「浅野、この後って空いてる?」
帰りのホームルームが終わって、俺は教室を出ていこうとする彼女を引き止めた。
「すみません。今日は体育館で、文化祭本番のリハーサルがあるんです」
「そ、そっか……」
木ノ瀬祭当日まで残すところ二週間。
ここ最近、浅野は特に文化祭の準備で忙しそうにしている。仕事熱心な彼女の姿を見ていると、俺も自ずとやる気が湧いてくるのだが、ゆっくり話せる時間は前に比べて減ってしまったようで、本音を言うと、それが少し寂しかった。
「じゃあ、明日はどう? 浅野、ここ最近、文化祭の仕事すごい頑張ってるから。たまには息抜きもどうかなって思って。ああ、もちろん、忙しかったら無理にじゃなくていいんだけど」
「嬉しいです! ちょうど明日は休みだったので。実を言うと、わたしからも誘おうと思ってたんですよ。気が合いますね、わたし達」
そうやって、こいつはまた俺に思わせぶりなことを言う。きっと自覚ないんだろうなぁ……。
浅野のことは、あの日の会話以降、自分の中で割り切ったつもりだった。でも、だからこそ、今は彼女のとなりにいることが許される間、少しでも多くの時間を一緒にいたいと思う。
実際、後、どれくらいなんだろうな……こいつとこんな関係を続けていられるのも。
その日はこの時季にしては珍しく、朝から冷たい雨が降っていた。
「あっ、来たじゃん!」
教室のドアを開けると、廊下側の一番後ろの席の机に座って友達と話していた田上が、どういうわけか俺を見た。
「これってさぁ、歌ってんの鷹柳だろ?」
「なっ……」
ニヤつきながらスマホを向けてきた田上。それを見たとたん、心臓が破裂しかけた。なぜなら、そこには俺達、Twinklesの歌ってみた動画が表示されていたから。
「……なんで、知ってる?」
「部活のヤツから聞いたんだよ。中学の時、お前が音楽活動やってたって」
周囲から向けられる好奇の目に、こめかみを冷や汗が伝った。まるで危険を知らせるサイレンのように、ドクンドクンと耳の奥で心臓の音が鳴っている。
「いやぁー、流石に驚いたわ。てか、普通に下手でウケる。後、このしゅんって人? 歌い方の癖強すぎ。面白すぎて全然、歌詞頭に入ってこなかったんだけど」
「――ふっざけんな!!」
焦りが怒りに変わった瞬間だった。俺は我を忘れ、田上に向かってこぶしを振りかざす。もはや、理性なんてものはみじんも存在しなかった。
「いってぇ!!」
思いっきり俺に殴り飛ばされた田上が、床に倒れる。たった一瞬にして、教室中の空気が凍りついたのがわかった。
「テメェ! なにすんだよ!!」
よろよろと立ち上がった田上が、きつく俺をにらみつける。普段のチャラチャラしたイメージの彼とは一転、その目は激しく殺気立っていた。
「っ……!」
田上が俺の胸ぐらをつかむ。身じろき一つすることもできない、強い力だった。
「おい、田上、やめろって!」
「マジで笑えねぇから!」
両脇にいた友達二人がとっさに止めにかかるが、逆上した田上は一切、聞く耳を持たない。今度は彼のこぶしが、俺に向かってめいいっぱい振り上げられる。
――殴られる。
そう思ったがしかし、想定した痛みは実際には襲ってこなかった。
「悟、さん……?」
代わりに聞こえたのは、やっとのことで発したようなか細い声。
「ひ、光ちゃん……」
つかみかかられたまま首だけで振り向くと、そこにはあぜんとした様子で立ち尽くす浅野がいた。
「なにしてるんですかっ……!」
さぁっと血の気が引いたように彼女の顔がみるみる蒼白していく。
「ち、違うんだよ、光ちゃん! 元はといえば、こいつがっ!」
「離してください、悟さんのこと! 今すぐ!」
浅野は肩にかけていたカバンを廊下に投げ捨てて、田上に迫った。珍しく本気の怒りをあらわにした彼女に、田上が動揺を見せる。同時に俺の胸ぐらをつかんでいた手の力が、するりと抜けた。
――逃げるなら今しかない。
「悟さん!?」
そう悟った俺は隙を突いて教室を飛び出した。
「ま、待って——」
後ろで俺を必死に呼び止めようとする浅野の声が聞こえる。けれど俺は構わず走り続けた。この状況で、止まれるわけなんてなかった。
「くそっ……!」
気付けば、学校すらもを抜け出し、あてもなくたどり着いた薄暗い路地裏で、俺は力尽きたように膝から崩れ落ちた。
「なんで……なんで、死んじまったんだよ――なぁ、俊太ぁ!」
冷たい針のような雨が降りそそぐ中、俺は周囲に誰もいないのをいいことに叫び狂った。そうでもしないと、このやり場のない感情をどこにあてたらいいかわからなかった。
「悟さん」
少ししてもう声も出ないくらい叫び疲れた頃、不意に誰かの白い水玉模様の傘が視界にちらついた。
「こんなところにいたんですね、探しましたよ、もう」
ここまで走ってきたのか、彼女は少し息を乱しながらその場にしゃがみこむと、自身が濡れるのもいとわず、俺の頭の上にそっと傘をかざした。
淡いグリーンがかった瞳の瞳孔が、今はどこか不安げに揺れている。
「……お前、学校はどうしたんだよ?」
「そんなのどうでもいいです。だって、悟さんのことの方がずっと大事ですから」
彼女はそう言って優しく微笑んだ。まるで幼稚園の先生が、怖がる子どもを安心させるみたいに。
「やめてくれ……」
