次の日、俺は早速、浅野に返事をすることにした。
「昨日、言ってた木ノ瀬祭のことだけど、俺、出てみるよ、一般ステージ」
「本当ですか!?」
昨日と同じ場所で、卵サンドを食べていた浅野が、驚いたように聞き返してくる。反応を見るに、ダメ元だったのかもしれない。
「色々、悩んだんだけどさ、俺もちょっとは頑張ってみようって思ったんだ」
実際、その気持ちに嘘はないが、昨日のAsahiさんの言葉が俺の背中を押してくれたように思う。
それになにより俺は浅野のために歌いたいのだ。俺の歌をこれでもかというほどべた褒めしてくれて、こうして、もう一度、俺にチャンスをくれた彼女に。
そしたら、いつかはまた――いや、そこまで考えるのは流石にまだ早計か。これから先、どうするかは文化祭が終わってからじっくり考え直すのでいい。
「あっ、いたいた!」
教室に戻る途中、廊下の向こう側から女子生徒が一人、俺達のところへ駆け寄ってきた。といっても、用事があるのは浅野にだったけれど
「ごめんね、浅野さん。実はさっき文化祭準備のことで、先生から招集があって。ちょっとだけ来てもらってもいいかな?」
両手を合わせ軽く頭を下げた彼女は、ショートカットの髪型と首にかけたヘッドホンが特徴的な少しボーイッシュな感じの子だった。
「えっ、そうなんですか? わかりました、今すぐ行きますね」
すると、浅野は一度、俺の方を振り返ってから、
「ってことなので、すみません、悟さん。先に教室、戻っててもらえますか?」
「ああ、うん、わかったよ」
彼女は一度、俺に手を振ると、同じ実行委員らしい女子生徒と一緒に歩いて行ってしまった。忙しいんだな……。
教室に戻って、俺が次の授業で使う教科書やらノートをカバンから出していると、
「浅野さんってさぁ、あれ絶対、キャラ作ってるよね」
前の席で固まってお弁当を食べているクラスの女子数人が、突然、浅野の話をし始めた。
「わかるわかる、自分でも痛いって思わないのかなぁ」
「どうせ、自分の顔がいいのわかってやってんでしょ。きっと裏じゃ、あたし達のこと見下してるよ」
「うわー、なにそれ性格悪っ」
浅野はそんなんじゃない。
そう口に出しかけた言葉を寸前で飲みこむ。正直、聞いていて不快だったが、ここで俺が首を突っこむのもなんだか違う気がする。なにより、浅野本人に悪い気がした。
「でも、浅野さんって、中学の時はもっと大人しそうな感じの子だったよ。それになんかちょっと……いじめられてたっぽいし」
「えっ、それまじぃ?」
俺も内心、まったく同じ反応だった。あの浅野が、いじめられてた……?
「私、中二の時、浅野さんと一回、クラス同じでさ。なんか明らかに無視されてたり、ハブられてたり、見ててちょっと可哀想だった」
「へぇー、意外。てっきりずっとあんな感じで、男たぶらかしてるんだと思ってた」
「ちょっ、それ言っちゃあんたも同じじゃん(笑)」
その時、ちょうど授業開始の五分前を知らせるチャイムが鳴った。
「げっ、やばっ。うち、そろそろ席戻るわ」
「ウチも〜」
女子軍団が各々席に戻った後も、俺は愕然として教科書を眺めるふりを続けていた。
それから少しして、恐らくは文化祭関係のプリントを持った浅野が教室に入ってきたけれど、もうすぐ授業が始まるというのもあって、そこからお互い帰りの時間までは一切、言葉を交わさなかった。
さっきの話が本当かどうかはわからない。でも、浅野に限ってそんなことあるのだろうか。
ぼんやりと窓の外を見つめている、まるで作り物のように整ったその横顔は、あいかわらず今日も何を考えているのか俺にはさっぱり見当もつかなかった。
「あのさ、浅野」
「あっ、はい」
放課後、俺はおおかたクラスメイトの面々が教室を出ていった頃を見計らい、彼女に声をかけた。
「悟さんから話しかけてくるなんて珍しいですね。何か、よっぽどの重大事件でも起きました?」
「そういうわけじゃないけど……てか、物騒だろ」
まったく縁起でもないと、頭をかいた俺に浅野はくすくす笑っている。
本当は聞こうと思ってた。さっき不本意にも耳にしてしまったあの話の真偽を。
