直、一緒にいても面白くはないよねー』
『頭はいいみたいだけど、後は全部、普通っていうか地味。典型的なガリ勉って感じ?』
『ちょ、典型的なガリ勉って、なにそれ笑わせないでよー』
 あ、あぁっ……。
 突然、フラッシュバックした過去に頭の中が真っ白になる。キーンと、耳を塞ぎたくなるような鋭くけたたましい音が体育館中にこだました。足もとを見ると、わたしの手から滑り落ちたマイクが虚しく転がっている。
「マジ最悪……」
「耳壊れるかと思ったわ」
「ちょっとありえないんですけどぉ」
 あちこちで飛び交う不快感を剥き出しにした言葉の数々。それはパニック状態になったわたしの胸を、まるで鋭いトゲのように突き刺した。
 はぁ……はぁ……。
 まるで心臓を握りつぶされているみたいに上手く呼吸ができない。目の前がどんどん真っ暗になっていく。もはや、発表どころではなかった。
 ——ごめんなさい。
 きっと勝手にいい気になっていた。ほんのちょっと髪色を変えて、ぱっとしないメガネを外して、明るく振る舞うようにしたくらいで。結局、悟さんを、好きだった人をもう一度、立ち直せてあげることも、彼の理解者になってあげることもできなかった。
 彼に伝えられてないことだって、まだたくさんあるのに……。
 ――やっぱりわたしはあの時、消えるべきだったんだ。大人しく一人で、最期の瞬間を誰に知られることもなく。
 そう思ったら足にまったく力が入らなくなって、わたしは床に膝をついた。まるで地面が抜けて、深い深い暗闇へ引きずりこまれるような感覚。そうして堕ちていった失意のドン底で、わたしは悔しさとやるせなさをひたすらに噛み殺した。
「遅れましたっ!!」
 その時だった。体育館の後ろで、突然、扉が大きく開いたのは。
 えっ……嘘……。
 息を切らしながら駆けこんできた背の高いシルエットに、わたしは一瞬、自分が幻覚でも見ているんじゃないかと思った。
 今度は一体、何事かと、わたしから彼へと集中した会場中の視線をもろともせず、悟さんはステージに向かって歩いてくる。直毛なのにふさふさの髪も制服のネクタイもちょっと乱れていたけれど、それ以上に悟さんの表情は雄々しかった。
「悟さん……」
 てっきりもう来てくれないとばかり思っていた。あんなに散々、彼の心の傷をえぐり返すようなことをして。
「マイク、壊れてはなさそうだな」
 ステージの上に上がってきた悟さんは呆然とするわたしの前で片膝をついてかがみ、マイクを拾うと少し申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「待たせてごめんな。でも、もう大丈夫だから。後は俺に任せて」
 悟さんはわたしにだけ聞こえる声でそっと告げると、再び観客席の方を向いて立ち上がる。
「――こんにちは、一年三組の鷹柳悟です。今日は俺の大好きな歌を披露したいと思ってます。でも、その前に少しだけ俺に時間をください」
 流石、歌い手をやっていただけのことはあると思う。この大勢を前にしても悟さんの声ははっきりしていて、よく聞き取れた。
「俺は中学の時、ずっと仲のよかった幼なじみと二人で歌い手活動をやっていました。MyTubeに動画を投稿したり、時には朝から夜までぶっ続けでカラオケで歌ったり……今になってみれば、バカだなって思うようなこともたくさんしました。でも、そのどれも俺にとってはもう二度と戻ってくることはない、あいつと過ごした大切な思い出なんです」
 マイクを持っていない方のこぶしを固く握りしめる悟さん。わたしがいる角度からだと、彼の表情はよくは見えない。けれど、その大きな背中からは、どんな困難にも屈しない勇ましさを感じた。
「できることなら、もっとあいつと一緒に歌っていたかった! あいつの想いを叶えて、ずっと一緒に笑っていたかった! でも、あいつはある日、たった十五歳の若さでこの世を去りました……どこにでもあるような交通事故で」
 もうどこからも嫌味な言葉は聞こえなかった。まるでここがそういう厳粛な場であるかのように、会場中がしんと静まり返って悟さんの話に耳を傾けている。
「それからはずっと喪失感に駆られる日々でした。いつまで経ってもショックから立ち直ることができなくて、ずっと悲しみを引きずるばかりで、あげく好きだった音楽もやめてしまった。急にわからなくなったんです。俺が今までやってきたことの意味って何だったんだろうって。でも、そんな時、俺達の歌が好きだって、聴いてて救われたんだって言ってくれた人がいるんです――たった今、ここに」
 ほんの一瞬、悟さんが送ってきた視線にわたしは内心、激しく動揺した。
 もしかして、バレてるの……?  “Asahiの正体がわたしだってこと”。
「彼女は俺に気付かせてくれました。やっぱり、このままじゃ終われない。ここで諦めたら、あいつと積み上げてきたものも全部、ダメになるって。だから今日、俺はもう一度、ここで歌います。空にいる親友と彼女に最大の感謝をこめて――どうか聴いてください」
 悟さんが大きく息を吸う。すると、まるで見計らったようなタイミングでHope Your Smileの曲が流れ出した。

 それからはまるで夢を見ているみたいな時間だった。もう何度も何度も、全部の歌詞を覚えているくらい聴いた曲なのに、まるで初めて聴いた時以上の感動が胸にこみあげてきて、わたしは思わず涙ぐんでいた。

 曲が終わって、会場中から盛大な拍手喝采が悟さんへ送られる。中にはわたしと同じように感極まって、ハンカチで目もとを拭っている人までいた。
「ブラボー!」という、どこか後ろの席からの歓声に応えるように、「ありがとうございました!」と悟さんが深々と頭を下げる。
 満面の笑みをたたえて堂々とステージに立つ悟さんは、この瞬間、わたしにとって世界で一番、輝いて見えた。