喉をかすれた俺の声は酷く弱々しく、彼女は少し困ったように目尻を下げた。
「ねぇ、悟さん」
やがて意を決したように彼女が顔を上げる。
「わたしは何があってもあなたの味方です。だから、どうか話してくれませんか? わたしはちゃんと一人の友達として、あなたのことを知りたい」
首を横に振るのが憚られるくらい、彼女の言葉はまっすぐだった。
「許せなかったんだ……あいつのこと、俊太のこと悪く言われるのだけは」
俺はすべてを彼女に打ち明けた。かつてTwinklesという名前で、俊太と歌い手活動をやっていたこと。俺にとって俊太が、唯一無二の相棒であったこと。そんな彼が中学三年の時、突然の事故で亡くなって、それ以来、ずっと音楽を避けるようになっていたこと。
途中、何度も目に熱いものがにじんで、あれこれも全部、雨のせいにしてしまいたかった。
「俊太は俺のすべてだった。俊太と一緒なら、どんな無謀な夢だって叶えられるような気がしてた……でも、やっぱりダメなんだ。俺にはあいつが、俊太がいないと……」
「――ダメなんかじゃないですよ」
つらつらと弱音を吐露する俺に、浅野は少し語気を強めた。
「むしろここで諦めちゃったら、悟さんが今まで俊太さんと一緒に歌ってきた時間も、二人が必死に積み重ねてきた努力も、それこそ全部ダメになっちゃいます」
彼女の声はあくまでも静かだった。けれど、その奥には俺ではとうてい計り知れない覚悟にも似た何かが隠れているように感じた。
「悟さんは自分で思ってるよりずっと素敵な人です。だから――」
「うるさい!!」
その先に続く言葉がなんとなく想像できてしまって、俺は彼女を突き飛ばすように乱暴に手を振り払った。
「痛っ……!」
彼女の手から離れた白い水玉模様の傘が空中で一回転して、湿りきったアスファルトの上へ硬い音を立てて落下する。
はっとした時にはもう遅かった。苦痛に顔を歪ませ、後ろに尻もちをつくような態勢で座りこんだ彼女は、小さくうめきながら俺にはたかれた手を胸の前で抑えていた。
「うっ……」
自分が極悪非道な人間のように思えた。憎悪をはらんだどす黒い波が、みぞおちの辺りから押し寄せてくる。
「ごめん……ごめん、浅野っ!」
もうそれ以上、彼女の顔を見ていられなくなって、とにかくこの場から早く逃げたくて、俺は立ち上がった。
「――行かないで!!」
けれど、どこか頼りないような気さえするその手は、すぐにまた俺の腕をつかみ返してきた。決して、振り払えないほどの力ではなかった。それでもそうできなかったのは、絶対に離すまいという彼女の頑な意志が、まるで心に直接訴えかけてくるみたいに伝わってきたから。
「これくらいなんともないですよっ……! だって、昔の方がこの何倍も、何十倍もずっと痛かったから……」
雨音に混じる彼女の声は痛切で、胸がぎゅっと締めつけられた。
「――離してくれ」
「嫌です」
ぎゅっと彼女の細い指が、手首に食いこむ。それだけで彼女が今、どれだけ必死なのかが手に取るようにわかった。
「わたしは悟さんの歌が好きです。だから、たとえこれがわたしのエゴだったとしても、わたしはまだあなたに音楽をやめてなんてほしくない。それに悟さんだって、本当はまだ心のどこかで音楽を続けたいって思ってるんじゃないですか!?」
「……」
「黙ってないで何か言ってください! 少なくともわたしから見た歌っている時のあなたは、ものすごく楽しそうだった……」
「――勝手に決めつけんなよっ!!」
いきなり俺が出した大声に、彼女はびくっと肩を震わせた。
「あっ……」
今度こそ本当に俺から振り落とされた見るからに貧弱そうな手をだらんと垂らして、彼女はじっと俺を見上げていた。けれど、その目に浮かんでいるのは、決して俺に対する見限りや幻滅ではなかった。
「お前に何がわかる……? 誰にも見向きもされないような、寂しいぼっち人生送ってきたお前なんかに。幼なじみ失った俺の気持ちなんて、これっぽっちもわかんねぇだろ!?」
本当にわかっていないのはきっと俺だ。自分が今、どれだけ酷いことを言っているのか。ここまで追いかけてきてくれた彼女の気持ちも知らずに。
「悟さんのバカ!!」
容赦なく降り荒ぶ雨の中、彼女は叫んだ。
「どうとでも言え――俺はもう二度と音楽はやらないから」
立ち去り際、俺は自分でもぎょっとするくらい冷たい声で彼女に言っていた。
「それ、でも……わたしはっ……!」
最後、寂寥とした路地裏に反響する彼女のすすり泣く声を、俺は家に帰ってもずっと忘れることができなかった。
その夜、自分の部屋でぼうっとしていると、スマホに浅野からメッセージが届いた。彼女とは最初にカラオケに行った日の帰りに連絡先を交換していたのだ。参ったな……。
正直、とても見る気にはなれなかった。けれど、雨の中、彼女の失望しきったようなびしょ濡れ姿が目に浮かんで、俺は一度はベッドに置いたスマホを再び手に取る。
それから少し悩んだものの、渋々、メッセージを開いた。
悟さんへ
今朝は自分勝手なことを言ってしまってごめんなさい。
こんなこと言ったらまるでストーカーみたいに思われちゃうかもしれないですけど、わたし悟さんのことなら何でも知ってる気でいたんです。
でも、実際、わたしはいつもあなたを執拗に追い回してばかりで、肝心なことはこれっぽっちも知らなかった。あなたの苦しみに気付けなかった。