なのに、直前で俺は思いとどまった。別にまだ知らなくてもいいんじゃないかと思ったといえば、言いわけがましいが、なんとなく今は彼女の笑顔を壊したくはなかった。
「文化祭実行委員の仕事、頑張って。ステージ発表、俺も引き受けたからには本気でやるから」
だから、俺は代わりにそう宣言したんだ。
「もちろんです! わたし本番も、悟さんのこと最後まで応援してますから! 絶対に!」
「うん、ありがとう」
こんなに胸が温かくなるありがとうを言えたのは、一体、どれくらいぶりだったろうか。
次の日、俺は朝早くから近所を走っていた。何も頭がおかしくなったわけでなければ、急にスポーツマンを目指し始めたわけでもない。
ただ昨日の夜、寝る前になってふと思い出したのだ。肺活量を鍛えるためには、やっぱりランニングだと、いつか俊太が言っていたのを。ぶっちゃけ、それで本当に歌が上達するかどうかはわからない。けれど、何かしら効果はあるだろう。
それになにより昨日、浅野にあんなふうに見栄を張ってしまったからには、俺も自分なりに活を入れようと思ったのだ。
ん? あそこに誰かいるな……。
少し休憩しようと足を止めた先の河川敷で、俺は鉄橋の下付近に一人、ぽつんとたたずむ人影を見つけた。
こっそり近付いてみると、メガネをかけた横顔がぼんやりと浮かんでくる。恐らくは俺と同じ歳くらいの少女だろう。白のニット帽にマフラーを首に巻いていて、もう何歩か近寄らないと、顔立ちははっきりとはわかりそうにないが。
そして、もう一つ、ここまで来て気付いたことがある。
この子、もしかして歌ってる……? しかもこの曲は、Hope Your Smileじゃないか。
「ラ〜、ララァ〜」
少女の歌声に呼びよせられたかのように、この時季特有のからりと澄んだ冷たい風が吹きつけて、肩くらいまである彼女の艷やかな黒髪をなびかせる。
すごく綺麗な声だった。まるでにごり一つない、透明な水を彷彿とさせるような。
遥か向こうの景色の、高層ビル群の間から顔を出した太陽が明るく輝き出す。そのオレンジの光が川面に反射して、まるでコンサートホールのごとく少女の華奢な体を浮かび上がらせた。
はっと息を飲むようなまばゆい光景に、俺は思わず、見入ってしまった。
「あっ……」
いつの間にか、こちらを振り返った少女と真正面から目があう。それまで歌が終わっていることにすら気付かなかった。
ぱっと見、清楚系、というよりは線の細いイメージを強く受けるような子だった。
少なくともメガネの奥のおどついたその瞳からは、さっきの繊細さと力強さの両方を兼ね備えたような歌声を想像することはできない。
「ご、ごめん! 盗み聴きするつもりはなかったんだけどっ」
なんとか弁明を試みようとする俺の思いに反して、彼女はひっと表情を引きつらせた。これは完全に怖がられてしまっている。
「お、おい、ちょっと待――って、うわぁ!」
数歩、後ずさって無言で背中を向けて駆け出した少女の後を慌てて追いかけようとするものの、俺は足元の小石につまずいて豪快にこけた。
「いてて……」
間抜けな自分に呆れる。幸い履いていたジャージのズボンのおかげで、ケガはしていなさそうだが、とんだドジを踏んでしまった。
「って、逃げ足速っ」
起き上がって辺りを見渡してみるが、少女の姿はもうどこにも見当たらない。
「なんだか不思議な子だったな……」
それに心なしか、ほんの一瞬、彼女と目があった時、まるで以前にも会ったことがあるかのような既視感を覚えた。
「流石に勘違いだよな」
微妙に引っかかるところがないわけでもなかったが、もうこれ以上は考えてもしかたないので、俺はそう結論付けることにした。
ああ、死にたい……どうして、俺はこんなにもバカなんだろう。
週末、駅前広場の時計台の下で俺は頭を抱えていた。
事の発端は木曜日。今までろくに女子と関わってきた経験などない俺が、「今度の日曜日、一緒に出かけない?」なんて、ああもやすやすと浅野を誘い出したことにある。自分でも本当にどうかしていた。
「悟さん?」
ドキドキしながら待っていると、浅野がいつの間にか正面に立っていた。もうここまで来たからには後戻りもできない。俺は覚悟を決めた。