どうか嫌いにならないでください。そして、もう一度、あなたに会って話がしたい。
「なんで……お前が謝るんだよっ」
俺はやけになって持っていたスマホを枕元に投げつけた。
わからない。ここまでして彼女が俺に尽くそうとする理由が。
「俺のことなんて放っておいて、さっさと好きな男のところに行けばいいだろっ……!」
違う、そうじゃない。俺が本当に苛立っているのは自分にだ。
あんな酷い突き放し方をしておいて、彼女に合わせる顔なんてあるわけがない。
いっそ忘れてほしかった。こんな最低な俺のことなんて。
あれ以降、俺は学校に行けていない。
親には風邪をこじらせただけだと嘘を言って誤魔化しているけれど、バレるのもそろそろ時間の問題だろう。
「文化祭、もう明日か……」
部屋の壁にかかっているカレンダーが目に入って、俺はいっそう憂鬱になる。
明日なんて、いっそもう永遠に来なければいいと思った。
どんよりと沈んだ気分のまま、ベッドに寝転ぶ。気晴らしがてらネットサーフィンでもしようかと思ってスマホを手にしたがやめた。浅野からのメッセージを見たくなくて。
俺が欠席している間もずっと、彼女は毎日、欠かさず連絡をくれた。内容は授業に関する業務的なことが大半だったけれど、中には「体調、大丈夫ですか?」とか、「せめて最低限の栄養と睡眠だけはちゃんと取ってくださいね」とか、俺のことを心配してくれているようなそぶりもあった。無論、そのどれも俺は一度も返信なんてしていないが。
「明日の夜まで、もうずっとこのまま寝てようかな……」
そんな邪念が頭の隅をかすめて、俺はおもむろに目を閉じる。そうして次に目が覚めた時にはすべてが終わっていればいいと、心からそう思った。
「ん……今、何時だ……?」
しかし、物事そんなに都合よくはいかない。スマホの液晶画面の時刻を見ると、まだ朝の五時を表示していた。
「はぁ……」
枕に顎を預けたまま、俺はここ最近で一番大きなため息をつく。
二度寝しようと試み、もう一度、仰向けになってみたが、寒さですっかり目が冴えてしまった。こうなってはこのままふとんの中にこもっていても、余計、気分が塞ぐだけのような気がしてくる。しかたない……起きるか。
いつもにもまして重たい頭を抱え、鉛のようになった体を持ち上げる。散歩でもすれば少しは気が紛れるかと、外に出てまだ薄暗い寒空の下を一人悲嘆に暮れながら歩いた。
そうしてやってきたのは、明け方の静まり返った河川敷。今はなんとなく川の音でも聞いて、ささくれ立った気持ちを少しでも落ち着けたい気分だった。
ほんっと現実逃避もいいところだな……。
目を背けてばかりの自分に対する後ろめたさを誤魔化すように、俺は土手に沿って作られた階段下のベンチに腰掛けた。
「おとなりいいですか?」
まるで突然、空から花びらが降ってきたみたいな、やわらかで可憐な声。
「君は……この前の――」
「ああ、やっぱりそうだ」
手のひらを額に押し付けるような形でうなだれていた俺は、思わず、顔をあげた。真っ先に見覚えのある黒のメガネが目に入る――あの日、歌っていた少女だ。
「この間は逃げちゃってごめんね。急だったから、わたしもちょっとびっくりしちゃって」
「ちょっとどころか、不審者にでも出会した時並みの怯えっぷりに見えたけど……」
「だから、ごめんって!」
つい本音をこぼしてしまった俺に、彼女はぱちんと音が鳴るくらい必死に両手を合わせた。だいぶ以前に会った時と比べて、親しげに接してくるように思える。元々はこういう性格の人なんだろうか。
「いいよ、別に。あれは俺にも多少なりとも非があっただろうし、お互い様ってことで」
「ほう、君、優男だね。さては学校じゃモテるなー」
「やかましいわっ!」
メガネのレンズ部分をくいっと持ち上げながら、口元をニヤつかせる彼女。初めに見た時は、もう少し優等生タイプな子だと思ってたんだけどなぁ。
「それに俺、今は学校行ってないし……」
「あー、だから、さっきからここでずっとうなってたんだ。てっきり頭でも痛いのかと思って、頭痛薬買いにいくところだったよ」
「君、ほんと見かけによらずデリカシーないんだな。てか、なんで頭痛薬……」
さっさと話を切り上げるつもりで言ったのに、こうもぐいぐい来られると逆にこっちが言葉に詰まってしまう。おまけに頭痛薬とかマジで意味わからんし。
「でも、顔色悪いのは本当だよ。なんていうか、わたしがいなかったら今にも川に飛びこんで死んじゃいそうな顔してる」
いっそそうできたら楽なのかもしれない。思わず、そう口にした俺に彼女は、
「させないよ。それにもしそうなった時には、わたしも一緒に命がけで飛びこむ。だから、死ぬのは諦めて、残念だけど」
「どうして……自分の命投げうってまで俺のこと助ける義理なんて、君にはないだろ」
「えっ、だって嫌じゃん。朝から目の前で人が死ぬの」
なんだ、そんな理由かよと、俺はなんだか拍子抜けした気がした。
「そういや、前にも君と似たようなこと言われたよ」
「へぇ、誰に?」
「……クラスメイトの子」
「女の子?」
「……」
「なんだ、ドンピシャか」
「まだ何も言ってねぇだろ」
「だって、君、わかりやすいだもん」
そう言って彼女は俺のとなりに座った。それもなぜか人一人分くらいが座れる謎のスペースを空けて。
「ねぇ、どんな子か教えてよ。わたしなんとなくだけど、君が言うその女の子とは仲良くなれそうな気がするんだよね」
「天然バカ――頭と顔はめっちゃいいけど」
思い浮かんだイメージを率直に告げた俺に、彼女は一瞬、真顔になった後、ぷっと吹き出した。
「なにそれ、頭はいいのに天然バカってなんか矛盾してない?」
「そういう奴なんだよ。後、歌が信じられないくらい下手」
くすくすと笑うのをやめた彼女が、「歌かぁ」感慨深げにつぶやく。それから彼女はぴょこんとベンチから降り立って、
「こうして会ったのもきっと何かの縁だろうし、せっかくだから元気がない君のために一曲歌ってあげるよ」
神々しいほどの朝陽の中で、彼女は朗らかに笑った。
胸に手をあてがい、深呼吸する彼女。肩にかかった黒髪の毛先が、朝焼け色の風にしなやかに揺れて、一瞬、ふわりと浮いた。
「ル〜、ルル〜」
そうしてまるで自分の身を声に委ねるように、彼女はゆったりとのびやかに歌い出す。自然と曲のメロディーが頭に流れてくるみたいだった。
――やっぱり、上手い。
きっと彼女のような人のことを天才と言うのだと俺はこの時、直感した。それくらい彼女の声には、目には見えない研ぎ澄まされた感性のようなものが生きている。
――もっと聴いていたい。それが本心だった。
「君は歌うことが好きなの?」
「じゃあ、逆に聞くけど、君は歌がそんなに好きじゃない?」
「なぜ質問を質問で返す……」
「いいから答えてよ。そしたらわたしもちゃんと答えるから」
彼女がどういうつもりで聞いたのかはわからない。けれど、それは今の俺にとって皮肉な質問以外のなんでもなかった。
「……好きだった、と思う、昔は」
喉にかすかな突っかかりようなものを感じた。まるで灰色のスモークみたいなもやが、胸に広がる。
「じゃあ、要するに今は嫌いになっちゃったってわけか。真逆だね、わたしと」
「真逆……?」
「うん、なんかそもそもあんまり興味がなかったんだよね。かといって、特別嫌いだったわけでもないんだろうけど」
短めに巻いたマフラーを口元まで引っ張り上げて、彼女はじっと川の対岸を見つめた。メガネの奥の落ち着いた色の瞳が、どことなく寂しげだった。
「中学の時、Mytubeで好きな歌い手さんに出会ったんだ。Twinklesっていう、わたしと同じ歳くらいだった男の子の二人組グループ。今はもう活動停止しちゃったのか、動画は投稿されてないんだけど、それでもわたし毎日、二人の歌を聴いてるんだ」
えっ……。
まるで心臓を弾丸で撃ち抜かれたみたいだった。まさかここで、俺達Twinkleの名前が出てくるなんて夢にも思わなくて。
「しゅんくんっていう子の真っ直ぐで力強い声と、さとるんくんって子の優しくて、そっと支えてくれてるみたいな声がすごく好きで。二人の声を聞いてると、自然と元気が出て、どんなに辛いことがあっても頑張れた。だからきっとわたしにとって、Twinklesの歌は”救い”みたいなものだったんだよ」
すとんと彼女の言葉が胸に落ちる。それと同時にどうしようもなく怖かった。
もしも、今となりにいる俺がTwinklesのさとるんで、しゅんはもういないのだと知ったら? 彼女はきっと相当がっかりするだろう。
「コメント、見てくれてたらいいな」
「コメント……?」
きょとんとする俺に、彼女は「なんでもない」と首を横に振った。
「ただのひとりごとだよ」
それにしては彼女のつぶやきは不自然だった。
——素敵な歌声ですね。思わず、聴き惚れちゃいました。ぜひ、また聴かせてください!
ふっと脳裏をかすめたAsahiという名前。その時、とある一つの可能性に思い至った。
いや、でも、そんなまさか……。
「もう一つだけ、聞いてもいい?」
「んー、なになに?」
「もしも今、Twinklesに会えたら君はどうする?」
脈絡のない俺の質問に彼女は数回、目をしばたたかせた。けれど、すぐにメガネの奥の瞳に柔和な笑みを浮かべて、
「また歌ってほしいって伝える。それまでわたしも絶対諦めないからって」
彼女の言葉からは、一ミリの揺らぎもない強い信念みたいなものを感じた。そして、俺はそれだけで確信する。今、目の前にいる彼女こそが、きっとAsahiさんなんだろうと。なぜだか理由はわからないけれど、そんな気がした。
「――ごめん、俺、ちょっとやること思い出した。だから、もう行くよ」
突然、衝動的に立ち上がった俺に、彼女はまだ何か心残りでもあるような顔をしていた。
「頭痛いのはもう治った?」
「別に元から体調は悪かったわけじゃない」
「そっか……余計なお節介焼いちゃったかな、わたし」
ぼそりとまたひとりごとみたいに言って、彼女は「じゃあね」と、どこかあいまいな顔で微笑む。こういう時、俺はなんて返すのが正解なのかわからなくて、無言で彼女に背を向けた。ひょっとしたら、冷たい奴だと思われたかもしれない。
あっ……。階段付近まで来て、まるで名残惜しみたいに俺は最後、もう一度だけ彼女の方を振り返った。そして、偶然にも目にしてしまった。
まだ何か物言いたげに、こっちに向かって手を振る彼女の袖の下。そこからかすかに覗く、華奢な左手首の”ピンクのミサンガ”を。