「よ、よう」
「ああ、よかった! 制服じゃないといつもと雰囲気違うから、もし人違いだったらどうしようかと思いましたよ」
そういう彼女は、膝下くらいまでの長さのスカートとブラウスのシンプルな格好にショート丈のボアコートを羽織っていて、頭には白のベレー帽も被っていた。思っていたよりは普通、というか質素? それでも容姿端麗な浅野が着ると結構、様になっている気がする。現に道行く人の視線がちらちらと浅野に向けられていて、「あの子、可愛いね」とか、「デートかな? いいなぁ〜」とかお門違いな言葉もちらほらと拾えた。
俺なんかが一緒にいたら、少々、いや、だいぶ不釣り合いではないだろうか。
「なぁ、俺の格好、どう思う?」
「えっ、どうって、すっごく素敵ですよ。大人っぽくて、いつも以上に背も高く見えます!」
お世辞でもちょっと嬉しかった。あれこれ悩んだ甲斐はあったと思う。おかげで家を出る一時間以上も前から、鏡とにらめっこするはめにはなったが。
「でも、まさか驚きましたよ。悟さんから遊びに誘ってもらえるなんて」
それに関しては俺も、最初と立場がすっかり逆転してしまっている点、実に滑稽だとは思う。人生ってほんと、何が起こるかわからないもんだな。
「文化祭で歌う曲、練習したから浅野に聴いてほしくて」
「聴きます、聴きます! 何百回でも!」
何百回って……こいつ、鬼かよ。
「ところで、曲は何を歌うんですか?」
「ああ、それならこの前歌ったHope Your Smileにしようと思ってる」
それを聞いて、彼女はなおいっそう声と表情に喜色をにじませた。
「妙案ですよ! だって、本当にいい曲ですから。Hope Your Smile」
今から聴くのが楽しみだと、彼女はいつもにもまして情緒に満ちあふれていた。
「途中でちょっとアレンジも加えてみたんだけど、どうかな? 前より上手くなってる?」
「断然、こっちの方がいいと思います! この調子です!」
場所はこの前と同じカラオケ店。浅野は目をキラキラさせながら、歌い終わった俺へ寛大な拍手を送ってくれた。
この頃、一緒にお昼を食べたり、たあいもない会話を交わす内に、俺もだんだんと彼女という人間像が見えてきた気がする。
俺が思うより浅野はずっと真面目で、気遣いができる心優しい女の子だった。
でも、だからこそ、やっぱり聞いておきたいと思った。
「浅野ってさ、やっぱそのキャラ作ってんの?」
「えっ……」
その時、一瞬にして浅野の表情から感情が消えた。
「ああ、いや、違うんだ、決して、嫌味な意味じゃなくて……でも、俺たまたま聞いちゃったんだよね。浅野が昔、いじめられてたって話。あれって、本当なの?」
いきなり少し踏みこみすぎた気はする。
けれど前に敬語の理由を聞いた時、彼女は言っていた。自分でも無意識の内に、人と心の距離をとってしまっているのだと。もしかしたらそれも少しは関係しているのかもしれない。
「黒歴史、のつもりだったんですけどね……ああ、でも、いじめって言ってもそんなに酷いやつじゃなかったですよ。あれはわたしが単に、周りに上手く馴染めなかっただけですから」
数秒の沈黙の末、彼女は気まずそうに前髪をかきあげながら微苦笑を浮かべた。
「気付いたらクラスで孤立してたんです。要するにぼっちですね、前に悟さんも言ってた」
チクリと針のような痛みが胸を指す。酷く後悔した。あの時の軽はずみな自分の言葉を。
「ごめん……傷付いたよな」
「何も悟さんが気にやむことはないです。だって、知らなかったんですし、しょうがないですよ」
彼女の口調は優しかった。けれど、ちょっとぎこちなさそうに笑うその顔が、やっぱりどこか痛ましくて俺は自分への戒めみたいに唇をぎゅっと噛んだ。
「中学二年の時、わたしなんで自分が生きてるのかわからなくて、いっそもう死んじゃった方が楽なんじゃないかなって何度も思いました。まぁ結局、死ねなかったですけどね。それ以前の問題にわたしが小心者すぎて」
自嘲的になる彼女は酷く悲しい目をしていた。そこに普段のような爛漫さはない。