帰りのホームルームが終わって、俺は教室を出ていこうとする彼女を引き止めた。
「すみません。今日は体育館で、文化祭本番のリハーサルがあるんです」
「そ、そっか……」
木ノ瀬祭当日まで残すところ二週間。
ここ最近、浅野は特に文化祭の準備で忙しそうにしている。仕事熱心な彼女の姿を見ていると、俺も自ずとやる気が湧いてくるのだが、ゆっくり話せる時間は前に比べて減ってしまったようで、本音を言うと、それが少し寂しかった。
「じゃあ、明日はどう? 浅野、ここ最近、文化祭の仕事すごい頑張ってるから。たまには息抜きもどうかなって思って。ああ、もちろん、忙しかったら無理にじゃなくていいんだけど」
「嬉しいです! ちょうど明日は休みだったので。実を言うと、わたしからも誘おうと思ってたんですよ。気が合いますね、わたし達」
そうやって、こいつはまた俺に思わせぶりなことを言う。きっと自覚ないんだろうなぁ……。
浅野のことは、あの日の会話以降、自分の中で割り切ったつもりだった。でも、だからこそ、今は彼女のとなりにいることが許される間、少しでも多くの時間を一緒にいたいと思う。
実際、後、どれくらいなんだろうな……こいつとこんな関係を続けていられるのも。
その日はこの時季にしては珍しく、朝から冷たい雨が降っていた。
「あっ、来たじゃん!」
教室のドアを開けると、廊下側の一番後ろの席の机に座って友達と話していた田上が、どういうわけか俺を見た。
「これってさぁ、歌ってんの鷹柳だろ?」
「なっ……」
ニヤつきながらスマホを向けてきた田上。それを見たとたん、心臓が破裂しかけた。なぜなら、そこには俺達、Twinklesの歌ってみた動画が表示されていたから。
「……なんで、知ってる?」
「部活のヤツから聞いたんだよ。中学の時、お前が音楽活動やってたって」
周囲から向けられる好奇の目に、こめかみを冷や汗が伝った。まるで危険を知らせるサイレンのように、ドクンドクンと耳の奥で心臓の音が鳴っている。
「いやぁー、流石に驚いたわ。てか、普通に下手でウケる。後、このしゅんって人? 歌い方の癖強すぎ。面白すぎて全然、歌詞頭に入ってこなかったんだけど」
「――ふっざけんな!!」
焦りが怒りに変わった瞬間だった。俺は我を忘れ、田上に向かってこぶしを振りかざす。もはや、理性なんてものはみじんも存在しなかった。
「いってぇ!!」
思いっきり俺に殴り飛ばされた田上が、床に倒れる。たった一瞬にして、教室中の空気が凍りついたのがわかった。
「テメェ! なにすんだよ!!」
よろよろと立ち上がった田上が、きつく俺をにらみつける。普段のチャラチャラしたイメージの彼とは一転、その目は激しく殺気立っていた。
「っ……!」
田上が俺の胸ぐらをつかむ。身じろき一つすることもできない、強い力だった。
「おい、田上、やめろって!」
「マジで笑えねぇから!」
両脇にいた友達二人がとっさに止めにかかるが、逆上した田上は一切、聞く耳を持たない。今度は彼のこぶしが、俺に向かってめいいっぱい振り上げられる。
――殴られる。
そう思ったがしかし、想定した痛みは実際には襲ってこなかった。
「悟、さん……?」
代わりに聞こえたのは、やっとのことで発したようなか細い声。
「ひ、光ちゃん……」
つかみかかられたまま首だけで振り向くと、そこにはあぜんとした様子で立ち尽くす浅野がいた。
「なにしてるんですかっ……!」
さぁっと血の気が引いたように彼女の顔がみるみる蒼白していく。
「ち、違うんだよ、光ちゃん! 元はといえば、こいつがっ!」
「離してください、悟さんのこと! 今すぐ!」
浅野は肩にかけていたカバンを廊下に投げ捨てて、田上に迫った。珍しく本気の怒りをあらわにした彼女に、田上が動揺を見せる。同時に俺の胸ぐらをつかんでいた手の力が、するりと抜けた。
――逃げるなら今しかない。
「悟さん!?」
そう悟った俺は隙を突いて教室を飛び出した。
「ま、待って——」
後ろで俺を必死に呼び止めようとする浅野の声が聞こえる。けれど俺は構わず走り続けた。この状況で、止まれるわけなんてなかった。
「くそっ……!」
気付けば、学校すらもを抜け出し、あてもなくたどり着いた薄暗い路地裏で、俺は力尽きたように膝から崩れ落ちた。
「なんで……なんで、死んじまったんだよ――なぁ、俊太ぁ!」
冷たい針のような雨が降りそそぐ中、俺は周囲に誰もいないのをいいことに叫び狂った。そうでもしないと、このやり場のない感情をどこにあてたらいいかわからなかった。
「悟さん」
少ししてもう声も出ないくらい叫び疲れた頃、不意に誰かの白い水玉模様の傘が視界にちらついた。
「こんなところにいたんですね、探しましたよ、もう」
ここまで走ってきたのか、彼女は少し息を乱しながらその場にしゃがみこむと、自身が濡れるのもいとわず、俺の頭の上にそっと傘をかざした。
淡いグリーンがかった瞳の瞳孔が、今はどこか不安げに揺れている。
「……お前、学校はどうしたんだよ?」
「そんなのどうでもいいです。だって、悟さんのことの方がずっと大事ですから」
彼女はそう言って優しく微笑んだ。まるで幼稚園の先生が、怖がる子どもを安心させるみたいに。
「やめてくれ……」
喉をかすれた俺の声は酷く弱々しく、彼女は少し困ったように目尻を下げた。
「ねぇ、悟さん」
やがて意を決したように彼女が顔を上げる。
「わたしは何があってもあなたの味方です。だから、どうか話してくれませんか? わたしはちゃんと一人の友達として、あなたのことを知りたい」
首を横に振るのが憚られるくらい、彼女の言葉はまっすぐだった。
「許せなかったんだ……あいつのこと、俊太のこと悪く言われるのだけは」
俺はすべてを彼女に打ち明けた。かつてTwinklesという名前で、俊太と歌い手活動をやっていたこと。俺にとって俊太が、唯一無二の相棒であったこと。そんな彼が中学三年の時、突然の事故で亡くなって、それ以来、ずっと音楽を避けるようになっていたこと。
途中、何度も目に熱いものがにじんで、あれこれも全部、雨のせいにしてしまいたかった。
「俊太は俺のすべてだった。俊太と一緒なら、どんな無謀な夢だって叶えられるような気がしてた……でも、やっぱりダメなんだ。俺にはあいつが、俊太がいないと……」
「――ダメなんかじゃないですよ」
つらつらと弱音を吐露する俺に、浅野は少し語気を強めた。
「むしろここで諦めちゃったら、悟さんが今まで俊太さんと一緒に歌ってきた時間も、二人が必死に積み重ねてきた努力も、それこそ全部ダメになっちゃいます」
彼女の声はあくまでも静かだった。けれど、その奥には俺ではとうてい計り知れない覚悟にも似た何かが隠れているように感じた。
「悟さんは自分で思ってるよりずっと素敵な人です。だから――」
「うるさい!!」
その先に続く言葉がなんとなく想像できてしまって、俺は彼女を突き飛ばすように乱暴に手を振り払った。
「痛っ……!」
彼女の手から離れた白い水玉模様の傘が空中で一回転して、湿りきったアスファルトの上へ硬い音を立てて落下する。
はっとした時にはもう遅かった。苦痛に顔を歪ませ、後ろに尻もちをつくような態勢で座りこんだ彼女は、小さくうめきながら俺にはたかれた手を胸の前で抑えていた。
「うっ……」
自分が極悪非道な人間のように思えた。憎悪をはらんだどす黒い波が、みぞおちの辺りから押し寄せてくる。
「ごめん……ごめん、浅野っ!」
もうそれ以上、彼女の顔を見ていられなくなって、とにかくこの場から早く逃げたくて、俺は立ち上がった。
「――行かないで!!」
けれど、どこか頼りないような気さえするその手は、すぐにまた俺の腕をつかみ返してきた。決して、振り払えないほどの力ではなかった。それでもそうできなかったのは、絶対に離すまいという彼女の頑な意志が、まるで心に直接訴えかけてくるみたいに伝わってきたから。
「これくらいなんともないですよっ……! だって、昔の方がこの何倍も、何十倍もずっと痛かったから……」
雨音に混じる彼女の声は痛切で、胸がぎゅっと締めつけられた。
「――離してくれ」
「嫌です」
ぎゅっと彼女の細い指が、手首に食いこむ。それだけで彼女が今、どれだけ必死なのかが手に取るようにわかった。
「わたしは悟さんの歌が好きです。だから、たとえこれがわたしのエゴだったとしても、わたしはまだあなたに音楽をやめてなんてほしくない。それに悟さんだって、本当はまだ心のどこかで音楽を続けたいって思ってるんじゃないですか!?」
「……」
「黙ってないで何か言ってください! 少なくともわたしから見た歌っている時のあなたは、ものすごく楽しそうだった……」
「――勝手に決めつけんなよっ!!」
いきなり俺が出した大声に、彼女はびくっと肩を震わせた。
「あっ……」
今度こそ本当に俺から振り落とされた見るからに貧弱そうな手をだらんと垂らして、彼女はじっと俺を見上げていた。けれど、その目に浮かんでいるのは、決して俺に対する見限りや幻滅ではなかった。
「お前に何がわかる……? 誰にも見向きもされないような、寂しいぼっち人生送ってきたお前なんかに。幼なじみ失った俺の気持ちなんて、これっぽっちもわかんねぇだろ!?」
本当にわかっていないのはきっと俺だ。自分が今、どれだけ酷いことを言っているのか。ここまで追いかけてきてくれた彼女の気持ちも知らずに。
「悟さんのバカ!!」
容赦なく降り荒ぶ雨の中、彼女は叫んだ。
「どうとでも言え――俺はもう二度と音楽はやらないから」
立ち去り際、俺は自分でもぎょっとするくらい冷たい声で彼女に言っていた。
「それ、でも……わたしはっ……!」
最後、寂寥とした路地裏に反響する彼女のすすり泣く声を、俺は家に帰ってもずっと忘れることができなかった。
その夜、自分の部屋でぼうっとしていると、スマホに浅野からメッセージが届いた。彼女とは最初にカラオケに行った日の帰りに連絡先を交換していたのだ。参ったな……。
正直、とても見る気にはなれなかった。けれど、雨の中、彼女の失望しきったようなびしょ濡れ姿が目に浮かんで、俺は一度はベッドに置いたスマホを再び手に取る。
それから少し悩んだものの、渋々、メッセージを開いた。
悟さんへ
今朝は自分勝手なことを言ってしまってごめんなさい。
こんなこと言ったらまるでストーカーみたいに思われちゃうかもしれないですけど、わたし悟さんのことなら何でも知ってる気でいたんです。
でも、実際、わたしはいつもあなたを執拗に追い回してばかりで、肝心なことはこれっぽっちも知らなかった。あなたの苦しみに気付けなかった。