「悟さんが思うよりずっと、わたしってつまんない人間なんですよ。だから、こうしてキャラでも作ってないと、”好きな人”にもきっと振り向いてもらえない。まぁ若干、これが素になってきてる部分はありますけどね」
「す、好きな人……?」
「はい」
それがどうかしました? みたいなごく自然な調子で彼女は言ったが、衝撃の事実発覚に俺は開いた口が塞がらない。
「浅野って、好きな人いんの……? えっ、だれだれ!?」
「それは秘密ですよ」
愕然とする俺に、浅野は可愛らしく人差し指を口の前で交差させて小さなバッテンを作る。
「ど、どんな人……?」
自分でも何に対してこんなに焦りを感じているのかわからない。けど、どうしても気になる……。
「……優しい人です。中学でクラスの子とあんまり仲良くできなかった時も、その人がいつも励ましてくれました」
自分から聞いておいて、胸がぎゅっと締め付けられるような感じがした。そして、それはきっとさっきのとは違うところからくる別の痛みだ。
「今のわたしがあるのも全部、その人のおかげなんです。だから、今度はわたしがその人のことを助けたい」
「助けたい……?」
「はい。なんか最近、その人のこと見てるとちょっと元気がないみたいで。何かあったのかなっとは思うんですけど、なかなか直接は聞けなくて……でも、必ず説得してみせますよ。だって、その人はわたしの”光”だから」
はっきりと言い切った彼女に、俺はようやく自覚した。
ああ、そっか、俺――浅野のこと好きだったんだな。
底抜けに明るい彼女の笑顔を見るたび、胸の奥で密かに膨らんでいたものが、その時、たった一瞬にしてしぼんでいった。
「昨日、言ってた木ノ瀬祭のことだけど、俺、出てみるよ、一般ステージ」
「本当ですか!?」
昨日と同じ場所で、卵サンドを食べていた浅野が、驚いたように聞き返してくる。反応を見るに、ダメ元だったのかもしれない。
「色々、悩んだんだけどさ、俺もちょっとは頑張ってみようって思ったんだ」
実際、その気持ちに嘘はないが、昨日のAsahiさんの言葉が俺の背中を押してくれたように思う。
それになにより俺は浅野のために歌いたいのだ。俺の歌をこれでもかというほどべた褒めしてくれて、こうして、もう一度、俺にチャンスをくれた彼女に。
そしたら、いつかはまた――いや、そこまで考えるのは流石にまだ早計か。これから先、どうするかは文化祭が終わってからじっくり考え直すのでいい。
「あっ、いたいた!」
教室に戻る途中、廊下の向こう側から女子生徒が一人、俺達のところへ駆け寄ってきた。といっても、用事があるのは浅野にだったけれど
「ごめんね、浅野さん。実はさっき文化祭準備のことで、先生から招集があって。ちょっとだけ来てもらってもいいかな?」
両手を合わせ軽く頭を下げた彼女は、ショートカットの髪型と首にかけたヘッドホンが特徴的な少しボーイッシュな感じの子だった。
「えっ、そうなんですか? わかりました、今すぐ行きますね」
すると、浅野は一度、俺の方を振り返ってから、
「ってことなので、すみません、悟さん。先に教室、戻っててもらえますか?」
「ああ、うん、わかったよ」
彼女は一度、俺に手を振ると、同じ実行委員らしい女子生徒と一緒に歩いて行ってしまった。忙しいんだな……。
教室に戻って、俺が次の授業で使う教科書やらノートをカバンから出していると、
「浅野さんってさぁ、あれ絶対、キャラ作ってるよね」
前の席で固まってお弁当を食べているクラスの女子数人が、突然、浅野の話をし始めた。
「わかるわかる、自分でも痛いって思わないのかなぁ」
「どうせ、自分の顔がいいのわかってやってんでしょ。きっと裏じゃ、あたし達のこと見下してるよ」
「うわー、なにそれ性格悪っ」
浅野はそんなんじゃない。
そう口に出しかけた言葉を寸前で飲みこむ。正直、聞いていて不快だったが、ここで俺が首を突っこむのもなんだか違う気がする。なにより、浅野本人に悪い気がした。
「でも、浅野さんって、中学の時はもっと大人しそうな感じの子だったよ。それになんかちょっと……いじめられてたっぽいし」
「えっ、それまじぃ?」
俺も内心、まったく同じ反応だった。あの浅野が、いじめられてた……?
「私、中二の時、浅野さんと一回、クラス同じでさ。なんか明らかに無視されてたり、ハブられてたり、見ててちょっと可哀想だった」
「へぇー、意外。てっきりずっとあんな感じで、男たぶらかしてるんだと思ってた」
「ちょっ、それ言っちゃあんたも同じじゃん(笑)」
その時、ちょうど授業開始の五分前を知らせるチャイムが鳴った。
「げっ、やばっ。うち、そろそろ席戻るわ」
「ウチも〜」
女子軍団が各々席に戻った後も、俺は愕然として教科書を眺めるふりを続けていた。
それから少しして、恐らくは文化祭関係のプリントを持った浅野が教室に入ってきたけれど、もうすぐ授業が始まるというのもあって、そこからお互い帰りの時間までは一切、言葉を交わさなかった。
さっきの話が本当かどうかはわからない。でも、浅野に限ってそんなことあるのだろうか。
ぼんやりと窓の外を見つめている、まるで作り物のように整ったその横顔は、あいかわらず今日も何を考えているのか俺にはさっぱり見当もつかなかった。
「あのさ、浅野」
「あっ、はい」
放課後、俺はおおかたクラスメイトの面々が教室を出ていった頃を見計らい、彼女に声をかけた。
「悟さんから話しかけてくるなんて珍しいですね。何か、よっぽどの重大事件でも起きました?」
「そういうわけじゃないけど……てか、物騒だろ」
まったく縁起でもないと、頭をかいた俺に浅野はくすくす笑っている。
本当は聞こうと思ってた。さっき不本意にも耳にしてしまったあの話の真偽を。
なのに、直前で俺は思いとどまった。別にまだ知らなくてもいいんじゃないかと思ったといえば、言いわけがましいが、なんとなく今は彼女の笑顔を壊したくはなかった。
「文化祭実行委員の仕事、頑張って。ステージ発表、俺も引き受けたからには本気でやるから」
だから、俺は代わりにそう宣言したんだ。
「もちろんです! わたし本番も、悟さんのこと最後まで応援してますから! 絶対に!」
「うん、ありがとう」
こんなに胸が温かくなるありがとうを言えたのは、一体、どれくらいぶりだったろうか。
次の日、俺は朝早くから近所を走っていた。何も頭がおかしくなったわけでなければ、急にスポーツマンを目指し始めたわけでもない。
ただ昨日の夜、寝る前になってふと思い出したのだ。肺活量を鍛えるためには、やっぱりランニングだと、いつか俊太が言っていたのを。ぶっちゃけ、それで本当に歌が上達するかどうかはわからない。けれど、何かしら効果はあるだろう。
それになにより昨日、浅野にあんなふうに見栄を張ってしまったからには、俺も自分なりに活を入れようと思ったのだ。
ん? あそこに誰かいるな……。
少し休憩しようと足を止めた先の河川敷で、俺は鉄橋の下付近に一人、ぽつんとたたずむ人影を見つけた。
こっそり近付いてみると、メガネをかけた横顔がぼんやりと浮かんでくる。恐らくは俺と同じ歳くらいの少女だろう。白のニット帽にマフラーを首に巻いていて、もう何歩か近寄らないと、顔立ちははっきりとはわかりそうにないが。
そして、もう一つ、ここまで来て気付いたことがある。
この子、もしかして歌ってる……? しかもこの曲は、Hope Your Smileじゃないか。
「ラ〜、ララァ〜」
少女の歌声に呼びよせられたかのように、この時季特有のからりと澄んだ冷たい風が吹きつけて、肩くらいまである彼女の艷やかな黒髪をなびかせる。
すごく綺麗な声だった。まるでにごり一つない、透明な水を彷彿とさせるような。
遥か向こうの景色の、高層ビル群の間から顔を出した太陽が明るく輝き出す。そのオレンジの光が川面に反射して、まるでコンサートホールのごとく少女の華奢な体を浮かび上がらせた。
はっと息を飲むようなまばゆい光景に、俺は思わず、見入ってしまった。
「あっ……」