どうか嫌いにならないでください。そして、もう一度、あなたに会って話がしたい。
「なんで……お前が謝るんだよっ」
俺はやけになって持っていたスマホを枕元に投げつけた。
わからない。ここまでして彼女が俺に尽くそうとする理由が。
「俺のことなんて放っておいて、さっさと好きな男のところに行けばいいだろっ……!」
違う、そうじゃない。俺が本当に苛立っているのは自分にだ。
あんな酷い突き放し方をしておいて、彼女に合わせる顔なんてあるわけがない。
いっそ忘れてほしかった。こんな最低な俺のことなんて。
あれ以降、俺は学校に行けていない。
親には風邪をこじらせただけだと嘘を言って誤魔化しているけれど、バレるのもそろそろ時間の問題だろう。
「文化祭、もう明日か……」
部屋の壁にかかっているカレンダーが目に入って、俺はいっそう憂鬱になる。
明日なんて、いっそもう永遠に来なければいいと思った。
どんよりと沈んだ気分のまま、ベッドに寝転ぶ。気晴らしがてらネットサーフィンでもしようかと思ってスマホを手にしたがやめた。浅野からのメッセージを見たくなくて。
俺が欠席している間もずっと、彼女は毎日、欠かさず連絡をくれた。内容は授業に関する業務的なことが大半だったけれど、中には「体調、大丈夫ですか?」とか、「せめて最低限の栄養と睡眠だけはちゃんと取ってくださいね」とか、俺のことを心配してくれているようなそぶりもあった。無論、そのどれも俺は一度も返信なんてしていないが。
「明日の夜まで、もうずっとこのまま寝てようかな……」
そんな邪念が頭の隅をかすめて、俺はおもむろに目を閉じる。そうして次に目が覚めた時にはすべてが終わっていればいいと、心からそう思った。
「ん……今、何時だ……?」
しかし、物事そんなに都合よくはいかない。スマホの液晶画面の時刻を見ると、まだ朝の五時を表示していた。
「はぁ……」
枕に顎を預けたまま、俺はここ最近で一番大きなため息をつく。
二度寝しようと試み、もう一度、仰向けになってみたが、寒さですっかり目が冴えてしまった。こうなってはこのままふとんの中にこもっていても、余計、気分が塞ぐだけのような気がしてくる。しかたない……起きるか。
いつもにもまして重たい頭を抱え、鉛のようになった体を持ち上げる。散歩でもすれば少しは気が紛れるかと、外に出てまだ薄暗い寒空の下を一人悲嘆に暮れながら歩いた。
そうしてやってきたのは、明け方の静まり返った河川敷。今はなんとなく川の音でも聞いて、ささくれ立った気持ちを少しでも落ち着けたい気分だった。
ほんっと現実逃避もいいところだな……。
目を背けてばかりの自分に対する後ろめたさを誤魔化すように、俺は土手に沿って作られた階段下のベンチに腰掛けた。
「おとなりいいですか?」
まるで突然、空から花びらが降ってきたみたいな、やわらかで可憐な声。
「君は……この前の――」
「ああ、やっぱりそうだ」
手のひらを額に押し付けるような形でうなだれていた俺は、思わず、顔をあげた。真っ先に見覚えのある黒のメガネが目に入る――あの日、歌っていた少女だ。
「この間は逃げちゃってごめんね。急だったから、わたしもちょっとびっくりしちゃって」
「ちょっとどころか、不審者にでも出会した時並みの怯えっぷりに見えたけど……」
「だから、ごめんって!」
つい本音をこぼしてしまった俺に、彼女はぱちんと音が鳴るくらい必死に両手を合わせた。だいぶ以前に会った時と比べて、親しげに接してくるように思える。元々はこういう性格の人なんだろうか。
「いいよ、別に。あれは俺にも多少なりとも非があっただろうし、お互い様ってことで」
「ほう、君、優男だね。さては学校じゃモテるなー」
「やかましいわっ!」
メガネのレンズ部分をくいっと持ち上げながら、口元をニヤつかせる彼女。初めに見た時は、もう少し優等生タイプな子だと思ってたんだけどなぁ。
「それに俺、今は学校行ってないし……」
「あー、だから、さっきからここでずっとうなってたんだ。てっきり頭でも痛いのかと思って、頭痛薬買いにいくところだったよ」
「君、ほんと見かけによらずデリカシーないんだな。てか、なんで頭痛薬……」
さっさと話を切り上げるつもりで言ったのに、こうもぐいぐい来られると逆にこっちが言葉に詰まってしまう。おまけに頭痛薬とかマジで意味わからんし。
「でも、顔色悪いのは本当だよ。なんていうか、わたしがいなかったら今にも川に飛びこんで死んじゃいそうな顔してる」
いっそそうできたら楽なのかもしれない。思わず、そう口にした俺に彼女は、
「させないよ。それにもしそうなった時には、わたしも一緒に命がけで飛びこむ。だから、死ぬのは諦めて、残念だけど」
「どうして……自分の命投げうってまで俺のこと助ける義理なんて、君にはないだろ」
「えっ、だって嫌じゃん。朝から目の前で人が死ぬの」
なんだ、そんな理由かよと、俺はなんだか拍子抜けした気がした。
「そういや、前にも君と似たようなこと言われたよ」
「へぇ、誰に?」
「……クラスメイトの子」
「女の子?」
「……」
「なんだ、ドンピシャか」
「まだ何も言ってねぇだろ」
「だって、君、わかりやすいだもん」
そう言って彼女は俺のとなりに座った。それもなぜか人一人分くらいが座れる謎のスペースを空けて。
「ねぇ、どんな子か教えてよ。わたしなんとなくだけど、君が言うその女の子とは仲良くなれそうな気がするんだよね」
「天然バカ――頭と顔はめっちゃいいけど」
思い浮かんだイメージを率直に告げた俺に、彼女は一瞬、真顔になった後、ぷっと吹き出した。
「なにそれ、頭はいいのに天然バカってなんか矛盾してない?」
「そういう奴なんだよ。後、歌が信じられないくらい下手」
くすくすと笑うのをやめた彼女が、「歌かぁ」感慨深げにつぶやく。それから彼女はぴょこんとベンチから降り立って、
「こうして会ったのもきっと何かの縁だろうし、せっかくだから元気がない君のために一曲歌ってあげるよ」
神々しいほどの朝陽の中で、彼女は朗らかに笑った。
胸に手をあてがい、深呼吸する彼女。肩にかかった黒髪の毛先が、朝焼け色の風にしなやかに揺れて、一瞬、ふわりと浮いた。
「ル〜、ルル〜」
そうしてまるで自分の身を声に委ねるように、彼女はゆったりとのびやかに歌い出す。自然と曲のメロディーが頭に流れてくるみたいだった。
――やっぱり、上手い。
きっと彼女のような人のことを天才と言うのだと俺はこの時、直感した。それくらい彼女の声には、目には見えない研ぎ澄まされた感性のようなものが生きている。
――もっと聴いていたい。それが本心だった。
「君は歌うことが好きなの?」
「じゃあ、逆に聞くけど、君は歌がそんなに好きじゃない?」
「なぜ質問を質問で返す……」
「いいから答えてよ。そしたらわたしもちゃんと答えるから」
彼女がどういうつもりで聞いたのかはわからない。けれど、それは今の俺にとって皮肉な質問以外のなんでもなかった。
「……好きだった、と思う、昔は」
喉にかすかな突っかかりようなものを感じた。まるで灰色のスモークみたいなもやが、胸に広がる。
「じゃあ、要するに今は嫌いになっちゃったってわけか。真逆だね、わたしと」
「真逆……?」
「うん、なんかそもそもあんまり興味がなかったんだよね。かといって、特別嫌いだったわけでもないんだろうけど」
短めに巻いたマフラーを口元まで引っ張り上げて、彼女はじっと川の対岸を見つめた。メガネの奥の落ち着いた色の瞳が、どことなく寂しげだった。
「中学の時、Mytubeで好きな歌い手さんに出会ったんだ。Twinklesっていう、わたしと同じ歳くらいだった男の子の二人組グループ。今はもう活動停止しちゃったのか、動画は投稿されてないんだけど、それでもわたし毎日、二人の歌を聴いてるんだ」
えっ……。
まるで心臓を弾丸で撃ち抜かれたみたいだった。まさかここで、俺達Twinkleの名前が出てくるなんて夢にも思わなくて。
「しゅんくんっていう子の真っ直ぐで力強い声と、さとるんくんって子の優しくて、そっと支えてくれてるみたいな声がすごく好きで。二人の声を聞いてると、自然と元気が出て、どんなに辛いことがあっても頑張れた。だからきっとわたしにとって、Twinklesの歌は”救い”みたいなものだったんだよ」
すとんと彼女の言葉が胸に落ちる。それと同時にどうしようもなく怖かった。
もしも、今となりにいる俺がTwinklesのさとるんで、しゅんはもういないのだと知ったら? 彼女はきっと相当がっかりするだろう。
「コメント、見てくれてたらいいな」
「コメント……?」
きょとんとする俺に、彼女は「なんでもない」と首を横に振った。
「ただのひとりごとだよ」
それにしては彼女のつぶやきは不自然だった。
——素敵な歌声ですね。思わず、聴き惚れちゃいました。ぜひ、また聴かせてください!
ふっと脳裏をかすめたAsahiという名前。その時、とある一つの可能性に思い至った。
いや、でも、そんなまさか……。
「もう一つだけ、聞いてもいい?」
「んー、なになに?」
「もしも今、Twinklesに会えたら君はどうする?」
脈絡のない俺の質問に彼女は数回、目をしばたたかせた。けれど、すぐにメガネの奥の瞳に柔和な笑みを浮かべて、
「また歌ってほしいって伝える。それまでわたしも絶対諦めないからって」
彼女の言葉からは、一ミリの揺らぎもない強い信念みたいなものを感じた。そして、俺はそれだけで確信する。今、目の前にいる彼女こそが、きっとAsahiさんなんだろうと。なぜだか理由はわからないけれど、そんな気がした。
「――ごめん、俺、ちょっとやること思い出した。だから、もう行くよ」
突然、衝動的に立ち上がった俺に、彼女はまだ何か心残りでもあるような顔をしていた。
「頭痛いのはもう治った?」
「別に元から体調は悪かったわけじゃない」
「そっか……余計なお節介焼いちゃったかな、わたし」
ぼそりとまたひとりごとみたいに言って、彼女は「じゃあね」と、どこかあいまいな顔で微笑む。こういう時、俺はなんて返すのが正解なのかわからなくて、無言で彼女に背を向けた。ひょっとしたら、冷たい奴だと思われたかもしれない。
あっ……。階段付近まで来て、まるで名残惜しみたいに俺は最後、もう一度だけ彼女の方を振り返った。そして、偶然にも目にしてしまった。
まだ何か物言いたげに、こっちに向かって手を振る彼女の袖の下。そこからかすかに覗く、華奢な左手首の”ピンクのミサンガ”を。