いつの間にか、こちらを振り返った少女と真正面から目があう。それまで歌が終わっていることにすら気付かなかった。
ぱっと見、清楚系、というよりは線の細いイメージを強く受けるような子だった。
少なくともメガネの奥のおどついたその瞳からは、さっきの繊細さと力強さの両方を兼ね備えたような歌声を想像することはできない。
「ご、ごめん! 盗み聴きするつもりはなかったんだけどっ」
なんとか弁明を試みようとする俺の思いに反して、彼女はひっと表情を引きつらせた。これは完全に怖がられてしまっている。
「お、おい、ちょっと待――って、うわぁ!」
数歩、後ずさって無言で背中を向けて駆け出した少女の後を慌てて追いかけようとするものの、俺は足元の小石につまずいて豪快にこけた。
「いてて……」
間抜けな自分に呆れる。幸い履いていたジャージのズボンのおかげで、ケガはしていなさそうだが、とんだドジを踏んでしまった。
「って、逃げ足速っ」
起き上がって辺りを見渡してみるが、少女の姿はもうどこにも見当たらない。
「なんだか不思議な子だったな……」
それに心なしか、ほんの一瞬、彼女と目があった時、まるで以前にも会ったことがあるかのような既視感を覚えた。
「流石に勘違いだよな」
微妙に引っかかるところがないわけでもなかったが、もうこれ以上は考えてもしかたないので、俺はそう結論付けることにした。
ああ、死にたい……どうして、俺はこんなにもバカなんだろう。
週末、駅前広場の時計台の下で俺は頭を抱えていた。
事の発端は木曜日。今までろくに女子と関わってきた経験などない俺が、「今度の日曜日、一緒に出かけない?」なんて、ああもやすやすと浅野を誘い出したことにある。自分でも本当にどうかしていた。
「悟さん?」
ドキドキしながら待っていると、浅野がいつの間にか正面に立っていた。もうここまで来たからには後戻りもできない。俺は覚悟を決めた。
「よ、よう」
「ああ、よかった! 制服じゃないといつもと雰囲気違うから、もし人違いだったらどうしようかと思いましたよ」
そういう彼女は、膝下くらいまでの長さのスカートとブラウスのシンプルな格好にショート丈のボアコートを羽織っていて、頭には白のベレー帽も被っていた。思っていたよりは普通、というか質素? それでも容姿端麗な浅野が着ると結構、様になっている気がする。現に道行く人の視線がちらちらと浅野に向けられていて、「あの子、可愛いね」とか、「デートかな? いいなぁ〜」とかお門違いな言葉もちらほらと拾えた。
俺なんかが一緒にいたら、少々、いや、だいぶ不釣り合いではないだろうか。
「なぁ、俺の格好、どう思う?」
「えっ、どうって、すっごく素敵ですよ。大人っぽくて、いつも以上に背も高く見えます!」
お世辞でもちょっと嬉しかった。あれこれ悩んだ甲斐はあったと思う。おかげで家を出る一時間以上も前から、鏡とにらめっこするはめにはなったが。
「でも、まさか驚きましたよ。悟さんから遊びに誘ってもらえるなんて」
それに関しては俺も、最初と立場がすっかり逆転してしまっている点、実に滑稽だとは思う。人生ってほんと、何が起こるかわからないもんだな。
「文化祭で歌う曲、練習したから浅野に聴いてほしくて」
「聴きます、聴きます! 何百回でも!」
何百回って……こいつ、鬼かよ。
「ところで、曲は何を歌うんですか?」
「ああ、それならこの前歌ったHope Your Smileにしようと思ってる」
それを聞いて、彼女はなおいっそう声と表情に喜色をにじませた。
「妙案ですよ! だって、本当にいい曲ですから。Hope Your Smile」
今から聴くのが楽しみだと、彼女はいつもにもまして情緒に満ちあふれていた。
「途中でちょっとアレンジも加えてみたんだけど、どうかな? 前より上手くなってる?」
「断然、こっちの方がいいと思います! この調子です!」
場所はこの前と同じカラオケ店。浅野は目をキラキラさせながら、歌い終わった俺へ寛大な拍手を送ってくれた。
この頃、一緒にお昼を食べたり、たあいもない会話を交わす内に、俺もだんだんと彼女という人間像が見えてきた気がする。
俺が思うより浅野はずっと真面目で、気遣いができる心優しい女の子だった。
でも、だからこそ、やっぱり聞いておきたいと思った。
「浅野ってさ、やっぱそのキャラ作ってんの?」
「えっ……」
その時、一瞬にして浅野の表情から感情が消えた。
「ああ、いや、違うんだ、決して、嫌味な意味じゃなくて……でも、俺たまたま聞いちゃったんだよね。浅野が昔、いじめられてたって話。あれって、本当なの?」
いきなり少し踏みこみすぎた気はする。
けれど前に敬語の理由を聞いた時、彼女は言っていた。自分でも無意識の内に、人と心の距離をとってしまっているのだと。もしかしたらそれも少しは関係しているのかもしれない。
「黒歴史、のつもりだったんですけどね……ああ、でも、いじめって言ってもそんなに酷いやつじゃなかったですよ。あれはわたしが単に、周りに上手く馴染めなかっただけですから」
数秒の沈黙の末、彼女は気まずそうに前髪をかきあげながら微苦笑を浮かべた。
「気付いたらクラスで孤立してたんです。要するにぼっちですね、前に悟さんも言ってた」
チクリと針のような痛みが胸を指す。酷く後悔した。あの時の軽はずみな自分の言葉を。
「ごめん……傷付いたよな」
「何も悟さんが気にやむことはないです。だって、知らなかったんですし、しょうがないですよ」
彼女の口調は優しかった。けれど、ちょっとぎこちなさそうに笑うその顔が、やっぱりどこか痛ましくて俺は自分への戒めみたいに唇をぎゅっと噛んだ。
「中学二年の時、わたしなんで自分が生きてるのかわからなくて、いっそもう死んじゃった方が楽なんじゃないかなって何度も思いました。まぁ結局、死ねなかったですけどね。それ以前の問題にわたしが小心者すぎて」
自嘲的になる彼女は酷く悲しい目をしていた。そこに普段のような爛漫さはない。
「悟さんが思うよりずっと、わたしってつまんない人間なんですよ。だから、こうしてキャラでも作ってないと、”好きな人”にもきっと振り向いてもらえない。まぁ若干、これが素になってきてる部分はありますけどね」
「す、好きな人……?」
「はい」
それがどうかしました? みたいなごく自然な調子で彼女は言ったが、衝撃の事実発覚に俺は開いた口が塞がらない。
「浅野って、好きな人いんの……? えっ、だれだれ!?」
「それは秘密ですよ」
愕然とする俺に、浅野は可愛らしく人差し指を口の前で交差させて小さなバッテンを作る。
「ど、どんな人……?」
自分でも何に対してこんなに焦りを感じているのかわからない。けど、どうしても気になる……。
「……優しい人です。中学でクラスの子とあんまり仲良くできなかった時も、その人がいつも励ましてくれました」
自分から聞いておいて、胸がぎゅっと締め付けられるような感じがした。そして、それはきっとさっきのとは違うところからくる別の痛みだ。
「今のわたしがあるのも全部、その人のおかげなんです。だから、今度はわたしがその人のことを助けたい」
「助けたい……?」
「はい。なんか最近、その人のこと見てるとちょっと元気がないみたいで。何かあったのかなっとは思うんですけど、なかなか直接は聞けなくて……でも、必ず説得してみせますよ。だって、その人はわたしの”光”だから」
はっきりと言い切った彼女に、俺はようやく自覚した。
ああ、そっか、俺――浅野のこと好きだったんだな。
底抜けに明るい彼女の笑顔を見るたび、胸の奥で密かに膨らんでいたものが、その時、たった一瞬にしてしぼんでいった。



